日本で同性婚が許可になった日:本部長は元OL:TS小説の表紙画像

日本で同性婚が許可になった日
 本部長は元OL

【内容紹介】城山がS産業に入社したのは、入社直後からアシスタントの女性がマンツーマンで付く会社だからだ。城山のアシスタントになったのは同期の一般職の瑠衣だったが、期待していたほどの美人ではなく可愛げのない女性だった。入社から1ヶ月ほど経ったある日、瑠衣から個人的な相談を受ける。「実はある女性からプロポーズされています」と言われ、城山は引き留めて欲しいのだと推測する。城山は咄嗟に逃げ口上を思いついてその場を逃れるのだが……。

まえがき

 同性婚の合法化への流れが本格的に始まったのは21世紀の初頭だった。

 2001年にオランダが先陣を切って同性婚を合法化し、続いてベルギー、スペイン、カナダ、南アフリカ、ノルウェー、スウェーデン、ポルトガル、アイスランド、アルゼンチン、デンマーク、ブラジル、フランス、ウルグアイ、ニュージーランド、イギリス、スコットランドが2014年までに順次合法化した。

 2015年5月22日、アイルランドで同性婚を合法とする憲法改正の是非を問う国民投票が可決したことを契機に再び流れが加速し、ルクセンブルグ、メキシコ、アメリカ、アイルランド、コロンビア、フィンランド、マルタ、ドイツ、オーストラリア、オーストリア、台湾で同性婚が合法化された。

 これに対して同性婚が合法化されていないのは東欧諸国、ギリシャ、バルカン半島諸国、ロシア、中南米の過半数、南ア以外のアフリカ、イスラム諸国、台湾以外のアジア諸国だ。あえて一括ひとくくりにすると、旧ソ連、イスラム諸国、アジア、アフリカと中南米の半数が残っていると言える。

 アメリカで州によって非合法であることを除けば、先進国で同性婚の合法化問題が遅れている国の代表が日本だ。遅ればせながら、2015年3月に渋谷区議会が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書の発行条例案を可決し、その後、多くの自治体が渋谷区の後を追ったが、同性婚の合法化の流れは厚い壁でせき止められた状況にあるようだ。この壁はいつ崩されるのだろうか?

 この小説は同性婚が許可になったばかりの近未来の日本が舞台となっている。

第一章 瑠衣との出会い

 僕がS産業に就職することにしたと言うと友人たちは耳を疑った。S産業は非上場の中堅企業であり、殆どの友人は上場企業、研究機関か役所への就職を決めていたからだ。

 なぜ僕がS産業を選んだか? それには明確な理由があった。S産業では総合職の新入社員にマンツーマンで一般職のアシスタントが付く。しかもS産業の一般職は各大学のミスコン上位入賞者数が上場大企業よりも多いことが知られている。僕たち男性にしてみれば入社直後から専任の美人秘書が付くというのは夢のような話であり、そこらへんの上場企業に入社しても秘書を持てる身になるのは中年のオジサンになってから、それも運よく取締役になれた場合に限られる。どこまで信頼性のあるデータかは不明だが、S産業の社内結婚比率は、一部上場企業の平均の3倍であると某就活サイトに書いてあった。

 一般職で入る女性の立場からすれば、自分の上司になる新入社員男性がイケメンかブサイクか、有能か無能か、性格が良いか悪いかについて何の保証もなくクジ引きと同じだ。それでも美人の採用実績が高いのは、たまたま望ましい男性に当たれば尽くしてゲットすればいいし、ハズレなら職場以外で結婚相手を探せばいいと割り切っているのではないかと推測する。

 僕は4月1日に入社し、社外研修施設での1週間の総合職新入社員研修が終わった翌日に営業企画部に配属された。同期の総合職の新入社員20人のうち15人が男性で、これから自分の未来の花嫁に会いに行くのだと胸をときめかせていた。残りの5人は女性なので、どんな気持ちで自分の秘書と初対面するのか、僕にはよくわからない。

 職場に行って課長に挨拶すると、課長が空いている席を指さした。

「城山君の席はそこだ」

 着席しつつ、僕の正面の席に座っている、将来僕の妻になるかもしれない女性に、
「城山です。よろしくお願いします」
と挨拶した。

九段坂くだんざか瑠衣るいです。よろしくお願いします」
と彼女は微笑を浮かべずに挨拶を返した。

――うーん……ビミョーだな。

 僕はきれいな女の子がツンとしたそっけない態度を示すのは嫌いではないが、彼女はツンケンして許されるレベルの容姿ではなかった。目鼻立ちは一応整っているが、骨格がしっかりしすぎていて悪く言えばゴツイ感じがするし、女性らしい愛想が足りないという印象だった。ブサイクと言うのではないが、セブンティーン・モデルを卒業したばかりの女優のような女性を期待していた僕は、正直なところ少しがっかりした。理想的には紺野彩香か大友加恋のように163~4センチのしなやかで女性らしい女性を期待していたのだが世の中はそんなに甘くなかった。

 しかし僕は女性を外観で見下すほど不遜な人間ではないし、自分自身が上から目線で通用するほどイケメンではないと自覚していた。きっと瑠衣も社会人になったばかりで緊張しているのだ。愛想の良しあしは慣れもあるし、打ち解ければガラリと化ける可能性もあるから、長い目で見て瑠衣の良さを引き出すように努力しようと思った。

 まず僕が心掛けたのは瑠衣に微笑みかけることだった。朝、顔を合わせて瑠衣から「おはようございます」と硬い表情で挨拶されると、僕は瑠衣の目を見てほほ笑みながら「おはようございます」と挨拶を返した。僕が彼女の上司なのだから「おはよう」でも良いのだが、人間としては対等であり、敬意を欠かしてはいけないと思った。

 そんな気持ちが通じたのか、瑠衣は僕に対して日増しに愛想がよくなり、仕事を依頼すると快く引き受けてくれるようになった。

 瑠衣は一流として知られる女子大の国文学科の出身で、本人の言うことが本当なら学年で1、2位を争う優秀な成績だった。総合職に的を絞って就職活動をしたが1社も内定を取れず、終盤にさしかかってからやむなく一般職の求人に応募を開始したところS産業に引っかかったらしい。ネット記事によると(信憑性は高くないが)S産業の一般職採用の内々の基準は「男子社員の結婚相手としてふさわしいかどうか」であり、第1が美観、第2が適度な賢さだと書いてあった。僕の目から見て瑠衣はどちらの基準をとっても高倍率の競争を勝ち抜くレベルとは思えなかった。おそらく、人事部による選考を幸運にも通過し、役員面接の段階で、たまたま役員の誰かのツボにはまったのだろう。異性の好みは千差万別であり、瑠衣のような骨太で人見知りをするタイプの女性に魅力を感じた役員が居たとしても不思議ではない。

 瑠衣は自分の国語能力についてプライドを持っており、僕が作成した資料のコピーを依頼した際に誤字脱字の間違いを指摘されたことが2度あった。頼んでもいない文章チェックをする暇があったら一分でも早くコピーをしてほしかったのだが、僕はいら立ちを顔には出さなかった。

「ありがとう。九段坂さんのおかげで恥をかかずに済んだよ」
と言うと、瑠衣は満足そうな表情になった。

 その褒め言葉が裏目に出て、瑠衣は以前にもまして僕が書いた書類に目を通しては、誤字脱字だけでなく文章の構成までチェックするようになった。僕はイライラが積もって不快感を隠しきれなくなったが、瑠衣は一向に意に介していない様子だった。ある日、瑠衣は一線を越えて、僕の仕事の進め方について「この案だと前回課長から叱られたのと同じじゃないですか」と言って、別な案を僕に助言した。ついに僕は堪忍袋の緒が切れて、瑠衣を会議室に呼び出した。

「九段坂さんが非常に優秀な女性だということは良くわかっているし、いろんな面で僕より優れているということも否定しない。でも、僕は総合職として課題を遂行し、九段坂さんは一般職としての定型業務と僕のアシスタントとしての業務を担っている。会社にとって最良の結果をチームとしてもたらすためには、二人が各々の役割をしっかりと果たすことが大切だ。これは能力の問題ではなく役割の問題なんだ。だから今後は僕が依頼した時以外は文章をチェックしないでほしい」

 僕の話を聞きながら、瑠衣の顔から血の気が引いて行くのが分かった。

「余計なことをするのは迷惑だとおっしゃるんですね」

「お互いに自分の役割を全うすることにしようと言っているんだ」

 彼女は押し黙って、しばらくすると泣きじゃくり始めた。極めて気まずい時間が過ぎた。

「分かりました……。すみませんでした」

 涙声でそう言われて、僕は瑠衣にひどい仕打ちをしたことを後悔した。

 まだ泣きじゃくっている瑠衣を会議室に残して僕は席に戻った。半時間近く経っても瑠衣が席に戻ってこないのでさすがに心配になった。瑠衣は自分のインテリジェンスに自信を持っているタイプの女性なので「一般職なのだから補助職としての立場をわきまえろ」と言われたと受け止めてショックを感じたのだろう。僕はお互いに自分の役割を果たそうと言ったつもりだったのだが……。いや、一般職なのに出しゃばるなと言ったと思われても仕方がない。

――まさか、自殺なんてしないよな……!

 心配になって席を立ち、女子トイレの方に歩いて行った。しかし、僕が女子トイレに足を踏み入れるわけにはいかない。トイレの入り口から大声で彼女に呼びかけようかと思ったが、そんなことをすれば大騒ぎになりかねないので、同じ課の一般職女性に事情を話して見に行ってもらおうと思いついた。

 その時、瑠衣がトイレから出て来たので、ほっと胸をなでおろした。しかし彼女には泣き顔の痕跡は見られず、さっぱりとした表情だった。化粧を直したのか、普段よりも輝いて見えた。

「城山さん、どうかされました?」

「あ、いや、たまたま通りかかっただけだよ」

「女子トイレが行きどまりの廊下に通りかかったんですか? は、はぁ、わかった。厳しく叱り過ぎたから心配になったんだ!」

「ち、違うよ! そんなんじゃなくて……」

「大丈夫ですよ。私は気にしてませんから」

 取り越し苦労だったことが分かり、ほっとして席に戻った。瑠衣は思っていたより大人だった。初めから僕よりもずっと大人だったのかもしれないと思った。

 

 瑠衣を会議室に呼び出して文句を言ったことは、結果的に吉と出た。瑠衣は自分の一般職としての立場について達観したのか、僕の仕事を上から目線で批評するような雰囲気は全く感じられなくなった。瑠衣は僕にとって望ましいアシスタントになり、僕は雑念なく仕事に打ち込めるようになった。

 5月末の金曜日の午後、瑠衣から社内メールが入った。

「城山さんにご相談したいことがあります。今日の夕方、お時間を頂きたいのですが」

 一瞬、デートの申し込みかとドキリとしたが、用語から判断して、仕事上の相談だろうと判断した。総合職社員が自分のアシスタントへのねぎらいの意味で夕食に誘うのは不自然ではないので、
「今日は空いています。たまにはおごらせてください。時間と場所は九段坂さんが決めてください」
と返信した。

 しばらくして瑠衣からメールが入り、二駅ふたえき先のレストランを午後6時半に予約したとのことだった。

 瑠衣は終業のメロディーが流れるのと同時に席を立ち、僕は何食わぬ顔で仕事を続けてから、ちょうど約束の時間に間に合うように会社を出た。

 彼女が予約したのは洒落た感じのトラットリアで、入り口の黒板に書かれたメニューがリーズナブルな価格だったので安心した。瑠衣は既に来ていて、テーブルには赤ワインのデカンタとシーフードのフリッツが既に届いていた。こんな場合に女性が勝手にメニューを選んでオーダーをしてもいいのだろうか? 僕は当惑を表情に出さないように気を付けながら席に着いた。

「先にオーダーしてごめんなさい。いつか城山さんがシーフードのフリッツは赤ワインの方が合うとおっしゃっていたので……」

 昼休みに課の先輩の笹野と永岡との雑談でそんな話をしたのを覚えていた。「気が利くね」と喉まで出かかったが、そんなことを言えば、仕事でも余計な事をされかねないと思って、
「ありがとう、僕の好物なんだ」
と答えた。

 適度にアルコールが回っていい気持ちになったころで、彼女が話を切り出した。

「私、実はある女性から一緒にならないかと言われているんです」

「一緒になるって……同性婚をプロポーズされたってこと?!」

「ええ、同性婚は合法化されていますから」

 僕に告白するために呼び出したのではないと分かってひとまずほっとしたが、同性婚のプロポーズを受けたことについての相談とは面食らった。

「自分の身の回りの人からそんな話を聞くと時代の変化に驚くよね」

「城山さんならどうされます?」

――どうして僕に意見を聞くのだろうか……?

 相手が瑠衣だけに迂闊うかつなことは言えない。同性婚を勧める発言も、いさめる発言もリスクがある気がした。僕は慎重に言葉を選んだ。

「相手次第なんじゃない? 尊敬できる人で、生活力があれば前向きに考えればいいと思うけど」

 そうだ、生活力のある人が相手なら結婚退職するかもしれない。そうすれば瑠衣の後任として別の一般職女性が僕のアシスタントになる! 瑠衣が同性婚に踏み切ってくれればラッキーだという思惑が頭をもたげた。

「でも、同性なんですよ」

「同性婚は合法化されたんだから、男性だけが結婚の対象だという既成概念は捨てて、その人と付き合ってみればどうかな。好きになれる人だと思ったら前向きに検討すればいい」

「年上の女性なんですよ! たしかに尊敬できて、生活力は十分だし、好きになれる人ですけど……」

「迷いを捨てて九段坂さんの方から積極的に仕掛けてごらん。そうすれば気持ちが変わって、その女性の良さが実感できるかもしれないよ」

 瑠衣の表情がこわばった。瑠衣が炎のような視線で僕を釘刺しにした。

「止めてくれないんですか? 私はずっと城山さんのことが……。城山さんとなら人生を共に……」

――その可能性もあるとは思っていたが、やはりそのために呼び出したのか。

「ゴメン。僕にとって九段坂さんはアシスタントとして一緒に仕事をしたい相手だけど、僕が結婚したい相手とはちょっと違うんだ」

「じゃあ、城山さんはどんな相手と結婚したいんですか?」

 そこまで答えなければならない筋合いではないが、諦めさせるために瑠衣がどうあがいてもクリアできない条件を示そうと考えた。

「僕は対等かそれ以上の相手と結婚したいんだ。社内結婚なら総合職で……年上の人の方がいいと思っている。それに長身の人が好きなんだ」

 瑠衣は恨めしそうな視線を投げてから、涙を目に浮かべてうつむいた。僕の言葉が本心ではなく断りのための口上だということを見抜かれたかもしれない……。

「よくわかりました。これで私も前に進めます」

「九段坂さんの幸せを心から祈ってる」

 その時、本当にこれでよかったのかどうか自信がなくなった。瑠衣がそれほど僕のことを好きだったとは知らなかった。瑠衣は外観も、性格も、僕にとってパーフェクトではないにしても女性としてそこそこのレベルだ。僕には瑠衣のようなしっかりした女性が合っている気もする。もし僕が将来きれいな女性を好きになったとしてもアタックするには勇気が要るし、断られる可能性も高い。あの時に瑠衣で手を打っておけばよかったと思う日が来るかもしれない……。

 しかし、瑠衣が僕の結婚対象の条件に全く適合しないと言ってしまった以上、後戻りは不可能だった。お互いにそれ以上の会話を交わさずに葬儀の後のような雰囲気でレストランを出た。

 

 瑠衣の泣き顔が頭にこびりついて鬱々うつうつとした週末を過ごした。

 月曜日の朝は瑠衣と顔を合わせるのが怖かった。事実上彼女から告白されて断ったのだから、しばらく口をきいてくれないかもしれない。コピーやお茶出しを断られないにしても、今までのようなサービスは期待できないだろうと覚悟していた。

 予想に反して瑠衣は普段通りに出社し「おはようございます」と笑顔で挨拶してくれた。それも無理に強がっているのではなく、まるでき物が取れたかのような晴れ晴れとした表情だった。僕に断られた後、プロポーズを受けた相手にYESの返事をして、きっと土、日曜日に深い関係になったのだろうと思った。

 雑用の依頼も普段以上に快く引き受けてくれたし、受け答えも爽やかだった。女性は愛されると美しくなると言うが、もし金曜日に僕が彼女の告白を受け入れていても、同じように美しく爽やかな女性になっていたに違いない。僕は惜しいものを失ったのかもしれないという気がした。

 瑠衣が結婚する女性とはどんな人なのだろうか? 今の彼女なら結婚後も引き続き僕のアシスタントとして働いてくれた方が仕事面ではいいが、できれば結婚退職して、別の美しく可愛い女性とペアを組めればいいのだが……。

 その答えは水曜日になって判明した。午後1時過ぎに課長から会議室に呼ばれた。

「実は九段坂さんが抜けることになったんだが……」
と課長が言いにくそうに口を開いた。

「やっぱりそうですか。いつまで働いてくれるんですか?」

「今週いっぱいだが……。城山君は誰から聞いたんだ?!」

「九段坂さん本人から打ち明けられて、驚きました」

「そうだったのか。しかし、まだ緘口令かんこうれいが出ているから決して口外しないように」

「今週いっぱいで寿ことぶき退職するのに口外しちゃダメなんですか?」

「ひょっとして……城山君は九段坂さんが誰と結婚するのかを聞いていないのか?」

「年上の女性とだけ聞きましたが、課長はご存じなんですか?」

「いや……知っていても言えない。とにかく城山君は詮索も口外もしないでくれ」

「わかりましたけど……。じゃあ、九段坂さんの後任の女性はいつから来てくれるんですか? 他部門から年増の女性を採るよりは、アシスタントなしで年度末まで我慢して、来年の4月に入る新入社員を待つ方を希望します」

「九段坂さんの仕事は永岡君のアシスタントの水口美香さんと笹野君のアシスタントの藤田穂香ほのかさんに引き継いでもらう。城山君が担当している仕事は元々永岡君と笹野君から引き継いだものだから特に問題は起きないだろう」

「じゃあ、僕はアシスタントが居ない状態で永岡さんと笹野さんのサブみたいな立場になっちゃうんですか……」

「悪いが、しばらくそういうことで我慢してくれ」

「わかりました……」

 瑠衣が結婚退職したら新しいアシスタントをもらえると期待したのに、あてが外れるどころか、アシスタントのいない半人前のような立場になってしまうとは誤算だった。こんなことなら金曜日に瑠衣の告白を受け入れていればよかった……。

 

 課長が笹野、永岡、美香、穂香を会議室に順次呼んで打ち合わせを行い、瑠衣はその日のうちに美香と穂香への業務引継ぎを行った。女性課員が結婚退職するとなれば、どこで知り合ったのかとか結婚相手の職業などについて質疑が行き交うのが普通だと思うが、課長から釘を刺されているのか誰も質問しなかった。先輩たちの様子から察するに、瑠衣の結婚相手が女性だと知っているのは課長と僕だけのようだった。

 金曜日の朝、オンラインで「九段坂瑠衣を人事本部長付けとする」という人事通達が掲載された。一般職が退職するのに一旦人事本部長付けの辞令が出るというのは不可解なので、瑠衣は他部署に異動になるのだろうと推測したが、課長から詮索しないように釘を刺されていたので誰も口には出さなかった。終業時刻の少し前に瑠衣が課長以下全員に「お世話になりました」と挨拶して回り、僕は「お幸せに」とだけ言って瑠衣を送り出した。

日本で同性婚が許可になった日:本部長は元OL

第二章 エリートコースか? 

 月曜日の朝、オンラインで流れて来た人事通達を見て目を疑った。

「九段坂瑠衣を総務本部長に任ず」

 フロア全体にショックウェーブが走った。動揺したというよりは「冗談だろう!」という叫びに近いショックウェーブだった。

 課長も驚きを隠せない表情だった。

「課長はご存じだったんじゃないんですか?」
と笹野と永岡が同時に質問した。

「この人事は予想していなかった。私が聞いていたのは九段坂さんが社長と結婚することになったので、ひとまず人事本部長付けにするということだけだった」

「九段坂さんが社長と結婚? 女どうしなのに!」

「笹野君、今や同性婚も立派な婚姻の形態なんだよ」

 やはり、瑠衣の結婚相手が女性だと知っていたのは僕だけだったと判明した。

「どうしてまた社長が九段坂さんと付き合うようになったんでしょうね」

「役員面接で社長が彼女に一目ぼれしたそうだ」

――だから瑠衣のレベルの女性がうちの会社に採用されたのか……。

「今まで総務本部長というポストはありませんでしたよね」

「人事総務本部を人事本部と総務本部に分割して新たな本部長ポストを作ったわけだな。オーナー企業だから社長の意のままになるが、総務部を独立した本部にする意味があるとは思えない。まあ、自分の妻に責任のない気楽な本部長のポジションを与えるということだろう」

「九段坂さんが羨ましいですよ。オレも専務か常務あたりから見染められないかなぁ」

「社長以外の役員は全員既婚者だよ。永岡君が役員に見染められたらゲイ不倫になるから昇進どころかクビになるぞ」

 その日、社長から公式のコメントは流れず、いつ結婚するのかは部長も知らない様子だったが、社長と瑠衣が同性婚することは午前中に社員全員の知るところとなっていた。

 昼休みに笹野、永岡と近所の食堂に天ぷら定食を食べに行った。食事を終えて席に戻ると、もう一つのショックウェーブが僕を待っていた。

「おい、城山、人事部からメールが流れているぞ」

「オッ、社長から結婚宣言のコメントが出ましたか?」

「違うよ。お前の辞令だ」

 僕はそのメールを開いて心臓が止まりそうになった。

「城山美樹みき、総務本部長付きを命ずる」

 青天の霹靂へきれきとしか表現のしようがない辞令だった。

「課長! ご存じだったんですか?」

「いや、知らなかった。他部署から城山君を欲しいと引き合いが入っているらしいことは人事部から感触を得ていたが、いつになるかは不明だったし、まして九段坂本部長付きの辞令が出るとは……!」

「新入社員が総務部に飛ばされるなんて……」
 将来が真っ暗になり、会社を辞めようかなと思った。

「城山、おめでとう」
と笹野と永岡から言われたので少しムカッと来た。

「城山さん、よかったわね」
と美香。

「何がめでたいんですか?!」

「出世街道まっしぐらじゃない」
と穂香からも言われた。

「そうだな。九段坂さんは城山君を気に入っていたから、城山君を取り立てるつもりなんだろうな。おめでとう!」

「城山に敬語をつかわなきゃならなくなる日も遠くはないな」
と笹野が真剣な表情でつぶやいた。

――こうなると分かっていたら、もっと瑠衣に親切にしておくのだった。

 瑠衣が僕を呼び寄せる気持ちは分かる気がした。昨日まで一般職の新入社員だった女性がいきなり本部長になるのだから、プレッシャーは半端ではないし、疎外感も味わうだろう。気心の知れた社員が近くに一人いれば、何かと心の支えになるはずだ。僕は彼女をしっかりサポートしよう。そうすれば自然に昇進の道が開けるだろう。

 辞令の発効日は明日と書かれていた。僕の職務内容は笹野と永岡が熟知しているので引継をする必要も無かった。デスクの私物をまとめながら、段々ウキウキした気分になってきた。その日の夕方、課長以下の先輩たちに別れの挨拶をして意気揚々と退社した。

 

 火曜日の朝、僕は気持ちを引き締めて総務部に出頭した。まっすぐ新本部長の席まで行って挨拶するのが筋だと思った。総務部の左奥の部分に会議スペースがあったのを覚えていたが、その部分にパーティションが設置されて本部長室ができていた。しかし瑠衣はそこにはおらず、総務部長も不在だった。

「城山君の席はここだ」
と総務課長から声がかかった。総務課は課長席の前に6つのデスクが向かい合って配置されていたが、その端の空席が僕に与えられた。

「総務本部長付きと辞令に書いてありましたが、僕は総務課の所属になったんですね」

「城山君はその席に座らせるようにとだけ言われている。部長会議が終わって本部長と部長が帰って来られたら辞令が交付されるはずだ」

「そうですか。山崎課長、どうぞよろしくお願いいたします」

「いやいや、こちらこそ」

 僕は5人の総務課員に「よろしくお願いします」と挨拶をしてから自分の席に座った。向かいの席には顔と名前を知っている女性が座っていた。同期入社の一般職の鎌田梨歩だ。

「城山さん、すごいですね」

「何がすごいの?」

「皆がうわさしていますよ。城山さんは本部長のお気に入りだから、出世街道を駆け上がるだろうって」

「そんなの、根も葉もない噂だよ。むしろ、これまで九段坂さんに厳しく接していたから、仕返しをされるかもしれない。アハハハ」

「城山さん、まだ付き合っている人はいないんですよね?」

「どうして知っているの?」

「そのぐらい、すぐに調べが付きますよ。城山さんとお食事をしたい女性が私を含めて四人居るんですけど、何曜日なら大丈夫ですか?」

「総務部の仕事に慣れるまで待ってくれよ」

「じゃあ、1、2週間後に改めて声を掛けますね」

 梨歩は女性の平均よりやや小柄だが、渋谷を歩いていたら何人ものスカウトから声を掛けられそうな美人だ。彼女は総務課の特定の総合職男性とペアを組んでいないようだ。僕にこの席が与えられたということは、彼女が僕のアシスタントになる可能性が非常に高い。おまけに、自分を含む4対1の合コンをさせてほしいとは、夢のような話だ。瑠衣が社長との同性婚に踏み切ってくれたおかげで、僕にとんでもないほどの運が向いて来たようだ。

 午前十時を過ぎた頃、新本部長と部長が帰って来た。グレーのツーピース・スーツを着た瑠衣はハッとするほど格好良かった。これまで一般職の制服を着た姿を見慣れていたが、人間は着るものでこれほど変わるのかと感心した。

 僕は瑠衣が本部長室に入ったのを見極めてから席を立ち、挨拶に行った。

「本部長、ご就任おめでとうございます」

「ありがとう」

「あの夜は、同性婚のお相手が社長だとは夢にも思いませんでした」

「城山君にはデリカシーがないのかな。そんな話をされて私が喜ぶと思う?」

「失礼しました。二度と申しません。誰にも言っていませんし、一生他言をしないと誓います」

「くだらないことは忘れて仕事に専念しなさい」

「人事通達には本部長付けと書いてありましたが……」

「そうよ。ついて来なさい」

 先週まで僕に敬語を使っていたのに、ここまで手のひらを返せるものなのだろうか。瑠衣らしい割り切りの良さに感心した。僕は黙って瑠衣について行った。

「木村部長、城山君に辞令を交付していただけますか」

「総務課の辞令なので、総務課長に渡しました」

 木村部長が総務課長の席まで行き、
「山崎課長、城山君に辞令を渡してくれ」
と命じた。

 僕が受け取った辞令には「総務部総務課」とだけ書いてあった。

「人事管理上、総務課の所属となっているが、本部長のアシスタントとしての業務に専念するように」
と木村部長が補足した。

 総務課の所属ということなら鎌田梨歩が僕のアシスタントになる可能性が高いが、念のために質問した。

「僕は誰とペアを組むんでしょうか?」

「ペア?」

「僕のアシスタントは誰になるんですか?」

「私の話を聞いていなかったのか? 城山君が本部長のアシスタントになるんだ」
と部長が冷淡に言い放った。

「あっ、本部長補佐の業務に専念させていただけるんですね。承知しました。」

 僕は瑠衣に直接質問することにした。

「本部長、具体的に何をすればいいんでしょうか」

「とりあえず熱いお茶を持ってきて」

「えっ、僕がお茶を……ですか?」

「城山君は私のアシスタントになったのよ。お茶、コピー、その他私の身の回りの雑用を担当するのは城山君以外にいないでしょう」

 瑠衣の目を見て本気だと分かった。瑠衣は僕を先週までと逆の立場に置くために僕を異動させたのか! 

「でも、お茶出しは一般職の仕事じゃないでしょうか? 僕は総合職ですから……」

「一般職じゃないからお茶出しはできないと言いたいの? 分かった。城山君の職掌を総合職から一般職に変更すれば問題がなくなるわね。遅くとも明日の夕方までに解決してあげる」

 僕を一般職に降格するというのか! 悪い冗談として言っているのだとは思うが、万一本気だったら……。冷汗が出てきた。

「お待ちください! すぐにお茶をお持ちします」

「イヤならいいわよ」

「喜んでやります。いえ、やらせてください。お願いします」

「そう、じゃあそうしなさい。その方が私も稟議書を書く手間が省ける。それに、城山君の制服姿は見たくないから」

 ニヤリと笑って瑠衣は本部長室へと立ち去った。今のやり取りを周囲の人たちは面白がって見ていた。総務部の総合職社員は、僕が自分たちを差し置いて出世するだろうという噂を聞いて苦々しく思っていたに違いない。

 鎌田梨歩が呆然と立ち尽くしていた僕の所に来て声をかけてくれた。

「城山君、早くお茶を持って行った方がいいんじゃない? 教えてあげるからついてきなさい」

「うん、ありがとう」

 地獄で仏に会ったらこんな気持ちになるだろうと思った。先ほどとは言葉遣いがガラリと変わったが、もし敬語だったら却って惨めに感じたかもしれない。梨歩は僕を給湯室に案内し、来客用のお茶の入れ方を教えてくれた。

「社外のお客様以外は紙コップでお茶を出すのが決まりなんだけど、役員は例外なのよね。九段坂本部長はまだ役員じゃないけど、いずれ取締役に就任するのが確実だから、私が城山君の立場なら来客用のお茶碗を使うな。でも、上司の気分次第だから、そこは臨機応変に」

「じゃあ、そうしてみる。教えてくれてありがとう」

「ドンマイ! 一般職の仕事もそれなりに楽しいわよ」

 梨歩は僕が事実上一般職と同等の立場になったと解釈したようだ。総務部の他の女性も梨歩と同じように受け止めただろうか……?

 僕は茶碗をお盆に載せて本部長室へと歩いて行った。きっと皆が面白がって見ているだろう……。僕は他の人と視線を合わせないように努力した。

 本部長室はパーティションで区分けされているだけなので、大きな声だと総務部の人たちに話を聞かれる……。

「すみません、初めてなもので」
と言いながら茶碗を瑠衣の前に置いた。瑠衣はお茶を一口すすってから僕を見た。

「10点ね」

「え? そんなに美味しかったんですか?」

「100点満点の10点よ。まず、何も言わずに本部長室に入って来た。秘書が本部長室に入る時には何と言うべきなの?」

「えーと……『失礼します』ですか?」

「失礼いたします、よ」

「すみません……」

「謝罪は『申し訳ございませんでした』」

「あ、申し訳ございませんでした」

「『初めてなもので』と言い訳したわね。城山君は私のアシスタントとして給料をもらっているんだから、お茶を出すのが初めてだろうが、100回目だろうが言い訳は通用しない」

「はい……申し訳ございませんでした」

「そして私のデスクにお茶を置くときには『失礼いたします』と小声で言うのが基本よ。私が邪魔されたくない気分なら何も言わずにそっとお茶を出すべきだし、それを状況判断するのも秘書の能力よ」

「秘書って……」

「城山君は私の秘書じゃないの?」

「あ、秘書です。申し訳ございませんでした」

「いちいち『あ』と言うのはやめなさい。イラっとするから」

「申し訳ございませんでした」

「お茶を出し終えたら、一礼する」

「承知いたしました。では失礼いたします」

 いたたまれなくなって、早くこの場から立ち去りたかった。

「まだ話は終わっていないわよ。お茶はもう少し薄いのが好き――ほんの心持ち薄いのが。茶葉の量として10%減らして」

「はい、かしこまりました」

「分かったのならすぐに新しいお茶を淹れて来なさい。今言ったことが出来るかどうかテストするから」

 僕は瑠衣のデスクのお茶を下げるべきか否かの判断に迷った。下げても下げなくても文句を言われるだろうと思ったが、勇気を出して質問した。

「そのお茶を一旦下げさせていただいてよろしいでしょうか?」

 瑠衣はニヤリとして答えた。

「よろしい。思ったより飲み込みが早いじゃない。良い秘書になりそう」

 僕は「失礼いたします」と言ってお茶をお盆に載せ、パーティションの入り口で「失礼いたしました」と言いながらお辞儀をして引き下がった。

 給湯室に行き、茶葉を減らしてお茶を淹れていると梨歩がやってきた。

「どうだった? 随分長い間つかまっていたみたいだけど」

「色々教育的指導をされちゃった。本部長はお茶出しは慣れているから僕のやり方がいちいち気になるみたい。でも、九段坂さん自身も僕に『申し訳ございませんでした』とか『失礼いたします』なんて言ったことがないのに、ずるいよね」

「そこまで言われちゃったのか。でも、相手は本部長なんだからそれなりに対処する方が城山君のためだわ。態度が悪いと本当に一般職に落とされちゃうわよ」

「最後は褒めてくれたよ。飲み込みが早いから良い秘書になりそうって」

「やっぱり本部長は本気で城山君を一般職扱いにする予定なんだわ」

「やめてくれよ」

「えーと……察してるとは思うけど、さっき言った合コンの話はなくなったから」

「やっぱり……」

 梨歩はそのことを伝えるために給湯室に来たのだった。早くも梨歩は3人の友人に、僕が出世候補どころが降格候補だったことを知らせたわけだ。

「でも、私は付き合ってあげるわよ。女子会みたいな感じで」

 僕は一応感謝の言葉を述べて、お茶をお盆に載せて再び本部長室に言った。先ほど瑠衣に言われたことを忠実に実行し、何も小言を言われずに本部長室から退出した。

 席に戻ったが、特に仕事を与えられていないので手持無沙汰だった。周囲の人たちが忙しそうに仕事をしているのに、僕だけが何もせずにじっとしているのは苦痛だった。梨歩が課長から大量のコピーを依頼されたのを手伝おうとしたところ、

「城山君に手伝わせたらダメだと課長から言われているから」
と断られた。

 昼休みの少し前に瑠衣から僕に電話があって「コピーを頼みたいから来て」と言われた時は救われた気がした。僕は本部長室に飛んで行って会議資料を受け取り、コピーをして瑠衣に届けた。

「私用を頼みたいんだけど、いいかな?」

「勿論です。ご遠慮なくお申し付けください」

「ここに書いたものを買ってきてほしいんだ」

 手渡されたメモにはフェイス・シートと生理用ナプキンの商品名とメーカー名が書かれていた。

「必ずそこに書いた通りの品番を買ってきて。昼休みなのにごめんね」
と言って瑠衣は1万円札を差し出した。

「はい、承知いたしました」

 わざわざ女性特有の私物を僕に買いに行かせるとは趣味が悪い。とにかく僕に立場の違いと主従関係を思い知らせるためにこんなことをさせるのだ……。もし嫌がる様子を見せたら、更に恥ずかしい私用を言いつけられるだろうから、ここはむしろ嬉々として命令に従う方が自分のためになると思った。

 生理用ナプキンは別にして、フェイス・シートとは何なのか僕は知らなかった。スマホで調べるとメイクの上から汗や皮脂を吸い取るためのシートだと分かった。どこで買えばいいのだろうか? 梨歩に聞けば教えてくれるだろうが、瑠衣が僕を私用に――しかも女性用品を買いに行くために――使い走りさせたという噂が流れたら恥の上塗りになる。それに、もしそんなことで瑠衣の顔を潰したら、恐ろしい復讐を受ける可能性がある。

 会社の近くのマツキヨに行って、女性のスタッフにメモを見せると、そのメーカーの製品は置いていないとのことだった。代わりになる製品の名前を教えてくれたが「僕は頼まれただけなので……」と言い訳をした。その時、女性のスタッフが僕の左手に視線を走らせたことに気づいた。結婚指輪をしていないのに女性用品を買って「変な人」と思われるのはイヤだなと思った。

「僕は指を締め付けられるのが嫌いなので」
と言い訳をして、店から逃げ出した。

 3軒目に行ったドラッグストアでメモに書かれた通りの商品を買うことができた。もうすぐ一時になろうとしていた。コンビニでツナマヨ握りと烏龍茶を買って路上で食べてから会社に戻った。

 本部長室に行ってフェイス・シートと生理用ナプキンが入ったビニール袋を差し出した。領収書とお釣りを渡そうとすると、瑠衣が言った。

「お釣りは預かってもらっていいかな。今後も時々買い物を頼みたいから。お金が足りなくなったら言って。でも、私用をさせられるのはイヤかな?」

「とんでもございません。いつでもお申し付けください」

「ありがとう」

 本部長になった瑠衣からありがとうと言われたのは初めてだった。今日初めて暖かい気持ちで本部長室から退出した。やはり上司が部下に「ありがとう」と言うのは大切なことだ。先週まで自分が瑠衣にものを頼んだ時に毎回「ありがとう」と言えていたかどうか自信がなかった。

 その日の午後は本部長から合計8回電話がかかり、お茶出し、コピー、他の役員への書類の配送などを頼まれた。誰にでもできる仕事だが、心を込めれば瑠衣の反応がその分良くなるので、それなりにやりがいを感じた。仕事をするのは一時間のうちで十分程度だが、PCで社内のサイトをしらみつぶしに見ることによって時間を潰すテクニックを身に着けたので暇が苦にならなくなった。

 

 翌朝、エレベーターで笹野と美香と一緒になった。

「城山、元気か? エリートになってどんな気分だ?」
と笹野から冷やかされた。笹野はまだ僕が瑠衣から取り立てられたと思っているようだ。

「大富豪になるつもりで行ったら、ど貧民でした」
 わざと笹野には理解できない自虐的な冗談を返した。

 美香はニヤニヤした表情だったので、美香には既に総務部の女性から実情が流れていると分かった。ゴシップとしては極めて興味深いネタなので、一般職社員は既に全員が知っていると考えた方が良さそうだ。分類的には「かげぐち」であり、女性から男性に流したら「かげぐちを言う女」と思われる可能性があるので、男性社員には伝わりにくいのだろう。

 朝のお茶出しを無難に終えて、PCに向かって暇をつぶした。午前11時に本部長に来客があり、応接室にお茶を出しに行った。今の時代、女性上司の来客に男性の部下がお茶を出すのはさほど珍しいことでは無いと思うのだが、2人の男性客から興味深そうにジロジロ見られたのには気分を害した。

 昼休みが終わって、午後1時過ぎに瑠衣が総務課長の所に来て、何やら短い言葉を交わした後で「城山君」と呼んだ。

「はい、本部長」
と僕は瑠衣の所に飛んで行った。

「今朝、来客時にお茶を出してもらったんだけど……」

――何かミスをしてしまったんだろうか? 

「居心地が悪そうな雰囲気だったから、あの後で食事に誘って、何かお気に召さないことがありましたかと聞いたのよ。そうしたら、言いにくそうに教えてくれた。結局、ネクタイを締めた男性にお茶を出されたのを不自然に感じたとわかった」

「そうでしたか。中高年男性の中には女性にお茶を出してもらわなければ気が済まないという古い考えの人が多いのかもしれませんね。では、今後本部長のお客様へのお茶出しを鎌田梨歩さんにお願いして、その分、鎌田梨歩さんの仕事を僕が手伝うことにしてはいかがでしょうか?」

「私は自分の秘書である城山君にお茶を出してほしいんだけど」

「はあ、じゃあどうすれば……」

 瑠衣がニヤリと意地悪な笑みを浮かべたのでゾッとした。まさか、僕に一般職の制服を着せようとしているのではないだろうか?! 

「そ、そんな、それだけはお許しください!」

「何を勘違いしているの? そのネクタイが秘書には不適切だと言っているだけよ」

「なぁんだ、そういう意味でしたか。よかった……。それなら今後はノータイで仕事をさせていただきます」

 その場でネクタイを外して6つに折りたたんだ。

「ネクタイなしで私や私のお客さまにお茶を出してほしくないわ。今後は秘書らしいネクタイをしなさい」

「秘書らしいって……ああ、暖色系のネクタイにすればよろしいんでしょうか?」

「うちの制服のブルーのリボンタイを着用しなさい。そうすれば城山君の役割が客観的に明らかになるから何かにつけて説明の手間が省けるわ」

「そんな! 僕がリボンタイをつけるなんて、恥ずかしくて死んでしまいます」

「あっ、そう。リボンタイだけじゃ恰好がつかないという意見なのね。じゃあ、上から下まで一般職の制服を着用すればいいわ。これから稟議書をインプットしておく」

「お待ちください、本部長。リボンタイをつけますので、どうかそれだけはお許しください」

「私が先週まで使っていたリボンタイを渡すから来なさい」

 瑠衣について本部長室に行くと、瑠衣は引き出しからリボンタイを出して僕に着けさせた。鏡が無いので人からどう見えるかは分からないが、胸元のブルーのリボンタイを見下ろすと恥ずかしさで気が変になりそうだった。

「口ごたえの多い秘書は嫌いなのよね。今後、私の命令に素直に従わない場合は、予告なしで一般職に落として、この場で制服に着替えさせるわよ」

 瑠衣は引き出しの中から自分が先週まではいていた制服のスカートを取り出して僕に見せた。

「何でもおっしゃる通りにいたしますので、どうかそれだけはお許しください」
と震える声で瑠衣に懇願した。

「今日のところは許すことにする。お茶をお願い。今までよりも茶葉を5%ほど増やして」

「はい、かしこまりました。しばらくお待ちください」

 深くお辞儀をして本部長室から逃げ出した。

 総務部のあちこちから「ほぉーっ」という感じの声や押し殺した笑い声が聞こえた。僕は髪の毛の付け根まで真っ赤になり、小走りでフロアを横切って給湯室に行った。

「城山君、似合ってるわよ」

 梨歩が慰めに来てくれた。

「テキトーなことを言うなよ。女装したのと同じだと思ってみんながあざけり笑ってることぐらい分かってるんだから」

「お世辞じゃなくて本当に似合ってるんだって。本部長室からオカマみたいな城山君が出てくるだろうから気の毒だなと思いながら待っていたら、結構イケてる男の子が出て来たからびっくりしたんだ。全然オカマには見えないよ。メイクをしたり、オシャレな恰好をした男子が増えてるってことを知ってるよね? 城山君もそんな感じ」

「本当?」

「本当よ。社内の友達にも、リボンタイの城山君がカッコいいから驚いたって流しておくわね」

「そんな噂は流さないでくれよ」

「分かってないわね。噂を流しておけば、その情報によって第一印象が変わるのよ。私はカッコいいと思ったけど、もし誰かが城山君を見て半分一般職に足を突っ込んだオカマになったという噂を流したら、全社の女子社員の印象がそちらの方向に傾くかもしれない」

「そういうことだったのか! 是非カッコいい方の噂を広めてくれ。お願いだ!」

「まかせなさい」
と言って梨歩は立ち去った。不幸にして梨歩を自分のアシスタントにはできなかったが、梨歩が友達になってくれたのは幸運だった。

 僕は瑠衣から言われた通りの濃さのお茶を淹れて本部長室に持って行った。

 瑠衣はお茶をひとすすりして言った。

「美味しい。城山君はお茶を淹れるのが上手ね」

「ありがとうございます」

「文章を書く能力は低レベルだったけど、アシスタントとしての適性は非常に高いみたい。私と真逆ね」

「……」

「ちょっとおつかいを頼まれてほしいんだけど、いいかな?」

「はい、なんなりと」

「前の席に私物を残してきたのよ。水口美香さんにお願いしておいたから取ってきて」

「でもこの恰好で……」

「私のオツカイに行くのはイヤなんだ。じゃあ、いいわ」

「いえ、行ってまいります」

「面倒なやりとりは今回が最後よ。次回は何も言わずに稟議をインプットするから」

「申し訳ございませんでした」

 僕は深くお辞儀をして退出し、元居た職場へと向かった。廊下ですれ違った社員たちがギョッとした視線を僕に向けた。一般職社員の何人かは既に総務部から噂が流れているのか、クスクスと笑って面白そうに僕を見た。

 恥ずかしくて目を伏せながら水口美香の席へと歩いて行った。

「城山君、似合ってるわよ」
とニコニコしながら美香が言った。既に梨歩から話が流れているようだ。

「どうしたんだ、城山!? 気でも狂ったのか?」
 笹野がすっとんきょうな声を上げた。

「本部長からの命令で……アシスタントだということが客観的に分かるように、リボンタイを着用しろと……」

「おまえが九段坂本部長のアシスタントにされたってことか? 九段坂さんも冗談がきついな。しかし一般職の制服のリボンタイを着用させるというのは、パワハラとセクハラの両方に該当するんじゃないかな。人事部の知り合いに相談してやろうか?」

「とんでもない! もし刃向かったら一般職に落とされてしまいます。お願いですから何もしないでください」

「城山がそれでいいというなら俺は何もしないけど……。しかし、城山も大変だな」

 周囲の人たちも笹野と同じ気持ちで僕を見ていることがヒシヒシと感じられた。


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