百年越しの縁
スペインかぜの真っ只中で
【内容紹介】タイムトラベルと男女入替りが絡む壮大な長編小説。医学博士号を持つ32歳のサラリーマン辻村雄斗とその部下の新入社員桜木果恋は、百年前から来た使者の要請に応じて、スペイン風邪が流行する大正9年にタイムトラベルする。目が覚めると辻村博士は果恋の身体に入れ替わっていた。
第一章 ドクター・ジア
僕は大手医薬メーカーの診断薬関係の関連企業に勤める三十二歳のサラリーマンだが、医学博士だ。名刺交換の際によく「お医者さんですか」と聞かれるが医師ではない。関西の国立大学の農学部の修士課程を出てこの会社に就職したが、研究部に勤務しながら提携先の大学の医学部で博士号を取った、いわゆる論文ドクターだ。医学部の教授の下で博士号を取れば医師免許を持っていなくても医学博士になるし、医師でも農学部の教授の下で博士号を取れば農学博士になる。
日本では博士号を持っていても「三、四年間も余計に学費を払うだけの意味があるのか?」と言われるのが現状だが、欧米人と面談する際にはとたんに博士号に価値が出る。上司の鈴木課長が「ミスター鈴木」と呼ばれる横で、僕は「ドクター辻村」と呼ばれる。もし「ミスター辻村」と呼ばれたら「アイ・アム・ドクター・ツジムラ」と自分から訂正を求めても不適切な言動にはならない。それよりも博士号を持っている人とそうでない人が同じ研究部門に居れば、海外の会社では博士号を持っている人が上級職である可能性が高い。日本の企業では博士号を取得しても資格手当も付かないことが多いが、アメリカの会社なら雇用条件自体が変わってくるのだ。
ついそんな愚痴めいた話をしてしまうのは、博士号を取得した僕に対する社内の人の態度があまりにもそっけないからだ。僕は博士号を取る前と同じように「おい、辻村」と呼ばれ、特段の敬意を感じない。
「医学博士」の博士号の方は無視されているが、実は僕は医学博士号とは別に「ドクター」と呼ばれている。正確に言うと「ドクター・ジア」である。
ジアとは次亜塩素酸水の「次亜」のことであり、僕は今年の二月から次亜塩素酸水の権威として社内外で一目置かれる人間になった。中国で新型コロナ肺炎が発生したことについては一月下旬からニュースが流れていたが、豪華客船プリンセス・ダイアモンド号が横浜港で立ち往生するまでは新型コロナ肺炎について殆どの人が気にも留めていなかった。
そうこうしているうちにマスクが品薄になり、会社の出入り口にアルコール消毒用のスプレーが置かれたり、非接触型体温計で体温チェックされるようになった。僕は男性としては清潔好きな方なので自分のアパートでもアルコール消毒を励行しようと思い立ち、アマゾンでアルコール消毒剤を探したところ、当然数百円程度だろうと思った商品が二、三千円もの価格で売られていたので、バカバカしくなって買わなかった。ところが、そのうちに二、三千円でも手に入らなくなり、ヤフオクで一万円出せば買えないこともないという状況になってきた。
僕の頭の中でエタノールとはサトウキビの搾りかすなどを原料にして発酵により製造され、国際的にはガソリンよりも安い素材というイメージがあったので、リッター数千円ものお金を払ってアルコール消毒剤を買う気にはなれなかった。
そこで目を付けたのが次亜塩素酸水だった。次亜塩素酸水は食塩水を電気分解することで製造できる超低コストの素材だが、適切な使用方法、PHと残留塩素濃度の条件を守れば、アルコールに負けない殺菌能力がある。僕は自宅で電気分解装置を組み立てて次亜塩素酸水を製造し、自分の手指の殺菌に使うだけでなく、会社に持って行ってこれ見よがしに使い、職場でも希望者に分けてあげた。
あまり技術的な事を言うと敬遠されるので詳細は省略するが、次亜塩素酸水を単純に電気分解すると、キッチン・ハイターを水で薄めたようなアルカリ性の次亜塩素酸水しかできない。毎日手指を消毒しても肌荒れしないのは弱酸性の次亜塩素酸水であり、製造するには陽極側と陰極側を隔膜で隔てた「二槽式の電解槽」を使って電気分解する必要がある。僕はペットボトルを二本組み合わせて弱酸性の次亜塩素酸水が簡単に作れる簡易型の二槽式電解装置を考案した。
職場で僕に「次亜塩素酸水を分けて欲しい」と頼みに来る人は女性が大半で、当初は同じ部署の女性だけだったが、その友達や、さらにその友達の女性までが僕に頼みに来るようになった。毎日家に帰ると電気分解を一回実施して約二リットルの弱酸性次亜塩素酸水を製造し、翌朝それを会社に持参しては女性たちに渡すのが日課になった。
塩素濃度が約百PPMの弱酸性次亜塩素酸水を二リットル製造するためにかかる費用は、浄水器を通した水道水が約二リットル、食塩が四グラム、電力が約三ワット・アワーであり、僕の計算では約一円弱になる。但し、この計算には二キログラムの液体を毎朝会社に持って行くのに必要なカロリー源(すなわち食物)のコストは入っていない。
一方、会社の女性たちからは感謝の言葉と笑顔だけでなく、お菓子、果物、マクドナルドのギフト券など、様々なお礼が返って来るので、僕の次亜塩素酸水事業は極めて収益性の高いものとなった。おまけに今までなら視線を交わす可能性すらなかった他部署の美人女性たちとも気軽に会話できる立場になった。
そんな僕のことを当初「次亜塩素酸水の辻村さん」と呼んでいた女性たちは「次亜塩素酸水の権威で博士号を持っている辻村さん」と認識するようになり、やがて「ドクター次亜」で通るようになった。自尊心が満たされる心地よい呼称だ。
ところが、男性の上司や同僚は僕を「ドクター」と呼ぶのがシャクなのか、単に「おい、ジア」と呼び捨てにする。それを職場の女性も真似して「ジア」と呼び始めた。女性たちの「ジア」には親しみと敬意が感じられるが、男性から「ジア」と呼ばれるのは嬉しくない。というのは、海外営業部にいる先輩からGIAはイタリアの女性の一般的なファーストネームだと聞いたからだ。男からジアと呼ばれると揶揄されている気がして気分が悪かった。
僕は昨年の夏までは研究員として診断薬の開発に携わっていた。提携先の大学が特定したリガンドを抗原とする抗体を作成し、そのリガンドを抗原抗体反応により検出するための試薬や診断薬を開発する業務に従事していたわけだ。九月の人事異動で僕は研究部から研究開発計画室の主任になり、研究室で手を動かす仕事からデスクワークに鞍替えになった。
主任と言えば聞こえはいいが、部下は昨年四月に入社した桜木果恋一人だけだ。果恋は都内の女子大の分子生物学科の卒業生であり、抗原・抗体の何たるかについて最低限の知識を持っている。本来なら研究員のアシスタントないしはオペレーター要員として採用されるレベルの女性が何故研究開発計画室という頭脳労働型の職場に配置されたか? その答えは簡単だ。それは果恋が美人だからだ。
新卒者の役員面接の際に研究部門を統括する八代常務が果恋に目を付け、常務のお膝元の部ともいえる研究開発計画室の配属になるよう人事部に圧力をかけたと社内の噂で聞いたことがある。
「辻村は美人の部下が居るから毎日会社に来るのが楽しみだろう」
と営業部の同期の有田に言われた。
有田は全く分かっていない。気まぐれで言うことを聞かず本人が意識しているほど賢くない美人を部下に持つのと、優しく気が利いて指示通りに仕事をする頭のいいブスを部下に持つのとどちらが幸せか、答えは簡単だ。どちらもさほど幸せではないというのが僕の答えだ。どうしてもいずれかを選択しなければならない状況に追い込まれたら、僕は一晩悩んだうえで後者を選択するだろう。
果恋は結婚相手の候補としては僕の目から見ると更に評価が低い。遺伝的な観点で、美人のDNAを持っているとは言い切れないからだ。一目見ると「美人だ」とか「可愛い」という印象なのだが、女優に例えると北川景子とか井川遥のような典型的な美女ではなく、果恋はタレ目であり、動物に例えるとタヌキ目だ。本人はそれを気にしており、一度僕が「桜木さんはタヌキに似ているね」と言ったところ烈火のごとく怒って「セクハラです」と怒鳴られたことがある。
ただ、外観的に見て「可愛い」のは間違いない。身長は百六十三センチで女性の平均より背が高いが身体の割に頭蓋と上半身が小さく、男性社員の間では華奢で可愛い感じの女子社員という印象を持っている人が多いようだ。
***
新型コロナ肺炎の診断薬の開発については、二月に入ってから経営陣からのプレッシャーが強くなった。当社はPCRは手掛けておらず、当社が開発可能なのは抗原または抗体を免疫学的方法により測定する試薬及び測定キットだ。コロナウィルスのスパイクタンパク質及びヌクレオカプシドタンパク質は組み換えタンパク質試薬として入手可能なので、これらのタンパク質を抗原とする抗体の作成は比較的容易だ。そこそこ感度の良いELISAキットの開発については既に目処が立っているが、当社で製品化すべきかどうかについては意見が分かれていた。その気になればだれでも開発できる製品であり、競争相手が多すぎる。研究用試薬として発売するのは容易だが、臨床用の診断薬としての開発には膨大な時間とマンパワーがかかる。
僕の個人的意見としては「ノット・ゴー」が正解だと思うが、社長があちこちで「発売予定」と公言してしまったようなので、少なくとも試薬は発売せざるを得ないものと覚悟して、製品化のためのマンパワー配分を調整中だ。
会社では出張の自粛が始まり、顧客企業、研究機関、大学などとのテレビ会議が盛んに行われるようになった。経営企画室が推進役となってテレワーク導入のための検討が進んだが、研究部門の仕事でテレワークが可能なものは限られている。研究室に行かないとできない仕事が大半だからだ。僕の研究開発計画の仕事はテレワークも可能だが、やはり研究員との直接の会話を通して初めて見えてくる部分も大きいので、当面は毎日出勤するつもりだった。
ただ、社員の間では新型コロナ肺炎をさほどの脅威と受け止めている人は少数派だった。僕は三月二十日の金曜日からの三連休を利用して営業部の同期の有田と一緒にキャンプに行く計画をしていた。有田は同じ大学を卒業した気の合う友人で、二人とも独身なので一緒に遊ぶには都合がいい。有田はホンダ・フリード・プラスという後部座席がフラットベッドになる車を持っており、週末にはあちこちに車中泊旅行に行っているようだ。大人二人が足を伸ばして寝られるスペースがあると自慢しており、今回はどこかのオートキャンプ場で「ゆるきゃん」をしようということになった。
「ゆるきゃん」とは多分「ゆるいキャンプ」の略語であり、元々「ゆるキャン△」という題名の人気漫画のことだ。ちなみに△はテントの形を表す記号であり発音はしない。山梨県周辺を舞台に、女子高生たちがゆったりとした気分でアウトドアを満喫するという何でもないストーリーのシリーズもののマンガなのだが、実写ドラマ化されて一月から深夜枠で放映されていた。主演は福原遥で、その友人として四、五人の若手女優が出演している。僕はその中の一人である箭内夢菜の大ファンなので「ゆるキャン△」は毎週録画して欠かさず見ていた。
僕はゆるキャン△のテレビドラマの舞台となった山梨県のキャンプ場に行きたかったが、有田の提案により栗山村にあるオートキャンプ場に行くことになった。栗山村は地名的には栃木県日光市だが栗山村の大半は人里離れた大自然の中にあり温泉も点在する。オートキャンプ場から徒歩圏内に日帰り温泉があるとのことなので、バーベキューをしながらワインを飲み、温泉に入り、満天の星空の下で飲み明かそうという話になった。
三月十八日の夕方、終業のメロディーが流れるのとほぼ同時に有田が研究開発計画室の僕のデスクの所に来て、オートキャンプの段取りについて打ち合わせをした。
三月二十日金曜日の午前七時に僕が有田のアパートの最寄りの新小岩駅まで電車で行き、有田の車に乗ることになった。首都高のICまでは五分ほどであり、東北道から日光宇都宮道路で日光ICまで行くのに約二時間、そこからオートキャンプ場までは四十五分ほどの道程だ。
何事にも親切な有田の申し出により、食料品と飲料は全て有田が予め購入し、僕は自分用の寝袋と衣類だけを持って行けばいいことになった。
果恋は午後五時三十五分までには退社するのが普通なのだが、その日はまだ何やら仕事をしていた。果恋がパソコンのモニターを見ながら時々チラチラッと僕の方を見るのが気になっていた。
「キャンプ場から歩いて行ける温泉って何時まで開いているの?」
と僕は有田に聞いた。
「午後五時までと書いてあったよ」
「じゃあ、昼にバーベキューをして、コーヒーを淹れて、しばらくぼーっとしてから温泉まで歩いて行こう。たっぷり二時間ほど温泉に入ってからキャンプ場まで歩いて帰って、夜はチーズとナッツでもつまみながらワインを飲もうよ」
「そうだな、腹が減ったらカップラーメンでもいいな。あくせくせずにゆったりとした気持ちで過ごすのが、ゆるキャンの真髄だよね」
「いいねえ、ゆるキャン」
と僕が相槌を打った。
「辻村さんたち、どこにキャンプに行くんですか?」
と想定外の方向から声が掛かった。有田と僕は同時に果恋に顔を向けた。
「裏日光の栗山村のオートキャンプ場だよ」
と僕は答えた。
「ゆるキャン、いいなぁ……私も行きたいなぁ……」
小学生の女の子が買って欲しいものを親にねだるような顔をして果恋が言った。
「桜木果恋さん、でしたっけ?」
いつも果恋のことを僕に聞きたがる有田が、まるで名前が不確かであるかのように聞いた。
「あ、はい」
「桜木さん一人なら乗せていけますよ。荷物が多いから二人は無理ですけど」
と有田が丁寧な言葉で切り返したのには驚いた。
「待てよ、有田。男二人に若い女性一人というのはまずいだろう!」
「大丈夫だよ。辻村も俺も草食系だから安全だよ」
「そういう問題じゃないだろう」
「私は平気ですよ、ぜーんぜん」
「いや、しかし、フリードに寝られるのは二人だけじゃないか」
「辻村と俺がテントに寝て、桜木さんが車で寝ればいいんだ」
「えーっ、簡易テントで地べたに寝るのかよ……」
「しっかりした大きい方のテントを持って行くよ。テント・マットも用意するから、辻村は予定通り寝袋だけ持って来ればいい」
有田はあくまで果恋を連れて行くつもりになっている。
「ヤッター!」
果恋は握った右手を真上に上げるポーズをして叫んだ。
「桜木さんの車中泊用の寝具は俺が準備するけど、夜は寒くなるから冬用のダウンジャケットとズボンを持って来た方がいいな」
「スキー用のでもいいですか?」
「完璧だ」
「あのぅ……温泉って混浴じゃないですよね?」
「その温泉は男女別だよ」
と有田が恥ずかしそうに答えた。
「ああ、よかった」
――何を考えてるんだ、コイツ!
有田は競馬で三連単を的中させたかのような表情になっている。有田にとって果恋はどストライクのタイプであり、果恋が僕の部下になって以来、折に触れては果恋のことを話題に出したがっていた。有田としては自分の好きなタイプの美女から突然逆ナンされたような気分なのだろう。
僕は男二人でゆっくりするつもりだったのに、有田のための合コンに付き合うような感じになってしまった。本来、若くてきれいな女の子とキャンプに行く機会は貴重なはずだが、結婚対象としての評価が低い果恋が相手では手放しで喜べない。まあ、有田のために一肌脱ぐしかないか……。
***
木曜日の夜、僕はリュックサックに衣類と次亜塩素酸水の製造装置一式を詰めた。次亜塩素酸水の電気分解装置とは、二リットルのペットボトルの先端部分をカッターナイフで切り落としたもの、小ペットボトルの上部に二センチ角の穴を開けたもの、直径一センチで長さ十センチの炭素電極棒に被覆銅線を固定したもの、それと太陽電池だ。その太陽電池は折りたたむとB4サイズになり、二十ワットの電力が供給できるすぐれモノで、これがあれば災害で停電した時でも次亜塩素酸水を製造できると思いついて、秋葉原で買ってきたばかりだった。
金曜日の午前七時五分前に総武線の新小岩駅の出口で果恋と待ち合わせをした。僕が行くと既に果恋は来ていた。ボルドーのウェストベルトのワイドパンツにグレーのジャージー風のセーターを着てつばの大きい野球帽のようなキャップをかぶった果恋は、ハイティーン向けのファッション雑誌から抜け出したかのようにサマになっていてドキリとした。
「何だオマエ、キャンプに行くのにまるでロングスカートみたいな恰好をして来たのか」
と僕は照れ隠しで心にもない批判的なコメントをした。
「辻村さんから『オマエ』と呼ばれる筋合いは無いわ、セクハラよ!」
「す、すまん……桜木さん……」
「果恋でいいわよ、でも『オマエ』はイヤなの……。男の人にはロングスカートみたいに見えるかもしれないけど、このワイドパンツはとても歩きやすくて活動的なのよ。ゆったりしているから車の中やキャンプ場でも過ごしやすいし……。一応、ズボンも持って来たから」
と自分の大きなショルダーバッグを指さした。会社では上司である僕に対して基本的に敬語を使う果恋から友達のような言葉遣いをされて、妙に心がときめいた。
果恋はとても危険だ。子羊のように無垢で純真に見えたかと思うと、次の瞬間にはツンとして男を突き放す。こちらがシュンとなると途端に優しくなって女を前面に出す。千変万化でウィットに富んでいるから、部長も常務も果恋の前ではひとたまりもない。栗山村から東京に戻って来るまでには、有田も完全に骨抜きにされていることだろう。
ひょっとしたら月曜日までにカップルが成立するかもしれない……もし果恋にその気があればの話だが。果恋は有田を自分の彼氏として適格であると感じたからこそ連れて言って欲しいと言い出したのかもしれない。そう思うと寂しさが込み上げる。いや、それは変だ。僕は果恋がどの男と結びつこうが、どうでもいいはずなのに……。
有田のフリードが到着し、ハッチバックのドアを開けて僕たちの荷物を積んだ。キャンプ道具や寝具はトランクスペースには収まりきらず、後部座席の半分は荷物で一杯だったが、果恋は後部座席の左端に座り、僕は助手席に座った。
「桜木さん、ごめんね。荷物が思っていたより沢山になって」
「全然大丈夫ですよ。私、場所を取りませんから」
と果恋はとても小さい少女のような感じの可愛らしい口調で答えた。
「俺、まだ自己紹介していなかったよね。営業部第二課の有田文明、三十二歳、独身、実家は静岡で二人兄弟の次男、趣味は車中泊旅行と写真撮影、好きな女優は竹内結子と松本穂香」
――オイオイ、婚活パーティーかよ!
「うわぁーっ、私、松本穂香に似ていると言われることがあるんですぅ」
――確かにタヌキ顔だよな。
「俺はO型だけど桜木さんの血液型は何?」
「果恋って呼んでください。何型だと思われます?」
「俺はA型がタイプなんだけど」
――このいい加減な女がA型なはずがないだろう。B型だよ……僕もだけど。
「じゃあA型です!」
――キャンプ場で怪我をしてA型の血液を輸血したら死んじまうぞ!
僕が次亜塩素酸水の電気分解装置を持って来たことを自慢すると、
「辻村さんも好きですねぇ」
と好意が混じった揶揄が果恋から返って来た。
「沢の水と太陽の光で電気分解するってか? ロマンチックと言うべきか子供っぽいと言うべきか……」
と有田が呆れたように言った。
「スマホの電池が切れた時にも太陽電池が役立つんだから」
「バカだなあ。このフリードの横にテントを張るんだから、スマホの電池が切れたらすぐにこのシガープラグから充電できるさ」
と有田が悪態をついた。
佐野SAにトイレ休憩に立ち寄るまでの間に、有田と僕は果恋を「果恋」と呼び捨てにして、果恋はタメ口でしゃべるようになっていた。短時間のうちにそんな状況にしてしまうのが果恋の能力でもある。
第二章 栗山村のキャンプ場
真っ青な空に層雲がぽつぽつと浮かぶ気持ちの良い春の朝だった。有田が運転するフリードは東北自動車道から日光宇都宮道路へと進み、龍王峡駐車場で二回目のトイレ休憩をした。川治ダムの横を通って県道23号を走り「平家杉」の前を通ってオートキャンプ場に到着したのは午前十一時だった。
受付で二泊分の料金として七千円を支払い、一番奥のオート・サイトを確保した。オートキャンプ場に来るのは初めてだったが、トイレや洗い場がしっかりしていて使い勝手が良さそうだ。確保したオート・サイトまで車で行って早速テントの設営に取り掛かる。有田は慣れた手つきでポールをつなぎ合わせ、僕は有田に言われるままに手伝った。果恋が手を貸すまでもなく、二十分後にはオレンジ色の立派なテントが建っていた。二、三人がゆったりと寝られそうなサイズのテントだ。
有田はポータブルの布椅子をちゃんと三人分持って来ており、組み立て式のバーベキュー・コンロを設置すると、それらしい雰囲気になってきた。バーベキュー・コンロに木炭を並べて着火剤のジェルを垂らす。火をつけて団扇であおぎ、木炭が十分赤くなったことを見届けてから残りの木炭を敷いた。有田が大きなクーラーボックスから肉と野菜を取り出し、僕と果恋がコンロの網の上に並べた。タマネギ、ジャガイモ、ピーマン、シイタケ、キャベツはバーベキュー用に切ってあった。
「四回分に分けてビニール袋に入れてあるから、簡単にバーベキューが楽しめる」
と有田が当然のように言った。
「すっごーい! そんな男性と結婚する女性は楽よねー」
その女性が自分でないことを想定した口調で果恋が言うのを聞いて有田がべそをかいたのを僕は見逃さなかった。缶ビールで乾杯し、焼けた肉から箸で取って味ぽんで食べた。こんな時に焼き肉のたれではなく味ぽんを持って来るところが有田らしくていい。
缶ビールは一人一缶だけで、二杯目からは赤ワインになった。有田は三リットル入りのボックスワインを買って来ていた。有田の見解によると、ボックス入りの赤ワインは開封後も中身が空気に触れず長持ちするし、ビールは冷やさないと不味いが、赤ワインは常温でも飲めるのでキャンプには適しているとのことだった。
お酒が回って会話が弾んだ。有田と僕はコロナウィルスの話、趣味の話、大学時代の思い出、好きなテレビドラマとそれに出演している女優の話、会社の女の子の話や、無能な上司の話に至るまで普段一緒に飲むときと同じような会話をした。果恋は僕たちの会話の障害にならないばかりか、絶妙のタイミングで女の子らしい切り口でコメントをしたり、僕たちが思いもつかないような話題を差し挟んで、会話を豊かにしてくれた。
僕はこれまで果恋に関して、美人だがツンとした自己中のお嬢さんというイメージを持っていたが、それは狭量から来る偏見だったのかもしれない。仕事を離れて見る果恋は空気が読めるだけでなく良い空気を自ら作り出して周囲の人の心を暖かくする女性だった。こんな若い美人と一年近く会社で毎日接しながら、一度として食事にすら誘わなかった僕は何と鈍感だったのだろう……。
木漏れ日が急に柔らかくなり、スマホを見ると午後三時を過ぎていた。木が密集していないキャンプ場では、太陽が真上にある時は陽射しが強いが、少し日が傾くと木陰が広がるのだ。果恋がセーターの上に白いウィンドブレーカーを羽織り、僕は……そして間違いなく有田も……若くて魅力的な異性と同じ空気を吸っているという喜びを新たにした。
バーベキューコンロの網を洗い場できれいにしてから、三人で温泉へと向かった。キャンプ場を出て平家杉の方向へと舗装された田舎道を歩く。果恋を真ん中にして並んで歩くが、果恋は道端の花を見つけて佇んだり、急に歩調を速めて僕たちの方を振り返ったりする。八歳若いとこれほど元気さに差が出るのか! いや、アルコールが入って果恋なりにはしゃいでいるのだろう。そうだとすればとてもいいお酒だ。野球帽の後頭部から出ているポニーテールが軽やかに踊り、ロングスカートのようなワイドパンツが優雅に舞う。果恋は会社では少しヒールがあるパンプスを履いているが、今日は底の薄いスニーカーを履いていて、僕との十センチの身長差がもろに感じられる。ゆったりとした白いウィンドブレーカーとボルドーのロングスカートのようなワイドパンツが頭蓋の小ささを際立たせる。果恋は眩しいほど美しかった。
左のわき道に入ってしばらく進むと、町営の共同浴場の看板が見えて来た。
昔ながらの風呂屋のような外観だが「源泉かけ流し」と書いてある。料金は一人五百十円だが、オートキャンプ場の利用者には三百円の割引料金が適用される。この共同浴場は五時までだから、五時に閉館になり次第、外で落ち合うことにした。果恋は女湯の赤い布暖簾へと消えて行き、名残惜しさを感じながら僕と有田は男湯の紺の暖簾をくぐる。
長方形の湯舟に赤く濁った源泉が湯口から噴き出している。かけ湯をして足を踏み入れ、大窓の向こうに流れる鬼怒川を見渡してから有田と並んで腰を下ろした。
「いい湯だ、最高だな」
大きく息を吐いて有田が言う。
「僕には少し熱いけど」
気づかないうちに身体が冷えていたようだ。三月下旬に入ったとはいえ、鬼怒川べりの標高七百五十メートルの此の地では冬が明けたばかりだ。
「果恋っていい子だな」
「そうだな」
と僕は素直に肯定する。
「辻村はあんなかわいい子が毎日そばに居るのに、よく鼻血を出さずに仕事ができるな」
「オイ、聞こえるぞ! 壁の上は開いているんだから」
「温泉ってのはお湯が注ぐ音がしているし、よほど大声で話さないと聞こえないから大丈夫だよ。仮に聞こえても問題ないさ。褒めてるんだから」
「鼻血が出ると言われて褒められたと感じる女がいるかな? セクハラで不愉快だと思うんじゃない?」
「俺が果恋にアタックしてもいいんだな?」
「別に僕は保護者じゃないから、僕の許可を取る必要は無いよ」
「もし辻村が隠れて付き合っているのに俺がちょっかいを出したらまずいじゃないか」
「彼女と個人的な付き合いは一切したことがない」
「じゃあ、いいんだな?」
「彼女に将来声を掛けないという約束はできないけど」
「オッケー。恨みっこなしの自由競争ということで」
有田にそう宣言されると、何か取り戻せないものを失ったような気持になった。
洗い場でシャンプーと石鹸を使い、再び湯船に入る。熱くなると浴槽の縁に座り、出たり入ったりを繰り返して、ゆったりとした時間が過ぎて行く。その間、何人もの客が入って来ては身体を洗って出て行く。ここは地元の人たちの生活の場なのだ。毎日こんな源泉かけ流しの温泉に入れる生活が羨ましい。
「もうすぐ五時みたいだな。そろそろ出ようか」
と有田に言われ、湯船を出て身体を拭いた。
「先に出て外で待ってるけど、果恋はゆっくりして」
と男湯と女湯を仕切る壁の情報の空間に向かって僕が叫ぶと、
「はーい」
と答える果恋の声がした。もし果恋と結婚して日帰り温泉に行ったら、こんな風に「出て待っているよ」と叫んで果恋が「はーい」と答えるのだろうか……。
***
外はまだ明るいが共同浴場の前の広場から見える山裾は赤く染まり始めている。果恋が出て来たのは十分後だった。
「お待たせしてゴメンなさい」
「ぜーんぜん!」
有田と僕が同時に答えた。
真っ白な頬がふわふわしていて、普段のシャープなタヌキ目の輪郭がやわらかだ。化粧っ気のない果恋は壊れそうなほどかよわい少女に見えた。これが本当の果恋なのだ。彼女の身体に触れたいという衝動を抑えるのに必死だった。
元来た道をゆっくりと引き返す。キャンプ場が見えて、下り坂を降りると、もうそこは管理事務所の前だった。
フリードの後部座席とトランクに置かれている荷物を助手席とテントの中に仕分けして移動し、後部座席の背を前に倒してフラットスペースを作った。
広い! 百七十三センチの僕でも楽に寝られそうな広さだ。
折りたたみ式のウレタンマットを広げてフラットスペースに敷き、その上にシーツを敷いた。封筒型の赤い寝袋を広げると果恋の寝床が完成した。
「寝袋はクリーニングしたばかりだから安心して中に潜って大丈夫だよ」
有田は一見ガサツだが、実際にやることには清潔感がある。概して女の子は清潔な男性が好きだから、有田に一本取られた気がした。
僕と有田もテント・マットを敷いてその上に寝袋を広げ、いつでも寝られる準備を整えた。赤く弱々しい日が射したかと思うと急に暗くなり、頭上には樹々の合間に蒼暗い空が見えた。東京では見られない色の空だった。
有田がLEDのヘッドランプを頭につけてバーベキューコンロに木炭を並べ、着火剤のジェルを塗って点火した。赤い火が暗闇に映えて美しい。縄文の昔から人は火を使ってきた。闇の中に燃える火の色は三千年前も今も同じだ。東京では体験できないピュアな暗闇がここにある。管理棟から洩れる電灯が無ければ完璧なのだが……。
昔の人も暗闇で炎を見て、更に昔の世界に思いを馳せたのだろうか? 暗闇と火。その組み合わせには時空を超えて人を誘引する力があるような気がする。
昼間に飲んだワインが完全には抜けきっていないせいか、あまり空腹を感じなかったが、有田が野菜と肉の入ったビニール袋をクーラーボックスから取り出して網の上に並べるのを見ているとお腹が空いて来た。
バーベキューコンロの周囲に立って左手にワインを入れたプラスティックのコップを持ち、右手に持った箸で網の上の野菜をひっくり返しながら、赤く焼けた木炭に目を凝らした。時々線香花火のような小さな火花が飛び、パチパチと音を立てるのが面白い。まるで生き物のようだ。
その時、僕に向かって立っている果恋の背後の林で何かが動く気配がした。小動物ではなく、大きいものがゴソゴソッと動くような気配だった。栗山村の山中で、しかも鬼怒川沿いだからどんな動物が出てきてもおかしくない。僕は有田と果恋にも注意を促して、音がした辺りを凝視した。
「有田、着火剤とライターは持っているな? もし熊だったらそこに落ちている枝に火を点けるのが良いと思う」
「よし、まかせておけ」
有田はすぐ近くに落ちていた木の枝を拾った。
「怖いわ!」
と果恋が僕の所に来て背中にくっついた。僕は有田に勝った気がした。
再び何かが動く気配がして、林の中から人影のようなものが現れた。
「あれ、人間みたいよ」
と果恋が言うのを聞いてどっと緊張が解けた。
それは緑色の和服を着て烏帽子のようなものを被った細くて小さな人間だった。僕たちの方に近づいて来るにつれて、神主のような衣装を着た中年男性だと分かった。
彼は二、三メートルの距離まで近づいて、僕に意外な質問をした。
「今は何年ですか?」
「何年って……年号ですか? 令和二年ですけど」
「レイワ、ですか……。西暦はわかりますか?」
「二〇二〇年三月二十日ですよ」
「はーっ……百年先ですか!」
と、その小柄な神主はその場にへなへなと座り込んだ。
「まるで百年前の世界からやってきたような言い方ですね」
「その通りです。私は百年前から来ました。西暦一九二〇年すなわち大正九年三月二十日から」
「おじさん、地べたに座ると冷えますよ。この椅子に座ってください」
と果恋が布椅子を手に神主に近寄った。神主はお礼を言いながら立ち上がったが、身長は果恋よりずっと低かった。
「ほーっ、百年先のご婦人が、かくも美しく巨大になるとは!」
と神主は果恋を見上げながら感動の言葉を口にした。果恋は美しいと賞賛されることには慣れているはずだが、巨大と言われて愉快に思っていないことが表情から読み取れる。
果恋は近くの切り株に腰を下ろしてから婉曲に異議を唱えた。
「私は百六十三センチですから平均より五センチ高いだけですよ。小柄な女性からお世辞で『長身でうらやましい』と言われることはありますけど、巨大と言われるのはちょっと……」
「百六十三センチと言うと何尺何寸になりますかな……」
僕はスマホのグーグル検索のマイクロフォンをクリックし「尺貫法の計算」と言って変換ができるウェブサイトを一発でオープンし、百六十三センチとインプットした。
「五尺三寸八分ですね」
「ほぼ五尺四寸ですか?ということは男性の平均身長と同じですか……。思ったほど大きくはないんですね」
神主が僕のスマホを恐怖の表情で見ている。
「おじさんが小さ過ぎるからそう思ったんじゃないんですか?」
と果恋が吐き捨てるように言った。身長の割に巨大に見えると言われて相当怒っているようだ。背の高い女性にデカいという表現をぶつけるのは禁物だということを、この神主は知らないようだ。
僕はグーグル音声検索に向かって
「大正九年の日本人の平均身長は?」
と言って二、三のウェブサイトを見た。確かに百六十三センチと書いてあった。
再びグーグル音声検索で
「大正年間の主な出来事」
と言うと、年代別の出来事が表示された。
大正九年三月から来たというのが本当なら、その直前に起きた出来事を正確に覚えているはずなのでテストしてみようと思った。
「第一次世界大戦が終結したのはいつでしたか?」
「えっ、第一次ということは、再び世界大戦が起きたということでしょうか?!」
と神主が大げさな表情を見せた。第二次世界大戦が起きたことなど知らないというわけだ。あからさま過ぎる反応だったので却って信用できない気がした。
「先に質問に答えてください」
「世界大戦は一昨年の十一月に終わって、昨年の一月にパリ講和会議が開催されました」
「当たってますね! じゃあ、あなたが来た時代の総理大臣は誰でしたか?」
「原敬ですよ。一昨年に寺内内閣が総辞職して原内閣が成立しました」」
「当たり。じゃあ、原敬に関連してもう一問。原敬が暗殺された場所はどこでしたか?」
「えーっ!! 原総理大臣が暗殺されるのですか!?」
と神主が険しい驚きの表情を示した。原敬が東京駅で暗殺されたのは大正十年だから、神主は知らないのが正解だ。
「いまのはひっかけ問題です」
「悪い冗談は勘弁してくださいよ」
「最近、大きな地震は起きましたか?」
「一昨年に起きた大町地震のことですか? たしか世界大戦の終結と同じ日だったはずですが……」
「有田、果恋、この神主さんは本当に一九二〇年から来たか、それとも日本史オタクのクイズ王のどちらかだ。大町地震が起きたのは第一次世界大戦の終結日と同じ大正七年十一月十一日なんだ。しかも、大正九年の人は関東大震災が三年後に起きることを知らない」
「すっごーい! 神主さんはタイムトラベラーなんですね!」
と、それまで神主を小ばかにしていた果恋が尊敬の眼差しを投げかけた。
「しかし、一九二〇年前後の日本史を徹底的に勉強すればこの程度の受け答えはできるんじゃないか?」
有田はまだ半信半疑のようだ。
「どうしてまた他でもない百年後の世界にタイムトラベルしてこられたんですか?」
と僕は神主に聞いた。
「救世主となる偉い博士をお迎えするために来たのです。私たちの村には『未来伝説』という言い伝えがあります。いわゆる予言集です。それによると、一九二〇年三月の新月の夜、百年後の世界から偉い博士が天女のように美しい助手を連れて降臨し、伝染病に苦しむ衆生を救うことになっています。その偉い博士に会うにはどこに行けばいいのでしょうか?」
「一九二〇年の伝染病というと……」
もしやと思ってスマホで検索すると、思った通りだった。
「やっぱり! スペイン風邪のことだ!」
「スペイン風邪? 聞いたことがあるわ」
「一九一八年から一九二〇年にかけて世界人口の四分の一が感染し、一説によると一億人が死亡したと言われるパンデミックだ。日本でも四十万人近くが死亡したそうだ」
「神主さんは感染していないんでしょうね?!」
と有田が一歩あとずさり、バイキンを見るような目で神主を見ながら言った。
「スペイン風邪はH1N1型インフルエンザウィルスの一種だから、我々にとって真新しい病原体ではないよ。注意するに越したことは無いが、さほど恐れることはない」
と僕は医学博士らしい態度で有田を落ち着かせた。
「未来伝説によると、その偉い博士は伝染病の原因となる病原体を一瞬にして殺す『命の水』を作る力を持っている人物です。太陽と水と塩から『命の水』を作ったということです」
と神主が補足した。
「太陽と水と塩ですか……まるで太陽電池で食塩水を電気分解して次亜塩素酸水を作るみたいに聞こえますね、アハハハ」
「ジア……ジア! それです! その博士は、別名ドクトル・ジアと呼ばれたそうです」
「えーっ、ドクター・ジアなら僕ですよ。ちなみに、僕は医学博士ですが」
「じゃあ、偉い博士と一緒に降臨した『天女のように美しい助手』というのはきっと私のことなんだわ!」
と果恋が目を輝かせた。
「私は何と運がいいんだ! これはきっと神様のお導きです。大先生様、どうか私と一緒にお越しくださいませ」
「大先生様というのは勘弁してください。『辻村さん』でいいですよ……いや、やっぱり『辻村博士』と呼んでいただいてもいいですよね? しかし、どうやってタイムトラベルするんですか? タイムマシンはどこに置いて来られました?」
「この林の奥に小さな社があります。社の中で火を灯し呪文を唱えると百年前に戻れます。辻村博士は私としっかりと手をつなぐだけで結構です」
「助手も一緒に降臨するんですよね。私を含めた三人が輪になって手をつなげばいいんですか?」
「辻村も果恋もそんな話に簡単に乗せられると痛い目にあうぞ。仮にその人の言うことが真実だとしても、どうやって今の世界に戻ってくるつもりなんだ? 百年前の世界に行ったきりになっても俺は知らないぞ」
「未来伝説によると偉い博士と天女のような助手は次の新月の夜に元の世界に戻ったとのことです。ひと月だけです。どうかお力をお貸しください」
「ねえ、辻村さん、行ってあげましょうよ」
果恋は天女のように美しい助手として彼の地で歓迎される自分を夢見ている。
「果恋はやめとけ。結婚前の若い女性がそんなリスクをとるべきじゃない」
と有田が言った。有田は僕が永久に過去の世界に飛ばされてしまってもさほどショックではないが、果恋にもしものことがあったら困ると思っているのだ。
「私、当分結婚するつもりなんてないわよ。それに、どうして若い女性がリスクをとっちゃダメなのよ」
果恋が有田にそんなきつい口をきいたのは初めてだったので、有田は主人に叱られた子犬のような表情になった。
「僕はインフルエンザの予防注射は受けたけど、果恋はどうなの?」
と僕は果恋に質問した。
「私は今年初めて予防接種をしてもらったわよ」
「俺は予防注射はしていないけど、例えしていてもスペイン風邪の時代にワープするのは御免被るよ。ていうか、俺は招待されていないし」
と有田には聞かなかったのに答が返って来た。
「よし、果恋と僕が行こう。有田、悪いけど、次の新月の夜にここに迎えに来てくれないか?」
「次の新月っていつなんだ? 待てよ……今日ここに着いた時、空に三日月を見たよ。空気がきれいだから昼間でも月が見えるんだなって感動したのを思い出した」
「一九二〇年三月二十日は新月でも、二〇二〇年三月の新月の日はずれているんだ。この天文情報計算サイトによると、西の空の高度マイナス四十六度に月齢の月があるはずだ。高度マイナスということは地平線より下にあるという意味だが」
「へえ、スマホでそんなことまで分かるんだ」
「とにかく、今日から三十日後の夜に帰って来ることになるから、迎えに来てくれ」
「四月十九日というと……日曜日の夜か……まあ、辻村はとにかく、人里離れた山奥で果恋と辻村を二人にさせるのは問題だから仕方ない、迎えに来てやろう」
「恩に着るよ。じゃあ早速荷造りしよう。ところで、有田は抗菌剤を車のトランクに入れていると言っていたよね?」
「ああ、中国のメーカーからサンプルとしてもらったタリビッドの原末を五百グラム持っているよ。何かの場合に役立つかもしれないと思って……」
「ありがたい! 一回二百ミリグラムとして二千五百ドーズだな。役に立ちそうだ」
「そうだな、百年前の世界なら耐性菌も居ないから物凄くシャープに効くんじゃないか? まだペニシリンしかない時代だものな」
と有田は診断薬メーカーの営業マンとしての見識を示そうとして言った。
「いや、アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見したのは一九二八年だから、スペイン風邪の時代には抗生物質は存在しなかったんだよ」
「それは変よ。『仁』で江戸時代の綾瀬はるかが『ペニシリンでございます』と言っていたじゃないの」
「あれはフィクションだ。もし現代の医者が幕末にタイムトラベルしたら何ができるかという想像を働かせた作り話だよ」
僕は有田からもらったタリビッド原末と、二、三の常備薬をリュックのポケットに入れた。有田の助言によりジェットボイルという湯沸かしバーナーと当面の食料品をリュックに詰め込もうとしたがリュックに入りそうにないので断念した。
電気分解装置と折り畳み式の太陽電池板をリュックから取り出して、
「果恋のショルダーバッグにこの電気分解装置と太陽電池板を入れて行ってくれないか? ついでにこの食塩の小袋も」
と果恋に頼んだ。
「いいわよ。私のバッグは余裕があるから」
「辻村博士、準備はよろしいですか?」
神主が林の中に分け入り、リュックを背負って懐中電灯代わりにスマホのランプをかざした僕と、ペンライトを手に持った果恋が続き、頭にLEDのヘッドランプを付けた有田が果恋のショルダーバッグを肩に掛けてしんがりをつとめた。有田は色々文句を言いながらも結局は僕たちをサポートしてくれる。親友とはいいものだ。
次の新月までの一ヶ月の冒険旅行が始まろうとしている。時空を超えて百年前の日本に行き、疫病で苦しむ人々を助ける……美しい助手と一緒に! 幕末の世界にタイムスリップする「仁」と似ている。仁の場合は動乱の幕末という物騒な世界だが、僕の場合は第一次世界大戦が終わったばかりだから、仁ほど命がけの冒険旅行にはならないだろう。果恋の前で口には出せないが一ヶ月の間に恋が芽生えそうな予感がある。帰って来る時には果恋のお腹に僕の赤ちゃんが居たりして……ひとりニヤニヤしながら木の枝をかき分けて進んだ。
鬱蒼とした灌木の壁の隙間をくぐると、小さな広場に出た。一方は岩壁、他方を木々や灌木の壁によって囲まれた、別世界のような空間だった。広場の真ん中に入母屋造りの小ぶりな社殿が建っていた。神主が扉を開けると、最奥にご神体が入っていると思われる小さな本殿があり、その前の磨き上げられた板の間の中央に炉が配置されていた。珍しい構造の社だ。
神主はその炉に三十センチほどの長さの竹を三叉に組んで立て、その上に懐から取り出した短冊と炉の横に置いてあった小枝を結び、火打石を使って火をつけた。
果恋は有田が運んでくれたショルダーバッグを肩にかけ、神主と果恋と僕は火の回りで輪になって、三人でしっかりと手をつないだ。
「もうお一方は社殿の外に出て扉を閉めてください」
有田は名残惜しそうに僕たちを見て出て行った。有田のヘッドランプの光が無くなり、真っ暗な社殿の中で、三叉の上の炎が燃えている。
神主の唱える呪文が真っ暗な社殿を満たす。揺れる炎を見つめていると、古の世界へと誘う波動が僕の身体に共鳴する。右手で握る果恋の手の微かな震えが伝わってくる。左手を結んだ神主の手は小さな体躯を忘れさせるほど力強い。
やがて炎を軸にして僕たち三人がゆっくりと回り始めた。社殿が回転しているのではない。神主と果恋と僕が床から浮き上がって、三人の輪が炎の周囲を回っている。何ということだ!
回転が徐々に速くなり、遠心力で手を離しそうになる。神主の手が僕の左手にがっしりと食い込み、僕は果恋の手を離すまいと必死で握りしめる。三人の輪は回転しながら床からふわふわと浮上し、いつしか屋根を通り抜けて夜空を飛んでいる。眼下には真っ黒な森林が、頭上には満天の星空が広がっている。
回転がますます早まり、目が回る。手を離すまいと必死で握ったが、次の瞬間、身体が粉々に砕け散るのを感じた。
第三章 時空を超えて
うっすらと目を開けると、神主の顔が目に入った。神主だけでなく数名の男性が僕を囲んで見下ろしている。頭が割れるように痛い。僕は社殿の床に仰向けに寝ていて、ランプの光が部屋をうっすらと照らしている。僕たちが三叉の炎を囲んだ社殿と似ているが別の場所のようだ。僕は時空旅行中に空中分解したりせずに百年前の日本に辿り着いたのだろうか?
「目を開けたぞ!」
と僕を見下ろす顔のひとつが言った。
「大丈夫か?」
と神主が僕に聞いている。僕はまだボォーッとしている。しかし、雰囲気が少し期待外れだ。百年先から救世主が降臨してきたのだから「先生、お身体は大丈夫ですか?」という雰囲気で歓迎されると思っていたのに……。
「おねえちゃん、起きられるか?」
と男のひとりが言っている。果恋も無事到着したようだ。首を回して左に頭を向けたが男たちの向こうには誰も倒れていない。右の方も見たが、社殿の床に倒れているのは僕だけのようだ。
「おねえちゃん、首の骨は折れていないようだな。身体を起こしてみろや」
と神主が再び僕に失礼な口をきく。
――おねえちゃん?
「神主さん、何を言ってるんですか?」
と言い終えないうちに異常に気付いた。声が高い……僕の口から出たのは女のような声だった。僕は狐につままれた気持ちで身体を起こした。
「なんだこりゃ!」
僕はボルドーのロングスカートのようなひらひらのズボンをはいていた……これは果恋がはいていたワイドパンツだ! 僕は風呂から上がった時にジャージーのパンツにはきかえた。今僕が気を失っているうちに果恋と僕のズボンを取り換えたのだろうか? あり得ない!
――待てよ……このウィンドブレーカーも果恋が着ていたものだ。まさか……。胸に手をやると、ウィンドブレーカーの下にはまごうことなき膨らみがあった!
「キャーーーッ!」
黄色い叫び声が僕の口から迸り出た。僕を取り囲んでいた男たちが一斉に後ずさった。
滑らかでふっくらとした頬とポニーテールの髪を手で確かめ、念のために右手をズボンの中に突っ込んで、あるべきものがそこには無いことを確認した。僕の身体が女になっているのは間違いなかった。
「我々は指一本触れていないぞ。助手のおねえちゃんは何を怖がってるんだ?」
――助手のおねえちゃん……これは果恋の身体なのだ!
「果恋は……辻村博士はどこに居るんですか?」
と僕は果恋のフリをして質問した。自分の喉から出た声だから少し声色が違うが、確かにこれは果恋の声だ。タイムトラベルする間に僕と果恋の中身が入れ替わったようだ!
「それはこちらが聞きたいことだ。おねえちゃんとワシだけしか着かなかったようだ」
「じゃあ、私の……辻村博士の身体は時空のどこかに飛ばされたんですか?!」
「この社の周辺を村の人たちが捜索しているところだ」
「もし見つからなかったら?」
「せっかく未来に行ってきたのに助手のおねえちゃんだけ連れて帰ったのでは無駄足だったことになる……」
――この神主は分かっていない。救世主になれるのは僕だ。スペイン風邪で苦しむ人々を救うのはこの僕の頭脳なのだ。見かけは果恋になっていても、電解装置さえあれば僕が彼らを救うことができる。
「私のショルダーバッグはどこですか?」
男たちの一人が果恋のショルダーバッグを僕に手渡した。チャックを開けると空ペットボトルを加工した電解槽と、ケーブルがつながった炭素電極と、折りたたみ式の太陽電池がちゃんと入っていた。
僕は神主の目をしっかりと見て言った。
「私に仕事をさせてください」
僕は立ち上がって、ズボンのお尻の埃を手で払った。
「デカいねえちゃんだなあ」
というささやきが二、三人から聞こえた。社殿の中には神主を含めて六人の男たちが居たが、そのうち四人は僕より明らかに背が低かった。この時代の男性の平均身長は果恋と同じ百六十三センチだが、ここに居るのは年寄りが多いから、身長がその分低いのだろう。二〇二〇年で言えば、身長百七十二センチの女性と同じになるわけだ。確か、女優の菜々緒も百七十二センチだから、僕は菜々緒並みに長身でカッコいい女性ということになりそうだ。
「ねえちゃんと呼ぶのはやめてください。私は桜木果恋です。桜木と呼んでください。それに、私はデカくありません。小顔でスリムなモデル体型ですので悪しからず」
まるで果恋のように、女性的な見栄に自分がムキになっているのに気付いて苦笑した。
神主が四十絡みの和服に羽織を着た男性に向かって言った。
「杉本さん、助手のおねえさんを……桜木さんを迎賓館に送り届けてもらえますか? 私は辻村博士が見つかるまでここを動けないので」
「承知しました。村長には私から状況を報告しておきます。桜木さん、行きましょう」
僕はショルダーバッグを持って杉本と呼ばれた男性の後について行った。社を出るのに履物が無いことに気付いた。僕の(果恋もだが)靴は百年後の社に入る時に脱いだ。杉本にそのことを言うと、「ちょっと待っていてくれ」と言ってどこかに姿を消したが、草鞋を持って戻って来た。
男物の汚い草鞋だった。僕はソックスを履いたまま足を置いた。下駄を履いている杉本と目の高さが同じになったので、わけもなくほっとした。
杉本は円筒形の石油ランプらしきものを手に提げていた。新月の夜道をランプの光を頼りに一分ほど歩くと鳥居を抜けて舗装されていない道に出た。そこに停まっていたのは、アメリカの古いギャング映画に出て来るようなクラシックカーだった。自転車の車輪を厚くしたようなタイヤが鉄製のシャーシーを支えておりその上に薄い鉄板と木でできた車室が乗っている。
こんな自動車に乗れるのはタイムトラベルの醍醐味だ。僕は喜び勇んで後部座席に乗り込んだ。
「これってフォードのT型ですか?」
「違うよ。国産車だよ」
「へーっ、百年前にも国産車があったんですね!」
「百年後の世界には国産車が走ってるんだろうね」
「色んな形の高性能な自動車が走っていますよ。私は五年前まで自分の車を持っていましたが、今はペーパードライバーです」
「あんた、二十歳そこそこじゃないの? あっ、そうか、十五歳まで女だてらにオモチャの自動車を持っていたということだね。今はペーパーの何?」
イケナイ。今の僕は三十二歳の辻村博士ではなかった。
「えへへ、自動車が好きで紙に自動車の絵を描いてるという意味です」
「面白い娘さんだな」
二十歳そこそこと言われたので、プライドをくすぐられた。勿論、「私は二十三歳です」などと余計なことは言わないことにした。
五分もしないうちに市街地に出たので驚いた。
「あの神社は鬱蒼とした林の中にあって市街地までは遠かったのに、百年前の栗山村は随分栄えていたんですね」
「栗山村? そんな地名は聞いたことが無いな。ここは白石村だよ」
「栃木県に白石なんて村がありましたっけ……」
「ここは福島県だよ。何言ってんの?」
一瞬、頭が変になったのかと思った。僕たちは栗山村のキャンプ場の裏にある社から出発したのに、百年前の福島県にある社に到着したようだ。空間にズレが生じたということだろうか?
クラシックカーは二階建ての洋館の玄関に停車した。迎賓館と聞いて想像していたほどの建物ではないが、百年後なら県の文化財に指定されてもおかしくないような木造の洋館だった。
杉本が玄関のベルを鳴らすとドアが開いて下男が顔を出し、間もなく中から和服姿の紳士が迎えに出て来た。
「大先生がやっと到着されたか!」
「いえ、実は神主さんは大先生の助手の娘さんだけを連れて戻って来たんです。大先生の方はまだ捜索中でして……」
「そうだったのか……大先生が到着された時に車が無いと失礼になる。すぐに神社に戻ってくれ」
「はい、かしこまりました」
と杉本は車に飛び乗り、運転手に
「急いで神社まで引き返してくれ」
と告げた。
「お嬢さん、長旅でお疲れでしょう」
「百年の旅でしたが私にとってはあっという間で……。辻村博士の助手で桜木果恋と申します。よろしくお願いいたします」
「村長の鶴舞です。さあ、堅苦しい挨拶は抜きにして中でくつろいでください」
この世界に来て初めて適切な礼儀を示してくれる人物と出会った。神主も杉本も、神社で僕の周りに集まった人たちは僕を「大先生の付き人」のように扱い、敬語はおろか丁寧語すら使わなかった。歳が若いのと、それ以上に女性であることが災いしていたようだ。
鶴舞村長について玄関を入ると、二人の女性が僕たちを出迎えた。一人は着物に羽織姿の奥さんで、もう一人は和服に白いエプロンをした奉公人と思われる人だった。奥さんは庇のある髪型にしている分、大きく見えたが、百五十センチに満たないのではないかと思われた。女中は更に小柄な十代の女の子だった。
奥さんは僕を見上げて「まあ、西洋人のように背が高くてお美しいお嬢さんですこと!」と実感のこもったお世辞を言った。女というものは美しいと言われると条件反射的に快感を覚えるのだろうか……まるでパブロフの犬だ。それにしてもこの「迎賓館」は居心地が良さそうだ。女性になるのも悪くないなと初めて思った。
女中が僕のショルダーバッグを運んでくれようとした。小学生のような身体つきの女中に荷物を持たせるのは気が引けたので辞退したが、彼女が譲らなかったので仕方なく預けた。彼女は僕がはいているワンドパンツが気になっているようで、僕の膝から下を憧れの表情で見ている。果恋はどうしてわざわざ必要な量の何倍もの布を使った無駄の塊のようなズボンをはくのだろうかと不思議に思っていたが、これは百年前の女性にもアピールできるファッションなのかもしれない。
応接室に通され、村長の対面に腰かけてウィンドブレーカーを脱いだ。村長の視線が僕の胸から腰へと走るのが気になる。
「大先生が行方不明なのが心配ですね」
「本当に……この時代に到着していればいいのですが、もし別の時代へと飛ばされていたら、元の世界に戻る手段がなくなりますので……」
もしそうなれば僕は自分の身体と離れ離れになる。それに、今頃果恋が男の身体で目覚めてパニックに陥っていないかが心配だ。
「もし、この時代の別の場所に飛ばされていたとしたら……。辻村博士は行き先が福島県の白石にある神社だとは知りませんから、元来た神社に戻ろうとすると思います」
「別の場所の神社から出発したのですか?! それはどこですか?」
「栃木県の栗山村の鬼怒川沿いにあるオートキャンプの林を分け入ったところにある小さな神社です」
「オートキャンプ場?」
「あ、自動車で行く野営施設のことです」
村長は本棚から栃木県の地図を取り出してテーブルの上に広げた。百年前の地図にしては精細だったが、国道121号と県道23号を探すにも、道路の番号が記されていないので焦った。「国道四号」はちゃんと書かれていたが、よく考えると、121番目の国道が百年前に完成しているはずがない。
「えーと、日光から会津若松に抜けるのは会津西街道でしたよね……。あっ、あった。川治温泉は百年前にもあったんですね。川治ダムから奥鬼怒に向かう道路は……」
川治温泉という地名はあったが、ダムは見当たらない。百年前には川治ダムはなかったのか……そりゃそうだろう。百年前にあんなデカいダムを作るのは無理だ。
「川治温泉と川俣温泉を結ぶ道路の左側に……というより、鬼怒川のほとりにあるんです。えーと『平家杉』の近くなんですけど書いてないですね……大まかにしか分かりませんが、この辺りです」
と僕はキャンプ場があると思われる地点を指さした。
「この鉛筆で印をつけてください」
古地図を汚すことに後ろめたさを覚えながらX印を記入した。
「山梨県で生まれて東京府で働く女性が栃木県の地図を見て即座に位置を示すとは、百年後の地理教育は大したものです」
――東京都は東京府と呼ばれていたのか……。
「それにしても女子が地図を読めるとは!」
――なんだ、それがポイントだったのか。
百年も前から「女は地図が読めない」と言われていたとすれば、女性脳の特徴を裏付けるものと言える。待てよ……今の僕は女性の肉体の大脳で思考している。それなのに地図の認識能力に一切衰えは感じない。ということは、「女性脳」は解剖学的な差異ではないことになる……。
「よく分かりました。加賀見沢さんと協議して捜索を進めます」
「加賀見沢さん?」
「大先生をお迎えに上がった神主さんですよ」
「あーっ、あの小柄な神主さんは加賀見沢さんとおっしゃるんですね」
「ああ見えて加賀見沢さんは日光東照宮ともつながりがあるから手を回すのに役立つでしょう」
「いやぁ……栗山村は日光から山を越えた反対側ですから、日光東照宮に問い合わせても……」
「大先生はお年を召していらっしゃるので?」
「いえ、辻村博士は三十二歳ですよ」
「ほぉーっ! 伝染病の原因となる病原体を一瞬にして殺す『命の水』を作る力をお持ちの大先生はそんなにお若いのですか!」
「分子生物学の研究で医学博士号を取りましたが『命の水』の方は趣味として製造方法を確立したわけでして」
と僕は謙遜気味に答えた。
「天才科学者の若いお医者様とはすばらしい!」
「いえ、それほどでも……」
と言いかけたが、助手が博士について卑下する発言をするのは不自然だ。辻村博士は医学博士であっても医者ではないと説明しようかとも思ったが、一ヶ月の滞在期間に指導力を発揮しやすい環境を確保するには医者だと誤解されたままの方が動きやすいかもしれないと思って口をつぐんだ。大先生、天才科学者、偉い先生という面映ゆい賛辞もそのままにしておくことにした。果恋が僕の身体で到着して合流すれば何らかの方法で元通りの身体に入れ替わることになるだろうから、その際に「辻村博士」が大先生と言うことになっていれば僕にとっては好都合だ。
「そんな偉い先生の付き人になれてお嬢さんは幸せだ」
「付き人ではなくて、助手です。実際に『命の水』を作る作業は私が実施しますし、辻村博士へのご質問があれば概ね私がお答えできますけど」
「アハハハ、頼もしいお嬢さんだ」
村長が僕の言うことを言葉通りに受け止めていないのは確かなようだ。しかし、果恋が到着して入れ替わった後で、村長が果恋に難しいことを質問したら困るので、今あまり賢ぶるのもよくない。
「お嬢さんはお幾つですか?」
「ご想像にお任せします。百年後の世界では女に年齢を聞くのは失礼なんですよ」
「これは一本取られた。それは今の時代も同じです。しかし、人に紹介する際に年齢不詳とは言えないので、十九歳ということにしておきましょう。うちの娘より一歳上ということで」
十九歳とは絶妙であり、村長はセンスが良いなと思った。テレビドラマで二十三歳の女優が女子高生を演じているのを見てビミョーだと感じたことがあるが、十九歳の役なら不自然ではない。
その時、村長の奥さんが、間違いなく娘さんであると推測されるスラリと背が高い若い女性と一緒に応接室に来た。僕は反射的に立ち上がって二人を迎えた。
「これが娘の彩乃です」
と村長が紹介して彩乃は僕に向かってお辞儀をした。
――美しい……!
座って見た時には長身に見えたが、百五十六センチぐらいだろうか。それでもこの世界の女性としては長身だ。矢形の模様の着物に袴をはき、髪はハーフアップにして大きなリボンで留めている。
卵型の小さな顔は完璧な目鼻立ちで、頬は一点の曇りもない真っ白で細やかな肌で覆われている。あまりの魅力に、太股から首にしびれが走った。息を吸うと乳首がブラジャーに触れる感覚を始めて意識した。女どうしなのに身体がこんな反応を示すとは、果恋はレズだったのだろうか……。
「桜木果恋と申します。果恋と呼んでくださいね」
「彩乃は高等女学校の本科を卒業して高等科に通う女学生です。彩乃、果恋さんは百年先の世界で天才科学者の偉いお医者様の助手として働いている才女だ」
「才女だなんて……ドジキャラで通ってるんですけど」
三人とも不思議そうな表情で僕を見ている。幸い「ドジキャラ」は意味が通じなかったようだ。あまり自分を卑下した言い方をすると、果恋が着いてから文句を言われるので、謙遜するにもさじ加減が難しい。
「素敵なお召し物ですね」
と彩乃が僕の腰から下を見ながら言った。
「彩乃さんの袴と似た色ですね。百年前にもボルドーが流行っていたとは意外でした」
「ボルドー?」
「ワイン・レッドの一種です」
「ワイン・レッド……ああ、葡萄酒のような赤という意味ですか。私の袴はえんじ色ですけど、果恋さんのは袴……じゃないですよね?」
「これはワイドパンツです……ウェストベルトの。無駄なほど布を使っていますけどAラインではありません」
「百年後の日本は外国語だらけになっているのでしょうか……。女中の美津が果恋さんを見て『赤い羽衣を着た天女のようなお方だ』と申しておりました」
神主の「未来伝説」に「偉い博士が天女のように美しい助手を連れて降臨」とあったのは、今日の僕のワイドパンツが天女の羽衣に見えたからそうなったのかもしれない。
「果恋さんのお父さまはどんなお仕事をされているんですか?」
と村長に聞かれた。
「普通のサラリーマンです」
「サラリーマン?」
「会社勤めをする人のことをサラリーマンと言いません?」
「ああ『サラリーメンスユニオン』という下級俸給生活者の同盟ができたという報道は耳にしましたが」
「下級じゃないですよ。うちの父の場合は中級というか……まあ、上級ではないですけど……」
「果恋さんは辻村博士の助手として働きながら家事のお手伝いもされているのですね? お偉いわ!」
と奥さんが言った。
「いえ、私の実家は山梨で、私は東京に住んでいます」
「女子寮ですか……偉いわぁ」
「会社に女子寮はないのでアパートを借りています。狭い部屋なんですけど」
「歳は彩乃とそんなに違わないのに、親元を離れて働きに出ているんですね。本当に偉いわぁ……」
奥さんの頭の中では僕が女中の美津と同じような境遇だと思っているのかもしれない。この時代に、若い女性が親元を離れて暮らすというのはネガティブなイメージを想起させるようだ。百年前の女性の地位は想像以上に低かったのかもしれない。
「恭子、彩乃、大先生は三十二歳だそうだ」
「本当ですか!」
「おじいさんを思い浮かべていたのに」
と二人が口々に呟いた。
「結構イケメンですから楽しみにお待ちください」
「イケメン? ?」
「男前という意味の言葉です」
「身長は低くないんですか?」
「百七十三センチぐらいと思います」
と、つい一センチだけサバを読んでしまった。
「素晴らしいわ、そんなに長身で男前の天才科学者だなんて。彩乃、辻村博士に気に入って頂けるように頑張りなさい」
彩乃がぽっと顔を赤らめた。果恋が到着して僕と中身が入れ替わったら、僕は彩乃から結婚対象の男性と見なされる立場になるのだろうか! 彩乃と果恋が僕を取り合って三角関係になったりして……。いや、果恋がそれほど僕を好きだとは思えない。両手に花で、贅沢な一ヶ月間になりそうな予感がした。
「鶴舞村長は迎賓館のすぐ近くにお住いなのですか?」
「アハハハ、杉本が迎賓館と言っていたのですね。ここはうちの自宅なんですよ。客間が何室もあるので、村に賓客を迎える時には拙宅にお迎えすることが多いのです。その結果、巷では迎賓館と呼ばれるようになったようです」
「そんな広い洋館に村長と奥様と彩乃さんの三人でお住まいなのですか?」
「私の母が和風の別館に住んでいます。母は嘉永年間の生まれで、大政奉還の年に私を産んだ古い人間なので、洋館には馴染めないのです」
「すごい、江戸時代の人なんですね! お会いできるのが楽しみです」
「大先生が来られたら真っ先に母を診て頂きたいのです。母はひと月ほど前に流行性感冒に感染して床に伏せっています。熱と咳が続いていて医者も打つ手がないようでして」
スペイン風邪のことを流行性感冒と呼んでいるようだ。
「隔離されているのですか?」
「一昨年に感染したことがある女中が居て、母の世話はその女中に任せています」
――この時代の人たちは既に免疫の概念を持っているのか……それなら感染防止指導もやりやすい。
「その女中さんは顔面保護具を装着していますか?」
「顔面保護具? マスクのことですか? 着用させていますよ」
一般的にマスクが存在するということが分かって一安心した。「仁」が行った幕末の時代と比べると、対策がしやすそうだ。
「手指の消毒はどうされていますか?」
「母の世話をする前と後に石鹸を使ってしっかりと手洗いをさせています。お医者さんの来診時には昇汞水を用意させています」
「昇汞水? ああ、水銀系の……この時代には既にそんな消毒剤が流通していたのですか!」
「殺菌・消毒といえば石炭酸か昇汞水ですね。お医者さんに言われて昇汞水を準備するようになりました」
「フェノール……石炭酸はインフルエンザ・ウィルス……流行性感冒の病原体には効果が無いはずですので、昇汞水が正解でしょう」
「ほぉーっ、女性なのに難しいことをご存知なのですね」
もし今の僕の中身が果恋なら、こんな女性蔑視発言を聞いたら腹を立てるに違いない。それなのに、彩子も奥さんも微笑んでいる。時代が違うとはいえ僕と同じ男である村長が女性に対してそんな発言をすることが恥ずかしい。
「私……辻村博士は次亜塩素酸水による感染防止対策を極めた科学者です。『ドクター・ジア』と呼ばれているほどです。次亜塩素酸水は流行性感冒の本体であるウィルスに対する殺菌力が高く、昇汞水と違って安全です。次亜塩素酸水を使うことによって流行性感冒の感染防止対策を実施するというのが辻村博士のご意向です」
「ジアエンソサン……どこかで聞いたことがあるような……塩素ですよね……あっ、そうでした。確か、曹達晒粉同業会の設立に関する新聞記事に次亜塩素酸という言葉が書かれていました」
「えーっ! 既にこの時代にサラシ粉があったんですか?!」
「アハハハ、晒し粉は無くてはならないものです。競争がきついから電解業者の団体ができるんでしょうな」
――何ということだ!
サラシ粉とはすなわち次亜塩素酸カルシウムであり、水に溶かせば次亜塩素酸が生じる。僕がわざわざミニサイズの次亜塩素酸水の電解装置を持って来なくても、サラシ粉を水に溶かして酸を加えれば次亜塩素酸水を作ることができたのだ。これは困ったことになった。僕が「救世主」になれる根拠がなくなってしまった……。
「お顔が真っ青になったようですが、どうかなさいましたか?」
「いえ、ちょっと疲れただけで……。話を戻しますが、次亜塩素酸は低い濃度でも流行性感冒の病原体を殺菌する能力があります。安全で肌にも優しい次亜塩素酸水の小型製造装置を私が持って来ましたので、それを活用した感染防止策を明日にでも協議しましょう。サラシ粉も適切に使えば同じ効果があると思いますので検討させてください」
「果恋さん、お疲れのようですね。若い娘さんがいきなり百年前の世界にやってきて緊張するのは仕方ありませんが、ひとりで張り切らず気持を楽に持ってください。とにかく辻村博士のご到着を待ちましょう。果恋さんは先にお休みになってください」
「でも、辻村博士の身体が……」
「辻村博士が到着されたら私がお迎えするのでご心配なく。彩乃、果恋さんを二階の寝室にご案内しなさい」
「はい、お父さま」
と言って彩乃が立ち上がった。僕も仕方なく立ち上がり、
「辻村博士が着いたらいつでも降りてきますので叩き起こしてください。じゃあ失礼いたします」
と村長にお辞儀をした。
女中の美津が走ってきて僕のショルダーバッグを持ってくれた。僕は彩乃と一緒に応接室を出た。
階段を上ったところが広い踊り場になっていた。
「左手の廊下の突き当りが辻村博士のお部屋です。果恋さんは私の部屋の隣です」
右の廊下を進み、女中の美津が二つ目のドアを開いた。ベッドと鏡台とタンスがある小さくて居心地のよさそうな部屋だった。百年も昔の日本に来てベッドで寝られるとは予想していなかった。
「お風呂はすぐにお召しになりますか? お寝間着にはこの浴衣をご用意しましたが、お客さまには少し短すぎるかもしれません」
「彩乃さん、私のことは果恋と呼んでください。同年齢層ですからお互い敬語はやめて、友達のような言葉遣いにしませんか?」
「いいんですか……果恋さんの方が年上ですよね?」
「お父さまに十九歳ということにされてしまったから、たった一つ違いよ。本当はもう少し上だけど」
「じゃあ、おねえちゃんができたつもりで話してもいい? 私、ひとりっ子だからおねえちゃんが欲しかったの」
「美人の妹ができてうれしいわ。私もひとりっ子のはずだから」
「のはず?」
「ごめん、ひとりっ子よ」
確か果恋はひとりっ子だと言っていた……。
「じゃあ、浴衣に着替えたらお風呂に案内するから私に声を掛けてね。隣の部屋の扉をトントンと叩いてくれればいいから。洗濯物はお風呂の前のかごに入れておけば女中が洗濯してくれるからご遠慮なく」
と言って彩乃と美津は立ち去った。
ショルダーバッグの中の衣類を部屋のタンスに移し替えた。今日、温泉に行った時に脱いだと思われるショーツとブラジャーがビニール袋に入っており、もう一セットの下着も入っていた。他は白いブラウス、ズボンとカーディガン、ソックスとタイツが一着ずつだった。
ワイドパンツのウェストベルトを解いて左のホックを外す。
「果恋、ゴメン……」
果恋の許可なく服を脱ぐのは後ろめたいが、僕の身体に入った果恋が到着するまでいつまでも服を着替えずにいるわけにはいかない。ショーツとブラジャーだけの姿になり、浴衣を着た。浴衣の裾がかかとからニ十センチ以上の高さで、まるでバカボンのようだった。
ハンドタオルと、温泉で脱いだショーツとブラジャーを入れたビニール袋を手に持ち、部屋を出て隣のドアをノックすると彩乃が出て来た。奥の階段を降りて廊下を進むと浴室のドアがあった。脱衣スペースには棚があり籠が置かれていた。
「洗濯物はこの籠に入れておいてね」
と言って彩乃は立ち去った。
浴衣を脱いで、強い後ろめたさを感じながらブラジャーとショーツを脱いだ。僕は始めて見る自分の胸の素肌の白さに感動した。支えを失った乳房は重力で垂れているのに乳首はツンと前を向いている。ピンクの乳輪は想像していたよりずっと大きく感じた。
左腕で両乳房を支えながら引き戸を開けて桧の浴槽がある板間に入った。風呂の蓋を取って床に立て、桧の風呂椅子に腰かけ、木製の風呂桶で湯をすくった。熱い! 風呂桶で湯船の中をかき混ぜようとするが、僕の右手ではとても力が足りず、両手で木桶をしっかりと持ってお湯をかき混ぜると、身体にかけられるほどの湯温になった。
浴槽の横の木壁に庇のような棚があり、石鹸が置かれていた。月のマークの包装紙に花王石鹸と書かれている。花王石鹸は百年前にも存在していたのか! 包装紙を開くと更に蝋紙に包まれた石鹸が姿を現した。これはきっと貴重品なのだ……。
手拭を手桶に浸けて湿らせ、控えめに石鹸をつけた。泡立ちは悪くない。僕の……果恋の身体は夕方温泉に入ったばかりだから汚れていない。股間の谷間に指を滑らせ、今の自分の身体が女だということを実感する。信じられないほど滑らかでシミひとつない肌だ。女性の身体がこれほど美しいとは思っていなかった。顔の美醜……目鼻口の配置のわずかな違いなど、女性の身体全体の美しさの中では些細な部分に過ぎないのかもしれない。男の身体と比べると女体は圧倒的というよりは異次元に美しいものなのだと思い知った。
普段のようにタオルで身体をゴシゴシと擦らず、石鹸がついているかいないかの手拭をデリケートな肌のすみずみまでそっと滑らせた。
風呂場にシャンプーは見当たらない。そもそも、この時代にシャンプーは存在したのだろうか? 固形石鹸を髪に擦りつけてもいいが、そんなことをして髪を傷めたと後で果恋から文句を言われるかもしれない。今日の所はシャンプーは諦めることにして、身体をお湯で丁寧に流してから湯船に足を踏み入れた。
そのまま座るとポニーテールが湯船に浸かるということに気付き、手でポニーテールを頭の上に押さえて首までお湯につかった。乳房の重みが取れて、湯船の中でゆらゆらしているのがなまめかしい。
僕の身体は……辻村博士になった果恋はちゃんとこの世界に到着するだろうか? もし、中途半端な時代、例えば百年前ではなく八十年前の日本に到着したら……第二次世界大戦直前の日本で、果恋は三十二歳の男性として生きて行けるだろうか? 待てよ……もし僕が元の世界に帰らずにこのまま果恋として大正九年にとどまったとしたら、二十年後に、タイムスリップして到着したばかりの辻村博士と遭遇する可能性があるのではないだろうか? その時、辻村博士は三十二歳で、僕は大正から昭和にかけての二十年間を生き抜いた中年女性ということになる……。
そんなことを考えていると頭が変になる。きっと辻村博士は今夜か明日にはこの世界で発見されて迎賓館に連れて来られるだろう。そして僕と中身が入れ替わり、仕事に取り掛かる。でも、この美しい身体をもう少し堪能したいという気もする。男として美しい女性を愛でるか、それとも美しい女性として自分の身体に惚れ惚れとするか……後者の方が満足度が高いように思えた。
湯船から出て、絞った手拭で身体を拭く。潤った白い肌が湯気を漂わせている。浴槽に木の蓋をして引き戸を開き、脱衣室で少し身体を冷やしてからショーツをはいて浴衣を着た。ブラジャーは身に着けずに浴衣の袖の中に忍ばせて自分の部屋に戻った。
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