禁断の鏡

第一章 鏡の預言

 夕食の後で父に呼ばれた。
「アーロン、ちょっと話があるんだが」

 普段とは全然違う口調だったので僕は身構えた。叱られるのかもしれない。きっと悪い話だと直感した。

「シャキーラは覚えているな?」

「シャキーラって、一昨日のパーティーに来ていたお姉ちゃんのこと?」

「そうだ。実はシャキーラと結婚することになった」

「誰が?」

「お父さんがだ」

「ええーっ!」
 僕は絶句した。

 一昨日は父の誕生日で、例年通り大勢の客を家に招いてパーティーを開いた。父は大会社のオーナー社長で政財界にも顔が広いが、誕生パーティーに呼ぶのはごく親しい人たちだけであり、家族を含めて二、三十人ほどだ。招待客の中に一人だけ僕とさほど年齢が離れていない人が混じっていた。それがシャキーラだった。

 クリーム色のレースのドレスを着たきれいな女の子が来たのを見て、僕より少し年上かな、と気になっていた。父と彼女がワイングラスを持って談笑し始めたので、十八歳以上だと分かった。その時、父から呼ばれて彼女に紹介され、立ち話をした。

 パーティーの時に僕が父の友人に紹介されて型通りの立ち話をするのはよくあることで、彼女もその一人だった。十二歳の僕より少し年上の少女ではなく、お酒も飲める大人だと分かったので、僕は彼女に興味を失い、彼女のことは気にしていなかった。

「シャキーラは見かけほどは若くはないんだよ。アーロンの新しいお母さんになる人だから、暖かく迎え入れてくれ」

 僕は「分かった」と返事して自分の部屋に行き、ベッドに仰向けになった。

 ショックだった。

 母が亡くなってもうすぐ一年になる。父が葬儀の日に「私が本気で愛した唯一人の女性だった」と言ったのが今でも耳に残っている。たった一年で母の事を忘れて、自分の娘のような年齢の女性を好きになるとは……。

 僕の母、ブリオニーはこのウィンダーミアで最も美しい女性と言われていた。

 ストロベリー・ブロンドの長い髪は風に揺れるアザミのように鮮やかだった。僕はいつも母と一緒だった。母と二人で森に行ってキノコ採りをしたり、一日かけて山や湖を回った思い出は僕の宝物だ。僕は母には何でも話せたし、母も父には言えないことまで僕に話した。母と僕は毎日楽しく笑って時を過ごした。

 その笑いがある日突然途絶えた。乗馬をしていた母が馬から落ちて首の骨を折ったのだ。溌溂としていたウィンダーミアが朦々となり小鳥たちも歌わなくなった。父は生きた亡霊となって殻に閉じこもった。

 明るい父に戻ったのはごく最近だった。シャキーラと出会ったことで父は自分を取り戻したのだろう。後で聞いたところによると父はギリシャに出張した際にシャキーラと出会い、シャキーラのエキゾチックな美しさに魅了された。シャキーラというのはフルネームであり、ミドル・ネームも姓も無いとのことだった。等身大の彫刻かと見紛う完璧な肉体、褐色の顔とつりあがった目。シャキーラは生粋のギリシャ人ではなく先祖は外国からの移民だという噂もあった。それがトルコなのか、中東なのか、北アフリカなのかは誰も知らない。

 結婚式の日、シャキーラがベージュのウェッディングドレスを着て穢れの無い白いバラのブーケを手にして立っている姿を見て、父の気持ちが分かる気がした。彼女が放つ捉えどころのない香り、彼女の動きのしなやかな気品、そしてオオカミを連想させる微笑みの不思議な魅力が人々を虜にした。

 僕にとって、シャキーラは世間でいう継母ままははの典型とは程遠かった。シャキーラは僕に対してとても親切で、どこにでも一緒に連れて行ってくれた。友達の家でのカクテルパーティーや美容室にも僕を連れて行くし、ロンドンのグローブ・シアターにも一緒にシェークスピアを見に行った。

「僕、邪魔になるのはいやだから、無理してどこにでも連れて行ってくれなくてもいいよ」
と僕は十二歳の少年らしい遠慮をしたことがある。

 シャキーラは形の良い手で僕の頬を包んで答えた。
「アーロンは私の弟みたいなものだから、邪魔だなんて思ったことはないわ。一緒に来てくれると心強いのよ」

 シャキーラのフランス語訛りが素敵だった。僕は、この上なく美しいエキゾティックなシャキーラの虜になった。もしシャキーラが義理の母親でなかったら、間違いなく恋をしていただろうと思う。

 僕は広大な屋敷の敷地を、亡くなった母と一緒に散歩したものだが、シャキーラとは仲良しの姉弟のように走り回った。敷地の中央にある屋敷は灰色の三角屋根がある大きな白い建物だった。屋敷の前には大きな庭があって、季節にはバラやツツジが咲き誇った。

 屋敷の横手には馬小屋があり、父の自慢のサラブレッドが居た。馬小屋の裏には、父から決して近づかないようにと言われていた石造りの倉庫があった。その倉庫は何百年も前に建てられたものらしく、ずっと鍵がかかったままだと聞いていた。

 ある晴れた日曜日の昼下がり、父はフランスに行って不在だったが、シャキーラから一緒に倉庫を探検しようと誘われた。

「ダメだよ。絶対に近づかないようにとお父さんから言われているもの。シャキーラもそう言われただろう?」

「どうして入っちゃダメなのかなあ?」

「そりゃあ、お化けが出るとか、悪霊に取りつかれるとか……」

「アーロンって子供ね。すごい財宝とか、もしかして死体が隠されていたらどうする?」

 僕は怖くなった。背筋に寒気が走るのを感じた。

「私がついているから大丈夫よ。さあ、冒険に行くわよ」

 シャキーラからそこまで言われて断れず、渋々ついて行った。

 倉庫の鍵は冷蔵庫の上にあった。馬小屋の横を通ると、石造りの倉庫が僕たち二人を手招きするかのように立っていた。二人は磁石で引き寄せられるように倉庫のドアまで行き、鍵を開けて中に入った。手をつないで足を踏み入れる。シャキーラの手は汗で湿っていた。シャキーラが小鹿のような黒い目で僕をちらりと見た時、好奇心と不安が入り混じった輝きが見えた。

 僕はまだ髭が生えていない鼻の下に汗の粒を感じた。シャキーラと僕は父の言いつけを無視することで、大きな間違いを犯そうとしているのかもしれない。しかし、倉庫の中に足を踏み入れてしまった今となってはもう遅い。

 建物の中に入ると、外の世界とは空気がガラッと変化したのが感じられた。それは何とも言えない奇妙な変化だった。地球上に存在する父の屋敷の敷地の中にいるのに、他の惑星にワープしたかのような違和感を感じた。僕の周囲の空気は濃すぎてネバネバしている。飛行機に乗っていて機内の気圧が急に変化した時のような感じだ。倉庫の中には不思議な静寂があって、夢の中を歩いているような気がした。

 シャキーラも同じことを感じているのが見て取れた。シャキーラは握っていた僕の手を放し、この世のものではないものを見るような目をしてふらふらと歩いている。彼女は倉庫の中に置かれている虫食いだらけ巨大なカーテン、数えきれないほどの陶磁器などを片っ端から手で触れながら歩き回り、僕はその後について回った。

 僕たちはお互いの息吹を強く意識していたが殆どトランス状態だったかもしれない。

 シャキーラは高い位置にある閉じた窓の隙間に見える光に引き寄せられるようにふらふらと歩いて行き、その下のキラリと輝くものに目を止めた。二人で近づいて見ると、それは造り付けの鏡だった。

 周囲を貝殻で飾られた円形の鏡で、見たことが無いほど豪華で美しかった。不思議なことに、鏡には一点の曇りもなかった。

 シャキーラは夢見心地のような顔つきで鏡の前に立った。僕がすぐ斜め後ろから覗くと、黒を基調にメイクした目、細い鼻筋とハートの形の口をした、形の良いシャキーラの顔が映っていた。東洋風の黒い髪が彼女の美しさを際立たせている。

 シャキーラは自分のあまりの美しさにポカンと口を開けて鏡を見ていたが、彼女の声とは思えない歪んだ声で鏡に向かって言った。

「鏡よ鏡、鏡さん。イングランドで一番美しいのは誰?」

 倉庫の中がシーンと静まり返った。ピン一本を落としても聞こえる程の静けさだった。その時、信じられないことが起きた。ほんの僅かだが、鏡の表面がピクッと浮き出るように動いた。それは地震で地球の岩盤が上に押し出されるようなイメージで、その鏡が誰かの顔のようにぼんやりと見えた。その顔から答えが返って来た。

「生きている人の中で最も美しいのはシャキーラだ。お前の美しさと優雅さには誰も敵わない」

 シャキーラはブルブルと震えながら後ずさりした。僕も同じように後ずさりした。僕たちは風に揺れる葉っぱのように震えながら顔を見合わせた。

 あれは年寄りの男性の声だった。ある考えが僕の頭をよぎった。こんなことが起きるはずがない。誰かが僕たちを引っかけようとしているのだ。シャキーラの小鹿のような目を覗き込むと、同じ疑いを抱いていることが分かった。

 僕たちは何も言わずにドアの方へと駆けて行ってパッとドアを開けた。ドアの外には誰も居なかった。はるか遠くまで見渡す限り、人っ子一人見当たらなかった。あれは鏡の声だったのだ。

「夢を見てたんじゃないことを確かめるためにもう一度やってみましょう」
とシャキーラが言って、尻込みしている僕の手を引っ張って倉庫の中に入って行った。彼女は鏡の前に立って、先ほどと同じ質問をしっかりとした声で繰り返した。

 再び誰かの顔のようになった鏡が、先ほどに劣らないほどはっきりと同じ答えを返した。

 僕たちは畏れおののきながら視線を交わした。二人が見聞きしたことが幻想でなかったのは確かだった。

 その夜、僕は寝付けなかった。昼間に起きた事を何度も思い返し、倉庫の中のこの世のものではない静けさ、空気のどんよりとした重さ、それに何よりもあの鏡が顔のようになったのを見た時の怖さを改めて感じた。

 昼間にシャキーラと僕に父の言いつけを破らせたのと同じ衝動が、もう一度あの倉庫に行くようにと僕を駆り立てた。もし父に知られたら叱られる。僕は懐中電灯を手に、パジャマ姿のまま寝室を出て、音を立てないように階段を下りた。冷蔵庫の上の鍵を取り、そっとドアを開けて玄関を出た。誰にも気づかれなかったようだ。

 外に出るとひんやりとした夜の空気が頬を洗った。満月の夜だったが、懐中電灯で足元を照らしながら歩いた。

 馬小屋の横を通って古い石造りの倉庫に着いた。入り口の鍵を開けて中に入った。昼間来た時に濃すぎてネバネバしていると感じた空気は、今はもうドロドロになっている。倉庫の中は昼間よりも更に静かで、不気味なほどの静寂に覆われていた。右の奥の窓の下に鏡が見えた。僕は夢遊病者のような足取りで鏡に近づき、畏敬と恐怖の混じった気持ちで鏡の前に立った。

 僕の顔が映り、アーモンドの形の大きな目と青みがかったグリーンの瞳、すっきりとした鼻、形の良い唇と桃のような顎が鏡の中に見える。母譲りのストロベリー・ブロンドの髪が懐中電灯の光を受けて輝いている。

「鏡よ鏡、鏡さん。過去と現在と未来において、イングランドで一番美しいのは誰ですか?」
と僕は声を震わせながら恐る恐る質問した。

 鏡の表面がピクッと浮き出るように動いて、顔のようなものがぼんやりと浮かび上がった。今日の昼に聞いたのと同じ年寄りの男性の声で答えが返ってきた。

「お前のお母さんのブリオニーが最も美しかったが、ブリオニが死んでからはシャキーラが一番になった。そして、将来はアーロン、お前がイングランドで一番美しい人になるだろう」

第二章 シャキーラとの再会

 僕は割り切れないまま倉庫を出て、月明かりに照らされた道を屋敷まで歩いてベッドに戻った。母が最も美しい人だと聞かされて言いようがないほど嬉しかったし、今生きている人の中では僕の姉のような継母が一番だと言われて嬉しくないはずがなかった。でも、将来は僕が一番美しい人になるという言葉は突拍子もなく不自然で、不安をかきたてられた。僕は同い年の友達と同じように活発な少年で、毎日外を遊びまわり、汗でビショビショになってテニスをして、ドロドロになってフットボールやクリケットに興じている。僕はフェミニンという言葉とは無縁であり、将来は父の後を継いでグリーグ・インダストリーズを率いる身だと周囲から言われていたし、自分もそのつもりだった。当然、自分に相応しい美しい女性と結婚をするはずであり、鏡に言われた「お前がイングランドで一番美しい人になる」ということは、全くピントが外れている。思い出すだけでも不気味だった。

 幸い、鏡の予言について何日も思い煩わされることは無かった。というのは、僕は一週間後にロンドンに移ったからだ。地元の中学では十分な教育が受けられず、自分の会社を継がせるのには不適当だと判断した父は、僕をロンドンのエリート校に入れた。十二歳の僕は父とシャキーラの元を離れて六年間の寄宿舎生活を送ることになっていた。

 心細かったのは最初だけで、僕は新しい環境に溶け込み、目いっぱいに楽しんだ。友達にそそのかされてお酒を飲むことも覚えたし、女の子とのデートにもいそしみ、十八歳の誕生日までには片手では数えられない数の異性とのセックスを体験した。セックスをしたいという気持ちが強かったわけではない。鏡の予言のことが潜在意識にあって、知らず知らずのうちに「男性的なこと」に走ってしまったのかもしれない。

 父は毎月のようにロンドンに出張してきて、僕は三ヶ月に一度は父に呼び出されて食事をした。僕が少しずつ大人になっていくのを見るのが楽しみだというのが父の口癖だった。シャキーラが父と一緒にロンドンに来ることは滅多になく、僕がシャキーラと顔を合わせるのは、年に一、二度帰省する時だけだった。

 ロンドンに行ってからの僕は興味の視点がシャキーラとはすっかりずれてしまい、帰省した時も以前のように親しくすることはなくなった。

 六年間の寄宿舎生活が終わった。

 卒業式に来てくれたのは父だけだった。父兄席に父の顔を見つけた時には嬉しかった。式が終わり、僕は卒業証書を手に、黒の長いケープに黒の四角い帽子という伝統的なコスチュームで父の所に行った。父は僕の顔を長い間じっと見ていた。父は誠実な青い目に涙をためて僕の頬に手を当てた。

「一瞬ブリオニーが帰って来たのかと錯覚したよ! 私たちが初めて会ったのはブリオニーが今のお前と同じ年の時だった。お前はお母さんと生き写しだ。ブリオニーのコピーそのものだ」

――僕がお母さんのコピーだって?! 

 父の言葉が信じられなかった。僕は確かに母を愛していた。でも十八にもなって母のコピーそのものと言われることには抵抗があった。男性的な自分というイメージを多少無理してまで築いてきたのに、自尊心が傷つけられた。背も高く(といっても百七十三センチだが)屈強で筋骨たくましい男性になろうとして僕なりに苦労を重ねて来たのに、母のコピーだとは……。いくら美人の母とはいえ、女性のコピーと言われてはたまらない。父に悪気が無いことは分っていたが腹が立った。

「荷物を取って来るから待っていて」
 僕は父と視線を合わさないように気をつけながら言った。

 寮まで走って行って階段を昇りながら一人で悪態をついた。あんなことを言われたらせっかくの卒業式の気分が台無しだ。でも、父には自分の腹立ちを気取られたくなかった。部屋に入るとケープと帽子をベッドの上に放り投げた。顔に掛かる髪の毛を手で押しのけて、部屋に残っていた私物をスーツケースに押し込んだ。卒業式の堅苦しいコスチュームを脱いでジーンズとシャツに着替えた。着替えながらふと鏡に映っている自分の顔を見た時、僕は唖然とした。

 父は百パーセント正しかった。僕は母にそっくりだ! 

 ブルージーンズとサイケなプリントのシャツを着ているにもかかわらず、鏡に映っている僕の中には母が居た。白い陶器のような顔は母から受け継いだものだった。アーモンドの形の青みがかったグリーンの目とカールした長い睫毛は母と同じだった。優しく筋の通った鼻も、ハートの形をした口も、桃のような顎も、母そっくりだった。頭の後ろで髪を留めているゴムを外すと、母と同じ豊かな肩までのストロベリー・ブロンドの髪が日差しを受けて赤い黄金のように輝いた。

 鏡を見てガックリときていた僕は、ウィンダミアまでの長時間のドライブの間、殆どしゃべらなかった。父は僕に様々な質問を浴びせた。寮生活のこと、勉強の事、課外活動の事、それに女子校との交流の事……。でも、気が乗らなかった僕はひと言ふた言ボソッと答えるか、単に頷いて返事をしただけだった。そのうちに父は諦めたのかしゃべるのをやめた。忙しいのに休みを取ってわざわざロンドンまで迎えに来てくれた父に対して、そんな態度を取る自分が嫌だった。

 助手席で目を閉じると、過去の記憶が僕の心の中に洪水のように溢れて来た。石造りの倉庫の中のネトネトした重い空気、ありえないほどの静寂、鏡の上にぼんやりと浮き出た顔、そしてあの預言……。

 父の運転する車が屋敷の玄関の前に停車した時、僕の胃の中でモゾモゾしていた奇妙な感覚が急に高まった。グレーの三角屋根のある白い屋敷、バラとツツジが植わった魅力的な庭、父のサラブレッドが居る馬小屋、古い石造りの倉庫……。全ては昔と同じだった。だが常に変化は起きている。昨日見た未来は、今日は現在になっている。そして今日という日は、今にも死んでしまいそうな気持を僕にもたらした。

 家に入ると知らない人の姿を見かけた。三十代半ばの非常に美しい女性で、銀のポット、繊細なデザインのティーカップと、ビスケットの皿をのせたトレーを持って歩いていた。

 大人の男を自覚している僕としては、彼女のストレートなブロンドの髪、黒いドレスのスカートの中のしっかりとした褐色の脚と、長身の身体からツンと突き出た格好の良い胸につい目が行ってしまった。彼女は僕に気づくと愛想よく微笑んだ。薄茶色の目だった。

「あの人、誰? 初めて見たけど」
と僕は近くに立っていた父に質問した。

「レベッカ・テトローという名前で、シャキーラのアシスタントとして雇った人だ。ミス・コンで一位になったことがあるんだぞ」

「へぇーっ! そんな美人がどうしてここに?」

 僕が久々に父の話に乗ったので、父は気を良くしたのか詳しく教えてくれた。

「美人は美人で、生き抜いていくのは大変らしいよ。レベッカは十九歳の時に地方の美人コンテストで一位になって、女優の道を目指したそうだ。ところが、何度オーディションを受けても通らなかった。そんな時に、ハリウッドの有名なキャスティングディレクターにコネを持っているという人物が現れた。プロダクションのスカウトという触れ込みだった。彼女はその男の話を信じ込んで、それまで蓄えていた貯金を全部注ぎ込んだ。ところがその男は詐欺師で、金を受け取ると姿を消してしまった。レベッカはすっからかんになってしまって『普通の』仕事をしているわけだ」

「それは気の毒な話だね」
 僕は無意識のうちにシャキーラとレベッカを比較した。二人の共通点は美人、それも際立った美人ということだ。ところが、シャキーラは富豪と結婚してお屋敷の奥様として暮らし、レベッカはシャキーラに使用人として仕える立場だ。彼女は大変な苦労をして自分の人生を生き抜いているのだ。ある哲学者によると、人はそれぞれの運命を持って生まれてくるという。シャキーラとレベッカの正反対の運命が、その言葉の正しさを証明しているように思えた。

 僕がそんな深い思いを巡らせていることを知ってか知らずか、父が僕に言った。

「シャキーラに会いに行かないの? 子供の時にはいつも一緒に飛び回って家中が火事みたいだったのに」

「そうだよね。ロンドンに行ってからは勉強と遊びで忙しくて、たまに帰省してもすぐに寄宿舎に戻っていたからね。特にこの一年余りは一度も帰省しなかったし……」

「シャキーラは全然変わってないよ」
と父が言った。僕は階段を昇ってシャキーラの部屋に向かった。

 部屋に行くとシャキーラは入り口に背を向けて立っていた。引き締まった背中が目に入る。彼女はネックレスを首に着けているところだった。背中が大きく開いたイブニングドレスを着て、出かける用意をしているようだ。横にレベッカが立ってシャキーラの髪に櫛を入れ、お団子ヘアの形に結おうとしていた。

 二人が気づかなかったので僕はドアの内側を軽くノックした。シャキーラが振り向いて僕を見た。

 すべすべした褐色の肌、黒いアイメイクをした小鹿のような目、独特な曲線を描く細い鼻、そして心臓の形をした口元は、昔と全く同じだった。でも、じっくりと見ると目元に細かいシワが沢山見える。

――シャキーラの本当の年齢は何歳なのだろうか?

 そんな疑問を抱いたのは初めてだった。改めて一度シャキーラの目元の小じわに目を凝らせた。

 彼女は首の後ろでネックレスを留めようとしていたが、手を滑らせて落としてしまい、真珠やルビーがそこら中に散らばった。レベッカが床に屈んで拾い集めているが、シャキーラは幽霊のように立ったまま僕を見つめている。

 どうしたのだろう? 僕は何かまずいことをしてしまったのだろうか? なぜシャキーラが気分を害したような顔をしているのか、さっぱり分からなかった。子供の時にはあれほど可愛がってくれたのに。

 僕が抱いた懸念に反してシャキーラはパッと明るい表情になり、彼女のトレードマークであるオオカミを連想させる微笑が顔いっぱいに広がった。

「アーロン、驚いたわ。すごく変わったわね!」
と言いながら両手を広げて僕の方に歩いて来た。

 抱き合うと彼女の身体の暖かさが感じられた。同時に、父の誕生パーティーの席で初めて会った時からずっとシャキーラの身体が放っていたとらえどころのない香りが鼻を突いた。

 シャキーラが動く時のけだるそうでいて力強い物腰、歯に引っかかるようなフランス語訛りの言葉の記憶が鮮やかによみがえる。僕が子供の時にシャキーラがどんなに強く愛してくれたか、そして暖かかったかを思い出した。シャキーラは僕の継母であって恋人だった。もし父の結婚相手でなければ、僕はこの年上の女性と恋に落ちていただろう。

 あの頃のシャキーラは信じられないほど美しかった。

 その時点では、美しさという点において自分がシャキーラを追い越してしまったことに気づいていなかった。その時の僕は穢れを知らない素朴な十八歳の青年だった。

 シャキーラと僕はベッドに並んで腰かけ、昔からの親友のようにおしゃべりした。

 レベッカは床に散らばった宝石を拾い集めると部屋を出て行った。彼女は美しい。でもシャキーラとは比べ物にならなかった。シャキーラが海だとすると、レベッカはせいぜい潮だまりに過ぎない。

 自分の心が何故シャキーラとレベッカを比較することにこだわるのか不思議だった。

第三章 母親と娘たち

 夜、自分の部屋に戻ると自然に涙が出た。小さい時からずっとここが僕の城だった。ロンドンの学校の寄宿舎での生活は快適だったのに、自宅に帰って部屋に入るといつも胸が熱くなって涙が出るのが不思議だ。昔からあるテディーベアが五匹ベッドに並んでいる。各々にちゃんと名前がついていて、母が生きていた頃には一匹一匹のテディーベアの誕生日にティー・パーティーを開いてくれた。この部屋に戻ると母が近くに感じられる。

 母が突然亡くなったのは僕が十一歳の時だった。母は赤褐色のサラブレッドに乗馬していて、僕に手を振ってからフェンスを飛び越えようとした。次の瞬間、母は馬上から放り出されて首を骨折し、帰らぬ人となった。あまりに突然で何もかもが信じられなくなった。途方もないショックだった。

 その一年後に父がシャキーラと結婚した。母への想いが強く残っていた僕は、新しい母親を迎える事には大きな抵抗があった。シャキーラを「お母さん」と呼ぶことは強要されなかったので、ファーストネームでしか呼んだことが無い。シャキーラは優しくて、仲良しの姉と弟のような関係になった。パーティー、映画、ショッピング、ロンドンのシアターにも一緒に連れて行ってくれたし、石造りの倉庫の探検も一緒だった……。

 シャキーラとの思い出を頭に浮かべているうちに眠気に襲われて、だんだん目を開けていられなくなった。まだパジャマにも着替えていなかったが、睡魔に負けてしまいそうだった。旅の疲れか、重いものが胸にのしかかってくる感じで、何度も寝返りを打ち、汗びっしょりになった。久しぶりに見たシャキーラの微妙な変化や、初めて会ったレベッカのことも心に引っかかっていた。何故かは分からないがすっきりしない、割り切れない気持ちが心のどこかにあった。

 三月上旬のウィンダミアの夜はまだ肌寒いはずなのに、何故か蒸し暑くて、起きているような、眠っているような、悪夢にうなされているような中途半端なまどろみだった。足音が近づくのが聞こえたが、僕は半分眠っていた。男性の足音ではない、軽い音だった。ハーブの香りが流れてきたので女性だと思った。もし父を含め男性の気配があれば僕の防御本能が働いて目覚めていたはずだ。女性だったので無防備のまま寝続けた。

 それが大きな過ちだったことに気付いたのは、細くて強い女性の手で口の中にギャグボールを押し込まれた時だった。驚いて飛び起きようとした時にはもう遅かった。他の二人に手足を抑えられていて、僕はベッドにうつむけにされて、ナイロンロープのようなもので手足を背中で縛られた。逃れようとしてベッドの上で暴れる僕を二人の女性が抑えつけた。小柄でがっしりとした女がポケットから何かを取り出し、それが窓からの月の光にキラリと光った。ナイフだ! 女はナイフで僕の首を軽くこすった。恐怖で凍り付いた。

 暗いのではっきりとは見えなかったが、三人とも面識がない人なのは確かだった。
「大人しくしないとグサッといくことになるよ」
と耳元で言われた。しわがれ声で、息がニンニク臭かった。恐怖のあまり身をすくめた。頭から麻袋を被せられて何も見えなくなった。僕は三人の女たちの手で階下に運ばれた。「お父さん、助けて!」と叫びたかったが、ギャグボールをかまされているので、ウーウーとしか声が出なかった。

 急に涼しくなったので家の外に出たことが分かった。三人は僕を誘拐してどうするつもりなのだろうか? 身代金目的の誘拐ならわざわざ夜中に部屋に忍び込んで拉致しなくても、僕が外出している時に捕まえる方が簡単なのに……。犯人が女三人というのも普通ではない。

 間もなく僕は地面に下ろされ「動くと殺すよ」と言われたのでじっとしていた。ギーッという金属音がした後、僕は持ち上げられてドスンと狭いところに押し込まれた。自動車のトランクに入れられたのだと直感した。

 女の一人が僕の頭から麻袋を取り去った。僕をナイフで脅したニンニク臭い女だった。女は僕の口のテープを剥がしてギャグボールを外した。

「こんちくしょう!」
と言おうとした瞬間に変な臭いのする布を口と鼻に押し当てられた。この甘い芳香はクロロホルムだ、と思いながら意識が遠のいた。

 目が覚めた時、セメントの床の上に裸で転がされていた。薄暗い部屋にはカビ臭い空気が立ち込めている。ここはどこかの地下室だ。身体を動かしたいが、バンザイをした状態で手錠と足かせをはめられて二本の柱の間に鎖で固定されていた。一度も掃除をしたことがないような埃だらけの床だ。息も吸いたくないほど汚い。こんな不潔な床に直接肌を触れることには耐えられない……。

 頭を少し起こすと僕の白い胸から腹部、その下に死んだような芋虫が見える。生まれたままの素っ裸で鎖につながれている自分が惨めだった。他にも何かもっと悪いことが起きているような気がしたが、それが何なのかは分からなかった。その時、頭がいつもと違うことに気付いた。

――まさか! この感触は……。

 頭皮が直接床に触れている。頭を動かすと、僕の頭から髪の毛がなくなっているのが分かった。丸坊主にされてしまったのだ! 母から受け継いだ、自慢のストロベリーブロンドの髪の毛だった。母と僕を永遠に結びつけるへその緒ともいえる大切なものを奪われてしまって、死にたい気持ちになった。こんなひどいことをしたのはどこの誰なんだ!? 見つけ出して仕返ししてやりたいという衝動に駆られた。

 上の方から声が聞こえてくる。女性の話し声だ。部屋から運び出された時の恐怖が蘇る。聞き耳を立てた。僕にナイフを突きつけたニンニク臭い女のしわがれ声が聞こえた気がした。誘拐犯人はこの建物の中にいるのだ。

 地下室のドアが開く音が聞こえた。僕の身体はぶるぶると震えている。五人の女性が下りてきた。その中には誘拐犯三人が含まれていた。

 一番先に階段を下りて来たのは小柄でがっしりしたニンニク臭い女だった。見るからにいやらしそうな目から邪悪な輝きが放たれている。シミだらけの肌には化粧っ気が無く、くびれの無い身体に安物ではないがパッとしないスラックスとティーシャツをまとっている。灰色がかったブロンドの髪はだらしなくバンダナで留められている。三十そこそこだろうか。目が細くて目の色はよくわからなかった。

 誘拐犯の残りの二人は平均的な身長で骨格がしっかりしていて、もう少し太かったらデブと呼ばれそうな女性だ。二人ともニンニク臭い女と同じように灰色がかったブロンドの髪をしていた。ニンニク臭い女ほど卑劣そうな感じではないが、どんなにひいき目に見ても「いい感じ」とは言えない。

 六十歳ぐらいの女性がニンニク臭い女を押しのけるようにして僕の間近に来た。とびぬけて背が高く太っていて、ヒキガエルのように醜い顔だと思った。他の四人はズボンかスラックスをはいていたが、彼女だけはスカートだった。はち切れそうなワンピースが巨大な身体に纏わりついていて彼女の身体のグロテスクさを強調している。どんなブラジャーでも支えきれないほどデカい乳が垂れ下がり、その下に信じられないほど大きいお腹が突き出ている。二の腕が、乳と腹に次ぐ第三の勢力であることを誇示するかのように波打っている。ふくらはぎにもそれに負けない程の存在感がある。

 そんな彼女に真上から見下ろされて、改めて自分の無力さを痛感した。もし胸を踏みつけられたら肋骨はボキボキと折れてしまうだろうし、股間を踏まれたらその瞬間僕は男でなくなるだろう……。彼女の目は細くて、ニンニク臭い女と同じ形をしているが、共通の卑劣な輝きがある。共通と言っても、彼女に見下ろされる怖さは、ニンニク臭い女とは比較にならない。恐怖のあまり膝に震えが来て、コンクリートに押し付けられている尾てい骨の周囲がしびれでジンジンしている。

 この五人は家族だと直感した。巨大な女が母親で、残りの四人は娘だ。外観上の共通点だけではなく、目の輝きや所作、それに雰囲気で分かる。

 こいつらは僕に何をするつもりなのだろうか? 順番に犯されるのではないかと思うと、股間がむずむずしてきた。女たちの視線が僕の股間に向けられているのが目に入り、意志に反して股間のものが大きくなった。僕がそれを望んでいると誤解されたらどうしよう……。一対一なら、この巨大な女は別にして、健康な若い男性である僕が残りの四人に犯されることはあり得ない。しかし、今の僕は手足を鎖でつながれて抵抗できない状況だ。何よりも、髪の毛を剃られたことで心が折れてしまっている。

 巨大な女が膝をかがめて僕の頬を手でつかんだ。万事休す……。他の四人が見ている前で犯されるのだ。もう逃げられない。僕は覚悟して目を閉じた。

 次の瞬間、その女が低い声で「フレヤ」と言いながら立ち上がる気配がした。どうしたのだろうか? 女は振り返って残りの四人の中で一番若い女性の方に向いて「あの袋を持ってきなさい、今すぐ」と命令した。

 フレヤと呼ばれた女性が階段を駆け上がり、すぐに紙袋を手に戻って来た。コシのない髪をした、僕と同年代の細い女性だ。ズボンの膝とブラウスの肘の辺りがブカブカで、痩せすぎている印象だった。誰かに似ているのだが、それが誰なのか思い出せなかった。フレヤは僕の頭の上の方に紙袋を置いて、次の命令を待っている。

 この袋の中には何が入っているのだろうか? ひとつ思い当たるものがあった。ディルドーという大人のおもちゃだ。レズの女性どうしが交わる時に男役の方が腰につけて、もう一方の女性に挿入する器具だ。きっと五人の女たちが交代で腰に装着して僕のお尻を犯すつもりなのだ。

 僕は「許して」と懇願しながら首を左右に振った。

 ところが巨大な女は何を思ったのか「行くわよ」と言って階段へと向かい、他の女性も後を追おうとした。

――何もしないのだろうか……。

 思わず安どのため息が出たが、裸で鎖につながれている状況に変わりはなかった。

「待ってください!」
 無意識のうちにそう叫んでいた。

「僕をこんな風にして放って行かないでください。助けて!」
 必死で訴えたが無駄だった。女たちは振り返りもせずに階段を昇って行き、僕の哀れな懇願は地下室の中に虚しく響いた。

 フレヤが取りに行かされた紙袋は僕の頭から数十センチほど柱寄りの場所に放置されたままで、ディルドーが入っているのかどうかは分からなかった。

第四章 地下室での悪夢

 その日から地下室での日々が始まった。裸で鎖につながれて薄暗い地下室に転がされていると、不安が募るばかりだった。いつまでこの状態が続くのか分からないのが辛かった。いつまでもこんな姿で放置されるぐらいなら殺された方が楽だと思った。

 毎日三回、フレヤが食事と水を持ってやってくる。食事と言ってもごちゃ混ぜにされた食べ物がプラスティックの皿に入っていて、フレヤがスプーンですくって僕の口に運ぶ。フレヤが皿を持ってしゃがみ、僕を見下ろしながら犬に餌をやるようにスプーンで口に突っ込むので、床に転がっている僕には何を食べさせられているのかは見えない。水は嫌な味と臭いがして普段の僕なら決して飲まないような水だったが、生きるためには飲まないわけには行かなかった。

 食事の後、足枷から伸びる鎖を柱から外して、用を足させてくれた。フレヤが持って来たバケツにお尻を置いて用を足すのだが、その間、フレヤは僕から目を離さない。手錠からの鎖はもう一方の柱に固定されていて足枷がはめられた状態で僕が逃亡できるはずがないのに、「ウンチをしている間は部屋から出ていてください」と頼んでも聞き入れてくれなかった。用を足した後にお尻を拭いてくれるほどの親切心はフレヤには無かった。用を足し終わると、僕がどんな姿勢で居ようとお構いなく、フレヤは鎖の端を乱暴に引っ張って柱に固定した。僕は床に引き倒されるようにして、再びバンザイの姿勢で次の食事までの時間を過ごさねばならなかった。

 清潔な母に育てられた僕にとって、汚いままのお尻で裸で床に寝るのは本当に辛かった。お尻がかゆくなってヒリヒリするようになった。フレヤに訴えたが、何の興味も示してくれなかった。

 フレヤが僕に命令する時、理由は分からないが僕を「オカマ」と呼んだ。

 時々姉たちが来ては汚い言葉を浴びせられた。三人の姉たちの共通点は僕を見下し、嘲り、虐めることに喜びを感じているらしいということだった。

 イジメに耐えられなくなって涙を流すと、彼女らのシミだらけの顔に何とも言えない満足の表情が浮かんだ。

 三人とも僕を動物のように扱うが、メス犬、メス猫、メス豚などと、必ずメスという接頭辞をつけるのが不思議だった。僕の最も美しい持ち物だった髪の毛を剃り取られた今、僕には女に例えられられるような点は残っていないはずだった。

 彼女たちは僕をつねったり、頬を軽くはたいたり、お尻を軽く蹴ったり、股間のものの上に足を置いてこれから踏みつぶすと脅したりしたが、傷が残るほどの乱暴はしなかった。きっと母親からそのように命じられているのだろうと思った。

 フレヤが四人の娘の中ではまだ一番マシだった。年齢的にも近いし、味方にできるとすればフレヤしかいないと感じた。

 僕が用を足した後のバケツをフレヤが持って行こうとした時に「三人のお姉さんの中で誰がいちばんやさしいの?」と話しかけてみた。でも彼女は口をつぐんだままだった。口はまるでチャックをかけたように固く閉ざされていてビクともしない感じだった。フレヤは僕と目を合わせることも避けている。あの母親から命令されているのだろう。忠誠心によるものか、母親が怖いからなのかは分からないが、とにかくフレヤは命令を忠実に守っている。

「僕はいつまで裸で監禁されるの? フレヤ、お願いだから教えて!」

 哀れな声で懇願したが、フレヤは動じずに背を向けて出て行った。

 僕は確かに彼女を見たことがある。小学校のクラスにあんな子は居なかったっけ……。まさか、ロンドンでエッチをしたチアリーダーじゃないだろうか? いや、違う。どこで会ったのか、どうしても思い出せなかった。

 多分、会ったことはないのだろう。裸で監禁されて頭が変になったのかもしれない。

 僕はずっと鎖につながれて床に転がされたまま、散歩をさせてもらえない飼い犬のように弱っていった。身体よりも心が先にダメになりそうだった。用を足した後にお尻を拭いてもらえないことには慣れるしかなかったが、三日目の夜、妙な臭いがする食事を与えられて、フレアが立ち去った後、激しい腹痛と便意に襲われた。僕は「お腹が痛い、助けて!」と何度も叫んだが、誰も助けに来てくれなかった。ついに我慢できなくなって下痢がほとばしり出た。臭いにおいが立ち込める地下室で、便にまみれて裸で横たわっている自分が惨めだった。

 母娘たちの会話や騒音が段々消えて、夜が更けていく。
「お母さん、お母さん」
 僕は泣きながら天国の母に助けを求めた。もう死んでしまいたいと思いながら眠りに落ちた。

 翌朝、モップで顔をはたかれて目が覚めた。フレヤが鼻をつまんで立っていた。

「オカマのくせにお漏らししたのね。自分で掃除しなさい」

 水の入ったバケツが二つ、モップと雑巾が置いてあった。今朝食事を持っ来ようとして、僕が下痢をしたのに気づいたフレヤが持って来たのだろう。

 フレヤは足枷の鎖の端を柱から外し、僕の手錠を外した。僕は四日ぶりに二本の足で立ち上がることが出来た。足枷をされたままなので移動するのは一苦労だが、僕はモップと雑巾を使って床を掃除した。その間、フレヤは鼻をつまんで階段に座り、僕を監視していた。

 幸い腹痛は治まっていて、空腹で少しフラフラするが身体は元気だった。昨夜心に浮かんだ死にたいという気持ちがウソのように消えていた。床を掃除した後の雑巾と水で、便にまみれていたお尻を洗うことをフレヤが許してくれた。その時に何日も便がこびりついたままだった肛門を洗うことが出来て、生き返った気持ちになった。以前の僕ならこんなに汚い水に触れるのもイヤだったのに、強くなったものだと苦笑した。

「おい、オカマ、鎖につなぐから床に寝なさい」
とフレヤに命じられた。今が逃げるチャンスだという気持ちが頭をもたげた。長い鎖のついた足枷をされたままだが、手は自由だ。フレヤと一対一なら必ず勝てる。羽交い絞めにして足枷の鍵を取り上げ、僕の代わりにフレアの手足を鎖で柱に固定し、口には雑巾を突っ込んで声を出させないようにしよう。そして慎重に階段を昇って、逃げ出せるタイミングを見計らうのだ。

 しかし、もし足枷の鍵をフレヤが持っていなかったらどうしよう? あの母親は僕が逃げようとすることを見越して、フレヤに手錠の鍵だけを持たせたのかもしれない。足枷がついたままではとても逃げられない……。それに、この階段の上がどんな構造になっているのか、僕は全く知らない。もし、あの女たちが居る場所を通らなければ出口に出ることが出来ないとしたら……。母親以外は一対一なら倒せる。いや、ニンニク臭い女がナイフを持っていたら一筋縄ではいかない。もし複数が同時にかかって来たら倒せるだろうか? 

 僕は今逃げるのはやめようと決心した。不確定要素が多すぎて、成功確率は高くないと思った。もし逃げようとして捕まったら、考えるだけでも身の毛がよだつほどの罰を受けるのが確実だ。

 僕は素直に仰向けになってバンザイのポーズをとり、フレヤは僕に手錠をして、足枷の鎖のもう一方の端を柱に固定した。

 フレヤが出て行った後、僕は千載一遇のチャンスを逃してしまったことを後悔した。フレヤは僕が用を足す時には鎖を柱に固定している錠前を外すが、さっき手錠を外したときの鍵は、鎖を柱から外す時に使う鍵と一緒にチェーン状にして持っていた。ということは、足枷を外すための鍵もあの鍵束に含まれていたはずだ……。滅多にないチャンスを目の前にしたのに弱気になった自分を呪った。このミスのせいで一生裸で鎖につながれる毎日が続くとしたら、死んでも死にきれない。

 ところが、全く予期しなかったことが起きた。

 しばらくしてフレヤがバケツとカゴを持って階段を下りて来た。驚いたことにフレヤは手錠と足枷の鍵を開けて僕を自由にしたのだ。僕は突然全ての選択肢を与えられて、却ってオロオロした。

「ちょっとオカマ、言っとくけど、逃げようとしても無駄よ。逃げる気配が少しでも見えたら、この余計なものを金切りバサミで根元からちょん切る。これはママからの伝言よ」
と、フレヤは僕のそれを右手で乱暴につかんで力任せに引き寄せながら言った。

「痛い! 離して!」
と叫びながら僕はそれを隠すようにうずくまった。きっとあのデカい女は本気で実行する。もし僕が変な動きを見せたら、いや、逃げようとしたと疑われただけでも、その日のうちに僕は男ではなくなるだろう。

「逃げる気持ちなんて全くありません。お許しください」
と僕はフレヤの足にすがりついた。

「汚い手で私に触らないで、ウンコまみれのオカマのくせして! さあ、かごの中のボディーソープを使って、お前の汚い身体を洗いなさい」

 それは僕にとってこの上もなく嬉しい命令だった。もし昨日の夜、フレヤに「今すぐしたいことは何?」と聞かれたら、一番がシャワーを浴びること、二番が家に帰ることと答えていただろう。

 僕はカゴの中に入っていたスポンジにボディーソープをつけて頭のてっぺんから足の指の間まで、何度も擦ってきれいにした。ツルツルの頭をお尻や手足と同じようにスポンジで洗うのは本当に辛くて、自分は別の人間になってしまったのだという敗北感で一杯になった。バケツ一杯しかない水を大事に使って身体から石けんを落とした。

 フレヤから投げて渡されたバスタオルで頭と身体を拭いた。ラベンダーの香りがする身体になって、生まれ変わったような気がした。

――この身体でまたこのコンクリートの床に転がされるのか……。

 身体を洗わせてくれたフレヤに感謝の気持ちを示すつもりで、僕は床に落ちている手錠を拾い上げ、カチャリと自分の手にはめた。

「手錠されるのが好きなオカマなのね」
とフレヤは僕を軽蔑の目で見たが、驚いたことに、鍵で手錠を外した。

「ママからの伝言だけど、裸で寝るのは今朝で卒業、今日からはこれを着て働くのよ」

 フレヤは壁の棚に置いてあった紙袋を僕に手渡した。最初の日に母親に言われて取ってきた紙袋で、ディルドーが入っていると思ったが、結局使わずに翌日フレヤが棚に置いたのを思い出した。

 紙袋の中に入っているものを見て当惑した。それは着古された女物の衣類だった。プリントのスカート、青リンゴの色のトップ、破れかけた綿のブラジャーと白いパンティーが入っていた。

「どうして僕が女物の服を着なきゃならないんだよ? 僕が着ていたジーンズとティーシャツとブリーフを返してくれ」

「オカマのくせに、命令された通りにしなくてもいいと思ってるの? すぐに着替えて五分以内にママの所に行かなかったら、金切りバサミが待ってるわよ」

 何故フレヤが最初から僕のことをオカマと呼んでいたのかが分かった。そして三人の姉たちが何故僕をメス犬、メス猫、メス豚と必ずメスをつけて呼んだのかも。最初から、あの母親は僕を裸で何日か放置した後で女装させるということを決めていて、娘たちにも話してあったのだ。だから彼らは頭の中でスカート姿を頭に重ねて僕を見ていたのだろう。

「フレヤやお姉さんたちも、お母さんに脅されて犯罪の片棒を担いでいるのか? 拉致誘拐も、監禁も、重大な犯罪だぞ。捕まったら何年間も牢屋に入れられる。それでもいいの?」

「お前の質問に答えることはママから禁止されているの。あっ、既に一分間も無駄にしたわね。あと四分でママのところに行かなかったら金切りバサミよ」

「そんな脅しには乗らないぞ。どうせ吠えるだけで噛みはしないんだから」
と、僕はカラ元気を振り絞って言った。

「フン、勝手にすれば。でも楽観的な思い込みはしない方がいいわよ。ママは有言実行の人だから」

 先ほどフレヤに「今日からこれを着て働く」と言われたのが気になっていた。「働く」というのは身体を売るということではないだろうか? 女装をさせられて娼婦として働かされるのだ。十八歳にして男娼にされるなんて、絶対にイヤだ! 

「あと三分ね。私は先に行ってるから好きなようにしなさい」
と言い残してフレヤは階段を上がって行った。

 僕は急に怖くなった。大変だ、もう三分も残っていない。僕は急いでパンティーをはいた。伸びきってシミだらけの、白いパンティーとは言えない布切れだった。肌に触れるだけでも嫌悪感が湧くのに、何故か僕の股間のものははち切れそうに大きくなっていた。自分のものがパンティーからはみ出しているのを見て「どうしてこんな時に」と自分に嫌悪感を抱いた。

 こんなことはしていられない。僕はすりきれそうな古いブラジャーに腕を通し、腕がつりそうになりながら背中でホックを留めた。空っぽのブラジャーが半分つぶれていて、不恰好だった。女装をさせるなら、パッドぐらい用意しておけ、と言いたかった。

「あと三十秒よ」
というフレヤの声が上から聞こえた。

 僕は膝丈のスカートに足を通し、青リンゴ色のトップを頭から被って、スカートのホックを留めながら階段を駆け上がった。ドアの外にはフレヤが待っていて僕をリビングルームに連れて行った。


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