忘れな草
お屋敷の身代わり令嬢
【内容紹介】小学校6年で孤児となったノアは16歳の時に「忘れな草」というセレモニー専門の参列者派遣会社に就職し従業員寮に入る。ロンドン近郊の古城のような邸宅で行われる18歳の少女の葬儀に派遣されるが、葬儀の後で、喪主の女性から驚くべき提案を受ける。上司の命令で女装して仕事した結果の女性化を描くTS小説。
原題:Abigail Resurrected
原作者:Yulia Yu. Sakurazawa
翻訳者:桜沢ゆう
第一章 風変わりな職業
私の職業はモーニングサービスだ。といっても喫茶店とは何の関係も無い。喪服のことをモーニングと言うが、あのモーニングだ。葬儀屋ではなく、葬儀参列者の派遣業者と言う方が分かりやすいだろうか。
世の中には孤独な人が大勢いる。親類が殆どいない人、親類がいても付き合いがない人、人と付き合うのが苦手な人、一年中家に引きこもっていて近所の住人から認識すらされていない人……。事情はさまざまだ。そんな人が亡くなって葬式を行う時、声をかけるべき人がおらず、喪主以外は数人の参列者しかいないという寂しすぎる葬式になる場合がある。
そんな場合、喪主にそこそこの経済力があれば、私たちに声をかけることによって問題を解決することができる。喪主が自分で参列者のバイトを雇うとか、素性のわからない業者をネットで探して申し込むことはお勧めできない。私たちプロのモーナー"Professional Mourners"と単なるバイトではレベルが全く違うからだ。本当に故人を見送るために来た少数の友人や身内は、雇われた参列者を見抜けるだけの眼力を持っているものだ。安易な数合わせをしたために葬式が白々しいものになるのでは意味がない。
私の勤め先は「忘れな草」というモーニングサービス専門の派遣会社だ。私がこの会社に就職してからもう二年が経とうとしている。
***
二年前、私はまだ十六歳になったばかりの少年だった。ロンドンの下町をあてもなく歩いていて、商業地区が住宅地区に変わる境い目の地域に昼過ぎに通りかかった際、"Forget-Me-Not"(忘れな草)と書かれた色彩感の無い看板が目に入った。それが茎の先に青い小さな花の集合体を咲かせる植物の名前であり、その名前自体が花言葉であることを私は知っていた。
――忘れな草とは、いったい何屋さんなのだろう?
玄関のドアの横の「社員募集中。年齢・学歴不問」と書かれた貼り紙を見て私は立ち止まった。年齢も学歴も不問の就職口、それは当時の私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。
ドアを開けて中に入ると、そこは建物の清楚な外観とは不似合いな空間だった。縁なしのめがねをかけた顎髭ぼうぼうの五十代の男性が奥に座っていて、私を見るとデスクの前の椅子を指さして「どうぞ」といった。
「あのう、年齢と学歴が不問の社員募集って本当ですか?」
「君の名前は?」
「ノア・エドワーズです。ノアと呼んでください」
「ノア、私は忘れな草の社長のレオ・ハリスだ。履歴書は持ってきたかね?」
「履歴書? あ、すみません。書き方が分からなくて……」
「まあいいだろう。じゃあ、住所、氏名、年齢と略歴を話してくれ。それから家族関係についてもね」
私は何度かその種の質問を受けたことがあった。両親が居ないと言うと同情が得られることは分かっていたし、明確な住所を言えないと相手が「引く」ことも知っていた。でも、ハリス社長にじっと見られながら話していると、ウソを言ってはいけないという気持ちになり、ホームレス同然であることを含めありのままを包み隠さず話した。
「君がこれまで大変な人生を送ってきたことはよくわかった。君の小ぶりで青白い顔から判断すると、その気になれば涙を一粒や二粒流すのは造作なさそうだね」
「泣くってことですか? それ、仕事と関係あります?」
「君は『泣き女』という言葉を聞いたことがあるかね?」
「ああ、葬式で泣くフリをするジプシーの女の人のことですね」
「忘れな草は葬儀の参列者を派遣する会社だ。英国人らしい外観の若い白人の男女を派遣できるというのがセールスポイントだ。ちょうど君のような小柄で細身の憂い顔の少年を補充したいと思っていたところだった」
「十六歳ですから少年と言うのもおこがましいですが……。でも、雇って頂けるんですか?」
「採用だ!」
「ヤッター!」
ハリス社長が「大変な人生」と評したのは的外れではなかった。貧しさという点においては誰にも負けない人生だった。子供の目から見て明らかにろくでなしの代表だと分かる父親と、アル中の母親の子供として生まれたのは不運としか言いようがない。親が定職についていたかどうかはよく分からないが、私はずっとお腹をすかせていたし、しょっちゅう電気を止められて真っ暗な夜を過ごした。
そんな親でも亡くすことがどんなに悲しいものか、十二歳の時に二人そろって交通事故で逝ってしまうまでは思いもしなかった。それから私は親戚をたらい回しにされたが、厄介者扱いをされて家出を繰り返し、そのうちに誰も迎えに来なくなって、ホームレス同然の状況で中学を「一応」卒業した。気候が良い時には公園で寝たり、寒くなると駅のベンチで寝ることも多かった。
「但し、不潔な身なりでクサいにおいをバラまかれるのは困る。すぐ風呂に入って頭のてっぺんからつま先まで、石けんで三回以上洗いなさい。衣服は支給する」
事務所の奥にあるシャワールームに連れて行かれて、身体を洗うように言われた。一時間以上かけて何度もシャンプーをしたり、タオルに石けんをつけて身体中をゴシゴシ洗った。足の親指と人差し指の間をこすっても白いタオルが汚れなくなったのは、五回目に洗った時だった。
生まれて以来これほど清潔になったことはなかった気がする。「石けんの匂いがする女の子」という表現を聞いたことがあったが、私もシャワールームを出た時には自分の身体から石けんのにおいがしていた。
「ハリス社長、シャワーが終わりました」
と大声で呼びかけると、社長が下着と糊のきいたカッターシャツとズボンを持って来てくれた。
「うわあ、真っ白でパリパリですね!」
僕は巨大なパンツに足を通し、指先よりも長いアンダーシャツを三回折りして着た。大きすぎるが、信じられないほど清潔で気持ちが良かった。カッターシャツはアンダーシャツより更に袖が長く、裾は膝まであった。
「大きすぎるな。というより、君が小さすぎると言うべきか……」
「あ、袖を折り返せば大丈夫ですから、お気になさらずに」
「気にするなと言われても、そんな恰好をしてうろうろされたら会社が評判を落とすんだよ。子供服はここには置いてないからなあ……。仕方ないからこれでも着るか」
社長が廊下の横の引き戸の中から取り出したのは女物の喪服が掛かったハンガーだった。
「じょ、じょ、じょ、冗談じゃない! 僕、絶対にイヤですからね!」
「君ならヒゲも無いし、この喪服を着て帽子を深めにかぶれば、誰が見ても葬式帰りの女性に見えるよ」
「お断りします! 女装させられるぐらいならホームレスの方がマシです。僕の服を返してください」
「クサくて虫が棲みついていそうな服だったから火箸でゴミ袋に入れて外に出したよ。さっき収集車の音が聞こえたから、もう外にも無いはずだ」
「そんなのヒドすぎます! 僕、死んでもスカートははきませんからね!」
「困ったなあ、宿舎に行けば先月辞めたショーンの服があるんだが……」
「じゃあ宿舎まで、この服を貸してください。ズボンの裾を折り返してピンで留めたら何とかなると思いますから」
「いいだろう。服にはちゃんとアイロンをかけて返してくれよ」
私はほっと胸をなでおろした。
午後五時半に閉店するとハリス社長は僕を徒歩十五分ほどの距離にある赤煉瓦壁の四階建てのアパートに連れて行った。グラウンド・フロアの右奥の〇一七号室のドアを開けて、ハリス社長が
「ハイジは居るか?」
と叫んだ。
居間に面する左側のドアが開いて、栗色のロングヘアをパール付きのヘアゴムで束ねた二十代後半の大柄な女性が出てきた。
「ハイジ、この子が明日からうちで働くことになった。ベッドを割り振ってやってくれ」
「ええと、男の子、じゃないですよね?」
とハイジは僕を観察しながら聞いた。男物の服を着ている男子を見て何てことを言うのだろうと腹が立つと同時に恥ずかしくなって赤面した。
「いや、この子はノアという名前の男子だ」
「デニスの部屋にベッドが空いてますからデニスと同室にさせますか? それともショーンの代わりに私の部屋に置いてもいいですけど」
「そうだな……悪いが君の部屋で面倒を見てくれないか?」
――まさか、男部屋が空いているのに女性と同室だなんて……。
「事務所でシャワーを浴びさせたが、着ていた服があまりにもクサかったから捨てさせて、私の喪服を着せて連れてきたんだ。ショーンの服は捨ててないよね?」
「置いてありますよ。この子ならちょうど合いそうですね」
「じゃあ、頼んだよ」
と言うとハリス社長はどこかに行ってしまった。
ハイジの後を追って部屋に入った。左右にクローゼットとベッドがあり、突き当たりの窓際にデスクが並んでいる。ドアの右手に洗面所への入り口らしいものがある。
「このジャージーに着替えなさい」
ハイジは引き出しからピンク色のジャージーの上下を出して僕に渡した。
「え、これ女物では……」
「子供用だから男も女もないわよ。ノアは何年生?」
「もう中学は卒業しましたよ。先月十六歳になりました」
「へぇーっ! 小六ぐらいかと思ったわ。ショーンが小六だったから」
「ショーンって先月辞めた従業員のことだと思っていましたけど、子供だったんですか? ハイジさんの親類か何か?」
「ハリス社長の知り合いの夫婦が事故で亡くなって、その子供のショーンをしばらく預かってたのよ。お葬式の参列者として小五から中三ぐらいの少年が一人いると重宝するのよね。死んだお母さんの従姉妹夫婦がアメリカに住んでいることが分かって、ショーンは先月アメリカに引き取られて行ったわ。その夫婦は金持ちらしくて、ショーンは衣類を殆ど置いていったのよ」
小学生の時に両親を事故で亡くしたところまでは私と同じだが、私の親には金持ちの従姉妹の代わりに貧乏な兄弟と意地悪な奥さんがいるだけだった。同じ孤児でも大違いだ……。
「僕は小学生が着ていた服を着せられるんですか……。これでも大人の男なんですけど」
「自分に与えられた役を演じるのがプロのモーナーよ。小学生でも、中学生でも、高校生の役でも演じなきゃなきゃならない。場合によっては若い女性の役もね」
「女性の役はイヤです! ハリス社長にもはっきり言いましたけど、死んでも女装はお断りしますから」
「アハハハ。そんなにムキになられると、却ってやらせたくなるわ。ノアじゃなくてノラという名前でみんなに紹介しようかな。そのジャージーのズボンの代わりにスカートを出してあげるから待っていなさい、ノラちゃん」
僕は既に喪服のズボンを脱いで膝丈のカッターシャツ姿になっていたが、そのままこのアパートから逃げだそうかなと本気で思った。
「冗談よ、冗談。ショーンにも一度も女装はさせたことがないから安心しなさい。私が言いたかったのは、参列者としてどんな役でも演じられるように努力しろということ」
「分かりました。ああよかった……」
「でも、毎日私の言うことをちゃんと聞かないと、女役へのコンバートを社長に進言したくなるかも」
とハイジがにやっと笑って言った。
ジャージーに着替えるとグーッとお腹が鳴った。
「もうすぐ七時ね。食堂に行くわよ」
寝る場所が確保できていて、ご飯も食べられる。今日「忘れな草」の看板が目にとまらなければ今夜も公園で汚い毛布にくるまってひもじい思いをしていただろう。私は神様に感謝した。
食堂はキッチンの横の小さな部屋で、六人の若い男女がカウンターの前に列を作っていた。十七、八歳と思われる女性が一人、二十代の女性が二人と、二十歳から三十歳ぐらいの男性が三人だった。
「みなさん、新メンバーのノアを紹介させて」
「ノア・エドワーズ、十六歳です。よろしくお願いします」
「ショーンの代わりよ。私と同室」
と言って、ハイジは一人一人に紹介してくれた。
大きなスープ皿に入った料理をカウンターで受け取り、テーブルに持って行ってハイジの横に座った。
テーブルの真ん中にはパンが山積みになった大きなかごが置かれていた。それは私にとって夢のような光景だった。
「今日はボルドー風のシチューね。シチューと言うよりはスープに近いけど」
大きなジャガイモ、ニンジンとオニオン、それに豚肉の塊がたっぷりと入っている。ニンニクの匂いがして、私は唾をゴクンと飲み込んだ。ハイジが手を組んで祈る仕草をするのを真似してから、ハイジが料理を口にするのを待って豚肉を口に運んだ。
――なんておいしいんだ、ここはパラダイスだ! 教会の炊き出しで、こんな感じのスープは何度も食べたが、しょっぱくて肉はまばらだった。
「ここでは毎日こんなにおいしいご飯を食べさせてもらえるんですか?」
と聞くとハイジはにっこりと微笑んで
「ノアって思ったより行儀がよくて素直でいい子ね」
と言った。
対面には、私と年が近そうなキャサリンと、二十代半ばのシンクレアという憂い顔の美人が座っていたが、キャサリンが微笑みながら僕に話しかけた。
「ハイジさんがブロンドのショートヘアの女の子を連れてきたと思っていたのに、胸が無いからどっちだろうかと迷っていたのよ。小さいけど私と一歳しか違わないのね」
「小さいって……僕は百六十二センチあるんですよ」
「イギリス人の女性の平均は百六十二だから平均並みね。私は百六十八よ。ハイジさんは百八十二」
キャサリンが私を大人の男性のカテゴリーに含めていないのは明らかだった。
「ここで私の身長を言う必要があるのかなあ?」
とハイジがキャサリンをにらみつけ、四人で笑った。
「キャサリンの弟みたいにしてお葬式に行けばいい感じになりそうね」
「ショーンが居なくなって困っていたから、ちょうどよかったわ」
「僕、頑張ります!」
女性はもう一人クリスティンというきれいな人がいたが、隣のテーブルで三人の男性と談笑していた。その四人は私には全く興味が無いようだったが、私が普段人気の多い場所で慣れっこになっていた敵意や蔑視というものは全く感じなかった。
食事が終わると各々が自分の食器をキッチンのシンクまで運んだ。キッチンには私の死んだ母より少し年上と思われる太った女性が立っていて、私の頭を撫でて「男の子だったのね」と言った。後でハイジから聞いたところによると、そのジョーゼフィンという女性と夫のデイヴィッドが、グラウンド・フロアの従業員寮のまかないと、このアパートの三階にあるハリス社長宅の雑務をしているとのことだった。
ハイジと一緒に部屋に戻った。私はベッドの縁に腰を掛け、ハイジは窓際のデスクの前に座ってお化粧を落とし始めた。
「私が先にシャワーを浴びるわね。ノアは私の後でシャワーを使ったら、髪の毛や汚れが残っていないように掃除するのよ。私は不潔なのが大嫌いだから」
「はい、分かりました」
と私は上司に対する口調で答えた。
ハイジは化粧落としを終えて立ち上がるとベッドの縁に腰掛けてセーターを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。私の目の前、数十センチの距離で女性が服を脱ごうとしている。私は慌てた。三年半前に母を失ってから女性の下着姿を見たことがなかったからだ。お辞儀するような姿勢で真下を向いて目を閉じた。
「いいわよ、気にしなくても。同じ部屋で暮らすんだから、お互いの裸を見ることに慣れないとやっていけないわ」
「でも、異性ですから……」
「バカねえ。私にとってノアは一回り年下の弟というか親子みたいなものよ。ノアに裸を見られても何とも思わないし、ノアのオチンチンを見ても襲おうと思ったりしないから心配しなくていいわよ。さあ、目を開けて前を見なさい」
目を上げるとハイジのおへそがすぐ前に会った。ハイジは全裸だった。
「私は暴力で無理やり言うことを聞かせるタイプの人間じゃないから安心して」
とハイジは穏やかな表情で私を見下ろして言うと、シャワールームへと歩いて行った。
中学二年の時に同級生からオナニーの仕方を教えられてから、自分は大人の男になったと自覚していた。まだ実際にセックスをしたことはないが、大人の男と大人の女が同じ部屋で服を脱いだらどうなるかは理解しているつもりだった。男が女にのしかかって事を成すというイメージが頭の中にあった。
ついさっきまで、見上げるほど大きくて強そうな女性を目の前にして、自分はいったいどのように振舞えば良いのか想像できずに戸惑っていた。ハイジに完全に子ども扱いされたお陰で、私はそんな気苦労から解放された気がした。
***
翌朝、朝食が終わると、私は白いカッターシャツと黒の上下に着替えた。ショーンはかなり体格のいい小学生だったことが判明した。ショーンが残して行った服の肩幅や首周りはちょうどよかったが、袖とズボンの裾は私には少し長めだった。
「まあ、このままでも着られないことは無いわね。今日はこのまま出かけるからズボンの裾を汚さないように注意して歩きなさい。後でジョーゼフィンに裾を二センチ上げるように頼んであげる」
ハイジは膝をかがめて私の前に立ち、黒のネクタイを結んでくれた。ネクタイをするのは生まれて初めてだった。
タイトなツーピーススーツを着てヴェールの付いた小さな帽子を頭に乗せたハイジはとても気品があった。自分はこんな美しい女性と同じ部屋で生活しているのだと思うと鼓動が高まった。
「さあ、食堂でブリーフィングが始まるわよ」
「ブリーフィング?」
「ハリス社長から今日の仕事について説明と指示を受けるためのミーティングよ。棺桶の中に眠っているのがどんな人かを分かっていないと、お葬式でどう振舞うべきなのかが分からないし、もし他の参列者から話しかけられた時に自然な受け答えができないでしょう? そのための準備会議なのよ」
「へぇーっ、そこまでやるんですね」
私は感心しながらハイジと一緒に食堂に行った。
既に食堂には十人以上が集まっており、昨夜の夕食の時には見かけなかった人も何人かいた。黒いレースのドレスを着た小学校高学年から中学生と思われる美しい少女が母親と並んで立っていた。
「自宅から通っている社員もいるんですか?」
と聞くとハイジは頷いた。
間もなくハリス社長が入ってきて、A4の印刷物を全員に配った。
「皆さん、おはよう。今日のブリーフィングを始める前に忘れな草の新しいメンバーを紹介しておく。ノア・エドワーズ君だ。ショーンの後任として、小学校高学年から中学生の少年の役回りを中心にやってもらうことになる」
「あのう、僕の年齢は……」
私が義務教育を終えた十六歳であることは、昨夜の夕食に来ていなかった人に伝えておかないと子供扱いされる恐れがあると思い、手を挙げて発言しようとした。
「ノア、与えられた役割をプロの役者として演じるのが君の仕事だ。十三歳の少年の役を与えられたら、例え君が十八歳の女性だとしてもそんなことは関係ない。私が指示した通りに演じてもらう」
叱責口調で言われて「はい、すみませんでした」と謝った。黒のレースのドレスの少女が目を丸くして私を見つめているのに気づいた。社長が変な言い方をしたから、あの少女は私が十八歳の女性だと勘違いしたのではないだろうかと心配になって恥ずかしさがこみ上げてきた。
ハイジが笑いを押し殺した表情で私を見下ろしながら、そっと肩を叩いて慰めてくれた。
「今日の仕事は二件だ。一件目は先週土曜日に亡くなった六十七歳のオースティン・ベネットだ。略歴は配布したメモの通りだが、ミスター・ベネットはロンドンに引っ越す前の十数年間レディングの中学校で校長をしていたことになっている。君たちは尊敬する恩師の訃報を聞いてレディングからバスを仕立ててやってきた元生徒たちという想定だ。各自の卒業年次と役割はそこに書いた通りだ。このメモは一昨日作成したからノアの名前は書いてないが、ノアはソフィアの同級生の男子中学生の役割を演じてくれ」
ソフィアとはあの少女のことに違いない。中学生の役とはいえ、きれいな少女の同級生を演じられるというのは朗報だ。もし彼女が私について誤解しているとすれば早くその誤解を解かねば……。
「二件目の仕事は八十八歳のシャーロット・サマーズの墓地での埋葬に立ち会うだけだ。シャーロットは七年前に娘夫婦がスコットランドに引っ越して以来、老人ホームに住んでいた。今日確実に埋葬に来るのは老人ホームのスタッフ二名とその娘さんだけだ。そのメモの通り参列するだけの仕事だが、心を込めてシャーロットを見送って欲しい・ブリーフィングは以上だ。マイクロバスは十分後に発車する」
と言ってハリス社長は出て行った。
「ハイジさん、質問していいですか?」
「その通りよ、ソフィアというのはあのかわいい子のことよ」
とハイジは勝手に僕の質問を想像して答えた。
「ブブーッ、ハズレです。質問はレディングのことです。レディングで最近まで十何年も住んでいたのなら、レディングからお葬式に来る人も居るはずです。ここに書いてある中学を出た人も居るかもしれませんし、レディングのどの通りに住んでいるのかとか聞かれたら、僕たちがホンモノじゃないことはすぐにバレると思うんですけど……」
「これは私の推測だけど、レディングで校長をしていたという経歴はフェイクなんだと思うわ。ハリス社長の言い回しから察すると、人に言えない場所で十数年過ごした可能性が高い」
「人に言えない場所って、もしかして刑務所とか……」
「それは私たちが詮索すべきことじゃないわ。ハリス社長が賢明かつ安全と考えて書いた脚本に従って、私たちは与えられた役を演じる。それ以外は忘れるのよ。ノアはソフィアにくっついて真似をしていれば大丈夫。もし何か困ったことが起きたら私に相談に来なさい。さあ、部屋に帰ってオシッコをしてからマイクロバスに乗るのよ」
ハイジと一緒に一旦部屋に戻ってからアパートの玄関前に停まっているマイクロバスに乗りに行った。ソフィアのお母さんと思われる女性から手招きされて、ソフィアの横の席に座った。ソフィアは私の胸に目を遣りながら聞いた。
「ノアの本名は何?」
「本名? ノアだけど」
「やっぱり、十八歳の女性じゃないわよね。胸が無さすぎるもの……」
「ははぁ、社長があんな言い方をしたから誤解したんだね。僕は十六歳の男だ。もう中学は卒業したから、ソフィアよりお兄さんだよ」
「ウフフフ。私は三月に高校を卒業したのよ。服装とメイクで十二歳から二十二、三歳まではこなせるの。ハリス社長は平日の朝の仕事に十六歳未満の子供を雇ったりしないわよ。ショーンがいなくなってからは子供の役をさせられることが多かったけど、ノアが入ったお陰で子役から解放されそうだわ」
「なんだ、年上だったのか……」
「ハリス社長の話からすると、今度中学生の女の子が必要になったらノアに任せられそうだし」
「それは無いよ。昨日の面接の時に、僕は絶対に女装はしませんと宣言してあるから」
「性別とは関係なく与えられた役を演じろと社長に言われて『はい、すみません』と謝っていたくせに」
「それはあの時の雰囲気で……」
「それに、中学生の女の子が必要な仕事の依頼が来た時に、私がどうしても都合がつかないと断ったら、ノアにお鉢が回るわよ、ウフフ」
「頼むから断ったりしないで、お願いだから……」
「私が断らなくても、もし中学女子が二名必要な仕事だったらどうなるかなぁ? まあ仲良くやろうね」
マイクロバスは一時間かけてカンタベリーの教会に到着した。
レディングから恩師をしのんでやってきた十二名の教え子たちは、ハイジに率いられて教会の中に入り、後方の空席の一角に席を取った。最前列に座っている黒のチュールのベールで顔を覆った黒のロングドレスの女性が故人の妻で五十二歳のはずだ。その横に座っている二十五歳と二十七歳の女性が独身の娘たちだろう。確かに見栄っ張りな感じがする。ハリス社長からもらったメモを見れば大体の想像がつく。
「ノア、現場でメモを取り出すのは禁止よ」
ソフィアの母親に耳元で言われたので、私はメモをポケットにしまった。
葬儀の間、私は出来る限り悲しそうな顔をして大人しく座っていたが、ミサが始まると周囲からすすり泣きの声が聞えた。それはすぐ近くから聞こえていた。隣に座っているソフィアを見ると、目から涙があふれていた。
――ウソだろう! ソフィアは本気で泣いているみたいだ。
チラリと振り返って後ろの列に座っている忘れな草の人たちを見ると、女性は例外なく目に涙をたたえてすすり泣いていた。男性も殆どの人の目が濡れていて、一人はむせび泣いていた。悲しい顔を「繕っている」のは私一人だった。
目薬を手に持っている人は一人もおらず、涙は実際に目から出て来たもののようだった。
社長やハイジがプロのモーナーとか、役者とか言っていたのは、こういうことだったのかと感心した。
ミサが終わり、聖歌を歌いながら自分は中学生で、故ベネット氏は大好きな校長先生なのだと自分に言い聞かせ、ある程度その気持ちになったが、涙を出すことには成功しなかった。
葬儀が終わりに近づき、献花が始まった。私たちレディングからの一行は一般会葬者の大半が献花を終えた後に立ち上がった。ボロを出さないためには他の参列者との会話を避けるのが賢明だからだ。献花をしてから故人の奥様にお悔やみを言って退出するのだが、先頭のハイジの演技には度肝を抜かれた。
「私が非行に走らずに中学を卒業できたのはベネット先生のお陰なんです」
百八十二センチのハイジが目を泣きはらして少女のように震える手で奥さんの手を握って告白した。もう周囲には故人の家族しかいなかった。忘れな草にモーニングサービスを申し込んだのは奥さん本人のはずなのに、ハイジはそんなことには構わず教え子として心情を吐露した。ハイジの後に続いた献花者も、どう見てもベネット校長の教え子にしか見えなかった。ソフィアの番になり、すすり泣きながらソフィアが奥さんに言った。
「私たち二人とも校長先生が大好きでした」
私はその時、自分はレディングの中学生なのだと本気で感じた。涙が溢れ出て、奥さんに何か気の利いたお悔やみを言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。
「ありがとう、あなたたち」
奥さんはソフィアと私の手を改めて強く握って礼を言った。
ソフィアと二人ですすり泣きながら教会の外に出てマイクロバスに乗り込んだ。
マイクロバスがカンタベリーの町から出たころには悲しい気持ちがウソのように消えていた。
「初めてにしては、なかなかやるじゃない」
とソフィアが私の肩を指ではじいた。
第二章 心が痛む出来事
モーニングサービスの仕事は私に向いていた。といっても、年少者の就労を規制する法律もあって、まともな定職に就いたことは無かったので、モーニングサービス以外の仕事が私に向いていないかどうかは知る由も無いのだが……。
忘れな草の従業員としての生活が私に向いていた、と言うのが正確な表現かもしれない。
毎日、ハイジたちと一緒に温かい夕食を好きなだけ食べて部屋に戻り、熱いシャワーを浴びて髪の毛の一本一本まで清潔になり、ハイジやキャサリンとおしゃべりをしたり、ハイジから借りた雑誌を読み、自分のベッドで朝まで誰にも邪魔されずに眠る。朝になったら食堂で美味しい朝食を食べ、部屋で喪服に着替えてから、ブリーフィングの会議でその日の仕事について社長から指示を受ける。そして先輩たちと一緒に仕事の現場に赴いて、自分が与えられた役割を演じる。
毎日がその繰り返しだった。
基本的に日曜日が休日だった。通例として亡くなった日から数日後に葬儀が設定されるが、教会は日曜日は礼拝でふさがっているので日曜日に葬儀が行われることは滅多にない。週休一日ではなく忘れな草に仕事の依頼が来ない日が不定期の休日になるので、ならすと週休二、三日というところだった。
休日になると従業員寮の住人たちはよく外出する。私以外の三人の男性は毎週のように誘い合わせてパーティーに行き、女の子と遊ぶのを楽しみにしているようだった。私は彼らから一度もパーティーに誘われたことはない。彼らが毎日目にしている私は、喪服を着た中学生ぐらいの少年の姿をしており、彼らが私を子供と思っているのは間違いなかった。
就職後半年ほどしてアンドロイドのスマホを買ったのと、一番安いデータ通信専用のSIMを申し込んだ以外、私は給料を預金口座から引き出したことがない。ショーンが残した服は十分な数があり、私はおしゃれには興味がないので服を買いたいと思ったことは一度もなかった。ショーンの服は手足が少し長いだけで、袖を折れば問題なく着ることが出来た。小学校六年生だったショーンの服を着ていると、余計に子供っぽく見えるということが難点だが、どうせ子供と思われていることだし、わざわざ自分を大人に見せる必要性は感じなかった。
子供っぽく見えることにはメリットもあった。ハイジは私の前で裸になったり私の裸を見ることに抵抗を感じないままだったし、私より二歳余り年上のキャサリンもハイジの影響を受けたのか、私を弟のように扱った。
ソフィアは近くのアパートに母親と二人で住んでいるが、休日になると、キャサリンのところによく遊びに来る。キャサリンは同室の二十二歳のシンクレアに気兼ねをして、ハイジと私の部屋にソフィアを連れて来ておしゃべりするのが常だった。そんな時、キャサリンとソフィアは私をまるで弟か女友達であるかのようにおしゃべりに加えてくれた。
私のように経済力が無く、学歴も体格も劣る男性が、キャサリンやソフィアのようなハイレベルな外観の女性と親しく話ができる状況というのは、普通なら望んでも得られるものではない。そんな観点では忘れな草の従業員寮はまさにパラダイスだった。
私の身長は入社時点で百六十二センチだったが、翌年の春には百六十三センチになった。その翌月に測ると五ミリほど縮んでいて、その後も浮いたり沈んだりという状況だったので、私はその身長で残りの人生を送ることを覚悟した。
入社初日のブリーフィングで社長から「性別とは無関係に与えられた役割を演じろ」という意味のことを言われた。その後ハイジから「明日の葬式は女性が足りないからノアは女性の役で参列することになる」と何度か言われてパニックになりかけたが、その日のうちに「人数が足りたからノアはいつも通り中学生の男の子の恰好で行くことになった」と訂正された。ハイジが本当に社長からそう指示されたのか、それとも私が慌てふためく様子を見て楽しむために冗談を言ったのかは分らない。もし私が社長の所に行って「ハイジから言われましたけど本当だったんですか」と質問すれば、本当でなくても社長は「本当だとも。明日は女性をやりなさい」と答えるのが確実だと言う気がした。
結局、私が意に反して女装をさせられることは一度もなかった。
入社の日から二年近くが過ぎた。二月末の寒い朝のブリーフィングの時のことだった。その日、ハリス社長は五分ほど遅れて入ってきたが、普段と違って不機嫌さを漂わせていた。その日はクリスティンが休暇を取っており、女性が一名少なかった。
「今日は墓地での埋葬が午後に一件予定されているだけだったが、昨夜緊急の依頼が入った。ハイジ、シンクレア、キャサリン、ソフィア、それにノア、君たちにはこれからサリーまで行ってもらうことになった。夕方までには帰れるはずだ。もう一方の埋葬案件はロンドンの墓地での立ち合いだけだから同業者に女性数名の応援要請をかけたところだ。男性諸君はメモに書いた内容を頭に入れて午後一時に玄関前に集合してくれ。男性諸君は解散してよろしい」
男性たちが出て行った後、ハリス社長は女性四人と私を座らせて話を続けた。
「葬儀は教会ではなく依頼者の邸宅で執り行われる。亡くなったのはアビゲイル・ルイスという十八歳の女性で、依頼者はアビゲイルの母親、アイモジェン・ルイスだ。父親はアビゲイルが五歳の時に亡くなり、アイモジェンとの二人暮らしだった。アビゲイルは幼少期から病気がちで、ありとあらゆる健康問題を抱えていたそうだ。元々心臓が弱く、学校には行かずに母親が家で教えていた。最後は結核によって短い生涯を終えた」
「今どき結核で亡くなる人がいるんですね」
「結核は今でも死因のトップ・テンの恐ろしい病気であり、イギリスでも毎年三百人以上が結核で死亡するそうだ。アビゲイルの場合は結核特有の咳などの症状は出ず、結核性髄膜炎で死亡したとのことだ」
「栄養不足の人や免疫力が落ちている人は結核にかかりやすいんですよね……」
と私は言った。知り合いのホームレスの老人が死んだときに、死因が結核だったと聞いたことがあった。
「結核で亡くなった人の家に行って感染しないんでしょうか?」
キャサリンが心配そうに聞いた。
「結核は咳による空気感染だから心配ない。念のため家じゅうの殺菌処理と徹底的な換気を実施済みとのことだ」
「私たちはどんな役を演じればいいのですか?」
「アビゲイルは学校に行かず、殆ど外出したことがない。SNSやフォーラムなどを通じた友達はいたが、実際に顔を合わせたことがある友達は殆どいなかったそうだ。君たちはネットで知り合い、心を通わせた友人で、一度か二度アビゲイルの家を訪問して会ったことがあるという設定だ。アイモジェンには付き合いのある親類は皆無とのことで、葬儀に来るのは近所の人だけだが、その人たちに『アビゲイルは学校には行かなかったが友人に恵まれた幸せな人生を送った』という印象を与えることが君たちのミッションだ」
「どうして男性三人もメンバーに含めなかったんですか?」
「依頼者からの要望が『アビゲイルと年が近い十代後半から二十代前半の女性を五名』だった。クリスティンが休みなので『女性だけなら四名しか出せない。中学生の男子を含めていいなら五人の派遣が可能』と答えたところ、『できれば何とかしてほしいが最悪の場合は中学生の男子を含めてもやむを得ない』とのことだった」
「最悪の場合じゃなくても、ノアならできますよ」
とソフィアが言い出して、キャサリンが
「私もそう思います」
と声を合わせた。
「いい機会かもしれないわ」
とハイジが言ったので私は焦った。
「絶対にイヤです。もし女装を強いられるのなら僕はここを出て行きます!」
と私は抵抗した。
「誰にどの役を演じさせるのかを決めるのは私だ。私の決定に従わない社員は辞めてもらうしかない」
ハリス社長が普段とは違う口ぶりで私に言った。虫の居所が悪いのか、私の言い方が悪かったのか、あるいはその両方か……。
「ノア、社長に謝りなさい!」
ハイジに頭を小突かれて、涙が出てきた。
「生意気なことを言って申し訳ありませんでした。どうか僕を辞めさせないでください」
「ソフィアとお揃いの黒いレースのドレスを喜んで着るということだな?」
社長の目を見て本気だと分かった。四人の女性が
「早くハイと答えなさい」
と言いたげに小さく頷いている。
「ど、どうしてもとおっしゃるなら……」
「イエスなのか? ノーなのか?」
「イエスです……」
ハイジ、シンクレア、キャサリンとソフィアから安堵のため息が洩れた。その瞬間、私が十八年間守ってきた何かが崩れた。自分の外観が男性的でないという事実は自覚していた。だからこそ、女装は絶対にしないと心に決めていたのだ。その一線だけは越えたくなかったのに……。
「もう一つの黒のレースのドレスはキャサリンに合わせてありますから、ノアには少し長すぎるかもしれません。普通のワンピースでもいいでしょうか? 時間がありませんが、女性らしい歩き方や所作を教えなきゃ」
とハイジが立ち上がった。
「ちょっと待て」
とハリス社長が手を挙げてハイジの動きを制した。
「ガニ股で歩く女性参列者を派遣したら忘れな草が評判を落とす。今回はノアを通常通り中学生の男子として派遣する。これが私の決定だ」
と宣言してハリス社長は出て行った。
「よかった、今度ばかりはもうダメかと思った……」
私は九死に一生を得た思いだった。
「社長が『今回は』と言ったでしょう。あれは次回から女性として使えるように歩き方や仕草を教育しておきなさいという、私への命令だったのよ。ノアがいつでもノラになれるように明日から特訓するからね!」
「その特訓には私たちも協力するわ」
とシンクレア、キャサリンとソフィアがうれしそうに声を合わせた。
***
五人でマイクロバスに乗ってサリーに向かった。最悪の事態は免れたものの、今後少年と女性の二足のわらじを履いて仕事をさせられることがほぼ確定的になった。きっとハイジは私を厳しく指導するだろう。歩き方、座り方、話し方、目配り、手の動かし方……。女らしい仕草を覚えるのはそう困難ではないだろうが、今日の教会では男、明日の墓地では女などと器用に切り替えができるだろうか? 男として仕事をしている時でも、いや、それだけでなく普段の生活でも、自分が気づかないうちについ女っぽい仕草をして、皆からオカマと思われるようになるかもしれない。
朝のブリーフィングには午前中の仕事の恰好で出席するという規則になっている。今後はソフィアのような黒のレースのドレスでブリーフィングに出ることも、しょっちゅうあるということだ。先輩の男性社員は今でも私のことを大人の男性とは思っていないのに、これからは同性として扱われなくなるかもしれない。
ハイジ、シンクレア、キャサリン、ソフィア。彼女たちと別れたくない。特に私にとって優しい母であり厳しい姉でもあるハイジと、友達のソフィアとは。ハイジは別格として、他の三人はもし中学時代の友達に見せたら羨ましがられるほど綺麗で魅力的な女性だ。忘れな草を辞めたら、そんなレベルの高い異性と親しくできる機会は二度とないかもしれない。彼女たちも私を年下の異性として優しく接してくれる。でも明日からはどうなるのだろう? スカートをはいて膝を突き合わせるようになったら、彼女たちとの関係はガラリと変わったものになるのではないだろうか……。
もう辞めたい……。忘れな草は私にとってパラダイスのような安住の地だと思っていたが、明日からは生き地獄になるかもしれない。でも、私には学歴も十八歳の男性らしい外見も無く、就活でアピールできる特技といえば、いつでも涙を出せることぐらいだ。私の職歴は他の業界での再就職には役立ちそうにない。
ホームレスに逆戻りするか、それとも男性としてのプライドを捨ててでもベッドと食事にしがみつくか……。
***
サリーには小学校の時に遠足で来たことがあった。その時はギルフォード大聖堂に立ち寄ってから、マグナカルタの調印が行われたラニーミードを見学した。ロンドンから遠くないが緑に包まれた美しい地域だ。ロンドンの雑踏の中で生まれ育った私は、サリーの田舎っぽい風景を見てほっとした気持ちになった。
古い街並みを通って、広い庭のあるお屋敷が並ぶ地域を過ぎ、木立の間に豪邸が散見される通りに入った。マイクロバスが停まったのは尖ったアーチと角ばった屋根のある灰色がかったベージュの立派な建物の前だった。
「立派な建物」という表現は安易だったかもしれない。そのゴシック風の建物は、裕福な未亡人が娘と二人で住む家としては仰々し過ぎると思った。アビゲイルはディズニー映画の「塔の上のラプンツェル」のお姫様のように、十八年間あの塔から出ることを禁じられていたのではないだろうか……。
私たちはマイクロバスを降り、開いていた門を通って敷地に入った。
芝生の真ん中に、裾の広がった黒いドレスを着て黒いヴェールを垂らした女性が立っていた。まるでヴィクトリア王朝から抜け出したようなシルエットだった。その女性が私たちに気づいて近寄ってきた。泣きはらした目をした四十代の女性だった。
「忘れな草の方ですね?」
と彼女はハイジを見上げて静かな声で聞いた。
「はい、奥さま。今、ロンドンから到着しました」
「私はアイモジェン・ルイスです。どうぞお入りください。娘のアビゲイルは正面ホールで休んでいます」
アイモジェンの言葉に胸が震えた。威厳を湛えた静かな声だったが、彼女は娘の死をまだ受け入れることができないのだと思った。
アイモジェンは私たちを客人のように建物の中へと導いた。建物の外観にふさわしい、ゴツゴツとした内装の家だった。彼女が「正面ホール」と呼んだ部屋は十字架をあしらった大きなステンドグラスのある、教会を連想させる部屋で、そこには、既に八、九人の男女が立っていた。全員喪服姿だったが誰も悲しそうには見えなかった。それだけに救いようのない悲哀を放つアイモジェンが際立って見えた。
――あの人たちは亡くなったアビゲイルの事をよく知らないのではないだろうか?
赤いバラで飾られた棺がホールの中央に置かれていた。アイモジェンは私たちを棺の横に連れて行った。
棺の中には、青いモスリンのドレスを着た蒼白で華奢な少女が横たわっていた。ゴールデン・ブロンドの髪は丁寧に梳かれ、カールされていた。眠っているような平和で安らかな顔だった。
――この子はもう二度と目を覚まさないのだ……。
悲しみがこみ上げて来て涙がどっと溢れ出た。我慢できなくなって泣きじゃくった。ソフィアは声を上げて泣き出し、シンクレアとキャサリンも目を押さえるハンカチが濡れている。普段はそんなに乱れないハイジも嗚咽を漏らしていた。
「お友達が、こんなにアビーの事を惜しんでくださるなんて、アビーは幸せな子ですわ。アビーは本当にいい子でした」
アイモジェンは私たち以外の参列者に向かって誇らしげに言ったが「そうですね」と答える人たちの言葉に心がこもっていなかったことに落胆した様子が見て取れた。
「アビーは世界一親切な心を持った女の子でした」
とハイジがすすり泣きながら言った。
「優しいだけじゃなく気持ちが大きくて、去年会った時には自分が一番好きなイアリングを私にくれると言い出して、断るのに苦労しました」
ハイジは失意の母親にではなく、向こうにいる参列者たちに聞こえるように言った。
私は気持ちが高ぶっていたので、やり過ぎないように注意しながら自分のセリフを言った。
「僕が学校をやめて家出をしようと決心した時にアビーがドロップアウトしちゃダメよと言って僕を思いとどまらせてくれました。経済的に困っているのなら自分の家に来て住んでもいいとまで言ってくれたんです。もしあの時アビーがいなかったら、僕はどうなっていたか分かりません」
私に続いてキャサリン、ソフィアとシンクレアもアビゲイルの思い出を語った。
葬儀に来ていた人たち全員が、私たちが言ったことに疑いを抱かなかったのは間違いない。
「孤独な人生ではなかったと知って安心したよ」
と杖を突いた老人が言った。
「アビーに友達がいたとは知らなかったわ」
と八十歳は軽く超えていそうな老婦人が言ったが、アイモジェンによると隣家の住民とのことだった。
「SNSで知り合って、意見を交わすうちに親しくなったんです」
とソフィアが説明すると、その老婦人は
「MSNだかSMSだか知らないけど最近は色々あるのね」
とつぶやいた。
アビゲイルと知り合った経緯についてそれ以上話すべきシチュエーションではなさそうだったので、私たちは用意していたセリフを言わないことにした。
牧師が到着して葬儀が開始された。全員に讃美歌の小冊子が配られ、讃美歌を斉唱してから、牧師が祈りの言葉を言った。全員で祈りをささげた後、アイモジェンは追悼の言葉を言う機会を与えられた。アイモジェンはアビゲイルが持っていた数々の才能について述べた。
「今日来て下さったお友達の方々もご存知の通り、アビーは勉強するのが好きな子でした。色んなことに興味を抱いては、自ら進んで学びました。芸術、文学、そして音楽……。健康に恵まれなかったため、他の子供たちのような活動に参加することはできませんでしたが、アビーの短い人生は創造的で充実したものだったと思います」
アイモジェンが話し終え、牧師が最期の祈りをささげた後、体躯の良い男性が四人入って来て、アビゲイルの棺を担ぎ出した。
「新しいお墓にアビーを連れて行きます。ここから一キロも無い場所ですので一緒に見送ってやってください」
とアイモジェンは言って、棺の横に行って歩き始めた。
道すがら、アイモジェンは棺の上をポンポンと優しく叩き
「心配しなくていいのよ」
と棺の中の娘を安心させようとするかのように話しかけた。
魂を揺さぶられる光景だった。
私はアイモジェンが愛しくてたまらなくなり、駆け寄って抱きしめたいという衝動に駆られた。私の記憶の中の母親はいつもアルコールのにおいをさせていて機嫌が悪いと私を折檻する存在だったが、それでも亡くなった時にはどんなに母が好きだったかを思い知らされた。こんなに優しい母親と別れることになって、アビゲイルはどんなに寂しいだろう……。
棺の中のアビゲイルになった気持ちで、アイモジェンとの最後の大切な時間を噛み締めた。
参列者は数歩離れて棺の後に続いたが、私たち五人以外の人たちは一見神妙そうに見えて何かぎこちなく、ここから早く抜け出して家に帰りたいという気持ちが動作の端々に現れていた。そんな気持ちなら埋葬まで立ち会わない方がいいのに、と腹が立った。
墓地に到着し、牧師が祈りの言葉を捧げてから遺体に聖水を振り掛け、アビゲイルは土の中で永遠の眠りについた。
「彼女の魂とすべての信徒の魂が神の慈悲により安らかに眠りますように。アーメン」
呆然として屋敷までの道をとぼとぼと歩いて帰った。アイモジェンは黒い布をまとったセミの抜け殻のように生気が無く、家まで辿り着けたのが不思議なぐらいだった。
私たち五人以外の参列者は、そんなアイモジェンに型通りのお悔やみを述べて立ち去った。ハリス社長から他の客が全員立ち去るまで残るようにと指示されていたので私たちはそのままホールに立っていた。
「どうかお気を落とさずに」
私には彼らのようにアイモジェンにそんなことを言える図太さは無かった。
アイモジェンはソファーに崩れ込み、いつまでも止まらないのではないかと思うほど長い溜息をついた。まるで上下の唇を合わせるだけの力が残っていないかのようだった。そしてアイモジェンは声を出して泣き始めた。
ハイジたちは居づらそうな様子だった。これほど落胆した母親にかけられる慰めの言葉はこの世に存在しない……。
私はアイモジェンのソファーの横に跪いてアイモジェンの手を握った。彼女は力なく「ありがとう」と言って、泣き続けていた。
「奥さま、何かお飲みになりませんか……温かい紅茶とか?」
「要らないわ」
とアイモジェンは涙の溢れる眼で私の顔をしげしげと見つめながら答えた。
「他に何か私がして差し上げられることはございませんか? ご遠慮なくおっしゃってください」
「そうね、あるかもしれない」
とアイモジェンは私の顔を食い入るように見つめながらつぶやいた。まるで大事なことを想い出したかのような表情だった。
「ここに残って欲しい」
「えっ?」
アイモジェンは立ち上がり、しっかりとした声でハイジたち四人に向かって言った。
「この人と二人で話したいことがあるから、皆さん悪いけど廊下で待っていてくださらない?」
ハイジが自分ではなく一番下っ端の少年が話し相手に選ばれたことを快く感じていないことが見て取れたが、ハイジは「かしこまりました」と軽い笑顔で答えてシンクレア、キャサリンとソフィアを連れてホールから出て行った。
四人がドアを閉めてから私はアイモジェンに聞いた。
「奥さま、お話って何でしょうか?」
「あなたを雇いたいの」
「えっ、そんな……」
「あなたが必要なのよ」
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