仮面小説家(TS小説の表紙画像)

仮面小説家

【内容紹介】男性が女性の名前で小説を出版した結果女性化を余儀なくされるTS小説。サラリーマン作家の丹下はコンベンションに参加し、秋葉出版から「失われたアイデンティティー」の出版とTVドラマ化の提案を入手する。話はトントン拍子に進んだが落とし穴が待っていた。

第一章 同窓会

 中学の同窓会の案内状が届いた。高校の同窓会はほぼ毎年開催されているが、中学の同窓会は卒業以来二度目だ。一度目は今から約十年前、社会人になって三年目の二月に開催されたが、折り悪く海外出張の予定が入ったので参加できなかった。深川第九中学の同級生約百五十名のうちで僕と同じ高校に進んだのは六名、別の高校を経て同じ大学に行ったのは三名だけだったから、殆どの人と十七年ぶりの再会ということになる。

 同窓会は七月末の土曜日の午後六時に開始された。場所は錦糸町駅から徒歩数分のエスニック創作料理店だった。

 パーティールームの入り口の受付に座っていた女性の一人は高校で同級生だった須藤梨花、旧姓は原田で、去年の同窓会にも来ていた。もう一人の女性は見たことがあるような、無いような感じの人だった。

丹下たんげ武蔵むさし君でしょ? 私を覚えていないのね」

「いや、顔は覚えてるんだけど名前が出てこなくて」

「輪島美和子よ、結婚して杉田に変わったけど」

「輪島さんか、思い出したよ!」
 とは言ったものの、どんな子だったか思い出せなかった。丸いぽっちゃり顔をしていて、僕の会社の同期の女性より五歳は年上に見える。

「席はくじ引きよ。この箱の中からくじを一枚だけ取って」

 紙でできた箱に手を突っ込んでくじを引くと「F」と書かれていた。座席配置表には四人テーブルが十基配置されており、Fは左奥の隅のテーブルだった。会費四千五百円を払い、美和子から渡された名札を首にかけてFのテーブルに行った。

 他のテーブルは既に半分以上埋まっていたがFのテーブルはまだ僕だけだった。男子だけのテーブルも目に入り、くじ運が悪い奴らだなと思った。くじ引きの際に男女を区別しないから起きる現象だ。Fテーブルが男子だけのテーブルにならないようにと祈った。

 僕の祈りは神さまに届いたようで、間もなくグレーのスカートスーツを着た長身の女性が僕の正面の席に座った。こんな美人、うちの中学に居ただろうか? どうでもいい。例え飛び入り参加でも大歓迎だ。

「丹下君、久しぶり! 今日はくじ運がいい日だわ」
 彼女の方は僕を覚えているようだ。

「えーと……」

「まあ、ひどい! 中二の文化祭で一緒に『お気に召すまま』の劇をやったのを忘れたの?」

「えーっ! 仙道満智子さんなの?! でも、仙道さんは小柄で可愛い子だったはずなのに……」

「ムカつく。デカくてブサイクなオバサンになったと言いたいのね」

「とんでもない! あの頃は僕より小さかったのに、見上げるように背が高い美人になったから仙道さんだと分からなかったんだよ」

「その表現なら受け入れられるわ。丹下君も背は伸びたはずだけど、立ってみて」

「僕は高校に入ってから殆ど伸びなかったから……」

「いいから立ちなさい! 今日はバイキング形式だから料理を取りに行く時にどうせバレるのよ」
 満智子が僕の席の横まで来たので僕も渋々立ち上がった。

「背が高いのにどうしてそんなハイヒールを履くんだよ」
 十数センチは高い満智子の目を見上げて抗議した。

「パーティーにはいつも高めのハイヒールで行くことにしてるのよ。丹下君はあの頃より小さく可愛くなっちゃったのね」

 満智子は笑いながら自分の席に戻り、僕も腰を下ろした。

「私は高一で百六十センチしかなかったんだけど、高三で百六十九になって、大学に入ってからも伸び続けたの。結局百七十二でストップしたけど」

「うらやましい。そんな人もいるんだね。新垣結衣みたい」

 満智子と話をしているうちに参加予定者三十八名全員が到着したようだった。受付をしていた輪島美和子と須藤梨花がFテーブルに来て席に着いた。

「私と美和子は小、中、高校と同じだったのよ」
と梨花が言うと、
「幼稚園も同じだったわよ」
と美和子が補足した。

 きっと二人は同じテーブルに座るためにズルをして、最初からFを取っておいたのだろうと思った。まあ、そのおかげで男女比が一対三というハーレム状況が手に入ったのだから僕としては文句はない。

「丹下君はK大学に行ったのよね。今は何をしてるの?」
と美和子に聞かれた。

「商社マン。最大手クラスじゃないけど、海外出張もあって結構楽しんでる」

「結婚は?」

「中二の娘が一人いるよ」

「奥さんも居るの?」

「幸か不幸か、ちゃんと仲良くしてるよ」

「輪島さんは何をしてるの?」
と満智子が美和子に質問した。

「専業主婦よ。下の子供が小学校に入って手がかからなくなったからパートを始めようかなと思っている所なの」
と美和子が答えた。

「私も美和子と同じ。上が女で下が男だけど、両方とも美和子の子供さんと同学年なのよ」
と梨花が言った。二人はとことん波長が合うようだ。

「仙道さんはIT企業のOLさんだったわよね?」
と美和子が満智子に話を振った。

「IT企業でウェブデザイナーをしていたけど、二年前に独立してウェブデザインの会社をやってる」

「すごい、社長さんなんだ」

「社長と言っても、社員は私一人よ。フリーランサーは何人か使っているけど」

「カッコイイ!!」
 美和子、梨花と僕の三人が同時に叫んだ。

 ウェブデザインの会社とは具体的に何をしているのか、満智子に話を聞きたかったが、美和子と梨花はどうもウェブデザインという言葉の意味を十分理解していないようで会話が成立しなかった。二人は子育ての話をし始めたが、座席の配置の関係で満智子と僕も二人の話を聞かないわけにはいかなかった。満智子が僕の向かい側でなく隣に座っていたら二人で話ができたのにと思った。

 美和子が中身の薄そうな話をし始めたが、トークが上手なので僕はつい引き込まれた。

「私、つい最近までトラウマになっていたことがあるの。幼稚園の年長組の時なんだけど、伯母が『美和子ちゃんは新町橋の下で泣いていたのを拾われてきた』と言ったのよ。母がそれを聞いて『義姉さん、そんな冗談はやめてください』と伯母に言ったんだけど、その時の母の表情が真剣だったから、私はもしかしたら本当に拾われた子なんじゃないかと不安に思ったの。後で三歳上の姉に『私が拾われてきた日の事を覚えてる?』とカマをかけて聞いたら、姉が『よく覚えてるわ。橋の下で泣いていたのを拾ってきた日のことは。妹が欲しいと思っていたからうれしかった』と答えたの。去年まで本当だと思い込んでいた」

「お父さんやお母さんに聞けば冗談だと分かったのに」
と梨花。

「きっと私が拾われてきたことを隠すはずだから聞いても無駄だと思ったのよ」

「アルバムに出産の頃の写真は残っていなかったの?」

「姉の場合は母が妊娠してから出産するまで何十枚もの写真が貼ってあったんだけど、私は産まれた後の写真しか無かったのよ」

「二人目以降はそうなるのよね。でも、拾われたことが冗談だったことはどうやって確認できたの?」
と満智子まで話に入って来た。

「大学に入ってから、母が古い貯金通帳を整理している時に母子手帳が出てきて、私に見せてくれたのよ。動かぬ証拠だった」

「お姉さんも罪な冗談を言ったものね」
と満智子。

「姉には母子手帳を見せて抗議したわ。でも姉はその冗談を言ったことさえ覚えていなかった。それどころか『橋の下で拾ってきたという冗談は私も言われたことがあるわよ。本気にするのがバカげてる』と開き直られたわ」

「子供は何でも本気にするから、自分の子供には下手な冗談を言わないように気をつけなくちゃ」
と梨花が言って、それが美和子の話の結論になった。

 僕も小さい時に「橋の下で拾ってきた」と言われたことがあるが、本気にはしなかった。もしかしたら本当ではないかと多少不安に感じたかもしれないが、幼少期には不安の種はあちこちに存在するものであり、取り立てて心配はしなかった。田舎の伯母の家に泊りに行った際の、夜のトイレとか、墓地を通る時に背筋に感じる霊気など、怖い事や不安なことは幾らでもあった。

 僕の場合も姉の心無いひと言が長年トラウマとして残った。それが冗談だと確信できてトラウマから解放されたのは、大学に入ってからだった。

 幼稚園の頃、二歳上の姉と二人で遊んでいる時に、
「これから言うことは絶対に誰にも言っちゃだめよ」
と前置きしてから姉が言った。

「私が生まれる時にお母さんのお腹の中におチンチンを置いてきたのよ。武蔵は女の子として生まれる予定だったのに私が置いてきたおチンチンを着けて生まれた。だから本当は私が男の子で武蔵は女の子だったのに、逆になっちゃったのよ」

 それは活発な姉ときゃしゃな弟についてよく使われる冗談であり、橋の下で拾ったのと同じぐらい陳腐な話なのだが、僕は姉を信頼していたこともあり、その時の雰囲気で姉のひと言を信じてしまった。それ以来、自分は本当は女の子になるはずだったのが、姉のお陰で男の子として生まれたという誰にも言えない秘密を隠し持つことになったのだった。

 美和子の話に続いて僕のエピソードを披露しようかとも思ったが、子供の時に自分が女の子かもしれないと思っていたなどという話が下手に伝わると、オカマかゲイと疑われると思ったので黙っていた。

 バイキング形式なので料理を取りに行って席に戻った。美和子と梨花は先に席を立ったのにまだ帰ってきていなかった。

「あの二人は入り口に近いテーブルに移動したみたい。四人テーブルが十ある会場に三十八人だから空席が二つできるのね」

「よかった。やっと仙道さんと話ができる」
 僕がそう言うと満智子が微笑んだ。

「ウェブデザインの会社って具体的に何をしているの? 僕も趣味で電子出版をやっているから興味があるんだ」

「へえ、奇遇ね。丹下君だから言うけど、あれはハッタリなのよ。ウェブデザインの会社を経営してると言えば聞こえがいいじゃない。全くの嘘じゃなくて二社と契約をしていて、そこそこの収入はあるんだけど、本業はコミックの制作と出版なのよ」

「コミックの制作って、フリーランサーを使ってマンガを描かせるってこと?」

「ウェブデザインの仕事の契約をこなすためにイラストをフリーランサーにやってもらっているんだけど、コミックの制作は自分でやってる。要するに、私の本業は漫画家なの」

「カッコイイ! 是非読んでみたいな。アマゾンで仙道満智子と検索すれば出てくるかな?」

「仙道満智子では出ないわ。ペンネームを使っているから」

「ペンネームを教えて!」

「教えない。恥ずかしいから」

「どうして?! あ、分かった。アダルト専門なんだ」

「違うわよ。ロマンスを描くとプラトニックだけじゃ済まないから当然そういう部分は入ってくるけど……。作品には私の内面が表われる部分があるから、人に覗かれたくないの」

「まあ、それは分かるよ。僕も趣味で出版をやっていると言ったけど、小説を書いてアマゾンで電子出版してるんだ。僕もペンネームは秘密にしていて、妻にも教えていない。自分が何を考えているかを知られたくないからね」

「どんな小説を書いてるの?」

「普通の小説だよ。純文学からラノベまで。自分もどんな漫画を描いているか教えないくせに、僕に聞くのはダメだよ」

「じゃあ、私のペンネームを教えたら、丹下君もペンネームを教えてくれる?」

「いや、やっぱりダメ」

 僕は漫画家に会ったら質問したいと思っていたことがあった。

「ラノベがコミック化されて、更にテレビや映画でドラマ化されることがあるよね。僕も自分の小説の売上を増やすために、僕の小説のコミック化に興味がある人を募集したいんだけど、そんなことは可能かな?」

「不可能ではないけど、コミック作家はストーリーも自分で創作するのが基本だから、小説を渡されて『これをコミックにしてください』と言われても乗ってくる人は少ないんじゃないかしら。コミック化を業務として受託する企業や個人は幾らでもあるけど、何百万円もの仕事になるわよ。コミックの著作権を留保する形での委受託なら数十万円から可能だけど」

「そんな大それたことは考えていないよ。あくまでコラボしてくれそうな相手を見つけたいんだ」

「じゃあ、コラコミに行ってみれば?」

「何それ?」

「コミックコラボタウンの略で、来月幕張メッセで開催される、コミック関係のコンベンションよ。コラボを希望する個人、同人や企業が沢山出展しているから、そこを一軒一軒回ってコラボしたい内容を書いたパンフレットと名刺をバラまけば、誰か引っかかる可能性があると思う」

「コミックコラボタウンならコミコラじゃないの?」

「コミコラはベトナムの若手漫画家の作品を紹介するウェブサイトの名前だから、コラコミにしたんだって。ちょっと待って、見せてあげる」

 満智子は自分のスマホでコラコミのページを表示した。

「ほら、八月の初めの日程を書いてあるでしょ。入場料は無料だと思うけど」

 僕が満智子のスマホを手に取って見ていた時、Gメールの着信通知がポップアップした。発信元とメールの冒頭の一、二行がスマホ画面の上部に数秒間表示される設定になっているようだ。

「有栖川リスさん、こんにちは」
で始まるメールの着信通知だった。

 それを見て「有栖川リス」が満智子のペンネームに違いないと直感した。

 気まずかったが、ポップアップを見なかったことにして満智子にスマホを返した。

「助かったよ。どうもありがとう。是非コラコミに行って提案書と名刺を配りまくることにするね」

「うまく行くかどうか分からないけど、成功を祈ってるわ」

 僕が有栖川リスのポップアップを見たことを気づいていないようだったのでほっとした。

「丹下君は小説のネタをどこから拾って来るの?」

「それは色々さ。ニュースにヒントを得て思いつくこともあるし、出張や、家族との海外旅行の経験をベースにしてストーリーを作ることもある。通勤の電車の中で突然面白いストーリーが頭に浮かんだり、夢の中で思いついたことを書き留めることもあるけど、それはうまく行かない」

「私も夢に浮かんだストーリーをメモすることはよくある。でも、そのメモ帳は夢の中の世界に置いたままなのよね」

「僕なんか、夢の中でパソコンを開いてグーグル・キープにメモをタイプしたんだよ。パソコンを夢の世界に置いて来てもグーグル・アカウントは目が覚めてからでも見られる。そう夢の中で考えたんだ」

「でも、夢の世界のクラウドに現実世界からはアクセスできないのよね」

 夢の世界でグーグル・キープを使ってメモしようとした話を会社の同期に話したことがあるが、鼻で笑われただけだった。満智子がとても近く感じられた。

「奥さんとお嬢さんを海外旅行に連れて行ったの? すごいじゃない」

「すごくないよ。去年の夏、白馬に四泊五日で遊びに行く計画だったんだけど、ちょうど台風が来ることが確実になったからキャンセルしたんだ。そうしたら娘が怒ってどこでもいいから連れていけと言い出したから直前割引ツアーのサイトを検索したら、バンコク四泊五日で二万九千八百円というのが出て来たんだ。サーチャージと空港税を含めても三人分で十万円だよ。信じられる?」

「激安ね。私はその倍も払ってバンコクに行ったことがある。バンコクって楽しいわよね。丹下君はバンコクのどこが気に入ったの?」

 僕はバンコクでの体験談をした。満智子がバンコクで泊まったのは僕たちのホテルの近くだったことが分かって話が弾んだ。

「バンコクはもう一度行って見たいわ。次に行くときは体験談をネタにしてコミックを描こうかな」

「バンコク旅行の経験をまだコミックに使ってないの? バンコクはエキゾチックだから何でもネタになるよ」

 その時満智子の表情を見て、もしかしたら満智子は僕がどんな小説を書いているのかを聞き出そうとしているのではないかと心配になったので、話題を中二のクラスで演劇をやった時の思い出へと切り替えた。あの時、シェイクスピアの「お気に召すまま」を文化祭で演じることが学級会で決まり、満智子と僕が脚本を作ったのだった。前半を僕が、後半のアーデンの森の部分を満智子が分担し、夏休みに何度か満智子の家に行って一緒に作業したのが懐かしい思い出だ。

 後から考えると、夏休みから文化祭までの約三ヶ月間、まるで彼氏と彼女のように親密なやりとりをしながら一つのことをやり遂げたわけだ。でも、僕が彼女に恋愛めいた感情を抱いた記憶は一切ない。当時の彼女は美人で賢くて性格も良かったから普通なら好きになるはずなのに、非常に不思議なことだと思った。

 あの満智子が目の前に座っている女性と同一人物というのは今でも半信半疑だ。小柄で可愛い少女が、見上げるように背が高い颯爽とした起業家に変身するのだから十七年の歳月というものは恐ろしい。

 あっという間に二時間半が過ぎて同窓会が終わった。

「また会いたいわね」

「きっと会おうね」

 僕たちはLINEの友達登録をした。

「丹下君はどこまで帰るの?」

「東船橋のマンションに住んでるから、錦糸町から総武線に乗る」

「私は日暮里。錦糸町駅まで一緒に行こうか」

 そう言われて、数分かかる道を一緒に歩いた。

「中二の夏休みに二人で学校で打ち合わせをした後、遅くなったから私の家に行って作業を続けたのを覚えてる?」

「うん、覚えてる」

「あの時、学校から並んで歩いて帰ったのよね」

「そうだったっけ、よく覚えていないけど」

「丹下君は道路の高い所を歩いて、私より背が高く見せようと必死だった。男の子って見栄っ張りだなあと思って可笑しかったのを今でも覚えてる」

「つまらないことを覚えてるんだな」

「下を見ないで、私の方を向いて話をして」

「進行方向を見て話してるんだけど」

「いいから、私の目を見て」

 満智子が道路の高い所を歩いていたので、満智子の目を見るには殆ど真上を見上げなければならなかった。

「可愛い。さっき向かい合って座っていた時にも可愛いと思ったけど、上目遣いに見上げた顔がとても可愛いわ」

「もう、からかわないでよ」

「つむじも可愛いわ。女の子みたい」

「そんなことを言うんだったらもう会わないから」

「ごめん、もう言わない。丹下君の奥さんってどんな人?」

「普通の人だよ。大学の同期で、卒業してすぐに結婚した」

「背の高さはどのくらい?」

「百六十センチ」

「丹下君の奥さんとしては背が高いわね」

「僕は百六十三だからちょうどいいバランスだと思うけど。仙道さんのご主人はどんな人?」

「私は結婚していないわよ。一生結婚しないんじゃないかな」

「え、どうして?」

「言わない。どうして聞きたいの? 奥さんと離婚して私に抱かれたい?」

「もう、仙道さんったら飲みすぎだよ」

 錦糸町駅に着いて、逃げるように別れた。心臓がバクバクしていたが、アルコールのせいなのかどうかは不明だった。

第二章 BL作家とは

 電車に乗ってスマホを開き、アマゾンで「有栖川リス」を検索すると約ニ十のコミック作品がヒットした。半分は有栖川リス単独で、残りの半分は数人の作者名が並んでいた。それらの作品の表紙画像には明らかな共通点があった。表紙にイケメン男性二人の姿が含まれている。より正確に言えば一方は長身で、もう一方は身体は男性だが男性とも女性ともとれる顔だった。一冊ずつクリックすると、全作品にボーイズラブコミックのカテゴリーのランキングが記されていた。

 満智子はBLコミックの作家だったのか! だからペンネームを明かさなかったのだ。しかし、BLコミックの作者とはどんな性癖を持った人たちなのだろうか? 僕はBLコミックについて「男同士が愛し合うストーリーのマンガを女が読む」と言う程度の知識しかなかった。満智子はゲイの男が好きなんだろうか……。

 小説でもコミックでも同じだと思うが、作者は主人公に感情転移して作品を作るものだ。満智子がBLに感情転移するとしたら、当然イケメン男性の方であり、美少年に挿入する側の気持ちで描いているに違いない。

 昔、姉の部屋にベルサイユのばらのマンガが並んでいて僕も読んだことがあるが、女性がベルばらの男装の麗人に憧れる気持ちは宝塚の男役に憧れるのと同じだから分かる気がする。だから満智子がオスカルに感情移転するのは理解できるが、ゲイの男性になりたいという気持ちは僕の理解を超えている。もし満智子が性同一性障害であり男になりたいという願望があるなら、コミックの中での相手役は美少年ではなく美しい女性である方が自然だ。

 満智子が一体どんな性的志向なのか参考のため知りたいと思ったが、先ほど僕の中に芽生えかけていた満智子に対する恋愛めいた感情はすっかり萎えてしまった。僕が好きなのは普通の女性だ。その女性が僕のような男性を好きになるかどうかは別問題として……。

 

 翌日の日曜日、コラコミの出展者リストをネットでチェックして、配布すべきパンフレットの内容を考えた。コラコミは来週の土、日に幕張メッセで開催される予定だった。


「こんにちは、高見沢リサです。
 私はTS小説の作家で、下記の通りのTS小説をアマゾンで電子出版してご好評をいただいています。

 私の作品の中にはコミック化することによって更に面白くなりそうな小説がいくつかあり、コラボしていただけるコミック作家様を募集しています。コラボの形態は、私の小説を原作としてコミック化するのでも結構ですし、二次創作の原作に使っていただくのでも結構です。逆に、コミック作家様が既に出版されたTSコミックを私が小説化することにも興味があります。

 ご提案及びお問い合わせは下記のアドレスあてにメールを頂ければ出来るだけ早くお返事いたします。よろしくお願いいたします。

 高見沢リサ」


 パブリック・ドメインのイラストを配置して、アドビ・イラストレーターでパンフレットを作成した。妻が買い物に出かけた時に二百枚を印刷し、会社の封筒に入れて封をした。パソコンデスクの下に置いてある鍵付きのアタッシュケースにその封筒を入れて、妻に見られない場所に保管した。

 高見沢リサの名刺もそのアタッシュケースの中に三百枚ほど入っている。一昨年に作ったものだが、これまで展示会で数枚配っただけだ。「作家 高見沢リサ」と書いて、ホームページのURLを示すQRコードと、メールアドレスだけを書いたイラスト主体の名刺だ。

 月曜日から金曜日まで、僕は真面目で勤勉な会社人間になる。商社マンは文章によるコミュニケーション能力が求められる職業だ。メール、レター、報告書、稟議書。大きな案件を遂行するために大勢の人を動かすためには十分な量の情報の発信が必要だ。いわゆる「二次店」の役割を担う中小商社マンやセールスマンの場合は注文を取ってくるための対面折衝能力がより重要なので商社マンの仕事とは性格が異なる。僕は大量の文章を短時間で書く能力があり、読む人の共感を得るためのテクニックを培っているつもりなので、商社マンに向いていると思う。

 自分で言うのもなんだが、僕は同期の中では標準より二年早く主任になり、エリートと目されている。

 月曜日から金曜日までは高見沢リサとしての意識は頭の中から消している。但し、出張中は別だ。新幹線の中で一時間以上の時間があればパソコンを開き頭を作家モードに切り替えて小説を書く。まとまった時間を創作活動に使えるのは宿泊を伴う出張をする時だ。一般の会社員ならホテルでビールを飲みながらテレビでも見るところを、僕は小説を書くのに没頭する。

 書き入れ時は海外出張の時だ。海外出張は一日のうちの実労働時間が短いので、仕事が終わるとさっとレポートを書いて送信し、その後は長時間小説を書くことに没頭できる。

 その週には出張の予定が無く、百パーセント商社マン・モードで過ごして週末を迎えた。

 妻の百合子には正直にコラコミに行くことを説明し、日曜日は妻のショッピングに付き合うことを約束して家を出た。百合子は僕が作家活動をしていることを承知している。当初は自分も読みたいと言ってペンネームを聞かれたが「大きな賞を取った時にペンネームを教える」と答え続けている。「どうせエッチな本でも書いてるんでしょう」と言われるが「純文学だ」という説明で通している。夫にある程度の自由度を与えることで夫婦関係をうまくコントロールしようと考えているようだ。ある意味でいい妻だと思うが、僕が普段と違うことをしたら必ず察知する能力があるので、下手に嘘をつくと却ってまずいことになる。

 コラコミで配る予定のパンフレットと名刺をショルダーバッグに入れて家を出た。幕張メッセで入場者登録をした。来場者氏名欄には高見沢リサではなく丹下武蔵と書いた。QRコード付きの名札を首にぶら下げて会場を回るのだから、この顔で高見沢リサの名札をぶら下げていると、万一知っている人に会って「丹下さんのペンネームは高見沢リサだったんですか」と知られると非常にまずい。会社の人が僕のTS小説を読んだら「丹下は真面目な顔をしているが実は変態だ」とか「あいつの中身は女だ」と思われるかもしれない。そうなったら人間関係が損なわれるし、出世競争どころの騒ぎではなくなる。

 会場には同人や企業のブースが所狭しと並び、個人作家のブースもあった。作品中のキャラクターの等身大パネルも数多く見られて、とても賑やかだ。小説家だと作品名と二、三行のテキストを書いたパネルの展示になるだろうから殺風景であり、コミック作家が羨ましい。

 僕は、出展者が留守にしているブースや、他の来場者との対応にかかりきりな人気ブースを狙って、コラボの名刺受け箱に高見沢リサの名刺を入れたり、パンフレットをブースのテーブルに置いた。

 運悪く目が合ってしまって

「あなたがこの作家さんですか?」

と聞かれた時には

「いえ、私は友人から頼まれてパンフレットを配っています」

と言って逃げた。もしTS小説ではなく一般文学小説の作家だったら、その場で話をしてコラボを打診できたところなのに残念だ。

 このパンフレットに興味を持ってくれた人はメールでコンタクトしてくるはずだから、メールで話を進めればいい。最終段階では自分が高見沢リサとして顔出しをして話をつけなければならない可能性もあるが、何とかメールだけで済ませたいところだ。

 午後三時までにパンフレットを配り終えて幕張メッセを出た。

 

 月曜日の午後、仙道満智子からのLINEがスマホにポップアップした。

「明日の夕方、会えますか?」

 ちょうど会議に行こうとして席を立ったところだった。明日は空いているが、誘いに応じるべきかどうか迷った。久々に同窓会で再開した独身の女友達からの一対一の誘いを受けたことを妻が知ったら、少なくともいい顔はしない。満智子が美人なだけに猶更だ。そして、満智子はそれを分かった上で僕に声を掛けている気がした。

 もし同窓会の夜、錦糸町駅で別れる前に誘われていたら、僕は受けていたと思う。妻との好関係は維持したいが、満智子はそれほどまで魅力的だったからだ。しかし、BL作家だと知って僕の満智子への興味は半減していた。満智子は「多分、一生結婚しない」と言い切っていた。そんな満智子が男同士のタチの登場人物に感情転移してコミックを描くとは、まともな感覚の女性でないのは確かだ。

 会議の間、ずっと気にかかっていたが、夕方返事をした。
「OKです。六時以降に会社を出られる見込みです。場所を指定してください」

 遊び以外の用事で声を掛けてきた可能性もあるし、コラコミのことを教えてもらった経緯もあって、断る理由を思いつかなかった。

 

 満智子からの指定に従って、翌日の火曜日の午後七時に秋葉原のUDXビルにあるカフェバーに行った。時間通りに店に入ると満智子は既に窓際のテーブルに座ってビールを飲んでいた。

 僕の姿を認めると満智子はわざわざ立ち上がって僕をテーブルに迎えた。黒のパンツスーツにハイヒールを履いたシルエットはドキリとするほど格好良かった。

満智子は僕を見下ろすように立って
「コラコミには行った?」
と質問した。座ってから聞けばいいのに、わざと僕に身長差を意識させようとしているのだと思った。

 僕は満智子を見上げながら
「うん、行ってきた。どうもありがとう。すぐに報告しなくてごめんね」
と言って腰掛けた。

 満智子も腰を下ろした。同じ目の高さで満智子と向かい合ってほっとした気持ちになった。

「反響はあったの?」
 優しい微笑を浮かべて満智子が質問した。

「コラボ募集のパンフレットを用意して、当日は名刺と一緒に各ブースに配っただけだから……」

「じゃあ、まだ誰とも話できてないんだ」

「うん。でも、そのうちにどこかからメールで何か言ってくるかもしれない」

「どこかから何かを言って来るのを待つんだ。まるで白馬の王子様を待つ、夢見る少女みたい」

 ハッキリ言われて腹が立ったが、その通りなので反論できなかった。僕は頬を赤くして黙っていた。

「そんな受身な人は嫌いじゃないけど」

 満智子に真面目な顔でそう言われて耳たぶまで真っ赤になった。今日は誘いを断るべきだった……。

「ペンネームを書いたパンフレットと名刺を渡すのでは面談が成立しないものね」

「え、どういう意味?」

「ペンネームは女性だから、自分がその本人だとは名乗りづらいもの。だからパンフレットを配るだけにしたのよね?」

「どうしてそんなことを……」

「高見沢リサさん、あなたの作品を五冊買って読んだけど、とても面白かったわ」

「ど、どうして僕がその作家だと思ったの?」
 僕は真っ青になってしらばっくれた。

「同窓会でバンコク旅行の話をしてくれたのを覚えてる? 白馬に行く予定だったのに台風が来たから二万九千八百円の激安直前割引ツアーを予約したという話。検索したらまさにその通りの小説が見つかったのよ。早速買って読んだら、同窓会の時に丹下君が話していた通りの場所やエピソードが満載されていた。『バンコク発の夜行列車』はとてもいい小説だったわよ。あれが丹下君のファンタジーなのね」

「ち、違うよ。あくまで売れる小説を書くためにストーリーを作ったのであって、僕が『バンコク発の夜行列車』の主人公になりたいと思っているわけじゃないよ」

「ほら、自分が作者だと認めた。丹下君の口を割らせるのは簡単ね」

「しまった……」

「可愛いわ、丹下君……じゃなくて、これからは高見沢さんと呼んだ方がいいかな? それとも、リサと呼んで欲しい?」

「頼むからペンネームは口にしないで! 誰が聞いているか分からないから」

「『バンコク発の夜行列車』の主人公が身を委ねる相手の名前はノイナだったかしら? 外見が私そっくりの女性だったからうれしかった」

「誤解だよ。あの小説を書いた時には、僕の記憶の中の仙道さんは僕より小柄な女の子だったから、ノイナは仙道さんとは無関係だ。ノイナは実在の人物をモデルに作ったキャラクターじゃないんだよ」

「実在しない女性に支配される自分を小説に書いたら、十七年ぶりに再会した同級生がその女性そっくりになっていた。とても素敵なストーリーだわ。私の次のコミックに使わせてもらおうかな」

「仙道さんが思いついたストーリーでコミックを描くのは自由だけど、それではBLコミックにならないんじゃないの?」

 頭に血が上っていたので、ついBLコミックと口に出してしまった。満智子が有栖川リスだと知っていることは隠すつもりだったのに……。

「私がBLコミックの作家だとどうして分かったの? まあ、私の言動を分析したらある程度予想はつくかもしれないけど」

「コラコミについて教えてくれた時にスマホを見せてくれたじゃない。あの時に『有栖川リスさん、こんにちわ』という着信通知が画面の上の方に表示されて、すぐに消えたんだ。後で調べたら有栖川リスがBL作家だと分かった。あの時、見ちゃったと言わなくてごめん」

「そうだったのか……。私としたことがうかつだったわ。メール着信のポップアップの設定をオフにしておくべきだった。でもまあいいか。お互いに秘密を知っていれば相手が秘密を漏らす恐れはないから。ただ、私の場合は有栖川リスとして仕事上の顔出しをしているから、仙道満智子イコール有栖川リスだと知っている人も多いけどね。実家の親はBLとは何か知らないと思うけど、私がボーイズラブの専門だと聞いたら私の結婚問題と結びつけて慌てるかもしれないわ。アハハハ」

「僕もBLとは何なのかよく理解できていないんだ。BLコミックの読者は腐女子だと聞いたけど、仙道さんは腐女子のイメージとはほど遠いから、BL作家は腐女子じゃないと考えていいの?」

「丹下君は腐女子が現実社会でモテないオタク女だと決めつけてるんじゃないの? 美青年と美少年の恋愛を耽美的に描くのがBLであって、それを好むのが腐女子だと思えばいい。だから私も腐女子よ。でも、BLにもいろんなパターンがあるし、腐女子にも色々あるから定義するのは難しい」

「仙道さんは美しい男性同士の恋愛を描く時に主人公に感情転移するんだろう? 自分が男になって男を愛することを想像するのが快感なの? 仙道さんが現実世界で美少年を前にしたらどう感じるの?」

「やっぱりそう来たか。難しい質問だけど、自分が肉体的に男性になって、男性を抱きたいという気持ちは全くないのよ。だから丹下君がTS小説を書く時の感情転移とは少し違うと思うのよね。丹下君は分からないと思うんだけど、女の子は家庭でも社会でも色んな制約を受けて育つし、行動の自由を与えられないのよ。恋愛でも選ばれる側に立つことを強いられて、男性のように自由に選べない。私にとってBLとは女性としてできない自由な恋愛、行動を男になりきることで実現するための仮想現実だと思ってる」

「じゃあ、現実世界での仙道さんの恋愛対象は男女どちらなの?」

「そこまで聞く? 私が丹下君を恋愛対象と考えているかどうかを知りたいのかしら」

「違うよ、あくまでBL作家のセクシュアリティーという一般論に関する質問だよ!」
と僕は顔を真っ赤にしながら答えた。

「セクシュアリティー的には腐女子の大半はノーマルよ。重度ではないレズやバイも居るし、ジェンダー認識の自由度が高い人が多いけど、腐女子の大半は普通の結婚をするわ。私は元々普通の女の子だったけど中学の時の初恋の男子の印象が強すぎたから高校、大学時代には目の前の男性が色あせて見えて、段々男性に興味がなくなった。就職してから飲み会の後に同じ会社の可愛い女の子が私のアパートに付いて来て、気が付いたらやっちゃってた。それからは女にしか興味が無くなった」

「レズだったとは……」

「現実世界で美少年を目の前にしても性的な衝動は全く起きない。初恋の相手だった丹下君は、今の私の恋愛対象にはなり得ない。レズの私にとって丹下君は性愛とは無関係な友達ということよ。それが私の率直な答え」

 いきなり初恋の人だったと告白されて頭に血が上った。それに気付かなかった当時の僕はバカだった。いや、これは告白ではなく、今は僕に興味が無いと告げるための補足説明なのだ……。

「腐女子の中には『男の娘』が出てくるストーリーが好きな人もいるけど、私は美少年が女装する展開は描かない。どんなにきれいに女装しても男は男。きれいな女の子の足元にも及ばないから、丹下君には悪いけど女装している男を想像すると吐き気がする。丹下君の小説では『受け』のタイプの美少年が女性化されるから、腐女子が読むと男性を現実世界の女の子のように無力にすることで、S的な満足感が得られるのよね。それに私みたいな感じの長身女性の言いなりになる展開が多いから、私はプライドがくすぐられて楽しかったわ。だから、主人公に感情転移して小説を書いている時の丹下君を想像すると、私は好き。但し、何度も言うけど性別とは無関係な『好き』だけど」

「別に、僕は主人公のようになりたいと思って小説を書いてるわけじゃなくて、売れそうな面白いストーリーを書いてるだけだから誤解しないで」

「丹下君の気持ちはよく分かっているつもりよ。丹下君以上に」

「五冊読んだだけで僕の中身を見透かしたみたいな言い方をして欲しくないな」

「それはもっと買えというセールストークなの? 分かった。更に五冊ほど買って読んであげる。丹下君のことをもっと理解したいから。でも、TS作家って解りやすいわね。男が女になって、女として旧来の従属的な立場で男または女に愛されるという願望を小説にする。その願望は手術やお薬によって現実世界でも実現可能だから、本気で感情転移できる。私たちBL作家は自分にとって実現不可能な設定で耽美なファンタジーを描くから、腐女子以外の人が理解するのは困難でしょうね」

「やっぱり僕の中身を見透かしたつもりなんだね。今日はそんなことを言いたくて僕を呼び出したの?」

「ごめん、つい虐め口調になって……私の悪いクセだわ。私は以前はTSをバカにしていたけど、高見沢リサさんの小説を読んで、とても身近に感じたのよ。BL作家は女の子の世界の制約から逃れたくて男の世界でファンタジーを描くんだけど、高見沢リサさんはまさにそんな不自由で従属的な女の子の世界の制約に身を置くことを夢見て、実現可能なファンタジーを描いている。私たちが捨てたかったものをあなたが欲しがっているということを知って、非常に興味深いと思った。高見沢リサさんには、面白い小説を書き続けて欲しいと思ったから、今日はそれを言いたくて誘ったのよ」

「僕の方こそ腹を立ててごめんなさい。これまで小説のことは誰とも相談できずに一人で書いて来たけど、話せる相手ができてとてもうれしい。僕も有栖川リスさんのコミックを何冊か買って読みたいけど、BLコミックについて相談に乗れるほどの理解レベルに到達できるかどうかは自信が無い」

「丹下君は腐女子にはなれないから本当にBLを理解できる日が来るとは期待していないわ。だって高見沢リサさんの小説の主人公のエンディングの状態は従順なノーマル女子だもの」

 ズバズバ、ズケズケと好き勝手なことを言われたが、もう反発は感じなかった。初めて作家仲間ができた喜びの方が大きかった。

第三章 チャンス到来

 翌日の水曜日、午後三時過ぎにスマホに電話の着信があった。

「秋葉出版の小泉と申します。こちら、丹下武蔵さんの電話番号ですね?」

「そうです」

「コラコミでパンフレットを拝見しました。高見沢リサさんの作品のコミック化についてお話ししたいのですが」

「その件でしたら本人宛にメールでお願いしたいんですが」

 パンフレットに書いたのは高見沢リサのメールアドレスとブログのURLだけであり、丹下武蔵にたどり着けるはずがない。どうやって電話番号と勤務先の会社名まで分かったのだろうか……」

「お時間は取らせません。今、会社の受付に向かって右側の長椅子のところに居ますので、少しだけお話させてください」

 小泉と名乗った男の口調にはノーとは言わせない何かがあった。もし会うのを断った場合、小泉が会社の広報とか人事部に高見沢リサの名前を出して僕のことを問い合わせたら非常にまずいことになる。

 エレベーターで一階に降りると、受付に近い壁際に三十代半ばの銀行員風の男が立っていた。男は僕を見て軽く会釈をした。僕の顔まで分かっているのだろうか。冷や汗が出るのを感じた。

「お忙しい所、無理を申し上げてすみません」
と言いながら男が名刺を差し出した。秋葉出版の編集者で小泉善幸と書いてあった。

 会社の名刺をこの男に渡したくはない。もぞもぞしていると小泉が言った。

「もうお名刺は頂いていますので」
と言って、小泉は僕がコラコミでばらまいた名刺を示した。

「ここでは何ですから、どこか静かなところでお話ししましょう」

 小泉は僕の同意を待たずに玄関の方へと歩き始めた。僕はやむを得ず追いかけた。小泉は会社の近くの喫茶店に入り、窓から遠い静かな席に座るとコーヒーをオーダーした。

「そのパンフレットは僕も見ましたがお問い合わせ先として高見沢リサ本人のメールアドレスが書いてあったと思うんですが」

「あなたと高見沢リサさんのご関係は?」

「知り合いとしか申し上げられません。しかし、どうして私が関係者だと思ったんですか?」

「コラコミの来場者登録から分かったんです」

「コラコミの来場者は何万人も居たでしょう。その中からどうして私をピックアップしたんですか?」

「パンフレットと名刺を配って回ったのがあなただったからです」

「人違いです」

「しらばっくれないでください。うちのブースには4Kのビデオカメラが設置してあって、あなたがパンフレットと名刺を置く姿が写っていました。名札のQRコードで丹下武蔵さんと判定できたわけです。これでもまだしらばっくれるつもりですか?」

「確かに配るのは手伝いましたけど……」

「高見沢リサさんのウェブサイトのドメインの登録者情報からあなたの住所氏名が分かりました。白状してください。私は仕事の話で来たんですから、要件に入らせてください。会社の電話番号あてに高見沢リサさん宛ての電話がかかるのは避けたいでしょう?」

「それはやめてください、絶対に」

「じゃあ、本題に入りましょう。実は、私どもは高見沢先生の小説に以前から興味を持っていました。コラコミのブースに提案書と名刺を置きに来られたので、これも何かのご縁だろうと、検討を開始したわけです。高見沢先生はこれまで電子書籍だけを出版されていますね? 私たちが興味を持っているのは高見沢先生の作品の紙本の出版、コミック化、そしてドラマ化です。電子書籍以外のルートを全面的に展開したいのです。最初から全作品を独占的にやらせてくれとは申しません。手始めに『バンコク発の夜行列車』と『失われたアイデンティティー』の二冊の独占権を頂けませんか?」

「そんなに良いお話しならメールで提案が届けば即快諾しましたのに」

「高見沢先生の作品を会社として取り上げるという案件です。会ったこともない人とメールだけでパートナーシップが組めるはずがありません」

「おっしゃる通りです。ただ、会社の勤務時間中のコンタクトはご勘弁いただきたいんです。打ち合わせは高見沢リサ宛にメールでお願いします」

「分かりました。面談が必要な際は平日なら午後六時以降にうちの会社に来て頂くことがあるかもしれませんが、丹下武蔵さんのお勤め先には察知されないように万全の配慮をお約束します」

「ありがとうございます。じゃあ、僕はそろそろ仕事に戻らないといけませんからこれで失礼します」

「『バンコク発の夜行列車』と『失われたアイデンティティー』の編集に取り掛かりたいのでファイルをお送りください」

「EPUB形式でもいいですか?」

「いいですよ。WORDに変換したものを変更履歴付きで編集してお返しすることになりますけど。私の名刺のメールアドレス宛てにお送りください」

 小泉がコーヒー代を払い、喫茶店を出て別れた。

 僕は会社に戻りながら胸をわくわくさせていた。会社まで押しかけられて冷や汗をかいたが、蓋を開けてみると耳を疑うほど良い話だった。僕の小説が印刷されて本屋の店頭に並ぶ。それは僕の悲願だった。そしてTVドラマ化されたら作家としての知名度が上がる。僕が顔出しを避けていることを小泉が十分理解してくれたことも心強い。

 来客との面談を終えたような顔をして会社の席に戻った。幸い課長は席を外しており、誰からも見とがめられることは無かった。

 トイレに行って個室に座り「バンコク発の夜行列車」と「失われたアイデンティティー」のファイルを高見沢リサのメールアドレスから小泉宛てに送った。全作品のファイルをクラウド上に置いてあるからこんな時には便利だ。スマホにはメールアプリを二種類インストールしてあり、K9というアプリで高見沢リサのメールを送受信している。今まで会社の勤務時間中にK9アプリを操作したことは無かったが、せっかくもらったチャンスだから一刻も早く対応したかったのだ。

 

 その夜、夕食の後でスマホを開くと、小泉からメールが入っていた。

「高見沢リサ先生
 本日はご多忙の所お時間を頂きありがとうございました。お目にかかれて光栄でした。『バンコク発の夜行列車』と『失われたアイデンティティー』のファイルを確かに受領しました。早速編集に取り掛かりますのでお待ちください。なお、契約書を添付しますので、ご署名、ご捺印の上ご返送頂きますようお願い申し上げます。小泉」

 簡潔で当を得たメールだ。小泉は見かけ以上に有能な編集者かもしれないと感じた。添付されていた契約書は面談時に聞いた通りの内容だった。二作品については電子書籍以外の出版、コミック化、脚本化の独占権を与え、他の作品については他社から提案を受けた場合、秋葉出版にその提案の内容を開示し、秋葉出版が同等以上の条件の提案を行えば秋葉出版と契約するという主旨だった。

 契約書を二部印刷し、署名捺印した。封筒に入れて切手を貼って封をした。妻に見られないように通勤用のバッグに入れた。

 

 それから二日後の金曜日の夕方、小泉からメールが届いた。

「高見沢リサ先生
 契約書をお送りいただきありがとうございました。当社捺印済みの契約書原本をご自宅に返送してよろしいでしょうか。もしご都合が悪い場合は、次回面談時までお預かりしますので、ご意向をお知らせください。なお、当社にて検討結果、二作品のうち『失われたアイデンティティー』のコミック化とドラマ化を先行して進めることとなりました。私が編集したWORDファイルを添付しますのでご確認ください。WORDの変更履歴をオンにしたまま変更箇所を承諾または更に変更を加えるようご注意願います。ご確認をお待ちします。小泉

 追伸 二作品のうちどちらを先行して取り上げるかについて編集会議で議論になりました。『バンコク発の夜行列車』の方がインパクトがある作品ですが、読者・視聴者として男女両方の幅広い年齢層が期待できる『失われたアイデンティティー』が選択されました。テレビ局にドラマ化を働きかける際に海外ロケが不要というメリットが大きいので、私も妥当な選択だと思います」

「失われたアイデンティティー」は僕の作品の中ではTS小説に分類されないという点で異色だが、感情転移した読者がTSに劣らないジェンダー・コンフリクトを体験できる小説だ。テレビ局がドラマ化を考える際にトランスジェンダー絡みのストーリーに嫌悪感を覚える視聴者が一定数存在することが障害になるのは厳然たる事実であり、僕も編集部の決定は賢明だと思った。

 それにしても契約書の原本を自宅に郵送した場合に妻に見られるということまで気遣うとは大した心配りだと感心した。

「契約書は次回面談時の手渡しを希望します。添付ファイルは月曜の朝までに編集確認をして返送したいと思いますのでお待ちください」
とスマホから返事しておいた。

 帰宅するとPCを起動して「失われたアイデンティティー」の編集済みファイルを開いた。「真っ赤になるまで赤ペンで訂正された」という言葉があるが、WORDでは一次変更履歴が青字で示されていた。「青ペン先生」とでも言うか「真っ青になるまで修正履歴が入った原稿」だった。僕はその小説は特に念を入れて校閲したつもりだったので、修正だらけの原稿を見てプライドが傷つけられた気がした。

 しかし、冒頭から読み始めると修正内容が適切なことに感心した。誤字脱字の指摘は殆どなかったが、細かな用語の修正、現在形から過去形への変更(及びその逆)、冗長な部分の削除など、自分では思いもつかなかった修正が遠慮なく加えられていた。随所に「なるほど」と思えるコメントが入っており、さすがプロの編集者は違うと唸らされた。

 小泉が加えた変更の殆どに反論の余地は無かった。結局、編集確認が完了したのは午前二時だった。僕は編集確認済みのファイルを小泉にメールで返送しておいた。

 

 コラコミの会場でコラボ先を探すのがいいという満智子のアドバイスのお陰で素晴らしいチャンスが訪れた。まずは満智子に報告するのが礼儀だと思った。

「コラコミで配布した提案書を見た某出版者の編集者からコンタクトがあり、『失われたアイデンティティー』の紙本の出版、コミック化と脚本化を手掛けてもらえることになりました。仙道さんのお陰です。またご報告します」

 出版社名は伏せておいたが、すぐに満智子から、
「おめでとう! うまくいくといいわね!」
という返信があった。

 

 何事もなく一ヶ月が過ぎた。

 九月の第一週になって小泉から久々にメールが届いた。

「『失われたアイデンティティー』の脚本化は雪村悦子氏に、コミック化は硯川すずりかわ墨汁ぼくじゅう氏に依頼済みです。出版日(紙本)は十二月九日に仮設定しましたが、ドラマ化の交渉に合わせて前後する可能性があります」

 約束通りに着々と進んでいると知って心強かった。仮設定とはいえ、僕の本が三ヶ月後に全国の書店の店頭に並ぶのだと思うと、そこら中に吹聴したい気持ちだった。「失われたアイデンティティー」はいわゆる性転換や女装がテーマではなく、作者が三十代の男性でも不自然ではない小説だ。

 そうだ。「失われたアイデンティティー」には男性名のペンネームを使用し、高見沢リサとは無縁の男性作家として出版できないだろうか? そうすれば僕は大っぴらに作家として人前に出ることができる。九時から五時は会社で仕事に励み、オフタイムに小説を書くサラリーマン作家ということなら会社から文句を言われることも無いし、商社マンとしては客先とのトークにも活用できる。友達にも、家族にも自慢できることになる。

 小泉に「ご相談したいことがあります」と面談を求めるメールを送ったところ、一時間ほどして返事があった。

「高見沢リサ先生
 木曜日の午後六時に当社にお越し頂けないでしょうか。打ち合わせの後、しゃぶしゃぶをご一緒したいと柏木編集長(私の上司)が申しております。小泉」

 僕は勿論快諾し、妻に「木曜日は接待で遅くなることになった」とLINEを入れておいた。

 

 木曜日の夕方、五時半に退社して秋葉原駅の昭和通り口から徒歩五分の秋葉出版に向かった。昭和通りからひと筋入った通りにある古い五階建てのビルの二階に受付があり、そこから電話をかけると小泉が出て来た。

 警察物のドラマに出てくる取調室のような会議室に通され、しばらく待っていると小泉が五十前後の恰幅の良い男性と一緒に戻って来た。

 編集長から名刺を渡され、僕は高見沢リサの名刺を差し出した。

「わざわざお越しいただいて恐縮です。想像していた通りの方だったのでほっとしました」
と柏木編集長に言われた。不愉快だったが「どんな想像をされていたのですか」という質問はしなかった。

「で、高見沢先生、ご相談とはどんなことでしょうか?」
と小泉が切り出した。小泉は僕のイラっとした表情を見抜いたから雑談を省略することにしたのだろうと思った。お陰で僕も本題に入りやすくなった。

「実はペンネームのことなんです。高見沢リサはTS作家として名前が通っていまして、女性としての感覚でウェブサイトやSNSを構築してきました。その結果、小泉さんとの出会いがそうであったように、私は作家として顔出しできない状況になってしまいました。今後の展開を考えると、非常に不便なことです。顔出しできれば、ご依頼に応じてドラマ化の交渉にも必要があれば同席できますし、本を出版する際に顔写真も掲載できることになります。色々考えたんですが『失われたアイデンティティー』はTS小説ではなく純文学と考えられますから、高見沢リサとは別の男性名で出版できればと思うのですが、いかがでしょうか? あ、そのペンネームはもう考えてあります。綾小路あやのこうじ愁作しゅうさくというんですけど」

「他の作品はどうなさるおつもりですか?」
と小泉が質問した。

「出版済みの電子書籍のうち純文学と言える作品は綾小路愁作に変更し、それ以外は高見沢リサのままにして、細々と電子出版を継続したいと思います」

 小泉が柏木に返事を促す視線を送り、編集長が口を開いた。

「率直に申し上げて、当社が欲しいのは高見沢先生が『細々と継続する』と言われた方の作品です。純文学なら活きの良い新人作家がひしめいています。トランスジェンダーは今後非常に面白い領域なのですが、無料投稿小説は掃いて捨てるほどあっても、商業出版に耐える作品は少ないのです。高見沢先生の作品には当社として取り上げるに値する小説がいくつかあるので、当社として着眼したのです」

 純文学なら作家は幾らでも居ると言われてムカッときた。

「お褒め頂いて光栄です。じゃあ『失われたアイデンティティー』は綾小路愁作の名前で出版していただくことで私が顔出しをして、それ以外の作品は高見沢リサのままで顔出ししないということで進めていただければありがたいのですが」

「アハハハ、ご本人としては何らかの形で顔出しされたいのですね。そりゃそうですよ。長年の創作活動が実って華々しくデビューされるのですから、一度も人前に出ないのでは惜しいし、読者も許してくれません」

 見透かしたような言い方は気に食わないが、編集長が言うことは当たっていた。

「じゃあ、『失われたアイデンティティー』だけを綾小路愁作の名前で出版していただくと言うことで」

「議論が噛み合っていないようですね。恐縮ですが、それは不可能です。『失われたアイデンティティー』は企画全体のフロントエンドと申しますか、いわゆる先兵としての位置づけです。クロス・ジェンダーのストーリーから来る興奮を、男女全年齢層にアピールできるので、この作品を先兵に選んだわけです。既にそのコンセプトでテレビ局にも働きかけており、実は来年一月からのナイトドラマでの採用が視野に入っています。既に交渉は詰めの段階なんです」

「そうですか……やっぱりペンネームは高見沢リサのままじゃなきゃダメなんですね」

「その通りです。覚悟していただくしかありません」

 今日相談に来たのは無駄だった。僕は大きくため息をついた。

「ところで、先ほど高見沢先生の作家ブランディングについて『女性の立場でウェブサイトやSNSを構築している』と仰いましたが、当社での調査結果とは少し異なります」

「えっ、高見沢リサは男性と思われていると言うことですか?!」

「まさか。元男性だったのが大学卒業直後に性転換をして、その後戸籍の上でも女性に変更し、既に人妻になっている。それが読者認識調査の結果です。我々が出版物やネット上の記事を検索した結果も同様でした」

「そう思われても仕方がないようなことを断片的にあちこちで書いたような気もしますが……」

「そのブランディングに従って企画を進めていますので、ご協力ください」

「分かりました。どうせ顔出ししないのですから、ご自由に進めてください。お任せします」

「高見沢先生と丹下武蔵さんの関係が表面に出ないように細心の注意を払っているのでご安心ください。顔出しは最小限に留めさせていただきます」

「え、最小限とは?」

「テレビ局との最終的な交渉の場には先生にも出ていただくことが必須です。他にも大手書店でのサイン会、コミック作家を含めた対談、その他、先生に出ていただくのが望ましいことは多々ありますが、出来る限り顔出しせずに済むよう最大限の努力をお約束します」

「でも、現在は女性になっているという設定なんですから顔出ししたらバレちゃいますよね」

「高見沢先生なら大丈夫ですよ。誰が見ても三十代の美しい女性に見えるような衣装とメイクを手配しますし、どうしても必要となれば特殊メイクの手配も可能です。テレビ局との面談の日取りが決まったらお知らせします。この点だけは当社としても絶対に譲れませんのでご覚悟のほどを!」

「えーっ、マジですか! 女装しろと言われても……」

 小泉に助けを求める視線を送ると小泉は微笑を浮かべて頷いた。ハイと言えという意味だった。

「我々も企業としての覚悟を持ってこの企画に取り組んでいるんです。いくら高見沢先生でも、甘えたことを言われては困ります!」

 編集長から叱りつけるように言われて、僕は縮み上がった。

「も、もうしわけございませんでした」
と反射的に頭を下げた。

「やっていただけるんですね」

「テレビ局との面談だけでしたら……」

「それでこそ高見沢リサ先生です! さあ、しゃぶしゃぶを食べながら話を続けましょうか。すぐ戻ってきますのでここでお待ちください」

 そう言って編集長は立ち上がり、小泉と一緒に部屋から出て行った。

 鬼刑事の取り調べがやっと終わったという気分だった。テレビ局に行くために女装することを約束させられてしまったが、この部屋で編集長から強い態度で責め立てられると、解放されるためなら何でもハイと言わざるを得ないという気持ちになってしまう。彼らがこんな取調室のような部屋を選んだのは、それが目的だったのではないだろうか……。

 二人が戻ってきて、昭和通りの対岸にあるしゃぶしゃぶ屋に連れていかれた。個室ではなく、衝立で仕切られた掘りごたつ形式の和室の大部屋だったが、とても美味しかった。取調室で出来てしまった関係はしゃぶしゃぶ屋まで持ち越され、編集長は僕を「高見沢先生」と呼びながらも、まるで上司が部下に対するような態度で扱った。お酒が回るに連れてお酌までさせられるようになり、接待をされた気はしなかった。


続きを読みたい方はこちらをクリック!