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替え玉受験

【内容紹介】男子が女子大生にされてしまうTS小説。主人公は東京大学理科2類の1年生。高校3年生の芽衣の家庭教師になるが芽衣の成績は受験期に入って失速し、6校の受験を終えた時点で全て不合格。D判定の難関女子大の受験の前日になって芽衣の父親から恐るべき計画を持ち掛けられる。

第一章 美しくて生意気な生徒

「万葉集の中で僕が最も好きな歌はこれだ。目を閉じて光景を思い浮かべてみてくれ」
芽衣めいに言って、彼女が目を閉じたのを確認してから僕は気持ちを込めて歌った。

「田子の浦ゆ
 打ち出でてみれば真白にぞ
 富士の高嶺に雪は降りける」

「なあんだ。万葉集って百人一首のことか。ちはやふるは全四十二巻持ってるから私の方が詳しいわよ。どうせ先生は映画しか見てないんでしょう?」

 少なくとも芽衣の興味を引くことには成功したようだ。

「少女マンガなんかいちいち読んでいたら東大には受からないよ。まあ、一応ちはやふるの映画は全部見てるけどね」

「はっはあ、先生は広瀬すずが好きなんだ」

「それはそうだけど……。待て、雑談をしてる場合じゃない。芽衣ちゃんは古文の成績を十点かさ上げしないと合格ラインに届かないから、とっつきやすいところで万葉集から攻めようと言ってるんだ」

「でも先生のプリントは間違ってるわよ。ほら、この『田子の浦ゆ』って何よ? 『田子の浦に』のミスプリじゃないの」

 僕は待ってましたとばかり説明をした。

「『田子の浦ゆ』の『ゆ』は『通って』という意味なんだ。山部赤人やまべのあかひとが没したのは紀元七百三十六年ごろと考えられているが、当時の日本語には『ゆ』という、動作の経由する場所を示す格助詞が存在した。英語のviaと同じだが、この歌だとthroughの方が近いかもしれない」

「屁理屈を言わないで。ちはやふるの第六巻は何度も読んだからその歌は頭に入っているわ。先生のプリントに書いてある歌は後半も間違ってる。私が覚えているのを教えてあげる」
と言って芽衣は見事に歌った。

「田子の浦に
 打ち出でてみれば白妙の
 富士の高嶺に雪は降りつつ」

 僕は芽衣にやる気を出させるために拍手して健闘を称えた。

「お見事! でも芽衣ちゃんが読んだのは万葉集の歌じゃなくて、それから五百年も経って平安時代末期に編纂へんさんされた『新古今和歌集』に書かれたものだ。新古今和歌集バージョンはこじんまりと型にまっていて、オリジナルが持つ素朴な雄大さにはとても敵わない」

「それって先生の偏見じゃないの。そんなことを言ってたら広瀬すずに嫌われるよ。私はちはやふるの方を信じるわ」

 僕は耳を手でふさぎたい気持ちだった。米田芽衣は頭は悪くないのだが、新しいことを学ぼうという姿勢に欠けている。一度自分が正しいと思ったら、それ以外の情報を拒否し否定する傾向があるのだ。その方が自分にとって安易で手間がかからないからだ。そんな態度では大学受験はおろか、大学生になっても人生の真実を学ぶことができず、薄っぺらい人間になってしまう。

 しかし、今、芽衣の基本姿勢を否定するようなことを言っても、目の前の難題を解決するためには役に立たないどころか逆効果になる。

「芽衣ちゃんが百人一首のプロだとは知らなかった。『ちはやふる』は芽衣ちゃんの強みだと思えばいい。古文をちょっと勉強すれば受験にも役立つよ。この歌に関しては、万葉集に山部赤人のオリジナルが存在するということと、『ゆ』が『経由して』という意味だということだけは覚えておいてくれ」

「先生がそう言うなら、その山部さんたらは頭の片隅に置いておくわ」

 これほどのふてぶてしさが芽衣のどこから湧いてくるのか不思議だった。芽衣は既に六つの大学の受験で不合格になっており、残る二校のうちの一校、聖メアリー女子大は芽衣の成績では合格可能性が十パーセント以下だ。もう一校の雪見女学院も合否ラインすれすれだから、下手をすれば「全落ち」の可能性さえある。

 医学部志望の高校生なら八つの大学を受験して全部落ちることもあり得るのだが、医学部以外を志望していて特に一流大学にこだわらない学生が八校を全部落ちるのは異例だ。一流大学を目指さない女子の場合は、滑り止めとして偏差値が非常に低い女子大を受験校に含めるのが普通だから、全落ちということはまずあり得ない。もし芽衣が一校も受からなかったとしたら、どの大学に願書を出すかを含めて受験戦略が間違っていたということになる。家庭教師である僕の責任だと言われても仕方がない。

 

 僕が米田芽衣の家庭教師になったのは五月の連休明けのことだった。本郷の生協で「家庭教師急募・高給保証(東大生に限る)」という貼り紙を見て応募した。東大に入学してひと月ほど経ち、バイトでもしようかなと考え始めていた折に「高給」という言葉に魅かれてその場で電話した。

 家庭教師市場で東大生の相場が高いのは常識であり「高給」と書いてあっても無くても結果に大差はないのだが、こちらもそう書かれると弱い。電話の結果、その日に採用面接を兼ねて一時間だけ教えることになった。

 米田家は経堂きょうどう駅から徒歩七分の住宅街にあった。道路に面した駐車場には電動式の格子が降りていてメルセデスとレクサスが鎮座していた。その右側のドアホンで「つつみと申しますが」と名乗ると「お待ちしておりました」と上品な女性の声がしてカチャリと解錠された。玄関ドアは数メートル先の石畳の奥にあり、ドアを開けるとアラフォーの女性が出迎えてくれた。

 僕の母親が一生に何度も着ることがないほど高級そうなスーツを着ている美しい女性だった。「上品」という言葉が服を着て歩いているような感じで、笑顔はその場しのぎの作り物でなく、優しさが滲み出ていた。

 家の内装が重々しくて、テレビドラマに出て来る豪邸を思い起こさせた。何もかもが、僕が今まで暮らして来た世界とは別のクラスに属するものだと感じて圧倒させられた。

 客間に通されてソファーに座って待っていると、奥さんが紅茶をお盆に載せて入って来た。僕は陶磁器に詳しいわけではないが、一目でロイヤルコペンハーゲンのカップとソーサーだと分かった。紅茶の色は濃くなかったが、豊かな香りと、思いのほかまろやかな味がして、毎回こんな紅茶を出してくれるのなら家庭教師のバイト代は安くてもいいと思ったほどだ。

 その時、ドアが開いて米田よねだ芽衣めいが入って来た。芽衣は五分袖のニットのシャツにグレーのワイドパンツをはいて、髪は男の子のようなショートボブだった。

芽衣めい、こちらがつつみ先生よ。ご挨拶なさい」

 彼女はまるで友達に笑いかけるような感じで、
米田よねだ芽衣めいです。よろしくお願いします」
と言った。

 僕は思わず立ち上がって挨拶した。

つつみ龍之介りゅうのすけと申します。東京大学理科二類の一年生です。よろしくお願いします」

 そこら辺を歩いているような制服姿の女子高生を教えるつもりで来たのに、自分より年上に見える女性が出て来たので緊張していた。テーブルの向こう側に立っている芽衣は、女性としては長身で、目の高さは僕とほぼ同じだった。

「勇ましいお名前ですこと」
と母親が言った。

「自己紹介する度にそう言われてしまいます」
と頭をかく仕草をした。龍之介という名前のおかげで、初対面の場の空気を和ませるパターンが出来上がっていた。

「芽衣は小学校時代の成績はトップクラスだったんですが、中学に入ると中ぐらいに落ちて、高校に上がってからは超低空飛行なんです。今年の冬の大学入試で、どこでもいいとは申しませんがそこそこの大学に合格できるようにご指導いただきたいんです」

 小学校時代の成績が良かったと聞いてほっとした。生まれつき頭の悪い子の成績を良くしてくれと言われても荷が重いが、この子なら顔も賢そうだし大丈夫だろう。僕は何とか採用してもらいたいと思って、自分の考えを披露することにした。

「なるほど。女子にありがちなパターンですね。生まれ持った頭脳が優れているから小学校は勉強しなくても百点が取れる。中学に上がると日常生活には出て来ない理論、公式などを学ぶことになりますが、その際に勉強を怠ると急に点が落ちる。その結果、徐々に勉強から遠ざかってしまう。高校に入ると、勉強そのものに価値を見出せなくなって、さらに成績が低下する。そんなバッド・スパイラルですね。しかし、元々頭がいいのですから、僕が勉強の仕方を少し教えれば急速に成績がアップすると思いますよ」

「それは心強いわ。芽衣、堤先生に来て頂くということでいいわね?」

「ちょっとナルな感じはあるけど、現役合格の東大生ならナルが混じってる方が正直で好感が持てるわ。私はいいわよ」
と芽衣が上から目線で答えた。

 母親はバツが悪そうに笑っている。出来の悪い娘に親が金を払って家庭教師を雇おうとしている状況なのに、その娘が家庭教師の前で採否の決定をするとは主客転倒だと思った。

「ナルとはどういう意味ですか?」

「えっ、知らないの? ナルシストの略なんだけど」

「ああ、そういうことですか……」
 ついさっき僕が女子にありがちなパターンとして発言した内容は上から目線だったかもしれない。それは僕が自分の能力に自惚れているからだとズバリと言われたわけだが、それは正当な指摘だったのでショックを覚えた。

「すみません……反省しています」

「素直でいいわ! 先生に足りない部分の知識は私が教えてあげる。だから私を大学に合格させて」

「はい、よろしくお願いします」

 芽衣本人と母親による採用面接で僕は合格点を与えられ、週三日、二時間ずつの家庭教師が始まった。

 火、木、土の午後五時から午後七時まで芽衣の勉強部屋で全科目を教え、午後七時から八時まで夕食の団らんの席に加わる。夕食を食べながら家庭教師から娘の大学受験準備の進捗状況について聴取するというのが両親の意図のようだ。東大生の一時間当たりの家庭教師料の相場にニ十パーセント上乗せしたうえで、夕食の時間を含めて週九時間分のバイト代を払ってくれる。僕にとって申し分のない好条件だった。

 アパートで一人住まいする男子大学生にとって、夕食が週三回タダで食べられるのは大きなメリットだ。しかも、そんじょそこらの「晩めし」とはわけが違う。米田家の食卓に出て来る肉は、実家で食べていた百グラム百円前後の豚肉ではなく、その数倍から下手をすれば一桁以上高価な肉だ。

 好物のトンカツが出てきて美味しそうに食べていると、父親も美味しいと思った様子で言った。

「このヒレカツはとてもいい味だ」

「そうでしょう! いい牛ヒレ肉をグラム千円で売っていたから多めに買っておいたの。明日はステーキにするわね」

 百グラム千円の肉を安いと感じる家庭で育った芽衣と結婚する男性は、普通のサラリーマンではやっていけないだろう。しかし実際には、芽衣のような女性は「上流」の男性と結婚するというのが世の常だから、そのような破綻は起きない。

 芽衣には上流階級のお嬢様であることを鼻にかけた感じは一切ない。親が金持ちであることや、自分がそこそこの美人であることを事実として自然に認識しているが、それを自慢するような素振りを示さないのは立派だと思った。まさにそれが「育ちの良さ」なのだ。それに対して、「東大では」とか「東大生は」などと普段の会話でつい口に出してしまう僕は、しょせん成り上がりものに過ぎない。

 当初の訪問時には芽衣が上から目線で僕の採用を決定する流れになってしまったが、家庭教師が始まるとそんな採用面接の流れは持ち越されなかった。言葉はいわゆる「タメ口」だが、芽衣は僕を「先生」と呼んで、それなりの敬意をこめて接してくれる。

 芽衣は思った以上に頭の回転がよく、年も近いので雑談をしていると楽しい。芽衣は僕より一学年下だが、芽衣が四月生まれで僕は三月生まれなので、実年齢は一ヶ月しか違わない。家庭教師初日には、こんな頭のいい子がどうして学校の成績が悪いのだろうと不思議に思ったが、その理由はすぐに分かった。

 第一の理由は、何でも安易な解決に走るクセがついてしまっていることだ。小さい時から、分からないことがあれば父親か母親に聞けば教えてくれたし、何か困ったらすぐに助けてくれたので、簡単な事でも自分で考えたり調べたりせず、まず人に聞いたり頼んだりしてしまう。人から聞き出したり、手伝わせたりするテクニックが研ぎ澄まされていることが、そんな傾向に拍車をかけている。当初は僕も芽衣の術中に嵌まって、彼女の質問に対して完璧な答えを提供していたのだが、しばらくしてからそれが全く身についていないことが分かり愕然とした。それからは答えを教えずに、答えに到達するための思考過程を教えようと力を注いだが、成績向上にはつながらなかった。芽衣は僕が目の前にいる時は少なくとも考えるフリをするが、僕が居なくなると、彼女本来の解決方法に走ってしまうようだ。芽衣ほどの頭脳があれば、小さい時から突き放して育てれば勉強が良くできる子になったのにと残念だった。

 第二の理由は、価値観の問題だ。芽衣には独特の価値観があり、ひとたび「こんなことを勉強しても意味がない」と思うと、いくら教えても頭に入らなくなる。たちが悪いのは、「こんなことを勉強しても意味がない」と思っているのを周囲に気取らせない能力があるということだ。僕も彼女の価値観が学習の障害になっていると気付くまでには二、三ヶ月かかった。彼女がひとたび「高校の数学が実生活では役に立たない」と判断したら、それを覆すのは至難の業だ。例えば微積分を学ぶことに何の意味があるのかを例を挙げて説明すると彼女は簡単に理解して「あ、そうだったのか!」と言うのだが、心の中では無意味と思っているので、翌々日に会った時にはゼロからやり直しになってしまう。

 五月に教え始めた時に「超低空飛行」だった彼女の成績は低下を続け、夏休みが終わるころには「墜落寸前」になった。僕は採用面接の際に大見えを切っただけに、自分の無力さがなさけなかった。自分が東大かぜを吹かせながら言ったひとことは一言一句覚えている。

「元々頭がいいのですから、僕が勉強の仕方を少し教えれば急速に成績がアップします」

 芽衣の場合は持って生まれた頭の良さが成績の上昇を妨げているのだから対応が困難だ。

 夏休みが終わり、大学受験に向けたラストスパートが始まった頃、僕は三者面談を申し入れ、土曜日の午後五時から米田家の応接室で三人と向き合った。僕の正面に芽衣が、その両側に両親が座った。

 まず、芽衣の成績の上昇を阻んでいる二つの理由についてストレートに説明した。僕は芽衣を両親の前でこき下ろすことに若干の罪悪感を覚えたが、これも芽衣のためだと思って断行した。

 話の途中で芽衣が泣き出すことも覚悟していたが、意外なことに芽衣は軽い微笑を浮かべて聞いていた。

 両親も深刻な表情は見せず、緊張感が感じられなかったので拍子抜けした。

「確かに女の子ということもあって、親が手伝いすぎた結果、自分で考えずに人に頼る子になったということは反省しています」
と父親が言った。

「夏休みの工作とかで子供の宿題を手伝う親がいるじゃないですか。あれが一番いけないんですよね。手伝ったおかげで二学期の評価が〇・五ポイント上がるかもしれませんが、子供には安易に人に助けてもらった甘い記憶が残ります」

「しかし、今反省してもどうにもなりませんし……」

「いえ、ご両親を責めているわけではありません。人に頼らず、自分で考えたり自分で調べたりする癖をつけることが大事だと言うことを、芽衣さん自身に自覚してもらいたくて申し上げたわけです」

「なるほど。では価値観の問題にはどう対処したらいいのでしょうか?」

「当面の課題である大学受験合格が必達事項であると芽衣さんが自覚して、それをプライオリティーの最上位に位置付けるしかありません。芽衣さんは賢いので、自然に思考パターン、行動パターンが変化することに期待します」

「先生、今日のお話は本人が自覚しない限り合格しないという、ギブアップ宣言ではないでしょうね?」
と、父親から厳しい質問があった。

「勿論違います。僕は芽衣さんの大学受験が終わるまでベストを尽くす所存です。合格のためには芽衣さんの意識改革が不可欠であるということをご本人及びご両親に理解していただきたかっただけです」

「先生、私は芽衣という人間がよく分かっているつもりです。頭の回転が速く、打てば響くし、人の心が分かって、しっかりとした自分を持っている一方で思いやりがある良い子です。でも、本人が納得しない限り、人が何と言っても変わらない。今日の面談が芽衣の長い人生にプラスの影響を残してくれると期待していますが、大学受験の合否に影響を与えられるかどうかは極めて疑問です」
 父親は僕以上によく分かっているのかもしれない。

「でも、そこを頑張ってもらわないと……」

「堤先生になってから、芽衣は精神的に安定しているし、何かにつけポジティブになったと思います。芽衣には堤先生が必要です。大学受験が終わるまで、従来通り芽衣をサポートしてやってください。私たちは高望みはしていません。自宅から通える四年制の大学に一校だけでいいから合格してくれればいいんです。何校でも受験して、一校だけでいいので合格点を取らせてください」

「女子大でもいいんですよね?」

「聞いたことがない新興の女子大とか、花嫁学校レベルで名前だけの大学は困りますが、一応名前を聞けば認識できる女子大なら結構です。責任を持って一校だけ通してください」

「勿論、僕も責任は感じています」

「責任を取れと言われても取りようがないでしょうね。東大生なら普通は結婚して責任を取るものですが、芽衣には許婚いいなずけが居るのでそうもいきません」
と父親がニヤッとした笑みを浮かべながら言った。

 僕は頭の中で芽衣のことを自分とは無関係な上流階級のお嬢さんと位置付けており、責任を取って結婚するなどという発想はしたことがなかったが、魅力的な女性だとは思っていたので、つい頬を赤らめてしまった。それにしても芽衣に許婚いいなずけが居るとは初耳だった。

「責任を取ってもらう代わりに、ボーナスを出しましょう。一校でも合格すれば百万円差し上げます」

「ひゃ、ひゃくまんえん!」

「そうです。万一全滅だったら百万円は手に入らない。それがペナルティーです」

「僕はそんなつもりで三者面談したわけでは……」

「金額が不足ですか?」

「とんでもございません。不惜身命ふしゃくしんみょう精進しょうじんして必ずや合格を勝ち取らせていただきます」

 

 意図していなかった戦利品を与えられてほくほくするというより当惑した。三者面談の後、芽衣の部屋で一時間ほど教えた。

「先生は私がこのままでは全部不合格になると思って、その場合に備えて予め言い訳をしておくつもりだったんじゃないの?」

「そんなことはないよ」
と答えたものの、その通りかもしれないと気づいていた。

「そんなことはこれっぽっちも考えていなかったけど、芽衣ちゃんに言われて考えてみると、無意識のうちに責任逃れの行動に出たのかもしれない。ごめん、僕、恥ずかしいよ……」

「許してあげる。先生のそんなところって好きよ。友達としてだけど」

許婚いいなずけが居たんだね」

「私って一人っ子だから、パパの会社の跡を継げる男の人をパパが見つけてきて、その人と結婚させられるのよ」

「親が決めた相手と結婚しなきゃならないの? そんな気の毒な……」

「十歳も上のオジサンだから、高一の夏休みに軽井沢のホテルで引き合わされた時には、後でパパに文句を言ったわ。それから月一のペースでデートしてるけど、段々気にならなくなってきた」

「小太りで禿げで眼鏡をかけたオッサンとか?」

「アハハハ、そんなんじゃないわよ。百八十五センチのイケメンで、京大のアメフト部のスター選手だったんだって。話題も豊富だし、コロンビア大学でMBAを取ったぐらいだから英語もペラペラ。初めて会った時には眼鏡をかけていたけど、私が眼鏡の人はキライと言ったらレーシックの手術を受けてくれた。パパより大きな会社のオーナー社長の三男坊なのよ」

「スペック凄すぎ……」

 身長を聞いただけで打ちのめされたが、大学以外は完敗だ。いや、コロンビア大学のMBAなら東大の四卒より上とも言えるし、京大も学科次第では東大の理二より下だとは言い切れない。強いて言えば、レーシック手術を受けなくても眼鏡が不要だという点において僕の方が勝っている。

「堤先生とは正反対のタイプだから、自分と比べて肩を落とすことはないわよ。ある意味、外観は堤先生の方が好きよ」

「大人をからかうな!」
 心の中を芽衣に見透かされて、耳まで真っ赤になった。

「それに、私の許婚いいなずけはお金持ち過ぎてついていけないと感じることがあるの。家には住み込みのお手伝いさんが居るんだって。私は堤先生みたいな庶民感覚の人の方が好き。さっき百万円と聞いて大喜びしているのを見て、良いなって思った」

 百八十五センチのイケメンと比べて外観は僕の方がいいとか、大金持ちより庶民感覚の男の方がついていきやすいとか、シャーシャーと社交辞令を口に出している。そうと分かって聞いているつもりでも「もしかしたら本気では」とつい思ってしまう。それはまさに彼女の育ちの良さによるものだと思った。

第二章 窮余の一策

 三者面談は父親が心配した通り空振りに終わったようだった。芽衣の成績の低下に歯止めはかからなかった。

 十校以上受験しても気力と体力を削ぐだけなので八つの大学に的を絞って願書を出した。A判定を三校、B判定を三校、C判定を一校、D判定を一校として「夢も追うが、最悪でもどこかには引っ掛かる」という方針で受験に臨んだ。

 しかし、一月末までに受験した六校は全て不合格となり、二月六日の聖メアリー女子大と二月七日の雪見女学院の二校が残るのみとなった。聖メアリー女子大は元々D判定であり「夢を追う」という方針を明確にするために敢えて含めた大学だったので、事実上、二月七日の雪見女学院が唯一の頼みの綱となった。

 二月三日に最後の授業をした。

「落ちた大学のことは全部忘れて、残りの二校の受験に集中しろ」

「まかせといて。最悪の場合でも雪見女学院は必ず合格して、先生が百万円を貰い損ねないようにしてあげるから心配しないで」

 二月六日の聖メアリー女子大とその翌日の雪見女学院の受験は、僕が家まで迎えに来て、受験会場まで付き添うことになっていた。

 

 二月五日の夕方、芽衣の父親から僕の携帯に電話がかかって来た。

「先生、すぐに来ていただけませんか。困ったことになりました」

「どうされました? 芽衣さんに何かあったんですか?」

「電話では言えないのでとにかく来てください」

 入試の前日になって何が起きたのだろうと心配しながら芽衣の家に行った。一緒に玄関に迎えに来た両親はマスクをかけていた。

「堤先生、大変です。芽衣がインフルエンザで倒れました!」

「倒れたって、どんな症状ですか?」

「昨日の夜、風邪気味だと言っていたんですが、今朝から症状が酷くなって、さっき熱を測ったら三十八度五分になっていました。ちょっと一緒に来てください」

 インフルエンザをうつされるのが心配だったが、会わずに帰るわけにはいかない。母親から手渡されたマスクを着けて三人で芽衣の部屋に行った。

 ベッドに仰向けに横たわる芽衣は普段元気で明るいだけに弱々しさが目立った。芽衣は力ない視線を僕に向けた。

「大丈夫なの?」

 芽衣は首を横に振った。

「私、もうダメ。受験はムリ」

「あきらめるな。一晩寝たら元気になるかもしれないじゃないか」

「私のインフルエンザのパターンはいつも同じだから分かっているの。今夜三十九度になって、それが明日まで続く。明後日の朝起きたら三十八度になって、明後日の夕方には三十七度まで下がるの」

「明日の聖メアリー女子大はD判定だし、どうせ受けても不合格になるのはほぼ確実だったんだから、この際さっぱり諦めよう。明日はゆっくり休んで、明後日の雪見女学院の受験に集中するんだ。三十八度なら気を引き締めれば何とかなるさ」

「でも……」

「先生、芽衣は生理周期が不安定で、お薬で後にずらそうとしたんですがうまく行かなかったんです。月経前のめまいが今朝出始めて、明日明後日がピークになると思います」

「えっ、月経前にめまいがあるんですか?! それは受験に影響があるレベルのめまいなんですか?」

「男性には分かりませんよね……。芽衣は生理が重い方で、頭痛やむくみも出ますから、勉強どころじゃなくなるんです。先生が九月の三者面談の時に芽衣の成績が落ちた理由を二つ仰ってましたけど、最大の理由は生理なんです」

「存じませんでした……。インフルエンザで体調が最悪な時に女性特有の症状が重なったらまずいですよね」

「明日の外出は絶対に無理で、明後日は車で雪見女学院まで送って行けば試験を受けることはできるでしょうが、普段の実力は発揮できないと思います」

「弱りましたね……」

「それで……家内と二人で相談したんですが、代役を立てるしかないかと……」

「えーっ、替え玉受験ですか! 万一バレたらヤバいですよ。それに明後日の替え玉を今から用意するなんて不可能です」

「いえ、明後日はまだ受かる可能性がありますから、芽衣本人に受験させます。だから明日の代役を立てて、雪見女学院が不合格だった場合でも、聖メアリー女子大に進学できるようにしたいんです」

「聖メアリー女子大に確実に合格するレベルの女子学生を見つけて明日の朝までに替え玉交渉をするのは九十九・九パーセント不可能です。賭けてもいいです」

「先生、お願い。私の代わりに受験して!」

「え、え、えーっ! 僕に芽衣ちゃんの替え玉をやれって言うの?! ムリ、ムリ、絶対にムリだ」

「堤先生、無理を承知でお願いします。明日、芽衣の代わりに聖メアリーを受験してください!」
 父親に右手を、母親に左手を両手で掴まれ、深く頭を下げられた。

「僕が芽衣ちゃんに見えるわけがないじゃないですか!」

「堤先生の髪は私がカットすれば芽衣そっくりにできます。芽衣の髪はいつも私がカットしていますから」

「髪のカットを変えても、僕は男ですよ!」

「芽衣はお尻が小さくてボーイッシュで、堤先生はウェストが細いから、ご自分では気づいてらっしゃらないでしょうけど、芽衣と堤先生の体形は非常に良く似ているんです」

「でも顔が……」

「風邪をひいているんですからマスクで隠せます。試験会場でチェックのためにマスクを外しても芽衣でないことがバレないように私が責任をもってメイクをします。聖メアリーはペーパーテストだけですから大丈夫です」

「僕に女装をしろと……」

「たった一日芽衣の高校の制服で試験を受けるだけです。タクシーで試験会場に行って、帰りもタクシーにしますから、顔を見られる相手は受験生と試験官だけです」

「もしバレて警察に突き出されでもしたら、東大を退学処分になるかもしれません」

「もしそうなったら、私も社会に顔向けできなくなって会社も家族も危機に晒すことになるでしょう。私はリスクが十分小さいとみてお願いしてるんです」

「でも……」

「明日の日当として百万円差し上げます」

「ひゃ、ひゃくまんえん! 正気ですか!?」

「芽衣が合格したら、合格発表の日に更に百万円」

「えーっ! 僕が受験したら合格するのは当然です。合計二百万円もいただけるってことですか?! 待ってくださいよ……どこでもいいから合格したら百万円という約束も生きていますよね? 合計三百万円もいただいていいんですか?!」

「替え玉を断った場合、芽衣が雪見女学院に落ちると報酬はゼロ。替え玉を引き受ければ堤先生なら必ず合格するので三百万円が手に入る。こんな簡単な事で三百万円も手に入る機会は二度とありませんよ。もしご希望なら今すぐ前金で百万円をお支払いしてもいいです」

「しかし万一の場合のリスクが……」

「それでは、万一替え玉受験がバレた場合にはお詫びとして一千万円差し上げることにしましょう」

「い、いっせんまんえん! 一千万円も手に入るならバレてもいいような……じゃあ、実際に芽衣ちゃんの格好をしてみて、本当に僕が芽衣ちゃんに見えると自分で納得できればお引き受けするということでいいですか?」

 母親は大喜びで僕を浴室に連れて行き、僕は裸になってプラスティックの椅子に座った。お母さんがハサミを起用に使って僕の髪をカットして、毛抜きとカミソリで眉を整えた。

脛毛すねげをカミソリできれいに剃ってください。タイツをはきますが、光の角度によって毛が透けて見えてはいけませんから。但し、顔の毛は絶対に剃らないでください。後で毛抜きで処理します」

 僕は熱いシャワーを浴びてから下半身をカミソリで剃った。

 風呂を出ると芽衣の下着、ブラウスと制服が置いてあった。胸をドキドキさせながらピンク色のパンティーをはいた。同じ色のブラジャーには靴下を丸めたものが縫い付けられていた。

 紺系に赤線のチェックのスカートとブレザーに赤いリボンの芽衣の制服を僕が着る日が来るとは思ってもいなかった。お母さんはスカートの真ん中が盛り上がっているのに目を留めて、パンティーの上から肌色のガードルを二枚僕にはかせた。

 浴室を出た所にある洗面所の鏡の前で化粧水をはたきながら、鏡の中の僕が芽衣に似ていることを実感した。今まで芽衣と自分が似ていると思ったことはなかった。髪型と眉の形を同じにしただけでこれほど似た感じになるとは驚きだった。

「堤先生の髭が薄くてラッキーだったわ。毛抜きで一本一本抜きますからじっとしていてくださいね」

 お母さんが毛を抜くたびにチクチクしたが、これも三百万円に含まれているのだから、この程度のことは何でもないと思った。

「軽くお化粧をしますね。芽衣と同じアイメイクをすれば、主人が見ても区別がつかないぐらいそっくりになるはずです」

「芽衣さんはお化粧をすることがあるんですか?」

「勿論、毎朝必ず軽いメイクをして学校に行きます。今日だって、今にも死にそうな感じで寝ていたくせに堤先生が来られると知って、メイクをしたんですよ」

「じゃあ、僕はすっぴんの芽衣さんを見たことが無かったんだ……」

 目の周りにペンシルやら筆やら刷毛をササっと走らせただけだったが、鏡に映った顔はもう自分の顔ではなかった。お母さんから手渡されたマスクを着けると、鏡の中の女子高生は芽衣になった。

 我ながら呆れて頭を横に振った。

「私に付いて来てください。書斎にいる主人に見せに行きますから、堤先生は一言もしゃべらないでくださいね」

 お母さんの後に付いて行った。お母さんはご主人の書斎のドアを開けて言った。

「あなた、堤先生の女装はもうすぐ完成するから、あなたの目で芽衣と見比べてちょうだい。芽衣に制服を着せて連れてきたから、その椅子に座らせて」

「芽衣にそんな無理をさせることはないじゃないか!」

「でも、もう着替えさせちゃったから、最後までやらせて。私もそこまでやる必要は無いと思ったんだけど、堤先生が退学のリスクを負ってまで自分の為に替え玉受験を引き受けてくださろうとしてるんだから、本当に自分と並べて比べるべきだと芽衣が言うから、思い通りにさせることにしたのよ」

「芽衣、大丈夫なのか?」

 お母さんが僕を椅子に座らせるまで、僕は俯き加減にして苦しそうな表情を繕っていた。お父さんがわざわざクローゼットからひざ掛けを出して僕の膝に自分で掛けてくれた。

「あなた、芽衣に化けた堤先生をもうすぐお連れするから待っていてね」
と言ってお母さんが部屋を出ていき、僕はお父さんの書斎に取り残された。

「お父さんも替え玉までして受験をさせたくないんだが、三郎さんは芽衣の成績がそこまで悪いとは知らないから、最低クラスの女子大を含めて全部不合格になるのは非常にまずい。以前三郎さんとホテルのバーで飲んだ時に賢い女性が好きだと言っていたことがある。勿論、試験の成績と頭の良し悪しとは別問題だが、八戦全敗では……」

「三郎さん」というのは芽衣の許婚いいなずけのことだろう。お父さんは僕が芽衣だと完全に思い込んでいる。大学受験に大失敗したという理由で、芽衣ほど美しくウィットがある女性に愛想を尽かすような男なら、こちらの方から願い下げにすべきだと、腹が立った。多分その時の僕の顔は悔しそうに歪んでいたのではないかと思う。

「堤先生がどこまで芽衣と似るか、私はお母さんと違って楽観視はしていないが、多少のリスクはやむを得ないと思っている」

 そこにドアが開いてお母さんが一人で入ってきた。

「堤先生はまだ用意ができないのか?」

「とっくに準備完了してるわ。芽衣、立ち上がって」

 お母さんに「芽衣」と呼ばれて僕もいたずら心が湧いた。僕は立ち上がってお父さんのところに行き、手を握った。

「芽衣、無理をしちゃだめだ。堤先生が来るまで座っていなさい」

「合格よ、堤先生!」
と言ってお母さんが笑った。僕も思わず笑い声を出しながらガッツポーズをした。

「芽衣、お前……芽衣じゃなかったのか!」
 笑い声を聞いて初めて自分の娘ではないと分かったようだ。

「すみません、つい奥様に乗せられてお芝居までしてしまって……」

 お父さんはへなへなと椅子に座り込んだ。

「父親が見抜けなかったぐらいだから明日は大丈夫だわ」

「えへへ、試験会場で声さえ出さなければ、三百万円はもう頂いたようなものですね」

「芽衣、明日受験が終わって家に帰るまで気を抜いちゃダメよ。私が芽衣らしい身のこなしと、万一どうしても声を出さなきゃならなくなった場合に備えて女の子らしいハスキーな声の出し方を教えるわね」

 お母さんは僕を芽衣の部屋に連れて行った。

 芽衣は僕を見ると力なく微笑んだ。
「ママと一緒に自分が部屋に入って来たから、新種のインフルエンザのせいで幽体離脱したのかと思ったわ」

「そんな気の利いたことが言えるほど頭が働いているなら安心だ。明日の聖メアリーは僕が引き受けるから、芽衣ちゃんはぐっすり眠って、明後日の雪見女学院の受験に備えてね」

「ありがとう。堤先生、大好き!」
 芽衣に大好きと言われて当惑していると、
「女友達として」
と芽衣が付け加えてウィンクした。

 芽衣が頭の回転の良さの一部でも受験に使えばこんな苦労をせずに済んだのに……。

 僕はお母さんから夜遅くまで発声と作法のレッスンを受けた。風呂に入ってから芽衣のネグリジェを着させられて客間で寝た。

 

 二月六日の朝は午前六時に起こされた。朝風呂に入ってバラの香りのボディーソープを使い、身体中のムダ毛をカミソリで剃って全身ツルツルになった。芽衣のパンティー、ブラジャー、シャツ、ショーツガードル、黒のタイツを身に着け、アイロンの当たったブラウスを着て赤いリボンタイを着けた。チェックのスカートをはいて、紺のジャケットを着た。お父さん、お母さんと三人でトースト、ヨーグルトとフルーツの朝食を食べた。歯を磨いてからお母さんが化粧をしてくれてヘアスタイルを整えてくれた。

 お父さんは七時過ぎに、
「堤先生、私は会社に行くので先に出かけますが、今日はどうかよろしくお願いします」
と言って会社へと出かけた。

 七時四十分にタクシーが来た。僕はマスクを着けてお母さんと一緒にタクシーに乗った。

 受験会場に着いたのは八時十五分だった。入場締め切りは九時なのでまだ余裕があった。

 試験は九時半に始まって十一時五十分に終了する予定になっている。一科目目が英語、二科目目が国語だが、芽衣にとって聖メアリーはD判定の最難関であり、元々本気で願書を出したわけではないので過去問題は調べていなかった。

 英語はリスニングを含めて僅か一時間、国語も現代国語、古文、漢文を含めて一時間の試験で回答形式は全て選択式だ。平均的な東大生なら恐らく十五分からニ十分で解ける内容だろう。無意識に解けば全問正解となって目立ってしまい、替え玉を立てたのではないかと疑われる可能性がある。だから正答率が八十五パーセント程度になるように調整することにじっくりと時間をかける必要がある。

「芽衣、落ち着いて頑張るのよ。ママはずっとここで待っているから安心してね」

 お母さんは僕を芽衣と想定して完全に本番モードになっている。僕はお母さんの耳に口を近づけ、
「十一時五十分までは喫茶店にでも行っていてください」
と言っておいた。

 その時、後ろから声がかかった。
「芽衣も聖メアリーを受けるのね!」
 振り向くと、僕と同じ制服を着た女子高生が母親と一緒に歩いて来ていた。

――こいつは誰だ? まずいことになった。偽物だとバレてしまう……。

「橋本さんね、芽衣の母です。芽衣は風邪をひいて声が出なくなっているのよ。風邪がうつってご迷惑をかけるといけないから、近寄らない方がいいわよ」

 僕が声を立てずに咳をする恰好をすると、彼女は反射的に後ずさった。微笑んで手を振ると、彼女も手を振りながら、門の方へと歩いて行った。

「調べておいてよかったわ。芽衣の高校から聖メアリーを受験するのは、橋本加恋さんと芽衣の二人だけなのよ。あれだけ風邪のことを強調しておいたから今日は近寄ってこないとは思うけど、あの子の前でマスクを外さないように注意しなさい」

 橋本加恋の母親が芽衣のお母さんに話しかけに来ると面倒なので、僕は橋本加恋の母親がどこかに立ち去るまでお母さんのそばに立っていた。八時四十分ごろ門から入り、受験会場に入って着席した。

 受験票を机の上の所定の場所に置いて、誰とも目を合わせないように俯き加減にして試験が始まるのを待った。他の受験生と何らかのインターアクションをしてしまうと、入学後に「入試の日にこんなことがあったわね」と話題にされる可能性がある。特に前後左右の席の人とは絶対に視線を合わせないよう注意しなければならない。

 試験は予想通り簡単で、確実に全問正解できる内容だった。十分ほどで正解を記入し終えてから正答率が八十五パーセントになるように綿密に修正した。リスニングの部分は後で修正する時間が与えられない可能性があるので最終部分の問題で不正解の選択肢に印をつけた。

 休憩時間になると、真っ先に部屋を出てトイレに走り、時間ぎりぎりまで個室に座っていた。周囲の人と視線を合わせる可能性を極力減らすためだ。国語の試験が始まる直前まで教室の入り口のところに立って待ち、時間ぎりぎりに自分の席に座った。

 国語の解答用紙が配られたが、マークシートの用紙が、ツルツルの厚手のコート紙だったので当惑した。これだと、一旦記入した回答を消しゴムで消すと跡が残る。全問正解を記入した後で正答率が八十五パーセントになるように修正した場合、万一不審に思われてチェックされたら、わざと誤回答したことがバレる可能性がある。

 試験が始まり、問題を読むと、引っ掛け問題は無さそうだった。僕は頭の中で計算しながら、不正解が十五パーセントになるようにわざと間違った選択肢にマークを入れながら最後まで解いた。念のため最初から見直した結果、丁度八十五パーセントの正答率になっていた。まだ試験時間は三十分以上残っていたので、今日手に入るはずの三百万円をどう使おうかと考えながら時間が来るのを待った。

 試験官は席の間を回りながら、手元の用紙と、座席の指定場所に置かれた受験票の氏名と受験番号をチェックしているようだった。受験票の写真と受験生の顔はチラッと一瞥するだけのチェックで、マスクを外せとも言われなかった。こんな管理体制だと替え玉受験は「やり放題」だ。僕の場合は特殊なケースだが、聖メアリーは東大女子にとって裏バイトの穴場になるかもしれない。ひょっとしたらこの部屋に僕の知り合いの東大生が女子高の制服を着て紛れ込んでいるのでは……。

 十一時五十分きっかりに試験が終わり、僕は一番に教室を出て、芽衣のお母さんが待つ正門まで駆けて行った。

「芽衣、試験はどうだった?」

 僕は右手でOKサインを示した。

「さすが! これから高級レストランでご馳走したいところだけど、もう一人の芽衣が心配だから真っ直ぐ帰りましょう」

「しーっ」
と唇の前に指を立てた。お母さんは「もう一人の芽衣」が失言だったと気づいて頬を赤らめた。僕たちはタクシーが拾えるところまで歩いて行った。

 タクシーのドアが閉まると大仕事を終えた喜びが湧き上がったが、タクシーの運転手に聞こえる所で滅多なことは言えないので、二人とも沈黙を守った。

 タクシーが家に着き、玄関のドアの鍵を閉めると解放感が爆発した。

「やったー! 試験会場内では誰とも目を合わさずに済んだよ!」

「で、試験はうまくいったの?」

 僕は八十五パーセントの正答率にするためにどれほど気を遣ったかを説明した。お母さんは、僕がいくら東大生と言っても、大学入試で満点を取れるということが信じられない様子だったが、東大と聖メアリーの入試問題の違いについて説明したところ納得していた。

 二人で芽衣の部屋に行くと、芽衣は目を覚ましており、顔色もよくなっていた。僕は改めてタクシーで大学に着いてから、帰りのタクシーに乗るまでの顛末を詳しく説明した。橋本加恋との会話についても、今度芽衣が加恋と会った時に話を合わせられるように念入りに説明しておいた。正答率を八十五パーセントに調節したことについて、芽衣が、
「賢いと思われるのは困るから八十パーセントにしてくればよかったのに」
と不満を漏らしたが、その後で、
「でも、万一計算が狂って三百万円損するのは可哀そうだから許してあげる」
と言った。その点は痛い所を突かれた気がした。

「明日の雪見女学院は受けなくてもいいぐらいだけど、念には念を入れると言うことで、雪見女学院も堤先生に受験してもらったら?」
とお母さんが言い出したので、僕はプラス百万円ないし二百万円のバイトのチャンス到来かと色めき立った。いや、雪見女学院で合格ボーナスを要求するのは理不尽なので、百万円ぽっきりで引き受けてもいい。

「それはやめた方がいいわ。雪見女学院を最悪の場合の滑り止めとして出願した同級生が沢山居るから、何人もの親しい友達に会うかもしれない。橋本加恋には見破られなくても、親しい友達が相手だとそうはいかないわ。明日は自分で受験する」

 芽衣が正しい決断を下したので僕の追加収入の道は途絶えた。

「芽衣、お腹が空いたでしょう? 今すぐお粥を作るから待っていてね。堤先生は寿司でもピザでも何でもお好きなものを出前で取りますからご遠慮なく仰ってください」

 久しぶりに僕自身と認められて敬語で話しかけられたのでこそばゆい思いだった。

「いえ、僕は一刻も早く自分の服に着替えておいとましたいと思います。駅の手前のすき屋によってキムチ牛丼の中盛を食べたいです」

「そうですか……じゃあ、お風呂にクレンジングジェルを置いておきますから、お化粧を落としてシャワーを浴びてください」

 そう言われなければ自分が化粧をしていたことを忘れて、服だけ着替えて帰るところだった。冷や汗ものだったと思いながら風呂場に行った。芽衣の制服を脱ぐときに一抹の寂しさを感じた。女子高生の制服を着て人前に出るなんて一生に一度限りだ。三百万円というニンジンをぶら下げられて突っ走ったが、思い出すと胸がドキドキした。自分が本物の女子に見えるほどきれいだと初めて意識したのも名残惜しさの一因だった。

 ブラウスとシャツを脱ぎ、詰め物の入ったブラジャーを外した。黒のタイツ、ガードル二枚、ショーツと順に脱いで、芽衣の衣類の全てに別れを告げた。僕の股間の物は縮むと言うよりは、完全に干からびて小さくなっていた。昨夜女装させられた時にはギンギンに大きくなったのに、女装に慣れたらむしろ逆効果になって干からびるとは不思議な事だ。

 風呂でクレンジングジェルを使って化粧を完全に落とし、シャンプーとボディーソープで女子高生体験の残り香をすっかり落とし去った。風呂を出た所にお母さんが僕の服と下着を畳んで置いてくれていた。僕は自分の服に着替えて居間に行った。

「あら、芽衣が男装しているのかと思ったら堤先生だったんですね」

 思いがけないことを言われて洗面所に走って行き、鏡を見てその言葉の意味が分かった。髪型と眉毛が芽衣と同じなので、僕の目にも芽衣が僕の服を着て立っているかのように見えた。これではまずいので、お父さんのヘアートニックを借りて、髪をべっとりと寝かしつけると男に見えるようになった。

 居間に戻った所、お母さんはまだ笑っていた。

「芽衣には見えなくなったけど、女の子が男装しているように見えるわ。くくくく……」

「やっぱり眉毛を抜きすぎたからですね……どうしましょう」

「きっとそのうちに生えてきますよ。それまではダンディーな服装をするように気をつけた方がいいかもしれませんね」

 お母さんは分厚い封筒を僕に差し出した。

「主人がお約束した謝礼金です。お確かめください。残りは合格発表の日にお渡しします」

 僕は表彰状を受け取るかのようにお辞儀をしながら封筒を受け取り、中身を見ずにポケットに入れた。眉毛が女っぽくなったことも含めた対価を受け取ったのだから、お母さんの前で陰気な表情を見せるのは間違っている。僕は笑顔で「ありがとうございました」と言ってもう一度お辞儀をした。

 芽衣の部屋に立ち寄ってから家を出た。次にこの家に来るのは聖メアリー女子大の合格発表日の二月二十二日であり、その日に残りの二百万円を受け取る。それが米田家の人々と会う最後の機会になるだろう。


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