インカの末裔:囚われて女にされて(TS小説の表紙画像)

インカの末裔
 囚われて女にされて

【内容紹介】マイアミ在住の主人公は父が亡くなって一人ぼっちになり、英国のホテルオーナーに嫁いだ姉の元に行く。イングランドの荒涼とした国立公園の中にあるゴシック建築のホテルに辿り着いた主人公は姉の夫の手で監禁・緊縛される。超自然的な強制女性化が起きる身の毛もよだつTSホラー小説。

第一章 信じられない発見

 閉じた窓のガラス越しに外を眺める。神秘的で荒涼とした湿原が見渡す限り続いている。ヒースの低木が広がり、遠方にトールと呼ばれる岩塊が見える。ここはダートムーア。イングランド南西部のデボン州にある国立公園の中だ。独特な雰囲気の荒野然とした山野が果てしなく広がる様子はロマンチックとは言えないにしても神秘的で何かの霊に取りつかれたようであり、まるで私の人生のようだ。

 私の手首と足首は太くてたわみのないロープで緊縛されている。柔らかでデリケートな肌に容赦なくロープが食い込んでいる。視線を移すと、変化しつつある私の身体が否応なく目に入る。円錐形の双丘、めっきり大きくなった乳輪と敏感な乳首がある胸、くびれたウェストと大胆に広がった腰――。

 壁の鏡に映った私の顔は心なしか目の感覚が広がったように見える。青い目の瞳孔は開き、長いまつ毛が印象的だ。ゴールデン・ブロンドの髪は随分長くなり、耳の後ろでわざとらしくカールしている。肌はかつてないほどすべすべしていて肌理が細かくなった。

 私がここに幽閉されてから今までの間に私の身体は劇的に変化してしまった。もし私が思春期の少女なら、ウキウキするほど嬉しくなるような変化だと言えるだろう。しかし、私は思春期の少女ではなく、トロイ・カーターという男性だ。

 マイアミに住んでいた十九歳の陽気なアメリカ人男性が、どんな経緯によって、陰鬱で荒涼としたダートムーアにあるホッジソン・ホテルのゴシック風の建物に幽閉されることになってしまったのか? それは長い話になるし、今はとても説明する気にはなれない。

 この部屋に幽閉されているのは私だけではなく、三人の先客がいる。今や私の姉妹とも言える三人のブロンドの女性が三羽のうさぎのように身を寄せ合っている。私は三人にジア、ミア、リアというニックネームを付けていた。三人とも熟したメロンのような乳房、細くくびれたウェスト、大きく広がった腰と真ん丸なお尻をした若い女だ。長くて豊かなブロンドの髪が小さな太陽のように輝き、形の良い青い目をした三人の姉妹はこの世のものではないほど美しい。しかし、その美しさにはぞっとさせる何かがある。目には寒々とした暗さがあり、瞳の奥に恐怖が漂っている。

 三人は本当の姉妹ではない。便宜的にジア、ミア、リアと呼んでいるが、奇妙なことに三人とも言葉をほとんどしゃべらない。ある夜、彼らが暗闇の中でつぶやき合う声が聞こえたので耳を澄ませて聞き取ろうとしたが、それは意味を持たない単語の羅列だった。三人は翌朝になると、夜中に目に見えないものを見て、聞くべきではない音を聞いたかのような様子で再び口を閉ざしていた。

 蒼白で面長の顔は長期にわたる不安と、将来に関する言葉にならない恐怖に歪んでいる。三人は、まるで間もなく屠畜される子羊のように怯えている。しかし、死に追いやられる運命にあるのかどうか、彼女たち自身には分からない。この世に恐ろしいものがあるとしたら、それは先が見えないことだ。そしてこの三人は私以上に先が見えない状況に追いやられているようだ。

 昨夜、私は棚の間の狭い空間にスクラップブックを見つけた。新聞記事の切り抜きが貼り付けられていたが、失踪者に関する記事が目に留まった。それは一、二年前に行方不明になった三人の男性の失踪広告だった。


1.アンブローズ・ヘイスティングス

  • 失踪した時期 二〇一八年二月十八日
  • 失踪した場所 ダートマス
  • 生年月日 一九九八年二月十四日
  • 年齢 二十二歳
  • 性別 男性
  • 人種 白人
  • 髪の色 ダーク・ブロンド
  • 瞳の色 ミッドナイト・ブルー
  • 身長 五フィート九インチ(百八十センチ)
  • 体重 七十二キログラム

 アンブローズは失踪した地域にいると考えられています。彼の左鎖骨の下に船乗りの姿の入れ墨があります。情報をお持ちの方は直ちにご一報ください。


一・九九〇・八三三・九九九九
ダートマス保安官事務所


2.チャールズ・マクダウェル

  • 失踪した時期 二〇一八年四月十一日
  • 失踪した場所 ダートマス
  • 生年月日 一九九九年一月九日
  • 年齢 二十一歳
  • 性別 男性
  • 人種 白人
  • 髪の色 プラチナ・ブロンド
  • 瞳の色 コーンフラワー・ブルー
  • 身長 五フィート五インチ(百六十八センチ)
  • 体重 六十キログラム

 チャールズは、彼の太ももとピアスのある左耳にイチゴの形のあざがあります。情報をお持ちの方は直ちにご一報ください


一・九九〇・八三三・九九九九
ダートマス保安官事務所


3.ジョージ・ミッチェル

  • 失踪した時期 二〇一八年一月十八日
  • 失踪した場所 ダートマス
  • 生年月日 一九九九年十二月二十六日
  • 年齢 二十一歳
  • 性別 男性
  • 人種 白人
  • 髪の色 アッシュ・ブロンド
  • 瞳の色 ベイビー・ブルー
  • 身長 五フィート七インチ(百七十四センチ)
  • 体重 六十三キログラム

 情報をお持ちの方は直ちにご一報ください


一・九九〇・八三三・九九九九
ダートマス保安官事務所


 この三人を含めて二〇一八年から二〇一九年にかけてデボン州で若い男性が行方不明になった事件が何件も起きている。失踪した場所はいずれもダートマスであり、このダートムーア国立公園の近くにある町だ。失踪時点の年齢は十八歳から二十三歳で、奇妙なことに髪がブロンドで目はブルーの男性という点が共通していた。自分がそうだから分かるのだが、髪がブロンドで目がブルーの白人男性はせいぜい十人に一人程度しかいない。何人もの失踪者の全員が偶然髪がブロンド目がブルーだったということは確率的にあり得ない。きっと何か理由があるはずだ。

 失踪者の親族は捜索に手を尽くしたはずだ。ダートマス保安官事務所の失踪広告だけでなく、新聞や雑誌に写真付きで尋ね人の広告を出したり、牛乳パックに行方不明者の特徴を掲載したり、駅前でビラを配ったり、考えられることは何でもしたことだろう。しかし、スクラップブックに貼り付けられていた記事を読むと、当局による捜索にもかかわらず、行方不明者は一人として発見されていないようだ。

 彼らはどのように失踪して、どこに行ってしまったのだろう? 彼らに何が起きたのだろうか? 家庭内暴力などの被害者が自ら行方をくらますことはよくある。精神病のせいで自ら、または家族が失踪を装って隔離したとか、新興宗教のカルト集団に入って隔離状態にあるとか――。あるいは何か複雑な理由があって生まれ故郷を捨てて密かに移住したという可能性もある。

 しかし、失踪広告が出た人間がアイデンティティーを伏せて別の場所で生きていくのは並大抵のことではない。ダートマスという田舎町で生れ育った素朴な若者が何の証拠も残さず家族や恋人から身を隠すなどということは現実的にあり得ないはずだ。

 失踪というよりは、まさに蒸発だ。彼らは一体どこに消えたのだろうか? 同じ疑問が繰り返し私を悩ませる。

 その時、部屋の女の子の一人からささやき声が私の注意を引いた。リア、ミアとジアは身を寄せ合っていて、ゴシック建築の中の薄暗い部屋の中で艶のあるブロンドの髪が美しい光を放っている。一人はダーク・ブロンド、もう一人はプラチナ・ブロンド、残りの一人はアッシュ・ブロンドだ。三人とも青い目で、ジアはミッドナイト・ブルー、ミアはコーンフラワー・ブルー、そしてリアはやや離れたベイビー・ブルーの怖がっているような目をしている。

――まさか!? 

 私に、ある突拍子もない考えが浮かんだ。それはバカバカしくてとてつもない考えであり、現実世界で起こり得ないことだったが、偶然が重なりすぎていた。

 三人の存在には不自然さが漂っている。背は高いが女性的すぎる肉体、そして、女性としては若干肩幅が広めだ。女性らしい曲線美と潤ったすべすべの肌と、それらのパーツとの取り合わせには何か痛々しい不自然さがぬぐい切れない。

 私はスクラップブックを開いて失踪広告と三人の顔を見比べた。

――やはり一致している。

 勿論、これは仮説にすぎない。自分が何をすべきかは分かっていた。私は足とお尻を尺取虫のように動かして三人の所に行った。姉妹たちは私が近づくのを見て一瞬ひるんだが、微笑みかけると緊張を解いた。

 ジアのチュールのドレスの首筋を少し下げると、左の鎖骨の下に船乗りのタトゥーがあった。間違いない。アンブローズ・ヘイスティングその人だ。ジアは二年ほど前までアンブローズという名前の男性だったのだ。

 次にミアに身体を寄せて、そっとスカートを捲った。ミアは抵抗を示さず、私の手を払いのけようとはしなかった。同じ部屋に数週間一緒に監禁されていたから、彼女たちは私を自分たちと同様の犠牲者であり友人と思っているのだろう。

 ミアの女らしい太ももには期待通りのものがあった。美しいローズ・ピンク色のイチゴの形のあざだ。ミアが行方不明のチャールズ・マクダウェルだということは間違いない。

 失踪者の残りの一人であるジョージ・ミッチェルには刺青や痣などの特徴は記載されていなかった。これは本人に確かめるしかない。

「ジョージ?」
と呼びかけたところ、アッシュブロンドの若い女性は黙って頷いた。

 私の心の奥底で、何日か前の記憶がよみがえった。

「あなたのお父さんはタクシーの運転手じゃないの?」
と私はリアに質問した。

 彼女は不思議そうに頷いた。

 私の推理は当たっていた。ダートマスで失踪した若い男性が完全に行方不明になったのは、性別が変わったからだ。三人はホッジソン・ホテルに幽閉されて若い女性に作り替えられたのだった。

第二章 アーサー

 この驚くべき発見と気持ちの折り合いをつけるのは容易ではなかった。三人はアーサー・サイクスの手で誘拐され、ここに幽閉されて性転換されたのだ。二年間かければ普通の男性が、メロンのような乳房とくびれたウェストと丸い大きなお尻をした女性の身体になるという事実は衝撃的だった。そんなことをする目的は……考えるまでもない。彼らに――彼女たちに身体を売らせてお金を稼がせるためだ。三人はそうなることが分かっているからあれほど怯えているのだろう。そして、アーサーが私を三人と同じ部屋に閉じ込めた理由は、単なる酔狂や虐めではない。私の身体も二年間かけて女性に作り替えて金儲けの道具にするつもりだとしたら……。一日も早くここから逃げ出さないと大変なことになる。

 眠れそうになかったが、どうやって逃げるか、ああでもない、こうでもないと考えているうちに眠りに落ちていた。

 そして今日、私の姉の夫のアーサー・サイクスはそんな悠長なことを考えていないことが分かった。入浴を機に、自分が待ったなしの状況に置かれていることを思い知らされて、窓の外を眺めながら茫然としているとアーサーが部屋に入ってきた。

 アーサーは身長が二メートルもあって巨人と呼ぶに相応しい骨格の大男だ。足取りには不吉さが漂い、両方の目はまるで顔に刻まれた細い溝のようで、意地悪さが滲み出ている。アーサーは私たちの方へゆっくりと歩いて来た。私たち四人が彼の目にどう映っているかを想像すると、背筋がぞっとする。これでも彼は自分の欲望を抑えているのだ。もし彼が自制心を失って私たち「女の子」の誰かに衝動をぶつけたら、雛鳥ひなどりよりも簡単につぶされてしまうだろう。

 アーサーを目の前にすると三人の姉妹は今まで何とか維持してきた尊厳のかけらを失った。歯はガチガチと音を立て、丸みを帯びた脚はピクピクと痙攣して、喉から人間のものとは思えないような小さな金切り声が放たれた。見開いた青い目の瞳孔の奥には恐怖が露わに見える。三人は日本の山中の雪の中の秘湯に群がるサルのように身体を寄せ合った。三人がアーサーを見て怖がったと言うだけでは、表現が控えめすぎる。彼女たちは恐怖のあまり凍り付いていた。このところ起きたことから判断すると、凍り付くだけの理由があった。

「スリム!」
とアーサーは開いたままのドアの外に立っている手下に向かって叫んだ。スリムはその名前に相応しくない体格の男で、アーサーよりは幾分背が低いが身長百九十センチを超える大男だ。ずるそうな寄り目は一時いっときとして同じ場所にとどまらず、がさつでだらしない感じが印象的だった。部屋に入って来たスリムの鼻腔からアルコール臭がした。

「おねえちゃんたちのロープを解いてやれ」
とアーサーが言って顎で私たちを指し示した。

「ロープを解くのはタマーラ以外の三人だけだ」
と付け加えたので私は落胆した。

 バンシーという妖精のような叫び声が三姉妹の唇から漏れた。アイルランドでは妖精のバンシーの叫びが聞こえた家では近いうちに死者が出ると言われるが、そんな不吉な叫び声に聞こえた。三人は縛られたままの手足をバタバタと震わせ、輝く髪を痙攣するように揺らした。それは哀れで嘆かわしく、恐ろしい光景だった。

「もっと静かにできないのか?」
とアーサーは野蛮な叫びを浴びせた。
「声が出せないように喉を掻き切られたいのか? 黙らなければ本気でそうするぞ」

 脅しが効いて三姉妹の声帯は完全に閉ざされ、部屋は突然、冷え冷えとした静寂に包まれた。スリムは主人の命令に従って三姉妹の手足のロープを解き、ジアとミアを万力のような手で掴んだ。アーサーがリアの腕をつかみ、部屋から引きずり出した。スリムがジアとミアの手を引いて後に続いた。

「待って!」
と私はスリムに問いかけた。
「その子たちをどこに連れて行くんですか?」

「大人しく待っていろ」
とスリムが淫らな表情で私にウィンクした。
「お前も熟してその時が来たらどこに行くのかがわかるさ」

 二人の男と三姉妹は間もなく私の視界から姿を消した。

「熟してその時が来たら」
とスリムが言ったが、考えるまでもなく、急速に女性化しつつある私の身体のことを指しているのに違いない。きっと私が三人と同じく熟したメロンのような乳房、細くくびれたウェスト、大きく広がった腰と真ん丸なお尻になったらという意味で言ったのだ。そうなるまでどのぐらいの時間がかかるのか、私には想像もつかないが、それほど遠い将来のことではなさそうだ。

 彼らは三人を――そして私を、男に身体を売らせて金儲けの道具にするつもりなのだ。それ以外の目的は考えられなかった。

 しかし、私と三人の間には決定的な違いがある。いくら胸やお尻が女性的な形になっても、現時点で私は男であり、彼女たちの股間にある谷間は存在しない。私はきっと彼女たちと同じように性転換手術によって三人と同じ身体に作り替えられるのだろう。いや、そんな手間をかけずに男の身体のままで彼女たちと同じ仕事をさせられるのではないだろうか? 

「もう、イヤだ!」
と私はうんざりして叫んだ。女性を性的欲求の対象としか見ない酷い言葉に毎日晒され続けていると、男というものがいかに下劣なものかを思い知る。私が三姉妹と同レベルの豊満な肉体に到達したときに、私を実際にどうするつもりなのか、アーサーの本音が知りたかった。少し考えるだけで、ぞっとするような可能性が次から次へと頭に浮かぶ。鼓動が激しくなり、頭がくらくらし始めた。

 アーサーが部屋に戻って来た。

 彼のごつごつとした手には、いつもと同じ血のような色の液体で満たされた注射器が握られていた。

「タマーラ、今日の注射の時間だぞ」
と甘ったるい声でアーサーが言った。甘ったるいだけに却って恐ろしい響きがあった。

 私は虚勢を張ってアーサーの目を見据えた。

「それは何の注射なんですか? それに、いつも飲まされるカプセルの中味は一体何なんですか? 錆色をした鱗片上のものが入っているみたいですけど。黒魔術の秘薬か何かだということは分かっています。そうじゃなきゃ、私の身体がこんなふうになるはずがありません」
と私は敢えて声を張り上げた。
「とにかくこれだけは言わせてください。あなたが私に対してしていることは自然の摂理に反していて、言語道断です! こんなことをしていたら地獄に落ちますよ」

「天国か地獄かという議論はやめてくれ」
とアーサーが不気味に笑いながら答えた。
「お前たち女に説教をされるつもりはない」

 アーサーの言葉が、意識の奥深くで眠っていた恐怖の感情を呼び起こした。突然、私は冷酷な捕食者に追われている不幸な鹿のような気持になった。アーサーが私たち四人をどうするつもりだったにせよ、それが胸を張って言えるようなことでないのは明らかだった。

 私はアーサーの足にしがみついた。

「アーサー、お願いですから解放してください」
と私は絶望的な気持ちになって懇願した。
「もし私が姉とお義兄さんの負担になっているのなら、マイアミに帰って、自活します。後生ですから私を女の身体にするのは……何をさせるつもりなのかは知りませんけど、どうか勘弁してください」

「可愛いなあ、ゾクゾクするぜ」
とアーサーは屈んで私の顔を手で撫でた。

「『お願い』をする時のお前は普段に増してセクシーだと知っていたか?」

 そう言いながらアーサーは私の腕に注射針を突き立てた。

 

 私は二ヶ月前に父を自動車事故で亡くした。母のグウィネスは私が二歳になったばかりの時に亡くなっていたので、私は十六歳も年上の姉のジュリアを母親のように思って育った。ジュリアの母親が父の最初の妻だったが、ジュリアが小さい頃に亡くなったので、ジュリアは母親を失うことの悲しみや痛みを知っていた。ジュリアは保護者のように私を扱い、私もジュリアになついていた。

 ジュリアが私の哺乳瓶を準備したり、おむつを替えたり、マイアミビーチに散歩に連れて行ってくれたことが、かすかな思い出として残っているが、それは後で周囲の人から聞かされたことだったのかもしれない。そして私がむずがると美しい黒髪のジュリアは私を腕に抱いて、ラン、ジャカランダ、フランジパニの木が立ち並ぶ小道を歩いてくれた。

 私が七歳の頃、アーサー・サイクスがアメリカに来てバックパックを背負って旅行をしていた。彼は当時二十三歳だった美しいジュリアに声をかけた。二人は愛し合うようになり、そして結婚した。貧しい大工の自分の娘が英国のホテルのオーナーの息子に見初められたことを、父は大喜びした。

 結婚して間もなく二人は英国に移り住み、それ以来、父は私を一人で育ててくれた。ジュリアは一度も里帰りせず、父も英国への旅行費用を捻出できるほどの収入は無かったので、結婚後は一度も会っていない。ジュリアから時々短い手紙が届き、自分は幸せにやっていると要点だけ書いてあった。父と私はジュリアの手紙を言葉通りに解釈していた。

 父が亡くなった時、私は舵のない船になった。高校は卒業したが、大学に進学する意欲は湧かなかった。私は悲しみを紛らわせるためにあてどもなく雑用的なバイトをしたが、役には立たなかった。わずかな給料をもらって何時間も汗にまみれても士気が高まることは無く、自分が無視され、搾取され、孤立していることを思い知らされただけだった。。

 絶望的な気持ちになった時、ジュリアの柔らかで母のような手の感触がふと私の肌に蘇った。私はすぐにでも英国に飛んで、姉の家で二、三年でもいいから一緒に暮らしたいと思った。母のように愛情深い姉なら喜んで私を受け入れてくれるだろうと確信していた。外国で二、三年暮らせば今の自分の悲しい状況から離れることができて、気持ちがしっかりするようになるのではないかと思った。

 一介の大工だった父が残してくれたお金は僅かだったが、英国への航空券を買うには十分だった。マイアミからロンドンのヒースロー空港まで飛行機で行き、ロンドンからGWRの列車でトットネスまで行った。トットネス駅からホッジソン・ホテルまではタクシーで数十分で行けそうだった。

 英国の土を踏むのは初めてだったが、英国は何もかもがアメリカとは正反対だった。建物も、人も、列車もくすんだ感じで、陽光が降り注ぐ、開放的で陽気なマイアミとは別世界だった。列車に乗っていて、空がかき曇り不気味な雲が垂れ込めると、尋常ではない妄想が頭に浮かんで物思いに耽ってしまう。私は窓辺へと身体を動かし、窓の外を茫然と眺めていた。

 人っ気のない荒涼とした沼沢地帯に、トールと呼ばれる花崗岩の岩塊が点在している。基本的にトールとは花崗岩の岩盤が風化する際に取り残された、未風化の岩柱を意味するが、ダートムーアの場合はそれが丸みを帯びた露頭になっている。この地に生えている植物はヒースだけであり、雲に覆われた暗い空間に、オリーブ・クリーン色の黒い陰影のように見える。

 窓外の景色を見れば気持ちが落ち着くだろうと期待していたが、驚くほどの抑圧感に襲われた。野性的な美しさを持った湿原自体が独立した人格を持っていて、それが私に呪文を投げかけているかのようだった。そしてその呪文が私に魅惑、不安と、軽度の恐怖が混じった感情を呼び起こした。

 私はそんな感情を空想の産物として却下した。私が特に豊かな想像力を持っていたからではなく、頭のない騎士とか、幽霊犬や物の怪などの言い伝えがあるダートムーアがもたらした感情だった。

 恐怖から逃れるため、この湿原が人格を持っているという考えを頭の中から振り払おうとしたが無駄だった。外国から一人でやって来た十代の若者が憑りつかれた妄想ではなく、それは極めて明白かつ現実的な感触だった。

 列車が高い金属音を立てて停車し、私はトットネス駅に到着したことに気付いた。私は立ち上がり、スーツケースを引いて列車を降りた。ここは表向きには文明化されているが、まるで百年前の世界にタイムトラベルして来たような気がした。列車での旅に慣れていないからそう感じるのかもしれないが、ぎくしゃくした列車の動きはダートムーアの本質を捉えている。野性的で、飼いならされておらず、それでいて旅行案内に書いてある通りの場所だった。

 形容しがたい居心地の悪さを心から振り払って、私はスーツケースを引っ張ってプラットフォームを降り、タクシーを見つけようと駅の外に出た。

 陰気で心を滅入らせる暗い色のタクシーが客待ちをしていた。私はそのタクシーまで歩いて行き、半開きのガラス窓をコンコンと叩いた。四十五歳ぐらいの赤ら顔で恰幅の良い運転手が、新聞から顔を上げて私を見た。

「どこまで?」
と彼は強い訛りのある英語で聞いた。

「ホジソン・ホテルまでお願いします」
と私は簡潔に答えた。

 運転手はホジソン・ホテルの名前を聞いてビクリとした様子を見せた。赤ら顔からさっと血が引いて死人のように真っ白になった。あれほど健康そうだった人間が一瞬にして死んだように蒼白になるのを見たのは初めてだった。

「行けません」
と彼は声を震わせながら答えた。

「申し訳ない……」

 運転手のずんぐりとした手が震えていた。

 私は何か運転手を怖がらせるようなことをしただろうか? 特に思い当たるフシは無かった。片田舎の運転手は外国人に慣れていないから私を見て怖気ずいているのかもしれない。フロリダから来たアメリカ人はイギリス人の目にそれほど奇異に映るのだろうか……。

 イギリスでタクシーに乗った場合のチップの相場は十から十五パーセントと聞いていたので、
「チップを二十パーセント払います」
と言ってみた。お金が有り余っているわけではないが、タクシーはこの一台だけしか見当たらないので、引き下がるわけにはいかなかった。

 運転手がどうしようかと迷っている気配が見えたので私は畳みかけた。

「わかりました。じゃあ二十五パーセント出しますから乗せてください」

 なけなしのお金だったが日が暮れるまでに姉の家に辿り着かなければ、ホテルを探して泊まるか、野宿することになってしまう。

 運転手は目を丸くして唾を飲みこんだ。まるで、そんな高額なチップをもらったことがないかのような反応だった。大した金額にはならないと思うのだが……。運転手はしばらく断ろうかどうしようかと迷っているようだったが、ついに私の方を見て言った。

「行きましょう。乗ってください」

 運転手は車を降りて私のスーツケースをトランクに乗せ、私は後部座席に乗り込んだ。運転手は黙りこくったまま五マイルほど運転した。周囲の景色が目に見えて変化し始め、ダートムーアの真っ只中に入って来たことを肌身に感じた。ヒースの茂みが益々濃く、険しく、そして神秘的になってきた。曇り空が晴れる気配はなく、湿気をいっぱいに含んだ黒い雷雲が垂れ込める。遥か遠方の紫色の空がトールの地平線と混じり合う所に稲妻が光る。雷雨が襲い掛かろうとしている。

 大気は氷晶を含んでいるかのように肌を刺し、タンポポ柄のポロネックの薄いセーターを着て来たのは失敗だったと痛感した。天気予報によると今日のダートムーアは肌寒いとのことだったが、凍てつく寒さになるとは予想していなかった。四肢に浸透して骨まで凍らせる冷気が私をあざ笑っているように感じた。

「この一帯は沼地なんですよ」
と運転手が初めて初めて口を開いた。

「水が溜まっているので、このあたりの湿地帯は非常に危険です。このあたりでダートムーアの人間が大勢行方不明になっています。一度足を踏み入れると、助けを求めることもできずに沼に飲み込まれるそうです」

「本当ですか!」

 頼みもしないのに旅行者相手に病的なほど陰鬱な話をする運転手に腹が立った。みぞおちの辺りに不安感が渦巻き、そうでなくても冷え冷えしている全身に寒気が走る。家から出発して四十八時間になるが、陽光の射すマイアミが懐かしくなった。

 ホジソン・ホテルまであとどのくらいだろうかと気になり始めたころ、「この先、ホジソン・ホテル」と書かれた標識が道路の左側に目に入った。ホテルが前方の道路沿いに見えたところで、運転手は手前の脇道へと左折した。ホテルの建物が木々の間に隠れた。

 運転手がホテルを右に見ながら脇道を真っすぐ進んだので私は警戒した。

「ちょっと待ってください! どうしてホテルの手前の道を入ったんですか?」
と運転手に抗議した。

 運転手は私の抗議を無視してどんどん奥へと進み、教会の前に来るまで速度を緩めなかった。その教会はドームがあるとても美しい建物で、私は運転手に対する怒りを忘れてしばらく見入っていた。

 運転手は車から降りて私の荷物を下ろした。私は戸惑いながら車を降りた。

「この教会のアンカ神父と相談してください。あのホテルに同行してもらう相手としてはアンカ神父が一番です」

「どうしてこの車で直接ホジソン・ホテルまの玄関まで連れて行ってくれないんですか?!」

「とにかく私にはできないんです!」
と、運転手は声を震わせて答えた。


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