入れ替わり:満月の夜、満開の桜の下で
【内容紹介】2月、3月と4月の満月の日、河津桜、東京のソメイヨシノ、津軽のソメイヨシノの満開の桜の木の下で世にも不思議なことが起きる。入れ替わった男女が同じ職場で味わう葛藤、焦燥と愛憎。最後まで行方が読めない男女入れ替わりサスペンスで10万文字余りの迫力満点の長編TS小説。登場人物
主人公が勤務する会社の社員
●岩槻文太 主人公。入社三年目。身長百七十八センチのイケメン。木場のアパート在住。
●辻本里帆 同期入社の総合職。身長百六十七センチの長身美女。神楽坂の自宅から通勤。
●沢井雪乃 同期入社の一般職。身長百五十センチの地味な女性。住吉のアパート在住。
●葉山隆平 水野希子の同期の総合職で情報システム部に所属。
●向井紗那 辻本里帆のグループの一般職。
山梨県在住の人々
●栗山琳加 沢井雪乃の中学高校時代の親友。
●沢井綾乃 沢井雪乃の姉。甲府の会社にで総合職として勤務。
●沢井俊介 沢井雪乃の弟。信州大学医学部の五年生。
第一章 新月のバレンタイン
澄みきった空に濃いピンクの桜の花が映える冬の朝、キルティング・ジャケットのポケットに手を突っ込んで川沿いの遊歩道を木場駅に向かって歩く。
大横川沿いの河津桜の並木が開花した頃には春の気配が新鮮に感じられて、毎朝ワクワクした気持ちで家を出たのを覚えている。あれからもう二週間。まだ満開ではないが、濃すぎるピンクの花が物足りなく感じられるようになった。桜はもっと白い方がいい。微かな赤みを帯びた白い桜が僕は好きだ。でも、今日はまだ二月十二日。木場公園のソメイヨシノが開花するのはひと月ほど先だ。
バレンタインデーは冬の季語なのに、僕はソメイヨシノのように美しい女性から愛を告白されることになった。きっとそうなる。そうなることが確実だと思われる。昨日の夜、辻本里帆からLINEで誘われたのだ。
「岩槻君にお話があります。明日の金曜日の午後六時半から夕食をご一緒できますか?」
そのメッセージにはイタリアン・レストランのURLが付記されていた。バレンタインデーの二月十四日は日曜日だから、会社の帰りにバレンタインディナーに誘うとしたら十二日の金曜日ということになるわけだ。個人的な会話を殆どしたことがない里帆から突然声をかけられて何かの間違いではないかと思った。もし「『岩槻君に』話がある」と書いてなければ他の男性あてのLINEを間違えて僕に送ったと思ったはずだ。
里帆は同期入社のLINEグループのメンバーだが、この三年間に一対一でトークを交わしたことは一度もなかった。三年前に同期で入社した総合職の女性は四人だったが里帆はそのうちの一人で、僕と同じ部に配属になった。一般職を含めても同期の女性の中で一、二を争う美人だった。背は女性としては高めでスラリとしていてパンツスーツが似合う。
同期の男性社員は僕が里帆と同じ部になったことを羨ましがっていたが、当初僕は里帆にあまり興味がなかった。いくら美人でも百六十七センチもある貧乳の里帆にはドキドキしなかった。僕のタイプは胸が大きくて、背丈は女性の平均か少し小さめの女の子らしい人だった。
同じ職場だから分かるのだが、里帆には同期の男性社員だけでなく先輩や取引先の男性など、あちこちから誘いがかかる。自他ともに認める美人というものは普段から断り慣れているためか、何の気兼ねもなく平気で誘いを拒否する言葉を口に出せるようだ。いちいち相手の男にすまないという気持ちを抱いていたら身体がもたないのだろうと思う。
僕は女性に優しさを求めていたので、そんな里帆を覚めた目で見ていた。
里帆は僕の知る限り全ての男性からの誘いを断り続け、仕事に情熱を燃やしているようだった。僕自身も仕事を頑張りたいという気持ちが強く、同期の友達と比べると女性に対する興味は少なめだったかもしれない。同じ部に同期入社した総合職どうしとして、僕は里帆を良きライバルと認識していた。里帆も同じような視点で僕を見ていると思っていた。
昨日まで、僕は里帆を特別な目で見ていなかったし、里帆から好かれているという気配すら感じたことがなかった。もしかしたら僕は里帆に特段の興味を示さない唯一の男性だったので里帆が苛立ちを感じ、何かの拍子にそんな男と付き合ってみたいと思うようになったのかもしれない。
会社に着くと里帆は既に出勤しており平然とパソコンに向かっていた。その辺の人たちにまとめて「おはようございます」と挨拶をすると、里帆はパソコンから目を離さずに挨拶を返した。
僕は一日中里帆の動きを強く意識して、つい目で追ってしまった。仕事をしていても手に着かず、こんな毎日が続いたらいずれ重大なミスをするかもしれないと思った。
その日、里帆は午後五時半きっかりに席を立ち「お先に失礼します」と言って退社した。里帆のような美人が金曜の夕方に定刻に退社するのは当然だと誰もが思ったはずだが真相を知っているのは僕だけだった。
僕は六時に会社を出て、指定されたレストランに行った。八丁堀駅から東に数分歩き亀島川を越えたところにあるイタリアン・レストランだった。僕より五分ほど遅れてレストランに入って来た彼女は普段とは全く違っていた。里帆はいつも黒かグレー系のパンツスーツを着ており、夏になると白いブラウスに細身のズボン姿だったが、その夜の里帆は淡いベージュのレースのワンピース姿だった。膝が隠れるほどの丈のスカートがふんわりと揺れて、シンデレラのように見えた。その時初めて僕は里帆が実はとても女らしいということを実感した。
「話って何?」
野暮な質問をしてしまったのは、こんな状況でどんなトークをすべきなのかが頭に浮かばなかったからだ。
里帆は怯むことも気負うこともなく答えた。
「私と付き合ってほしいの。私は岩槻君みたいな男性が好き。百七十七、八センチで、きれいな顔をしていて、毛深くなくて、男らしいけどごつごつしていなくて、眼鏡をかけていなくて、若いうちに禿げそうじゃない髪の毛で……。何よりも健康体だから」
「外観に関することばかりだな。性格とか、頭脳とか、やさしさとか、ヤル気だとか、そういう魅力は無いの?」
「身体は大事よ。中身は私の力で私好みに変えられるけど、外観は変えられない。だから外観とスペックで岩槻君を選んだ」
「そんなことをハッキリ言う女の子は初めてだ」
「女の子? 私は岩槻君と対等な人間よ」
真剣な眼差で予期せぬカウンターパンチを浴びて僕は戸惑った。
「ご、ごめん……。普段の辻本さんは対等な――いや、僕が敵わないほど有能な女性だと認識しているけど、今日の辻本さんはお姫さまみたいにかわいらしい服を着ているから、つい女の子と言ってしまった」
冷や汗をかきながらの言い訳だった。
「私は岩槻君のことをもっと詳しく知りたい。だから私と付き合って」
「よろこんで。でも本当に僕でいいの?」
「岩槻君がいいのよ」
「じゃあ、よろしくね」
里帆が本気なのは確かだと思った。口には出さなかったが里帆は「結婚を前提として」付き合ってほしいという意味で言ったのだ。
それにしても「女の子」と言われてムキになる二十五歳の女性との結婚とはどんなものなのか想像できなかった。仕事上は同期のライバルで、プライベートでは対等……。そんな二人が結婚したら、どんな関係の夫婦になるのだろうか? 僕はそれまで、そんな結婚を頭に描いたことがなかった。相手が里帆ほどの美女でなければ、イエスとは答えなかっただろう。
もしかすると里帆は男性経験が非常に乏しいのかもしれない。モテすぎて、断ってばかりいる人生を送ってきたが、実際に男子と交際したことがないのだ。きっとそうだ。さきほど里帆は僕を自分好みに変えられるなどと言っていたが、僕好みに作り替えられるのは里帆の方だ!
そう考えるとファイトが出てきた。
それから里帆は僕の家族の事、友達の事、趣味、特技や好きな食べ物など、婚活面談のような質問を僕に浴びせた。僕は誠意をもって里帆の質問に答えつつ、里帆にも同じことを質問した――といっても僕からの質問の量は里帆の四分の一ほどだった。
里帆と僕には驚くほど共通点がなかった。里帆は神楽坂で生まれ育ち、今も同じ家で暮らす都会人で、僕は青森県の北端に近い場所で生まれ育った田舎人だ。里帆にとって僕のバックグラウンドは想像を超えるほど興味深くバラエティーに富んでいるのだろうが、僕にとって里帆は大東京のお堅い家で生まれ育った超保守的な女子で、質問する項目を考え出すのも一苦労だった。
里帆がそれほど僕に興味を示さなかったら、そして里帆がそれほど美人で無かったら、二人の話は弾まなかったはずだ。
そのレストランはシーフードが売りのイタリアン・レストランで、僕たちはアンティパストとしてスモークサーモンのカルパッチョ、エビとキノコのアヒージョとムール貝のワイン蒸しを選び、メインとして僕がペスカトーレ、里帆はボンゴレのスパゲッティを注文した。
料理に合わせてハウスワインの白をキャラフェで注文しようとしたところ、里帆は「私は赤ワインにする」と言い出して自分用にデカンタを注文した。
「シーフードは白ワイン、肉料理なら赤ワインと決めてかかる人が多いけど、私は赤ワインが好き。ポリフェノールが喉に絡む感じが心地いいから」
と里帆が物知り顔で言った。
勿論ソースによっては赤ワインが合うシーフードもあるが、ムール貝のワイン蒸しやボンゴレに合うのは白ワインというのが常識だ。初デートで通人ぶった話をすれば里帆に嫌がられるかもしれないと思ったので反論は差し控えたが、ボンゴレが相手でも赤ワインが好きだと断言する若い女性は、かなりの変わり者か、赤ワインについて余程知り尽くした通人のいずれかだと思った。
毎日仕事で接している里帆は知性と常識を兼ね備えた美人との印象だったが、プライベートでは相当なクセがある女性なのかもしれない。里帆とちゃんとやって行けるかどうか不安を感じる。
唯一共通点があると感じたのは音楽だった。里帆は中学二年までピアノを習っており「ショパンは無理だがトルコ行進曲とか月光なら今でも弾ける」とのことだった。僕は楽器を習ったことがなく楽譜は殆ど読めないがクラシック音楽の鑑賞は好きだ。特にショパンのポロネーズを聞くと心が晴れやかになる。
僕がそう言うと、
「ショパンのポロネーズなら辻井伸行が最高」
と里帆が言い出した。
「気取ることも気負うこともなく自然に淡々と弾いているけど、一つ一つの音が透明で、キラキラ輝いている。辻井伸行は盲目の天才ピアニストと褒めたたえる人が多いけど、それは辻井伸行に対して失礼だと思う。盲目であろうがなかろうが、ショパン本人が私たちに伝えたかった音楽をそのまま聞かせてくれる最高のピアニスト、それが辻井伸行よ」
たまたま僕がネットで幾つか試聴して選んだ結果購入したCDが辻井伸行のものだったので僕は驚いた。そう言うと里帆は嬉しそうに微笑んだ。
「僕はネコふんじゃったしか弾けないからピアニストを批評する能力はないけど、辻本さんと感性が似ていると分かってうれしいよ」
里帆と結婚して、一緒に辻井伸行の音楽を聞く自分を頭に描いた。先ほど変人ではないかと疑った里帆が、一転して好ましい女性に見えるようになった。
料理を食べ終えワインが空になると「そろそろ出ましょう」と里帆が言った。時計は午後八時半を指していた。
「次はいつ会える?」
と僕はストレートに質問した。
「二月二十七日の土曜日に会って。岩槻君の最寄りの駅は木場よね。私の家は神楽坂だから東西線で十六分で行ける」
二週間も先の日程を指定されたので面食らった。これではまるで遠距離恋愛だ。しかし僕はひるんだ様子を見せないように答えた。
「じゃあ、お昼を神楽坂で一緒に食べることにしよう」
「いいえ、私が木場まで行く。東京の真ん中だと誰に見られるか分からないから」
「木場は深川だからバリバリの東京だよ。でも、会社の人と会う可能性は隅田川の向こう側の方が低いのは確かだ」
里帆に話を合わせたが、神楽坂に生まれ育った人が荒川より向こう側を中心から外れた場所だと感じるのはある程度やむを得ないにしても、荒川よりも手前にある江東区を差別するのはおかしいと思った。
里帆は伝票を手に取ると「ペイペイが使えるのね」と言ってレジに向かった。僕は女の子と食事をする時は全額払う主義だが、里帆の性格から判断すると、里帆が折半を主張するだろうと思ったので、そのまま里帆にペイペイで払わせた。ペイペイなら後で僕が半額を里帆に送金すればいいから便利だ。
「ペイペイのIDを教えて」
と言うと、里帆は首を横に振った。
「私が誘ったんだから私のおごりよ」
「でも、デート代を女の子に払わせるのは――あっ、ごめん。『女の子』じゃなくて『女性』の間違いだった。男女は対等だから割り勘にすべきだ思うけど……」
里帆は取り合おうとせず、結局初デートは里帆に全額を払わせる結果となってしまった。同年代の女の子と食事をしておごってもらったのは初めてだった。僕のことを大切に思っていなければそんなことはしないだろうが、何となく上から目線で扱われた気もするし、後ろめたさも残った。
次のデートの日程と言い、全てが里帆のペースで仕切られている。不安を感じるが里帆についていくしかなさそうだ。今夜はレストランを出た後でロイヤルパークホテルのバーに連れて行き、あわよくばどこかのホテルか僕のアパートでベッドインという期待を抱いていたが、そんな甘い手口が通用する相手ではないことを実感した。
レストランを出て八丁堀駅の方へと歩き始めた。亀島川の橋にさしかかったときに里帆が言った。
「もう一軒付き合ってもらっていい?」
「も、もちろんだよ!」
心臓がバクバクした。本来僕から言い出すべきことなのに、里帆に言わせてしまった。いや、里帆はリードするのが好きなのだ。こんな風に不意打ちを食らわせて、僕にハイと言わせて、お酒を飲ませて、そしてホテルに誘う……。
橋を渡ると八丁堀駅の手前を川沿いに左折した。里帆は僕を連れて行くバーを予め決めているのだと直感した。そしてバーの後でどのホテルに行くかも……。
しかし、里帆が入った店のドアには「カフェ」と書かれていた。
「アルコールはないみたいだね」
と呟つぶやくと里帆はそれを質問とはとらえずに、
「カプチーノでいい?」
と聞き、僕の返事を待たずにカプチーノを二つオーダーした。
勝手に決める里帆に軽い苛立ちを感じた。僕の意向を無視・軽視するつもりはなく、何でもリードする性格なのかもしれないが、僕は女の子からこんな風に仕切られることには慣れていなかった。今後も、里帆は二人の関係を僕にリードさせることはないだろう……。
カプチーノをすすりながら里帆はスマホをいじっていた。自分から付き合ってくれと申し込んだくせに、僕とのデート中に他の人とLINEのやりとりとかをするのは、その人の性別にかかわらず控えてほしいと思った。
「今日が新月だと知っていた?」
と里帆から唐突に聞かれた。
「二、三日前に下弦の月がすごく細くなっているのを見たからもうすぐ新月かなと思っていたけど、今日が新月だとは知らなかった」
「上弦の月と下弦の月の違いを知っていたのね。男性には珍しいわ」
「月が沈むときに弦がどちらを向いているかで上弦の月と下弦の月を見分けると小学校で習ったから」
「月の満ち欠けは女性にとっては大切だけど、男性にとってはどうでもいいことだから」
と里帆が意味ありげに言った。月経に絡めた冗談を言っているのかと思って顔が赤くなった。
「新月の夜に桜の花が咲く木の下でお祈りをするとイシスに近づくことができるのよ」
「イシス?」
「イシスは古代エジプト神話に出てくる女神よ。豊穣の女神でありながら、月の女神、復活の女神、魔術の女神でもある」
「へえ、そうなんだ。でも、月の女神なら女性の願いしか叶えてくれないかもしれないよね」
「そうかもしれない。でも、岩槻君にも付き合ってほしい」
「喜んで! じゃあ、寒桜が咲いている場所に行かなきゃ。木場駅から僕のアパートへの川沿いの道に河津桜の並木がある。まだ満開じゃないけどかなり咲いているよ」
もしかしたら里帆は木場の河津桜のことを知っていて、新月の夜に桜の下でお祈りをしたいと言い出したのかもしれない。僕が彼女をアパートに連れて帰るシチュエーションを作ろうとしてリードしてくれているのだ!
「ウフフフ、そんなに遠くまで行かなくても大丈夫よ。さっき橋を渡った時に河津桜が咲いているのに気がつかなかった? このカフェのすぐそばの川沿いよ」
「そうなんだ。気がつかなかった……」
その時、背後で聞き覚えのある声がした。
「辻本さん、偶然ね。もしかして、前に座っているのは岩槻さん?」
びくっとして振り返ると同じ部の沢井雪乃が立っていた。雪乃は同期入社の一般職社員で僕のグループのアシスタントだ。
「ヤバイ、見られちゃった」
「辻本さんと岩槻さんが付き合っているとは知らなかったわ」
「お願い、誰にも言わないで」
「言わないわよ。私は口が堅いから心配しないで」
「恩に着るわ。大きな借りが出来ちゃった」
「今、桜の木の下でお祈りをすると言っているのが聞こえたんだけど、私も仲間に入れてくれない? 一人じゃできないはずだから」
「イシスの伝説を知っているの?」
「知っているわ。今日お友達と食事の後でこの近くの川沿いの河津桜の下で一緒にお祈りするつもりだったんだけど、お友達に急用ができて先に帰っちゃったのよ。辻本さんたちに会えてよかった」
「じゃあ、カプチーノを飲み終えたら一緒に行こうね」
と里帆が答えて、僕も頷いた。
「本当は今日気づいていたのよ。岩槻君が辻本さんの顔をチラチラ見てはため息をついているのが痛々しかった。私が仲を取り持ってあげようかなと思ったぐらい」
岩槻君と呼ばれて立場が弱くなったのを感じた。雪乃は僕を含む三人のアシスタントをしている一般職社員で、仕事上は僕を『岩槻さん』と呼んで敬語で話すが、同期入社なので飲み会などで個人的な話になると『岩槻君』と呼ばれたことは過去にもあった。
雪乃はいわゆるブスではないが、若い女性としては地味な存在であり、雪乃自身も人からそのように思われていることを認識しているようだ。雪乃は、ぱっちりとした意思の強い目と独特の雰囲気を持っているが、百五十センチあるかないかの小柄な女性だ。同期で華やかな長身の美人である里帆と同じ職場に居ることで損をしていると言える。ただ、仕事は非常に優秀で、女子大卒の一般職としては珍しく勉強家だった。一緒に仕事をしていてハッとさせられたこともある。
雪乃はあらゆる意味で僕のタイプの女性ではなく、雪乃が僕を異性として意識していないことも以前から分かっていた。自分で言うのも変だが、僕は長身でイケメンの部類に属し、女の子の扱いも上手な方なので、適齢期の女性は僕に「異性としての何らかの反応」をするのが普通だ。雪乃は特に彼氏がいる気配はないのに、僕を異性として気にかけている反応を示したことがなかった。
「辻本さんと岩槻君はとてもお似合いよ。同期の美男と美女がカップルになったと分かってお祝いしたい気持ちよ。おめでとう」
目の前にいる同性の里帆を美女と呼んだが、雪乃の言葉にはイヤミが感じられず、里帆も否定や謙遜をしようとはしなかった。里帆と雪乃は仕事上でも総合職と一般職であり、特に親しくしている様子に気づいたことはなかったが、僕の知らないところで関係があったのかもしれないと思った。
コーヒーを飲み終えてカフェを出ると、すぐ近くの川沿いに河津桜の木が二本立っているのが見えた。先ほどカフェの方へと歩いてきた時に視界に入っていたはずなのだが、僕の頭の中は里帆とホテルに行きたいという妄想に囚われていたから気づかなかったのだ。いずれにしても、雪乃と出くわしてしまったから、この後で里帆とホテルに行く可能性はなくなったと言える。
「もう少しで満開ね」
河津桜を見上げて雪乃が言った。ハイヒールを履いている里帆の肩までの背丈しかない雪乃が子供のように見えた。
「こちらの木がいいわ」
二本の河津桜はいずれも劣らず見事な花を咲かせていたが、里帆はそのうちの一本に近づき、雪乃と僕は里帆について行った。
「木を囲んで手をつなぐのよ」
里帆は右手で僕の左手を握り、左手を雪乃とつないだ。僕と里帆が女神に祈りを捧げる時に、第三者の雪乃が輪に入ることには違和感を拭えなかったが、これは恋人どうしのゲームの中でのパフォーマンスなのだと割り切った。
「新月が三日月に、そして下弦の月を経て満月になって、更に上弦の月を経て再び新月になる姿を頭に描いて。そんなサイクルが永遠に続くのを想像しながら、イシスに願いを届けるのよ」
僕は何を祈るのかをまだ決めていなかった。里帆から告白された初デートの夜だから、里帆との関係がうまく行きますようにと祈るのが自然かもしれない。結局、僕は里帆との関係だけについて祈りを捧げることはせず、津軽に居る僕の家族、それに里帆と僕自身、ついでに一緒に祈りに加わった雪乃を含めて大勢の人たちを頭に浮かべながら、皆が健康で幸せに過ごせますようにと祈った。
その時、里帆と雪乃の手の温もりを感じつつ身体の芯から何かがスーッと桜の木の幹に吸い上げられて、真っ暗な月へと飛んで行ったような感覚があった。それは経験したことがない不思議な快感だった。僕は月の女神と心が通じたような気がした。
第二章 満月の河津桜
月曜日に出勤すると、何事もなかったかのように里帆と挨拶し、お互いを単なる仕事上の同僚として接した。里帆がそんな役を完璧に演じたので僕も仕方なく里帆に合わせたと言うべきかもしれない。
雪乃は里帆に劣らず優秀な女優で、僕の秘密を知っていることなどおくびにも出さず普段通りにアシスタントとしての仕事をこなしてくれた。里帆との間で不自然な視線のやりとりも感じられず、きっと雪乃は里帆と僕の関係について他言しないだろうと思った。
ただ、実際には僕と里帆が付き合っていることが社内でバレても特に不都合はない。友人からは「あの美人をよく仕留めたな」と感心されるか「同じ職場になってラッキーだったね」と言われるだけだ。バレれば僕たちの関係が公知の事実となって結婚が早まることになるかもしれない。
僕は仕事中に里帆をチラチラ見ないように気を付け、里帆への想いのせいで仕事が上の空になることはなかった。里帆とは一日おきにLINEで差しさわりの無いメッセージを交わすだけだったが、思い思われているだけで僕は幸せだった。里帆は普通の「彼女」とは違う。里帆のように、ある意味で男っぽく、クールな女性と付き合うのも意外に良いものだなと思うようになった。
二週間があっという間に過ぎて二月二十七日の土曜日になった。里帆との二度目のデートの日だ。晴れ上がった寒い日だった。
僕は午前十一時五十五分に木場駅の改札で里帆を出迎えた。里帆はタイトフィットの茶色のパンツにダウンジャケットというボーイッシュな姿で現れた。底の厚いサンダルを履いているせいで、信じられないほど脚が長い。向かい合うと目の高さが僕と同じだった。
腕を組まず、手もつながずに並んで歩いた。橋を渡って大横川の南側にあるタイ料理の店に里帆を連れて行き、カオマンガイを注文した。カオマンガイとはジャスミン米を鶏のダシで炊いたご飯に鶏肉をのせ、独特の甘辛いタレをかけて食べるタイ料理で、卒業旅行でタイに行った時以来の好物だ。二度目のデートに連れて行く店としては庶民的すぎるかもしれないが、里帆にもタイ料理を好きになってもらいたかった。
「カオマンガイは初めて食べたわ。グリーンカレーとトムヤンクンも好きだけど、これもすごく美味しいわね」
「日本人の口に合うのはカオマンガイだと言う人も多いみたいだよ。いつか一緒にタイに行きたいね」
そう口にした後で、僕はプロポーズに近い発言をしてしまったかもしれないと気づいた。しかし里帆は僕の質問には答えずに、
「トムヤンクンに入っているパクチーの香りが好きなのよね」
と話を逸らした。
「岩槻君は飛行機に乗り慣れているから気軽に海外旅行できるのね」
「乗り慣れていると言うほどじゃないけど……」
「青森出身なんでしょう? 帰省するときは当然飛行機よね?」
「いや、鉄道も使えるよ。青森と言っても僕の故郷の今別町は津軽の北端に近いところだから本数は限られてるけどね」
「私、列車に長時間座るのは苦手だわ」
これは僕と一緒に今別に行くことを前提にしたひとことだ! 僕は大いに勇気づけられた。
「羽田から青森空港まで飛べば、レンタカーで一時間ちょっとで行けるから心配ない。今別はいい所だよ」
実際に飛行機で帰省したことはない。本数は少ないが、北海道新幹線で奥津軽いまべつまで乗り換えなしで行けるし、親が車で新幹線の駅まで迎えに来てくれるから楽だ。しかし、僕は列車が苦手と言う里帆を相手に今そんな説明をするほど愚かではない。
カオマンガイを食べ終えると里帆が言った。
「いい店を選んでくれてありがとう」
「気に入ってくれてうれしいよ。コーヒーを注文しようか?」
「コーヒーはこれから行きたい店があるんだけど」
「木場にあるの?」
「清澄白河よ。ここから徒歩で二十分ほど」
里帆は清澄白河がコーヒーの聖地として有名になったことを知っており、どのコーヒーショップに行くかを予め調べてきたようだ。もし里帆が何もかも自分で仕切るタイプの女性だと知らなかったら、僕のテリトリーでのデート・コースまで勝手に決めてきたことに腹が立っていただろう。自尊心は多少傷ついたが、デート・コースを自分で決める女性なら後で不満を持たれたり文句を言われることがないから楽かもしれない。
僕がトイレに立って戻ってくると、里帆は既に勘定を済ませていた。
「前回は辻本さんが払ったから、今日は僕に払わせてよ」
と財布を出したが里帆は取り合おうとしなかった。
「デートで女性ばかりが払うなんておかしいよ」
「どうして?」
「男が払うのが普通だし、最悪でも割り勘じゃないと……」
ジェンダー平等を崩すようなことを言ったら逆鱗に触れるかもしれないと思って歯切れが悪かった。
「岩槻君にお金を使わせたくないから」
「どうして?」
「どうしてもよ。もうお金のことは言わないで」
ピシャリと話を打ち切られてしまった。
これではまるで女の子の役でデートしろと言われたようなものだ。カオマンガイは一人千円でお釣りがくるから大した金額ではないのだが、この分だとコーヒーショップでも里帆が払うことになりそうだ。
きっと里帆は結婚をごく近い将来のことと想定しており、もうすぐ夫になる僕にお金を使わせないように配慮しているつもりなのかもしれない。里帆と結婚したら尻に敷かれて財布のひもを握られるどころか小遣いの使い方まで細かく管理されるのが目に見えている。そう思うと少し憂鬱だ。
里帆はグーグルマップを見ながら富岡八幡宮に立ち寄り、境内を抜けて清澄白河方面へと歩いた。木更木橋で仙台堀川を渡るとブルーボトルコーヒーというコーヒーショップに入った。大きな工場のような天井の高い建物の中がカフェになっている有名な店だ。そのカフェのことはテレビやネットでも見て知っていたが、一緒に行く相手がいないので、入ったことがなかった。
コロナの影響で席の数を減らしているのか店内は満席だったが、恋人どうしでオシャレな店に来ていると思うだけで心が弾んだ。予想通り代金は里帆が当然のように支払い、僕は周囲の客に聞こえないように「ごちそうさまでした」と里帆の耳元で囁いた。
ブルーボトルコーヒーで一時間近くゆっくりしたが、店を出て二分も歩かないうちにもう一軒のコーヒーショップに入った。
「門仲から清澄白河へのコーヒー巡りには欠かせない店なのよ」
と里帆がいつもの物知り顔で言った。深川の人が門前仲町を門仲と略すのは良いが、他の地域から来た人が門仲と言うのは、何か唐突だし土足で入ってこられるような気がして好きではなかった。それでも僕は敬意を込めた微笑みを繕って、
「へえ、そうなんだ! 近くに住んでいるのに知らなかったよ」
と言って里帆をいい気分にさせることに徹した。
里帆がメニューを見てドリップコーヒーを買ってくれた。僕はもう逆らわずに「どうもありがとう」とお礼を言った。コーヒーを飲みながら里帆はグーグルマップで次に行く場所をチェックしているようだった。僕はコーヒーを続けて何倍も飲んでも大丈夫な方だが、里帆も同じようにカフェインには強いようだ。
思った通り、里帆は更にもう一軒のコーヒーショップに入って、今度はモカを注文してくれた。僕の好みを聞かずに勝手に注文されることにも慣れて、僕は女の子のように「すっごくおいしい!」と感激の気持ちを表した。
「モカはローストをどこで止めるのかが難しいのよ。マイルドすぎると泥臭くなるし、シティーローストに近づけるとモカらしさがなくなるから。ここのモカはネットで評判が良かったけど、期待通りだわ」
「辻本さんってコーヒー通なんだね。すごーい!」
と僕は素直に尊敬の気持ちを表した。
里帆の扱い方が分かった気がした。里帆にはしっかりとした自分があって、オタク男性並みのこだわりを持っている。リーダーシップと言っていいのかどうかは不明だが、相手を自分の思い通りに引っ張っていこうという強い意志がある。里帆を女の子と思ったから違和感があったのであり、リーダータイプの男だと思って付き合えばいいのだ。何かにつけて持ち上げておけば、こちらは気を使わなくていいし、お金もかからない。
その店を出ると、清澄公園の手前にあるコーヒーショップに行き、午後四時半過ぎにその店を出た。
「次はどこに連れて行ってくれるの?」
と僕は少し悪乗りして里帆に質問した。
「木場公園の東側にある桜並木まで行くわよ」
「その川沿いの道は僕の通勤路なんだ。今朝もその道を歩いて木場駅まで辻本さんを迎えに行ったんだけど、河津桜が満開ですっごくきれいだよ」
「ここから徒歩で二十分ほどの距離ね。五時ごろ着くからちょうどいいわ」
なぜ五時に着くのがちょうどいいのか分からなかったが、里帆は桜を見た後で木場駅近くのレストランで夕食を一緒にするつもりなのだろうと推測した。どこに連れて行ってくれるのだろう? 里帆の事だから食事の後に行くラブホテルまで決めているかもしれない。平気で受身の発想をするようになった自分が怖いが、何が起きるか予想がつかないのでドキドキする。
木場公園に北東角から入って噴水広場の方へと進むと木々の間に濃いピンクの桜の花が垣間見える。公園内の歩道を通って南東出口を抜けると、道路の向こうに河津桜の見事な並木が見えた。橋を渡って川沿いの小径に入った。
「毎朝こんなにきれいな桜を見ながら通勤できるなんて岩槻君は幸せね」
里帆が心から言っていることが感じられて、僕も幸せな気持ちになった。やはり女性は花を愛でる心がある人がいい。
「辻本さん、こっちよ!」
自分の目を疑った。十メートルほど先の桜の木の下で手を振っているのは沢井雪乃だった。
「どうして沢井さんが……」
雪乃と会うことを里帆は知っていたのだろうか? 里帆から三歩遅れて雪乃のところまで行った。ベージュのニットの脛丈のワンピースの上にジャケットを羽織った小柄な雪乃は実際の年齢より幼く見えた。
「待った?」
「さっき着いたばかりよ」
「僕には状況が読めないんだけど……」
「岩槻君とのデートの後で沢井さんと会う約束をしていたのよ。沢井さんもこの近くに住んでいるからちょうどいいと思って」
二人で夕食を食べてホテルに行くコースを思い描いていた僕は、心底がっかりした。
「沢井さんは東西線じゃなかったよね?」
と僕は落胆を表情に出さないように努力しながら話題を逸らした。僕は茅場町駅で東西線に乗るが、雪乃が水天宮前駅から通勤していることは知っていた。
「半蔵門線の住吉駅の近くよ。猿江恩賜公園の横にあるアパートに住んでる。今日はここまでバスで来たけど、歩けない距離でもないわ」
「ふぅん、そうなんだ」
雪乃が大きめのショルダーバッグから缶ビールを取り出したので僕は驚いた。
「辻本さんに言われた通り、ビールとおつまみを買ってきたわよ」
その時やっと僕の置かれたシチュエーションが理解できた。二人で昼食とコーヒー聖地巡りのデートをしてから、雪乃を交えて花見をするというシナリオが里帆の頭の中にできていたのだ。立ち飲みでの宴会では酔えないかもしれないが、宴会の後で僕と別れて雪乃のアパートで女子会をするのか、三人で二次会をするつもりなのか僕には分からない。先のことをいちいち気にしていては里帆とは付き合えない。里帆に合わせて、雪乃との立ち飲み同期会を楽しもうと思った。
缶ビールを手に持って乾杯した。太陽が低くなって冷え冷えとしてきたが、雪乃が近くのコンビニで買って来ていた厚焼き玉子とポテトチップスを食べていると宴会気分になってきた。三年間同じ部で働いたがつい最近まで里帆と僕は個人的な関係はなく、雪乃は職種が違うこともあって、三人での同期会など頭にも浮かばなかった。初デートを雪乃に目撃されていなかったら、三人で花見の宴をすることは一生なかっただろう。
「満月まで、あと十一分よ」
と里帆が唐突に言った。
「そう言えば、まだ夜じゃないのにお月さまがきれいだね。でも、どうしてあと十一分なの?」
「満月が真円形になるのが今日の十七時十八分なのよ。満開の花を咲かせる桜の木を取り囲んで月の女神に祈りを捧げましょう」
「ワクワクしてきた。ロマンチックだね」
と僕は思ったことを口に出した。
「余計な女が紛れ込んでムードをこわしちゃってゴメン」
「とんでもない。同期入社した三人が満月の祈りを共有できるのは素晴らしいことだよ」
桜の木を三人で囲んで立った。里帆がバッグから小瓶を取り出した。
「さくらんぼとハーブのお酒よ。これを飲んで祈るの」
里帆はさくらんぼ酒を口飲みして、小瓶を雪乃に手渡し、雪乃も口飲みして僕に渡した。雪乃と同じ瓶から口飲みすることには躊躇いがあったが、僕は小瓶に残ったさくらんぼ酒を飲み干した。アルコールとハーブで喉がカーッと熱くなった。
里帆は右手で僕の左手を握り、僕も雪乃と手をつないだ。新月の夜に八丁堀の河津桜を取り囲んだ時と同じように、僕たちは強く手をつなぎ頭上の桜の花を見上げて月の女神に祈った。
里帆、雪乃と僕が、そして三人の家族も健康で幸せに過ごせますように……。里帆と雪乃の手の温もりを感じつつ身体の芯から何かがスーッと桜の木の幹に吸い上げられて、満月に向かって飛んで行ったような感覚があった。新月の夜に体験したのと同じで、三人が一緒に月の女神に召されたかのような不思議な快感だった。
どれほどの間、そうしていたのかは分からない。気がつくと陽は落ちて東京の方の空が赤くなっていた。
「私たちの願いはきっと叶えられる」
と里帆が言って、雪乃と僕が大きく頷いた。
吐き気がして頭がくるくると回っている。缶ビール一本とさくらんぼ酒しか飲んでいないのに……。足元がふらついて立っていられなくなった。里帆と雪乃が僕に肩を貸してくれなかったら、その場に倒れていただろう。
「ここで眠ったら凍えるからタクシーを拾おう」
里帆と雪乃のどちらがそう言ったのか定かではない。タクシーに乗せられたことはうっすらと覚えているが、そのままスーッと気が遠くなった。
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