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異性への逃避行

【内容紹介】大学1年生の主人公はジョッギング中に強姦殺人事件の現場を通りかかり、嫌疑をかけられて警察に連行される。あらゆる証拠が主人公が犯人であると示していることに気付き、主人公は警察から逃亡する。監禁・緊縛により強制女性化させられるサイコ・ホラーTS小説。

第一章 冤罪

 ぐっと冷え込んだ十一月上旬の朝、谷津干潟の東岸を通りかかると白鷺しらさぎの群れが来ていた。毎年秋から冬になる頃、急に寒くなったと思うと決まって北方から飛来した渡り鳥が谷津干潟の東岸を賑わす。スマホのカメラをデジタルズームにして、手すりに固定してシャッターを切る。

 一羽、二羽、三羽……二十七羽まで数えた所で、野鴨の動きにつられて数羽が飛び立ち、数えるのを断念した。

 あの白鷺しらさぎの大半はダイサギだ。谷津干潟には四季を通してシギやチドリが見られるが、シベリア・樺太から南方へと移動する渡り鳥の通り道として、この季節には白い大きな鳥がやってくる。小学生だった頃にはもっと多くの渡り鳥で賑わっており、時々白鳥も来ていたという記憶があるが、近年は白鳥を滅多に見かけなくなった。

 小さい頃、母が谷津駅前の商店街に買い物に行くのに付いて行き、谷津干潟周回歩道を通って帰った夕方、谷津干潟に二羽の白鳥が舞い降りた。

「あの白鳥はシベリヤからおばあちゃんの家の上を通って飛んできたのよ」
と母に言われて、自分も鳥になりたいと思ったことが、夕日に映える白鳥の姿と一緒に記憶に残っている。

 両親のルーツは津軽で、僕が小学校に上がる前に両親は僕を連れて東京に出て来た。正確に言えば東京の会社に通勤するために千葉県習志野市の谷津干潟の周辺にある小さな家を買ったのだが、津軽の祖母の家に遊びに行くと両親は習志野の家に帰ることを「東京さけえる」と言っていた。千葉県にあっても東京ディズニーランドと呼ぶのと同じだ。

 そんな父と母が今年の三月に交通事故で亡くなった。僕の千葉大の合格発表があった翌週のことだった。祖母も去年の暮れに亡くなったばかりだったので、僕はあっという間に天涯孤独の身となった。幸い、保険金と両親が残してくれた貯金のお陰で、自宅のローンの残金を払い、僕が大学を出るまでに必要な生活費の目処は立っていた。

 両親は津軽出身で僕が生まれたのも津軽だが、出身地を聞かれると「谷津干潟です」と答えることにしている。僕が通った小学校と高校の校庭は谷津干潟に面しており、谷津干潟で生まれ育ったと言っても過言ではないからだ。

「千葉県出身です」と答えれば「あっそう」と言われるだけだが「谷津干潟出身です」と答えれば、「それはどこですか?」とか「新潟ですか?」などと言われて話のネタがつながるから便利だ。一度「津軽です」と答えてみたところ、津軽弁の話になり、自分が如何に津軽と縁が遠い人間かを思い知った。僕は簡単な津軽弁は聞いて理解することはできるが、話すことはできないし、僕が知っている津軽は祖母の家とその周辺だけだった。

 谷津干潟には僕の過去と現在の全てがある。きっと千葉大を卒業したら東京の会社に就職して京成電鉄かJR京葉線で通勤し、結婚後もこの家に住み、首都直下地震が起きて水没でもしない限り谷津干潟で一生を送るのだろうと思っていた。

 しかし、その日の夕方、僕のそんな思いを吹き飛ばす事件が起きた。

 

 授業を終えて帰宅したのが午後四時半で、僕はすぐにジャージーに着替え、ワンショルダーのボディーバッグにスマホとパーカーを突っ込んで家を出た。夏休みが終わってからは、谷津干潟をジョギングで二周するのが日課になっていた。一周三・五キロメートルだからさほどハードでなく丁度良いジョギングコースだ。僕はリンゴが大好きで、リンゴとアーミーナイフをボディーバッグに入れて家を出て、谷津干潟周回歩道の南東部分にあるベンチに座ってリンゴを食べることを密かな楽しみにしていたが、その日は寒いのでリンゴは持たずに家を出た。

 時計回りコースを選択し、自然観察センターの裏を通って習志野緑地から湾岸道路沿いの歩道へと進むつもりだったが、僕は習志野緑地を抜ける林間の道で痛恨のミスを犯してしまった。その秋一番の寒さに下半身が冷えたためか、急に尿意が高まった。谷津干潟公園のトイレまで引き返せばよかったのだが、周囲に人影はなかったので、林の中に足を踏み入れ、木陰で立ちションをした。

 服を直して周回歩道に戻ろうとしたが、間が悪いことに反対回りでジョギングをしてきた中年女性三人組に、僕が林から出てきたところを見られてしまった。立ちションをしている現場を見とがめられたわけではないが「イヤねえ」と非難する視線を浴びた気がして、僕は「天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず」という父の教えに背いたことを後悔した。

 気を取り直して周回歩道をひた走り、谷津バラ園前の公園のトイレで手を洗ってから、普段リンゴを食べる東岸のベンチまで来た。柵の向こうには今朝と同じダイサギの群れが夕日に映えていて、じっと見ていると物悲しい気分になった。

 二周目は少しラップを上げて走ることにした。谷津干潟周回コースは人通りが途切れることが少なく、女性一人でも安心して走れるジョギングコースとして知られているので、暗くなっても大丈夫だが、これからますます冷え込むだろうと思ったからだ。

 営業が終了した自然観察センターの裏を通って、習志野緑地の方へと入ると、警察官が立っていて何か物々しい雰囲気だった。何があったのだろうと足を止めたところ、女性が三人立っていて、そのうちの一人と目が合ってしまった。

――まずい、さっき立ちションの後で会った三人組だ! 

 僕は咄嗟に目を逸らして、その場を通り過ぎようとした。オバサンたちが警官に告げ口をしても、立ちションは現行犯でない限り逮捕されることは無いだろうとは思ったが、恥ずかしい目に遭いたくなかった。

「あの男です! さっき、あの若い男がそこの林の中から出てきたのを見ました」
と一番背が高い女性が僕を指さして叫んだ。

「間違いないわ、あの男よ!」
「そうよ。私も見たわ!」
と残りの二人が同時に叫んだ。

 気が付くと、僕はきびすを返して元来た方向へと全速力で走っていた。立ちションの容疑者を警官が本気で追いかけてくるとは思わなかったが、こんな場合にはとにかく連行されないことが大事だと聞いたことがあった。

 自然観察センターの裏に来るとひと筋違う裏道に抜け、物陰に入ってバッグからグレーのパーカーを出し、フードを頭に被った。肩に斜め掛けにしていたボディーバッグを手に持って物陰を出て、小走りで進んだ。あと二分で僕の家に辿り着く。

 これだけ変装をしたらさっきの警官に見られても分からないだろうと思った。ところが、角を曲がった所に警官が二人立っていて、

「ちょっとフードを取って顔を見せていただけますか?」

と言われた。

 脱ぐのを躊躇っていると、
「さっき逃げた人ですね?」
と言われて、最早これまでと観念した。

「警察で話を聞かせてください」

「はい、分かりました」

 僕は二人の警官に両脇を掴まれた。一方の警官が無線機で「容疑者を確保」と報告していた。

 立ちションぐらいでここまでするのか……いや、さきほど逃げたことで公務執行妨害の罪が加わったのかもしれない。公務執行妨害の現行犯が手錠をはめられるシーンをテレビドラマで見たことがある。生まれ育った場所で恥をさらすぐらいなら、オシッコを我慢しきれずに洩らした方がまだマシだったと悔やんだ。

 少し歩くとパトカーが待っていた。僕は後部座席に押し込まれ、警官に左右に座られて習志野西警察署へと連行された。

 

 警察署に入ると、二階の取調室に連れて行かれた。中央に机がある小さな部屋だ。二人の警官は僕を机の向こう側の椅子に座らせて出て行った。ほどなく背広姿の男性二人が入って来て、一人が僕の前に座り、もう一方の男性は入り口の横のデスクに壁の方を向いて座った。

 テレビドラマに出て来る取調室と同じだった。僕が被疑者の立場で取調室に座る日が来るとは思ってもいなかった。しかし、所詮容疑は立ちションと公務執行妨害だ。立ちションが有罪になってもチ〇〇を切り取られるわけではなく、まさかその程度で退学処分にはならないだろう。普通の大学生なら逮捕されれば家族を驚かせ落胆させることへの心配がまず頭に浮かぶのだろうが、幸か不幸か僕には心配してくれる家族が居ない。

 どうせ立ちション程度のことだし、一生一度の取調室体験をしっかりと味わおうという気持ちになって、僕はでーんと構えた。

 取調官が
「警部補の木村です」
と名乗ったので、
「千葉大学一年の枕崎那央と申します。よろしくお願いします」
と自己紹介した。

「僕は公務執行妨害の現行犯で逮捕されたんですよね?」

 木村警部補は首を横に振った。

「これは任意による取調べであり、被疑者であるあなたは何時でも退去する権利を有しています。あなた自身の意思に反して供述をする必要はありません」

 教科書を棒読みするような言い方だった。その後はタメ口になったので、さっきのは決まり文句だったことが分かった。

「君がやったんだね?」

「はい、僕がやりました。林から出てきたところを三人組のオバサンに見られたし、立ちションをかけた木からDNAを採取されたら言い逃れの余地はありませんから、何もかも正直に白状します」

「それなら話が早い。供述調書を作成しようじゃないか」

 名前と生年月日、住所、学校名などについて質問されて正確に答えた。家族構成について聞かれたので、去年の十二月に祖母を、今年の三月に両親を亡くして天涯孤独になったと答えると、
「非常にお気の毒です。同情します」
と言われた。

「立ちションにも情状酌量ってあるんでしょうか?」
とキワドイ冗談を言ってみたが、警部補はニコリともしなかった。

 警部補に聞かれるまま、夕方に家を出てからジョギングを開始したことを話した。

「現場周辺の地理には詳しいんだね?」

「はい、自称『谷津干潟出身』でして、谷津干潟周辺なら樹木の一本一本まで把握しています。あ、これ、供述調書には不適切ですよね。言い直させてください。現場周辺の地理には非常に詳しいです」

「土地勘アリ、と。現場近くで被害者の女性に声を掛け、林の中に誘い込んで犯行に及んだんだね?」

「えっ、被害者の女性? 何のことですか? 僕は林の中に入って木に向かって立ちションしただけであって、女性に小便をかけたりしていませんよ。それだと変態じゃないですか!」

 木村警部補はテーブルに両手の拳を付き、真っ赤な顔になって腰を半分上げた。

「ふざけるのもいい加減にしろ!」

「ふざけてなんかいませんよ。僕は一人で林の中に入って立ちションをしただけです」

「目撃者が三人も居るのにシラを切るのか!」

「あのオバサンたちは僕が立ちションを終えて林から出てきたところを見ただけです。それより、僕を被害者の女性に会わせてください。その人に小便をかけたのが僕でないということは、僕の顔を見ればすぐに分かるはずです。あ……もしかして、その女の人が木の陰に隠れていたのを僕が気付かずに立ちションをして、少しトバッチリがかかったんでしたら会ってお詫びしたいです」

 木村警部補は僕のパーカーの襟元を掴んで締めあげながら言った。

「被害者は死んだよ。お前は婦女暴行殺人事件の犯人だ!」

 身体中から力が抜けて頭の中が真っ白になった。僕が立ちションをしてから谷津干潟を一周している間に、あの林の中で強姦事件が起き、出動した警察官にあのオバサンたちが僕が林から出て来るのを見たと通報したわけだ。そしてそこに僕が通りかかった……。

「僕は立ちションをしただけです。あの辺りで三人のオバサン以外の女性は見てもいません。信じてください。あ、そうだ。強姦殺人なら遺体から精液を採取すれば僕が犯人じゃないことはすぐに分かるはずです!」

「えらく自信があるようだな。射精を伴わない婦女暴行だと知った上でそう言っているのか? じゃあ、持ち物を見せてもらおう」

 木村警部補ともう一人の刑事はゴム手袋をしてから僕のボディーバッグの中身を机の上に並べた。リンゴを剥くためにバッグに入れていたアーミーナイフが出て来た。

「これが凶器だな。被害者は鋭利な刃物で一突きされていた。被害者の服でナイフの血を拭って現場を離れ、谷津干潟の対岸のバラ園のトイレで石鹸を使って血液を洗い落とし、バッグにしまった。そうだな?」

「僕はきれい好きですから、バラ園のトイレに置いてあった石鹸で手を洗ったのは事実です。でも、警察物のドラマだと、ナイフで人を刺したら返り血を浴びるし、石鹸で洗ったぐらいでは血液反応が残ったりしますよね。お願いですからナイフも服も科捜研に送って完璧に検査してください」

「用意周到な知能犯ということか……」
と警部補が呟くのを見て背筋が寒くなった。警察はあくまで僕を犯人に仕立て上げるつもりだ。このままだと大変なことになると思った。僕は必死で頭を回転させた。

「誘導尋問で犯人に仕立て上げられるのは嫌ですから、当番弁護士を呼んでください。弁護士が来るまで黙秘します」

 当番弁護士とは無料で弁護士の相談を一回だけ受けられる制度であり、冤罪えんざいで警察に連れて行かれた場合には黙秘権を行使して当番弁護士を呼んでくれと取調官に要求することが重要だ。刑事もののドラマで得た知識が役立った。

 木村警部補は「チェッ」と舌打ちしてから、
「当番弁護士を呼べるのは逮捕状が出てからだ」
と吐き捨てるように言った。

「しばらく休憩だ」
と言って木村警部補は取調室から出て行った。

――そうか、まだ任意同行の段階なんだ! 

 木村警部補が開口一番に「何時でも退去する権利を有しています」と言っていたことを思い出した。逮捕状が出る前にここから逃げ出さなければと思った。

「すみません、トイレに行きたいんですけど」
と筆記役の若い刑事に言うと「どうぞ」と答えてドアを開けてくれた。そのまま正面玄関まで行って警察署から出て行こうと思っていたが、若い刑事が僕について来た。仕方なくトイレに入り、「お腹を下しそうなので」と言って一番奥の大便の部屋に入った。刑事は立小便の便器が並んでいる前をうろついているようだ。僕は身軽さを活かして隣のブースに移ろうと思いつき、大便器のノブに足をかけて水を流してから隣のブースとの仕切りの上に飛び上がり、更に一つ置いた隣の小部屋へと下りた。誰も座っていなかったのが幸いだった。僕は自分の印象を変えるためにパーカーを脱ぎ棄て、髪に唾を付けてヘヤスタイルを変えた。

「まだか、開けろ!」
 僕が入った小部屋のドアを若い刑事がドンドンと叩いている。水を流す音がしたのに僕が出て来ないから心配になったのだろう。

「どうした?」

「被疑者が腹を下したと言って入ったっきり出て来ないんです」

 もう一人の男性と一緒にドアを開けようとしているようだ。僕はそっとドアを開けて、何食わぬ顔で音を立てないようにトイレの出口へと歩いた。一階への階段を下り、小走りで出口を目指した。通用門らしい出口があるのを見つけて、そのドアから出た。背をかがめて駐車場を走り抜けて道路に出ると振り返らずに一目散に走った。

 ここから家までは普通に歩いて二、三十分の距離だ。車が通らない裏道を選んで必死で走る。ボディーバッグとスマホは取調室に置いて来たが、今日財布を持たずにジョギングに出たのは幸いだった。キャッシュカードが入った財布とアイパッドと、できれば衣類を少し持ち出せれば、僕は警察の目から逃れられる場所を転々とすることが出来る。いつまで逃げるのかは分からない。とにかく真犯人が逮捕されるまでは警察に捕まるわけにはいかない。

 パトカーのサイレンの音が聞こえる。僕が警察署から逃走したことに気付いて探しに来たのだろうか? 住所氏名を言うのではなかったと悔やまれる。

 家の近くまで来ると大きなサイレンの音が近づきパトカーが止まる音がした。次の角で覗き見ると、二ブロック先の自宅の前にパトカーが三台停まっていて、何人もの警官や私服の刑事がうろついていた。

――遅かった。家に入るのは無理だ……。

 警官が一人、こちらの方に歩いてくるのが見えた。僕は元来た方へと引き返そうとしたが、遠くから警官二名が僕の方向に向かって歩いて来るのが見えた。まだ僕には気づいていないようだ。

――このままだと挟み撃ちになる……。

 丁度左に人が通れるか通れないかの路地があった。僕は身体を横にして真っ暗な路地に入り、低いブロック塀に沿って蟹歩きで通り抜けようとした。四、五メートルでブロック塀を通り抜けてその家屋の裏庭に出た。丁度その時、その家の裏戸が開き、同時に電気が点灯した。裏戸から出てきた女性はゴミの袋を右手に持っていた。

「あ、那央ちゃん! こんなところで何してるの?」

 吉村のおばちゃんだった。

「おばちゃん、助けて! 悪い奴らに追われてるんだ」
 僕はとっさに思い付いた言い訳をした。

「早くお入り」
と言って彼女は僕を裏戸から家の中に入れてくれた。

「もし誰かが僕を探しに来たら居ないと言ってね、お願い!」

「分かってるわよ。この家には私だけしかいないと言えばいいのね。でも那央ちゃん、寒いのにこんな恰好で……風邪をひくわよ。お風呂にお湯を入れた所だから身体を温めなさい」

 僕は風呂場へと案内され、服を脱いで風呂に入った。お湯を頭からかぶり、シャンプーをして、タオルに石鹸を付けて身体を洗うとほっとした。地獄に仏とはまさにこんなことだ。湯船に首まで浸かって温まった。

 吉村は僕の亡くなった母の年上の友人だ。地域の集会所で毎週木曜日にお花の会をやっていて、僕が小学校に上がったばかりの頃から母は毎週参加していた。母は僕を家に一人で残したくないのか、あるいは僕と離れたくないからか、僕を時々お花の会に連れて行った。僕は男の子としては珍しいほど良い子だったので、お花が終わるまで大人しく待っていた。その時に一番僕を可愛がってくれたのが吉村だった。中学に上がっても僕を見かけると家に上げてお菓子を食べさせてくれた。母が亡くなってしばらくしてから、大学の帰りに通りがかった時に声を掛けてくれて、しばらく立ち話をした。

 吉村はご主人を随分前に亡くし、今は年金生活者だ。長女は結婚して大阪に住んでいるとのことで、長女の娘が千葉大学に通う間、この家に下宿していた。僕はその孫娘を「沙也加ねえちゃん」と呼んでいたが、僕から見ると十歳近く年上の大人だった。沙也加は一昨年に千葉大学の法科大学院を卒業して、それ以来吉村のおばちゃんは一人暮らしだった。

「ピンポーン」
と来客を知らせるチャイムが鳴った。

「はーい」
と吉村がドアホンに応答している。

「警察です。ちょっとお顔を見せてください」

「はーい。お待ちください」
と吉村が玄関に向かう気配がした。

――まずい! 逃げなきゃ! 

 僕は湯船から上がって風呂場のドアを開けた。しかし、さきほど脱ぎ捨てた服が無くなっていた。この寒い夜、素っ裸で逃げるのは無理だ。

「今日の夕方に谷津干潟の自然観察センターの裏側の林で婦女暴行殺人事件が起きたことをご存知ですか?」

「ええ、さっきニュースで見ました」

「容疑者が逃走中です。この近所を立ちまわる可能性があるのでご注意ください」

「容疑者は特定されているのですか?」

「はい、この近所に住んでいる枕崎那央という十八歳の男です。ご存知ですか?」

 もう一刻の猶予も許されない。脱衣場の洗濯機の蓋を開けると、僕の服が水に浸かっていた。濡れていても着るしかないと思って引っ張り出そうとしたが洗剤でヌルヌルしており、吉村の服と絡まっていた。

「ええ、枕崎さんの息子さんは知っています」

「くれぐれもご注意ください。あれっ、奥に誰かいるんですか?」
 心臓が止まるかと思った。僕は息をひそめた。

「孫娘が遊びに来ていて、お風呂に入ってるんです」
 よかった、吉村は僕を警察に突き出さなかった……。

「何かあったらすぐこの番号にお電話ください」
と言ってから、玄関のドアが閉まる音がした。

 僕は大きなため息をついて風呂場に入り、もう一度湯船に浸かった。

 間もなく風呂場のドアが開いて、吉村が中を覗き込んだ。僕はおへその下を手で隠し、吉村の顔を見上げた。

「おばちゃん、僕を警察に突き出さなくてありがとう」

「那央ちゃんは犯人じゃないわよね?」

「僕は絶対に女の人に乱暴なんかしないよ」

「那央ちゃんがそんな子じゃないってことは、亡くなったお母さんの次に私がよく知っているわ」

「ありがとう、僕を信じてくれて」

「犯人じゃないのならどうして逃げるの?」

「警察が僕を犯人にしようとしてるからなんだ」

 僕は今日起きたことを詳しく話した。

「那央ちゃんは女の子のように大人しくていい子だったのに、どうして周回歩道で立ち小便するような子になったの?! おチンチンなんかがついているのがいけないんだわ」
 さもがっかりしたという口調だったので、僕は悲しくなった。やはり立ちションが諸悪の根源だったのだ。

「本当だね。もしタイムマシンで昨日に戻れるのなら、こんなものは切り取ってしまいたいよ」

「真犯人がつかまるまでここに隠れていた方がいいわ」

「本当? いいの?」

「私がお母さんの代わりに那央ちゃんを守ってあげる。でも、ここに居ることが誰にも勘付かれないように息をひそめているのよ。窓の近くに立たないように。それに裏のお宅の二階から見られる恐れがあるから庭にも出ちゃダメ」

「ありがとう。家の中の仕事なら何でもするから言いつけてね」

「沙也加のパジャマを出しておくから、それを着なさい。主人のは全部整理しちゃったから男物の服はないのよ」

 風呂を出ると黄色の地に花柄のパジャマと女物のパンツが置いてあった。沙也加ねえちゃんのものだ。恥ずかしかったが、文句を言える立場ではないので着た。女物のパンツをはいて、右前のボタンをひとつひとつ苦労して留めていると股間のものが固く大きくなってパジャマのズボンにテントが張った。強姦殺人は冤罪だと言いながら、こんな姿を吉村に見られるのは非常にまずい。僕はパンツを下ろして股間の物を後ろへと折り曲げ、太ももの間に挟んでヨチヨチ歩きで台所に行った。

「さっきの話だと晩御飯はまだ食べていないんでしょう? 何もないけど座って食べなさい」

「僕、そんなにお腹は空いていないから……」
と言いながらお腹がグーッと鳴ったのが聞こえて吉村が笑った。

「主人は定年まで鉄鋼会社に勤めていたから年金は結構出ているの。那央ちゃんの食費ぐらいは何ともないわよ。だから遠慮しないで食べなさい」

「おばちゃん、本当にありがとう」

 ご飯を食べていると、吉村の後ろに母が立っているような気がして涙が出た。

 食事の後、沙也加が使っていた二階の部屋に連れて行ってくれて、布団を出してくれた。

「目が覚めてもうっかり窓から顔を出さないように注意しなさい」
と念を押された。

 長くて重すぎる運命の一日の幕が下りようとしていた。布団に入るとあっという間に睡魔に襲われて深い眠りに落ちた。

第二章 退去宣告

 トントントントントン……まな板に包丁の音だ。

 夢かうつつか不確かなまま目を開けた。母が台所で朝食を作っている……。頭の方ではなく足の方向に窓がある……。僕はどこにいるのだろう? 

 朦朧もうろうとして起き上がると黄色の地に花柄のパジャマを着ている。ボタンの左右が逆だ。

――そうだ、ここは吉村のおばちゃんの家だった! 

 やっと頭の中で何もかもが結び付き、自分が置かれた恐ろしい状況を思い出した。僕は強姦殺人事件の容疑者として警察に追われている身なのだ。昨日までの一人ぼっちでも平穏な朝が懐かしい。

 起き上がってカーテンを開けようと窓の所に行く。白いレースのカーテンを動かさないようにして内側の遮光カーテンだけを注意深く左右に開いた。レースのカーテンの間から小さな裏庭と、その向こうの家の裏側が見える。もし裏の家の人が窓を開けたらこの窓が見えるので注意が必要だ。空気の入れ替えの為に数センチだけ窓を開けた。

 空には雲ひとつない。北向きの部屋だから光は差し込まない。

 階段を降りて、台所を覗き込む。

「おはようございます」

「おはよう、那央ちゃん。よく眠れた?」

「うん、自分がどこにいるのか、なかなか分からなかったほどぐっすり眠っていたみたい」

「顔を洗ってきなさい。ご飯よ」

 洗面所の鏡の中に沙也加のパジャマを着た自分が見えて、今更のように恥ずかしい。

 台所に戻って吉村に聞いた。
「おばちゃん、僕のジャージーとパーカーは洗濯機に入ってるんだよね?」

「そうよ。お天気がよさそうだから庭に干せば今日中に乾くわ。でも、庭の物干しに男物の服を干すのはまずいからお風呂の中に干すわね。ご近所の人は私が一人住まいだと知っているから」

「僕に貸してもらえる服は無いかな」

「私の服は那央ちゃんには小さすぎるわ。沙也加の服は殆ど自分のアパートに持って行ったけど、那央ちゃんが着られる服がないか、後で見てあげる。でも、私以外は誰とも会わないんだから一日中寝間着でいいわよ。沙也加の寝間着がもう一つあるから、二着を着回せばいいわ。寝間着だけじゃ寒いから私のちゃんちゃんこか、沙也加のガウンを出してあげる」

「ごめんね、迷惑をかけて……」

 台所のテーブルで吉村と向かい合って朝食を食べる。熱いご飯、具沢山な味噌汁、それに卵焼き。口に入れると心と身体が火照った。久しぶりに食べる本物の朝ごはんだ。

 母が亡くなってから、僕の朝食はグラノーラと牛乳が基本で、お腹が空いている日は大学の手前のコンビニでコロッケパンを買う。それで栄養的にも必要十分なのだが、こんな贅沢を味わってしまうと、ご飯を作ってくれる人が居るのはいいなとつくづく感じる。

 テレビでは朝のニュース番組が流れている。また幼児虐待事件のニュースが報道されているが、つい最近似たような幼児虐待事件のニュースを見た気がする。

「いやあねえ」
と吉村が嫌悪と恐怖の入り混じった口調で言う。

 僕も合鎚を打とうとしたが、自分がもっとおぞましい事件の容疑者だということを思い出して、軽く頷いただけだった。

「次は千葉の強姦殺人事件に関するニュースです」
と女性アナウンサーの声が流れた。吉村の顔がこわばり、僕の心臓が止まった。

「昨日午後五時ごろ千葉県習志野市の谷津干潟周辺で強姦されたと見られる若い女性が発見されました。女性は病院に搬送されましたが死亡が確認されました。被害者の身元は分かっていません」

 女性アナウンサーは同じ内容を繰り返しただけで、容疑者についてはひとことも言及しなかった。

 次のニュースに移ったことを確認して、吉村と僕は同時に大きなため息をついた。昨日起きた事件はあの幼児虐待事件や、老人の運転する車が保育園児の列に突っ込んだ事件などと同じように全国レベルで報道される大事件なのだと実感した。真犯人が捕まらない限り、僕の顔と名前が強姦殺人の容疑者として各局のニュース番組で一日中全国に流れる日が続くことになるだろう。そうなれば僕の人生はお終いだ。

 いや、僕はまだ十八歳だから実名報道はされないのではないだろうか? しかし、その場合でも2ちゃんねるでは実名や学校名が流れ、高校の卒業アルバムから切り出した写真が流れるのが普通だ。あっと言う間にSNSで拡散されて、僕の名前は過去に僕に接触したことのある人すべての心に強姦殺人犯の名前として深く刻まれるだろう。

 

 朝食を終えると吉村は洗濯機を回して掃除に取り掛かった。僕が志願して家中に掃除機をかけた。古い蛍光灯のランプがチカチカしているとのことで、僕がグローランプを替えると直った。吉村に頼まれて押し入れの上段に置いてあった段ボールを下ろしたり、普段吉村ができない小さな用事を頼まれた。

「やっぱり家に男手おとこでがあると本当に助かるわ!」

 男でなくてもできることばかりだったし、僕は「男だ」と威張れるほどのパワーは無いが、吉村が感謝してくれて嬉しかった。

 正午が近づき、吉村が「おそうめんを頂いたからお昼は柚子入りのおそうめんにするわね」と言った。

 テレビのスイッチを入れて素麺を食べた。ちょうどお昼のニュース番組が始まった所だった。画面の右に今日のニュースの一覧が表示され、その最上段の大きな見出しが僕を射抜いた。

「谷津干潟レイプ殺人事件」

 今朝は「千葉の強姦殺人事件」と書かれていたのに、センセーショナルな表題になっていた。

「昨日午後五時ごろ千葉県習志野市の谷津干潟近辺で発見された遺体の身元が判明しました。被害者は千葉県浦安市在住のOL辻村沙羅さん二十一歳です。警察では遺体発見の直後に現場から逃走した少年Aを有力な容疑者と見て、少年Aの行方を追っています。少年Aは任意同行に応じて習志野西警察署で事情聴取を受けましたが、隙を見て逃走し、現在行方不明になっています。警察によると少年Aは事情聴取に対して犯行現場の林に居たことを認め、少年Aの所持品から遺体の傷口と一致する凶器が発見されたとのことです。また、遺体から検出された体液の遺伝子型が少年Aに一致したとのことです」

「ウソだ! 見たこともない女性に、どうして僕の体液が付くんだ?! 警察が僕を犯人に仕立てようとしてる! おばちゃん、どうしよう……」
 恐怖と怒りで身体が震えて、歯がカチカチと鳴った。

「少年Aは所持品全てを習志野西警察署に残して逃走しており、自宅に立ち寄った形跡もないことから、付近に潜伏している可能性が高いものと見て、警察では注意を呼び掛けています」

 レポーターが谷津干潟でジョギングをしている男性にマイクを向ける映像が流れた。

「谷津干潟のジョギングコースは利用する人が多いので女性一人でも安全だと言われていたのに、非常に残念です。早く捕まって欲しいですね」

 近所の女性は犯人への怒りを露わにしていた。

「罪のない女性をレイプして殺した犯人が憎いです。女性一人で外出もできなくなりました。逃走した犯人は未成年だそうですが、一刻も早く逮捕して、未成年でも極刑に処して欲しいです」

 吉村がテレビのスイッチを切り、僕は机の上に泣き伏した。

「僕がやったんじゃないよ。おばちゃん、信じて!」

「勿論、私は那央ちゃんを信じてるわよ。でも、マスコミって怖いわね。テレビ局は少年Aが犯人だと決めてかかっている。目撃者が居て、凶器を所持していて、体液の遺伝子が一致したなんて報道したら誰でも少年Aの犯行だと断定されたと受け取るわ。昨日の話だと、目撃者といっても那央ちゃんが林から出て来るのを見ただけだし、凶器とはリンゴを剥くためのナイフなのに、あんな言い方をすれば意味が違ってくる。きっと体液の話も現場近くの木から那央ちゃんのオシッコが検出されたという程度のことを、さも犯行の証拠みたいに言ってるんだわ」

 吉村は本当に僕を信じてくれている。普通、あんな報道を聞いたら肩を持ってくれる人はいないだろう。特に体液が検出されたら、どう考えてもアウトだ。

「おばちゃん、信じてくれてありがとう。でも、僕、どうしたらいいか分からない……」

「とにかく隠れていなきゃダメということよ。真犯人が捕まるまでこの家に隠れていなさい。一年でも、二年でも、五年でも、十年でも、私が生きている間は……」

「おばちゃん!」
 僕は吉村に抱き着いて泣いた。吉村の命に限りがあることを示唆されて絶望的な気分になった。

 

 気持ちがすっかり萎縮して何をする気にもなれなかった。吉村の家事を手伝っていても頭の中は暗い妄想で一杯だった。きっと僕は捕まると思った。一人暮らしのはずの吉村の家に誰かが住んでいることに近所の人が気付き、警察に通報をして、ある日突然警察が踏み込むとか……。この家は僕にとって監獄と同じだ。優しい看守の居る監獄での無期懲役……。看守の命が尽きたら僕は処刑される……。

 それならまだ刑務所の方がマシかもしれない。無期懲役でも模範囚なら早く出所できる。十五年後に出所したら僕は三十三歳だから、それから半世紀も生きられる。いや、そうとは限らない。死刑になるかもしれない! 初犯で一人殺しても死刑にはならないとテレビで言っていた。しかし、強姦殺人なら死刑もあり得るのではないだろうか……。

 テレビをつけるとついニュース番組を追ってしまう。お昼のニュースと同じような内容が繰り返し報道されていた。違うのはMCやゲスト解説者のコメントであり、まさに険悪化の一途だった。他局より少しでもインパクトのあるコメントをすることにより視聴者に印象付けようとして、どんどん酷いことを言う。もう少年Aは天下の極悪人で、ハンニバル・レクター並みのサイコパスに昇格しつつある。

「少年Aは今年両親を事故で亡くして自暴自棄になっていた」
というコメントをした解説者が居たのでドキリとした。それまで少年Aの特定につながるような情報は出されていなかったからだ。

 夕方のニュースでは新しい展開があった。
「警察は少年Aを全国に指名手配しました」

 そのニュースに接して、僕は却ってほっとした。僕の名前と写真が出ていなかったからだ。未成年の場合実名報道をしないということは知っていたが、指名手配された場合でも報道ルールは変わらないことが明らかになった。僕の名前と顔写真を見るのは全国の警察官だけなのだ。

 しかし、2ちゃんねるが怖い。僕のスマホは警察が持っているし、この家には固定電話以外の通信機器は皆無なので、2ちゃんねるをチェックできない。普通、少年犯罪や、実名が報道されない事件でも、犯人や関係者の実名、学校名、写真は事件から一、二日の間にネットで広まる。午後のニュース番組の解説者が僕の両親が今年交通事故死したことを口に出していたぐらいだから、少年Aの情報はもう日本全国に広まっているのかもしれない。

 

 夕食後、僕が先に風呂に入った。黄色の地に花柄のパジャマを脱ぎ、パンティーを脱ごうとして気付いたのだが、僕の股間の物は力なく萎んだままだった。以前の僕なら裸で女物の下着を手に取ったら鼻血が出たかもしれない。それだけ精神的ダメージが大きいのだろう。これほどのストレスが続いたら重症のEDになるかもしれない。

 風呂を出ると僕が脱衣かごに入れたパジャマと下着は姿を消して、花柄のパンティーと着替えの寝間着が置いてあった。パンティーを履いて寝間着を着ようと手に取った所、パジャマではなく白地に赤と黄色のチェック柄のネグリジェだった。戸惑いながらネグリジェを頭からかぶったら股間のものが急に大きくなって先端がパンティーからはみ出した。今の所EDの心配は無さそうだ。おへその下が膨らんでいるのが目立たないよう、前にかがみ気味の姿勢で居間に行ってこたつに入った。

「沙也加が来たのかと思った。とても似合ってるわよ」

「ネグリジェしか無いの?」

「沙也加のパジャマは一着しか無いのよ。私しか見ないんだから女物でもいいじゃない」

「恥ずかしいよ……」

「もし警察が踏み込んでも、那央ちゃんが女の子の恰好をしているのを見たら強姦するような人じゃないと思うかもしれないわよ」

「とんでもない。変質者だと思われるから逆効果だよ」

「冗談よ。警察は来ないから安心して」

 一人で部屋に戻って布団に入ると、ネグリジェを着た自分が沙也加の部屋で寝ているという状況の異常さをしみじみと感じた。パジャマと違って左右の太ももが触れ合う感触が、自分はスカートをはいているのだと思い起させる。そんな気分ではないのに、固くなったものをつい右手で握ってしまった。強姦をした真犯人に対する強い嫌悪と怒りが湧いて来て、自分が射精をすること自体があくだと思える。悶々としているうちに眠りに落ちていた。

 

 翌朝も快晴だった。あんなことさえ起きなければ気持ちのいい秋の朝だったのにとつくづく思う。

 朝食後、掃除機をかけていると来客を示すチャイムが鳴った。僕は電気掃除機のスイッチをオフにして脱衣場の前に立って息をひそめ、吉村が玄関に行った。

 よく聞こえないが、近所のおばさんが来たようだ。

「ちょっとお待ちくださいね、片付けますから」
と吉村が言って小走りで僕の所に来た。

「谷淵さんが帰るまでここに隠れていて」
と言って、吉村は僕を風呂場に押し込んだ。

 浴室のドアを閉めるとタオルを絞って浴槽の縁を拭き、そこに座って息をひそめた。

 吉村は谷淵という来訪者を居間へと通そうとしたが、谷淵は「すぐにおいとましますから」と言って台所に入り込み、テーブルの前に座ったようだった。台所から浴室は廊下を経てドアなしでつながっているから僕は決して物音を立ててはならない。くしゃみが出たらどうしようと思った。

「吉村さんも戸締りには気をつけた方がいいわよ。強姦の犯人がまだ谷津干潟周辺に隠れているかもしれないから」

 言葉遣いから考えると吉村と同年齢層の近所の主婦なのだろう。

「今年の春に交通事故で亡くなったご夫婦を知ってる? そう、角を曲がって南に行ったところの枕崎さんよ。あそこの一人息子が犯人なんですって。親を亡くして自暴自棄になったのかしら。目立たなくて大人しい子だったらしいわ。分からないものね」

 吉村は適当に合鎚を売って情報を聞き出そうとしているようだった。話を聞いていると気が滅入るばかりだった。谷淵の情報はこの近所の人なら誰でも知っていることと考えるべきだろう。既に枕崎那央は強姦殺人犯として有名になっている。

 結局、谷淵は回覧板を渡そうとして立ち寄ったようで、半時間ほどで家から出て行った。

 吉村は玄関の鍵を閉めると浴室に来た。

「ごめんね、谷淵さんは回覧板を持って来ると必ず上がっておしゃべりしていく習慣だから、もし家に上げなかったら不審に思われるんじゃないかと思ったのよ」

「分かってるよ。でも、僕が犯人だと思われてるみたいだね。お先真っ暗だ……」

 家事に一段落が付いて、吉村と僕は熱いお茶を飲みながらテレビを見た。

 谷津干潟レイプ殺人事件の容疑者である少年Aはまだ逃走中であり、警察では二百人体制で捜索を続けているとのことだった。新たな展開は無いようだが、被害者のOLの父親が涙を流している様子が映し出された。

「一刻も早く犯人が捕まることを祈っています。でも犯人が死刑になっても娘は帰って来ません。私たちから幸せを奪った犯人が憎い!」

 父親の表情を見て、本当に気の毒で涙が出そうだった。僕も真犯人が同じように憎い。だが、父親が死刑にしたいと思っている相手はこの僕だ……。

 

 午後五時ごろ、台所で吉村が夕食を料理するのを手伝っていた。タマネギ、ニンジンとシイタケを微塵切りにしたものを炒めて、その中に合い挽きミンチを入れたところに、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。

「那央ちゃん、こげないようにおシャモジで混ぜていてね」
と言って吉村は玄関に行った。

 炒める音で玄関の様子は聞こえなかったが、足音が近づき、吉村が来客を家に上げたことが分かった。

「おじゃまします」
と来客の女性から背後に声を掛けられたが僕は気付かないフリをしてしゃもじで混ぜ続けたた。吉村はその客を居間に通したようだった。

 間もなく吉村が台所に来た。

「火を止めて、調理はそのままにして二階の部屋に行きなさい。そんなに時間はかからないと思うから」

 僕は後姿を見られたことが心配だったが、料理の手を止めてガスを消し、階段を二階に上がった。部屋には入らずに階段を上がった所で耳を澄ました。

「お孫さんですか?」

「姪の長女が遊びに来てるんです。早めに風呂に入ってネグリジェのまま料理を手伝っていたんです。お恥ずかしい」

 吉村がうまく説明してくれたようなのでほっとした。来訪したのは保険の外交員のようであり、何やら書類の説明をしていた。僕は沙也加の部屋に入ってそっとドアを閉めた。

 二、三十分ほどして保険の外交員が玄関から出て行った気配を確認して僕は台所へと下りて行った。

「あの人、怪しんでいなかった?」

「大丈夫。姪の娘が遊びに来ていると言っといたから。帰り際に『あのお嬢さんにもよろしくお伝えください』と言っていたわ」

「ああ、よかった。誰も来ないのかと思ったら、いきなり家に上がる人が沢山居るんだね」

「沢山は居ないけど、いつ上がって来ないとも限らないから、気をつけた方がいいわね。昼間に寝間着を着ている姿を見られると不審に思われるから、明日からは朝起きたら服に着替えなさい。沙也加の服を出してあげる」

「えーっ、女物の服しかないんでしょ?」

「そりゃそうよ。誰かに見られても女の子と思われれば安全なんだから」

 吉村が出してくれる服がさほど女っぽい服ではないことを祈った。

 

 翌朝、吉村がタンスを開けてゴソゴソしている音で目が覚めた。

「今日はこれを着るといいわ」

 丸襟の黄色のブラウス、ピンクのセーターに裾が膝よりも長い茶系統のゆったりとしたスカートだった。

「やっぱり、僕はスカートをはかなきゃダメ?」

「当然でしょ。あなたは今日から女の子よ。それに、僕じゃまずいから、私と言って女の子の言葉で話さなきゃダメ。もし盗聴器を仕掛けられても大丈夫なように」

 恥ずかしかったが、言われた通りにするのが安全だと分かっていた。もしこの家に来てすぐ女装をしろと言われていたら拒否したかもしれないが、一昨日は黄色に花柄のパジャマで過ごし、昨日はネグリジェで丸一日過ごしていたので、女装への拒絶感が薄れてきていた。この家で潜伏する期間が長引いたら、僕は毎日スカートをはくのが当然と思うような人間になってしまうかもしれない。

 スカートをはいて家事を手伝い、昼過ぎには女言葉で会話をする事がさほど苦にならなくなっていた。

「やっぱり胸がまな板だと不自然だわ。ブラジャーを着けなさい」
と言って吉村が沙也加の古いブラジャーを取ってきて、古い下着をストッキングの中に詰めて作った丸い玉をブラジャーの中に縫い付けた。僕はセーターとブラウスを脱いでそのブラジャーを着けさせられた。さっきまで余裕があったブラウスが丁度よくなり、その上にセーターを着ると驚くほど女性的な胸になった。

 吉村は僕の眉を毛抜きで整え、ブラシを使って女性らしい髪型にしようとしたが、うまくいかなかった。

「沙也加のかつらを出してあげる」

「沙也加ねえちゃんがかつらを置いて行ったの?」

「沙也加は高校三年生の時に血液の癌になって、抗ガン剤で髪の毛が抜けた時にかつらを作ったのよ。沙也加は高校三年をもう一年行かなきゃならなかったけど癌を克服した。その頃の辛い思い出があるから、かつらを見たくないのよ」

 吉村がかつらを持って来て僕の頭にセットした。アゴより少し長いボブで、前髪は眉の高さで切り揃えられていた。

「あの頃の沙也加を思い出すわ……」
 吉村がしんみりとした表情になった。

「那央ちゃん、沙也加になってみて」

「私が沙也加になるって、どういうこと?」

「一緒に来て」
 吉村は僕を連れて沙也加の部屋に行き、タンスの一番上の段にある箱を取るようにと言った。

 箱を床に下ろすと「沙也加、冬物、制服」と書かれていた。吉村が箱を開けると谷津干潟高校の制服が出て来た。

「この制服に着替えて」

 それは僕にとっては別の意味で見慣れた制服だった。七、八カ月前まで僕は谷津干潟高校の生徒であり、クラスの女子が着ていた制服そのものだった。グレーのボックススカートと明るい紺のジャケットの組み合わせだが、近隣の中学や高校はプリーツスカートが殆どであり、クラスの女子の多くが自分の制服は嫌いだと言っていた。来年の新入生から制服がモダンなデザインに変更になるので偏差値が上がるのではないかとの話だった。

 勿論、僕がその制服を着ることをためらったのはデザインに不満があるからではなく、自分の高校の女子の制服を着ることに抵抗があったからだ。

 白いブラウスを着て、グレーのスカートをはいたところ、自然な反応としておへその下に盛り上がりが出来た。吉村は僕にガードルを二枚重ねではかせて、その問題はほぼ解決した。赤くて長いネクタイを付けてみると大人の男性のようなネクタイだった。鏡の前に立つと、同級生の女子が自分の制服をあまり好きではない気持ちが分かるような気がした。

「これなら明日から高校に通っても大丈夫よ。とても似合ってる」

 吉村が大はしゃぎしているので、僕も水を差すのは控えた。

 その恰好で一緒に台所に行って、紅茶を飲んだ。女子の制服を着て椅子に座るのは非常に妙な気分だった。

「これから夕食の材料を買いに行くけど、那央ちゃんも一緒に行かない?」

「冗談を言わないで。もしこんな恰好で警察に引っ張られたら、『強姦殺人犯』から『変態女装強姦殺人犯』に格上げになる」

「今の那央ちゃんなら誰にも疑われないわよ」

「絶対にイヤ。私は家で待ってる」

 意地悪な冗談だとは分かっていたが、もし吉村が本気だったらどうしようと心配になった。結局、吉村は一人で買い物に出かけたが、僕はその恰好のままで吉村の帰りを待つことを約束させられた。

 こたつに入ってテレビを見た。スカートの丈は膝より少し上までだが、こたつに入るとどうしても捲れやすくなる。スカートが皺になりそうなのが気になる。ニュース番組で谷津干潟レイプ殺人事件のことを見ても気が滅入るだけなのでチャンネルを替えた。

 こたつの温もりでウトウトして、机に顔を乗せて眠ってしまったようだった。


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