戦慄のバレンタインデー:TS小説の表紙画像 戦慄のバレンタインデー

戦慄のバレンタインデー

【内容紹介】バレンタインデーの起源は古代ローマ時代のルペルカリア祭と言われている。それは生贄の山羊の生皮を裂いて作ったムチを持った男性が街で出会った女性をしばく祭りで、女性は自分の名札を引いた男性と祭りの期間中寝床を共にしなければならなかった。古代ローマ風のバレンタイン・イベントに招待された主人公の男性は女性の名札壺の中に自分の名札を発見して驚く。

第一章 風変わりな年賀状

 二〇一九年の年末までの私は、何の変哲もない人生を送っていた。山梨県甲府市のサラリーマンの息子として生まれて不自由なく育った。勉強も運動も良くできたし、性格も外見も良かった。特にいじめにあうこともなく高校を出て、東京の一流大学の情報工学科に入って楽しい学生生活を送った。一部上場大手企業への就職も内定して三月の卒業を待つばかりだった。

 後になって振り返ると十二月に武漢で原因不明の肺炎の流行が始まったのだが、原因となる病原体が新型のコロナウイルスであることが同定されたと発表されたのは二〇二〇年の一月八日だから、少なくとも中国以外に住んでいる人は世界を揺るがすパンデミックが到来しようとしていることはまだ知らなかった。

 その頃の私は多分日本人の中で最も平穏で何の心配もなく生活していたと思う。勿論、社会人になることへの不安とか、大学卒業間近なのに決まった彼女が居ないことの寂しさと劣等感はあったが、少なくとも人から見ると私は順風満帆だった。

 * * *

 大学生活最後の大晦日の夜はアパートで一人で過ごした。紅白歌合戦が終わると目覚まし時計を午前六時半にセットしてベッドに入った。元旦は快晴の予報だったのでベランダから富士山の初日の出の写真を撮ってLINEで新年の挨拶を流すつもりだった。

――ピピピッ、ピピピッ。

 元旦の朝、二回目のアラーム音でさっと起き上がった。ベッドを降りてカーテンを開けると夜明け前だった。顔を洗って服を着替え、愛機のソニーα7に三百ミリの望遠レンズを装着した。ヤフオクで送料込み千二百円で買ったロッコールのレンズは父が生まれた年に製造されたマニュアルフォーカスのレンズだが、画質は最新のズームレンズに負けない。

 ベランダのガラス戸を開けると予想以上に寒かった。膝丈のダウンのコートを羽織ってベランダに出た。

 スマホの時計は六時三十分になっていた。昨夜ネットで調べておいた日の出時刻は六時四十九分だが、既に夜は明けている。空気が澄んでいて富士山がくっきりと見えた。

――待てよ……。平地の日の出は六時四十九分でも、海抜三七七六メートルの地点なら水平線を見下ろす形になるから日の出が早いのではないだろうか? 

 六時四十分頃にそう思いつき、慌ててシャッターを押し始めた。手振れしないようにレンズを手すりにあててシャッターを押す。カシャッ、カシャッ。凍てついた空気を小気味よいシャッター音が切り裂く。いい感じの写真が撮れそうだ。富士山の方向の空が薄く赤みを帯びて幻想的な景色になってきた。

 その時、冠雪した山頂付近が黄金色に輝き始めた。富士山に朝陽が射したのだ。私は夢中でシャッターを切り続けた。

 数十枚の写真を撮った頃には視界全体に初日はつひが射していた。スマホを見ると六時五十一分になっていた。撮影は成功だ。

 部屋に戻ってPCを起動し、USBケーブルでα7から画像を吸い上げた。スライドショー形式で写真を見ると富士山の頂上付近が刻々と変化する様子が観察できた。冠雪した部分の一部が黄金色に輝き始めた直後に撮った写真がベストショットで、タイムスタンプは六時四十六分になっていた。

 その画像と短いメッセージを中学以来の親友の福本にLINEで送った。

「あけましておめでとうございます。アパートのベランダから初日はつひに染まる富士山を拝みました」

 送信ボタンを押してから今朝撮った画像を改めて見直したが、やはり福本に送った写真がベストショットだった。送信後二、三分経過したが既読にならなかった。福本はまだ寝ているのだろう。

 福本宛のメッセージをコピーして他の友達にも送った。PC版のLINEだとメッセージのコピー転送と画像のドラッグアンドドロップが簡単にできるので、一人あたり四秒で新年の挨拶を出すことができる。三十数名の友達に挨拶を送り終えて一息つき、コーヒー豆をミルで挽いてドリップした。これが今年の初ドリップだ。百均ショップで五百円で買ったコーヒーミルだが、挽き立てのコーヒーは香りが段違いなので私の生活に無くてはならないアイテムになっている。

 新年初のコーヒーをすすりながらLINEを開くと、既に十人以上から返信が入っていた。概ね私の写真に対する賞賛のひと言と新年の挨拶がセットになった快いメッセージで、写真付きのものも何通かあった。おせち料理をSNS的に撮影した写真、お雑煮の餅を椀から箸で持ち上げた写真(協力者がいないと一人では撮れない角度)は月並みだったが、中村風花から送られてきた振袖姿のセルフィーには強いインパクトを感じた。美しい女性だけが使える武器だが、よほど自信が無いとセルフィーを異性に送ったりはできないはずだ。元旦の早朝に着付けをしたとは思えないから、きっと年末に撮影した写真なのだろう。私の富士山の初日はつひの写真はリアルタイムだから、中村風花の振袖セルフィーにも負けていないとプライドを感じた。

 中村風花は高三の同級生で、同じ大学に入った友人だ。高校時代には憧れの女子ランキングで最上位を争う存在だったので、私と同じ大学に進学したと判明した時には、友人たちから羨ましがられた。高校時代は殆ど言葉を交わしたことがなかったが、大学に入ってから時々言葉を交わす間柄になることができた。十二月の初めにたまたま学食で会った時、いきなり住所を聞かれたので私は耳を疑った。

逢坂おうさか君の住所をLINEで送っといて」
と言われたのでその通りにしたが、中村風花がどうして私の住所を知りたいのか思い当たる節がなかった。私にプレゼントを送ろうとするはずがないし、今更初めて年賀状を送るつもりなのだろうか? 何故住所を知りたいのか、野暮な質問をする勇気もなく、そのままになっていた。クリスマスの日には密かに期待をしていたがクリスマスカードやプレゼントは届かなかった。きっと高校の友達とか何かの会から頼まれて私の住所を聞いただけだったのだろうと結論付けた。

 しかし、中村風花が私に興味を抱いている可能性が絶対にないとは言い切れない。私の方から卒業するまでに何らかのモーションをかけなければとは思っていたが、自分から女の子に声をかけるのは得意ではないので何もできずにいた。

 振袖のセルフィーを女子どうしで送りあうのは普通のことかもしれないが、異性である私に送ったのは、何らかのサインかもしれない。
「すごくあでやか。サイコー!」
と、LINEで短い賞賛の言葉を送っておいた。

 普段と同じトースト、ヨーグルトとバナナで朝食を済ませてから実家の母にLINEのビデオ通話で新年の挨拶をした。今年は用があって帰省しないと言っておいたので年末に餅と煮豆のパックが母から届いていた。

「お餅はオーブントースターで焼いて砂糖醤油で食べたよ。美味しかった」
と出まかせを言うと母は嬉しそうな表情になった。私は普段は嘘をつかないタイプの人間だが、母を悲しませないための嘘ならいいんじゃないかなと思った。

 母のスマホ画面を通じて父と妹ともちらりと年賀の挨拶を交わしておいた。

 さあ、もうひとつ仕事が残っている。私はエレベーターで一階まで降りて郵便受けをチェックしに行った。まだ午前九時を回ったばかりだったが既に年賀状が配達されていた。全部で四枚の年賀状が届いていたが、微かな期待に反して中村風花からの年賀状は無かった。

 年賀状は出さずにSNSで年始の挨拶をすることにしていたが、毎年何人からか年賀状が送られてくる。年賀状をもらったらできるだけ早く返信するのが礼儀だ。元旦に出せば、三日か四日の朝には届くはずなので、受け取る側はそれが返信なのか、年末ぎりぎりに出した年賀状なのか判らない。

 中学時代の担任の先生、親戚の叔父さん、それに高校時代に変人と言われながら私と仲が良かった同級生。そして、もう一枚は荻原おぎわら真樹まきからの思いがけない年賀状だった。

 荻原真樹……中学一年で同じクラスだった女子のだ。と言ったのは本当にあの荻原真樹からの年賀状かどうか確信が持てなかったからだ。成績が学年でトップで、きりっとした顔立ちの女子だったので顔と名前ははっきりと覚えている。しかし、ほとんど言葉を交した記憶が無く、中一の三学期に転校してしまった後は噂も聞いたことがなかった。

 それにしても風変わりな年賀状だった。

荻原真樹からの年賀状

 西洋の画家が描いたようなアート作品に、まるで商業用のポスターのようなフォントで文字が印刷されていた。

謹賀新年
特別招待状
Roman Style Valentine Day

逢坂さんのために企画しました。

QRコードの詳細の通り必ずご参加ください。

再会を楽しみにしています。

荻原真樹

「逢坂さんのために企画しました」と書いてあるから、この年賀状は私だけのためにプリントしたものだ。勿論、アドービ・イラストレータを使えばこの程度の年賀状は簡単に作成できるし、「逢坂さん」の部分の名前だけを変えて大勢の人に同じ内容の年賀状を出したのかもしれないが、それにしても手が込んだ年賀状だ。

 アート作品も風変わりだった。左端の二人の若い女性が手を差し伸べて仰ぎ見ている相手は男性で、鞭を振り上げているように見える。その男性の右側にはもう一つの手が鞭を持っているようだ。しかし、いくらアート作品でも若い女性が鞭で打たれる画像を年賀状に使うだろうか? もしかすると男性が手に持っているのは鞭では無いのかもしれない。どうにも不可解な絵だった。

 QRコード入りの年賀状を受け取るのも初めてだった。このQRコードで謎が解けるかもしれない。スマホのQRコードリーダーを年賀状に向けると、年賀状と同じような画像を含むPDFファイルがダウンロードできた。それは荻原から私あての招待状だった。

逢坂おうさか理央りお


 私を覚えていますか? 中学一年で同じクラスだった荻原真樹です。九年ぶりですね。


 突然のお知らせですが、私の家の別荘で開催予定のバレンタイン・イベントに逢坂さんを招待させていただきます。二月十四日の午前十時にJR勝沼ぶどう郷駅のバス停付近でピックアップして別荘に行き、二泊して十六日の夕方に勝沼ぶどう郷駅までお送りします。


 会費は男性三十万円、女性は一万円ですが、逢坂さんは主催者の私が特別招待しますので無料です。バレンタイン・イベントといってもプレゼントを持参する必要はなく、普段着・手ぶらで気楽にお越しください。


 追伸:逢坂さんに再会したい一心で企画したイベントですので、万障お繰り合わせの上、必ずご参加ください。


 荻原真樹

 

JR勝沼ぶどう郷駅のバス停」の文字をクリックするとグーグルマップのストリートビューでバス停の標識とその周辺が表示された。これなら間違いようがない。彼女はかなりのIT通だ。

 年賀状自体だけでなく、QRコードも、そしてそのリンク先のウェブサイトも私だけのために作られたものだ。URLは長い暗号のような英数が含まれており、これは特定のサーバーではなくIPFSすなわち惑星間ファイルシステムに保存されたウェブページだ。私の専門分野だからそうだと分かるが、IPFSを使いこなしているとは、荻原真樹はレベルの高いリケジョに違いない。

 書かれている内容は有無を言わせない文面であり、断ることが許される雰囲気でないのは明らかだった。

 しかし、三十万円もの会費を徴収するバレンタイン・イベントとは一体どんな趣向なのだろうか? それなのに女性は一万円でいいということは、まるでハイレベルの美女を餌にして金持ちの男性から金を巻き上げる婚活パーティーみたいだ。そんなパーティーに私をタダで招待してくれるとは太っ腹としか言えない。しかし、彼女が昔同級生だった男子と再会するために、実質三十万円を負担して美女をあてがうというのはどう考えても理屈に合わない……。

 そんな有料イベントを自分の家の別荘で開催するというのも驚きだ。別荘と言っても普通の木造建築ではなく、テレビドラマに出てくるような豪邸なのかもしれない。荻原真樹は大金持ちのお嬢さんだったのだ。そんな女性から「逢坂さんに再会したい一心で企画した」と声をかけられたのだからウキウキしないはずがなかった。

 私は今まで逆タマになりたいなどと思ったことはない。実力で人生を乗り切るのが当然と考えていたが、実際に自分が資産家令嬢と結婚する可能性が見えてくると満更ではない気がした。つい先ほどまで中村風花の振袖姿によだれを垂らしていたというのに、資産家の令嬢からアタックされて舞い上がっている自分の浅ましさには苦笑を禁じ得なかった。

第二章 中村風花

 新年になって初めて中村風花に会ったのは二月七日だった。待ち合わせて会ったわけではなく、私が学食で一人でカツカレーを食べていた時に、彼女がカレーを載せたトレイを持って近づいて来た。

「ここ、いい?」
と聞かれたので、

「勿論、大歓迎だよ」
と答えたが、言った後で、まるで彼女から是非同席させて欲しいと頼まれたかのような返事をしたと受け止められないだろうかと後悔した

 幸い、彼女は悪びれずに私の正面の席に座ってカレーを食べ始めた。私と同じカツカレーだった。

「奇遇だね、同じメニューだ。カツカレーが好きなの?」

「子供の時からカレーが大好きだったし、晩御飯のおかずがトンカツだと嬉しかった。でも母がカツカレーを作ってくれたことは一度もなかった。大学に入って初めてカツカレーを食べて、至高の料理に出会えた気がした。それから週に一度はカツカレーを食べてるわ。だから太っちゃった」

 一対一でプライベートな会話をするのは初めてなのに、親しい友達のように話してくれたのは夢のようだった。

「そのスタイルで太ったなんて言ったら、うちの大学の女子は全員太りすぎということになる」
と言った後で、もっと気の利いた言葉を返せなかったことを悔やんだ。

「元旦の振り袖姿はすっごくきれいだったよ」
と渾身の力で言い足した。

「ありがとう。逢坂君も着物を着たの?」

「あ、僕、男だから……着物は持ってないんだ。正月は今着ているのと同じ服装で過ごした」

「そうよね。逢坂君が男の子だということを忘れてた」
と彼女がハッと気づいたかのような表情で言ったので私は傷ついた。

「ごめん、そういう意味じゃなくて……逢坂君がすごく身近に感じられて、女性の友達と話している時と同じように心を許せるから、つい錯覚しちゃったみたい……」

――異性だと意識しないほど身近に感じたのは良いが「錯覚した」とは私が振袖を着て当然と思ったのだろうか? 私は傷ついたことを気取られないように作り笑いした。

「気にしないで。中村さんから親しくしてもらって、僕はすごくうれしいよ」

「風花と呼んで」

「えっ、いいの?!」

「いいわよ。私も理央りおって呼んでいい?」

「勿論さ!」

 私はテーブルの下でグッとこぶしを握った。たった今、想像すらできなかったことが起きたのだ。風花とファーストネームで呼び合う仲になれるなんて! それも彼女の方から近づいてきて告白されるとは、信じられないほどの幸運だった。

「ところで理央、バレンタインデーの週末は家にいるの?」

――キターッ! 風花は私をバレンタイン・ディナーに誘おうとしているのだ。先に風花からプレゼントを手渡されたら、その後すぐに私から指輪を出してプロポーズしよう! いや、プロポーズは行きすぎだろうか? 「付き合ってください」にとどめるべきか……。しかし、中途半端な状態で卒業してしまったらチャンスを逃すことになる。

「友達から誘われていて山梨に行く予定だけど、キャンセルしても大丈夫だよ。風花は予定があるの?」

 私は慎重に言葉を選んで、詰めに取り掛かった。

「私も十三日から旅行の予定よ」

――なんだ、バレンタイン・デートの誘いじゃなかったのか……。

「だから予定通り楽しんできて。山梨のどこ?」

「勝沼だよ。勝沼駅まで迎えに来てくれて、の別荘に泊まることになってる」

 嘘はつきたくなかった。「そいつ」と言えば男だと思うだろう。

「風花はどこに旅行するの?」

「行先はヒ・ミ・ツ。いとこに会いに行くの。女性よ」

「じゃあ、風花も楽しんできて」

 絶頂まで持ち上げられてから梯子をはずされた気持ちだった。世の中、それほど甘くはなかった。

「その次の週末なら空いてるわよ。二十二日の土曜日の夜、私のアパートで一緒に飲まない?」

「えっ、風花のアパートに行ってもいいの!?」

「いいわよ。二人で飲み明かそうよ」

 アパートで翌朝まで一緒に居ろということは……。私は一気に絶頂に持ち上げられた。ジェットコースターに乗っている気分だ。

「うん! 僕がワインとおつまみを持っていくね」

 結局、風花が私にバレンタインデーの予定を聞いたのは、翌週末に私をアパートに誘うための口実というか、きっかけづくりだったのだ。そう言えば、十二月に住所を聞かれた時も、質問の理由が分からなかったのでヤキモキさせられた。風花は私をハラハラさせるためにわざとそんな言い回しをしているのではないだろうか……。そんなことはどうだっていい。私が残りの一生を風花と共に歩む可能性は極めて高くなった。ドジをしないように、慎重かつ大胆に詰めていかなければと思った。

 * * *

 それからの一週間、喜びを隠すのに苦労した。母とLINEでビデオ通話した時には「中村風花さんを覚えてる? 二月二十二日の夜に二人で飲む約束をしたんだよ」と言いたいのを我慢するのが大変だった。高三のころ、母が授業参観の日の夕食時に「お母さんも美人だけど、あれほどきれいで賢い女の子は珍しいわね」と風花を評したのを覚えていただけに、その子と私が結婚することになりそうだと打ち明けて母を喜ばせたかった。

 今となっては荻原真樹のバレンタイン・パーティーなどどうでもいいというか、中学時代の同級生の女子の別荘に遊びに行ったことを風花に知られるのは非常にまずいと思った。しかし、風花から勝沼で楽しんでくるようにと言われた以上、中止するわけにはいかない。結婚した後で、女友達に誘われて勝沼の婚活パーティに行ったことがバレたら大変なことになるかもしれない……。ここは荻原真樹のパーティーを無難に乗り切った上で、二十二日の夜にでも面白おかしく風花に話して聞かせるのがいい。万一風花が私の気持ちを疑ったら、その場で一気にプロポーズしてもいい。そうだ、その夜に関係を持ってしまって、日曜日には二人の将来についてしっかりと話し合うことにしよう。

 * * *

 二月十四日の朝、私は荻原の指示通りに手ぶら・普段着で午前八時に家を出た。自分を良く見せる必要は全くないので気持ちが楽だった。中央線の快速で高尾まで行き、小渕沢行きの各停に乗り換えて九時四十六分に勝沼ぶどう郷駅に降り立った。

 外は快晴だった。山梨県は寒いだろうと予想していたが拍子抜けだった。駅の出口に雪は見当たらず、左前方に歩くとグーグルマップのストリートビューに写っていた通りのバスの標識が立っていた。

 私は雪のかかった周囲の山を見ながら両手を上にあげて背伸びをした。良い空気だ! 

「理央、同じ列車に乗っていたのね」

 声のする方向を見て目を疑った。そこに立っていたのは風花だった。

「風花……どうして風花がここに居るの?」

「言ったでしょう。従妹に会いに行くって」

「風花の従妹も勝沼だったんだ。秘密にする必要は無かったのに……」

「ゴメンね。理央には事前に言わないようにと真樹から厳しく言われていたんだ」

「えっ、えーっ! 風花の従妹って荻原さんのこと?!」

「そうよ。真樹とは去年の秋にお祖父ちゃんの法事で数年ぶりに会ったんだけど、その時に真樹と理央が中学で同じクラスだったことが判ったのよ。私は別の中学だったし、真樹は一年の時に山梨に引っ越したから、理央と接点があったとは全く知らなかった。真樹の初恋の男の子は私と同じ高校に行った可能性があると真樹が言い出して、その名前が逢坂おうさか理央りおだと聞いて驚いたわ。理央の住所を調べてほしいと言われたから、理央と学食で会った時に聞いたのよ。覚えてるでしょう?」

「あれは荻原さんのためだったのか……。そうならそうと言ってくれればよかったのに」

「くれぐれも理央には気づかれないようにと釘を刺されていたから」

「変なの。でも、その結果として僕はバレンタイン・イベントに招待されたんだよね? 僕と会いたいのなら荻原さんが東京に出てきたときに風花と三人で会うのが簡単なのに、どうしてわざわざイベントに招待したんだろう?」

「さあ……今日荻原さんに会えばわかるんじゃない?」

「男性の会費が三十万円もするようなパーティーに僕を無料で招待するなんて、どうしてなんだろう……。荻原さんから何か聞いてない?」

「知らない……知っていても言えない。真樹に直接聞いて」

「口止めされているなら仕方ないけど……」

 きつく問い詰めると風花とのせっかくの関係にひびが入りそうな気がしたのでそれ以上の質問は差し控えた。私にとって最も大切なことは一週間後の風花のアパートでの飲み会の約束だった。荻原真樹の誘いでパーティーに来たことを隠す必要が無くなったのだから、これで良しとしよう。

「真樹は頭がよくて実行力があるから、今回のような奇抜なイベントを一人で企画できたのよ。あ、イベントの内容は答えられないから聞かないでね。私は協力したわけじゃなくて真樹から頼まれて理央の住所を聞きだしただけ。私もタダで招待されたから、少し迷ったけど参加したのよ」

「風花も無料招待なのか。風花と僕の合計で三十一万円も免除しちゃうと採算が合わなくならない? ていうか、本当に他の男性は三十万円もの会費を払ったのかな」

「それは本当よ。女性は他にも無料招待された人が居るかもしれないけど、男性七人はIT会社社長とか、医者とか、三十万円の会費ぐらい何とも思わない高収入な人たちで、全員東大卒だと聞いてるわ」

「へぇーっ。荻原さんはどうやってそんな人種とコネを作ったんだろう?」

「真樹は東大の起業家サークルでは結構名の知れた存在らしいわよ」

「荻原さんは東大に行ったのか! すごい。でも、どうして高収入・超高学歴の男性と一緒の場に僕を引っ張り出すの? 僕が引け目を感じて居づらくなるということが分からないのかな? 僕、帰りたい……」

「男性の参加者のことまで言うんじゃなかった。つい口が滑っちゃったけど、私はイベントの内容を理央に言わないように口止めされているの。収入や学歴で理央が比較されることは絶対に無いから、帰るなんて言わないで。お願い!」

 風花の顔を潰すわけにはいかない。お願いとまで言われた以上、ドタキャンはできない。

「分かったよ。でも、僕が他の男性との接触を避けられるように、風花はできるだけ僕のそばに居るようにしてよね」

「いいわよ。まあ、真樹が理央を独占したがったら私はオジャマムシにならないようにするけど。とにかく、理央が想像しているような状況じゃないから心配しないで」

 釈然としない話だったが、風花と僕を乗せたマイクロバスは道路わきに雪の残る山間やまあいの道を走り、果樹園の入り口から数十メートル奥に進んだところで停車した。

 山中には不似合いな空間が突然出現したという感があった。大企業の保養所か研修所のような感じのビルの前に数台の車が駐車していた。

「これがなの!? 荻原さんの家って大金持ちなんだろうな」
と言いながらマイクロバスを下りた。

「玉の輿こしのチャンスね、理央!」
と風花がニヤリとした表情で私の顔を横から覗き込んだ。

「そんなこと思ってないよ」
と反射的に答えたのは失敗だった。否定せずに笑い飛ばすべきだったと反省した。一週間後にアパートで飲み明かす予定があるというのに、風花がそんな冗談を口にしたこと自体が不愉快だった。

「うふふ。まあいいって。今日から三日間、私たち二人とも日常を忘れて思いっきり楽しもうよ」

 風花が混じりっ気のない笑顔で爽やかに言い放った。風花が私を同列の親友と思ってくれていることが感じられて、もやもやとした気持ちが吹っ飛んだ。

「うん、二人で一緒に楽しもうね」

 私たちは石段を並んで上がり、ビルの玄関の重々しい硝子戸を開けて中に入った。


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