【紹介】男性サラリーマンが一般職OLとして仕事をさせられる小説。新型コロナ肺炎の緊急事態宣言が出て主人公の星川光一の勤務先はリモートワーク体制に入る。ボイスチャットやビデオチャットでの在宅勤務が始まるが、星川は退職した同期の女性のフリをして重要顧客とのビデオ会議に出席する羽目になる。

バーチャルな恋人
今日から女の子になりなさい

第一章 代役

 武漢から帰国した男性が新型コロナ肺炎に感染していることが確認されたというニュースが流れたのは二〇二〇年一月十六日で、武漢に在留している日本人を帰国させるためにチャーター機を派遣することを日本政府が発表したのはその翌週だった。

 そのころ、職場では、
「またコウモリを食ったのかよ!」
とか
「中国人のゲテモノ食いにはついて行けないわ」
 などというレベルの会話が交わされており、対岸の火事どころか、自分とは無関係な世界で起きたこととしか意識していない人が大半だった。

 そんな中で僕は新型コロナ肺炎について早い段階から差し迫った脅威と認識した数少ない東京都民の一人だった。

 と言えば僕の意識が高いか先見の明があったように聞こえるかもしれないが実はそうではない。

 副島そえじま結菜ゆいなと僕は昨年四月に同じ課に配属になった新入社員だが、隣の課の玉木先輩が結菜に気があることは部の忘年会あたりから気づいていた。年が明けると玉木先輩から結菜と親しくなれる機会を作ってくれとしつこく頼まれ、僕は玉木先輩、結菜、彩芽、僕の四人で二対二での房総旅行をセッティングした。彩芽は同期で結菜の親友だ。二月一日の土曜日から一泊二日で勝浦のリゾートホテルに遊びに行くことになった。

 実は僕も同期入社の結菜に好意を抱いていたので、玉木先輩からそんなことを頼まれた時には悩んだ。しかし僕はポジティブ思考ができる人間なので、もし四人で旅行に行った結果結菜が僕を好きになったとしたらそれは運命であり、玉木先輩を裏切ったことにはならないと考えることにして、意欲的なスケジュールを組んだ。

 玉木先輩が車を出し、土曜日の午前七時に駅前で三人をピックアップして首都高から京葉道路へと進む手はずだった。

 ところが、金曜日の夜になって結菜からLINEでドタキャンが入った。

「悪いけど私は行けなくなったから三人で行ってきて」

 その一分後に彩芽から、結菜が行かないのなら自分も行けないとLINEが入ったのは当然の流れだった。

 僕は慌てて結菜の携帯に電話をして理由を問いただした。

「武漢からのチャーター機で帰国する日本人が勝浦のホテル三日月に宿泊するというニュースを聞いた両親から電話がかかってきて、勝浦には絶対行くなと言われたのよ。おばあちゃんまで電話に出てきて泣いて頼まれたから、やっぱり私は行けない。旅行のことを親に言うんじゃなかったわ」

「でも、僕たちが予約したのはホテル三日月じゃなくて、同じ勝浦でも別のホテルだよ」

「私もそう言ったのよ。でも、勝浦から半径五十キロ以内に近づいちゃダメだって」

「そんな無茶な! 原発事故でさえ半径二十キロだったのに」

「私も食い下がろうとはしたんだけど、男の人も一緒だということがバレそうになったから、観念して電話を切ったのよ……」

 結菜の説得は無理だと判断し、僕は玉木先輩に電話を入れて結菜の事情を説明した。僕が結菜に言ったのと同じことを玉木先輩から言われて、僕は結菜の立場で玉木先輩をなだめなければならなかった。

「親が保守的で頑固な田舎者だと大変だな。俺も将来の苦労が思いやられるよ」

「いえ、玉木先輩、結菜はまだ玉木先輩との結婚を意識するところまで行ってませんから」
と釘を刺したが、玉木先輩は既にそのつもりのようだった。

 玉木先輩から、ホテルの予約をキャンセルするようにと頼まれた。

「四人分のキャンセル料は俺が全額払うから、そのことを月曜日に星川から結菜に言っておいてくれ。いいか、最大の被害者である俺が、全員のキャンセル料を払うという寛大な対応をしたことについて、押しつけがましく聞こえないように上手に話すんだぞ」

 僕は勿論最大級の感謝とお世辞を玉木先輩に言って電話を切った。

 週が明けて、二月三日の月曜日に結菜は元気に出社し、僕は玉木先輩から目的地を千葉県以外にして第二弾の企画を考えてくれと頼まれた。

 しかし、その週から豪華クルーズ船ダイヤモンドプリンセス号の検疫問題が世間を騒がせ始めて、新型コロナ肺炎は、すぐそこに差し迫った脅威として認識されるようになった。

 僕の勤め先の第一エコテック株式会社はコロナのお陰で順風満帆だった、と言えば不謹慎に聞こえるかもしれないが、うちの会社の設計で中国のメーカーに製造委託している次亜塩素酸水生成器が急に売れ始めた。一月下旬からアルコール消毒剤が品不足になり二月中旬には全国各地の小売店の店頭からアルコール系の消毒剤の在庫が消えたためか、アルコールに代わる消毒剤として次亜塩素酸水が注目されたことが原因だった。昨年までは鳴かず飛ばずだった次亜塩素酸水生成器の売上が在庫が払底するほどまで伸びたので、世間の人たちの新型コロナ肺炎に対する脅威レベルが上昇したことを実感した。

 そんな雰囲気の職場に激震が走ったのは二月二十日のことだった。

「えーっ! どうして辞めるの?!」
 斜向はす向かいの席に座っている舞川主任が突然大声を上げたので、僕は驚いてパソコンの画面から視線を移した。舞川主任の席の横には結菜が立っていた。

「私も東京での生活を続けたいのはやまやまなんです……。東京に居たら新型コロナ肺炎に感染するからすぐに盛岡に帰れと親から言われて、抵抗したんですけどどうにもなりませんでした」

――結菜が退職を申し出たのか! 

「慎重過ぎるんじゃない? 人口千四百万人の東京で感染者はまだ二十人そこそこだし、死者は一人だけなのよ。二、三十代なら例え発症しても重症化する例は少ないとテレビで言っていたわ。結菜にとってインフルエンザと比べてさほど大きなリスクとは言えないんじゃないの?」

「親から会社を辞めて帰って来いと言われたのは、先週東京で感染者が八人出た時なんです。その時に、もし東京の感染者数の累計が二十人を超えたら盛岡に帰ると約束させられてしまって……」

「盛岡に帰ってどうするの? 家事手伝いでもするわけ?」

「市役所の臨時職員の募集があると父が言っていました」

「はぁーっ……」
と舞川主任が大きな溜息をついた。

「分かった。部長と課長が出張から帰るのは明朝だから、私からメールでインプットしておく。結菜の退職の手続きは明日課長が処理することになると思うけど、部長も課長も結菜のことを気に入っているからがっかりするわよ」

「すみません……。私が今やっている仕事は誰に引き継げばいいでしょうか?」

「私のサブでやってもらっている仕事は私が自分でやることになるかな……。明日の午前中までに担当業務をリストアップして私に送っといて」

 舞川主任は結菜にそう言ってから僕の方を向いて、
「星川君にも分担してもらうことになるから、協力してね」
と言った。

 隣の課の玉木先輩は、まるで東京が壊滅することが決まったかのような顔をしている。僕も玉木先輩ほどではないが、ほのかな憧れを抱いていた結菜がもうすぐ居なくなると思うとやるせない気持ちだった。

 その日の夜遅く、玉木先輩から酔っぱらった声で電話がかかって来た。

「星川、俺はもうダメだ……」
 半泣きの口調だった。入社してから今まで、それほど弱気になった社員を相手にするのは初めてだった。

「はっはぁ、結菜のことがショックなんですね。人生が終わったような言い方をするなんて玉木先輩らしくないですよ。そんなに結菜が好きなら当たって砕けろですよ。遠距離恋愛だってできるんですから」

「実は……今夜結菜と食事をしたばかりなんだ」

「マジですか! 一対一でですか?」

「俺は結菜が入社した日から好きだっと告白して、遠距離で付き合って欲しいと申し込んだんだ」

 ニ対二の合コン旅行のセッティングは僕に頼んだのに、いきなり一対一で食事に誘ってコクるとは長足の進歩だ。今を逃すと結菜を一生失うという切迫感が玉木先輩に勇気ある行動をさせたのだろう。

「玉木先輩もやりますねえ! それで断られたわけですね。でも、一回で諦めちゃダメですよ。二回でも三回でも押して押して押しまくればチャンスが開けるかもしれませんよ。そうだ、予告なしで盛岡まで会いに行くとか」

「少しでも脈があるのなら簡単には諦めないんだけど……。俺ではダメだという理由を聞かされて諦めるしかなかったんだ」

「やっぱり、顔が怖いと言われましたか……」

「バカヤロウ。でも、タイプじゃないとはっきり言われたんだ。結菜は結婚相手としては身長が百八十センチ以上の男性にしか興味が無いそうだ。俺は百七十五センチだから男として大きい方なのに……。何とか五センチまけてくれと頼んだんだけど『まけられません』とはっきり言われた」

 そうだとすれば、小柄な僕は結菜にとって論外ということになる。ガッカリするよりも、そんなことを言う結菜に腹が立った。

「まるで大阪のオバサンみたいな交渉ですね……そんなくだらない女なら放っておけばいいんですよ」

「いや、その後で結菜が『実は』と言い出して、本当の理由を教えてくれたんだ。この話は誰にも言わないでくれ。結菜の高校時代の部活の先輩が岩手医科大学の六年生で、その男からプロポーズさたそうなんだ。そいつは四月から盛岡の病院の研修医になる。結菜が盛岡に帰る決心をしたのには、そんな背景があったわけだよ」

「医学部の学生は卒試と国試に受からなければ医者にはなれないということを知っていますか? 卒試も国試も難関で結構落ちるらしいです。四月一日から研修医になるつもりで病院でヘルパーのバイトをしていたら、国試に落ちたことが分かって、ナース服姿で働かされたという小説を読んだことがあります。諦めるのはまだ早いんじゃないですか」

「百八十センチ以上の彼氏が女装してヘルパーになれるわけがないだろう。星川と話をしていると何だかバカバカしくなってきた。よしっ、結菜のことは諦めよう。そうだ、勝浦に来るはずだった彩芽とかいうヤツを俺に紹介してくれるように結菜に頼もうかな」

 玉木先輩をどん底から救い出すことができたようだったのでほっとした。

 結菜が百八十センチ未満はNGと言ったのは玉木先輩の告白を退けるための思いつきだったのではないかと思った。というのは、結菜が僕に気があるかのような視線を向けたのは二度や三度ではないからだ。玉木先輩もそんな視線を感じたことがあるから結菜に夢中になったのではないだろうか? ひょっとしたら課長や部長も同じかもしれない。結菜は男に自分を好きにさせるテクニックを身につけているのだ。それが恣意的なものなのか自然と身についた仕草なのかは分からないが、いずれにしても結菜のような女性を魔性の女というのかもしれない。

 もしかすると、医者の卵からプロポーズされているという話自体が出まかせだった可能性もある。結菜はその場その場で意外かつテキトーな話をして人を面白がらせようとする傾向があり、それが結菜の魅力でもある。いずれにしても、僕は結菜が思っていたほど憧れるに値する女ではないことが分かった気がして、心のもやもやが晴れた。

 

 翌日、結菜は課長と部長の了承を得て、退職届を人事部に提出した。本来退職届に上司の承認は必要ないのだが、結菜は課長と部長に直接話をせずに勝手に人事部に手続きをしに行ったりしないだけの心遣いができる人だ。結菜がオジサンたちにモテるのは色んな理由があるのだ。

 結菜の退職に関して課長から課員あてに通知メールが流れ、それを受けて舞川主任が引継会議を招集した。舞川主任のグループは入社四年目の杉野先輩、結菜と僕を含めた四名で成り立っており、結菜の指導員は舞川主任、僕の指導員が杉野先輩になっている。

「去年の四月に新入社員を一人採る計画だったのが、将来の拡大を見越して星川君と副島さんの二人の新入社員を採ったという経緯があるから、今回副島さんが退職しても補充はしてもらえないのよ。課長からは、当分三人で回してくれと言われたから、杉野君と星川君に頑張ってもらうしかない。よろしくね」

 予想通りのことでもあり、杉野と僕は「はい」と返事をした。

「杉野君が星川君をサブとして使っている案件は、今後杉野君が自分で担当してほしいんだけど、大丈夫?」

「ええ、勿論大丈夫です」
 勿論という言葉に抵抗を感じたが「任せてください」という意味の表現と解釈して聞き流すことにした。

「星川君が単独で担当している案件はSショッピング向けの『電解次亜水ミニ』の案件だけよね。その後の進捗はどんな感じ?」

「杉浦さんの上司の課長さんが転勤になってから、先方の動きが鈍くなっているんですけど……」

「このままでは膠着状態ね。じゃあ、Sショッピングは私が担当するから、星川君から杉浦さんに『重要顧客として舞川主任が担当させていただくことになりました』と伝えておいて。私が来週にでも訪問するわ」

「えっ、そんなことをしたら僕の仕事がなくなるじゃないですか」

「バカねえ、これは副島さんの退職に伴う引継会議なのよ。要するに星川君は副島さんの後任として、今まで副島さんがやっていたことを引き継いでもらうことにしたのよ」

「えーっ……そうなんですか」
 それではまるで僕が居ても居なくても同じだということにならないだろうか? 結菜は勝ち誇ったような目で僕を見ている。

 舞川主任は杉野先輩の方を向いて、
「ということで、後は私と副島さんと星川君だけの打ち合わせで十分だから杉野君は仕事に戻ってくれていいわよ」
と言った。

「分かりました。じゃあ、星川の指導員は舞川主任に変更になるわけですね?」

「そうよ。私がみっちり鍛えるから任せておいて」

 杉野先輩は僕を見てニヤリと笑って会議室から出て行った。

「さて、星川君。副島さんの仕事は私が把握しているから引継は半日で十分ね。eダームだけは窓口を副島さんに任せてあったから、十分な引継ぎをしてちょうだい」

「副島さんがeダームを担当していたんですか……。月曜日は休日ですから、実質四日間しかありませんよ」

「勤務最終日には人事部の手続きと社内の挨拶しかできないと思うから、火、水、木の三日間に引継ぎをしてもらうしかないわ」

「すみません……住民票を移したり、色々手続きがあるので水曜日は休ませてください」
と結菜が口をはさんだ。

「えーっ、じゃあ、火曜日と木曜日の二日だけ? eダームに挨拶に行く時間も必要なのに……」

「訪問は不要よ。あくまで担当は私で、副島さんは私のサブという位置づけだから」
と舞川主任。

「先方の担当の地道さんには会ったことも、電話で話をしたこともないから、私から星川君への引継ぎは簡単よ。地道さんは私の名前さえ知らないもの」
と結菜が付け加えた。

「名前を知らずにどうやってメールするんだよ?」

「地道さんからは片仮名で『ユイナ様』と書いて来て、私も『ユイナ』として返信してるもの」

「ハァーッ、すごいな。さすが結菜だな。僕には真似できないよ」

「真似しないわけにはいかないわ。先方は副島さんにぞっこんで、私がメールをしても『ユイナ様』宛に返事が入るのよ。私にコピーを入れずに副島さんにメールが来ることも多いから、副島さんが休みの日はタイムリーな返事ができないことがあった。だから私のパソコンで副島さんのメールも見られるようにしてたんだ。あのメールソフトは二つのプログラムを同時に立ち上げることが可能で、副島さんが休みの日は私のパソコンで舞川まいかわ亜衣香あいかのアカウントのプログラムと、副島さんのアカウントのプログラムを同時起動していたのよ」

「えーっ、じゃあ僕のメールも舞川主任に全部見られちゃうんですか!」

「話を最後まで聞きなさい。eダーム以外のお客様との交信は星川君がサブをしていてもどうせ全部私にコピーが入るから、私が星川君宛のメールを見る必要は無い。今後は星川君のパソコンにも、星川君のメール以外に副島さんのアカウントのメールソフトを同時起動して、eダームとの交信を担当してもらうことになる」

「よく話の意味が分からないんですけど……地道さんは、舞川さんにコピーを流さずに僕だけと交信するわけですよね。どうして副島さんのメールアカウントのソフトを僕のパソコンで立ち上げるんですか?」

「ユイナが担当を外れると言ったら、eダームがうちの会社を外して競合他社に乗り換えるのが目に見えてる。メールで仄めかされたことがあるから間違いないわ。だから星川君には何事も起きなかったかのようにユイナとして交信して欲しいのよ」

「そ、そんな無茶な! お客さんを騙すのは良くないことです! もしバレたらそれこそうちの会社は出入り禁止になりますよ」

「大丈夫。eダームには当初から担当は私であって、日ごろの連絡にはサブの女の子を使うけど会議や面談には出席させないと当初から説明して了承を得ているから。『ユイナ』は副担当者の名前というより『サブの女の子』の愛称みたいな位置づけなの」

「来週からは星川君が私の代わりに『サブの女の子』として何もなかったかのようにメールすればいいだけじゃないの。そのぐらい星川君にもできるわよ」
と結菜が補足した。

「舞川主任、それは倫理的にまずいですよ……男が女の子のフリをするなんて!」

「いつ私が星川君に女の子のフリをしろと言った? その案件だけはユイナという愛称で交信しろという命令が非倫理的だと言いたいの? ハッハァー、星川君は女性を一段下に見てるんだ」

「と、と、と、とんでもない! 分かりましたよ。引き受けますよ。でも何かあったら責任を取ってくださいよね」

「勿論、星川君が私のサブとしてやったことについては、私が全面的に責任をとるわ。但し、星川君のサブとしてのパーフォーマンスが副島さんより劣っていたら、それは星川君の責任よ」

「分かってますよ……」

 

 早速、引継が始まった。僕が杉野先輩のサブとしてやっていた案件は杉野先輩から各案件の相手先や関係者宛に「来週から星川はサブから外れて本件は杉野本人が担当します」というメールを流すだけだった。Sショッピングの案件は舞川主任にファイルを見せながら一時間もかけて説明したが、細部までダメ出しされた。

「こんな消極的な対応をしたから決定機を逃したんじゃないの。星川君にこの種の客先を担当させるのはまだ無理ね。今後は、私がどう対応するのかを横で見て勉強しなさい」
と言われたのはショックだった。結局僕は自分が担当していた仕事を全部取り上げられて、結菜の代役に収まることになってしまった。

 同じサブの仕事でも、杉野先輩の場合は一応自由にやらせてくれて、問題があればダメ出しが入ったり、客先訪問に同行してくれるという感じだったが、舞川主任は一挙手一投足まで細かく監視していて、意にそぐわないことを僕がすれば別室でガンガン叱りつけるスタイルだと分かった。結菜はそんな指導方法を特に面倒だとか厳しすぎるとは感じていないようだった。

 結菜にそのことを相談すると、
「星川君は叱られると本気で受け止めるからダメなのよ。叱られたら涙を流すフリをしたり『舞川さんのご指導のお陰で目が覚める思いでした』とか、お世辞のひとつも言って受け流しなさい。ゆったりと構えて流れに身を任せる、それがこの世を乗り切るための極意よ」
と言われた。結菜は意外に大人物だったのかもしれない。

 結菜のアカウントのメールソフトを僕のパソコンで同時起動する設定は、舞川主任がやってくれた。

「プログラムファイルのこのフォルダー全体を、ここにクローンして、このEXEファイルへのショートカットをデスクトップ上に作るだけ。後は副島さんのIDとパスワードを使って立ち上げればいいのよ。シスアドの神崎君から教わった裏技だけど、複数アカウントの同時起動の件は決して口外しないようにしてね」

「えーっ、やっぱり後ろめたいことだったんじゃないですか!」
と僕は呆れたが、結菜本人から了承を得たうえで上司が命令することだから僕は従わざるを得ない。これもパワハラの一種ではないだろうか? 

 結菜のアカウントのメールソフトが立ち上がり、結菜あてのメールが入り始めた。IMAPのメールサーバーなので、結菜の入社以来のメール交信を全て見ることができる。

「星川君、言っとくけど、私の個人的なメールに書かれていることを少しでも他人に話したらどうなるかわかってるわよね?」

「分かってるよ。でも、読みたくなくても目に入ってしまうから、私的なメールは全部サーバーから削除しといてくれない? 結菜のメールソフトは私用メールを削除し終わるまで切っておくから」

「それもそうね。じゃあ削除するわ。でも私のメールの半分は私用だからちょっと時間がかかるわよ」

「半分が私用?! 舞川主任に文句を言われなかったの?」

「女どうしだもの。それに、本当にヤバイ話には会社のメールは使わないから大丈夫」

 結菜は一時間ほどして僕に言った。
「私用メールを全部削除したわよ。ソフトを立ち上げていいわ」

 結菜のアカウントのメールを起動すると、次から次へと新たな私用メールが入り始めた。そのうちの一通は玉木先輩からのメールだった。
「渡したいものがあるから今夜または来週の都合のいい日の午後七時にプリンスホテルのレストランで会って欲しい」
という内容だった。玉木先輩は僕にはあんなことを言っておきながら、まだ結菜に未練があるのだ。

 結菜は玉木先輩に、
「盛岡の彼が来週いっぱい東京に来ているので会えません」
という返信をしたが、周囲に人が居ないことを確かめてから小声で僕に言った。

「渡したいものとは何か想像がつくでしょ?」

「まさか……婚約指輪ってこと?」

「かもね。とにかく私のメールのことは知らないことにしておいて」

 玉木先輩が結菜に相手にされていないのは決定的だった。しかし、僕は知らないフリをせざるを得ない。今度話をする時に居心地の悪い思いをするのは確実だ。

 結菜は、退職までの数日間に二、三組の友人とのお別れ会の約束をメールで交わした。結局、盛岡の医者の卵というのは玉木先輩を断るために結菜が考え出した架空の人物である可能性が高そうだ。

 メールから読み取れる結菜の行動様式は社交的かつ大胆であり、東京にパンデミックの危険性が少しでも存在するという懸念はいささかも感じられない。これが新型コロナ肺炎を理由に退職する人間だとは信じ難かった。

第二章 テレワーク

 結菜との引継ぎは思ったよりもスムーズだった。予定通り、結菜は二月二十八日の金曜日をもって退職した。

 結菜の仕事の大部分は舞川主任のサブであり、舞川主任から指示されたことをその都度忠実に実行し、案件別のファイルをクラウド上でいつでも参照できるように整理・管理するのが主な仕事だった。杉野先輩のサブをしていた時は自由度が与えられていたというか「好きにさせてくれていた」ので結構余裕を持って楽しく仕事をしていたのだが、舞川主任のサブの仕事はそうはいかない。舞川主任は杉野先輩の倍以上の案件を担当しているが、全部の案件の状況がきっちりと頭に入っていて、交渉や重要な作業は自分でやる。僕にもCCが入るので、僕は舞川主任の仕事の進め方をそばで見て学ぶことができる。杉野先輩のサブと舞川主任のサブではどちらが為になるかというと、圧倒的に舞川主任の方だ。しかし、舞川主任が僕にさせる仕事は事務的、補助的な作業だけであり、客観的に見ると秘書のような使われ方と言える。うちの会社には標準職と管理職の区別しかなく、いわゆる一般職OLは存在しないが、僕の仕事はよその会社ならOLの仕事なのかもしれない。上司が優秀過ぎるのも良し悪しだ。

 eダームの案件については、結菜が退職するまでにメールは一通も入らず、過去のメール交信を読んで概略を把握した。

 先方の窓口の地道さんは担当者の唐田からた萌歌もかという主任のサブであり、舞川主任のサブである僕(というよりは『ユイナ』)と同じ立場だ。何の決定権もない窓口の男性のはずなのに、重要な局面で、
「社内各部門と協議の結果、今回は添付の仕様でお願いします」
というようなメールが地道さんの名前で来るので、気を抜くことができない。
 それに対してユイナは、
「ご連絡ありがとうございました。ご要望の件に関しましては担当の舞川が技術部及び品質保証部との打ち合わせを行いお返事いたしますのでしばらくお待ちください」
とまるで秘書のような返事をする。それを受けて舞川主任が対応をするわけだが、他の案件と違って、社内の打ち合わせには結菜も参加し、実質的に担当者に近いレベルの仕事をさせてもらっていたことが読み取れた。

 地道さんから初めてメールを受け取ったのは三月三日だった。

「ユイナ様、
 当社での次亜塩素酸水生成器の導入の件に関し、ご連絡が遅れていることをお詫び申し上げます。施設部での検討は一応完了したのですが、予算を含めた社内決裁に手間取っています。見通しについては次回ご来訪の際に唐田から舞川様に説明させていただきます。ユイナ様もご一緒なら歓迎すると唐田が申しております」

 メールは地道からユイナのアドレスに宛てたもので、地道の上司の唐田やユイナの上司の舞川にはCCは入っていなかった。

「舞川主任、地道さんから僕あてに……ユイナ宛てにメールが入っていますけど」

「ああ、説明を聞きに来いというメールね」

「どう返事をしたらいいでしょうか?」

「『上司の舞川から唐田様にアポ電を入れるとのことでした。私は内勤専門なので訪問できません。舞川の秘書のような立場なのでご了承ください』という主旨の返信をしておきなさい」

「えーっ……秘書と書かなきゃいけませんか?」

「現実にそうじゃないの。秘書の女の子のつもりで丁寧で女の子らしいメールを書くのよ」

 割り切れない気持ちだったが舞川主任に言われた通りの返信を地道あてにしておいた。それにしても非効率なメール交信だ。地道とユイナが交信窓口になるのは構わないが、常に上司にもCCを流しておけば回りくどいやりとりをしなくて済むことばかりだった。お客さまは神さまだということは理解できるが、地道の個人的なわがままに付き合わされるというのは困ったものだ。

 舞川主任は先方に電話でアポを取って翌日訪問した。舞川主任は帰社してすぐに面談結果の概略を口頭で教えてくれた。面談相手は唐田主任だけで、地道は出て来なかったとのことだった。

「普通なら案件の交渉窓口の地道さんも出て来ますよね。地道さんは秘書的な仕事しかさせてもらってないんじゃないですか?」
 僕はそう言ってから、自分も同じだと気づいて恥ずかしくなった。

「唐田主任はすごく切れる感じの人よ。細かい点まで把握しているから自分だけが面談すれば十分だと思ってるんじゃないかしら」

「舞川主任と同じですね」
とお世辞を言うと、満更でもないという表情になった。

「二十九歳で主任だからエリートかもね」

「東大出で太枠の眼鏡をかけた、いかつい感じの女性ですか?」

「とんでもない。私より背が高くて、とてもきれいな人よ。水泳でインターハイに出たことがあるとか言ってた。百七十四、五センチはあるんじゃないかな」

「へぇー、なんだか舞川主任と共通点がありますね」
 舞川主任も女性としては背が高い方なので「長身の美人」という共通点があるとお世辞を言ったつもりだった。ところが舞川主任は急に不機嫌そうな表情になって、
「くだらないことを言っていないで仕事をしなさい」
と言った。どうして機嫌を損ねたのか思い当たることがなかったので戸惑った。

 その日の夕方、地道から「ユイナ様のご参考まで」と付記して、面談結果をまとめたメールが届いた。

「的確な内容だわ。唐田主任が面談結果を口頭で地道さんに説明をしてそれを地道さんがメールに書いたとしたら、非常に優秀なコンビね。私たちも負けないように頑張らなきゃ」
と舞川主任が感心したように言った。

 

 それからしばらく地道からは音沙汰が無かった。春分の日の三連休が過ぎると新型コロナ肺炎の感染者数が急に増え始めて、翌週はほぼ連日五十人を超えるようになり、四月四日には百人を上回った。

 結菜が辞める前に「両親から東京の感染者数の累計が二十人を超えたら盛岡に帰ると約束させられた」と言っていたが、その何倍もの人数の感染者が毎日出るのだから、結菜の両親には先見の明があったのかもしれない。岩手県の感染者はまだゼロだから結菜は正しい選択をしたと言える。

 四月七日には国の緊急事態宣言が出て、会社は重い腰を上げた。在宅勤務が可能な職種に関しては極力テレワークに切り替えるようにとの社長通達が出たのだ。元々うちの会社はペーパーレス化が進んでおり、既に他の事業所との会議にはZOOMを導入していたのでリモートワーク対応はスムーズに進みそうだった。

 特に僕の仕事は舞川主任の秘書と同じであり、うちの会社でも最もテレワーク化に適した仕事のように思えた。毎日会社で使っている十四インチのノートPCにはVPNソフトが入っているので自宅でも同じように仕事ができる。満員電車で通勤しなくていいし、舞川主任の顔色をうかがう必要もなくなる。

 翌朝は午前八時二十分まで寝ていた。従来は六時五十分に目覚ましが鳴り七時十五分にアパートを出て、マックで朝食を食べてから九時ごろ出社していたので、何と生活に一時間半もの余裕ができたことになる。会社は九時十五分始まりだからそれまでにログインすればいい。

 僕はトーストを焼いてコーヒーを作り、パジャマのままでPCを立ち上げた。VPNから会社のシステムにログインし、在席管理ソフトで「在席」のボタンをクリックした。
「星川君、ずいぶんゆっくりね」
と舞川主任の声がスピーカーから聞こえた。

「まだ九時十分ですからセーフですよ」

「仕事モードに入っているようには見えないけど。パジャマのままで髪はボーボー、トーストをかじりながら仕事をするつもり?」

「とんでもない。普段会社に行くのと同じ恰好ですよ。僕の様子が見えるかのようなことを言わないでください」

「見えてるわよ、緑地に黄色のチェックのパジャマ姿が」

「えーっ、ウソでしょ!」

「この在席管理ソフトは部下が在席をクリックするとPCのイン・カメラの画像が上司の画面に映るのよ。それに、部下のPCのスクリーンショットが数秒から数分間隔で不定期に送られてくるから、部下の作業もモニターできるの」

「そんなの聞いていませんでした! 一日中監視されるなんて……」

「給料を貰っている時間は働けってことよ。席を離れる時には『退席』をクリックして退席の理由と帰任予定時刻を書かなきゃサボっていると見なされる。人事部の勤怠管理システムとも連動しているからこまめに入力しなさい」

「いちいちトイレに行きますと報告するなんて……セクハラじゃないでしょうか」

「私だって星川君のオシッコまで監視したくないわよ」

「見かけ上の勤務時間よりも、仕事の内容や成果が大切だと思います」

「管理職や営業職は成果重視だけど、星川君は事務職だからそうなるのよ」

「僕は営業職じゃないんですか?」

「所属は営業部門だけど実質的に秘書業務に従事しているから、テレワークの扱いとしては事務職に分類しといた。うちの部では星川君以外に部長秘書の塚口さんと今年の新入社員も事務職分類よ。そのうちに一人前になったら分類を営業職に変更してあげるわ」

 部長秘書の塚口さんは正式な秘書だから仕方ないが、新入社員と僕だけが営業職とは認められていないと知ってショックだった。もし三ヶ月後に見習い期間が終わった新入社員が営業職扱いになって僕は事務職のままだったら、転部願いを出すべきかもしれない。

 テレワークは単調だが従来よりも仕事がはかどった。目の前に電話機が無いので、複雑な内容のメールを読んだり、舞川主任から言われて資料をまとめている最中に、社内外からの電話で作業を中断させられることがない。たまに課長がおじさんギャグを言えば課長をがっかりさせない程度の反応を示す必要があるし、何かしている時に話しかけられるということは意外と多いものだ。課長や舞川主任から言われて経営企画室とか経理部に資料を届けることも結構ある。

 特に無駄なのは社内会議や「打ち合わせ」で、電話やメールで済む事でもわざわざ会議室に行って話をきかなければならない。舞川主任が教育的観点から僕を同席させることもある。そんな会議や打ち合わせでは僕が一番下っ端だから飲み物を買いに行かされることもあるし、会議が終わった後に舞川主任から「星川君、片付けお願いね」と言われれば、よその会社なら一般職OLがするような仕事を男の僕がすることになる。

 僕のようによく気が回る人間は……気が散りやすいタイプの人間は、テレワークの方が業務効率が上がるようだ。

 テレワーク初日の終業時には舞川主任から褒められた。

「星川君って意外と優秀だったのね。結菜より仕事が速くて正確かも」

 それは舞川主任らしいブラックジョークも含んだ褒め方だったが、優秀、仕事が速い、正確と三つもの賞賛を同時にもらえたのは入社以来初めてだった。

 翌日からも僕は機嫌よく仕事に励んだ。在席管理ソフトは非常によくできていて、慣れるに従って使い勝手が良くなった。チャットをクリックするとテキストメッセージを交わすか、ボイス・チャットが選択できる。舞川主任も僕と同様にタイプ速度は速いが、ボイス・チャットがお好きなようで、何かあるとPCのスピーカーから舞川主任の声が飛んでくる。

「さっき頼んだメールの件はまだなの?」

「すみません、V電器からの質問票の件で品質保証部の片桐さんとのやりとりに手間がかかっていて……」

「片桐さんは若手に厳しいから、V電器の質問票は私が片桐さんをプッシュする。星川君はさっきのメールの件をお願い」

 舞川主任は僕の置かれた状況をよく分かっている。舞川主任も自宅のアパートで一日中ノートPCに向かって仕事をしているので、まるで同じ部屋で二人っきりで仕事をしているような一体感を感じる。杉野先輩の下で働いていた頃には感じなかった種類の一体感だ。

 四月十三日に地道さんからメールが入った。
「ユイナ様、
 次亜塩素酸水生成器の件で進展があり、直接お目にかかって打ち合わせしたいと存じます。二、三日以内にご来訪いただくことは可能でしょうか? 舞川主任から当社の唐田に直接お電話を頂いて日時を決めて頂いても結構です。本件がやっとスタートするにあたり担当者のユイナ様にもお目にかかりたいと唐田が申しておりました。よろしくお願いいたします。 地道」

 やっとeダーム社向けのビジネスが動き出しそうだ。ユイナから担当を引き継いだだけだが自分の案件が売り上げになりそうで喜びひとしおだった。しかし、このメールはユイナが来訪することが発注の条件であるようにも読み取れる。地道には「上司の舞川主任が担当で、自分は秘書のような立場」とユイナの退職前から何度となく伝えてあるのに、今回わざわざ「担当者のユイナ様」と書いてあるのがきな臭い感じがする。ユイナのフリをしているのが実は男であると気づいたのではないだろうか? 

 どう返事をしたらいいのだろうかと悩んでいると、舞川主任からボイス・チャットが入った。

「ユイナ、唐田さんに電話を入れて明日午後二時にアポを取ったわよ。恵比寿駅の東口のマクドナルドに一時半に集合ね」

「えっ、舞川さん、コロナで頭が変になったんじゃないですか? 僕は星川です。ユイナは岩手ですよ」

「この案件ではあんたがユイナでしょう!」

「でも、先方はユイナが女性だと思っているんですよ。明日僕が行ったら、今まで嘘をついていたことがバレて、大変なことになります!」

「私のスカートスーツとウィッグを貸してあげるし、お化粧の仕方も教えてあげる」

「ご冗談を!」

「何言ってんの?! ユイナから引き継いだ時点でいずれこうなることは分かっていたでしょう。星川君なら化けられると思ったから星川君を担当にしたんじゃないの。今更イヤだとは言わせないわよ」

「ウソでしょう……お許しください。男がスカートをはいたらアウトです! それ以外のことならなんでもしますからご勘弁を!」

「なんでもするのね?」

「はい、男に二言はありません。と言っても、死ねとか、舞川さんと結婚しろとかは無しですよ」

「私と結婚するのがイヤなら、明日女装して来てもらうしか無いわよ」

「えーっ……マジですか! ちょっと考えさせてください」

「バーカ、冗談よ。唐田さんに、ユイナは内勤専門という条件で雇った秘書だから同行させられないと説明したら残念がっていたけど、明日は私一人で行くということで了承してもらった」

「よかった……虐めないでくださいよ」

「女装以外なら何でもするという約束が残っていることを忘れないで。それにしてもプロポーズして『考えさせてください』と言われたのにはがっかりしたわ」

「四歳以上年上の女性との結婚はダメだと母から言われているので……」
と出まかせを言うと舞川主任がアハハハと笑ったので、それも冗談だと分かってほっとした。

 

 翌日の午後四時すぎに舞川主任から面談報告書がメールで届いた。それは部長宛ての報告書で、社内の関係部署にCCが入っていた。案件の経緯を含め詳細に記された報告書で「副担当者 星川」と明記されており読んでいて誇らしい気持ちになった。それにしても午後二時からの面談の詳細報告書を四時すぎに送信するとはさすが舞川主任だ。僕はまだまだ足元にも及ばない。きっと面談を終えてからマクドナルドに行って報告書を書いたのだろう。舞川主任が自宅に戻るのは午後五時以降になるだろうから、それまでに何らかの反応を示しておこうと思ってメールを書いた。

「面談報告書を読ませていただきました。自分は何年努力すればこんなにプロフェッショナルで高度な内容の報告書を書けるようになるのだろうかと溜息をつきながら読みました。また副担当者として名前を書いていただき感動しました。私にできることは何でもしますのでご遠慮なくご指示ください。今後ともよろしくお願いいたします。星川(ユイナ)」

 下手にお世辞を言い過ぎると逆効果になるので、そうならないギリギリのレベルまで持ち上げておいたが、今の僕が舞川主任に心酔しているのは事実だった。

 舞川主任からは午後五時半に連絡が入った。

「今日は本当に大変だった。唐田さんを説得するのには苦労したわ」

「お疲れさまでした。さすが舞川主任だと思います」

「次回はユイナを連れて来て欲しいと言われたから『ユイナは内勤専門として雇ったので訪問や面談はできません』と再度押し返したのよ。そうしたら機嫌が悪くなって、話を白紙に戻すことも辞さないという雰囲気になったの。結局、ビデオ会議ならということで唐田さんをなだめることができた」

「ビデオ会議って……僕がユイナのフリをしてビデオ会議で唐田さんや地道さんに面通しするという意味ですか?」

「そういうことよ。唐田さん、地道さん、私とユイナの四人だけのビデオ会議ということで了承してもらったから、他の人に顔を見られる心配は無いわ」

「約束が違います! 僕は絶対に嫌ですから」

「私の報告書は既に何十人もの人が読んでいるのに、星川君が協力しなかったせいで話がオジャンになったと言えば、星川君は会社に居られなくなるんじゃないかな……」

「そんな、ひどい! とにかく僕は男ですからスカートだけは……」

「スカートをはけとは言っていないわよ」

「でも、ユイナとしてZOOM会議に出るんでしょう?」

「ZOOMじゃなくてグーグルMEETでのビデオ会議をすることになった。全身像は映らないから上半身だけユイナの恰好をすればいいの。ノート・パソコンの四分の一に小さく映るだけだから、星川君ならウィッグをかぶるだけでも大丈夫よ」

「本当ですか……? 一度だけウィッグを被って面通しすればいいんですね?!」

「そうよ。唐田さんから来週の月曜日の午後三時にMEET会議を設定するという連絡が入ったから準備しといて」

「はい……」

 安請負やすうけおいをした後で心配になった。ウィッグを被っただけで女に見えるだろうか? 僕が知っている同年齢の女の子は程度の違いはあっても全員が自分を可愛く見せることに工夫を凝らしており、すっぴんの人など見たことがない。ビデオ会議だから腰から下は普段通りで良いのは事実だが、上半身が映るので、胸のふくらみが無いと女でないことがバレる。ペチャパイの子もいるが、一応ブラウスの下には詰め物が入ったブラジャーを着ける必要があるだろう。上半身だけとはいえ、かなり本格的な女装をすることになる。

 待てよ……最大の問題は声ではないだろうか。僕の声の高さは普通だから、声を出したら男だとバレる。勿論、大半は舞川主任がしゃべってくれるだろうが、唐田さんや地道さんが僕に質問をしたら何らかの返答をしなければならない。少なくとも挨拶や自己紹介は避けられない。

 どの程度の高い声を出せるだろうか? 僕はスマホの音声録音アプリを起動して、できるだけ高い声でしゃべってみた。

「いつもお世話になっております。ユイナと申します。今後ともよろしくお願いいたします」

 意外に女の子らしい声が出せたような気がしたが、再生してみて落胆した。テレビに出てくるオカマ・タレントと比較して、せいぜい「中の上」のレベルだ。オカマとしては女らしい声だが、女の子の声とは根本的に違う。これでは男だということがバレるのは確実だ。

 思い余って舞川主任の携帯に電話を入れた。化粧の事、胸の膨らみのこと、そして最大の難関の声に関する僕の心配をぶちまけ、やはりMEET会議の出席は無理だと訴えた。舞川主任は意外なほど冷静に僕の話を聞いていた。

「星川君がいつ泣き言を言って来るかと待っていたんだけど、やはり気がついたのね。唐田さんにはMEET会議にユイナを出すことを再確認するメールを送ったばかりだから、キャンセルするのは無理よ。でも、私が助けてあげるから心配しないで」

「どうやって助けてくれるんですか?」

「明日は仕事が立て込んでいるから、明後日の土曜日にウィッグと衣装を貸してあげる。その時にお化粧の仕方も指導するわ」

「声はどうするんですか?」

「会議までには丸四日間あるから今から特訓するのよ。今日私が送った報告書を女声おんなごえで朗読して、少しでも生のユイナの声に近づくように何度も何度も練習しなさい。今夜寝る前に音声ファイルを私の個人メールあてに送っといて。会社のアドレス宛てに送ってもいいけど、何かの拍子に他の人に転送しちゃったら困るでしょ」

「分かりました……。じゃあ、これから報告書の音読にチャレンジしてみます。舞川主任、その練習って仕事のためだから残業扱いになりますよね?」

「勿論よ。声のボイストレーニングも、土曜日のお化粧も、星川君の女性化訓練のための残業代として課長の許可を得ておくわ」

「け、結構です。これはあくまで自己研鑽のためですから残業代の請求はしません!」

 スマホに向かって舞川主任の面談報告書の朗読を開始した。声をかなり高くしたつもりで最初の段落を読んだが、再生してみると、先ほどと同様オカマ・タレントのような男声だった。報告書の内容は女言葉ではなく中性的な(どちらかと言えば男性的な)表現なので、余計に難しかった。

 やはり声を高くしなければ女には聞こえない。裏声にするのが近道だと思ってヨーデル・ソングの「山の人気者」を歌ってみた。「ユーレイティ ユーレイ ユーレイティ」と歌ってファルセット(裏声)の出し方を練習し、その要領でスマホに向かって面談報告書を読んだ。再生すると表声おもてごえよりもオカマ丸出しだった。

 裏声で歌う時よりも更に高い声で面談報告書を読むと、オカマには聞こえないが、アニメの動物のような感じになった。その際に喉を絞めて声を頭から出すように意識すると、可愛いアニメ少女に聞こえた。

「これだ!」
と僕は可愛いアニメ少女の声で叫んだ。喉を絞めて声を頭から出すのが女声に聞こえるコツなのだと思った。

 同じ要領で表声で発声すると、自分でもびっくりするほど女らしい声に近づいた。面談報告書の朗読の録音と再生を繰り返すうちに、口を丸く開けたり、声を喉の下の部分に響かせるとオカマっぽい響きになることが分かった。

 空腹も忘れて試行錯誤を続けた結果、コツが掴めてきた。気がつくと午後十一時を過ぎていた。今夜のうちに面談報告書を朗読した音声ファイルを舞川主任に送らなければならない。スマホに向かって読み始めたが、女声の発声ばかりに意識が行って、報告書の意味が疎かになった。再生してみると、性別不明の人物が報告書の内容を理解せずに音読している感じだった。こんな音声ファイルを送ったら舞川主任が激怒する。僕は再度報告書を最初から朗読して録音した。

 結局、これなら叱られないだろうと思われる音声ファイルが完成したのは午前二時で、僕は風呂にも入らずに爆睡した。

 翌朝目が覚めると午前八時五十分になっていた。顔を洗って服を着替え、食パンをトーストせずにマヨネーズを塗って牛乳で流し込んだ。

 ノートパソコンを起動して何とか始業一分前に執務態勢に入ることができた。

「寝ぼけた顔をしてるわね」
と舞川主任からボイス・チャットの声が聞こえた。僕からは舞川主任の顔は見えない。

「でも今朝は許す。音声ファイルの送信時刻から判断して努力の跡がうかがえるから。面談報告書の朗読を聞いたけど、男性が読んでいるとは思えなかったわ。もう少し高い声を出さないと、二十三歳の女性らしくないけど」

「あれ以上高い声を出すのは無理です」
と言ったが、殆ど声にならなかった。

「今、何て言ったの? もっと大きい声で話しなさい」

「あれ以上高い声を出すのは無理です」
 風邪をこじらせて声が出なくなった女の子のようなしわがれ声だった。昨夜、何時間も喉を絞めつけて声を出したせいで、声が潰れてしまったようだ。喉が痛かった。

「裏声気味の高い声なら出るんじゃないの?」
と舞川主任に言われた。

「舞川主任は男が高い声を出すことがどんなに大変なのか分からないから勝手なことが言えるんです!」
と裏声気味の高い声で反発した。

「その調子! 今日は一日中その声で話しなさい。今日だけじゃなくてビデオ会議までの丸三日間その声しか出さないようにするのよ。いいわね、ユイナ!」

「そんなの無理です。コンビニのレジで払う時にこの声で『ペイペイ』と言ったら、変な人かと思われます」

「ビデオ会議が終わるまでは現金で払えばいいわよ」

「この声では、社内の他の部署との打ち合わせができません」

「『風邪で喉を壊したのでメールで失礼します』と言ってメールで済ませるとか、ボイス・チャットの代わりにテキスト・チャットにすればいいわ」

「新型コロナでリモートワークをしている時に喉がイカレルほど風邪を引いたと言うのはまずいでしょう!」

「言い訳ぐらい自分で考えて何とかしなさい。これは業務命令よ」

 舞川主任から業務命令と言われると従うしかない。しかし、一日中女声をしゃべれなどという業務命令が正当かどうかは極めて疑わしい。

 実際にやってみると大したストレスは無かった。もし会社で一日中女声を出していたら「その手の人」とレッテルを貼られるだろうが、テレワークだと話す相手は事実上舞川主任だけだ。たまに他の人からボイス・チャットが入ると、マイクに口を近づけて「すみません、声が出ないんです」とヒソヒソ声でささやいてから、メッセージをタイプすると、それ以上は追及されなかった。

 舞川主任も忙しいので、一時間にせいぜい四、五回ボイス・チャットが入るだけだった。さすがにそれでは練習にならないと思ったのか、「今来たメールを音読しなさい」と言われたり、人事部からの通達を読み上げさせられた。

 抵抗を感じたのは舞川主任から「星川君」ではなく「ユイナ」と呼ばれるようになったことだった。舞川主任は僕に女声でしゃべらせようという意図で僕を副島結菜に見立てて僕に接しているようだった。僕はユイナと呼ばれる度にドキリとして、結菜が聞いていないだろうかと心配になって辺りを見回したくなった。

 ボイス・チャットで「僕は」と言うと、
女声おんなごえでしゃべっている間は女の子なんだから『私は』と言いなさい。プライベートな話をする時には『アタシは』でもいいけどね、アハハハ」
と言われた。冗談と分かっていても、女の子扱いされると変な気持ちになって胸が締め付けられるような気がするのが不思議だった。

 何事もなく一日は終わった。翌日の土曜日に僕が舞川主任のアパートに行って、上半身の女装と化粧の手ほどきを受けることになった。舞川主任が僕のアパートに来てもいいと申し出てくれたが、住んでいる場所まで上司に見られると何もかも見透かされるような気がしたので断った。それに、一人暮らしの女性の生活実態を見てみたいという気持ちもあった。二十代後半とは言っても、客観的に見ると舞川主任はかなりのレベルの女性であり、同期の友人から「星川は美人の上司の下で働けて羨ましいな」と言われたことも二度あった。

 その夜、舞川主任から言われた通り、昨夜と同じ面談報告書を三度音読して、最終版をメールで舞川主任に送っておいた。


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