【紹介】分子生物学的SF。男性を女性化させる新型コロナウィルスが地球を襲う。新型コロナ肺炎が変異種を含め制圧されて間もなく、別のコロナウィルスが全世界を混乱に陥れる。それは男性だけがかかり、ひとたび発症すると体が女性化して胎内に双子を宿すという病だった。

Covid-MTF:男が女性化するパンデミック

Covid-MTF
男が女性化するパンデミック

Preface

新型コロナ肺炎が変異種を含め制圧されて間もなく、別のコロナウィルスが全世界を混乱に陥れる。それは男性だけがかかり、ひとたび発症すると体が女性化し、胎内に双子を宿すというやまいだった。

登場人物

主人公 鹿沼かぬま賢太けんた
妻  鹿沼凛子りんこ
長女 結菜ゆいな
次女 紗菜さな
三女 陽菜ひな
四女 風菜ふうな
五女 美菜みな
六女 夢菜ゆめな
主人公の友人 上条由紀かみじょうゆき

賢太の産休

賢太は大きなため息をついた。
「僕が産休を取る日が来るとは思わなかった」

 鹿沼かぬま賢太けんたが勤務する大手商社は「女性が働きやすい会社ランキング」の上位に名前が出る会社で、出産後8週間は男性も最大4週間の育休が取れるし、それ以降も妻の負担が軽減できるように何度もまとまった休暇が取れる制度になっている。しかし、商社マンは多忙でスケジュールが詰まっており海外出張も多いので、実際には男性がまとまった育休を取る例は稀だった。

 賢太のような営業部門の社員のスケジュールは取引相手の都合に振り回されるし、突発事項も多いので夏休みや正月休み以外には長期休暇を取るのは困難だ。一方、管理部門の場合は自分でスケジュールを立てやすいし総合職社員の女性比率も高いので男性も産休を取りやすい。

 妻の凛子りんこの2度の出産時にも賢太は産休を取得しなかった。凛子は静岡の実家に帰って出産したので、里帰りから戻ってくるまで賢太は手伝う必要がなかったからだ。凛子が赤ん坊を連れて家に戻ってきてからも、賢太は週末以外は殆ど手伝いもせず、家事と育児は凛子まかせだった。凛子からはしょっちゅう文句を言われるが、商社マンは高収入なので賢太が仕事に没頭する方が効率がいいということで暗黙の合意が成立していた。

 しかし今回は根本的に違う。妊娠したのは賢太本人だった。

 賢太が取れる産休は産前14週間、産後8週間の計22週間だ。一般的な産休は産前6週間と産後8週間の合計14週間だが、双子を妊娠しているので長期の産休を取得できるのだ。

 出産後は子供が1歳になるまで産後休暇を取得する予定だが、認可保育所に入所できる可能性は極めて低いので、2歳まで育児休暇を取得することになりそうだ。産後6ヶ月は賃金の67%、その後は50%の育児休業給付金が支給され、厚生年金や健康保険などの社会保険料も免除される。

 凛子と話し合った結果、凛子は以前勤めていた銀行に復職し、3歳の結菜ゆいなと1歳の紗菜さなの育児と家事を賢太が担当するという方針が決まった。双子が産まれたら賢太が4人の育児をすることになる。ひとりでできるかどうかは自信がないがやってみるしかない。

 凛子は理路整然と賢太を説得した。

「あなたが結菜ゆいな紗菜さなの子育てを引き受けてくれないと私はフルタイムの仕事にはつけないわ。どうせあなたは産前産後は休まなきゃならないし、半年後に仕事に戻るとしたら2人の赤ん坊の面倒は誰が見るの?」

「君が銀行を辞めて4人の子育てをした方がいいんじゃないかな」

「どうして?」

「やっぱり子供は母親が一緒に居た方が……」

「だからあなたが子育てと家事に回った方がいいんじゃない! いい? あなたは結菜ゆいな紗菜さなにとっても母親になるのよ。あなたも私も母親だということを忘れないで。そして赤ちゃんに授乳ができるのはあなただけ。結菜ゆいなが生まれた時に私が専業主婦になったのは、あなたが子供は母乳で育てた方がいいと言って譲らなかったからよ。忘れたとは言わせないわよ」

「そりゃそうだけど……保育所に預けて君も僕も働くのはどうだろうか?」

「じゃあ、4人が入れる保育所をあなたが見つけてきなさい。4人とも入所できる目途が立ったら、もう一度話し合ってもいいわ。でも、4人を保育所に入れるのに幾らかかると思っているの?」

 賢太は地理的に送り迎えが可能な保育所をリストアップして片っ端から電話をかけたが結果は散々だった。既に男性人口の約1%が双子を妊娠しており、ただでさえ逼迫していた需給が極度にタイト化していた。どの保育所も順番待ちの長いリストができており、抽選で当たる可能性は非常に低そうだった。

「できれば4人を同じ保育所に入れたいのですが」
と賢太が言うと、電話の相手が笑い出した。

「日本中を探してもそんな保育所は見つかりませんよ。鹿沼さんがご自分で保育所を作ったらどうですか?」

 保育所不足が深刻化していることは政府も承知しているが、打つ手がない状況だった。女性の人口は急増したが増加分の全員が妊婦であり、保育士の成り手は減少している。また、女性保育士の夫が妊娠、出産して夫の収入が減少すると、女性保育士がより高収入な職種へと転職する傾向が顕著になった。男性が妊娠・出産して働き手が減った分を穴埋めするための求人が増えた結果、従来は考えられなかった高収入な職種への転職が可能となっていた。

 保育園も保育士の給与待遇を改善しており、政府も支援を開始したが、給与を多少上げる程度では保育士の需要増に追い付かないのが現状だった。従来保育士の重要な供給源だった東南アジア諸国も日本と同様な状況にあり、今後保育士の需給を改善できる手立ては無さそうだ。

「どう、保育園は見つかりそう?」
と凛子に聞かれて、賢太は口ごもった。

「聞かなくても分かっているくせに……」

「もし4人を入所させられたとして、あなたの給与で4人分の保育料を払えるの?」

「産後6ヶ月以降は50%の補助になっちゃうから……」

「ほらね。どう考えてもあなたが4人の子育てを担当するしかないのよ。それに、私は思ったよりいいお給料がもらえそうなの。銀行の男性社員がどんどん休職していくから、私のような国際金融業務の経験者は引っ張りだこなのよ。元の勤め先の人事部に復職を交渉しているうちに、ビズリーチ経由でM銀行からオファーがあって、明日面接を受けに行くことになったわ」

 ビズリーチからコンタクトがあったということなら、凛子はM銀行に総合職として就職できる可能性があるということだ。しかし、賢太は素直には喜べない気持ちだった。

 その翌日、賢太はツワリがひどくて会社を早退したが、午後6時に凛子が意気揚々とした面持ちで帰宅した。

「就職が決まったわよ! もう生活に不安はないわ。私がM銀行でいくらもらえるか知りたい?」

 凛子の年収を聞いて賢太は驚いた。賢太の年収よりも50%以上多かったからだ。

「明日からでも来て欲しいと言われたけど、来月1日からにしてもらったわ」

「来月1日までだと2週間しか無いじゃないか! 結菜ゆいな紗菜さなを預ける保育園はそんなに簡単に見つからないぞ」

「高い保育料を払えば預けられるところは見つけてあるんだけど――あなたがすぐに会社を休んで、結菜ゆいな紗菜さなの面倒をみるのが得策よ」

「それは無理だよ。産前休暇の期間が始まるまで何とか勤務を続ければ、生後6ヶ月からは2歳になるまで給与の50%がもらえるんだよ」

「あなたの給与の50%では大した金額にならないわ。いずれにしても生まれてくる子供が2歳になったらあなたは辞めなきゃならないのよ。私はあなたと4人の子供たちを養うのに十分な給料を稼げるんだから、私が仕事に専念できる態勢にするのが得策だってこと、あなたにも分るでしょう?」

「僕にすぐに会社を退職して専業主婦になれと言うの?」

「そうよ。一方が専業主婦になるのと共働きはどちらがいいかという議論は、私たちが結婚した時に十分に戦わせたわよね。その結果、今までは私が専業主婦を引き受けた。賢太は会社を辞めて子育てと家事に専念するのよ。私が外で存分に戦えるように私の身の回りの世話もしてよね」

 まるで命令のような口調で凛子がそう言った。賢太は妻からファーストネームで呼ばれたのがショックだった。結婚して以来、「あなた」と呼ばれてきたし、名前を言う必要がある時には必ず「賢太さん」だったのに……。

 反論したかったが、喉に声が詰まって言い返すこともできずに涙が出てきた。凛子は賢太を抱きしめて言った。

「賢太、今まで外でよく頑張ったわね。ご苦労さま。これからは私が賢太と子供たちを食べさせてあげるから、賢太は全てを私に任せてついてくればいいのよ」

 以前の賢太ならムキになって反論していたはずだが、涙が滝のようにあふれ出て嗚咽が止まらなかった。涙もろくなったのは女性ホルモンのせいなのかもしれない。泣きじゃくる賢太の頭を撫でながら凛子が続けた。

「明日会社に行って退職の手続きをしてきなさい。ツワリがきついから仕事を続けるのは無理だとでも言えばいいわ。会社としても産後2年で辞める可能性が高い従業員が早めに退職するのは大歓迎だから、急に辞めることの不便ぐらいは何とかしてくれるわよ。いいわね」

「うん、分かった。君の言うとおりにするよ」

「賢太、これからは私が主人なんだから『君の言うとおりにするよ』じゃなくて『あなたのおっしゃる通りにいたします』と言うべきなんじゃないの?」
と言ってから数秒経って、
「今のは冗談よ、アハハハ」
と凛子は笑った。

 それは賢太にはとても冗談に聞こえなかった。

 

 全てはパンデミックのせいだった。新型コロナ肺炎はワクチンの投与の進展とともに沈静化し、変異種の流行も、対応するmRNAワクチンの臨床試験が速やかに実施されて沈静化した。しかし全世界の人々が"Covid-19 is over"と喝采したのは束の間で、新たな感染症があっという間に世界中に広がった。病原の実態がコロナウィルスであることが判明し、Covid-MTFと名付けられた感染症が古今未曽有の病魔を人類にもたらした。

 Covid-MTFは老若男女を問わず人類全体への強い感染力があり、発見から約3ヶ月後には全人類の97%がPCR検査で陽性となった。それは男性にしか発症しない「病気」だった。最初の1年間で男性の人口の1%にあたる60万人が発症した。発見後まだ2年しか経過していないので今後の推移を見守る必要があるが、抗体は発見されておらず、全男性が感染し潜伏状態にあると考えられる。すなわち、毎年男性人口の1%が新たに発症すれば、全男性が発症するには100年間かかるという計算になる。

 発症当初は極めてマイルドな症状しか現れず、Covid-MTFの実態が知られていない頃には発症しても約1ヶ月ほど気づかなかった人も多かった。初期の症状としては乳首が敏感になり、乳首の先端が物理的に刺激されるとチクリ乃至ないしはズキンとした痛みが走る。徐々に乳首が大きくなり、数週間後には乳首の下に仁丹ほどのシコリが生じて、そのシコリが段々大きくなる。個人差はあるが3~4ヶ月後にはシコリが高さ数センチの円錐状の突起へと成長し、5~6ヶ月後には丸い乳房になる。

 すなわち、発症後約6ヶ月間のCovid-MTFの症状は女性の第二次性徴に酷似していた。このため、発見後約半年間はCovid-MTFは血中の女性ホルモンを増加させて乳房及び身体全体の女性化を招くウィルスだと考えられていた。Covid-MTFウィルスは表面に特徴的なスパイク等が見当たらず、発症を予防するためのワクチン開発の手がかりは見つかっていない。対症療法として女性ホルモンの拮抗剤などの薬剤の投与が行われたが女性化の速度を抑える効果は限定的だった。

 Covid-MTFの発見の約9ヶ月に各国から驚くべきニュースが報じられた。発症した患者の体内に、卵巣、卵管、子宮、膣などが形成されていることが判明したのだ。患者の下腹部にはいずれ膣口へと発展しそうな深いしわが観察された。発症後8ヶ月の時点では男性の外性器は健常状態を保っており、患者はいわば両性具有の状態になった。それから1ヶ月間で急速に男性性器は退化し、膣口が開くと同時に大陰唇・小陰唇が形成されて、医学的に見てあらゆる点で女性の身体へと変化した。

 しかし、症状には続きがあった。患者の子宮に胎児ができていることが判明したのだ。母体血を採取して遺伝子解析を行った結果、胎児の遺伝子は母体との相同性が100%だった。自分自身の卵巣から出た卵子と自分自身の精巣から出た精子によってできた受精卵が子宮に着床したものと考えられるが、既に精巣は体内から完全に消失しているので、精子がどのような経路をたどって卵管に到達したのかは不明だった。

 発症したのは18歳から44歳までの男性が大半で、ごく少数ながら45~52歳の患者も含まれていた。

 このまま毎年男性人口の1%が新たに発症すれば全男性が女性化するには100年間かかるはずだが、18歳から44歳までの男性を母集団と見ると毎年3%が発症する計算となる。18歳で出産可能年齢に達した男性は45歳の誕生日までの27年間に約78%の確率で女性化すると推定されるわけだ。

 

 鹿沼賢太の職場では、入社2年目の大島という若手社員が真っ先に発症した。大島は小柄で華奢な男性で、暑い日にも夏物の背広を脱ごうとしないので変だなと思われていた。その頃、Covid-MTFの女性化作用が盛んに報じられるようになり、大島も発症したのではないかと噂が広まった。

「大島君はニューハーフになるの? それとも病気になったの?」
と課長から冗談っぽく聞かれて、

「課長、今のお言葉はセクハラです!」
と男とは思えない高い声で叫んだのが賢太の印象に残っている。

 しばらくして胸の大きさが隠せなくなり、大島は発症したことを人事部に届け出て、職場でも同情を集めた。その頃にはCovid-MTFが女性内性器を生じさせるという驚愕の事実も報道され始めていたので、課長を含め誰も大島の女性化を冗談のネタにする人は居なくなった。

 凛子がM銀行への就職を決めた翌日、賢太は課長に退職を申し出た。課長は賢太が産休が始まるまでは勤務を続けると期待していたので慌てた。

「ツワリがきついから休みたいという気持ちは分かるが、鹿沼君にすぐに辞められると困るんだよ。産休が始まるまでは何とか頑張ってくれないか? そうだ、当分時短勤務にすればどうだ? 10時から16時までの6時間勤務にすれば通勤ラッシュも避けられるじゃないか」

「背広をやめてスカートにすれば大手を振って女性専用車両を利用できるんですが……。今朝はしんどかったのでこの恰好で女性専用車両に乗りましたが、胸が大きいので不審の目では見られませんでした。でも、ツワリになるととても仕事をしていられる状況ではなくなるので……」

「じゃあ、ツワリが収まるまでテレワークにすればいい。週1回打ち合わせのために出社すれば仕事を回していけるだろう」

「テレワークなら可能かもしれません!」
そう言った後で賢太は凛子との約束を思い出して言い直した。

「――いえ、やっぱり無理です。家内の就職が決まったので、子供2人の面倒を私がみることになったんです。家の中で子供が走り回っていたらテレワークに集中できないと思いますので……」

「しかし、奥さんの給料だけでは食べていけないだろう?」

「実は、家内はM銀行の国際金融部門から話が来て私の倍の給料でスカウトされたんです」

 賢太は妻を実際以上によく見せるためにサバを読んでいる自分に呆れた。

「ハァ? 給料が倍だって? それなら『家内』ではなくて『主人』じゃないか。立場が変わったのなら仕方がない。今日中に引き継ぎ書を書いてくれ」

 課長は賢太を慰留する気持ちを完全に失ったようだった。それまで「不幸にしてCovid-MTFに感染してしまった男性」と半ば仲間意識を持って賢太を見ていた課長だったが、まだ背広を着ていても女性の世界に行ってしまった人という認識に変わってしまった。

「課長もいつかは妊娠するかもしれないのに……。いや、本人が発症に気づいていないだけで、既に女性化が始まっているかもしれない。今夜風呂に入ったら乳首がチクチクしてショックを受ければいいのに」
と賢太は意地の悪い思いを巡らせた。

 課長は賢太から退職の申し出があったことを部長にすぐに報告し、賢太が人事部に退職届を持って行くと快く受理された。凛子が言っていた通り、人事部は妊娠した社員が産休前に退職するのを歓迎しているのだ。

 

 賢太は3日間の引継ぎを終えて退職した。金曜日の夕方に職場で部長から花束を受け取って5年間働いた会社を後にした。帰宅すると凛子がご馳走を作って待っていた。

 食事が終わって、凛子が食器をシンクに持っていくのを賢太が手伝おうとすると、凛子が制して優しく微笑みながら言った。

「今日が最後だから賢太は何もしなくていいのよ。明日から主婦としての生活が始まるから頑張ってね」

 凛子の言葉に嘘はなかった。翌朝起きると、凛子は結菜ゆいな紗菜さなのパジャマを着替えさせようとしなかった。テレビの前のソファーに座って新聞を読み始め、朝食の支度に取り掛かる気配は無かった。

「賢太、何してんの? 結菜ゆいな紗菜さなを着替えさせて、洗濯の準備をしながら食卓を拭いて食器を並べる。コーヒーを仕掛けて、パンをトースターに入れて、野菜を刻んで、卵を焼いて……。主婦は洗濯物を干して掃除機をかけ終えるまでは、戦場にいるものと思いなさい」

「でも、僕、ツワリもあるし……」

結菜ゆいな紗菜さながお腹の中にいる時に私がやってきたのと同じことを今日から賢太がするのよ。何をどの順番でやるのか頭を使って、とにかく動く!」

「いきなり言われてもわからないよ……」

「しょうがないわね。今日は手伝ってあげるけど、段取りを頭に入れて明日からはちゃんとやりなさいよね」

 今日から役割が交代になったことは重々理解していたが、凛子は月末までは家でゴロゴロしているだけだから、もっと手伝ってくれてもいいのにと、賢太は不満だった。

 家事がこれほど大変なものだとは思わなかった。食事の片づけ、掃除、洗濯、部屋の整理。そして子供たちが次から次へと新たな用事を作り出す。凛子にまとわりつこうとする結菜ゆいな紗菜さなに凛子が申し渡した。

「今日から賢太パパがママになったのよ。私はあなたたちの『お母さん』で、賢太パパが『ママ』よ。何でもして欲しいことがあったら、ママに言いに行きなさい」

 凛子は賢太が書斎代わりに使っていた寝室内のデスクの前に座った。

「国際金融の仕事から4年間離れていたから月末までに猛勉強をして遅れを取り戻さなきゃ」

 真剣な表情でパソコンに向かっている凛子は近寄りがたい感じがした。寝室のドアは閉めて、
「ママはお勉強中だから邪魔しちゃダメだよ」
と賢太が子供たちに言うと、
「あの人は『お母さん』になったんでしょ?」
と怪訝な表情を見せた。
「ゴメン、間違えちゃった。お母さんのお勉強を邪魔しないで。僕がママになったから何でも僕に言ってね」

 そう賢太が言うと、結菜ゆいな紗菜さなは「うん、分かった」と答えて二人で遊び始めた。

 初日はオチオチ腰を下ろす暇もないほどてんてこ舞いで、夜9時に結菜ゆいな紗菜さなを寝かしつけてほっとすると、疲れがドッと出てきた。

「主婦の仕事がこんなに大変だとは思わなかった。君は……凛子さんは4年間も毎日これほどの重労働をこなしてきたんだね」

「今日の賢太の仕事は、私が普段やっていた家事の半分以下だったわよ。今日は冷蔵庫に食材の買い置きがあったから買い物に行かなくて済んだし、アイロンがけもしなかったし、お風呂の掃除もいい加減だった。可哀そうだから注意しなかったけど……。主婦は隣の奥さんが回覧板を持ってきたら相手をしなきゃならないし、自治会の用事とか、何か突発事項が出てくるたびに時間を取られるのよ」

「僕、へこたれそう……」

「私の会社勤めが始まったら、毎日ブラウスを洗ってアイロンをかけたり、スーツの皺をスチームで伸ばしたり、靴を磨いて玄関に用意をしてよね。今年はまだ楽だけど結菜ゆいなが幼稚園に通うようになったら、着るものを準備したり、先生やママ友と良好な関係を築いたり、賢太自身もちゃんとした服を着てお化粧もする必要がある。結菜ゆいなが6歳になったら紗菜さなは4歳、今度産まれる双子は2歳。下の子が小学校3、4年生になるまで母親の仕事は増える一方よ。賢太が自分の時間が持てるようになるのは子供たち全員が大学に入るころでしょうね」

「気が遠くなりそう。凛子さんと代わりたい……」

 交代するのが不可能なことは賢太にもよく分かっていた。

 しかし、習うより慣れろとの言葉の通り、3日もすると一通りの家事がこなせるようになり、時には結菜ゆいな紗菜さなと遊ぶことを楽しめるだけの心の余裕も生まれた。

 主婦になって4日目の午後1時過ぎ、昼食の片づけを終えてほっとしている賢太のところに凛子が来て言った。

「賢太の服を全部出して床に並べなさい。冬物も夏物も全部よ」

「どうして?」

「今日の昼前に結菜ゆいな紗菜さなを連れてマンションの前の公園に行った時にオッサンみたいな恰好をしていたでしょ。賢太は女になったんだから、女として恥ずかしくない恰好をしなさい」

「でも、まだ着られる服も多いから……」

「貧乏ったらしいことをされたら私に甲斐性が無いのかと思われるわ。結菜ゆいな紗菜さなのためにも男物の服は二度と着ないで」

「女物の服なんて持っていないんだけど……」

「勿論買ってあげるわよ。とりあえず私の服で賢太の体に合うものを着なさい」

「凛子さんのズボンは僕には短すぎるから、僕の紺のジャージーをはくよ」

「当分ズボンは禁止よ。すぐにこのニットのワンピースに着替えなさい」
 凛子がタンスから出して賢太に手渡したのは伸縮性のあるひざ丈のワンピースだった。

「えーっ、僕にスカートをはけと言うの?!」

「自分が女だと言うことを忘れてない? 賢太が男物の服を着たり、男みたいなしゃべり方をする理由はどこにも無いのよ。今後自分を『僕』と呼んだり、男言葉を話すのは厳禁。アタシと言いなさい」

「私じゃだめなの?」

「アタシの方が女らしく聞こえるからアタシと言いなさい」

「凛子さんは『ワタシ』と言ってるくせに」

「私は銀行マンなのよ。『アタシ』じゃ軽く見られるわ」

 賢太はタンスの中や段ボール箱に入っていた服を種類別に床に並べた。背広は夏物・冬物の合計で8着あり、コート、ハーフコートやジャンパーは学生時代から持っていた殆ど着ないものを合わせると10数着あった。セーター、シャツ、下着、ネクタイなど、今の自分にとって何の役にも立たないものがこれほど沢山家の中にあったことに賢太は驚いた。

 惜しい気もしたが、片っ端からブルーのゴミ袋に突っ込んだ。一番大きいゴミ袋4個分になった。

「これから皆でららぽーとに行きましょう。賢太に服を買ってあげて、夕食もららぽーとで食べるわよ。賢太、お化粧の仕方を教えてあげるから鏡の前に座りなさい」

 いずれ化粧をしなければならないとは思っていたが、まだ実際に化粧をしたことは無かった。凛子に言われるままに化粧水をはたき、ファンデーションを塗ってからアイメイク、頬紅、リップをつけた。ブラシを走らせる度に自分が本当に女になったのだという実感が湧いてきた。化粧を終えた時には、恥ずかしいという気持ちは消えていた。

「結婚する前から、賢太はどちらかと言えば美少年系だと思っていたけど、これほど可愛くなるとは驚きだわ。私のために、どんどんきれいになってね、賢太」

「うん。アタシ、がんばる」
 その時、賢太は女になって良かったと思った。


続きを読みたい方はこちらをクリック!