父は僕のヒーローだった
今日から娼婦になりなさい

 原作:My Dad Was My Hero
 副題:Feminized to be a Hero
 作者:Yu Sakurazawa
 翻訳者:桜沢ゆう

序章

 僕はローマの中流家庭に生まれ育った。父は学校教師で母は銀行に勤めていた。
 あれは十三歳の時だった。近所の公園でサッカーの練習をしていた時、ボールを追いかけて道路に走り出た僕は危うくトラックに轢かれそうになった。たまたま近くを歩いていた父が駆け寄って僕を突き飛ばしてくれたおかげで、かすり傷ひとつ無く難を逃れた。しかし、父はもろにトラックに衝突して数メートル跳ね飛ばされた。頭から血を流して倒れた父は救急車で病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。
 父は自分の命を捨てて僕を守ってくれたのだった。その日から父は僕の永遠のヒーローになった。僕は父のような大人になろうと心に決めて、天国にいる父を常に意識しながら育った。
 十八歳で親元を離れてナポリの大学に進みマーケティングを学んだ。人とは群れず一人で時を過ごすのが好きだった。不必要な外出はしなかったが、近くのスーパーマーケットにはよく行った。レジに感じの良い子が立っていて、顔を合わせるたびに好意的な微笑みを投げかけてくれた。特に美人ではなく、アッシュ・ブロンドの髪をした普通の女性だったが、笑顔が魅力的だった。ダニエラという名前で僕より二つ年上のニ十歳だとわかった。
 特に買うものが無くても彼女の顔を見るために毎日スーパーマーケットに行くようになった。勇気を出して電話番号とメールアドレスを書いた紙きれを渡すと、その夜に電話がかかってきて、食事に誘うと快諾してくれた。毎日のようにデートをして、楽しい時間を一緒に過ごした。
 僕が十九歳になって間もなくダニエラが妊娠した。普通の男なら十代で父親になると知らされたらゾッとするところかもしれないが、僕はそうではなかった。父親になるということは僕にとって極めて重要で望ましいことだった。息子であれ娘であれ、ダニエラのお腹の中にいる子供を心から大事に思った。この子のためならどんなことでもできると思った。父が僕のヒーローだったように、僕もこの子のヒーローになるのだと心に決めていた。
 ダニエラと僕は近所の教会で結婚式を挙げた。その九ヶ月後にダニエラは世界一美しい女の子を産んだ。僕たちは天使のような娘をアンジェリーナと名付けた。アンジェリーナは赤い髪と大きな緑色の目をしていて僕にそっくりだった。
 幸せな十六年間があっという間に過ぎ、アンジェリーナは美しく心優しい女性になった。男子たちは競ってアンジェリーナに言い寄ったが、アンジェリーナは「私には好きな人がいる。それは私の父よ」と言って誘いを断った。僕が父を愛し尊敬したのに引けを取らないほど、アンジェリーナは僕を想っていてくれる。それはまさに僕が願っていたことだった。

第一章 罠に落ちて

 ダニエラと僕の関係は親になってから年月を経るにつれて熱を失った。アンジェリーナの面倒を見ることに熱中するあまり、夫婦関係に注意を払う時間が徐々に枯渇したと言える。私はヘレナ社というパーソナルケア製品のメーカーの営業部に勤務し、毎日多忙だった。ダニエラは専業主婦として家事にいそしんだ。ダニエラによると主婦業は小さな会社を経営するのと同じく手のかかる仕事だとのことだった。
 アンジェリーナはダニエラと僕の関係が業務分担のように見えることを不満に感じていたようだった。十六歳の娘は自分の両親が恋人同士のような関係になることを望んでいた。
 ある日アンジェリーナが真面目な顔をして僕に言った。
「私の事は放っておいてくれて大丈夫だから、ママとの関係にもっと時間をかけて」
「ママとの関係に時間をかけろと言われても、一体どうすればいいのかな……」
「簡単よ」
とアンジェリーナは肩をすくめながら言った。
「休みを取って二人で旅行に行くといいわ。私はシエンナのところに泊るから大丈夫」
 娘のアドバイスに従い、早速ダニエラと話をしてシシリー島に旅行に行くことになった。妻の愛車フィアット500でシシリーの州都パレルモまでドライブするプランを立てた。レッジョ・ディ・カラブリアからフェリーに乗ってシシリー島に渡れば九時間でパレルモに着くはずだ。娘抜きの旅行を心から楽しめるのかどうか、ダニエラも僕自身も半信半疑だった。
 ダニエラの車なので主にダニエラが運転をすることになり、僕は助手席に座ってできる限り目を閉じていた。乱暴な運転に耐えられなくて目を閉じるのではなく、ダニエラの運転が慎重すぎてイライラするから目を開けていられないのだ。どんな道でも決して制限速度を越えずに運転するので、ダニエラが運転する車の後には長い列ができる。制限速度百三十キロの高速道路を時速百キロで走ることが却って危険であるということを、ダニエラは何度言っても理解しようとしない。アドバイスをしても聞く耳を持たないので言うだけ無駄だ。ダニエラが運転する時は目を閉じて何も言わないのがベストだということが身に染みて分かっていた。
 フェリーでメッシーナ海峡を渡ったのが正午ごろで、そのままシシリー島の北岸の幹線道路一一三号をパレルモに向かって進んだ。ネブロディ公園に差し掛かり、幹線道路から外れてキャンピングテーブルのある公園まで行って昼食にした。いつもジェットボイルという登山用の湯沸かし器を車に積んでおり、二、三分で熱いコーヒーを作ることができる。家から持ってきたフェッテ・ビスコッターテにジャムを塗り、ゆったりとした気持ちで一時間ほど過ごした。
 この分だと明るいうちにパレルモのホテルに到着できそうだ。僕たちは車に乗って一一三号に合流する道路を進んだ。
 カーナビで抜け道を見出し、小さな田舎町を通る上下二車線の細い道路を走った。対向車も歩行者も殆ど目に入らない田舎道だったが、ダニエラは時速四十キロで運転した。信号が赤になったので停車し、しばらくして信号が変わるとアクセルを踏んだ。
 その時、左側の道から年配の女性が乗った青い自転車が不意に飛び出して来た。ダニエラは急ブレーキを踏み、フィアットはキーっと音を立てて停車した。しかし、信号を無視して全速力で飛び込んで来た自転車との衝突を免れることはできなかった。バンパーが自転車の後端に当たり、女性は自転車から投げ出されて反対側車線に転がった。
 その六十歳前後の細身の女性は路上に仰向けに横たわり、微動だにしていなかった。僕の心臓は止まりそうだった。彼女が死んだと直感したからだ。僕はすぐに車を降りて駆け寄り、脈を確かめようと腰をかがめた。その時、彼女がパッと目を開いて上半身を起こした。僕はほっと胸をなでおろした。
「奥さん、お怪我はありませんか?」
「どうもすみません! 赤信号だと気づいていたのについ渡ってしまって……」
と彼女は申し訳なさそうに言った。
「いや、そういうこともありますよ」
 特に痛がっておらず元気そうだったので胸をなでおろした。
「念のために病院で検査を受けてください。数キロ手前で病院の横を通りました。病院まで車でお連れします」
「いえいえ、そんな必要はありません。私はピンピンしています。それに、家はすぐそこですから」
と言って彼女は立ち上がり、自転車を起こした。
 車の中で青くなっていたダニエラもやっと運転席から降りてきた。彼女をとにかく病院に連れて行こうと、ダニエラと二人で説得に努めたが、聞く耳を持たなかった。
 結局、せめて家まで送らせてもらうことになり、彼女を助手席に乗せて妻が運転し、僕は彼女の自転車に乗って後を追いかけることになった。自転車は軋みもせずにスムーズに動いたので、衝突の際のショックはさほど大したものでなかったようだ。
 彼女が言った通り、家はすぐ近くで、二人が車から降りた時に僕も自転車で追いついた。
「衝突したのに自転車は新品のようにスムーズに走りました。よかったですね」
「あら、さっきまではギーギー音を立てていたのに、不思議だわ」
「当たり所が良かったんですかね? アハハハ」
「どうぞお入りになってカフェラッテでも飲んでいってください」
 ダニエラと僕は女性の言葉に甘えて家に入った。ホテル到着が遅くなっても大した問題ではない。大事故にならずに済んでよかったと改めて感じた。
 家に入ると軽く九十歳は越えていそうな老人が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。明らかに腰が曲がって、白内障なのか目が白く濁っている。そんな目でにこりともせずに睨まれて、妻は居心地が悪そうだ。
 僕はその老人に自己紹介をして、交通事故について説明した。
 僕が話し終えると女性がその老人に言った。
「パパ、すごく親切な人たちなのよ。私が赤信号を無視して突っ込んだせいで、この人たちを足止めしてしまったの」
 女性の言葉を聞いてその老人が父親であることが確認できた。
「念のために病院で検査を受けてもらいたかったんですが、お嬢さんがどうしても嫌だとおっしゃるもので……」
「うちの娘は病院が大嫌いなんだ」
と老人がぶっきらぼうに言った。
「万一娘さんが頭痛や吐き気などを訴えたら、必ず病院に連れて行ってくださるようにお願いします。ここに私の電話番号を書いておきますから何かあったらご遠慮なくお電話ください」
「自動車保険のコピーを見せてもらえるか?」
 見るからによぼよぼの老人から突然予想外の質問を受けたので驚いた。見かけよりはしっかりした人物だと分かった。僕はダニエラから鍵を借りて保険証を取りに自動車に戻った。
 ダッシュボードの中のフォルダーに入っていた保険証を見て恐怖のあまり頭髪が逆立った。保険が三日前に切れていたのだ。最近メールアドレスを変えたので、保険会社からの更新通知を見逃してしまったのだろう。
 奇跡的に無傷だったから良かったが、もし怪我でもしていたら、と思うと冷や汗が出た。無保険だったことをあの父親に話すのは得策ではない。私はシラを切ることにした。
「どうも保険証を家に置いてきてしまったようです。でもご心配なく。少しでも問題があればすぐにご連絡ください」
 ダニエラと私は家を出ると、グーグルマップで警察署を探した。たまたま女性に怪我は無く、自転車も壊れなかったが、衝突事故を起こした以上は警察に届けを出しておいた方が無難だと思ったからだ。
 警察署は車で数分の距離にあり、ダニエラと僕は一時間ほどかけて届を出した。対応した警察官は
「後ほど被害者の家に出向いて調書を取っておきましょう」
と言った。警官の口から「被害者」という言葉を聞いて、気が重くなった。
「帰っていいですよ。被害者に怪我は無くても届けを出しに来られたのは正解でした。届けを出さなかった場合、万一被害者から訴えが出たら、非常にまずい状況になりますから」
「ありがとうございました」
とダニエラが言って、僕たちは警察署を出た。
 車に乗るとどっと疲れが出てきた。ダニエラは僕以上に疲れている様子だった。とても旅行を続けられる気分ではなかった。呪われたような二時間だったが、それがやっと終わった。ダニエラも僕もそう思った。
 ホテルに電話を入れて予約をキャンセルし、来た道を引き返した。ダニエラは魂が抜けたような様子で、とても運転させられなかったので、僕がハンドルを握った。
 日付が変わった頃に家に到着し、僕たちは死んだように眠った。

 一週間の休暇を取っていたので、残りは家でゆっくりと過ごすことにした。チャパッタとオレンジジュースで朝食を済ませると娘のアンジェリーナは学校に行った。今夜から友達のシエンナの家に泊りに行く予定だったが、学校に行ったらシエンナに断って普段通りに帰宅するとのことだった。
 ダニエラと僕はカフェラッテを飲みながらゆっくりしていたが、玄関のベルが鳴るのを聞いてダニエラはビクッとした様子で立ち上がった。朝起きてから前日の事故の話はお互い一切口に出していなかったが、二人の心に重くのしかかったままだったのだ……。ダニエラの様子を見て、改めて痛感した。僕は椅子から立ち上がり、彼女を制して玄関のドアへと向かった。
 ドアの外に立っていたのは四十がらみの紳士で、ベージュのダブルのスーツを着ていた。一見人が好さそうな顔をしたカールのかかった柔らかい髪の毛の人物だったが洞察力のある抜け目のない目をしていた。ブリーフケースを手に提げていて、「私は弁護士です」と顔じゅうに書いてあった。
 その表情を見て、この人物はただ者ではないと直感した。心臓がバクバクし始めた。
「なにかご用でしょうか?」
と私は平静を装って聞いた。
「ウェイド・フェリと申します。ダニエラ・ロッシ様にお会いするために参りました」
 私の後ろに立っていたダニエラが「ダニエラは私ですがご用件は?」と気丈に言った。
「込み入った件ですので中でお話しさせてください」
「分かりました。お入りください」
 フェリ氏をリビングルームに通してソファーに腰かけさせ、僕は向かい側に座った。ダニエラは極度に緊張している様子で、立ったままだった。
「コーヒーはエスプレッソでよろしいですか?」
とダニエラは気丈にホステスの役目を果たそうとしていた。
「いえ、結構です。奥様が居ないと話を始められませんので、奥様もそこにお座りください」
 フェリ氏は氷のような微笑を浮かべて僕の横の席を手で示し、ダニエラは腰を下ろした。
 数秒間の沈黙の後でフェリ氏が口を開いた。
「私はアントニオ・セラ氏の代理人としてまいりました。昨日あなたに跳ねられて亡くなったマリア・セラさんのお父さんです」
「何ですって! 彼女が亡くなったと仰るんですか?」
と僕は叫んだ。妻はアッという声を出して口に両手を当てた。血の気が引いて真っ青な顔になっている。
「しかし、昨日お別れした時にはピンピンしていましたよ」
「あなたたちお二人が立ち去った二、三時間後に容態が急変したのです。救急車が到着した時には息が絶えていたとのことです」
「ああ! どうしましょう!」
 ダニエラはパニック状態だった。
「事故というものは時には起きるものです」
とフェリ氏はダニエラの顔を見ながら肩をすくめた。
「しかし何故その翌日に弁護士さんがわざわざ家まで来る必要があるのでしょうか?」
と僕が質問した。
「セラ氏は、運転者の不注意によって娘が死亡したと考え、正義の鉄槌が確実に下されるようにと、私を雇いました」
「私の不注意による事故ではありません!」
とダニエラがヒステリックに叫んだ。
「私はいつも慎重に運転していますし、制限速度も超えたことがありません。昨日も赤信号で停車して、信号が青に変わってから発車しました。あの女性の自転車は信号を無視して交差点に猛スピードで飛び込んできたんです。彼女は信号を無視したことを認める発言を何度もしていました。お父さんの前でも、自分が信号を無視した結果私たちを引き留めることになって申し訳ないとはっきり言っていました。その言葉はお父さんも覚えているはずです」
「嘘を言ってもらっては困ります。あなたは信号が赤なのに車を発車させたんです。奥さん、信号を見ずに何を見ていたんですか? カーラジオの選曲をしていたんですか? スマホを見ていた……まさかポケモンをしながら運転していたんじゃないでしょうね? それとも居眠り運転ですか?」
「違います。私はちゃんと前を向いて運転していました。信号が青になったのを確認してからアクセルを踏んだんです!」
「あなたは嘘を言っている。あなたは赤信号で発進した!」
とフェリ氏はダニエラを指さして大きな声で決めつけた。
「見てもいないのにいい加減なことを言わないでください!」
「目撃者が居たんですよ」
とフェリ氏がドスのきいた低い声で言った。
 ダニエラは震え上がった。僕も凍り付いた。現場に他の人影は無かった。もし誰か居たら現場に駆け寄っていたに違いない。僕とダニエラとあの女性の三人しか居なかったと断言してもいい。それなのに突然弁護士が現れて目撃者が居ると言い出すとは、一体どうなっているのだろうか? 僕たちは何かとんでもない共謀によって陥れられようとしているのかもしれない……。
「奥さん、あなたには責任を取ってもらわなければなりません」
 フェリ氏はダニエラを見据えて言った。
「まず、過失致死という刑事責任がかかります。赤信号で突然発車して自転車を跳ねるとは悪質です。もしポケモンをしていたとか、重大な違反があったとなれば重過失致死になって、長期間刑務所で暮らすことになりますよ。並行してセラ氏による民事訴訟に晒されます。一億円レベルの賠償金を払うことは免れないでしょう」
「言いたい放題ですね。そんなことを私が信じるとでも思ってるんですか? 私は現実に交通規則を守って運転していたんですから、裁判で負けるはずがありません」
 ダニエラが気丈に反論したことに驚いたが、心が木の葉のように揺れている様子が見て取れた。僕の心臓は今にも壊れそうに音を立てていた。
「奥さん、甘く見ると後悔しますよ。私はこれまでに今回の事故と同種の交通事故を三十五件扱いましたが、そのうちの三十四件で勝訴しました。今回の事故は目撃者が一人だけであり、他に一切の映像や画像はありませんから、裁判になればあなたは百パーセント敗訴すると自信を持って保証します」
 フェリ氏の実績は本物だと感じた。ダニエラも同じように感じている。大変な相手を敵に回してしまった。僕たちは絶体絶命の危機に直面している……。
「でも心配はいりません。こんな時のために自動車保険をかけているわけです。無意味な主張をするのは控えて、私に協力してください。そうすれば自動車保険の賠償責任限度額の範囲内で決着がつくようにしてあげるし、刑事責任も罰金だけで済むように協力してあげましょう」
 僕とダニエラは顔を見合わせた。フェリ氏が事故の直後に来訪したのは保険金を最大限に取るために加害者に協力させようとして、僕たちを脅し、釘を刺すのが目的だったのだ。ダニエラは罰金で済むと聞いて顔に血の気が戻ったようだ。しかし、僕にとってはバッドニュースだった。
「実は……。申し上げにくいんですが、保険が三日前に切れていたんです。たまたま更新を怠っていたもので……」
「何ですって! どうして今まで黙っていたのよ!」
 ダニエラが真っ赤な顔で僕に食って掛かった。
「困りましたね。あなた方にとって非常に困った状況としか言いようがありません」
 フェリ氏がため息をついた。ダニエラと僕は椅子の背にもたれて天を仰いだ。
 しばらく沈黙が続いた後でフェリ氏が口を開いた。
「そういうことなら、払える限りのものを払って、残額は借金をして、一生かけてでも払ってもらうしかありません」
「私、やっぱり裁判で本当のことを主張します。悪いのは彼女なんですから」
「奥さん、さっき説明した通り、あなたは百パーセント敗訴します。膨大な借金を抱えたまま刑務所で何年も過ごすことになります。私がその気になれば『何年も』程度では済まなくなりますよ」
「どうしろと仰るんですか……」
「法廷には持ち込まず、秘密裏に金銭で和解するのです。法律用語では法定外紛争解決と言います。私がセラ氏を説得して、裁判なしで済むようにアレンジしてあげましょう。刑事責任も問われないようにしてあげます」
「一体いくら払えばいいのですか?」
「五千万円で話をつけてあげましょう」
 フェリ氏はそれが些細な金額であるかのようにさらりと言った。
 僕の頭の中は大混乱していた。一生懸命働いた結果、この家をやっと手に入れた。家を売ってローンを返済すると差し引き二千万円程度しか残らない。貯金と債券、株式を全部合わせると一千万円。合計三千万円を払えば我が家はスッカラカンになる……。
「あのう、三千万円で話をつけて頂けないでしょうか?」
 僕はフェリ氏に手の内をすっかり明かして相談した。
「無理です。そういうことなら裁判でかたをつけるしかありませんね」
「いや、残りの金額も何とかならないか考えさせてください」
「ちょっと待って!」
とダニエラが口をはさんだ。
「今日の話はありもしないことを目撃した証人が存在するということが前提になっているようです。その目撃者という人に会わせてもらわないと、納得できません。たとえ法定外で話をつけるにしても、目撃者と会った後になります」
「よろしいでしょう」
 フェリ氏は不敵な笑みを浮かべた表情をダニエラに向けた。
「とにかく、奥さんの要求をセラ氏にお伝えしましょう。目撃者と加害者を面談させることをセラ氏が許すかどうかわかりませんが、改めてご連絡します」
「どうかよろしくお願いします」
と僕は懇願した。
「では、今日はこれで失礼します」
とフェリ氏は腕時計を見ながら言うとブリーフケースを持って立ち上がり、勝手に玄関へと歩いて行った。

 フェリ氏が出て行くと、ダニエラはソファーにどんと腰を下ろし、両手を上げて怒鳴った。
「何てことなの! 交通違反をしたのはあの女よ。私は何のミスもしていないのに! 目撃者なんて全くのでっち上げよ!」
「僕もそう思う。でも、五千万円払う以外に道は無さそうだ」
「バカじゃないの? 責められるべきことをしていないのにお金を払うつもり?」
「分かってくれよ。他に方法が無いんだ。あの弁護士は相当なやり手だ。裁判に持ち込まれたら、君は刑務所に入れられるのが確実だ。その上で巨額の賠償金を請求される。一億円になるかもしれない。確かに五千万は高いが、あと二千万は何とかすれば払えない金額ではない。一億円になったら完全にお手上げだ。君は刑務所の中、僕は一人でどうすればいいんだ?」 
「自分ひとりが被害者みたいな言い方ね。あなたが保険をちゃんと更新していたら何の問題も無かったのよ。これはあなたの責任だわ。それにしても二千万円をどこからひねり出すつもりなの?」
「まだ具体的なアイデアは無い。銀行かどこかから借りられないかな……」
「お金のあても無いのに金銭解決に同意するとは、あなたの頭はどうかしてるんじゃないの? 保険もかけないし、無い袖を振ろうとするし、それでもあなたはちゃんとした男なの? バカとしか言いようがないわ」
「ああ、僕はバカさ。亭主に平気で悪態をつきまくるような女と結婚した僕は大バカものだ。運動神経ゼロの女にハンドルを握らせた僕がバカだった。普段はノロノロ運転で僕をイライラさせるくせに、信号が変わってすぐに急発進したから事故になったんじゃないか!」
「急発進なんてしてないわよ、バカ!」
 ダニエラは手で顔を覆って泣き始めた。
「私がいつもどんなに慎重に運転していたか、分かってるでしょう……」
 ダニエラはソファーにうつ伏せになって小さな少女のようにすすり泣いている。化粧が涙で乱れた顔と泣き崩れた様子を見て、守ってやりたいという気持ちが湧きあがった。
「ゴメン、言い過ぎた。君は全く悪くない。悪いのは僕だ。君とアンジェリーナのことは僕がきっちりと守るよ」
と僕はソファーの上に泣き伏したダニエラの頭を撫でた。

第二章 裁判外紛争解決

 アンジェリーナが学校から帰った時にはダニエラと僕は表面上は平静になっていた。昨日旅行を中断した理由についてアンジェリーナには「ママの気分がすぐれなかったから」としか言っていなかった。
 アンジェリーナはカバンを椅子の上に置くと、いつものようにダニエラと僕の頬に軽くキスをした。僕たちも彼女にキスを返したが、アンジェリーナは僕たちが普段とは違うということを敏感に感じ取ったようだった。
「パパ、ママ、どうしたの? 顔色がすごく悪いわ。まるで病人みたい。昨日は突然夜中に帰って来るし、いったい何があったの?」
「ママの具合が悪くなったから家でゆっくり過ごすことにしたんだよ。今朝言っただろう……」
「じゃあどうしてパパまで幽霊みたいな顔をしているの? 変だわ。何かあったのね」
「アンジェリーナが心配するようなことじゃないよ。パパとママが何とかするから」
「何とかするって、どういう意味? 余計に心配になるわ。私に隠し事をしないでよ!」
 ダニエラも、隠し立てをすればアンジェリーナを余計に心配させると思ったようだった。僕に目配せして了承を求めた後で、昨日と今日起きた事について冷静に説明した。
「目撃者は明らかに捏造されたものよ。裁判になれば勝てる。だから心配しないで。部屋に行って勉強しなさい」
 ダニエラの言葉がアンジェリーナを安心させた。アンジェリーナはダニエラと僕にハグをして自分の部屋に行った。
「今アンジェリーナに言ったことを私自身が信じられればいいんだけど」
とダニエラが溜息交じりに言った。僕はダニエラの冷たい手が暖かくなるまでしっかりと握っていた。
 ダニエラは夕食の用意をするために台所へと消えた。
 普段だとアンジェリーナが帰宅するとミルクとスナックを出すのに、ダニエラも、そしてアンジェリーナもすっかり忘れているようだった。僕はガラスコップにミルクを入れて、リンゴの皮をむいて切ったものを小皿に並べてお盆に乗せた。それをアンジェリーナの部屋に持って行こうとした時、スマホに電話が着信した。登録されていない番号からの電話だった。
「もしもし、ロッシさんですか?」
 鋼鉄のように冷たい声が聞こえた。
「弁護士のウェイド・フェリです。奥さんの電話が不通なのでこの番号にかけさせていただきました。警察への届け出に書かれていたご主人の番号です」
 今朝フェリ氏が来た時、僕たちが事故の後で警察に届けを出しに行ったことは話に出さなかったが、フェリ氏はすっかり把握しているようだった。いくら弁護士でも届け出の内容を即時に入手できるものなのだろうか? 住所も電話番号も……。そうだとすれば、あの女性が赤信号を無視して交差点に飛び込んだという届け出の内容を把握したうえで、家に乗り込んできたわけだ。本当に大変な連中に目をつけられてしまった。
「フェリさん、ご用件をおっしゃってください」
「はい、目撃者との面会についてセラ氏から許可が取れました。目撃者の名前はガエル・グレコです。明日午前十時にグレコ氏を連れてお伺いしたいと思いますが、ご夫婦ともご在宅でしょうか?」
「明日の午前十時ですね。承知しました。でも、目撃者はシシリーの方ですよね? わざわざナポリまで来ていただけるんですか?」
「ご心配なく。それでは明日十時に」
 午前十時ならアンジェリーナは学校に行っているから、ややこしい話をアンジェリーナに聞かれる恐れはない。今朝のフェリ氏との会話から察すると、脅しや無理難題、相当血なまぐさい話をされるのが確実であり、アンジェリーナの耳には入れたくなかった

 翌朝、アンジェリーナが学校に行き、ダニエラと僕はフェリ氏たちの来訪を待った。十時丁度に玄関のベルが鳴った。僕もダニエラも死にそうな気分で来訪者たちを中に通した。
 グレーのスーツ姿のフェリ氏と「目撃者」が入って来た。図体のデカい髭男で、皮のズボンにメタリカのTシャツという姿だった。幾つものピアスを着けて、腕の刺青が否応にも目に入る。服装と立ち居ふるまいから、一目で普通の人ではないことが分かった。通常なら一般人が関わりにならない世界の住人だ。胃がキリキリと痛んだ。フェリ氏とその依頼人は何もかも承知の上で僕たちに理不尽な戦いを仕掛けてきたのだ。
「こちらが目撃者のガエル・グレコさんです。奥さまにとってご都合の悪い証言をすることになりますが、どうしても会いたいとのご要望だったので遠路はるばる来ていただきました」
 ちらっとダニエラを見ると、泣き出しそうな表情で震えていた。この目撃者を目の前にして平静でいられる女性は居ないかもしれない……。
 二人をリビングルームに通し、ソファーに座らせた。ダニエラと僕は二人に向かい合って腰掛けた。
「グレコさん、目撃したことをお二人に話してください。法廷で証言するのと同じ内容を正確に発言してください」
「はい、分かりました。事故の起きた日、私は散歩していて、信号の手前に差し掛かりました。そこにいる女性の運転する車が赤信号で停車しました。助手席にはそこの男性が座っていました。年配の女の人が乗った自転車が私の横を通り過ぎて、道を横切ろうと交差点に入りました。ええ、その時、自転車と私から見ると信号は緑で、自動車から見ると赤でした。間違いありません。信号がまだ赤なのに自動車が急発進して、自転車の真横に衝突し、乗っていた女性は跳ね飛ばされて路上に転がりました。そこに座っている女性が車から降りて駆け寄りました。自転車の女性はまだ生きていて、抱きかかえられるように立ち上がり、そのまま車の後部座席に乗せられて行ってしまったのでそれからどうなったかは知りません。自動車はフィアットで、ナンバープレートの内容をメモしておきました」
「そんなの、真っ赤なウソです。私は信号が変わったのを見届けてからアクセルを踏みました。隣に座っていた夫が証人です」
 ダニエラは絶叫に近い声で怒鳴った。
「奥さん、残念ながらご家族のお話は証言としては採用されません。わめきたてるのは勝手ですが、裁判で百パーセント負けることは私が保証します」
「フェリさん、私たちは一昨日あの老人の自宅で面談しました。セラ氏は高齢ですが頭はしっかりしていました。亡くなった娘さんが『自分が信号無視をした』と何度も言ったのを覚えていないはずがありません。掌を返したような行動に出る人物とは信じられません。あなたは本当にセラ氏の代理人なのですか?」
「まあ、話をいたずらに複雑化しないためにセラ氏の代理人と申し上げましたが、正確には『セラ氏から全権委任されたモンタナ・アンド・カンパニー・リミテッドに起用された弁護士』です。あなた方にとっては同じことですが」
 モンタナという社名を聞いて背筋が寒くなった。勤務先の会社が詐欺事件に遭った時に耳にした社名だった。モンタナはマフィアが保有する会社だ。これはあくまで私の推測だが、マフィアは加害者側に過失の無い交通事故に関する情報に網を張っており、被害者の家族から全権委任状をタダ同然で買い取り、目撃者や証拠を捏造して多額の保険金や賠償金を得ようとしているのではないだろうか? そうでなければシシリー島で一昨日起きた事故についてナポリの弁護士が翌朝動くなどという電光石火の離れ業ができるはずがない。
 僕たちの交通事故はモンタナ社にとっては教科書通りの案件であり、フェリ弁護士にとっては単なる三十六件目のカモなのだ。無保険だったと知ってフェリ氏が五千万円が妥当と判断したのは僕たちにとってまだラッキーだったのかもしれない。五千万円での裁判外紛争解決が僕たちに残された最良の選択肢であると僕は確信した。いや、それ以外の選択肢は残っていない。
 僕はその結論をダニエラの居る前ではっきりと口に出すことにした。ダニエラの迷いを一掃するためには、そうするのが一番だと思った。
「五千万円での裁判外紛争解決に同意します。但し、支払い方法は現金で一千万円、自宅不動産を売却した差額で約二千万円、残額の約二千万円は五年間かけて毎月分割払いします」
 フェリ氏は表情を変えずに僕の話を聞いた。
「ご提案は承りました。依頼人と相談のうえでお返事します」
 フェリ氏と弁護人はさっと立ち上がり、玄関へと向かった。目的を達した以上長居は無用だと言わんばかりにそっけなかった。

 しばらくしてフェリ氏から電話が入った。
「依頼人に伝えたところ、大筋ご提案通りに進めたいとのことです。但し、残額約二千万円の五年分割払いについて無担保というのは厳しいので別の方法にすることが条件になります」
「別の方法とは具体的にどんな方法でしょうか?」
「お電話では誤解を招く可能性があるので明日お伺いしてご説明します」
「明日来ていただくのは構いませんが、予め概略だけでも電話で教えて頂けませんか?」
「明日、お伺いします。では」
と言ってフェリ氏は一方的に電話を切った。
 明日何時に来るかも言わずに一方的に電話を切られたが、腹は立たなかった。事ここに到っては僕たちはまな板の鯉同然だった。ただ、明日はアンジェリーナが家にいるので、話が聞えてしまうというのが気がかりだ。しかし、裁判外紛争解決の合意が成立すれば家族三人で小さなアパートに移り、この家を売ることになる。アンジェリーナには合意の内容を明日にでも説明をしようと思った。

 午前九時丁度に玄関のベルが鳴った。僕はため息をついてダニエラと視線を交わし、玄関まで来客を迎えに行った。ダニエラは僕のTシャツの裾を指でつまんで後ろについてきた。
 玄関のドアを開けるとフェリ氏以外にもう一人、二十代の大柄な男性が立っていた。百九十センチはあるラグビー選手のような体格で、ワインレッドのシャツに黒のネクタイを締め、しゃれたジャケットを着た男性だった。冷たくて残酷そうな目を見て背筋が寒くなった。これは間違いなくマフィアの人間だ。僕は思わず一歩後ずさった。
 フェリ氏とその連れの男は僕の言葉を待たずにずかずかとリビングルームまで乗り込んで来てソファーに腰を下ろした。二人は厚かましい態度で足を組み、部屋の中をゆっくりと見渡した。
 ダニエラと僕はどう反応すべきかが分からずに立ったままだった。
 しばらくして僕の方から口を開いた。
「フェリーさん、本題についてお聞かせ願えますか?」
「勿論です。今日お伺いしたのは残額二千万円の五年間分割払いの方法を最終決定するためです」
「そうですよね。それなのにどうしてお友達を連れて来られたのですか?」
「ああ、セルジオのことは気になさらないでください。依頼人の企業の社員です」
――やはりそうだった。昨日来た目撃者の男はただのゴロツキで、この男が本物のマフィアなのだ……。
 口の中がカラカラになって目まいがしそうだった。僕の家族は猛獣に食われそうになっている。
 フェリ氏の視線が、壁にかかっている数枚のアンジェリーナの写真に向けられていることに気づいた。
 大きいサイズのフレームに入った写真が三つあり、ひとつはプールで撮った水着姿、もうひとつは友達と一緒のパーティーでの写真で、残りの一つは最近写真館で撮った家族三人のものだった。
 セルジオの視線もアンジェリーナの水着姿の写真に注がれている。
 うかつだった。僕は愛する娘の写真を所かまわず置いていた……。フェリ氏が最初に来た時点で、どんな種類の人たちを相手にしているのか気づいていたのだから、アンジェリーナの写真は別の部屋に移しておくべきだった。でももう遅い。
「きれいなお嬢さんですね。確かアンジェリーナさんでしたっけ?」
 フェリ氏は宝くじの当たりくじを手にしたかのように口を左右に広げてニヤリとした。
「それがどうしたんですか? 娘は関係ありません」
「二千万円の都合をつけられない状況で、お嬢さんには関係がないと言い切れるんですか? これほどはち切れるような身体には滅多にお目にかかれません」
「言葉に気をつけてください。娘はまだ十六歳ですよ」
「年齢的にも最高じゃないですか。五年後でも二十一歳なんですから」
 フェリ氏は立ち上がり、セルジオもほぼ同時に立ってダニエラの視線の先にあるドアの方へと進んだ。アンジェリーナの部屋のドアはリビングルームを出てすぐ右側にある。きっとドアに耳を当ててこの部屋での話を聞いているに違いない。恐怖に震える彼女の息遣いが聞える気がした。
「やめろ!」
と僕は叫んで、二人の前にはだかった。
「どけ」
とセルジオは言って、右手で僕の肩をつかんで簡単に押しのけた。僕は腕力にどれほどの差があるかを思い知った。彼はアンジェリーナの部屋のドアを開け、フェリ氏と一緒に乗り込んだ。次の瞬間、セルジオはアンジェリーナの手首を掴んで部屋から引っ張り出した。アンジェリーナはセルジオの足を蹴ったり、噛みついたり、もう一方の手で引っかいたりと動物のようにもがいたが、セルジオはびくともしなかった。
「お願いです。娘には手を出さないでください。冷静に話し合えばお互いに納得できる解決方法が見つかるはずです」
「お嬢さん以外に納得できる解決方法はありえません。依頼人は無担保での分割払いを拒否しています。お嬢さんを担保兼働き手として五年間預かることで全てが解決します」
「働き手とは具体的に何をさせるつもりなんですか?」
「愚問ですね。二千万円という大金を稼ぐための選択肢は限られています」
「まだ十六歳なんですよ!」
 アンジェリーナの全身は恐怖で震えていた。こんな状況になるとは夢にも思っていなかっただろう。
 ダニエラもショックで震えていたが、突然フェリ氏の足元に身を投げ出した。
「後生ですから、娘の代わりに私を連れて行ってください。事故の当事者は私です。だから私が働きます」
 ダニエラの言葉を聞いてアンジェリーナがパニックになった。
「イヤ! ママがそんなことをするのはイヤ!」
 フェリ氏はダニエラの頭のてっぺんからつま先まで改めて視線を走らせた。眉間にしわを寄せてウーンと唸った後、セルジオの方を向いて「どうかな?」と聞いた。
「いや、この女ではちょっと……。肌もくたびれているし、この身体だと五年換算でせいぜい七百万の値しか付けられません。お話になりませんね」
 アンジェリーナは戸惑った表情だった。ダニエラはこの家族の中心で美の象徴という位置づけだったのに、自分の方が遥かに価値があると言われて反応できずにいるのだろう。僕とダニエラにとってアンジェリーナはまだ可愛い子供であり、女性の身体の市場価値を論ずる対象にされるとは考えたこともなかった。
「じゃあ、これで決まりです。お嬢さんをお預かりします」
と言ってフェリ氏はセルジオにアンジェリーナを連れて行くようにと目配せした。アンジェリーナはなすすべもなくシクシクと泣いている。
 僕はセルジオの前に両手を広げて立ちはだかった。
「待ってください。僕が代わりに行きます!」
 セルジオとフェリ氏は顔を見合わせてから、大きな声で笑い出した。
「あんたが代わりに行く? 一体どんな使い道があるんでしょうかね?」
「あなたの依頼人のためにどんな仕事でもします。たとえ合法的なことでなくても」
「パパ、やめて。パパは昔からずっと清廉潔白の見本のような人だったじゃないの。パパが私の為に犯罪に手を貸すなんて耐えられない!」
「アンジェリーナ。君とママは神さまから授かった最高の宝物だ。パパは君を助けるためなら死んでも構わない。パパ自身もお父さんが命を投げ出して助けてくれた。今度はパパの番だ」
「お涙ちょうだいのメロドラマを演じられても困るんですがねえ」
とフェリー氏は苛立った様子で吐き捨てるように言った。
「私に話させてもらえますか? 少し心当たりがあるので」
とセルジオが口を挟み、フェリ氏が「どうぞ」と答えた。
「ロッシさん、何か資格とかはお持ちですか?」
「大学ではマーケティングを専攻しました。卒業後、ヘレナ・リミテッドというパーソナルケア製品のメーカーに就職をして、今は営業部のマネージャーをしています」
「履歴書はあります?」
「ええ、丁度スマホの中に入っています。すぐにお送りします」
 僕はセルジオからメールアドレスを聞いてPDFファイルを送信した。
「ちょっと写真を撮らせてください」
「履歴書に画像が入っていますが」
「いえ、もっと大きい写真が欲しいので」
「ちょっとお待ちください。背広に着替えて来ますから」
「いや、その服装のままで大丈夫です」
とセルジオは言って、僕の写真を十枚ほど撮影した。ピタリとしたTシャツに薄手のズボン、靴下を履かずにサンダルだけというラフな恰好だったので、そんな写真で大丈夫だろうかと不安だった。
「上に打診してみますから、そこのソファーに座って待っていてください。どこか音が外から聞こえない部屋はありませんか?」
「その奥の作業部屋で良ければお使いください」
「念のために警告しておきますが、逃げても無駄ですよ。万一逃げたら非常に恐ろしいことになると思ってください」
 セルジオとフェリ氏は台所の向こうの作業部屋に行ってドアを閉めた。
 三人でソファーのところに行ってアンジェリーナを間に挟んで座った。ダニエラは別にしてアンジェリーナと僕の運命は風前の灯火だった。お互いに何を言えばよいのか分からず黙っていた。僕はアンジェリーナのために命を捨てるというヒロイックな幻想に浸ることで心が洗われた気持ちになっていた。
 フェリ氏とセルジオは十五分ほどしてリビングルームに戻って来た。
「グッド・ニュースです。パドリーノから許可が取れました。ヴィットーリオ・ロッシさん、あなたを五年間預かるということで、裁判外紛争解決が成立しました」
「パドリーノとは?」
「ああ、すみません。私たちのゴッドファーザーです。一般人との会話では『うちの社長』と言うべきでしたね、アハハハ」
 背筋が寒くなったが、僕はこれからそのゴッドファーザーの部下になりに行かねばならない……。
「じゃあ、ついて来て下さい。荷物は不要です」
「家族との別れのために時間を下さい」
「五分だけですよ。お嬢さんの部屋で話してください。私たちはここで待っていますから」
 三人でアンジェリーナの部屋に入ってドアを閉めた。それまでフェリー氏とセルジオの前で抑えていた感情が一気に迸り出た。ダニエラとアンジェリーナはこの世の終わりが来たかのように大声で泣きながら僕に抱きついた。
「ダニエラ、アンジェリーナ、君たちのお陰で今日まで幸せだった。しばらく二人で頑張ってくれ」
「ヴィットーリオ! 私が運転したのが間違いだった。お陰であなたをこんな目に遭わせることになって、お詫びのしようがないわ」
「気にしないで、ダニエラ。君のせいじゃないよ。事故なんて起きる時には起きるんだ」
 ダニエラは泣きじゃくっている。
「ダニエラ、強くなってくれ。アンジェリーナのことをよろしく頼む。いい大学を卒業できるように力になってやってほしい」
「ベストを尽くすわ。仕事を見つけて、二人で小さなアパートに移る。アンジェリーナは賢いからきっといい大学に入れるわ。あなたの王女様は私がきっちり守るから心配しないで」
 僕が五年後に帰って来ることについて、僕もダニエラも話題には出さなかった。僕は五年後にはセルジオが住む世界の人間になっている可能性が高い。平気で人を殺したり騙すことができる悪人に……。
「そうだ。ヘレナ・リミテッドに辞表を出さなくっちゃ」
 アンジェリーナの机の上に置いてあった白紙数枚にサインをしてダニエラに渡した。
「この紙に辞表をタイプしてボス宛に送っといてくれる?」
「まかせておいて」
と言ってダニエラは再び僕に抱きついた。
 アンジェリーナは僕とダニエラに腕を回し、三人で長い間抱き合った。
「さようなら、アンジェリーナ。ちゃんと勉強するんだぞ」
「分かったわ、パパ」
とアンジェリーナは泣きながら答えた。
 部屋のドアがノックされて、
「おい、時間だぞ」
と言うセルジオの声が聞えた。
「パパ、パパ、私の大好きなパパ! パパは私のヒーローよ! 今までも、そしてこれからもずっと!」
 アンジェリーナの言葉で全てが報われた気がした。
 僕はもう振り返らずに部屋を出て、セルジオの後を追った。


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