バンコク発の夜行列車:異性への旅立ち(TS小説の表紙画像)

バンコク発の夜行列車
異性への旅立ち

【内容紹介】監禁・緊縛によって強制女性化させられるTS小説。大学1年の翔太はバンコク旅行中に買い物をしていて20代の美しいタイ人女性ノイナと知り合いになる。ノイナと一緒に過ごすカオサン通り、クレット島、ショッピングモールでのデートは格別だったが、思いもしない落とし穴が翔太を待ち受けていた。

第一章 初めての海外旅行

【一日目】

 夕立ちとは激しい雨を意味する言葉だと知っていたが、それが実際に夕方に降るものだと意識したことはなかった。朝、昼、晩、あるいは真夜中に雨が降るのはいずれも同様に当たり前であり、自然現象が一日の中で時間を選ぶという考えはしっくりこない。

 バンコク・センター・ホテルを午後六時四分に出発して、グーグルマップを頼りにチャイナタウンの見物に出かけた。ワット・トライミットという黄金仏寺院に立ち寄った後、チャイナタウンの入り口にある中華門に差し掛かったのは午後六時三十五分だった。赤と金を基調にした煌びやかな中華門が照明を浴びて、冴えない藍鼠色の空にさほど白くない雲がかかった夕空に浮き上がって見える。夕暮れなのに夕焼けの気配はなく、徐々にどんよりと暗くなっていった。

 チャイナタウンを貫くヤオワラート通りは夕方の渋谷に負けないほどの雑踏だった。仕事を終えた人たちや世界各国からの観光客で埋め尽くされて、時速一キロで歩くことさえ難しい。

 雲に覆われた夕暮れの空が夜に移ろうとしている。

 その時、大粒の水滴がひとつ頬に当たった。古いビルの空調装置から滴る汚れた水ではないかと、不愉快な気持ちで視線を真上に向けると、二つ目の水滴が鼻先に落ちてきた。それは空調装置からの水でもビルの生活水でもなく、空から落ちてきたものだと判った。ビルの谷間の空が、夜の闇に覆われる一歩手前でにわかに掻き曇って雨が降ろうとしているのだった。

 雨が降る前にどこか適当なレストランにでも入ろうと思ったが、その考えは甘かった。すぐに三つ目以降の水滴がバラバラと腕や顔に当たり、あっという間に本降りになった。

 夕立ちだ。文字通りバケツをひっくり返したような雨が空から垂直に落ちる。ヤオワラート通りに立ち並ぶ屋台は一斉にビニール製の幌を拡げ、道行く人々は左右の店に入ったり、手近にある軒先に身を寄せたりして雨宿りする。屋台の店主はビニールの幌から落ちて来る瀧のような雨水をバケツで受け止め、涼しい顔で座っている。彼らにとっては当たり前の日常なのだ。

 私はセブンイレブンに駆け込んで、しばらく買い物客のふりをしていたが、五分経っても雨は止まず、いつまでも商売の邪魔はできないので外に出た。ナップサックから取り出した折り畳み傘を拡げて、隣の建物のひさしの下に立って雨宿りをした。ますます大降りになり傘も十分な役目を果たさないほどだった。

 バンコクの八月はモンスーンの時期にあたり、スコールの季節だとは聞いていたが、スコールが夕方に降るものだとは知らなかった。東南アジアに旅行に来て現地の風物詩を味わうのもひとつの楽しみではあるが、こんな風物詩は願い下げだ。

 一時間ほどして、やっと小ぶりになったので、ホテルに引き返すことにした。何度も水たまりに足を取られて、靴の中は水浸しになっていた。現地の人や欧米からの観光客が男も女も素足にサンダルで歩いていた理由が分かった。

 来る時の倍の時間をかけて中華門に辿り着いた。早くホテルの部屋に戻ってシャワーを浴びたいと思ったが、空腹を感じてフアランポーン駅の近くの「香港ヌードル」と書かれたレストランに入った。午後八時を回っていた。トムヤンクン・ヌードルのセットを注文した。熱いトムヤンクンをすすると身体全体が火照り、スパイスのせいで頭皮から汗が出てきた。

 トムヤンクンは日本で食べたことがあるが、さすがに本場の味は格別だった。スパイスにパンチが利いていて風味に混じりっ気が無い。それにエビが新鮮でプルプルしていた。値段は百三十バーツ、四百数十円だ。ちゃんとしたレストランだし、飲み物とデザートがついたセットでこの値段なら文句はない。

 レストランを出ると雨はもう上がっていた。靴下がたっぷりと水を含んでいて歩くとグシュグシュと音を立てていたが、さほど気にならなかった。ホテルまで歩いて部屋に戻った。浴槽にお湯を入れながら靴にヘアドライヤーの先端を差し込んで乾かした。

 風呂場の蛇口から出てくるお湯は体温より少し低い感じがしたが、しばらく出していると生温かいレベルまで温度が上がった。それでも浴槽に横たわるとほっとした気持ちになった。目と口だけを湯面に出して半無重力状態で全身の力を抜いた。ヤオワラート通りの雑踏、にわかに掻き曇った空の不気味な蒼黒さ、屋台のビニールの幌から滝のように落ちる水、そして何とも言えない不潔さが頭の中に混然と蘇る。

 僕は潔癖主義者ではなく、お菓子を床に落としても三秒以内に拾い上げれば平気で口に入れられる性質だし、朝コーヒーを飲んだカップに、夜お茶を注いでも気にならない。でも、バンコクは何かが違う。湿気のある空気の中に目に見えない埃が漂っていそうだし、靴の中まで侵入した水たまりの茶色っぽい水には、日本には居ない雑菌がひしめき合っている気がする。

 いけない。せっかくの東南アジア旅行なのに、潔癖症の女の子のような考え方では楽しめない。あと三日間、男らしく豪放磊落に振る舞わなければと自分を叱咤激励した。

 

 バンコク旅行に申し込んだのは気まぐれによるものだった。八月二十三日から大学の友人と長野に行く予定だった。白馬高原に二泊してから戸隠に一泊することになっていた。ところが台風が相次いで発生し、旅行計画と同じタイミングで甲信越地方を直撃するのが確実になってしまった。二十一日に友人から旅行の中止を宣言されてガッカリした。

 何気なくスマホを見ると大手旅行代理店から「超激安直前割引で行く海外旅行」というバルクメールが入っていた。クリックしたところ、二日後に出発する「バンコク五日間」が二万四千八百円でオファーされていた。あまりの安さに唖然とした。パスポートは持っていたので、発作的に申込ボタンを押してしまった。結局、空港使用料と現地税を加えて約三万円をクレジットカードで払ったが、良い買い物ができたと思った。

 少し気がかりだったのは、一人での申し込みの場合は見知らぬ客と二人部屋で同室になるという点だった。一万二千円の追加料金を払えば一人部屋が確保できるのだが、後で友達に激安を自慢するためにはトコトン安く上げたいという気持ちが強かった。

 翌々日の八月二十三日の早朝、ティーシャツを四枚と下着を入れたリュックを背負ってアパートを出た。午前十時発のスクート・エアラインに搭乗することになっていた。聞いたことのない航空会社だったが、この値段なら仕方ないと思った。ツアーと言っても、バンコクの空港からホテルまでのバスが付いているだけであり、自分でエアラインにチェックインしてバンコクに飛び、帰国日は自力でバンコクの空港に行ってチェックインするというセルフサービス形式になっていた。

 実際に乗ってみるとスクート・エアラインは快適だった。機内では食事も飲み物も無料サービスは一切ないという徹底した内容だったが、出発ゲートの自販機で買ったウーロン茶だけで七時間のフライトを楽しんだ。

 バンコクのドンムアン空港に到着し、入国審査も思いのほか順調に通過して、両替所で一万円をタイ・バーツに両替した。税関出口を出ると、予めネット検索で調べていた通りAISという通信会社のショップに直行して、スマホ用のSIMを購入した。七日間四ギガバイトまで使えるプリペイド形式のSIMが二百九十九バーツ。日本円で約千円だった。ショップでSIMを挿入してもらうと、スマホにメールとLINEが着信し始めた。試しにググってみたところ日本で使っている格安SIMよりもサクサクと動いた。

 集合場所に行くとカタコトの日本語を話す女性現地スタッフが立っていた。他の乗客が集合するまでニ十分間ほど待たされてからバスへと誘導された。その時点で、僕と相部屋になる人がどの人かは不明だった。僕以外に一人旅らしい客は見当たらず、三人組の女性グループは見かけたが、奇数の人数の男性グループは存在しないようだった。女性と相部屋になるはずがないが、もしそうなったらどうしようとドキドキした。

 初めての海外だった。東南アジアとはどんなところか、テレビで見て大体分かっていたが、バスの窓の外には本物のアジアの景色が流れていく。空には白い雲が低くかかっていたが、目に入る光景はヴィヴィッドだった。初めて見る外国だから生き生きと感じられるのかもしれない。高速道路を下りて市街に差し掛かると渋滞が始まり、バスはノロノロと進んだ。バスの窓のすぐ近くをタイ人のカップルが歩いている。僕は本当にバンコクに来たのだと実感した。

 まもなくバスはバンコク・センターホテルの敷地に入って玄関前に停車した。女性現地スタッフの後を追ってホテルに入った。

 フロントの女性スタッフが客の名前を呼び、ルームキーを手渡し始めた。僕の名前が呼ばれて、キーを受け取った。女性現地スタッフに「一人部屋ですか?」と聞いたところ「お一人です。さびしいですか」と言われた。

 うれしさで飛び上がりたい気持ちだった。きっと他には一人で参加した男性客が居なかったため、旅行会社の都合で僕は追加料金なしで一人部屋を占拠できることになったようだった。


【二日目】

 目覚まし時計をセットせずに寝たが、翌朝起きると午前六時半だった。二時間の時差があるから、目が覚めて当然だ。昨夜手洗いして踏み押ししてハンガーにかけておいたズボンはまだ半乾きの状態だったので、リュックの中からスリム・パンツを出してはいた。それは薄くて軽いコットン・ライクなカーキ色のパンツで、お気に入りのズボンだった。黒地に白でDKNYとプリントされたティーシャツを着て、昨夜ヘアドライヤーで乾かした靴を履いた。

 靴の内側の表面は乾いているように見えたのに、実際に履いて立ってみると、水分が浸み出して靴下がじっとりと濡れた。こんなはずじゃなかったと思いながら靴の中敷きを取り出して乾かそうとしたら、靴底に穴が開いていた。バンコク旅行を終えたら捨てるつもりで古い靴を履いてきたのが間違いだった。穴が開いていたから汚い水が靴の中まで入ったのだ。

 他に履物は持っていないので仕方なく濡れた靴を履いて一階のレストランに行った。今日の観光予定にはショッピングセンターも含まれているので、まず靴屋に立ち寄って靴かサンダルを買うことにしようと思った。

 ツアー料金には朝食が含まれている。朝食付きのホテル料金が三泊分含まれているというべきかもしれない。レストランはバイキング形式で、十種類を超える料理が並んでおり、パン、おかゆ、ヨーグルト、フルーツも食べ放題、コーヒーとソフトドリンクも飲み放題という天国だった。他の客の真似をして野菜入りのオムレツも注文し、お腹が一杯になるまで食べ続けた。バンコクのホテルは男子大学生にとってパラダイスだと思った。

 すっかり満足して部屋に戻り、ナイロン製のナップサックに折り畳み傘とハンドタオルだけ入れてホテルを出た。

 バンコク・センター・ホテルはバンコク市街の中心地からは離れているが、国鉄フアランポーン駅まで徒歩五分、地下鉄ファランポーン駅への階段はホテルのすぐ前という便利な場所に立地している。できれば国鉄を利用してタイ郊外のアユタヤ遺跡にも行きたい所だが、タイでの滞在が実質丸三日間という短い日程なので、アユタヤは断念して市内観光を中心にしようと考えていた。

 バンコク市の公共交通はMRTと呼ばれる地下鉄、BTSと呼ばれる高架鉄道、バス、川や運河を運航するボートなどによって構成されている。バンコク観光に関するインターネット・サイトには、MRTやBTSの切符売り場には長い列ができるので、非接触型チップの埋め込まれたプリペイドカードを購入するのがよいと書かれていた。僕はフアランポーン駅で二百バーツを出してMRTのプリペイドカードを購入して改札を通った。

 築年数が浅いせいか地下鉄の構内は真新しく、エスカレーターも、プラットフォームも日本の地下鉄に負けないほど清潔で広々としていた。地下鉄の車両が到着するとプラットフォームの自動ドアが開き、並んで待っていた乗客が整然と乗車する。乗客は大声でしゃべることもなく、スマホを片手に黙って座っている。

 行儀がいいというか、落ち着いているというか、トゲトゲしたところが無くてほっとした。ネットで読んだのだが、タイ人は日本人より柔和で大人しいのかもしれない。目が優しいし、話し言葉のトーンが柔らかい。タイ語は解らないので意味は不明だが、声のトーンが柔らかだった。特に男性のしゃべり方は抑揚が無く滑らかで、自信がないかのような響きが感じられる。

 もし僕が日本であんなしゃべりかたをしたら、女性的だと思われるだろう。タイはレディーボーイと呼ばれるニューハーフが大勢いる国だが、タイ人の男性は元々女性っぽい素地を持っている人が多いのかもしれない。

 二駅先のシーロムという駅でMRTを下車し、BTSに乗り換える。BTSの切符売り場で百八十バーツを出してプリペイドカードを購入した。MRTとBTSは会社が違うので別々のプリペイドカードを買わねばならない。共通化の計画はあるが実施が遅れているそうだ。

 BTSはスカイトレインとも呼ばれる高架鉄道なので、乗り場は高い位置にあり、駅の周囲の景色が見渡せる。MRTと同じように清潔で、ホームには柔和そうな人たちが静かに立って電車を待っている。

 この国に足を踏み入れてからまだ一日も経たないが、僕はバンコクが好きになってきていた。昨夜チャイナタウンで感じた汚れた息苦しさは夕立と水たまりがもたらしたものであり、普段のバンコクはきっと清潔で柔和で好ましいものだという気がしていた。

 スカイトレインの車両が到着して整然と乗車した。車内はそこそこ混んでおり立っている客が多かったが、先ほどの地下鉄と同じように静かで清潔で柔和だった。その時、僕は心地よさの一つの原因に気づいた。僕より背の高い人と背の低い人がほぼ同数だったのだ。タイ人の平均身長は男性が百六十七センチで女性が百五十七センチだとネットに書いてあったのを思い出した。百六十三センチの僕は全人口の平均にあたることになる。東京の満員電車だと周囲の男性の大半よりも背が低いので居心地の悪さを感じていたのかもしれない。

 女性は概して日本人より浅黒いが、南アジア人的な丸顔で骨格の小さい女性と、伸びやかな体形の女性に二分されるように思えた。後者は百六十センチ代後半の現代女性が中心で、僕の好みのタイプだ。これはネットで読んだのだが、タイ人の牛乳摂取量は国際平均の七分の一以下であり、タイ政府は学童に毎日二、三杯の牛乳を飲ませることによって平均身長を欧州諸国並みに引き上げる計画を立てているそうだ。ということは、タイ人は日本人よりも遺伝子的に欧州人に近いのだろうか? 

 僕の近くに立っているすらりとした若い女性は、毎日二、三杯の牛乳を飲まされて育った新世代のタイ人女性なのかもしれない。

 女性のパンツ姿とスカート姿は半々ぐらいだったが、東京と比べるとレースのスカートやワンピースの人が非常に多いことに驚いた。よく見ると薄っぺらいカーテンのような光沢で立体感に乏しいレースだったので興ざめした。日本の女性なら決して着ない安物の素材だと思った。

 サイアム駅でBTSを降りた。サイアム駅周辺にはいくつかの巨大ショッピングモールがあるが、午前十時前だったのでまだ閉っていた。スマホでグーグルマップを見ながら、今朝の目的地であるパンティップ・プラザに向かって歩いた。パンティップ・プラザはバンコクの秋葉原と呼ばれる場所だ。僕は秋葉原が好きで、特に用が無くても秋葉原で下車をしてブラブラすることがあるほどだった。パンティップ・プラザはバンコクで是非訪問したい場所のひとつだった。

 炎天下を二十分ほど歩いてパンティップ・プラザに到着した。銀座のデパートを大きくしたようなビルの中には無数のショップが並んでいた。秋葉原からアニメ、オタク文化と家電製品を取り除き、ひとつのビルの中に押し込んだ場所と表現すべきだろうか。平たく言えばパソコンとスマホ関係のショップを集めた電脳ビルだった。雑貨のショップがあったり、コワーキング施設やフードコートが充実していたが、秋葉原を知り尽くした僕にとって特に目新しいものは無かった。

 パンティップ・プラザを出て水上バスの乗り場まで歩いた。バンコクではMRT、BTSの交通網はまだまばらで、道路は渋滞が多くバスは時間通りに動かないので、川や運河を通る水上バスが重要な交通手段となっている。プラトゥナームの水上バス乗り場に着いて数分待つと、数十人は乗れそうなボートが来た。車掌がボートから岸に飛び移ってともづなでボートを固定する。その間、十秒もかからない。乗客も岸からボートへ、ボートから岸へと慣れた足つきで移動する。小さな子供やお年寄りには利用が困難な乗り物だ。

 ボートには四、五人が並んで座れるベンチが十列ほどあり、僕はボートの縁に近い席に腰を下ろした。若い車掌がとび職のような身のこなしでボートの縁を伝って料金を集めに回る。下船予定のパンファ・リーラードという埠頭までの料金は二十バーツ、僅か七十円ほどだ。巨大なオートバイのような音を立て、水しぶきを上げながらボートが進む。チャイナタウンの水たまりと同じ色の赤茶けた水だった。ボートの左右にはビニールの幌がかかっているので、幌を上げない限り水しぶきはかかららない。

 運河の両岸には家並みが続いている。大半は木造の一般家屋で、ボートから見えるのは玄関とは反対の裏戸の側だ。運河と家との間の狭い路地を普段着姿の老人が歩いている。運河ぎわに直接建っている家も多い。

 家屋が途切れたところに突如寺院が現れる。それにしても、やたら寺院が多い。タイには二万五千もの寺院があるそうだ。仏教国だから寺院とは「お寺」なのだが、金箔で覆われた大きな尖塔を頂いたきらびやかな建築物がバンコク中に散在している。京都を訪れる外国人も同様な印象を受けるのかもしれない。

 二十分ほどするとその水上バスの終点のパンファ・リーラードに到着し、全員がボートを降りた。向こう岸の奥にある小高い丘に黄金の仏塔が見える。あれはワット・サケットという寺院で、今回の旅行で訪れるべき場所のひとつだ。

 しかし、僕は先にカオサン通りに行くことにした。カオサン通りは「バンコクの原宿の竹下通り」とも言われており、さまざまなショップが並んでいるそうだ。今朝は湿ったままの靴を履いて出てきたが、さきほどから足が蒸れた感じが気になっており、早く新しい履物を買いたかった。

 グーグルマップによるとカオサン通りまでは徒歩十六分の距離だったが、トゥクトゥクで行くことにした。トゥクトゥクとは小型の三輪自動車のタクシーで、オートバイの後輪を二輪にして引き伸ばし、二人から数人が座れるようにした「オート三輪」だ。「三丁目の夕日」にも出て来るレトロな可愛い半オープンカーを見て、一度乗ってみたいと思っていた。

 埠頭から階段を上がった所に数台のトゥクトゥクが客待ちをしていた。「カオサン・ロード」と言うと「ワンハンドレッド・バーツ」と言われたので、少し高いのではないかと思ったが「OK」と答えて乗り込んだ。雨よけのビニールの幌のついたオート三輪は片道三車線の道路を乗用車と競うように走った。車体が軽くてフワフワした感じだ。もし乗用車と衝突したらひとたまりもなくぶっ飛ばされるだろうと思ったが、トゥクトゥクは数分でカオサン通りの入り口に到着した。

 そこはひと目で観光地とわかる場所で、車両制限された道路の両側の歩道に沿ってさまざまなショップ、飲食店やホテルが並んでいた。茶葉、オーガニック石鹸、手工芸品、衣類など、観光客を目当てにした小さなショップが立ち並ぶ。衣類店には値札が百バーツ(三百四十円)のワンピースが吊るされていたりしてバカバカしく安い。

 靴屋を見つけて立ち寄り、まずスニーカーを見たが気に入ったデザインのものがなく、サイズも大きすぎるか、長さが合っても極端に細くてとても履けそうになかった。ショップの男性が諦め顔でサンダルの棚に僕を誘導した。ところが、どのサンダルも安っぽく、大きすぎてすぐに脱げそうだった。ショップの男性に「サンキュー」と言って立ち去ろうとしたところ、引き留められ「ニュー・プロダクト」と言ってグリーンのサンダルを手渡された。履いてみると僕の足にピタリとフィットしていた。長すぎも短すぎもせず、土踏まずの部分がわずかに盛り上がっているので、走っても脱げないだろうと思った。これならスニーカーと同じ感覚で歩き回ることが出来る。

 僕はすっかり気に入って「ハウマッチ?」と聞いたところ、「ファイブ・ハンドレッド」と言われた。この店にある他のサンダルには百バーツから二百バーツの値札がついているので五百バーツは高すぎると思い、「ディスカウント・プリーズ」と言ったところ、「ニュー・プロダクト、ノー・ディスカウント」と値下げを拒否された。五百バーツは日本円で千七百円だから目くじらを立てることもないかと思ったが、足元を見て吹っかけられた気がしたので、わざと苦い顔をして黙っていた。するとショップの男性が「OK、フォア・ハンドレッド・フィフティ」と一割の値下げを提案してきた。

 内心嬉しかったが、仕方ないと言う表情を見せながら財布から五百バーツ札を取り出そうとしたところ、後ろからポンと肩を叩かれた。振り返ると、僕より少し年上のスラリとしたタイ人女性が立っていた。彼女は僕の右肩を押して、反対側のサンダルの棚へと誘導した。そこは女性用サンダルのコーナーで、僕が気に入ったのと同じサンダルが二百バーツで展示されていた。

 僕はショップの男性に「ジス・サンダル・イズ・ウィメンズ」と抗議したところ、「フォア・メン・アンド・ウィメン」という答えが返って来た。女物をつかまされそうになったことにプライドを傷つけられた気がしたが、タイ人女性のひと言で気持ちが変わった。

「とても似合う」

 彼女が日本語をしゃべったのに驚いた。日本人ではないと分かる日本語だったが、少しハスキーで低めの快い響きの声だった。

 僕は五百バーツ札を財布に戻して代わりに百バーツ札二枚をショップの男性に渡した。男性はタイ語で何やら彼女に話した。意味は分からないが悪態をついたのは確かだった。彼女のお陰で二百五十バーツを儲けそこなったのだ。僕はその場の雰囲気を悪化させたくないという気持ちで、ショップの男性に、サンダルはそのまま履いて帰りたいのでこの靴を捨てて欲しいと身振り手振りを交えて頼んだ。彼はOKと答えて僕から二百バーツを受け取り、取引が完了した。

 湿った靴から解放されて清々しい気持ちで店を出た。

「ありがとうございました。お陰で騙されずに済みました」
 お辞儀をして日本語で礼を言った。

「どういたしまして。日本人、騙されやすいから気をつけて」
 彼女は微笑んでさほど不自然ではない日本語で言った。

 その時、僕は彼女がとても美しい女性だったことに気づいた。

 ショート・ボブの髪が眉毛の位置で切りそろえられている。脛丈の黒いスリムなパンツに大き目の白のシャツをボーイッシュに着こなしている。やや浅黒いがダメージの無いしっとりとした肌に、切れ長の二重ふたえの目が映えている。厚みの無い白いサンダルを履いているが、僕より七、八センチほど背が高い。

「東京から昨日バンコクに着きました。明後日の夜のフライトで日本に帰ります。桃野翔太と申します」

 不必要な自己紹介だとは分かっていたが、たとえ数秒でも長く彼女の近くに居たいと思ってしゃべった。

「私の名前はノイナ」
と彼女は微笑んだ。

 それが運命の女性ノイナとの出会いだった。

第二章 恋に落ちて

 勇気を振り絞ってノイナに言った。

「お礼に昼食でもごちそうしたいのですが」

 僕は自分から告白するのは得意ではなく、大学に入ってから一度もナンパをしたことがなかった。高校時代の彼女もバレンタインデーにチョコレートをもらって仲良くなったが、特に好きなタイプの女子ではなく、僕が東京の大学に進学してからは自然と疎遠になった。

 断られるだろうと思っていたが
「いいわよ。私もお腹が空いたところ」
という答えが返って来た。

 僕が思わずガッツポーズをしたのを見てノイナは笑った。

 二人で並んで歩道を歩く。

「ノイナさんはカオサン通りに住んでるんですか?」

「ノイナさんはおかしい。ノイナと呼んで、モモノ」

「モモノはファミリー・ネームですからショウタと呼んでください」

「ショウタ、美しい名前。私はカオサン・ロードじゃないけどバンコク市内に住んでる」

「学生ですか?」

 ノイナはアハハハと笑って
「学生じゃなくてオバサン」
と答えた。

「カオサン・ロードでミーティングした後、帰ろうとしていた。靴屋でチートされていたのが美しい日本人だったから助けた」

「美しいだなんて……」

 お世辞でイケメンとかハンサムと言われたことはあるが、美しいと言われたことは無かった。タイでは男性にも美しいという形容詞を使うのだろうか? ついさっきも名前が美しいと言われた。ノイナは美しいという日本語のニュアンスを知らないか、何でも美しいと言うのがクセになっているのかもしれない。

「もし美しくなかったら放っておいたんですか?」

「オフ・コース! 外国人はチートされる。それが普通。全部助けていたら忙し過ぎる。ショウタはとても美しい。だから助けた」

 そういうことならノイナの方から僕に近づいたことになる。僕がノイナをナンパしたつもりだったのだが……。

「お世辞を言われても、高級なレストランでご馳走するのはムリですよ。僕は貧乏ですから」

 タイ人女性が日本人男性に近寄るのはお金を取るのが目的だとネットで読んだので先手を打ってそう言った。

「お世辞じゃない。美しくて可愛い人、貧乏でもノープロブレム」

「日本で十八年間生きていて、美しいとか可愛いかと言われたことはないんですけど……。僕はタイに引っ越した方が幸せになれるかもしれませんね、アハハハ」

 テラスにテーブルを並べたレストランに差し掛かり、ノイナが「ここがおすすめ」と言ったので「いいですね」と賛成した。欧米人のカップルが座っているテーブルが二つあり、僕たちはその間のテーブルに席を取った。

「ヌードルとライス、どちらが好き?」

「昨日ヌードルを食べたから、今日はライスにしようかな」

「トムヤンクンとグリーンカレーはどちらがいい?」

「昨日トムヤンクンだったから、今日はグリーンカレーがいい」

「スパイシー、大丈夫?」

「僕はスパイシーなのが好き」

 若いタイ人のボーイが注文を取りに来た。ノイナはメニューを受け取らずに早口のタイ語でボーイと短いやり取りをした。

 五分もしないうちにボーイが料理を持って来た。ステンレス製の皿にバナナの葉を敷いて、グリーンカレーとライスが盛られていた。飲み物はペットボトル入りの水だった。

 グリーンカレーは東京に出て来るまでは見たことがなかった。大学の学食のスペシャルメニューで二度食べたことがあるが、ココナツミルクをベースにしているのにピリッと辛い感じが好きだった。

 バナナの葉はちゃんと洗ったのだろうかと心配になったが、ノイナの前で男らしく振舞いたかったので、気にしないフリをしてスプーンを持った。ナスとキノコが豊富に入っていた。

「美味しい! 毎日食べたいぐらい!」

 僕は感動した表情を見せて少し大げさに言ったが、それは本心だった。

「ベジタブル・グリーンカレーはとてもヘルシー。安いから、貧乏なショウタでも毎日食べられる」
と、ノイナが真顔で言った。僕が貧乏だと言ったのを真に受けたようだ。今更あれは冗談だったとは言い出しにくかった。いや、親からの仕送りとバイト収入で暮らしている僕は貧乏と言っても間違いではないかもしれない。いずれにしてもノイナが金目当てで日本人の僕に近づいたのでないのは確かだ。

「ノイナはどんな会社に勤めているの? 今日は金曜日だけど休みなの?」

「日本人、みんなサラリーマン。私はサラリーマンとは違う。自分でビジネスしている。トレーディング、サービス、色々な契約」

「すごい、社長さんなんだね。バンコクの美人社長か……」

「美人じゃない。私は色が黒い。だからショウタみたいに真っ白で可愛くて美しい人が好き」

 今度は正面から目を見ながら美しいと言われて、僕は真っ赤になってしまった。ノイナはスマホを取り出して僕の写真を何枚も撮った。僕がグリーンカレーをスプーンで口に運んでいる時に「スマイル」と言われて微笑むと、その写真を撮られた。モデルのように被写体として扱われるのは初めての経験だったが、くすぐったくていい気持だった。ノイナは僕にとっては言葉を交わす機会を与えられただけでもラッキーなレベルの美人だ。逆に僕が美しいとチヤホヤされる状況に置かれているのは現実と思えなかった。

 僕がスマホを取り出してノイナの写真を撮ろうとすると、ノイナはレンズの前を掌で遮った。

「ノー、ノー、ノー。私は美しい人の写真を撮るのが好き。写真を撮られるのは大嫌い」

 ノーと三度も言われて仕方なくスマホをしまった。ノイナの写真が欲しかったのに残念だった。特にツーショットが。東京で友達に「バンコク旅行中にハッとするほどの美人と知り合いになって一緒に食事をしたんだぞ」と自慢しても、写真が一枚もないのではホラ吹きだと思われる。仮に現地女性をナンパしたことまでは信じてもらえたとしても、ブサイクなタイ人の女性を頭に浮かべられるだけだ。

 食事を終えたら別れる前にツーショットを取らせてくれるよう、ダメ元で頼んでみようと思った。

「ショウタは本当に日本人?」

 突然意外な疑いをかけられて当惑した。少し腹が立ったので僕は何も言わずにナップサックからパスポートを取り出してノイナに差し出した。ノイナはしばらくパスポートのページをめくっていたが、写真の載っているページをスマホで撮影してからパスポートを僕に返した。

「どうして写真を撮ったの?」

 僕は不信感を押さえられずに詰問口調で聞いた。ノイナは僕の目を見て答えた。

「ショウタが好きになったからショウタの事を全部知りたい」

 予想外の答えを聞いて頭の中がカーッと熱くなった。自分の顔が耳の付け根まで真っ赤になったのが分かった。

 ノイナは立て続けに色々な質問をした。家族の事、大学の事、一人暮らしのアパートの事、バンコク旅行のこと……。僕は半分上の空で聞かれるままに答えた。

「もうこんな時間」
とノイナがスマホを見ながら呟いたので、別れの時が近づいたことを意識した。肺の付け根が収縮したように息苦しくなった。

「これからどこを観光するの?」

「ワット・サケットに行くつもりだった」

「明日は?」

「水上マーケットとクレット島のどちらに行くべきか、まだ迷ってるんだ」

「クレット島にしなさい。午前八時に迎えに行くからホテルの玄関で待っていなさい」

 ノイナが命令語を使ったのはそれが初めてだったが、僕は一瞬ノイナから言われたことが理解できなかった。

「まさか……一緒に行ってくれるというの?」

 夢のような申し出だった。今日知り合ったタイ美人から、明日のデートに誘われるとは! 

「美しくて可愛いショウタと週末を過ごしたい。お願い!」

 懇願口調で言われて身体が溶けてしまいそうだった。

「僕なんかで良かったら、よろしくお願いします」

 ノイナの表情がパッと明るくなった。本気で僕と一緒に過ごしたいと望んでいるのだと思った。

「今日は約束があるから、ワット・サケットの入り口まで送って行って、そこでお別れ」

「うれしい。夢みたい」
 僕は素直に感謝の気持ちを表した。

 ノイナが手招きをしてボーイが勘定書きを持って来た。僕が財布を出して「いくら?」と聞くのを無視して、自分の財布から百バーツ札を二枚出してボーイに渡した。ボーイがノイナに返したおつりは多分五十バーツほどだった。二人の合計で約五百円しかかからなかったのだ。僕にとっては三日分のバイト代を注ぎ込んでも惜しくない最高のデートだったのに。

「僕に払わせて」

「ショウタは貧しい。私は沢山お金を稼いでいる。それに年上」

「僕は男だから僕が払うのが当然だ」

 その時、ノイナはニヤリと笑って僕の心臓が止まるようなことを言った。

「ショウタの方が私よりもずっと女らしい。私がレディーボーイだと分からなかった?」

「え、え、えーっ!」

 周囲の世界がグラグラと揺らいだ。タイのレディーボーイには女性以上にきれいな人がいるとネットに書いてあったが、本当は実物を見れば一目で分かるだろうとたかをくくっていた。そういえばノイナの声が女性としては低く、スラリとした身体つきの割には肩幅が少し広いような気はしていた。

 何という事だ……大学入学後初めて恋をした相手がオカマだったとは! 

 ノイナは僕がうろたえている様子を腕組みをして見ていたが、しばらくして笑い出した。

「アハハハ。ショウタが本気にした。私は水泳をしていたから肩幅が広いだけ。いつも大声を出して練習していたからハスキー。レディーボーイというのは冗談よ」

「よかった……。心臓が止まるかと思った」

 そう言ってはみたものの、正直なところまだ半信半疑だった。

「ショウタが本気にしたから、私は傷ついた」

「勿論、冗談だと分かっていたよ」
と僕はウソをついた。

「ショウタにバツを与えたい」

「ノイナがあんなことを言ったのが悪いんだよ」

 せっかくのロマンチックな出会いだったのに、別れ際に気まずいムードになった。二人で席を立ってカオサン通りと大通りとの交差点に向かって歩いた。歩道は建物から車道の側へと傾斜していて、ノイナはずっと僕の左側に立ち、僕の肩に手を回して歩いたので身長差が実際よりも強調された。

「私がレディーボーイと言ったらショウタは泣きそうだった。オロオロしてた。本当に可愛い」

 横目で見下ろしながら肩を引き寄せられた。

「ひどいよ……」

「もし私が男ならレディーボーイにはなれない。私はストロング。可愛い人が好き。だからショウタが好き」

「ということは、ノイナは相手が女性でもいいということ?」

「私はとても女の子に人気がある。女の子は私が大好き。私も女の子は好き。でもショウタが一番好き」

「よかった。もしノイナが女の子しか好きになれないのだったら、僕はレディーボーイになる必要があるもの」

「ショウタは私のためならレディーボーイになってくれる?」

「うーん、その質問はよく考えてからじゃないと返事できないな。アハハハ」

 道端にオートバイが数台停まっているところに差し掛かり、ノイナがそのうちの一人に話しかけた。ワット・サケットという言葉は認識できたがタイ語なので話しの内容は分からなかった。交渉が成立したらしく、僕の方を向いて「乗りなさい」とオートバイの後部座席を指さした。僕がそこに跨ると、ノイナが続いて僕の後ろに跨った。バイクの運転手とノイナに挟まれてノイナの胸が僕の背中に押し当てられる。運転手の汗の臭いが気になって、運転手の背中に胸が触れないような姿勢を保とうとしたが、バイクが走り出すとノイナが長い手を運転士の腰に回し、僕はサンドイッチにされた。

 レディーボーイと聞いて信じかけたほどボーイッシュな体格のノイナだったが、僕の背中に覆いかぶさるノイナの身体はフワフワしていて、目の前のゴツゴツした運転手の背中とは完全に異質なものだった。

 バイクはほんの数分でワット・サケット寺院の入り口に到着し、僕はバイクを降りた。ノイナも一旦バイクを降り、僕を正面からグッと抱き寄せて言った。

「ショウタは美しくて可愛いから悪い人に騙される。声をかけられても絶対について行っちゃダメ。夜はホテルの部屋の中にいなさい。約束して」

 まるで小中学生の女子扱いでバカバカしいと思ったが、僕は「はい、約束します」と答えた。ノイナの命令を聞くことが心地よかった。

「じゃあ明日の朝は八時にホテルの玄関で待ってるね」

 バイクの後部座席に跨ったノイナに出来る限りの笑顔を見せて胸の前で両手を振って見送った。女子のように振舞う自分は滑稽だと思ったが、ノイナに気に入られたくて必死だった。

 寺院の壁や並木の陰を選んで昼下がりの道を進む。大寺院の他にも小ぶりな寺社がいくつもあって、葬式と推測される儀式が催されていた。タイ語で書かれた表示は理解できないが、同じ仏教だからそれが葬式だと分かる。これだけ暑いと、暑さのために死亡する老人も多いかもしれない。日本では一月や二月のぐっと冷え込んだ日に葬儀の花輪を目にすることがよくあるが、南国では暑さがひどいと葬式が増えるのではないだろうか……。

 道のところどころにベンチが並んでいる場所があって、日よけの天井にあるパイプから霧が噴き出していた。通りかかるとひんやりとした空気が感じられてほっとする。霧の気化熱を利用した冷房装置なのだ。

 ワット・サケットの見どころは黄金の丘とその頂上にある寺院だ。左側に石造りの階段の入り口があり「ゴールデン・マウント、外国人は五十バーツ」と書かれていた。六十バーツで立派な食事が食べられるバンコクで五十バーツの入場料は高いと思ったが、日本円にすると百七十円に過ぎないから、京都の寺社などに比べると破格に安い。窓口に座っている僧侶に五十バーツを払って入場券を受け取った。

 どうも外国人だけから入場料を徴収するようだ。ノイナと一緒なら僕はタイ人のフリをしてタダで入場できるかもしれないとケチなことを考えながら石段を登った。ここをノイナと並んで歩いていたら恋人に見えるだろうか? ノイナの方がかなり年上に見えるから、仲のいい姉と弟と思われるかもしれない。

 黄金の丘をらせん状に登る石段の周辺は丹念に造園されており、熱帯の楽園に迷い込んだような雰囲気が味わえる。見たことのない花が咲き誇り、樹々の緑の濃い輝きに包まれると、自分は南国に来ているのだと実感する。石段は緩やかな回廊をなしていて、暑さを感じずに進んだ。

 三百数十段の石段を登り終えたところは美しい石造の寺院の中だ。標高八十メートルの寺院から三百六十度のバンコクの眺望が楽しめる。眼下に広がる豊かな緑の中に散りばめられた寺社の濃いオレンジ色の屋根と遠方に広がるバンコク市街のビル群の対比が印象的だった。僕はスマホを取り出してパノラマ写真を撮ったが、この美しさを一枚の写真に収めるのは難しいと思った。

 この景色を背景にノイナを写したいと思った。二人で並んでツーショットを撮れれば最高だ。でも、もし今ノイナが一緒なら、ノイナは写真を撮らせてくれず、僕にポーズをさせて写真を何度も撮るだろうと思った。ノイナから美しい、可愛いと言われながらレンズを向けられると鼓動が高まって耳たぶをくすぐられるような気持ちになる。少しでもいい写真になるように顔の角度を変えたり微笑を作りたくなる。ノイナにとって美しく可愛い画像になってほしいと思うのが不思議だ。僕は自分が取り立てて美しいとか、まして可愛いなどと思ったことがなかったし、そのような形容詞が自分にとって望ましいとは思えない。でもノイナを前にすると、気に入られたいという衝動が独り歩きしてしまう。

 四方向の窓をゆっくりと二巡してから屋上への階段を上った。広い屋上の中心には黄金の仏塔と、その周囲に仏塔を守る戦士の像が配置されている。仏像のようでもあり戦士の像のようでもあるが、美しく穏やかでしかも勇壮な顔をしている。日本でも仏像を見ていると女性の顔ではないだろうかと思うことがよくある。仏像の胸がふくよかな場合も多い。悟りを開いて性別を超越する存在になったということなら説得力があるが、ゴータマ・シッダールタは男性であり、悟りを開いても紛れもなく男性だった。

 黄金の仏塔を守護する戦士は女性のように美しく、ノイナを思い起こさせる。しっかりとした肩だが広すぎはせず、胸から腰は男性ではあり得ないほどくびれている。旅行の直前にテレビで見た女子の水泳選手の姿を銅像にしたらこんな感じになるはずだ。ノイナが裸でこの場に立っている姿が頭に浮かんできた。僕は目を閉じて、ノイナと向かい合って立つ自分を夢想した。

 とてもノーブルな顔の像だった。離れがたい気がしてしばらく像を見上げていた。

 頭上の空は青く白い雲がまばらな模様になっていたが、バンコク市街のビル群の方向には黒い雲の層が低く垂れこめている。昨夕、チャイナタウンの入り口に差し掛かった時に見た夕立ち雲と同じ不吉な黒さだった。あの雲が昨日と同じ夕立ちをもたらすのは確実だと思った。

 まだ午後三時だから夕立が来るまでは時間がありそうだ。周囲の景色を楽しみながらゆっくりと石段を下りて行った。

 黄金の丘の出口から元来た道を通って敷地内の寺院に向かう。来る時に見かけた葬式は既に終わって弔問客が帰りかけていた。両側に塀のある小路を進むと目の前に寺院の中庭が広がっていた。人はまばらで、寺院の建物の影が中庭の石畳を横切り、時間がゆっくりと流れている。

 石段の下でサンダルを脱いで寺院に入った。大理石の床のひんやりとした感触が足を癒す。石造りの寺院の端には高い天井まで届く座像が鎮座している。寺院の中に並ぶベンチの末席に腰を下ろして、反対側の側壁に空いた窓から見える景色と、寺院の中の穏やかな静寂の対比を楽しんだ。

 しばらくすると若いタイ人のカップルが入って来た。背が高くガッチリとした体格の男性と、どちらかと言えば小柄で柳のように細い女性だった。恋人なのか夫婦なのかは分からないが、夫婦なら結婚して間もないのではないかと感じた。仏像の前のスペースに男性が跪き両手を合わせて拝み始めた。祈りの言葉をしゃべっているのか、お経をあげているのかは不明だが口を動かしている。同じ仏教徒という点でタイ人には親しみを覚えるが、このタイ人男性のように信心深い若い人を日本では見たことがない。何度も頭を下げて本気で祈っているようだ。女性は男性の横に腰を下ろし、形だけ手を合わせて時間が過ぎるのを待っている。信心深くないのか、力の抜けたさりげない女性だ。その横で猛然と祈りをささげる大柄な男性との違いが印象的だった。

 あの二人は別の価値観を持っていて、別の事を考えている。

 そんな男女が結婚をして一生を共にするというのは不可解だ。興味の視点が異なるし、人生の展望が違うなら、男女が一生を共にすること自体に無理があるはずだ。それでもお互いの事が好きで一緒に居たいから結婚するという事なのだろうか。

 もしここにノイナが来て二人並んで仏像の前に座ったら、と想像した。きっと僕たちはあんなに間隔を開けずに座って、肩か肘が触れ合った状態で手を前に合わせて目を閉じ、頭の中に相手の顔を浮かべるだろう。僕はノイナが健康で幸せに暮らせますようにと心の中で唱えて、さらにノイナが僕をずっと愛してくれますようにと付け加えるだろう。

 この男女の間には明らかな壁がある。性別の壁だ。僕とノイナならそんな壁を隔てずに一緒に居られる気がする。昼食時にノイナが自分はレディーボーイだと言うのを聞いてショックを受けたが、今思い起こすと、もし本当にレディーボーイだったとしても、明日のクレット島へのデートはキャンセルしていなかったと思う。もしレディーボーイだったら、今日美しい、可愛いと言われた時にあれほどのときめきを感じたかどうかは分からないが、ノイナの写真の被写体になる喜びには変わりがなかったと思う。

 タイ人のカップルが出て行って僕は寺院の中で再び一人になった。

 ここからホテルまでどう帰ればいいかを調べようとスマホを見ると午後四時が近づいていた。パンファ・リーラードの埠頭まで戻って水上バスに乗り、MRTでフアランポーン駅へと引き返すのが公共交通機関を使う場合の最短路だったが、ここからホテルまでの直線距離は意外に短く、歩いて三十分ぐらいだと判った。

 僕は徒歩ルートを選択することにした。チャイナタウンのやや北側を斜めに進むことになる。

 自動車道路の両側に歩道があるが、店が商品を歩道に置いていたり、バイクを歩道を遮るように停めていたり、何人かが歩道を占領して会話をしていたりして、僕はしょっちゅう車道に降りなければ進めなかった。昨夜の夕立の水たまりがまだ残っている場所もあって、グーグルマップに表示される時間では進めない。バンコクでは歩行者が優遇されていないとつくづく感じる。憂鬱な気持ちで歩いているうちに空が急に暗くなって、今にも雨が降りそうになった。

 ホテルに着くまで空が持ってくれればいいがと思いながら歩き続ける。すると次の角に差し掛かる前に最初の雨粒が手に落ちる。ポツリ、ポツリ……。それがあっという間に土砂降りに変わる。夕立ちが二日続けて僕に襲い掛かったのだった。

 薄汚い店舗の軒先で雨宿りしようとしたが、足元を流れる水が不潔に見えた。昨日と同じ降り方だと、雨は一時間以上続くだろう。こんな場所に長居するよりは雨に濡れた方がマシだと思った。ナップサックから折り畳み傘を取り出して広げ、スコールの中を歩き始めた。小型でちゃちな折り畳み傘はバンコクのスコールにはさほど役に立たなかったが、少なくとも頭からずぶ濡れになることはなかった。

 水たまりに足を踏み入れてしまうこともあったが、サンダルなので気にならなかった。サンダルは僕の足に吸い付くようにフィットしていた。女物しか足に合わなかったことは悔しいが、結局いい買い物だった。ノイナと僕の出会いを作ってくれた宝物だ。

 フアランポーン駅に差し掛かった時には小ぶりになっていた。小ぎれいなタイ・レストランが目に入ったがまだ夕食には早すぎる。一度ホテルに帰って着替えてから夕食に行きたいところだったが、夜はホテルの部屋で居るようにと約束させられたことを思い出した。ノイナの言葉には従いたかった。

 数十メートル先にセブンイレブンの看板が見えたので、夕食を買って帰ることにした。セブンイレブンには日本と同じような弁当も売られていたが、色々な冷凍弁当が並んでいた。ドライカレーの弁当を選んでレジに持って行くと電子レンジで温めてくれた。四十バーツということはわずか百四十円だ。バンコクのセブンイレブンが東京にあったら、一瞬のうちに売り切れるのが確実だ。

 地下鉄の連絡道を通って大通りを渡り、濡れた身体でホテルに帰りついた。

 

 浴槽にお湯を入れながらドライカレーを食べた。美味しい。スパイシーだが頭皮から汗が出る程の強烈な辛さではなかった。さすが日本資本のコンビニだと感心してしまう。バンコクに来ても日本と同じコンビニに行けば生活できるというのは素晴らしいことだ。初めて海外旅行に来た僕でさえ違和感なく買い物ができる。日本のコンビニが世界中に広がれば、どんな国に行っても不便を感じないだろう。

 濡れたズボンを手洗いしてから浴槽に入った。シャンプーをして仰向けになって頭まで浸かり、毛穴の奥まできれいにした。ハンドタオルに石けんをつけて、今日の汚れを身体中から擦り去った。やはり僕には日本の方がいい。僕は自分で思っていたよりずっときれい好きだったのだと実感した。

 ノイナは今何をしているのだろうか。まだ五時を回った所だから仕事をしている可能性が高い。どこで夕食を食べるのだろう? 外食だろうか? それとも家に帰って自分で夕食を作るのだろうか? ノイナが料理をする姿は想像できなかった。タイは女性も働く場合が多いから、外食をするか出来上がった料理を買って帰ることが多いとネットで読んだ。それがタイに屋台が多い理由なのだそうだ。

 もし僕がノイナと結婚したら、僕が毎日コンビニか屋台で夕食を買って来て、二人で一緒に食べよう。ノイナが美味しいと言って微笑む顔が目に浮かんだ。結婚してノイナが日本に来て日本で生活することは想像しにくい。僕がバンコクに来て一緒に暮らすのが自然だと思う。タイは妻の家に住む女家長制度が根付いていると読んだ。ノイナが家長で僕がその従順な夫としてノイナの家に住むのはとても自然なことだ。

 多分ノイナの年齢は二十代後半で僕とは十歳程度離れている。背も推定で八センチ程度高いし、ノイナはビジネス・ウーマンとして自立している。今日もノイナは僕に何度か命令したが、僕は全然抵抗を感じなかった。結婚したらノイナが僕に命令をして僕がノイナに従う関係になるだろう。でも、それでいい。いや、それがいい。僕はノイナと一緒に居られさえすれば幸せだ。

 ただ、大学のことが気がかりだった。僕が日本で卒業するまで三年半もの間ノイナは待ってくれるだろうか? バンコクの大学に入り直してもいいがタイ語のできない僕が入れる大学はあるだろうか? もしあったとしても両親が賛成してくれるはずがない。母は僕が十歳年上のタイ人女性と結婚することには断固反対するだろう。最悪の場合、僕は大学を中退してバンコクに移り住むことになる。ノイナは大卒だろうか? 僕が高卒で終わったら、ノイナの優位性は完全なものになる。常に見下されることになるかもしれないが、それでも構わないと思った。

 湯船の中で股間のものがギンギンになって、無意識のうちにそれを右手で握っていた。ノイナの事を考えるだけで溜息が出る。身体が熱くなり、ノイナと抱き合う自分を想像しながら手を動かしたいという衝動に駆られたが、強い意志で押しとどめた。明日ノイナと結ばれそうな予感がしたので、一滴たりとも浪費をしたくなかったのだ。

第三章 二人のクレット島

【三日目】

 七時五十分にホテルの玄関を出た。ドアの所で従業員に「タクシー?」と聞かれて「ノー、マイ・フレンド イズ カミング」と答え、ドアの外でノイナを待った。今にも雨が降りそうな空模様だった。

 十一時間たっぷりと睡眠を取り、早起きして六時半に昼食を食べて万全の準備を整えた。昨夜踏み押ししたカーキ色の薄手のズボンはきれいに乾いていた。一番新しいブリーフと、僕が一番好きな黒地に白のティーシャツを着た。昨日ノイナに見初められた時にも黒地に白のティーシャツだったので、勝負服としては同系統の服が無難だと思った。

 ノイナがどうやってホテルまで来るかは知らなかった。ここからクレット島にどのようなルートで行くのかも聞かされていない。

 八時を五分ほど過ぎてノイナを後部座席に乗せたバイクがやってきた。

 微笑みながら軽く会釈をして「おはよう」と挨拶をすると、ノイナに「おはよう、ショウタ、とても可愛い」と言われたので耳たぶが熱くなるのを感じた。ノイナは僕を後部座席に座らせて自分も僕の後ろに跨った。ノイナの胸の膨らみを背中に感じて鼓動が高まった。

 バイクはゆっくりとホテルの門まで進んでから、エンジンを吹かして左折した。クレット島はここから約三十キロ北上したところにあるはずだが、バイクはチャイナタウンの手前の橋を左折して南下し始めた。ノイナは僕をどこに連れて行くつもりなのだろうか。話がうますぎることは承知していた。デートに誘って有頂天にしておいて、誘拐をして身代金を取るつもりではないだろうか。だからパスポートの写真を撮ったり家族について色々質問をしたと考えれば辻褄が合う。しかし、ノイナは僕が貧乏だと思っているはずなのだが……。

 いや、考えすぎだ。そんなネガティブ思考に陥っていては恋はできない。

「よく眠れた?」
とノイナが耳元で聞く。

 僕は前を見たまま頷く。
「うん、十一時間寝たよ」

「良くそんなに寝られるわね」

「僕、眠るのが大好きなんだ。十二時間でも十三時間でもグーグー寝られる」

 そう言い終わらないうちにバイクが道端に停まった。
「着いたわ。ここが乗り場」

 ノイナはスマホを見ながらバイクの運転手と何やらやり取りをしてから、路地に入って行った。そこは大きな川の岸で船着き場があった。ホテルからチャイナタウンに行く時に渡る川とは比較にならない大河だった。

「船に乗るの?」

「クレット島はチャオプラヤー川を三十キロ上ったところにある。アユタヤまでは八十キロだからその半分よりは近いわ」

「そんなに遠いところまで船で行くの?」

「エクスプレス・ボートはとても速いし、楽しい」

 昨日水上バスで通った運河と違って、利根川のような大河だった。水は茶色に濁っていて、大小さまざまな船が行き来するのが見える。

 乗り場の立て看板に表示された路線図を指さしながらノイナが説明した。

「N3のシ・プラヤからN33のパク・クレットまでオレンジラインに乗って、パク・クレットからクレット島にフェリーで渡る。今日は土曜日だからオレンジラインはN30のノンタブリーまでしか行かない。だからノンタブリーからパク・クレットまではタクシーに乗る」

 昨夜ネットで調べて、ホテルからクレット島の対岸のフェリーの乗り場であるパク・クレットまでタクシーで行っても約三百バーツと認識していたので、わざわざ船で行く理由が理解できなかったが、ボートの路線図を見て、変なところに連れて行かれるのでは無さそうだと分かってほっとした。

 僕たち以外にも船を待っている人たちが数人いた。十分ほど乗り場に立って待っていると昨日の水上バスよりずっと大きい船がシ・プラヤ埠頭に着岸した。足元に注意しながらエクスプレス・ボートの船尾から乗り込むと中は乗客でごった返しており、僕たちは船尾に近い一角に手すりを持って立った。エンジンが大きな音を立てて、エクスプレス・ボートという名前に相応しい高速で船が進む。乗客は欧米やアジア各国からの観光客と、タイ人が半々ぐらいだった。

 太った中年女性の車掌が料金を集めに来た。僕が財布を出そうとしたのをノイナが制して二十バーツ札を二枚払って切符をもらった。長距離の船旅の料金が約七十円とは信じられない。

 数分ごとに船乗り場に着岸しては大勢の客が乗り降りする。大きな寺院の前の埠頭に着いた時、外人観光客の大半が下船して、船の前部に空席が出来たのを見つけたので僕たちはそこに座った。周囲の席に座っている人たちは全員が普段着姿のタイ人で、生活のための交通機関としてこの船を使っているように見受けられた。

 僕たちの前の座席に十代のタイ人の姉妹が並んで座っていた。お姉さんの方はノイナのように伸びやかな体格で、妹は多分僕と同じぐらいの身長だ。浅黒くて美しい顔をしているが、一目で姉妹と分かる。二人とも日本に行ったらスカウトされそうな女の子だなと思った。二人は手を握ったり身体を触れ合ったり、まるで恋人同士のように仲良くしている。日本だと見かけない光景だが、不自然さを感じなかった。

 お姉さんの方と目が合って、僕が微笑むと彼女も微笑み返した。ノイナは僕の肩に腕を回し、僕は自然と身体を傾けてノイナに寄り掛かる姿勢になる。こんな恰好を人に見られたら恥ずかしいと思ったが、目の前のタイ人姉妹から非難の視線は全く感じられないし、僕たち二人は周囲の人たちから特別な興味を集めていないようだった。

 多分、僕は日本人と思われていないのだと思った。現地の人と同じスタイルのカーキ色のズボン、黒地に白のプリントのティーシャツ、昨日カオサン通りで買った女物のサンダルを履いてブルーのナップサックを持っている僕は、言葉をしゃべらない限り外国人には見えないのだろう。ノイナが美しいと何度も言ってくれるということは、タイ人の美的感覚では僕の顔はイケメンに分類されるはずだ。色白でやや小柄なイケメン男性と、浅黒くてカッコいい系の女性のカップルだと思われているのではないだろうか。

 ボートが高速で波をかき分けて進むので船体にはかなりの上下動がある。しばらくすると僕は船酔いで気分が悪くなり、目を閉じてノイナによりかかった。

「大丈夫。もうすぐ着くから」
と言いながらノイナが肩をさすってくれるが、船はまだN20の船着き場を過ぎたばかりだ。胸がムカムカしてきて、朝食をあんなに沢山食べるのではなかったと後悔した。終点に着くまで吐かずにすめばいいのだが……。でも、途中で船を降りるわけにはいかない。僕はただぐったりとしてノイナに身体を預けて時が過ぎるのを待った。もしノイナが悪い人で僕を誘拐しようと思っているのなら、次の船着き場で僕を下ろしてどこかに連れて行けば僕はひとたまりもない。

 ノイナに誘拐されるというのは根拠のない妄想であり、美人のタイ人女性が日本人観光客を色仕掛けで騙して誘拐して身代金を要求したというような話はネットにも出ていなかった。どうして自分がノイナに誘拐されるという可能性をしつこく頭に浮かべるのか、理由が分からなかった。ノイナが僕をちやほやしてくれる度合いが極端であり、未体験だった「美人・可愛い」という賞賛の言葉を何度も使われた結果、自分でも意識しないうちに不信感が芽生えたのかもしれない。でも、冷静に考えてそれはあり得ないことだ。身代金目的で僕を誘拐するなら、屈強な男性が腹に一撃を食わせれば簡単に拉致できる。ノイナが僕をおだてる必要は全くないのだ。

 僕はノイナの中に支配的でサディスティックな輝きを認めて、ノイナに誘拐されて支配に屈する状況を妄想することに喜びを見出しているのかもしれない。多分、ノイナには僕が今まで接したことがある女性が持っていない種類の魅力があるのだ。その魅力の中身を僕はまだ突き止めることが出来ていなかった……。

 船はやっと終点のノンタブリーに着岸して乗客たちが下船し始めた。僕たちも船尾へと歩いて行って最後に下船した。

 地面に足を下ろすと僕は急に元気になった。ノイナと手をつないでブラブラと歩いて乗り場の門を出た。ノイナがバイク・タクシーをつかまえて、二人で後部座席に跨った。

 十分ほど走ると、小さな寺院の前についた。そこがクレット島に渡るフェリーの乗り場だった。ちょうど船が着いたところでクレット島から来た人たちがフェリーから下船しているところだった。乗船を待つ人たちの最後尾に並び、まもなくフェリーに乗り込んだ。

 川の向こう岸がクレット島で、フェリーは数分ほどで到着した。下りたところのゲートで料金を徴収されたが、ノイナが払ったのは二人分で四バーツだった。一人あたりのフェリー料金が僅か七円とは驚きだった。

 財布を出そうともせずノイナが僕の分を払うのを当然のように見ている自分に気づいた。これまで僕が付き合ってきた女子は、僕がおごってあげようとしても、自分の分は自分で払うことが当然だと考えているようだった。テレビを見ていて、男に払わせたり高額なプレゼントをもらうことを自慢する女性が出て来ると軽蔑を感じていた。金額は僅か七円だが、僕はあんな女性たちと同じように行動してした。ちやほやされることで人間としての感覚がマヒしてしまったのだ。僕は深く反省し、今度は絶対に僕が払おうと思った。

 船着き場を出ると商店街に出た。商店街といっても屋台や店が左右に切れ目なく続く路地で、それが延々と続いている。

 焼き菓子、果汁、自然化粧品、ハーブ茶、陶器などを軒先に並べた小さな店が続く。日本円に直すと十円から百円の商品が豊富で、高いものでも数百円という感じだった。僕は船酔いの後で食欲は無かったし、買って帰りたいと思うものも見当たらなかった。

 ノイナはココナツクリームの入った大きな焼き菓子を一つ買った。ひと口食べると「美味しい。ショウタも食べなさい」と言って自分が口をつけた部分を僕の口の前に差し出した。同じものを二人で食べることにワクワクとしながら僕は焼き菓子をかじった。甘いクリームが口の中に広がる。同じ場所に口をつけることが当然であるかのようにノイナが振舞ったことが嬉しかった。

 食べ終わるとノイナは顔を僕に近づけ「口の周りにクリームがついてる」と言って笑った。僕が口を拭こうと右手を口元に持って行こうとするとノイナは左手で僕の手首をつかみ、首を斜めに傾けて僕の唇に沿って舌を走らせた。僕は不意を突かれて息を飲んだまま固まった。

「ショウタ、子供みたい。可愛くて美味しい」

 僕は耳の付け根まで真っ赤になった。ノイナからの賞賛の言葉に「美しい」が含まれなかったことに不安を感じた。そのたぐいの褒め言葉に慣れっこになってしまった自分を意識した。

 店が途切れると左手に小さな寺院があった。本当にタイには寺院が多い。日本ではお寺は特定の地域以外には少ないが、神社やおやしろはあちこちにあるし、地蔵がさりげなく立っていたりする。タイには大小さまざまな寺院が生活空間の中にさりげなく点在している。

 ノイナは手を合わせてしばらくお祈りをしていた。僕も横に並んで祈る恰好をした。

「ショウタがいつまでも美しく、可愛く、幸せに暮らせるようにと祈った」
と言ってノイナは優しい目で僕を見た。

「僕はノイナと永遠に結ばれますようにとお祈りしたよ」
とウソを言った。

 ノイナが僕の言葉を無視して立ち去ろうとしたので、僕はとても不安になった。ノイナは僕と永遠に結ばれることを望んでいないのだろうか……。

 僕は左手でノイナの右手をつかんで指を絡ませ、しっかりと握った。ノイナはそれを拒否せず、二人で手をつないで小路を歩いた。道端や軒先にはあちこちに花が咲いている。タイには見たこともない数多くの種類の花がそこここに咲いている。タイの市街でも大通りで有名なブーゲンビリアが咲き誇っているのを見かけたが、この島には大量の花が大げさに群生するのではなく、紫色の可憐な花を咲かせている木を見かけたかと思ったら、すぐその先の道端に真っ白な花が咲いていたりする。

 タイという国は、優しくて、さりげなくて、そしてあちこちに繊細さや美しさが立ち込めている。そんなフェミニンな背景がある国だから、女性の感性が支配的になってフェミニンなものが輝いて見える環境になるのかもしれない。レディーボーイになる男性が多いのもそんな環境があるからなのだろうと思う。

 僕たちは周囲に観光客の姿がまばらになるまで一本道を歩き続けた。一周が五キロメートルしかない島だから、もう半分は来ただろうか。軒先に花が咲いている家の前を通りかかった時、ノイナは立ち止まって、一輪の花を摘み取った。五枚の花弁のピンクの花だった。ノイナがその花を僕の髪に差したので僕は驚いた。

 ノイナはスマホを取り出して僕の写真を撮った。

「恥ずかしいよ。男が花を髪に差すのは変だよ」

 花を取ろうと頭に手を伸ばそうとすると、ノイナに制された。

「ダメ。言う通りにしなさい」

「タイでも男の人は髪に花を飾ったりはしないよね? レディーボーイだと思われちゃうよ」

「ショウタはとても花が似合う。スマイル!」

 嫌がる僕にポーズをとらせてノイナは写真を何枚も撮った。

 その時、自転車に乗った白人女性が前方から近づいてきて僕たちの横を通り過ぎた。その白人女性は僕を見て微笑みながら「ハーイ」と言ったが、バカにしている様子は感じられなかった。

 ノイナは再び僕の手を握って歩き始めた。頭に花を挿したまま歩くのは死ぬほど恥ずかしかったが取ることは許してくれなかった。クレット島はレンタル自転車で一周するのがお勧めコースになっていて、屋台の並ぶマーケット地区を外れると自転車に乗っている外人観光客とすれ違うことが多い。僕を見て特別な反応を示さない人も多かったが、ギョッとした視線を浴びせた人も三人いた。言葉で分かったのだが一人は日本人男性で、残りの二人は中国人男性だった。

 しばらく歩いて陶器村に差し掛かった時に頭から花が落ちた。僕は気づかないふりをして歩き続けた。自分の手で外したわけではないからノイナに背いたことにはならない。ノイナは多分花が落ちたことに気づいていたと思うが、何も言わずに歩いてくれたので、僕はノイナの優しさに感謝した。

 陶器村はクレット島へのフェリーを下りて左側に歩いた方向にあるはずだった。僕たちはフェリーを降りると右側に歩きマーケット地区へと進んだから、もうすぐ島を一周することになる。

 マーケット地区よりはハイソな雰囲気が漂う一角に地ビールのバーがあった。外国人で賑わう、タイらしくない店だった。ノイナは僕の肩を抱くようにして店に入って行った。僕は未成年であり、外国に来てわざわざバーに立ち入りたくなかったが、ノイナに異議を唱えたくなかった。ノイナがビールを飲みたい気持ちならそうさせてあげるのが恋人の役割だ。僕が飲みたくないからと言ってノイナにも飲むなというのは、思い上がりだと思う。

 僕はソフトドリンクを飲むつもりだったが、ノイナは黒ビールを二つ買って、空いているテーブルを探した。川に臨むデッキの左端にある二人掛けのベンチが空いているのを見つけて歩いて行き、並んで腰かけた。誰にも邪魔されずに二人の時間を楽しめそうな場所だった。

 ノイナはジョッキを持って乾杯を促した。

「タイも日本と同じで二十歳にならないとお酒は飲めないと本に書いてあった。僕は十八歳だから、もし警察に見つかったら捕まるよ」

「ヨーロッパではビールとワインは十六歳からOKの国が多い。ショウタも外国人だから大丈夫。警察に見つかっても注意されるだけ。逮捕はされない」

「でも、僕はお酒は強くないし、それほど好きじゃないから……」

「ショウタは私が好き?」

「大好き。世界一好き」

「じゃあビールを飲みなさい」

 そこまで言われて断ることはできなかった。僕は覚悟を決めてノイナとジョッキを合わせ、グイッと飲んだ。薬のような味がした。

 ビールのジョッキを前にしてノイナと並んで座っていると、ノイナが大人であることを改めて感じた。ノイナは一杯目を飲み干すと席を立って二杯目を買いに行った。今朝から「次は必ず僕が支払おう」と思っていたのに、フェリー代も、焼き菓子も、ビールもノイナに払わせっぱなしだった。ノイナは自分が払うのが当然だと思っている様子で、さっとお金を出して支払いを終えるので僕は出すタイミングを失ってしまう。ビールの二杯目は僕が気を利かせてさっと席を立って買いに行けばよかったのだが、未成年の僕としてはノイナのためにビールを買いに行く勇気がなかった。

 それに、僕のジョッキはまだ三分の一ほど残っていたが、アルコールが回って鼓動が高まっていた。急に立って倒れでもしたら困ったことになるので、じっとしていたいという気持ちもあった。

 予想外なことにノイナはさっきとは違う色のビールのジョッキを両手に持って戻って来た。

 僕は心配になって「二杯ともノイナが飲むんだよね」と聞いた。

 ノイナは僕の質問には答えずに僕にレンズを向けてスマホを構えた。

「スマイル。ぐっと飲みなさい」

 ノイナに命令形で言われると断れないということは分かっていた。僕は残っていた黒ビールを一気に飲み干した。

「二杯目は少しだけ飲むけど、残りはノイナが飲んでね。もし全部飲んだら僕は倒れてしまうから」

「大丈夫。私がショウタの面倒を見る」

「騒ぎになったら警察が来て、僕を逮捕するかもしれない。もし逮捕されて明日のフライトで帰れなくなったら困るよ」

「ショウタを日本に帰したくない。ずっとタイに置いておきたい。警察官にこの写真を見せてショウタを逮捕してもらうわ」
と言ってノイナはスマホを指さした。ノイナの目が笑っていなかったので、今言ったことは本気だったのではないだろうかという疑念が脳裏をかすめた。

「もし日本に帰れなくなったら一生面倒を見てよね」
と僕の方から冗談を言ったところ、ノイナは含みがあるような笑みを浮かべて僕を見た。僕はノイナが「帰れなくなったら私と結婚してバンコクに住めばいい」という趣旨の冗談を返してくれることを期待していたが、失敗に終わった。

 ノイナの煮え切らなさに腹が立った。昨日一目見てカッコいい女性だと思ったのは確かだが、声をかけてきたのはノイナの方であり、今日のデートも「お願い」とまで言われて成立した。それなのに、僕から「帰れなくなったら一生面倒を見て」と言われて、例え冗談ででも肯定しないというのはおかしい。

 ひょっとして、僕は今日ノイナを落胆させるようなことをしでかしたのだろうか? 考えたが思い当たらなかった。

 昨日ノイナは僕を見て美しいと思ったようだが、今日再び会ってよく見たら大したことはなかったというのが真相ではないだろうか? そういうシチュエーションはよく起こりえることだ。確かに、今日は朝からずっと一緒に居るのに「美しい」という言葉をかけられた回数が昨日よりずっと少ない気がした。しかし、つい今もそうだったがノイナは何度も僕にポーズをとらせて写真を撮った。人前で髪に花を挿してまで写真を撮ったということは、ノイナが僕の「美しさ」について抱いている幻想がまだ消えずに続いていると考えていいはずだ。

 ノイナは僕をどうするつもりなのだろう? 残された時間は一日しかない。僕は明日の夜のフライトでバンコクを発つ。それまでにメールアドレスを交わすかLINEの友達登録をしておかなければならないが、二人ともが交際を続けたいと強く望まない限り、明日が最後の日になるだろう。もしノイナが本気で僕を好きだと思っていない場合は、僕が帰国後猛烈なメール攻勢をかけても適当にあしらわれることだろう。

 一度焦燥感で満たされると、簡単には元に戻らなかった。恋とは理不尽なものだ。昨日は午後に出会ってグリーンカレーを食べ、ワット・サケットまでバイクに同乗させてもらっただけの仲なのに、僕は一人勝手に夢を膨らませてバンコクでの結婚生活のことまで想像していた。そして今日、クレット島に案内してもらい、半日を一緒に過ごした時点で、もう明日の別れのことを考えて焦燥感で一杯になっている。

 何もかも僕の一人芝居であり、ノイナがただの「男たらし」だという可能性は十分にある。男をナンパして甘い言葉で蝶よ花よと褒めたたえ、デートを楽しんで、そして捨てる。僕を短期間の旅行者と分かった上で近づき、自分の都合が良い二、三日間だけ遊び相手にして、後はさようなら。普通は女たらしの男がすることだが、ノイナは「男性的」なのだ。

 きっとそうに違いない、とネガティブシンキングに陥った僕は、ふてくされてビールを飲んだ。ノイナも口数が少なくなった。二種類の地ビールのどちらかが、あるいは両方ともアルコール度数が高かったのか、胸の鼓動が極限まで高まった。大げさな表現に聞こえるかもしれないが、数少ない飲酒経験からして、僕は一定量のアルコールを摂取すると鼓動が「極限」まで高まり、そのまま飲み続けると胸がムカムカして吐いてしまう。普通ならジョッキ一杯半では極限に達しないのに、今日は早く限界が来たようだ。

 視界が星を散りばめたようになり、平衡感覚が無くなった。空を飛んでいるようないい気持だったが、同時に軽い吐き気がした。フラフラして上半身がノイナの反対側に傾き、倒れそうになった。ノイナは左手を僕の背中から左脇の下に挿し込んで僕を自分の方に抱き寄せた。

「気持ち悪い……でも気持ちいい」

 ノイナが僕の言葉にアハハハと高笑いする声が遥か遠方から聞こえた気がした。僕はノイナに上半身を預けて、ハアハアと大きな息をしながら、早くアルコールが抜けてくれることを願った。

 僕の脇の下を抱えていたノイナの左手が左胸を覆っていた。ノイナの親指がちょうど僕の乳首の上にあり、ノイナが手を動かした時に身体がピクッと反応した。ノイナはそれに気づいたらしく、親指の腹で乳首を探りながら上下に動かし始めた。できるだけ身体を動かさないようにしていたが、胸がうずうずしてきて焦燥感が高まった。それは先ほど絶望的な気持ちだった時に感じた焦燥感とは全くの別物で、じっとしていられない衝動と、右の乳首も刺激して欲しいという願望が入り混じっていた。お酒に酔ってハアハアと息をしていたはずだったが、右の胸まで虫が這うような感じがして、時々小声を交えてハアハアと息をした。

 それは今までに経験したことのない性的快感だったと思う。僕の股間はある程度固くなっていることが感じられたが、ギンギンではなく、じっとりとしている気がした。普通ならとにかく射精をしたいという気持ちが高まるはずなのに、不思議なことにそうはならなかった。でも、もっとどうにかして欲しいという焦燥感のある性的快感だったと思う。

「ノイナ、僕を捨てないで。大好き、世界で一番」
と僕はハアハアと息をしながら小声で訴えた。

「ショウタは私のモノ」
 ノイナが右手の人差し指で僕の右の乳首もティーシャツの上から擦り始めた。

「ノイナのためなら何でもする……」

 ノイナは二つの指をゆっくりと動かし続けている。胸から頭にかけて静電気が広がった。

 それと並行してアルコールのせいで眠気が差してきた。睡魔に襲われてスーッと眠りに落ちた。

 目が覚めるとノイナの肩にもたれかかっていた。吐き気は抜けて、鼓動も普通に戻っていた。相当長い間眠っていたのだと思った。

「ごめんね、ノイナ。僕、寝ていたみたい」

「可愛くて美しい顔で眠っていた。さあ、行きましょう。スコールが来る前にフェリーでパク・クレットに渡ろう」

 ノイナから可愛くて美しいという言葉を聞いて安心した。僕たちは立ち上がり、店を出てフェリー乗り場へと歩いて行った。

 対岸のパク・クレットに着いた時には黒い雲が近づいていた。これからバイクでノンタブリーまで行って、エクスプレス・ボートに乗り込むまで天気が持つかどうか心配だった。エキスプレス・ボートには屋根がついているから乗ってしまえばスコールが来ても大丈夫なのだが。

 ノイナはバイクではなくタクシーをつかまえて乗り込んだ。

 タクシーは朝来た道をしばらく走ったが、ノンタブリーの埠頭へと右折せずに真っすぐに進んだ。

「ボート乗り場に行くんじゃないの?」
と聞いたところ
「スコールが来るからタクシーでバンコク市内に行く」
とノイナが答えた。

 ノイナはこのままタクシーで僕をアパートまで連れて行くつもりなのだと直感した。今日がバンコクでの最後の夜。今朝僕はノイナと結ばれるつもりでホテルを出たのだった。

 僕はノイナに身を寄せて右腕をノイナの肩に回した。ノイナは左手を僕の太股の付け根に近い場所に置いた。ノイナの手の暖かさが太股に伝わって来た。地ビールのバーで果たせなかったことが、もうすぐ実現しようとしている。お互いに言葉を交わさずに二人の時間を噛みしめた。

 バンコク市街に差し掛かった時には夕立になっていた。フロントガラスの前が見えにくいほどの雨だった。バンコクのタクシー運転手は大変だなと思った。

 気がつくと、タクシーはバンコク・センターホテルの玄関のひさしの下に停車していた。僕が下りるとノイナもタクシーを下りた。ノイナのアパートではなく僕のホテルの部屋で愛し合うつもりだったのか……。緊張して身体が震えた。

「明日のチェックアウトは十二時ね。十二時に迎えに来る。コンシエルジュに荷物を預けて、この場所で待ちなさい。夜ホテルで荷物をピックアップして空港に連れて行くから」

「えっ、今日はこれからどうするの?」

「仕事の予定があるの」

 僕は心底ガッカリしたが、できるだけ表情に出さないようにして「今日は本当にありがとう」と笑顔でお礼を言った。

「じゃあ明日十二時ね」
と言ってノイナはタクシーに乗り込み、タクシーはスコールの中へと消えて行った。

 土曜日の朝から一緒に出掛けて夕食も食べずにホテルに送り届けられることになるとは予想もしていなかった。これではノイナはまるで小学生を遠足に連れて行った先生じゃないか……。

 アルコールはすっかり引いてお腹が空いてきたがスコールの中を食事に出かける気分ではないのでとりあえず部屋に戻ることにした。エレベーターの中は三方が鏡張りになっていて、生気のない蒼白な顔と肩を落とした細身の男性の姿が映っている。イケメンと呼ぶには程遠いどころか、若い男性としての活気が感じられない。胸が平らなことを確認できない角度からだと男にも女にも見えそうな貧相な身体つきだった。ノイナがこの男性を見て美しいと形容した理由が全く理解できなかった。

 きっと僕はからかわれているだけなのだという悲観と、それでも明日はどんなことをしてでも今後の二人の関係についてノイナから約束を取り付けたいという悲壮なほどの憧憬が交互に押し寄せた。

 ノイナは本当に予測できない。靴屋での出会いからして予想外だったし、土曜日を一緒に過ごしてほしいと「お願い」されたかと思うと、僕をワット・サケットまで送っただけで立ち去った。今日は予想外の船旅で、クレット島では頭に花を挿されたり、ビールを飲まされたり、酔いつぶれた時に胸を刺激されたり、アパートでの一夜を期待していたら夕食前の時間帯にホテルに送り届けられたり……。わざわざ僕を翻弄するために予想できない行動をとっているとは思えないが、ノイナと僕の波長がずれているからこうなるのだろうか? 

 意外なことを仕掛けられる度に僕の心が揺さぶられ、驚き、落胆、絶望と憧憬が波となって押し寄せ、胸をかきむしられて焦燥感に襲われる。それはまさに恋のプロセスに他ならなかった。

 館内のレストランに夕食を食べに行くだけの気力も湧かず、空腹のまま風呂に入った。

 バンコク・ツアー最後の夜にあっけなく幕が引かれた。


続きを読みたい方はこちらをクリック!