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イケメンなでしこ
 今日から女子部員になりなさい

【内容紹介】男子が女子大生にされるTS小説。大学生の榊原はサッカー部のレギュラー部員で、元なでしこの澤穂希が理想の女性。ある日超イケメンで才能あふれる新入部員が入部したせいで榊原のレギュラーポジションが危うくなる。親友どうしの関係に予想外の要因が加わって波乱が波乱を呼ぶ展開に……

第一章 出来過ぎた新人

 なでしこジャパンがワールドカップに優勝した時の感動は一生忘れない。当時、僕はまだ中学一年生だったが、アメリカとの決勝の延長戦で澤穂希が宮間のコーナーキックを右足のアウトサイドでゴール隅に流し込んだ時には全身に鳥肌が立った。あのシーンは僕の頭脳の深い部分に録画されていて、勉強の合間にほっと一息ついた時とか、運動場に置かれたサッカーのゴールポストが目に入った時とか、年に一、二度ふいに脳裏にプレイバックされる。あのゴール以来、僕にとって澤穂希は憧れの人になった。

 あの時のなでしこは本当に格好よかった。体格が二回りも違う欧米選手を相手にして縦横無尽に駆け回り、ゴールを奪う姿が痛快だった。澤穂希は百六十五センチもあって欧米の中心選手と並べてもさほど見劣りしなかったので余計に頼もしく感じられた。

 僕が高校でサッカー部に入ったのは澤穂希への憧れが原因だったと思う。僕より二十二年も年上だし美人ではないが、僕が結婚したい女性ランキングのトップに君臨していた。いや、その表現は誤解を招くかもしれない。当時の僕はまだ第二次性徴の入り口に達したばかりで、社会的にも生物学的にも結婚が何を意味するかについてあまり分かっていなかった。でも、澤穂希が異性であることを十分に認識したうえで憧れていたのは確かだ。

 憧れの女性として澤穂希について語りながらこんなことを言うのは不謹慎かもしれないが、あの時のなでしこジャパンには僕の人間形成に重大な影響を与えた選手がもう一人居た。岩渕真奈だった。当時の岩渕真奈は十八歳なのに僕の中学のクラスに居てもおかしくないほど可愛くて笑顔が魅力的だった。百五十三センチという女子中学生並みの身長だったこともあって親近感を抱いた。身近な等身大の女子なのにバネと切れがあって男子プロ顔負けの動きを見せるのは衝撃的だった。

 だからその後もずっと岩渕真奈をフォローしてきた。岩渕真奈は十九歳の時にも百五十三センチと書かれていたが、今は百五十六センチにまで伸びたようだ。僕は高二で身長の伸びが完全にストップしたのに、岩渕真奈が十九歳以降に三センチも伸びたというのはすごいと思う。全日本クラスのスポーツ選手になると常人とは精神力が段違いだから「あと三センチ大きくなろう」と思ったら自分で努力して目標を達成できるのかもしれない。

 その点は中島翔哉にも共通している。これからの全日本サッカー代表を中核として支えそうな中島翔哉だが、僕はU23での活躍を見て大ファンになった。当時の中島は百六十四センチしかなく、そのせいかどうかFC東京でも十分な活躍の場を与えられずにポルトガルのチームに移籍したが、ワールドカップ後にA代表として大活躍した際の新聞記事には「身長百六十七センチと小柄な選手」と書いてあった。それが本当だとすれば二十二歳から身長が三センチも伸びるとは驚異的であり、岩渕真奈と同じだ。二人とも小柄でスピードがある天才的ドリブラーであり、僕にとって憧れの存在だ。

 僕が何故岩渕真奈や中島翔哉の身長にこだわるかというと、僕自身がサッカーをしていて、小柄だからだ。十八歳で身長は百六十三センチ。僕の大学のサッカー部で百七十センチ以下の部員は百六十八センチの武井淳史と僕の二人だけだ。

 高校時代にサッカー選手として実績があるわけではない小柄な一年生の僕が左MFのレギュラーになれたのは、須崎監督が僕のスピードとセンスに目をつけてくれたからだ。

「榊原は習志野大学サッカー部の中島翔哉だ!」
と監督が全部員の前で言った。近くの大学との練習試合の後のチームミーティングでの一言だったが、その時ほど誇らしく感じたことはない。その試合で僕は左MFとして先発出場し、二ゴールと二アシストという信じられないほどの結果を出した。今から思えばあれが僕の人生の頂点だったのかもしれない。

 しかし僕を習大ならだいの中島翔哉と呼んだのは監督だけで、また後にも先にもその時だけだった。ちょうどその練習試合の日になでしこジャパンのノルウェー戦が行われて岩渕真奈が二得点したこともあって、翌日から僕は「習大ならだいサッカー部の岩渕真奈」と呼ばれるようになった。

 普通なら男子サッカー部員をなでしこジャパンの選手に例えても褒めたことにはならないし、下手をすれば喧嘩を売るようなものだ。特に小柄な男子選手に「お前はまるで岩渕真奈だな」と言うのは「チビのくせに」と受け取られる可能性があって危険な言葉だ。だがサッカー部員は僕が「習大ならだいの岩渕真奈」と呼ばれて嬉しがることを知った上でお世辞を言ったのだ。僕が岩渕真奈の大ファンだということは誰でも知っているし、僕はヘアスタイルも岩渕真奈風にしている。また、僕の名前はまなぶであり、「マナ」と略称するのはさして不自然ではなかった。

「そんなにおだてないでよ。特に二ゴール目はまぐれだったし」
と僕はサッカー部員からのお世辞に感謝の意を表した上で謙遜した。終了直前の二ゴール目は僕が左サイドからセンタリングしたふわっとしたボールが風の影響もあってゴール左上隅のキーパーの手が届かない場所にたまたま入っただけだ。

「榊原は正直だな。普通のサッカー選手なら意図的に左隅ギリギリを狙ってカーブするボールを蹴ったと言う所だよ。レギュラー争いのためにはそのぐらい言ってもいいんじゃない?」

 僕はレギュラー争いのためにコセコセするつもりはなかった。大学のサッカー部と言っても関東大学リーグに名を連ねるような本格的なチームではなく、同好会に毛が生えたレベルのものだ。高校時代に実績があるわけでもない僕が一年生でレギュラーになれたのはたまたま監督が目をかけてくれた幸運によるものであることは自分でも承知していた。もし僕より能力が高い部員が出て来たらレギュラーから外されても仕方ないと思っている。

 それに練習試合の二得点の結果「ひょっとしたら僕は本当に天才かもしれない」という軽い予感がしていて、自分がレギュラーから落とされるはずがないという自信があった。それは根拠の薄弱な自信であり、自信というよりは希望と呼ぶべきものだった。

 練習試合の翌週、サッカー部に新人が加わった。夕方、練習が終わりかけの頃に監督が見たことのない学生を連れて来て、最後のダッシュに加わらせた。僕たちが既に疲れていたこともあったが、これはウカウカしていられないぞと脅威に感じるほど力強い動きをしていた。身長は多分百七十六、七センチ、バネのある長くてまっすぐな脚と整った目鼻立ちが印象的だった。男らしい雰囲気とは裏腹に、同じぐらいの身長の他のサッカー部員に比べて頭が小さく、中学生でもおかしくないほど幼顔おさながおをしている。ジャニーズ系のイケメンとはこんな男のことを指す言葉なのだろうなと思った。

「集合!」
と監督から声が掛かって監督の周りに全員が集まった。

「今日からチームの一員になった丹沢君だ。丹沢君はバスケットボールの世界では高校時代に国体に出場したことがある名の知られた選手だがサッカーの経験は無い。女子サッカー部の木平きひら監督が丹沢君の才能に目をつけて、私も一緒になって丹沢君をサッカー部に勧誘した結果、やっと本人がその気になってくれた」

「女性の木平監督がイケメン選手に目をつけてうちの部に紹介したという点がネタとして面白いですね。大学からサッカーを始めるのは簡単ではないでしょうが、丹沢君の体力なら何とかなるかもしれません」
と三年生でキャプテンの中川が言った。

「丹沢君がサッカー部に入ったら、応援に来る女子が増えそうだと思ったんじゃないか?」

 監督がニヤリと意味のありそうな笑いを浮かべた。

「君たち、引っかかったな! 元々丹沢君は木平きひら監督が勧誘したんだ。その理由は、彼女本人から自己紹介を聞けばわかる」

「彼女本人って……まさか、丹沢君は……あっ、本当だ。少しだけ胸がある!」

 それまでニコリともしなかった丹沢の顔に笑みが溢れた。

「丹沢、経済学部の一年生で、出身は静岡です。女子サッカー部の木平監督から何度か勧誘されてその度にお断りしていたんですが、昨日、須崎監督と一緒に再度勧誘に来られた時に『男子サッカー部なら入ってもいいですが、女子サッカー部は体力に差があり過ぎてつまらないので』と冗談交じりにお断りしたところ須崎監督から『それなら男子サッカー部に入れ』と言われたので、ついノリでOKしてしまいました」

 声を聞いて丹沢が確かに女性だと信じられた。

 サッカー部員たちから喜びと当惑が入り混じった溜息が出た。僕もサッカー部に女子が入るのは嬉しい気もしたが、練習の足を引っ張られることにならないだろうかという懸念を感じた。

「女子だからという理由で手加減はしないし、特別扱いもしない。唯一の特別扱いは、女子サッカー部の部室で着替えをさせるということだ」

「男子の部室で着替えろと言われても私は大丈夫なんですが、木平監督から着替えは女子サッカー部の部室を使えと言われたので、そうさせていただきます」

「監督、俺たちに丹沢さんを男だと思わせるために手の込んだ芝居をされたわけですね」
と中川キャプテン。

「念には念を入れて、練習の終わりに連れて来てダッシュだけに参加させたのさ」
と監督は勝ち誇ったように言った。

「バスケ部には入っていないんだよね?」
と中川キャプテンが丹沢に質問した。

「国体に出た後で左腕を骨折してしばらく部活を休みました。そのまま受験勉強に入って、大学に入ってみるとバスケへの情熱を完全に失くしたことに気づきました。あちこちからバスケの勧誘を受けましたが全部お断りしました」

「丹沢さんにその気があればバスケ推薦で大学進学できたということ?」

「はい、大学だけじゃなくてWJBLのチームからも勧誘がありました。でも、私はバスケで身を立てる気持ちはありませんでしたから」

「WJBLってプロじゃないか!」
 口々に「すげえな」というざわめきが上がった。

「大したことはないです。とにかくサッカーはずぶの素人なんで、ご指導ください」

 そう言われてみればバスケ選手としてプロレベルでもサッカーができるどうかはやってみないと分からない。手わざが上手な人が、足わざも上手だとは限らないからだ。僕は丹沢を元気づけようと思って発言した。

「ウサイン・ボルトがサッカー選手になろうとしたのと同じで、走力は役に立つからきっと何とかなるよ」

 そこに監督が口を挟んだ。
「いや、私が丹沢さんの高校時代のバスケのビデオを見て感心したのは走力ではなく、戦闘力だ。相手の動きを見ながらの一瞬の判断、常に味方のポジションが頭に入っていること、そして当たり負けをしないフィジカルの強さだ。これはサッカーでも同じだと思う。まあ、今日のダッシュを見ればうちのサッカー部員の中で走力も引けは取らないようだったが」

「私、走力はダメです。最近は運動不足なので十一秒台を出すのさえ難しい状態です」

 再びざわめきが起きた。うちの大学のサッカー部員で十一秒台を出したことのある人が何人居るだろうか……。

「じゃあ、丹沢さんは明日の練習から参加してくれ。キックの基本から勉強するにあたって、そうだなあ……榊原、指導員を引き受けてくれ」

「えっ、どうして僕が指導員なんですか?」

「嫌なのか?」

「いえ、嫌じゃないですけど……」

「榊原はキックの基本が出来ているからだ」
 そう言われると断れなくなる。

「それほどでも……」

「それに、丹沢さんからすれば榊原が一番話しかけやすそうだからさ。丹沢さん、榊原君が指導員でもいいよね?」

「勿論です。よろしくお願いします」

 どうして丹沢から見て僕が一番話しかけやすそうなのか、すっきりしない気持ちだったがとりあえず「こちらこそよろしく」と言って指導員を引き受けた。

 大学に入ってから七ヶ月経っても彼女はできず、丹沢の指導員になることで一応女子と親しく触れ合う機会ができるのは歓迎だった。それに長年澤穂希選手に憧れていたし、長身の女性の方がタイプではあった。それにしても澤選手は百六十五センチだし、最近僕が応援している菅澤優衣香でも百六十八センチだ。目の前に立っている丹沢瑠衣は澤選手や菅澤選手より十センチほど背が高そうであり、僕とはいくらなんでも違い過ぎる。

 僕は女性の顔は特にブサイクでなければOKと思っていたが、丹沢はジャニーズ系美少年と思ったぐらいだから、女性としても間違いなく美人の部類に入る。一口で言えば澤選手を一回り大きくして岩渕真奈に負けない程美しくしたようなものであり、しかもプロ級のバスケ選手だったと聞くと、理想の女性というよりも理想的すぎて僕には荷が重いという気がした。

 監督が解散を宣言した後で丹沢が僕のそばに来た。

「背が高すぎて申し訳ない。でも彼氏になってもらうわけじゃなくて、指導員になってもらうだけだから気にしないで」

 心の中の動揺を見透かされて不愉快だったが、僕は平静を装って答えた。

「丹沢さんの背が高くても僕が気にするはずがないじゃないか。丹沢さんより大きいサッカー部員も何人もいるんだから、いちいち気にしていたらやってられないよ。それに、サッカーは身長が高い方がいいとは限らないスポーツだ。中島翔哉のお陰で全日本が魅力的なチームになったことを知らないの?」

「さっき見まわしたところでは俺は背が高い方から三番目だったな。俺は百七十七センチだけど榊原君は?」

 自分のことを僕と呼ぶ女子には何人か会ったことがあるが、俺という人は初めてで面食らった。

「身長はプライベートなことだから言いたくない」

習大ならだいサッカー部の岩渕真奈と呼ばれている子がいると監督から聞いて会うのを楽しみにしていたんだ。身長も岩渕真奈と同じなの?」

 監督は僕の前では習大ならだいサッカー部の中島翔哉と言いながら、陰ではそんなことを言っていたのか……。

「何言ってんだよ。岩渕真奈は百五十六センチしかないんだぞ。僕は百六十三で澤穂希と二センチしか違わないんだから」

 丹沢がニヤッと笑ったのが目に入った。「しまった、身長を言わされちゃった」と後悔したが後の祭りだった。

「じゃあ榊原君と俺とは、たった十四センチの差なんだ」
と丹沢はわざと僕の至近距離に立って頭上から言った。

「背が高くてもサッカーの上手さとは別だよ。明日からは厳しく指導するから覚悟しておけ」

 僕は丹沢の目を見上げないようにしながら言って、逃げるように部室を出た。

第二章 親友

 翌朝午後三時過ぎに部室で着替えて運動場に行くと、丹沢が一人でリフティングをしていた。右足で五回リフティングしてからワンバウンドさせ、そのまま左足で五回リフティングするという動作を繰り返している。素人なら五回リフティングを続けるのも難しいのに、いつまでも止まらなかった。丹沢が右斜め後ろ十メートルの距離に立っている僕に気づかないのは、それだけボールを見ているということだ。

 リフティングで最も重要なことはボールの中心を足の甲の中央に当てて真上に蹴るということだ。そのために大事なのは身体のバランスと集中力だ。サッカー初心者なのにポイントを押さえていることに驚いた。

「初めてにしてはうまいじゃないか」
と声をかけると、丹沢はオーバーヘッドでボールを背中側に蹴り上げ、身体の向きを僕の方に回して、落ちてきたボールを左足でトラップした。

「久しぶりなんで、ボールが足に絡みついてくれないんだよな、これが」
と丹沢は不満そうにつぶやいた。

「久しぶりって、サッカーは初めてじゃなかったの?」

「サッカー部に入るのは初めてだけどサッカーは初めてじゃないよ。仲良しの兄がキャプテン翼みたいな人だったから、小さい時からボールには触っていたんだ」
と丹沢は男のような言葉遣いで言った。

「小さい時って、何歳から何歳まで?」

「よく覚えてないけど、二歳か三歳ぐらいからかな。いつも金魚のウンコのように兄について行って試合が始まってもオマケとして参加してた。バスケを始めたのは高校に入ってからで、中学までは兄と遊んでいた」

「じゃあ高校でサッカー部に入ればよかったのに」

「女子のサッカー部に入れっていうの? 勘弁してくれよ」

「でも女子のバスケ部に入ったんだろう?」

「バスケ部から勧誘されて『女子のバスケ部に入っても体力を持て余すから』と言って断ったら、その日の午後にバスケ部のキャプテンに呼び出されたんだ。自分と勝負をしてもし勝ったら入部しなくてもいいと言われた。一年先輩だったけど榊原君みたいに細身で身長も百六十七、八センチしかなかったから、負けるはずがないと思って受けて立ったんだ」

「でも当時の丹沢さんはバスケの経験は無くて、相手はキャプテンだったんだろう?」

「まあね。あの頃は兄の影響もあって天狗になっていたからな。で、勝負をしてみたらコテンパンにやられた。グーの音も出なかったから、その人の子分になった」

「子分だなんてヤクザみたい」

「今はプロで活躍してる人だぜ。後で高一の時に既にプロからアプローチを受けていたと聞いて、ズルいと思ったけど後の祭りだった」

「丹沢さんの話って小説みたいで聞いていて面白いね。今の話から判断するとサッカーを基礎の基礎から教える必要は無さそうだと分かって安心したよ」

「じゃあ早速指導してくれよ、先輩」

「同期なのに先輩はやめてよ」

「榊原指導員と呼ぼうか?」

「普通に榊原君と呼んでもらった方がいいよ。それはとにかく、乱暴な言葉づかいはよくないと思うよ。女の子なんだから」

「はあ? 女だから可愛い女言葉で話せと強要するのか? じゃあ、俺と勝負をしてもし榊原君が負けたら榊原君が女言葉で話すという条件なら受けて立つぜ」

「ま、待ってくれ。勝つ自信がないわけじゃないけど、賭けで決めるのはよくないことだよ。分かった。前言は撤回する。ただ、俺というのはやめた方がいいと思うよ。他のサッカー部員が聞いたら誰でも引くから。特に先輩の前では『私』と言うようお勧めする」

「分かってるよ。昨日監督に紹介された時には『私は』と言って女みたいな言葉で話したつもりだけど、気づかなかった? 子供の時から窮屈な言葉づかいを押し付けられて、反発しながらも学習を繰り返したんだから、そこらへんは心得てるさ」

「ごめん、余計なことを言って。大変だったんだね」

「分かったような謝り方をするなよ」

 その言葉を聞いてピンときた。頭の中で全てがつながった。きっと丹沢は性同一性障害なのだ。小さい時から兄と遊んでいて自分も男の子のつもりでいたのに、中学に上がる時にセーラー服を着るように言われて愕然とする。登校拒否。スカートなんかはけるか! ところが生理も始まり、自分が生物学的に女性であることを受け入れざるを得なくなる。しかし、身体的能力が高すぎた結果、女子として学校に適応できない。高校に入って始めたバスケは三年でプロから誘いを受けるほどのレベルになるが、女性としてスポーツをするつもりはない。そんな時に男子としてサッカーをしてみないかと誘われて有頂天になった……。

 これが丹沢の今の姿だろう。僕は「性同一性障害」という言葉を出して丹沢に質問しようかとも考えたが、思いとどまった。その点は丹沢が最も人に触れられたくない部分であり、丹沢が僕にイエスと答えてもノーと答えても、僕は何もしてあげられないからだ。

 その時、丹沢がボールを右足先ですくい上げて僕の胸へとトスしたので、僕は胸でトラップしてワンバウンドしたボールを右のサイドキックで丹沢の胸に返した。丹沢は胸でトラップしたボールを右足の甲でリフティングし、左足で僕の足元へと蹴った。

 僕はそのボールを右足でリフティングして、丹沢と同じように左足で返すつもりだったが、次は左へという意識が強すぎてアウトサイド気味に右足に当たってしまい、ボール三つ分右方向に上がってしまった。僕はとっさに身体を回して何とかボールを落とさずに右足に当てて、三回リフティングしながら態勢を立て直して左サイドキックで丹沢に戻した。

 丹沢は左足元に来たボールを無造作に左足でリフティングし、ワンタッチで右足で僕に返した。

 僕は何度か左右に逸らしながらも一度もボールを地面に落とさず、概ね二、三タッチで丹沢へとキックし続けた。

 丹沢は無造作に必ずツータッチで僕に返し続けていたが、それに飽きたのか、ワンタッチ目を高めにリフティングし、身体を一回転させてからツータッチ目で僕に返した。僕は丹沢の身体能力に驚いてボールを落としてしまった。

 もし監督に見られていたら「どちらが指導員なの?」とイヤミを言われたかもしれない。

「ボールが足に当たる前に目を離しちゃダメだ。それから、もっと腰を落として軸を安定させなきゃミスはなくならないぞ」

 新人が指導員に言うべきでないことを平気で口にする丹沢が無性に腹立たしかったので、
「どっちが指導員だと思ってるんだ?」
と、つい言ってしまった。

「それは俺が言いたいことだ」

 また「俺」と言ったので文句を言おうかと思ったが、よく考えると「もし榊原君が負けたら榊原君が女言葉で話すということで勝負をしよう」と挑まれて、断った後でリフティングが始まったのだった。もし僕が勝負を受けていたら、今頃は丹沢に女言葉で話す羽目になっていたところだ。冷や汗ものだ。

「もう一度やるぞ」
と言って僕は右足ですくい上げたボールを左足で丹沢に送る。丹沢とのボールの応酬が再開したが、丹沢はフェイントの動きをしながら小刻みにリフティングしたり、変化のレベルを上げて確実にボールを返した。僕は丹沢とのテクニックの差を思い知らされて気が消沈したためか、いつも二、三度でボールを逸らしたり地面に落として、何度も「ごめん」と言わなければならなかった。

「そんなに気を落とすなよ。二歳の時からリフティングしている俺の方が小技が数段上なのは当然さ。今度はランニングしながらパスの練習をしようぜ」

 丹沢がますます高慢になったことが言葉づかいにも表れていた。指導員に対してなら「今回は私の方が少し上手だったけどたまたまよ」とでも言うのが常識ある女子だ。いや、丹沢が自分を男子だと思っているということを忘れるところだった。リフティングの上手下手がどれほど大事なのか、きっと丹沢は分かった上で僕に上から目線で話している。サッカー部員を並べてリフティングさせれば、サッカーの上手さとリフティングの上手さは驚くほどの正の相関関係を示すということを僕は知っている。足でどれほどボールを自由自在に動かせるか、それがサッカーの上手下手に直結する。後は身体能力と知力にかかっている。

「ランニングしながらのパスの練習って具体的にどうしたいの? 並行して走りながら時々真横に居る相手にパスするの?」

「はあ? そんな子供みたいな練習をしても意味ないぜ。MFどうしがサイドチェンジをすることをイメージするんだ。全速力でクロスする瞬間に相手に渡してから、反対サイドの奥深くにパスする。相手はそのボールに追いついてコーナーギリギリまで持って行ってから反対サイドにいる相手にロングパスをするんだ。常にゴールをイメージした練習をしないと意味ねえよ。ま、これはアニキの受け売りなんだけどさ」

「マジなの? そんな練習をしたら一回でクタクタになるよね」

「そのまま折り返してクロスしながらパスをしてから反対サイドのコーナーを突く。それを五往復するんだ」

「そんなの無理だよ。心臓が持たない」

「やる前から弱音を吐くな! キンタマついてんのか!」

 頭に血がのぼって顔全体が熱くなった。多分、ゆでだこのような顔になっているだろうと思った。丹沢の中身は男なのだと分かっていても、身体は女性だという意識が頭から抜けきれないから、そんな言葉を聞くとこちらがパニクってしまう。平気な顔でそんなことを言える丹沢の神経が信じられない。

「バカヤロウ、お前よりデカいのがついてるんだよ。さあ、いくぞ!」
 つい言ってしまったが、性同一性障害の女性(心は男性)に対して相手が自分の肉体的な欠陥と意識している部分をバカにする発言をするのは恥ずべきことだと思って、自分の小ささがいやになった。

 しかし丹沢は悲しい表情を見せるどころか、ニヤッと笑うと「行くぜ」と言って走り出した。僕はボールを持って右に大きく広がってから左斜め前に全速力でドリブルし、丹沢とクロスする瞬間に低くて鋭いパスを出した。丹沢はそのボールをトラップせずに足に絡ませてドリブルし、三秒後には左サイド奥深くへとロングパスを送る。僕は全速力で追いつき、左コーナーまで持って行ってからターンをして右サイドに居る丹沢に高いボールでロングパスを出した。

「ナイス・ボール!」
と丹沢に言われた。思えば丹沢から褒め言葉をかけられたのは初めてだった。喜びがこみ上げてきた。

「折り返すぜ」
と丹沢は言ってドリブルで進み、クロスする時にパスして、今度は僕が右コーナーギリギリにロングパスする。ちょっと早すぎたかなと思ったが丹沢は追いついて、鮮やかなターンをしながら左コーナーの僕に低くて速いロングパスを送った。すこし右にずれていればゴールを直撃するような鋭いボールだった。丹沢が常にゴールをイメージした練習と言っていたのはこういうことだったのか……。僕はさっき、ふわっとした球筋で反対コーナーの丹沢にパスを送ったことを反省した。しかし、自分が蹴っても低くて鋭いボールが丹沢のいる場所まで届くとは思えなかった。僕は丹沢との力の差を痛感した。

 これでやっと一往復だ。丹沢は涼しい顔をしていたが僕はゼイゼイと呼吸している。さらに一往復できる自信は無い。全部で五往復など絶対に不可能だと思った。

 しかし、丹沢に対して弱みは見せられない。僕はもう一度深呼吸をしてからドリブルを開始した。クロスする時に転びそうになって高いパスを送ってしまったが丹沢はジャンプして頭で真下に落とし、スピードを落とさずにドリブルした。丹沢は僕の体力が限界に近づいたと思ったのか、緩い球を左コーナーに向けて蹴った。僕はギリギリのタイミングで追いつき、何とか左コーナーまでドリブルしてから、右コーナーで両手を上げている丹沢に向かって低くて鋭いボールを蹴った……そのつもりだったが、ボールの芯を外してしまい、ボールはちょろちょろと転がってゴールを過ぎたところで止まった。

「オイオイ、それで習大ならだいサッカー部の岩渕真奈のつもりかよ。岩渕選手に失礼だぜ、お嬢さん」

 僕はゴール前に停まったボールまで駆け寄り、泣きべそをかきながら「誰にだってミスはあるよ」と丹沢に抗議した。

「ミスというより体力の問題だろう。サッカー部は辞めてバレー部に入った方がいいんじゃないの? 念のために言っとくけど踊る方のバレーだから間違えるなよ」
と丹沢は高らかな笑い声をあげた。

「ひどいよ! 僕は丹沢さんをサポートしようと思って早めに練習に来てやったんだよ」
 丹沢からそこまで言われるとは思っていなかった。悔しくて涙が出てきた。

 丹沢は僕の涙に気づいた様子で、頭をかきながら近づいてきて両手を僕の肩に置いた。

「ごめん、泣かすつもりはなかったんだ。お前と練習していると昔アニキにボロクソを言われながらサッカーをしていたことを思い出して、アニキが俺に言っていたことをそのまま真似しちゃった。悪気はないんだ」

「お兄さんが妹にキンタマあるのかなんて言うとは思えないんだけど」

「信じられないだろうが本当なんだ。さっき俺が言ったことは全部アニキの受け売りだ。信じてくれ」

「岩渕真奈のつもりか、とも言われたの?」

「いや、それは無い。岩渕真奈がオリンピックに出た時には、俺は百六十以上あったし可愛いという言葉とはかけはなれていたから」

「そんなに美人なのに謙遜しなくても……」

「美人? 俺にケンカを売りたいのか?」

「褒めただけなのに……」

 美人と言われてケンカを売られたと感じる女性には会ったことがない。要するに丹沢は女性扱いされることを毛嫌いしているのだ。今度褒める時には冗談交じりにイケメンと呼べば角も立たないかもしれない。僕は気を取り直して足でボールをすくい上げ、丹沢にトスした。

「さっきは取り乱してごめんね。練習を続けようか?」

「いや、無理するな。他の部員も集ってきたようだからランニングに加わろうぜ。行くぞ」

 僕を見下してはいても丹沢なりの気遣いが感じられる態度だったので、僕は素直に「うん」と答えて丹沢の後を追った。

 ランニングをしているサッカー部員たちの最後尾について走った。普段の練習が始まったが、監督は僕に、別メニューで丹沢にサッカーの基礎を教えろと指示してから丹沢に近づいて声をかけた。

「丹沢さん、少しは慣れたか?」

「はい、榊原指導員のお陰でなんとか頑張っています」

「二人の練習の様子を遠くから見ていたが、榊原が先に息切れしていたように見えたが」

「とんでもない。私が下手だから榊原さんは振り回されていたんです」

「そうか、まあ、榊原を指導員にしたのは正解だったようだな」

 丹沢が僕のことを榊原指導員とか榊原さんと言って持ち上げたことに驚いた。自分を私と言って、まるで自分が女性であることを是認しているかのような言い方だったのも意外だった。そう言えば昨日皆の前で紹介された時の言動も常識的かつ謙虚な感じだった。さっき僕に『お前、キンタマついてんのか』と怒鳴ったのと同一人物とは思えない。

 絵に描いたような二重人格であり、人前では「いい子」を装いつつ、陰では自分より弱い人間や気に入らない人間を虐める傾向が見て取れる。サッカーは上手でもサッカー部にとってお荷物になるかもしれないと憂慮した。

 僕は他の部員たちからできるだけ離れない場所で、コーンドリブルの練習をした。コーンドリブルとはマーカーを並べてその間をドリブルする練習で、ボールタッチに重点を置いた基礎練習だ。二歳から毎日お兄さんとサッカー遊びをしていた丹沢には必要のない練習のはずだが、コーンドリブルを選んだのには二つの理由がある。ひとつは、僕はコーンドリブルが得意で丹沢に負けない自信があったから。もう一つは、監督や他の部員に聞こえる距離なら丹沢が僕に対して「俺、お前」という言葉づかいで暴言を吐かないだろうと思ったからだ。

 丹沢がコーンドリブルを否定するだろうということは目に見えていた。ゴールを意識して実戦に即した練習でなければ意味が無いと丹沢が考えていることは、さっき半時間ほど一緒に居て分かっていた。しかし、丹沢は自発的にコーンを並べ、僕の指示通りに練習を始めた。僕に対しては終始「はいっ」と答え「榊原さん」と呼ぶ。監督たちの目には清々しくて態度が非常にいい新人に見えたに違いない。

 誤算は丹沢が僕の指示の範囲外の応用動作を始めたことだった。普通にコーンドリブルをしたのは最初の二往復だけで、三往復目はリフティングをしながらコーンの間をすり抜け、僕に「榊原さんも一緒にやりません?」と他の人に聞こえる声で誘いかけた。僕はやむなくリフティングしながらコーンの間を縫って行こうとしたが、未経験なことであり、左右に逸らしたりコーンにつまずいたりして丹沢に「榊原さん、大丈夫ですか?」と言われた。丹沢は僕のドリブル能力を把握しており、わざわざ僕には無理な動作を繰り返して自分との力の差を見せつけた。

 監督はしばらく僕たちの様子を見ていたが、僕たちの所に来て「丹沢さんは別メニューで基礎練習をする必要は無さそうだな」と言ってコーンドリブルをやめさせた。

「工夫をすれば意外に実戦的で面白かったです。榊原さんのお陰です」
と丹沢は答えて、コーンを自分で片づけ始めた。

 僕は丹沢を手伝ってコーンを運んだ。敗北感にめげそうな気分だったが、それを顔に出さないようにして「丹沢さんって何をやらせてもすごいよね」とお世辞を言ってみた。

「いや、それほどでも」
と丹沢は嬉しそうに頭をかいた。

 丹沢を扱う際のコツが分かった気がした。同期の僕が指導員かぜを吹かせて上から目線で接するのは絶対にダメで、キレイとか可愛いという言葉もご法度だ。下から目線で「すごい」とか「かっこいい」とおだてればOK。意外に単純なのだ。きっと「イケメン」と呼べば喜ぶだろうから今度試してみよう。

 合同練習は丹沢にとって楽だったと思う。僕がついて行ける範囲の運動量の練習なら、丹沢にとって何でもないということは二人で練習していて思い知らされたばかりだ。うちの監督は「サッカーの上達に直結しない練習は極力排除する」という練習方針であり、ボールタッチの回数と実戦に即したメニューを重視している。ウォーミングアップのためのランニングや、スピードと持久力を向上させるためのダッシュは欠かさないが、罰則でランニングを十周させたり、無駄な持久トレーニングに時間を使ったりはしない。

 監督の練習メニューは僕には合っていたし、僕以上に丹沢に合うメニューだったと思う。丹沢が余裕をもって練習を楽しんでいることが僕には分かったし、折に触れてお兄さん仕込みのテクニックや瞬発力をちらりと見せられて、大したものだと感心した。僕と二人の時は完膚なきまでに実力の差を見せつけたが、人前では実力を垣間見せる程度にとどめ、反発を買わないように気を遣っていることに気づいていたのは僕だけだったはずだ。

 上がりのダッシュが終わって監督が解散を告げた。僕は一応指導員としての威厳を込めて「お疲れさま、また明日」と丹沢に声をかけた。丹沢が僕に「ありがとうございました」と一礼したので、二重人格と分かっていても爽やかな気分になった。

 部室に向かって歩いていたら肩をポンと叩かれた。振り向くと丹沢だった。

「これから空いてる?」

 まさか居残り練習の相手をしろとでも言い出すのではないかと警戒した。

「塞がってはいないけど、洗濯物もたまってるし……」

「洗濯は夕方にやらなくても大丈夫だろう。十分後に東門を出たところで待ってるぜ」
 僕の耳元でそう言うと、返事を待たずに女子サッカー部の部室に向かって走り去った。あっけに取られてポカンと口を開けて見送った。

 やっと丹沢から解放されて、ほっとしていたら、十分後に校門で待っていると言われた。一体どういうつもりなのだろう? 合同練習中に僕が指導員のような口を聞いたから丹沢が腹を立てていて仕返しをするつもりなのではないだろうか? ケンカしたら勝ち目はない。ボコボコにされるのは目に見えている。しかし、僕に乱暴を働いたら丹沢はサッカー部に居られなくなる……。

 そんな愚かなことをするはずがない。待てよ、まさか、丹沢は僕のことが好きになって告白しようと呼び出したのではないだろうか? 

 いや、ないない。あいつの中身は男だ。仮に女性の部分がかすかに混在するにしても、よりによって僕を好きになる理由がない。一瞬もしやと思ったが、そんなことを頭に浮かべた僕がバカだった。サッカー部について詳しい情報が欲しいから晩飯にでも誘おうと思っただけだろう。きっとそうだ。

 自分より十四センチも背が高い女性と一対一で晩飯を食べに行くのは気が進まない。三、四センチの差なら道の高い側を歩くとかしてカバーできるが、十四センチではどうしようもない。周囲から「自分よりはるかにデカい女とデートするチビ男」的な視線を浴びるのが目に見えている。しかし、丹沢のことだから普段も男のような服装をしている可能性が高い。

 そう言えば、入学して半年以上経ったのに丹沢をキャンパスで見たことは一度もなかった。マンモス大学だから渋谷の街を歩くのと同じで一人一人の顔は覚えていなくて当然だが、もし丹沢が化粧をしてスカートをはいて歩いていたら必ず目立つ。こう言うと本人は嫌がるだろうが丹沢は美人だ。三百人の学生を同時に見かけても、百七十七センチの美女が混じっていれば必ず僕の目に留まっただろう。

 つまり、丹沢は普段男装をしているのが確実だということになる。

 東門を出たところの壁際で目立たないように待っていると紺のパーカーを着て頭をフードで覆ったサングラスの男が近づいて来た。口元を見て丹沢だと分かった。スポーツバッグを右肩にかけ、両手をポケットに突っ込んだ細長いシルエットは、イケメンを絵に描いたようだった。

「待たせたな」

「そんなに待ってないよ。サングラスをかけた怖い感じのお兄さんが近づいて来たからドキッとしたけど」

 丹沢が満更ではない表情を示したので、僕はお世辞を重ねることにした。

「その姿で女子の部室によく出入りできたね。韓流スターのようなカッコいいイケメンだもの」

 苦虫を噛みつぶした表情に変わったので僕は焦った。

「俺、徴用工判決が出てからは韓国人とは関わりたくない気持ちなんだ。韓国人というだけで嫌うのはよくないことだとは頭では分かってるんだけど……」

「例えが間違っていた。竹内涼真と竹野内豊を足して二で割ったようなイケメンと言いたかったんだ」

「えへへ、それほどでも」

「女子サッカー部の部室で下着姿を見ても丹沢さんの方からは何とも思わないの?」

 そんな質問をしたのは丹沢がレズなのかどうかを知りたかったからだ。

「特に何とも思わないなあ……。きれいな女の子の下着姿を見るのはイヤじゃないけど、わざわざ見たいとは思わない。お前は見たいんだろう?」

「そりゃそうだけど、最近色々ウルサイから、大手を振って女子更衣室に出入りできる丹沢さんが羨ましいよ」

「お前なら女子サッカー部に入部して女子更衣室に出入りできるぜ。俺が男子サッカー部に入ったお祝としてお前を引き取ってくれと言って木田監督と交渉してやろうか?」

「怒るぞ!」

「すまん。お前の可愛い顔を見て、つい悪乗りしてしまった」

 可愛いと言われて余計に頭に血が上った。普通、女性から可愛いと言われたら悪い気はしない。男友達から可愛いと言われれば軽蔑か揶揄だから腹が立つ。丹沢に可愛いと言われてどうしてこれほど恥ずかしい気がしたのか自分にも分からない。

「自分は美人と言われてケンカを売るのかと怒ったくせに、僕に対して可愛いというなんて、それこそケンカを売っていることが分からないの?」

「やめようぜ、相手を美人とか可愛いとか言ってののしり合うのは」

 そう言われるとに可笑しさがこみ上げてきた。僕がぷっと吹き出したのと丹沢がアハハハと声を上げて笑い出したのはほぼ同時だった。

 駅の手前のラーメン屋の前で丹沢が立ち止まり「ここでいいか?」と聞いたので「いいよ」と答えて店に入った。まだ店は空いていて、奥の二人掛けのテーブルに向かい合って座った。

「割引クーポンを持ってるんだ。今日は俺のおごりだ」

「どうして? 割り勘にしようよ」

「お前には色々お世話になったんだからおごらせてくれよ」

「分かったよ。次は僕がおごるから」

 そう言った後で、もう一度食事をする約束をしてしまった事に気づいた。まあ、サッカー部の仲間だからいいかなという気持ちになっていた。

 丹沢は豚骨ラーメンの大をメンマ大盛で二人分注文をした。パーカーのフードを下ろさずに、サングラスをかけたままの丹沢と向かい合って座っていると、変な気持ちになった。丹沢の中身が……生物学的形態が女性だということを忘れようとするほど意識してしまう。

「サッカー部の女子は丹沢さんみたいなイケメンを見たらキャーキャー言うんだろうね」

「それがどうした?」

「いや、色々やりにくいだろうなと思って」

「女子サッカー部に限らず、女子は俺に近づきたがるやつが多いから鬱陶うっとうしいぜ」

「一度でいいからそんなことを言ってみたいよ」

「お前だってモテるだろう。この間、サッカー部の練習をネットにへばりついて見ている女子が四、五人いたけど、お前を指さして『あの子が習大ならだいの岩渕真奈だ』と噂していたぞ。俺もその時にお前を見て、結構イケてるなと思ったんだ。俺が入部したひとつの原因なんだから、自信を持てよ」

 思いもよらなかったことを言われてうろたえた。丹沢にとって僕は好みのタイプだったのだろうか……。今日のやり取りから考えてそれはあり得ない。分かった。丹沢なりに僕をおだてようとしてこんなことを言っているのだ。

「性同一性障害なら男どうしなんだから、変なことを言うなよ」
と冗談半分の受け応えをした。

 隣りのテーブルに座っていたOL風の二人が同時にこちらを見て、丹沢と僕に好奇の視線を浴びせた。性同一性障害というキーワードが耳に入ったのだろう。

 気まずい沈黙の後、周囲に聞こえない小声で丹沢が僕に聞いた。

「お前って性同一性障害だったのか。だから俺が女子にモテることを気にしていたんだな?」

「つまらない冗談を言わないでよ。性同一性障害はそっちだろう」

「お前は気づいてないかもしれないけど、隣の席の人たちはお前が性同一性障害の女性だと思い込んでるみたいだぜ」

「まさか」

 そう言われて会話を思い出すと、そう思われる可能性があると気づいて顔面蒼白になった。

「俺たちが入って来てからずっと二人とも俺の方をチラチラ見ていたから間違いないよ。俺に気があるみたいだ」

「まいったなあ……」

「俺は普通だよ。女が嫌いかと言われるとそうでもない。男は不潔でクサイやつが多いから抱く相手とすれば女の方が抵抗が少ないかもな」

「バイセクシュアルだったのか……」

「わざわざカテゴリーに分ける必要はないんじゃないの? 自然体で行こうぜ。俺は自分が子供を産める身体であることに誇りを持っているし、女性であることを隠すつもりもない」

「じゃあ、どうして男装をして男みたいにしゃべるの?」

「目立たないための生活の知恵さ。俺がスカートをはいたら化け物だぜ。男装して女言葉でしゃべったらオネエと思われる。男としては声が高めだからさ」

「何言ってんの。百七十七センチでその顔ならファッションモデルにだってなれるのに惜しいよ」

「他人事だと思ってテキトーなことを言うなよ。思い出したくも無いんだけど、俺の行った高校の女子の制服はセーラー服だったんだ。俺がどんな気持ちで三年間を過ごしたと思ってるんだ」

「じゃあ高校時代は女言葉でしゃべってたんだ」

「授業中はね。でも友達には俺で通したぜ。TPOをわきまえてたから問題は起きなかった」

「セーラー服姿で俺なんて言うから白い目で見られたんだよ、きっと」

「白い目で見られたと言うのは半分外れてる。クラスの女子はみんな俺に夢中だったから」

「その状況は想像できるけど」

「いいか、俺は根っからの体育会系だ。だから先コウ、先輩にはちゃんとした言葉をしゃべるし、友達には友達、後輩には後輩として口を聞く。サッカー部でもお前以外の人にはしかるべき言葉でしゃべっているつもりだ」

「どうして僕は例外なの?」

「うーん……。お前を見ていると、アニキを思い出すんだ。いや、アニキそのものを思い出すわけじゃなくて、小学生の時に金魚のフンみたいにアニキにくっついて走り回っていた頃の自分の姿が頭に浮かぶんだよなあ。俺がアニキでお前があの頃の俺になったみたいな気がして、つい可愛がりたくなる」

「分かりにくいなあ。倒錯的というか……。まあいいや。丹沢さんが僕を毛嫌いしてるんじゃないことが分かって安心したよ」

「言っただろう。俺は習大ならだいサッカー部の岩渕真奈に目をつけて入部したんだって」

「丹沢さんにそう言われても何とも感じないから、ありがたくお世辞をもらっておくよ。男どうしだから」
 心からそう思って言った。

「明日からも榊原指導員にはお世話になるからよろしくな」

「監督に言って指導員は返上するよ。明日からはライバル同士として頑張ろうよ。一緒に試合に出られるようになるといいね」

「そうだな、今日はお前と親友になれてよかった」

「これからは丹沢君と呼んでもいいかな? 親友どうしなのに僕だけ丹沢さんと言うのは変だから」
「勿論だよ、榊原君」

 僕たちは固い握手をして上機嫌で店を出た。

 丹沢の言動について理解が出来た。これからはわだかまりなく一緒にサッカーができる。一生の親友になれそうな予感があった。


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