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女になった社長

第一章 全ては覚書から始まった

 私の名前はリシャブ・ティワリ。インドのハイテク産業の中心地として有名なバンガロールの実業家だ。事件が起きたとき、私は二十九歳でサンライズ・テキスタイルズ社のCEOを務めていた。といっても亡き父の会社を引き継いだものであり、ビジネスマンとしての私の実力を反映しているとは言えない。しかし私は長期的なビジョンとビジネスを成功に導く能力を持っていた。

 少なくとも自分ではそう信じていた。

 全てのトラブルはギリシャ神話の酒の神、バッカスの名において始まった。何年か前にロンドンに出張した際、有名なレッドライオンというパブでスコッチをほんの一、二杯飲んだのがきっかけで蒸留酒スピリッツにはまってしまい、帰国後も友人とパブに通うようになった。酒の強い友人がそろっており、ウィスキーを二本空けても平然としているほどの猛者ぞろいだったが、幸か不幸か私は一、二杯でハイな気分になる体質だった。そんな遺伝子構造はコスト・パフォーマンスの観点では歓迎すべきかもしれないが、度を過ごして記憶が飛んだことも何度かあり、家族からは自重するよう言われていた。

 私の家はマルワリ(注:商人のカースト)に属する伝統的なビジネスマンの家系であり、当然厳格なベジタリアンだった。基本的にベジタリアンはアルコールを口にしないので、祖母も母も姉妹も一滴もお酒を飲んだことがない。職業上外国人との接触の機会がある父は、外ではビールを飲むこともあったが家の中では禁酒を貫いていた。

 インドのベジタリアンにとって禁酒とは飲みたいのを我慢することではない。

「お酒の助けなど借りなくても、瞑想することによって幸福な気持ちになれる」
というのが父の口癖だった。

 父は私がアルコール依存ぎみなのを心配して時折小言を言ったが、私はそのたびに

「お酒が私の仕事の生産性に影響を与えることは一切ない」

と屁理屈を返すことにしていた。事実、父は私の仕事っぷりに満足していたので、父の存命中に酒癖についてそれ以上厳しく責められたことは無かった。

 母は、私が外でお酒を飲むのは結婚していないからだと考え、顔を見るたびに

「早く結婚しなさい」

と言うようになった。

「とんでもない、まだ二十四歳なのに!」

と抗議すると、父が

「私は二十一歳で結婚した。マルワリは早婚が普通だと分かっているだろう」

と言って、本格的に私の縁談の為の活動を始めた。

 父が探してきたのは同じコミュニティーに属する企業経営者のお嬢さんで、プレルナという名前の色白でスリムな長身の女性だった。プレルナは卒業したばかりで、まるで咲いたばかりのバラの花のようにみずみずしい美女だった。先月、五回目の結婚記念日を迎えたがまだ子供は居ない。それは二人の相性が悪かったからではない。私とプレルナは相性が良すぎるのか、毎晩情熱的に愛し合い、いつも手をつないでいないと居られなかった。友人たちは五年前から私たちのハネムーンが続いていると言って羨ましがった。

 結婚して間もない頃、日本の繊維会社から出張で来たバイヤーの鈴木氏を自宅に招いた時に、
「こんな美しい女性をどうやって見つけたのですか?」
と聞かれた。

 私は父がどこからどうやってプレルナを探してきたのかを自慢した。

「インドではまだ見合い結婚が行われているのですか?!」
と鈴木氏は驚いていた。

 外国の人はインドのカースト制度についての理解度が低いので説明が困難なのだが、当時の私がマルワリのコミュニティーの中で自分にとってベストの女性と偶然出会えるはずがなく、父が経済力、コネクション、社会的地位、ネットワーク、等々の力でプレルナという女性を特定し、実際に父と姉がプレルナを見に行って、容姿、聡明さ、性格の良さを確認したうえで私の妻としていわばスカウトしてくれたわけだ。

「どうして同じカーストでなければならないのですか?」
と鈴木氏に聞かれた。

「カーストが違えば食べ物も調理法も毎日の習慣も全部違うのだから当然です」
と答えたが、鈴木氏は十分理解できなかったようだ。

 私が最近特に興味を抱いていたのはセクシュアリティの問題だった。欧米でセクシュアリティと言えばLGBTQなど性の多様性のことを思い浮かべるが、インドでは何世紀も前から「性」が重要な問題として認識されている。インドには男性でもなく女性でもない、もう一つの性がある。第三の性、ヒジュラだ。ヒジュラは女性のようにサリーとブラウスを着てチョリ(ペチコート)をはいて生活しており、化粧もしている。欧米や日本などのトランスジェンダー女性と違って、外観的に本物の女性に見える人はごくまれであり、ひと目見てヒジュラだと分かる場合が殆どだ。但し、全部が全部そうではなく、中にはミス・トランスジェンダー・コンテストで優勝するほどの美人も居る。

 ヒジュラは現世を捨ててバフチャラ・マータという女神に帰依きえすることによって聖なる能力を獲得すると言われている。その能力をちらつかせてお布施をもらったり、結婚式などの祝い事に呼ばれたりして暮らしているが、多くのヒジュラは売春によって辛うじて生計を立てている。

 ヒジュラはムガール帝国の時代には中国の宦官ほどではないが特別な存在として扱われていたそうだ。その後、大英帝国の影響下で下品かつ有害なものとして排撃されたが、現在でもインド全体で数百万人のヒジュラが居ると言われている。ヒジュラはカーストのひとつ(それも不可触民よりも地位の低いカースト)として扱われることもあるが、カーストとの決定的な違いは、ヒジュラは元々生物学的な男性かインターセックスなので出産能力が無く、何世紀も血縁とは無関係に続いているという点だ。つまり、毎年あらゆるカーストの何十万人ものインド人が「ヒジュラになりたい」と志願して、生まれ持ったカーストを捨てるか、自分の希望によらない理由でヒジュラになっているわけだ。

 ヒジュラは貧困のために売春に追いやられ、しかも売春で得た収入の大半をグル(個々のヒジュラが所属する親ヒジュラ)にピンハネされると言われており、どう考えても魅力的な職業ではない。それなのにどうして毎年大勢の人たちがヒジュラになるのか、非常に不思議だった。

 ヒジュラはニルヴァンと呼ばれる去勢の儀式によってバフチャラ・マータ(女神)への真の帰依者としてのあかしを獲得する。本来のニルヴァンとは女神の代理人の資格を持つヒジュラであるダイ・マ(産婆)の手によって麻酔・止血・縫合なしで男性器を一気に切除する転生の儀式なのだが、近年は病院で外科手術によって去勢するケースが一般化しており、更に去勢だけでなく女性器を形成する性転換手術が行われる場合も増えているとのことだ。

「ヒジュラになる」ということは「女になる」のとは宗教的にも社会的にも思想的にも全く異なるのだが、ヒジュラとトランスジェンダー女性が混同されて、ニルヴァンと性転換手術の境界線が薄れるという現象が起きつつある。

 私はヒジュラ・コミュニティーについて多くの書籍や記事を読んで考察を重ねた。最近ではトランスジェンダーの福祉に取り組むNGOが主催するセミナーにゲストスピーカーとして招かれることもあり、いっぱしの専門家のつもりになっていた。

 

 四月の新年度に入り、従業員に対する社長スピーチを無難に終えて、ほっとした気分の夜、私と親友のスニル・ジェインはムディット・ボーラの誘いでパブに集合した。

 スニル・ジェインは小学校以来の友人で、サンライズ・テキスタイルの副社長だった私の叔父が引退した時に、新副社長として登用した。仕事では私の右腕、プライベートでは対等な友人であり、私にとって家族と同じぐらい大切な存在だ。

 ムディット・ボーラはボーラ・アンド・サンズという小さな織物会社の社長だが、昨年父親が逝去して後を継いだばかりで、私と似たような立場だ。私とスニルより二歳年下だが、理屈っぽくて生意気な感じなので、私はボーラのことがあまり好きではなかった。実はボーラを好きになれない理由がもう一つあった。私の妻のプレルナが学生時代にボーラと付き合っていたという情報を得たことについて妻には知らないふりをしており、親友のスニル・ジェインにも内緒にしていたが、心の中にボーラへの対抗心が根付いていたのだ。

 私がプレルナとの関係を知っていることをボーラは多分気付いておらず、だからこそ新参者の社長として私とのコネクションを持ちたがっているのだと思っていた。

 その夜の話題は社会問題が中心だったが、途中からインドにおけるヒジュラの現状に関する話題で盛り上がった。

 ヒジュラ問題の権威を自負している私は、
「男も女もヒジュラも同じ人間であり、差別すべきではない」
と力説した。

「ヒジュラにとっての最大の問題は雇用機会が与えられないということだ。能力的には何ら劣ることはなく、企業や地方政府などに雇用されたら、他の人に勝るとも劣らない能力を発揮できるはずだ。雇用機会が与えられないから物乞いや売春に頼らざるを得ないというのが現状だ」

 ヒジュラの話題が始まる前に私はウィスキーのダブルを四杯も飲んでおり、普段心掛けている上限量を越えていたので、雄弁になっていた。

「ティワリさん、まさか本気で雇用機会だけの問題だと思っているわけじゃないでしょうね? 物事の捉え方があまりにも一面的だと言わざるを得ませんよ」

 何を思ったのか、ボーラが侮辱するような口調で私を挑発した。

 私は怒りを抑えようと努力しながら、
「もっと具体的な反論をしてくれないか」
と冷ややかに言った。

「現実の世界が経済理論だけで動くと思っているとしたらそれは大間違いです。経済学者ならとにかく、企業経営者がそんな単純な理屈をかざして大丈夫ですか? 地域、国家、国民の成功というものは、様々な要因による複合的な結果としてもたらされるものです。経済的要因はその一つですが文化的、社会的な要因を軽視するのは間違っています」

 歳下の新参者から説教口調で言われて頭に血が上った。

――またこの男が似非えせ人権活動家的なことを言っている。自分の会社を自分のモットーで経営するのは勝手だが、一体何様のつもりだ! 

 私は心の中で毒づいたが、勿論口には出さなかった。この種の議論をする際に怒りの感情を表に出したら、その時点で負けになる。

「あんたが何を主張していたいのか、さっぱり分からないんだが」
と私は作り笑いをして白い歯を見せながら言った。

「ティワリさん、私の言うことが分からないんですか? ヒジュラであるという社会的・文化的な烙印が、彼らの破滅を招いているんです。雇用機会を与えても問題は全く解決しません。ヒジュラというシステム全体を刷新して根本的な意識改革をしない限り何も変わらない。これは彼ら自身の意識の問題なんですよ」

 元々私は自分の理論に反対する人を苦手にしていた。私は自己主張が強い支配的なタイプの人間であり、異論や反論を吹っ掛けられると、怒りに燃えやすいタイプだった。既に私の頭脳はバッカスの支配下に入ってしまっており、怒りに任せて大ぶろしきを広げてしまった。

「私の考えは全く違う。もし私自身がヒジュラだったとしても、今と同様にサンライズ・テキスタイルをCEOとして会社をちゃんと切り盛りして従業員からの尊敬と顧客からの忠誠心を維持する自信がある」

「あきれて物も言えません。もしティワリさんがヒジュラになったら、仮に賃上げしても従業員はどんどん辞めるし、値下げしてもお客さんは離れていくに決まってるじゃないですか。サンライズ・テキスタイルはあっという間に倒産して、亡くなったお父上もさぞ悲しむことでしょう。子供じみたことを言わないでください」

「なんだと、けんかを売る気か?」

 私は思わずその場に立ち上がって怒鳴った。私はアルコールのせいで明らかに好戦的になっていた。自分の声が怒りで震えていたのを、おぼろげながら記憶している。

「落ち着いてくれ、リシャブ」
 スニル・ジェインが私をなだめた。

 普段の私ならジェインの言葉には謙虚に耳を傾けるところだが、バッカスの支配下にあった私は聞く耳を持たなかった。

「おせっかいだな、ほっといてくれ!」
と私は彼を乱暴に突き放した。

「なんという傲慢さですか?! 立派な会社のCEOが単純な意見の違いにも対応できないというのは大問題ですね」
と、ボーラが私をさらに挑発した。

 リーダーの傲慢さが組織をダメにする一番の原因だというのは私の持論であり、ボーラも出席していた青年経営者の会合でも何度か力説したことがある。逆に私自身が傲慢だと言われたことで私は逆上した。

「この私を私を侮辱するとは大した度胸だな。よし、挑戦を受けて立とうじゃないか。私はヒジュラになったとしてもサンライズ・テキスタイルのCEOとして会社を成長させ続けられる自信がある。その証明として『ヒジュラCEO宣言』をして、明日から一年間ヒジュラの服装で、ヒジュラのように振舞いながら会社を切り盛りしてみせようじゃないか。もし一年後にサンライズ・テキスタイルが増益を達成すれば、キミの会社であるボーラサンズを私が無償で譲り受ける。もし――あり得ないことだが――私が負けたらサンライズ・テキスタイルはキミのものだ。この賭けに乗る勇気があるか?!」

「その賭け、受けて立ちましょう。酒の席での失言では済みませんよ。それでもいいんですね?」

「当然だ。お互いに言い訳ができないように契約書として残そうじゃないか。スニル、ペンを貸してくれ」

「気でも狂ったのか! この男はリシャブを陥れようとしているんだ。今日は契約書の原案を作るだけにしておいて、明日の朝、素面になってからサインしろ」
とスニルが私に言った。

「怖気づいたんですね? やっぱりティワリさんは腰抜けの傲慢社長だったわけですか、アハハハ」

 ボーラから重ねて見下されて怒り心頭に発した。

「お前の方こそ、勇気があるなら今すぐ契約書にサインしろ」

「頼む、リシャブ、思い直してくれ」

 スニルに懇願されて決意が揺らぎかけたが、私にはボーラの嘲笑を受け流すだけの寛容さが無かった。結局、私はスニルの上司であり、彼は私の指示に従わなければならなかった。

 ボーラが、まるで魔法使いのように手際よく、どこからともなく一枚の紙を出して私の前に差し出した。私は先ほど口走った通りの内容を走り書きした。

 ボーラは満足そうに頷いて、その用紙の上部に活字体の大文字で「覚書」と記し、下部に日付を書いてサインした。

「ティワリさんが日付と署名を書き込めば正式の覚書になります。もし酔っ払ったせいで失言をしたと反省するのなら、この場に跪いて私の足にキスをして許しを乞えばいい。そうすれば勘弁してあげてもいいですよ」

「お前の方こそ、足にキスをして許しを乞ったらどうだ?!」

「アハハハ、よく見てから言ってください。私は既にサイン済みです」

 私は即刻サインして日付を記入した。

「コピーしてくるから待っていて下さい」
とボーラが言って、署名済みの覚書を持って出て行ったが、すぐに戻ってきた。

 ボーラはコピーにもう一度サインをして私に手渡し、私はそれを四つに折りたたんでポケットに入れた。

 私は大きなことを成し遂げたような気分で家に帰った。妻のプレルナがいつもに増して美しく見えて、強く抱きしめて愛撫した。彼女は桃とミルクと蜂蜜の香りがした。

「お酒臭いわ! 早くシャワーを浴びてきて」
と彼女は笑いながら私を手で押しのけた。

「はいはい、奥様。お望み通り」
と言ってシャワールームに行った。

 シャワーを浴び終えて、ガウンを羽織り、いい気持ちでリビングルームに行くと、妻が鬼のような形相で立っていた。

「何よ、これ!」

 妻が手に持っていたのはボーラとの覚書のコピーだった。ポケットに入れたままにせずに書斎に持って行けばよかった……。

 妻は覚書を読んだらしく、パニック状態だった。

「気でも狂ったの?! 明日から一年間ヒジュラの恰好で仕事をするなんて! サリーを着てお化粧をして会社に行ったら世間から何を言われるか分かっているの? 賭けに負けたらお父さんから引き継いだ会社を取られるだなんて! それもよりによってあの人に……!」

 妻の最後の一言が私の心にグサッと突き刺さった。妻が怒るのも無理はない。確かに相手が悪かった。

 妻が大学時代にボーラと付き合っていたことは妻への思いやりとして知らないフリをしていた。結局プレルナはあの理屈っぽい男に嫌気がさして、サンライズテキスタイルの自由奔放な跡取り息子の私を選んだのだろうと私は思っていた。

 ボーラと妻がどこまでの付き合いだったかは知らないし知りたくもない。私たちのコミュニティーでは新妻が処女であるのは当然であり、結婚式の夜も彼女は男性経験のない若い花嫁を完璧に演じていた。

 今、彼女がパニックに陥っているのは、ボーラが元カノを取られたことを根に持っており、私に仕返しをしようとしてこんな覚書を結んだのではないかと疑っているからだ。

「相手のボーラという人にすぐに電話して、契約を取り消してもらって!」

 プレルナの愛らしい顔が、これほどまでに険しくなったのは初めてだった。

「どうして? 僕には百パーセント自信があるんだけど」

「リシャブ、お願いだから!」
 妻に真顔で迫られると勝てなかった。

「分かったよ、電話するから機嫌を直して」

 私はそう言って、ボーラの番号に電話をかけた。ボーラが電話に出るのを待ちながら、惚れた弱みとはいえ、尻に敷かれるようになってしまったなと思った。

「これはこれは、ミスター・ティワリ! どうかなさいましたか?」

 ボーラの慇懃無礼な言葉に改めて腹が立った。

「いやあ、さきほどは飲み過ぎて色々失礼なことを言ってしまったような気がして、ひとことお詫びしなきゃと思って……。それで、あの覚書のことなんだけど、まあ酔いに任せた冗談というか……。破棄してもらってもいいかな?」

「アハハハ、なんとまあ、契約締結日のうちにギブアップですか! 分かりました。じゃあ、契約に従って明日にでもサンライズテキスタイルの譲渡手続きを開始しましょう」

「意地悪なことを言わないでよ。まさかあんな覚書を本気にしてるわけじゃないよね?」

「日付と署名がしっかりと記されており法的に有効な契約書です。今後の手続きに関しては明日弁護士と打合せする予定です。ティワリさんはまだ酔っぱらっているようですが、明日の朝、素面しらふで読み直して、契約通り確実に履行した方がいいんじゃないですか? ミスター・ティワリ――いや、ミスターと呼ぶのはこれが最後になりそうですね。明日からはミス、ミセス……いや、ミズ・ティワリと呼ばなきゃ、アハハハハハ」

 ボーラは高笑いしながら電話を切った。

――まずいことになった。ボーラは本気で私に覚書を履行させるつもりだ。

「リシャブ、契約書は破棄してもらえるの?」
と妻が心配そうに聞いた。

「あのくそったれ、冗談のわからないやつだ!」

 妻を振り切ってベッドに潜り込んだ。アルコールの残った私の頭は混乱を極めていた。悪夢を見ている気持で眠りに落ちた。

 ***

 翌朝目が覚めると二日酔いで頭がガンガンしていたが、昨夜起きた事を思い出した。

 限度を超えて飲み過ぎてしまったことを後悔した。先週LGBTの人権に関するスピーチを頼まれてヒジュラについて多くの資料を読んだことが結果的に災いした。私は一般人と比べるとヒジュラに対する偏見は少ないと自負しているが、特にヒジュラを擁護しているわけではない。昨夜は酒に酔って気が大きくなり、自分が優秀な経営者だという高揚感が高まった挙句『例えヒジュラになっても経営能力はいささかも損なわれない』などとうそぶいてしまった。ヒジュラの恰好で一年間生活するという発想が自分の頭脳のどこから出て来たのか、今でも理解できない。

 妻はまだ起きていなかった。台所で濃いコーヒーを淹れて居間に持っていった。ソファーに腰を下ろし、深呼吸してから改めて覚書に目を通した。

 酔いを感じさせないしっかりとした筆記体で以下の通り綴られていた。


 覚書


 二〇一九年三月三十一日、サンライズ・テキスタイル株式会社のオーナー兼CEOリシャブ・クリシャンラル・ティワリ(以下甲と言う)とボーラ・アンド・サンズの代表取締役であるムディット・マクハンラル・ボーラ(以下乙と言う)は以下の通り合意した。

  甲は、本日より一日二十四時間、三百六十五日間、あたかもヒジュラであるかのように生活し、ヒジュラにふさわしい服装、言動を続け、今年度の税引き前利益が前年度の税引き前利益を上回ることを約束する。

  第一項が達成できなかった場合、甲はサンライズ・テキスタイル株式会社の全持ち株を乙に一ルピーで譲渡しなければならない。甲が男装、男性のような言動、その他ヒジュラに相応しくない行動をした場合、その時点をもって第一項が達成できなかったものとみなされる。

  第一項が達成できなかった場合、甲はニルヴァンその他必要な処置を直ちに実施し、残りの一生をヒジュラとして暮らすものとする。

  第一項が達成された場合、乙はボーラ・アンド・サンズの全持ち株を甲に一ルピーで譲渡しなければならない。


  リシャブ・クリシャンラル・ティワリ
  ムディット・マクハンラル・ボーラ


 私は商工会議所に届け出済みの署名をして、改めて日付を正確に付記している。弁護士と相談するまでもなく、これは法的に有効な契約書として議論の余地が無い。裁判に持ち込めば確実に負けるだろう。

 私は自らを窮地に追いやってしまった……。

 寝室に行って妻を揺り起こした。

「プレルナ、ごめん、酔っぱらってとんでもないドジを踏んでしまったみたいだ」
と私はできるかぎり冗談っぽく言った。

「覚書を読み直したんだけど、法的に拘束力のある契約書になっていた。一年間ヒジュラとして生活しなければ会社をボーラに取られるという取り決めになっている」

「昨日の夜ボーラさんに契約を解除してくれと電話した時には何と言われたの?」

「にべもなく断られた。譲渡手続きについて今日弁護士と相談すると言っていた。あいつは僕の酔いに任せた放言を利用して僕を陥れるために覚書をでっち上げたんだ。あいつの誘いに乗ってしまった僕がバカだった」

「お詫びの品を持ってボーラさんの家に行って、もう一度契約破棄をお願いしてみましょう。私もついて行ってあげるから」

「そんなことをしたら、契約不履行として即刻会社を譲渡させられる。女装していない姿を見られたら一巻の終わりだ。あいつの事だからカメラマンを雇ってこの家の中の写真を撮ろうとするに違いない。プレルナ、カーテンを閉めてくれ。僕がこの恰好で窓の近くに行くのはまずいから」

「もう、リシャブったら、何てことをしてくれたのよ!」
 妻はレースのナイトガウンの裾を翻して走り回り、全てのカーテンを引いた。

 結婚して以来最も暗い雰囲気で朝食を食べた。

 プレルナが大きなため息をついて言った。
「この食卓で男性のあなたと向き合うのはこれが最後なのね」

「変なことを言わないでくれ。女装をしていても僕は男だよ。それに一年間だけの辛抱だ」

「私と同じ服を着てお化粧をしているあなたと一年間も夫婦で居られるかどうか自信がないわ」

「僕はキミを心から愛している。男でも女でも第三の性でも、性別とは関係が無いほど深く愛しているんだ。頼むからキミも僕の中身を見てくれ!」

「今となっては仕方が無いから私も努力するけど……。でも、私、キモイのは苦手なのよね。ちゃんと身ぎれいにして清潔感のあるヒジュラになって」

「僕も最善は尽くしたいんだけど、女装経験は皆無だからプレルナだけが頼りだ」

「分かったわ。私があなたを女にしてあげる」

 妻に言われた通りに服を脱いでパンツ一丁になった。妻がクローゼットから持ってきたのは明るい辛子色のサルワール・カミーズだった。サルワール・カミーズとは薄手のパジャマのようなズボンの上に長めのチュニックを着て、ドゥパッタと呼ばれるショールを組み合わせる、インドの女性の普段着だ。

 母の世代までのヒンドゥー教徒の女性は結婚するまではサルワール・カミーズを着るが結婚後は必ずサリーを着ていた。昨今はプレルナのような良家の奥さまでもサルワール・カミーズを常用する人が多い。

 私はプレルナがその辛子色のサルワール・カミーズを着ている姿を何度か見たことがあった。チュニックというよりはミモレ丈で左右にスリットの入ったワンピースだ。

「私が持っているサルワール・カミーズの中では一番大き目で伸縮性があるものを選んだつもりだけど、破らないように注意してね」

 鼓動が高まるのを妻に気付かれないようにしながら、そのデリケートなワンピースを頭からかぶった。しかし、伸縮性があると言っても妻と私の体格の差は歴然としており、無理に袖を通そうとしたところ、ベリッと音がした。

「ショック……、破けちゃったじゃないの!」

 妻に引っ張ってもらってやっと脱ぐことができたが、妻のお気に入りのサルワール・カミーズは二度と着られそうにないほど破れてしまった。

「あなたにはXXXLサイズのサルワール・カミーズじゃないと着られそうにないわね」
とプレルナがため息をついた。

 私の身長は百七十三センチであり、インド人男性の平均身長より八センチ高い。妻は百七十センチのモデル体型で身長は私と三センチしか違わないが、私と比べて妻の上半身の骨格がどれほど繊細かが証明される結果となった

「キミのワンピースを着るのは無理みたいだから、サリーを貸してくれない?」

「えーっ! 普段着用のサリーなんて持っていないわ。私が持っているのはシルクの高級なサリーだけよ。あなたが着たら傷んでしまう」

「貸してくれないとサンライズ・テキスタイルをボーラに取られてしまうよ! 新しいのを買ってあげるから、頼むよ」

 プレルナの心の迷いが見て取れた。結局プレルナは自分が振った元カレに夫の会社を取られるよりもサリーを夫に貸し与える方が賢明だと判断した。

「じゃあ、ゴールデンの刺繍ししゅう入りの赤いサリーを貸してあげるけど、汚さないように細心の注意を払ってね」

 妻がクローゼットにサリーを取りに行く間、私は胸をときめかせながら待った。あのサリーを着ていた妻はとてもセクシーで可愛かった。あれを私が着るのか! 

 妻は数分後に戻ってきた。

「まずこのレクラ・チョリを着て。私のチョリはあなたには小さすぎるからママのを持ってきた」

 ママとは巨大な象のような体型をした妻の母親のことだが、あの母親からどうやって妖精のような美女が産まれたのか、私にとって永遠の謎だった。なお、チョリとはサリーの下に着る丈の短いブラウスで、そのレクラ・チョリはブラジャーのカップが内包された伸縮性のTシャツのようなものだった。

 私はチョリに容易に袖を通すことができたが、おへその数センチ上まで露出するほどの長さしかなかった。

「こんなに短いと、おへそと、胸毛の一部が見えてしまうよ」

「チョリとはそんなものよ。サリーを上手に使っておへそを隠すのよ。後で教えてあげる。それより、胸がブカブカだからなんとかしなきゃ」

 プレルナはテニスボールを二個持ってきて胸のカップの中に突っ込んだ。

「勘弁してくれよ。胸の小さいヒジュラも居るじゃないか」

「うーん……テニスボールでは小さすぎるわね」

 プレルナがキッチンに行って巨大なオレンジを二つ持って戻ってきた。

「イヤだよ!」

 私の抗議は却下された。そのオレンジはチョリのカップの中にピタリと収まった。

「オレンジなら保温性もあるし、少し固いかもしれないけどクッション性があるから本物のお乳みたいに見えるわ」

 ペチコートはサイズを調節可能なので簡単に着用できた。問題はサリーだった。腰を一周しても一メートルに満たないのに、六~七メートルもの長さの布をどうやって身につければいいのだろうか? 子供の時には母がサリーを巻くのを毎日のように見ていたし、今でもプレルナがサリーを身に着ける様子を見るのは好きだが、いざ自分が巻くとなって途方に暮れた。

「一周巻いてから上端をペチコートにはさみこむのよ」

 口で言われても頭がこんがらがるだけだ。

「しょうがないわね。私が着せてあげる。あーぁ、自分の夫のサリーの着付けを手伝うことになるなんて、夢にも思わなかったわ」

「まあ、人生には時々予測できないことが起きるものさ」
と私は肩をすくめた。

 しかし、私にサリーを巻き付けるのはプレルナが思っていたほど簡単ではなかった。そもそもサリーというものは、砂時計のような形の体に巻き付けるようにできている。すなわち、上端をウェストに食い込ませ、腰からお尻の広がっている部分で支えるからこそ六メートル以上もの長い布を保持できるわけだ。

 腰に一周させてから体の前で十二、三センチ幅のプリーツを七、八個作り、上端をペチコートに挟み込んでピンで固定する。そのまま一周させてから左肩へと引っ張り上げて自然に垂らすと、一応着付けが完成した。

 戸惑ったのは自然に垂らした「パル―」と呼ばれる長い布の部分の扱いだった。サリー全体の長さが六~八メートルで、そのうち二メートル弱の部分をパルーとして残すように、スカート部分に四~六メートルを使うことになる。プレルナによると私の身長に合うパルーの長さは二メートル弱だが、パルーが肩から外れると二メートルもの長い布を地面に引きずることになってしまう。パルーを頭にかけてショールとして使う方法とか、目的に合った使い方をプレルナが教えてくれたが、これから毎日こんな長い布を身に着けて生活しなければならないのかと思うと憂鬱だった。

「次はお化粧ね」

「えーっ、化粧しなきゃダメかな?」

「その顔でサリーを着て歩いていたらキモイわ。気味悪がられるのを少しでも減らすにはお化粧で顔を隠すしかないのよ!」

 プレルナの言うことにも一理ある。私は電気カミソリで髭を剃り、プレルナがファンデーションを顔から首にかけて塗り付けた。

「私の十日分を塗りたくってもまだ足りないわ。こうなると分かっていたら安物の化粧品を買っておくんだった」

 プレルナはぶつぶつ言いながら私の眉毛を毛抜きとハサミで形を整え、丹念にアイメイクを施した。

 自分の顔が刻々と変化するのを見るのはとても変な気分だった。妻の手によって私の顔は一歩一歩女に近づいて行く。骨格が違うので本物の女性には見えないが、誰が見ても昨日の私と同一人物とは気づかないだろうと思った。

 妻は私の耳ににクリップオン・タイプの大きなイヤリングをつけ、両手首には派手な腕輪を二つずつはめさせた。

「こんなのを着けてたら仕事にならないよ」

「ヒジュラのくせに何言ってるのよ?」
と妻が見下したように言ったのでドキリとした。

 妻は私の表情を見て反省したのか、
「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
と慌てて言い訳した。

「ヒジュラは一般の女性よりたくさんのジュエリーを身に着けるのが普通だから、あなたもヒジュラとして暮らすと約束したのなら、最低限イヤリングと腕輪は身に着けるべきだと思う。足輪アンクレットもつけた方がいいかもしれないけど……」

「アンクレットなんてとんでもない。バイクに乗るのにアンクレットを着けていたら危ないじゃないか」

「バイクで会社に行くつもり? サルワール・カミーズならバイクの運転もできるけど、サリーを着てバイクに乗るのは危険よ。今日はBMWに乗って行きなさい」

「自動車だと下手をすると会社まで一時間以上かかることがある。化粧に手間取って時間を食ってしまったから、とにかく今日はバイクで行くよ」

「せっかく苦労して着付けをしたのにバイクにまたがったらプリーツが崩れるわ」

 妻の制止を無視して私はハーレー・ダビッドソンにまたがった。

「パルーが足元に垂れてバイクに巻き込まれないように注意してね」

 妻の背後からの呼びかけに左手を上げて反応した。

 パルーを鯉のぼりのようにはためかせて走り出したが、一分もしないうちに、バイクではなくBMWで来るべきだったと後悔した。サリーというものは腰から足の先までをすっぽりと覆うものだと思っていたが、足を大きく広げると毛むくじゃらの太ももがむき出しになってしまう。おまけに、私のハーレーにはサリー・ガードが付いていないので、サリーの裾が巻き込まれそうになった。ブレーキを踏んで危うく事故を免れたが、サリーの裾が車輪に絡んでバイクから落下し地面を引きずられている自分の姿を想像してぞっとした。

 サリーをミニスカートのようにたくし上げ、風圧が来ないようにバイクの速度を落として走った。周囲の車やバイクの運転手や同乗者の視線が私に注がれるのを痛いほど感じる。悪口を浴びせかけられはしなかったが、呆気あっけに取られていることが彼らの視線から読み取れた。そりゃそうだろう。私もサリーを着たヒジュラがバイクの後部座席で運転手にしがみついている姿は何度か見たことがあるが、サリーをたくし上げて毛むくじゃらの太ももをむき出しにしてバイクを運転しているヒジュラは見たことがない。その上、バイクはハーレー・ダビッドソンだ。ハーレーを買えるほど金持ちのヒジュラには滅多にお目にかかれるものではない。

 何とか会社の門にたどり着き、門番がゲートを開けるのを待った。しかし、門番のバハドゥールはいつものような機敏な動きを見せず、ぽかんと口を開けて立っていた。

「おい、バハドゥール、口を開けて立っていたらハエが入るぞ」
と私は彼を揶揄からかった。
「自分の会社のCEOが到着したらさっと門を開くのが門番の基本動作だろう?」

 それを聞いてバハドゥールが笑い出した。

「ヒジュラのくせに何を言ってるんだ? 早く失せろ!」

 彼はバカ笑いしながら、手でハエを追い払うかのような仕草をした。

「今日は出社が遅くなったからお前と遊んでいる暇はないんだ。すぐにゲートを開け!」
と私は厳しい表情で命令した。

「あっちに行け、チャッカ!」
とバハドゥールが真剣に怒り出した。人をヒジュラと呼ぶのはそれだけで侮辱する言葉になるが、チャッカとはヒジュラを更に軽蔑した差別用語だ。

「門の前でヒジュラがうろついている所にティワリ社長が現れたら、わしはこっぴどく叱られる」

「まだ分からないのか? 私がそのティワリ社長だ。ちょっと事情があって女装をしているだけだ」

 そう言ってもバハドゥールは全く信じようとしなかった。私はますます腹が立ったが、妻の化粧がそれほど上手だったのが最大の原因かもしれないと思い、改めて妻のテクニックに感心した。

「シッ、シッ、チャッカ! 早くあっちに行け。動かないなら警察を呼ぶぞ!」

 バハドゥールは攻撃的になって、私に大声で悪態をついた。

 騒ぎに気付いたスニル・ジェインが役員室の窓から顔を出し、しばらくすると門まで走ってきた。スニルは賭けのことを知っているので、ハーレーに乗っているヒジュラを見て私だと気づいたのだ。

「バハドゥール、この人はティワリ社長だ。門を開けて差し上げろ。聞くに堪えないような罵声が役員室まで聞こえたが、ティワリ社長にひとことお詫びを言っておいた方がいいぞ」

 バハドゥールは納得できかねるという表情で私をジロジロ見ながら、

「すぁーせん」
と低い声で言った。事情を知らない人にはそれが「すみません」の意味だとは分からなかっただろう。

 バハドゥールは私が社長になる前から門番をしており、毎朝私の姿が遠くから目に入った時点で走り出てきて門を開けてくれる、元気で愛想の良い人間だ。今日のバハドゥールは最初から不機嫌で別人のようだった。何か家庭に問題でも起きたのだろうか。しばらくバハドゥールの動向に気配りするよう、総務部長に頼んでおこうと思った。

 私は社長室に駆け込んでサリーを何とか元の状態に近くなるように整えてから社内電話でスニルを呼んだ。

「スニル、私の事情について幹部に説明をしておく必要があると思うから、午後二時に緊急幹部会議を開催したい。招集できるか?」

「十四時に役員会議室で緊急幹部会議ですね。了解です」

 スニルは仕事では私を上司として立ててくれる。私がこんな恰好をしていることには全く触れず、彼らしいプロフェッショナルな反応を示してくれたことに感謝した。

 午後二時に役員会議室に行くと、既に部長連中が円卓を囲んで座っていた。彼らはギョッとした目で私を見てからお互いに当惑の視線を交わした。本来なら誰かが、仮装パーティーとかコーバガム・フェスティバル(年一回のヒジュラのお祭りで美人コンテストが行われることで有名)にかけた冗談を言うべきシチュエーションだったが、全員が押し黙っており、非常に気まずい雰囲気だった。

 私は咳払いをしてから口を開いた。

「えー。今日の私の外観と会議の議題が気になっているのではないかと思います。両者は相反するものではなく、関連するものであります。今や多様性の時代であり、ヒジュラを含む全ての人間のアイデンティティが尊重されるべきであると私は確信しております」

 ここまで言っても幹部の連中の表情は困惑したままで、話を続けづらい雰囲気になってしまった。スニルが席を立ち私の所に来て耳元でささやいた。

「屁理屈をこねるのはやめて要点を単純明解に話した方がいいですよ」

 スニルの言う通りだった。時間を無駄にすることはできない。私は覚悟を決めてボーラとの賭けについて経緯を説明した。

「その覚書を見せてもらえますか」
と取締役法務部長から言われてコピーを手渡した。

 彼は覚書を一言一句読み上げた。

「法律的にちゃんとした契約書であり、法的拘束力があります。ティワリ社長がご自分で起草されたとおっしゃいましたね?」

「そうです。契約書の作成について勉強を重ねましたが、結果的にそれがあだになってしまいました。契約を見直したいと先方に申し入れたのですが、はっきりと断られました。もし私が女装せずに出勤したら直ちに契約不履行となって会社を譲渡する義務が生じるので、やむなくこんな姿で出て来ざるをえなかったわけです」

「今日だけでなく明日以降も毎日『ヒジュラのCEO』として出社されるおつもりですか?」

「一年間の辛抱です。契約不履行を避けるため、皆さんどうか協力してください」
と私は全員を見回したが、誰もうなずかず、私と視線を合わせようともしなかった。

 あちこちからため息が聞こえて、一人、また一人と部屋から出て行った。私はとんでもない覚書を締結してしまったようだ。覆水盆に返らずとはまさにこんな状況の事を言うのだなと肩を落とした。


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