最期の障壁

第一章 トリシュナ

 私は二十一歳の誕生日の前日に婚約した。相手はソムという名前の五歳上の男性で、彼が両親と一緒に私を品定めにやって来て以来何度かデートした間柄だ。私はまだ結婚したいと思っておらず、親が勝手に決めた相手だったが、特に反発を感じたわけではない。親が娘の結婚相手を決めるのは普通であり、夫になる人と結婚式の日に初めて顔を合わせる女性も多い土地柄だった。私にとって父や兄と論争をするのは不可能に近かった。亡くなった母を含め、うちの女性は父と兄に従うように教育されていたからだ。

 女の子だから虐げられたというわけでは決してない。私は良い食べ物、良い服、良い教育を与えられて育った。父は感情を表に出さないタイプの人だったが、父なりの方法で私を愛してくれた。母は数年前に他界し、私が家事を担当していた。兄のジョイとはしょっちゅうケンカをしていたが、何かあると私を守ってくれる保護者のような存在だった。

 ただ、私の家族は親友のトリシュナほどには私を理解してくれなかった。時々、物静かで知覚の鋭いトリシュナの顔がふいに頭に浮かび、会いたいという衝動に駆られて電話した。多くを語る必要はなく、言葉の合間から私の気持ちを感じ取って会いに来てくれた。

「十五分後に着くから待っていて」
と彼女は低い声で言った。

 トリシュナはその言葉通り十五分後に自転車で私の家まで駆けつけてくれた。スパンコールのついたロングスカート、白いTシャツとカラフルなスカーフに身を包んだトリシュナの細長いシルエットを見ると、私は喜びと安らぎに包まれた。

 私はドアを開けてトリシュナをしっかりと抱きしめる。リビングルームのソファーに寝ていた兄のジョイは、またかと軽蔑したような笑みを浮かべる。私は兄を無視してトリシュナを自分の部屋に連れていく。

 彼女はメヘンディを持ってきている。メヘンディとはインドの女性が手足に模様を描くための植物性染料で、円錐形のアプリケーターに入れて売られている。トリシュナが私の手のひらに複雑な模様を描いてくれると、私は思いの丈を彼女にぶちまけた。トリシュナは最後まで聞いてくれて私の気持ちを分かってくれた。彼女は助言をしようとするのではなく、ただ親身になって聞いてくれる。それがありがたかった。

「私はソムを愛していない。ソムは私の魂を愛してくれていないの」
と私は惨めな気持ちで彼女に告白した。

 トリシュナは私に顔を向けた。肌理が細かいとは言えない肌だが、彼女はハッとするほど美しかった。コールでアイラインを引いた黒い目は私の心を奥深くまで見通している。

「あなたの魂を愛していないのに婚約するとは、彼はあなたの何が好きなの?」

 鋭い質問を受けて頬が燃えるように熱くなった。

「私の身体が好きなのよ」
と呟きながら悔しさが湧き上がった。

 婚約者のソムは私の父と同じく不動産業に従事している。彼が両親と一緒に初めて私の家に来た時、彼はまるで不動産物件を評価するかのように私の身体の外見を鑑定した。強い屈辱を感じた私は、ヴェールで身体を隠そうとした。ソムが自分の両親の方を向いて三人で囁き声で会話をした後、ソムの母親が私の父に笑顔を向けて言った。

「主人も息子もお嬢さんを気に入ったようです」

 その一言が私の自尊心をないがしろにした。


「私はあなたの何が好きだと思う?」
とトリシュナが皮肉っぽい口調で私に聞いた。

 私は返事できずに黙っていた。トリシュナと私の間に常に横たわる「何か」に触れるのが怖かったからだ。

「答えてみて」
とトリシュナが私に回答を促した。

「無理よ、私は臆病だから。これからもずっと……」

「私たちが十四歳だった時の雨の夜のことを覚えてる?」
とトリシュナに聞かれて、私は頷いた。あの夜のことは決して忘れない。

 今、私が彼女についてどう感じているのか、私の頭の中は混乱している。多分彼女も同じように混乱していると思う。私は初めて彼女に会った日のことを思い出した。

第二章 青いユニコーン

 トリシュナを初めて見たのは十四歳の時だった。彼女は給水機のそばに立って、静かにコップの中の水を飲んでいた。ブロンズ色の長い手足と光沢のある黒い髪をしていて少し男の子っぽさを感じさせる美少女だった。私の注意を引いたのは彼女の目だった。パッチリと大きくて黒い目で、年齢に似合わず、何か深い訳がある人のような印象だった。

 その日、私は授業に集中できなかった。教室の後ろの方の席に座っている長身の転校生のことが気になって、私はつい彼女の方をチラチラと振り向いた。トリシュナの転校初日だったが、とても大人しい少女で、殆ど一言もしゃべらなかった。

 プライドが高いからしゃべらないのではなくて、何か他に重大な理由があるのではないかと思った。もしかしたら、転校したばかりだから口数が少ないだけなのかもしれない。彼女の長くてしなやかな脚は短い紺色のスカートの中で震えていた。彼女が緊張しているのは確かだった。

「こんにちは、私はカジョル・ビスワスよ」
とできる限り優しい笑顔で自己紹介をした。
「あなたの名前はトリシュナ・ムカージーよね。タゴール女子校へようこそ!」

 トリシュナは唾を飲み込んで恥ずかしそうに笑った。彼女の喉仏が上下したことに私は気づいた。まるで男の子みたいだと思ってドキドキした。

「ありがとう。私に話しかけてくれたのはカジョルが初めてよ」
と彼女が恥ずかしそうに言った。

 私は弁当箱を開いた。

「話しかけずにはいられなかったのよ。このフィッシュカレーを食べてみて。私が作ったの」
と弁当箱を差し出した。
「トリシュナにはとても魅惑的な何かがある。私たちと同じ十四歳なのに大人っぽい感じがするわ」

 トリシュナはスプーンを私の弁当箱へと伸ばしてフィッシュカレーを取った。

「人間は状況次第で速く成長することもあるのよ」
と彼女は淡々とした口調で答えた。

 どんな意味でそう言っているのかはわからなかった。

 彼女が差し出したパンと卵カレーをもらい、二人でおしゃべりをした。お天気、学校のこと、勉強のことなど他愛のない会話だった。彼女は「そうね」とか「いいえ」とか短い言葉しか話さなかったが私はとても心地よかった。

 トリシュナのことがよく理解できるようになるまでには時間がかかった。本で調べた結果トリシュナという名前が「渇き」を意味することが分かった。アーモンド型の目をじっと見ると、その名前は彼女にぴったりだと思った。彼女の目は知識に飢え、そして理解されることと愛されることに飢えていた。

 トリシュナと私には共通点がいくつもあったが、その一つは読書への情熱だった。トリシュナが私の誕生日にラビンドラナス・タゴールの「ゴラ」の本をくれた時は特に嬉しかった。

「ありがとう。いつか読みたいと思っていた本だったの」

「ぜひ読んでみて。その本には私たちが意識しないうちに抱いてしまう偏見と、それがいかに無意味なのか、そしてそれに気付くための方法が書いてあるから」

 私はトリシュナを見つめた。彼女は聞き手にはっきりと分かる話し方をするが、それは私たちの年齢では稀な特質だ。私は彼女の性別とは若干違和感がある身体的特徴のことを意識せずにはいられなかった。

 まだ十四歳だった私はどのような結論を導き出すべきか判断できなかった。それに他人の身体的特徴に着目するのはよくないことだと思った。私は彼女の精神的な面に的を絞り、「ゴラ」の主題や主人公の最初の考え方、それに主人公が自由な考え方ができるようになった過程について話をした。トリシュナは十四歳とは思えないほど明確で、しかも客観的な意見を持っていることが分かった。

「あなたって大人みたいな話し方をするわね。どうしてそれほどマチュアになれたのか、秘訣を教えて」
と聞いてみた。

「マチュアになった秘訣? そうね、四字熟語で言うと艱難辛苦かな」
とトリシュナは微笑んで冗談っぽく言った。

 

 トリシュナは他の女の子たちとは明らかに違っていた。タゴール女子校の生徒たちはすぐにその違いに気づいてトリシュナを容赦なくからかった。私は彼女の味方をしようとしたが、以前の友達から「裏切者」と呼ばれて怖気づいてしまうこともあった。トリシュナはそのような猛攻撃に一人で向き合う羽目になっても騒ぎ立てることなく冷静に対処した。

「あんな酷いことを言われてどうして我慢できるの? 私があなただったらあの子たちに汚い言葉で言い返して平手打ちにしてやるのに」

 トリシュナは深くため息をついた。

「誰でも自分たちと違う人間が現れたら拒否するものよ。でも、嘲笑されるのは一時的で、最終的には彼女たちの一人として受け入れてくれると信じてる」

 自分が他の女の子たちとどう違うのかについて彼女は語らず、私もそれ以上立ち入るのは控えた。サンティニケタンという小さな町で育ったが、私自身は都会的だと自負していた。その一つは他人のプライバシーを尊重することだった。

 トリシュナの家は学校から私の家に帰る途中にあった。学校が終わると私たちは一緒に自転車で家に帰った。二人とも自転車に乗る気分でない日には、自転車を押して歩いた。

 ある日、私はトリシュナと一緒に黙って自転車に乗って彼女の家の前まで来た。彼女の家は木に囲まれた小さな平屋の家だった。玄関の横に自転車を止めてトリシュナの家に入った。中には誰もいなかった。リビングルーム、小さな寝室、台所と浴室があった。家の中は完璧に片付いていて、まるでだれも住んでいないような感じだった。

「お父さんやお母さんは仕事で留守なの?」
と私はトリシュナに尋ねた。

 トリシュナは私の質問には答えずに台所に行き、私は後を追った。最低限の棚と調理器具しかない簡素な台所だった。トリシュナはコンロに火をつけ、二カップ分の水を入れた手鍋をコンロの上に置いて、その中に茶葉を入れた。

「ミルクも入れる?」
と目を合わせずに聞いた。

「ええ、お願い」
と私は答えた。

 トリシュナは熱いミルクティーの入ったマグカップとビスケットを乗せたお盆をリビングルームに持って行き、私は後に続いた。

 二人でお茶とビスケットを楽しみながら、ありとあらゆることについて話した。あっという間に二時間ほどが経ち、夕暮れになった。トリシュナの家族はまだ帰宅していない。私は段々心配になってきて質問した。

「お母さんはどこで働いているの? 何時ごろに帰るの?」

 トリシュナは肩をすくめた。

「母はコルカタの保険事務所に勤めてる。午後五時には家に帰るわよ」

と言って、トリシュナは私にヒントを与えるかのように微笑んだ。

 コルカタは通勤距離圏とは言えない遠隔地なので私は混乱した。

「じゃあ、トリシュナはお父さんと二人でサンティニケタンに住んでいるの?」

「いいえ、父もコルカタに住んでる。銀行マンなの」
と彼女はたどたどしい口調で答えた。

 トリシュナの言葉の意味が分かって唖然とした。

「ここに一人で住んでいるの!?」
と私は念のために質問した。

 トリシュナが頷いて肯定した。


「父も母も私を変えようとして必死だったんだけど……」
と彼女は静かに話し始めた。

「でも私は変わらなかった。性別の違和感がどうしようもないほど深刻だったの。私は男の子として生まれたんだけど、自分の中身は女の子だと思っていた。ズボンやショートパンツをはくのが嫌で、ワンピースを着てお人形遊びをしたいと言って聞かなかったの。

 小さい頃は両親もそのうちに治るだろうと思っていたみたいなんだけど、十二歳になっても全く治らなかったから精神科のお医者さんに連れて行かれた。精神科医は対話療法で『治療』しようとした。でも、全く効果がないどころか、女になりたいという気持ちが却って強くなった。

 十三歳の時、ズボンをはいて学校に行くことが耐えられなくなって、姉のお古のスカートの制服で登校したのよ。当然学校でも家でも大騒ぎになって、校長も教師も両親も私を怒鳴りつけた。姉は同情してはくれたけど、どうして私がそこまでするのか、気持ちが理解できないみたいだった。結局、私は一週間の停学を申し渡されたの。

 一週間後に学校に戻った。それから何週間かはズボンをはいて学校に通って、私は女の子になりたいという気持ちを必死で押さえつけていた。けど、それはやっぱり無理で、また姉のお古の制服で登校した。今度は学校は寛容な措置は取ってくれずに、私は退校処分になってしまったの」


 ここまで一気に話して、彼女は大きなため息をついた。長いまつ毛が涙でぬれていた。私が彼女の肩に手を置くと、トリシュナは感謝の気持ちを込めて私の手の上に自分の手を重ねた。

「学校で何と言われたの?」

「オカマと呼ばれたわ……でも今話したことは大昔に起きたことよ。前世のことのような気がする」
と彼女が答えた。

「家族は私のことを恥だと思っていて、そんなことで退学させられたことは家名を汚すことだと言っていた。でも私にはどうしようもなかった。精神科医も匙を投げて、お陰で私は女性ホルモン注射をしてもらえるようになった。

 身体に変化が出始めた時になって、初めて両親は私を娘として受け入れざるを得ないということに気付いた。でも、両親はそんな私を家に置いておけるほど大胆では無かったのよ。そのうちに私の身体はすっかり女らしくなって、毎日女性の服で過ごすようになった。このままだと親戚や友人に知られてスキャンダルになると思って、コルカタから十分離れたこの町に私を転向させたのよ」


 トリシュナは多くの困難に直面したが、屈服することなく耐えたのだった。

「時々ご両親が会いに来てくれるの?」
と聞くと、トリシュナは大きく息を吸った。

「たまに週末に来るけど……でも、親は親で忙しいから頻繁には来れないのよ。二人とも平日は毎日働いているから、週末に半日かけてサンティニケタンまで来るのは大変なの。それに、姉は十二年生(日本で言うと高校三年生)で大事な時期だから、姉を放っておくわけにもいかないから」

 トリシュナは不平を口に出さなかったが、彼女が非常に孤独だということが分かった。一人でこの家に住み全ての問題に自分で対処しているトリシュナはとても勇気があると思った。

 窓の外を見ると軽く雨が降っていた。

 十四歳の思春期の少女が自分で料理をして、洗濯して服を整え、勉強をするというのはめったにないことだ。虐められても相談できる家族も傍に居らず一人で立ち向かわねばならない。タゴール女子校は簡素で飾り気のない学校であり、特にカウンセラーは置いていない。トリシュナの場合は性同一性障害について両親のサポートがなく、一家の恥として追放されたのも同然だった。そしてお姉さんにも理解してもらえなかった。トリシュナが自分の周りにカメのような殻を作ったのも不思議ではない。それはすべて防衛のためのメカニズムだったのだ。

 ベッドの端に腰かけている彼女がとても脆弱に見えた。私は彼女のところへ歩いて行き、彼女の隣に座った。トリシュナの腕の力強さと男の子のような筋肉が残っている脚を今更のように意識した。彼女は細身で胸の膨らみもあるが、若い男の子のような筋肉を完全には失っていなかった。

 私は胸に奇妙なときめきを感じた。その気持ちは、毎年恒例の日に男子校の生徒がタゴール女子校に来る時に感じるものと似ていた。その日だけは若い男性が私たちの女子校を訪問することが許された稀な機会だった。私は当時十九歳だった兄を除いて、男子と接する機会はゼロに近かった。

 トリシュナが突然立ち上がった。

「なんだかすごく蒸し暑くなってきたわね」
と言って扇風機のスイッチを入れたが、停電していたと分かって失望のため息を漏らした。新聞紙を団扇代わりにするが間に合わない。トリシュナはブラウスのボタンを外してさっと脱ぎ、肌色のスポーツブラだけの上半身になった。彼女の腹部は引き締まっいて無駄肉がない。

 トリシュナはタンスを開けて、薄いTシャツに手を伸ばした。彼女がTシャツに頭を通そうとする前に、私は思わずトリシュナの首に抱き着いていた。汗に濡れたトリシュナの身体から放たれるセクシーな匂いが鼻腔を通じて私の全身を麻痺させた。一瞬トリシュナの身体が緊張し、次の瞬間にその緊張が霧が晴れるように引いた。彼女は躊躇いながら私を抱き返し、私の柔らかくてフワフワした身体が彼女の引き締まった体に押し付けられた。

 罪悪感が首をもたげて我に返るまでの数分間、私たちはじっと抱き合っていた。十四歳の少女どうしがまるで男女のカップルのように身体を求め合うのがいけないことだとは分かっていた。トリシュナと私はどちらからともなく身体を離して、二人とも顔が真っ赤になった。恥ずかしくて言葉も出て来ないし、しばらく目を合わせることができなかった。

 窓の外を見ると雨はやんでいた。
「もう帰らなくちゃ」

「家までついて行こうか?」

「大丈夫よ。もうすぐ暗くなるから。それに、もし送ってくれたら、今度はトリシュナが一人で自転車で帰ることになるじゃない」

「カジョルが一人で帰るよりは私が自転車を飛ばす方が速いし安全だわ」

「私、こう見えても意外と強いのよ」

「うふふ、分かったわ」

 トリシュナは一緒に玄関を出て私を見送ってくれた。次の角で振り向くと彼女はまだ玄関の外に立っていて、胸の前で私に両手を振ってくれた。

 家に帰ると、どうしてそんなに遅くなったのだと叱られた。兄のジョイからも、女の子が夕暮れ時まで外をうろつくのは危険だと叱られた。いつものことだった。父と兄の言葉は右耳から入ってそのまま左耳から出て行った。その夜、私の頭の中はトリシュナの身体から放たれていたセクシーな匂いと、私の背中に押し当てられた彼女の指の感触で一杯で、それ以外のことは何も考えられなかった。

 あれを恋と呼ぶことはできない。親友の女の子から、自分は元は男子だったと告白されたからドキドキしただけだ。それに、彼女が置かれている状況に同情するあまり、つい気持ちが入りすぎてしまった。二度とあんなことをしないように気をつけようと思った。

 それからしばらく、トリシュナと学校で顔を合わせるのはとても気まずかった。あの時に起きたことをお互いに強く意識していたが、忘れたふりをして言葉を交わした。近くにいると制服の中の彼女の身体を痛いほど強く意識してしまうが、彼女も同じように私の裸を心に思い浮かべているだろうと思った。遠くからでもトリシュナの視線を感じるたびに頬が熱くなった。トリシュナが私の大きなお乳、細いウェストと丸いお尻を見ているような気がしてドキドキした。

 でも、トリシュナの視線の中に淫乱さは皆無だった。あたかも私の肉体を透過して霊の中に入ってくるかのような魂のこもった視線だった。

 何日かするとあの時に感じたお互いの身体の魅力のことが気にならなくなって、以前と同じ女どうしの親友としての関係に戻った。

第三章 まだ見えない結論

 それから七年間私たちは一緒に学び、一緒に成長した。タゴール女子校から同じ大学に進んで二人とも経済学を学んだ。トリシュナの両親は学費以外に自由になるお金を殆ど仕送りしなかったので、彼女は家庭教師のアルバイトをして、時々私に本を買ってプレゼントしてくれた。

 トリシュナが私を愛してくれていたのかどうか、確信はなかった。彼女は決して裏切らない忠実な友人として私に接してくれたが、私にはっきりわかる形で気持ちをぶつけはしなかった。そんな彼女の特質を私は尊敬していたが、もっと気持ちを見せてくれたらいいのにと思うこともあった。

 経済学部の専門課程の夏休みに、トリシュナは性転換手術を受けた。当時の私は性転換手術とは具体的にどんな手術なのかよく知らなかったし、トリシュナを女性として認識していたので、陰茎の一部を活用して膣を造ると言われてもピンとこなかったが、その手術によってトリシュナがより生きやすくなるなら素晴らしい事だと思った。

 午前中に始まって夕方までかかる長い手術の間、コルカタから来た彼女の家族と一緒に廊下のベンチに座って心配しながら待っていた。

 退院するまではお母さんかお姉さんが付き添っていたが、退院後は私が彼女の世話をした。彼女が回復するまでにはかなりの時間を要し、手術の日から数えて約一ヶ月経つまでは、私が彼女の食事を用意して、ダイレーションという、膣の癒着や萎縮を防止するための拡張作業を彼女がちゃんと実行するように見守ってあげた。

 その間、トリシュナは自分の感情を外に出さず、ベッドの上で本を読み耽ったり、窓から外を眺めていたりした。望み通りに女性の身体を手に入れたのだから、もっと手放しで喜んでも良さそうなものだが、そんな様子は見せず、かと言って少しでも後悔の気持ちが残っているようでもなく、彼女の心の中は私には見えなかった。

 ただ、外見的には目に見える変化が起きた。トリシュナは以前よりフェミニンな色合いの服を着るようになり、頬は以前より強くバラ色に輝き、髪はつやが増し、歩く時の身体の上下動が増えて普通の女の子のような感じの歩き方になった気がする。だから私は性転換手術は結局彼女にとってプラスになったと結論付けたのだった。

 一方、私自身は複雑な気持ちだった。私は親友が望み通りの身体を手に入れたことを喜んでいたが、心のどこかではトリシュナが男の痕跡を完全に失ったことを嘆いていた。十四歳のあの日のトリシュナの男の子のような匂いと肌の感触の記憶が突然ぶり返して私を苦しめる。

 彼女はもうあの匂いを永久に失ってしまった……。

 トリシュナは新しい香水を使い始め、近づくと花の香がする。私はもう彼女の身体に怪しい魅力を感じなくなった。これまでも恋人どうしになったことは一度も無かったのだが、トリシュナが普通の女になってしまって、私は人知れず残念な気持ちだった。

 

 十四歳の雨の夕方に起きた事件のことをお互いに口に出したのは、私がソムとの婚約のことをトリシュナに話した時が初めてだった。あれから既に七年近くが過ぎていた。

「婚約者がカジョルの身体を好きだというのは悪い事じゃないわ」

「でも、ソムは私のことを何も知らないのよ。私も彼のことを知らないし……」

「自分の身体も心も好きじゃない人と結婚させられるより、少なくとも身体を気に入ってくれているだけマシじゃないの」

 トリシュナが本気で言っているのではないことは分かっていた。私が他の人と婚約したことを聞いて苛立っているのだ。私が彼女と結婚できるはずが無いのに……。

「トリシュナは分かってないんだわ。インドの女性が親が勝手に決めた相手の家に嫁がされてどんな思いで生きて行くのか」

 トリシュナの顔が寂しさに歪んだのに気付いて私は失言を恥じ、
「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」
と謝った。

「いいわよ。もう私だって女だから同じ目に遭う資格があるわよ。父は私を早く厄介払いしたがっているから、遠く離れた農村の猛牛のような飲んだくれとの結婚を突然決めてくるかもしれない。そうなったら私はトリシュナが想像もできないほどインド女性らしい人生を送ることになるわ」

「そんな皮肉を言わないで」

「ごめん。でも私はもう女なの」

「十四歳のあの雨の日に戻りたい」

「何も起きなかったわよ。ブラを着けたままハグしただけ」

「私は今でもトリシュナのことが……」

「大好きなんでしょ、女友達として。私もよ」

 私は大きなため息をついた。

 トリシュナが私に顔を近づけて明るい表情で言った。
「ごめんね、カジョルが遠い所へ行ってしまいそうな気がしてイライラしていたみたい。親友が婚約したんだから心から祝福すべきなのに」

「私は遠くに行ってしまったりしないわ。ソムの奥さんになっても、世界で一番親しい人はトリシュナのままよ」

「ありがとう。きっとそうよね」
とトリシュナは優しく、力なく答えた。

 

 翌日、婚約の朝、私はパステルピンクのロングスカートとへそを見せるトップを組み合わせたリーガ・チョリを着て、亡くなった母親の銀のジュエリーを身に着けた。トリシュナは、マスタード・イエローの刺繍のついたサルワール・スーツを着て息をのむほどきれいだった。婚約式のホールにはソムと彼の両親、そして私の家族が私を待っていた。

 私はトリシュナに手を引かれてホールに入った。二十六歳のソムがピーコック・ブルーの伝統的な民族衣装(長いシャツとズボンを組み合わせたシェルワニ)で私を迎えた。私を見るとソムの大きな顔がしかめっ面のままニヤニヤした感じになった。ソムの両親は二人とも幸せそうな表情だった。私の父と兄は私を見て微笑んだ後、トリシュナに睨みつけるような視線を送った。父と兄は婚約に「ヒジュラ」を同席させることには大反対したが、私が断固として折れなかったので譲歩せざるを得なかったのだ。

 彼らにとってトリシュナは外見が美しい少女でも、男として生まれたのに女装した男性イコール「ヒジュラ」という等式が頭の中で成立し、本能的にヒジュラの人たちと同列にランク付けして見下すのだろう。それはとても悲しい事だ。

 それまで父と兄の命令に従わなかったことは殆ど記憶にないが、彼らが選んだ男性と黙って結婚するのだから、婚約の日に一番の親友を同席させることぐらいは許して欲しいと私は頼んだ。それに、母も姉妹も居ない私には他に着付けを手伝ってくれる人が居ない。トリシュナは確かに元男性だが、二年も前に性転換手術を終えたのだから、もう「ヒジュラ」と呼ばれる筋合いはない。今は私と同程度に女性なのだ。私にそう言われて家父長制カチガチの父も譲歩せざるを得なかった。

 私がソムのそばに行った時、彼は興奮して汗びっしょりだった。晴れやかな表情の母親が指輪の入った小箱を開き、彼はずんぐり太った指でその中から金の指輪をつまんで私の指に通した。双方の両親が籾殻付きの米とクローバーの葉を私たちの頭に振りかけて祝福した。トリシュナに目を向けると、真心のこもった微笑みを返してくれた。私は彼女を見ながら目をクルクルと回して笑わせようとしたが、彼女は真面目な顔をしたままだった。でも私は彼女が笑いを必死で抑えていることが分かっていた。

 結婚は一ヶ月半後に祝われることになった。ソムと彼の両親は私の家族が用意した豪華な昼食を食べた後、家に帰った。私はトリシュナと昼寝の後で土曜市場に行く約束をしていた。サンティニケタンでは毎週土曜日にトライバル・マーケットと呼ばれるいちが開催されており、婚約前の一週間部屋から出してもらえなかった私は、新鮮な空気を吸いに出かけたかったのだ。父は私がトリシュナと土曜市場に行くことを渋々了承したが、兄のジョイに一緒に行くようにと頼んだ。ところが兄は何かのスポーツのワールドカップとやらがあってテレビに釘付けだったので、私はトリシュナと二人だけで出かけることができた。

 兄がついて来ないことになってほっとした。兄はトランス・ガールだという理由でトリシュナを嫌っていた。テストステロンを満載した筋骨たくましい兄にとって、男子が女の服を着たがったり、女性ホルモンで胸を大きくしたり、手術をして立ち小便できない身体になりたがることは理解を超えていた。兄はトリシュナが精神的に病んでいるのだと思っている。私はトリシュナと兄の両方を愛しているので、兄に性同一性障害について何度も説明を試みたが、理解は得られなかった。

 それにもかかわらず、婚約の式典の間、兄はトリシュナに対して十分に礼儀正しく振る舞ってくれた。でも、トリシュナに対する嫌悪感というか、肌に合わないと言う気持ちは隠しようがなく、トリシュナは敏感にそれを感じ取って、ジョイの前に来ると萎れた花のようになった。私にはそれが悲しかった。トリシュナにそんな気持ちを味わわせたくはなかった。

 私はリーガ・チョリからオレンジ色のシンプルなサルワール・カミーズに着替えたが、トリシュナは婚約式に着て来た黄色いドレスのままだった。私たちは人が足で漕ぐリクシャ(簡易タクシー)を拾って土曜市場を回った。リクシャが曲がりくねった道を進んで行くと、喜びが湧き上がった。濃い緑、コパイ川の流れ、そして美しい仏像があるサンティニケタンの町はとても美しい。トリシュナの横顔はサンティニケタンの町に負けないほど輝いていた。でも彼女はいつものように控えめで、ガードを崩そうとはしなかった。

 私は子供の時からずっと籠の鳥のようなもので、父と兄に自由を奪われて育ったと言っても過言ではないし、今後もソムと舅姑に自由を奪われた人生を送るのが目に見えている。トリシュナは一人暮らしをしていて目に見える制約は存在しない。それなのにトリシュナは決して自由を感じることなく生きている。

 そう考えると私がトリシュナに恋をしなかった理由が分かるような気がした。私はトリシュナを自分自身の延長として認識していたのだ。自由を奪われた私の姿が、トリシュナとして具現化されている。決して自由になれないトリシュナは私自身が投影された姿だった。

 土曜市場に近づくと活気が伝わって来た。そこは、香りのよいユーカリの樹々に囲まれた、数エーカーもある広大な場所だった。伝統的なドティ姿の男性やサリーを着た女性たちが、衣類、宝石、手工芸品などを販売している。一角には小さな舞台がしつらえられていて、ベンガル地方の音楽であるバウルを演奏していた。ドラムと見慣れない弦楽器、ぼうぼうに髭を生やした男性シンガーからなるグループだったが、歌と伴奏が完璧に噛み合っていた。ベンガル地方の伝統的な宗教音楽の神秘主義的な歌詞が興味を引いた。

 それは失われ再び燃え上がった恋に関するある種のフォークソングだった。唄声とメロディーが歌詞と調和して、私は催眠術をかけられたかのように舞台の方へと歩いた。その歌はトリシュナにも同じ効果を与えたらしく、彼女も私と一緒に舞台に近づいた。

 私が舞台のすぐ近くまで来た時にちょうど歌が終わって、シンガーは次の歌を歌い始めた。それは遠くを旅してきた旅人に関する歌で、前の曲に劣らず魅力的だった。私はトリシュナの身体の温もりを感じながら立って聞いた。

 歌手以外に私の興味を引いたものがあった。それは筋肉質な腕に刺青をした、ノースリーブのTシャツの女性だった。彼女は目を閉じて、音楽に完全に没頭していた。オートバイのライダーが着るような黒いジャケットを無造作に横に置いていた。彼女は長い指で膝をリズミカルに叩き、つま先も音楽に合わせて動かしていた。形の良い唇を左右に広げて至福の笑みを浮かべている。彼女の自由奔放な雰囲気が私を唖然とさせた。この若い女性は何にも束縛されず自由に生きていると思った。

 歌が終わったが、魔法は解けなかった。彼女は目を開き、私がポカンとして彼女を見ているのに気付いて、私に微笑みかけた。私は急に恥ずかしくなって小学生のように赤面した。ピアスを着けた「解放された女性」が田舎娘の私に微笑みかけてくれている。私は微笑みを返した。

 彼女はライダー・ジャケットを右手で拾い上げてさっと左の肩にかけ、私に向かって歩いて来た。愛想の良い表情、軽快な歩調、足の白さを覗かせているクラッシュデニムのズボン。私は学校の制服を別にすると西洋風のスカートやワンピースさえ着用を許されておらず、もし彼女のような服装にしたら父と兄にその場で殺されるはずだ。彼女はまるでジーンズ姿で生まれたかのように自然だった。

 横に立っているトリシュナは顔をこわばらせていた。基本的に彼女は知らない人を信用しない。彼女はその場から逃げようとしたが私は彼女の腕を掴んで引き留めた。私にはライダー・ジャケットの女性と一対一で向き合う勇気が無かった。トリシュナは渋々私の横にとどまって頑固なラバのように突っ立っていた。

「ハーイ! 今の演奏、ヤバかったわよね」
と彼女が私に話しかけた。

「そうですね。夢中で聞いていました」

「私も夢中だったわ」

「ええ、そうだったみたいですね。音楽に完全に没頭されているように見えました。私も同じように自由に楽しめたらいいのになと思いながら見ていたんです」

 私の横でトリシュナが歯ぎしりをしている。今の私はこのライダーをほめ過ぎている。トリシュナは過剰を許さない人だと分かっていた。

 よそ者の女性はニヤッとした。ショートヘアのせいでとてもボーイッシュな感じだった。

「そうよ。私は自由な渡り鳥かな。二十三歳だけど定職にはつかずに、三年前からオートバイで全国を旅してる。気に入ったら何ヶ月も同じ町に留まることもあるし、一泊もせずに次の町まで夜通し走ることもあるわ。料理とか、ショップの販売員なんかのバイトをして食いつなぐ旅がらすよ」

「カッコいい! でも、親から反対されません?」

「全然。私はシッキム出身で、父は宿屋を経営していて母はマッサージの仕事をしている。私は一人っ子で、何でも好きにさせてもらってる」

「今までどんなところを回ったんですか?」

「北はカシミールから南はカンニヤークマリまで、ありとあらゆるところに行ったわ。そこに停めてあるバイクで」
と道の角に停めてある黒いロイヤルエンフィールドを指さした。

「素敵だわ! でも、若い女性がが一人で旅行するのって安全じゃないですよね? 女を狙った犯罪のニュースをしょっちゅう耳にしますから……」

「自分の面倒は自分で見られるように訓練したから大丈夫よ」
 彼女は笑いながらボクシングのシャドーパンチをする恰好を私に見せた。
「親も私が自己防衛のスキルを身に着けていることを知っているから心配していないみたいよ」

「ラッキーですね。私は明日二十一歳になるんですけど、父と兄は私を小さな女の子のように扱うんです。何をするにも父と兄の許可が必要で……。ジーンズを着ることなんて絶対に許してもらえません。あなたみたいになりたいです」

 女性ライダーは私に同情の微笑みを見せた。
「きっといつか私みたいになれる日がくるわよ」

「そうですね、きっと」
と私は彼女の明るい茶色の瞳を見つめて言った。

 一分間ほどの沈黙が続いた。その間もずっと私はトリシュナが岩のように固まって沈黙していることを意識していた。

「私はニコール・ドージーよ。あなたは?」
 彼女が差し出した手を握って私は答えた。

「カジョル・ビスワスです」

 彼女の柔らかい手の感触に背筋が震えた。ニコールの握手には生命のエネルギー、活力と禁じられた未知の領域が脈動していた。

 普通の握手のエチケットよりは長い間、ニコールは手を離さず、私の目をじっと見ていた。私の横でトリシュナが居心地悪そうに身体を動かしているのに気付いて、私はニコールの手を離した。

「あ、これは私の友達のトリシュナです」
と紹介するとニコールは優しい笑顔をトリシュナに向けて、
「初めまして」
と挨拶した。

 トリシュナは視線を合わさず、無表情に、
「どうも」
と小声で言うと私たちから離れて行った。トリシュナはユーカリの木の下まで歩いて行ってぶらぶらしている。

 ニコールの前でぶっきらぼうな行動を見せたトリシュナに腹が立った。ニコールはトリシュナに対してとても温かい笑顔を向けたのに、トリシュナはちゃんとした女性とは思えない作法だった。

「怒らないでくださいね。トリシュナは時々不愛想になることもあるんですけど、誰よりも温かい心を持った人で、十代前半からずっと無二の親友です。言葉で言い尽くせないほど大切な人なんです」

「私は何とも思っていないから謝る必要は無いわ」

「それでもやっぱりごめんなさい……。トリシュナはきっとやきもちを妬いてるんです」

 ニコールは私の心配を吹き飛ばすように笑った。

「彼女にはあなたが自分のものだと思う理由があるの?」
 ニコールが私をからかってそう言っていることが感じられた。

 鼓動が速くなった。あの雨の日の出来事がぼんやりと頭に浮かんだが言葉にはできなかった。

「ええ、十分な理由があると思います」
 そう言った瞬間ぱっと頬が赤くなった。トリシュナとのことについて他の人に言ったのは初めてだった。

「つまり、彼女は、あなたと私の間に何かがあると思ったわけなんだ」
 ニコールはセクシーな口の端を吊り上げて私をからかうように笑った。

「はい、そうだと思います」
と私ははっきりと答えた。自分の鼓動が聞こえそうなほどドキドキしている。勇気を出してキリッと視線を上げてニコールの目を見た。彼女の褐色の瞳の輝きに眩暈がしそうだった。

 ニコールはポケットに手を突っ込んで紙切れとペンを取り出し、何かを走り書きして私に差し出した。その紙切れには数字が書かれていた。ニコールの携帯の電話番号に間違いない。

「気が向いたら電話して」
とニコールは悪戯っぽいウィンクをしながら言って私に背を向けた。バイクへと歩く後姿を見て胸がキュンとなった。デニムをはいたスリムなヒップが素敵だった。ニコールが乗ったオートバイはブルンと音を立てて走り去った。

 ニコールの姿が小さくなるとトリシュナが私の所に来た。私がメモをポケットに入れるのを彼女に見られたことは分かっていた。

「彼女から電話番号を教えられたの?」
とトリシュナが空ろな目で聞いた。彼女がニコールのことをどう思っているのかは察しがついていた。

「ええ、そうよ。トリシュナは彼女が嫌いなのね」

「好きでも嫌いでもないわ」
とトリシュナは肩をすくめた。私に言質を取られまいとするような言い方が気になった。彼女が遠く感じられて、嫌になった。トリシュナが時々壁を作るのは嫌いだった。

 しばらくの沈黙を彼女が破ったのでほっとした。

「彼女に電話するつもり?」
と彼女は尋ねた。

「冗談でしょう?! 電話なんかするはずが無いわよ」
 私は自分の耳にも嘘だと聞こえるように笑いながら答えた。

第四章 女性ライダー

 リクシャに乗って帰宅する間、ずっとニコールのことを考えていた。彼女はあらゆる点で私と正反対だった。私の身体はふわっとして丸く、ニコールは見るからに体脂肪率が低い引き締まった体をしている。その点、トリシュナと似ているが、トリシュナよりは身長がやや低い。トリシュナも私同様伝統的な女性らしい衣装を身に着け、ニコールは伝統など屁の河童という姿勢だ。トリシュナも私もヒンズー教だが、おそらくニコールはキリスト教徒の母親と仏教徒の父親の間に生まれた可能性が高い。私は籠の鳥で、ニコールは大空を自由に飛翔している。クラッシュデニムのジーンズパンツと露出度の高いTシャツを着て刺青を覘かせる彼女はカッコいい。ちょい悪の雰囲気で微笑まれると胸がキュンとした。外観だけではなく、ニコールには強さと自由があり、それが籠の鳥の私を魅了した。

 トリシュナの家の前を通った時、心の中で「さようなら」と彼女に別れを告げた。帰宅したのは午後七時で、家に着くとすぐにニコールに電話した。エネルギッシュな声で「ハーイ」と言われて、心がとろけそうになった。

「やっぱり電話をくれた。我慢できなかったんでしょう」
とニコールは笑いながら私をからかった。

「ええ、我慢できませんでした」
と正直に答えた。

 数秒間の沈黙があった。おそらくニコールの心も揺れている。私らしくない大胆さで、
「今、どこなんですか?」
と質問した。

「リーガルロッジよ。待ってるわ」
とニコールは静かに答えた。

 よかった! リーガルロッジは家から二キロ以内で、トリシュナの家の近くにある。トリシュナに会いに行くと言えば父も許してくれるだろう。

 父に外出許可を求めると、
「トリシュナと遊びに行って、帰ったばかりだろう。それに、もう午後七時だぞ!」

「月曜日に提出しなきゃならない課題があるのに、トリシュナの家にノートを忘れて来たの。お願いだから行かせて!」

「じゃあ、トリシュナに頼んで持って来てもらえばいいじゃないか」
 父が私を疑っているのは間違いない。

「でも、トリシュナは土曜市場で足首をねんざして、リクシャに乗るまで片足でケンケンしていたのよ。だから今日は私が行くしかないの」

 父は迷っているようだった。大学の課題を提出するのは大事だが、若い娘を夜に外出させたくない。それに私の言っていることが本当かどうか確信が無い。そうだ、トリシュナの言うことなら信じるかもしれない。父はヒジュラは嫌いだが、トリシュナのことは好きでなくても信用している。私は部屋の隅へと歩きながらトリシュナの番号をダイヤルした。トリシュナが電話を取ると小声で言った。

「父に電話を替わるから、何を聞かれても『はい』と答えてね」

「分かった」
とトリシュナが静かに言った。彼女は敏感だから私の状況を察している。父の質問に適切に答えてくれるに違いない。

パパ、トリシュナにつながっているから、聞きたいことがあったら自分で聞いて」
と言ってスピーカーフォンに切り替えた。

「トリシュナ、こんばんわ。うちの娘が重要な課題を提出しなきゃならないのに君の家にノートを忘れて来たから取りに行きたいと言ってるんだが」

「はい、そうなんです。カジョルがノートを忘れて帰ったのに気付いて、電話をしようかなと思っていたところでした」

「土曜市場で捻挫をしたそうだが、足首は大丈夫?」

「まだかなり痛いです。一晩寝れば治るとは思うんですけど……」
とトリシュナが機転を利かせて答えた。私は安堵の息をついた。私とトリシュナはテレパシーでつながっていると感じることがよくある。トリシュナは私が考えていることがすぐに分かる。私も彼女が送るシグナルの受信能力がもっと高ければいいのだが……。

 父は電話を切ると「OK」と私に言った。

「但し、七時半には戻るんだぞ」

 よかった。父は私たちの話を聞いて本当だと思ってくれた。

「ありがとう、パパ!」
と言って家から飛び出し、自転車に跨った。

 サンティニケタンの起伏のある小路を走った。私の茶色の髪が風がなびいて自由を感じた。大事な三十分間が私のものになった。

 ニコールがどんな気持ちでいるのかを想像した。自分の人生をどう生きるかの選択は彼女の手中にある。大学で何を勉強しろとか、どんな職業に着けとか、誰と結婚しろと強制する人は居ない。彼女は小川や、そよ風や、野生の動物のように自由だ。それが私を彼女に惹きつけている。

 リーガルロッジの簡素な二階建ての建物に到着した。警備員のいるゲートを通ると、ニコールのロイヤルエンフィールドが目に入った。持ち主に似た優美な流線形の車体が黒く光っているのを見て、膝ががくがくした。

 深呼吸をして自分を立て直してからフロントデスクの前に行った。白い制服の男性が立ち上がって私を迎えた。

「カジョルと申しますが、ニコールさんとお約束があります」

「はい、ニコールさんがお待ちです。そちらの階段を上って右角にある十四号室です」

 無駄な装飾が無い清潔な階段を上の階まで登った。膝が震えた。十四号室のドアをノックするとすぐにドアが開いた。ニコールはずっとドアの前に立って私が来るのを待ってくれていたのではないかと思った。

 彼女の短い黒髪がドアの風で微かに揺れた。土曜市場から帰って櫛も通していないようだ。まるで男の人みたい……。褐色の瞳が輝きを増して、上唇が汗で湿っている。

 きっとニコールも私と同じ妄想にとりつかれている。私を見ると彼女は力強い腕を私の腰に回して部屋の中へと導き、バタンとドアを閉めた。彼女は何かに急き立てられているかのように自分の唇を私の震える唇に押し当てた。

 キスするのは初めてだった。私は幼少時に亡くなった母から受けたはずのキスの記憶すら無い。ボーイフレンドが居たことが無いからキスするシチュエーションにはならなかった。十四歳に雨の降る日にトリシュナと抱き合ったのが、最もキスに近い体験だった。

 そして今このゴージャスな人が私にキスをしている。私はどんな反応を示せばいいのだろうか……。ニコールの唇は、女性の優しさと冒険者のエネルギーを併せ持っている。舌で私の口の中に押し入り、洞窟を探検するかのように探っている。彼女の強い手が私の丸くてふわふわした身体に沿って上下に動く。私の舌がニコールの舌に触れた時、腰の中心部に炎が燃え上がるのを感じた。

 私は彼女に食らいつくようにキスをした。自分の中にこれほどの凶暴さが存在していたとは知らなかった。彼女の無駄のない背中、硬い胸と引き締まった腰を手でまさぐった。

 大胆になった私のオレンジ色のサルワール・カミーズをニコールが脱がせた。私はブラとパンティーだけの姿でベッドに仰向けになって、愛しい人が服を脱ぐのを見ていた。

 ニコールは黒いスポーツブラとサイクリングショーツの姿で私に肢体を重ねた。彼女の引き締まった身体が、経験したことが無いほど強い欲望を私の中に呼び起こした。彼女の引き締まった腰が私の柔らかな身体に食い込む。

 その瞬間、ニコールは私の下着を剥がし取った。彼女が私の足を無理やり拡げて襲い掛かる。彼女が唇で私の繊細な領域に触れると全身が震えた。ニコールの舌が慣れた感じで私の中に入って来て、身体全体がメロメロになった。ニコールの舌が蛇のように素早く鋭い動きで私の身体を這う。舌の動きの一つ一つが私の身体を麻痺させた。気が付くと私は彼女のショートヘアを手で掴んでのけ反りながら喘いでいた。自分の口が歓喜でオーの字になっているのをうっすらと意識した。しばらくすると私は歓喜で身体を痙攣させて大声で叫んでいた。

 

 交わりを終えたニコールと私はお互いの腕の中で余韻に浸った。二人とも生まれた時と同じ姿になっていた。

 興奮が和らぐと、私はニコールへの愛と、自分がしたことに対する罪悪感を同時に感じた。

 自分がレズビアンだとは知らなかった。大人になる過程で何人もの女性アスリートや女優に夢中になったが、その気持ちは自分がなりたい女性に対する憧れだと思っていた。

 初めて魅かれたトリシュナは、同級生の女子だったが、生物学的には男性だった。ということは自分はストレートなのだと思っていた。今考えてみると私が魅かれたのは、男の子のような身体的特徴を匂わせる同級生の女子だった。あの雨の日の出来事は女どうしの間で起きたということを私ははっきりと分かっていたのに……。

 トリシュナが手術をして生物学的な性別の痕跡を失った時、私はうろたえた。あれは私の自己防御メカニズムだったのかもしれない。私はトリシュナの男性の痕跡が好きだったのではなく、トリシュナという人を心から愛していた。

 でも、ニコールは少し違う。何かが違った。

 このニ十分ほどの間に起きたことを考えた。私は女性に身を委ね、絶頂へと導かれた。自然の法則に反する肉体の交わりが起きた。同じ性に属するニコールと最後の障壁を超えてしまったのだ。

 自分自身に対する嫌悪感を感じたが、それ以上に、トリシュナを裏切ったことに対する罪悪感が大きかった。いや、私はトリシュナに身を捧げる約束をしたわけではないから、裏切ったとは言えない。でも十代前半からトリシュナと私は何でも一緒にしてきた。彼女自身の控えめなやり方ではあったが、何でも私と一緒だった。勉強も、外出も、そしてソムとの婚約パーティーも。でも、今、ニコールと愛し合う場にトリシュナは居ない。

 瀬戸物のように白いニコールの顔を見ながら、「私はニコールを愛してる」と心の中で宣言した。きっとニコールは私の魂の伴侶になる人だ。一方、トリシュナは伴侶ではなく、私の魂の一部分だ。彼女は私とニコールの関係にどうフィットするのだろうか。それは難しい質問だ。私はトリシュナを排除することになるのだろうか……。

「何を考えているの?」
 ニコールが私の髪を優しくなでた。

「婚約の事……」
と私は左手の指輪を見せて嘘を言った。

「うぁー、いつ婚約したの?」

「今朝」

「その男を愛しているの?」
 ニコールは眉をひそめて、私の顔をじっと見た。

「いいえ。父が勝手に決めてそうなっちゃったのよ」
とタメ口で答えるとニコールの表情が目に見えて和らいだ。その後、再び緊張した表情になって質問した。

「聞いてもいいかな、カジョル」

「なぁに?」

「あなたの友達のトリシュナは、そのぅ……トランスなの?」

「そうよ。どうして聞くの?」
 私はトリシュナを守りたい気持ちになって、毅然とした態度で聞いた。

「どうなのかなと思っただけ。それ以上の意味は無いわ」

「それならいいけど」

「トリシュナを愛しているの?」

「ええ、愛してる。彼女は私の大切な人。でも、恋はしていない。私が恋しているのはあなたよ」

「でも、トリシュナの方ではどうなのかな? あなたに恋愛感情を持ってるんじゃない?」

 私はしばらく考えてから、
「そうじゃないと思う」
と答えた。

 トリシュナは私がニコールに会いに行くことを知りながら父に嘘をついてくれた。私の恋を助けてくれたのだ。でも、トリシュナの本心を読むのは難しい。彼女は私に近すぎるほど近いから却って分からない。


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