エキストラ(TS小説の表紙画像)

エキストラ
 今日から女優になりなさい

【内容紹介】男子大学生が女優として映画出演するTS小説。男子大学生の水沢詩音は女優早瀬美玖の大ファン。詩音の彼女は杉内数馬の大ファン。二人は早瀬美玖と杉内数馬が共演する映画のエキストラに応募する。エキストラのシーンの撮影の際に監督から目を付けられた二人は、重要な役柄での出演を打診される。

第一章 エキストラ

 僕の名前は水沢詩音しおん。千葉市にある大学の一年生で早瀬美玖みくの大ファンだ。インスタグラム、ツイッターとオフィシャルブログは常時フォローしており、早瀬美玖の事なら誰よりもよく知っているつもりだ。

 木曜日の昼休みに学食で僕の彼女の長尾幸子ゆきこに言われた。

「詩音、映画のエキストラの募集にはもう申し込んだ?」

「何のこと?」

「知らないの? 早瀬美玖のことは完全フォローしてると自慢していたくせに。杉内数馬かずまと早瀬美玖の共演で『黄色いつぼみ』という映画を撮っていることは知ってるでしょう? 今週末の撮影に高校生のエキストラが足りなくなって、緊急募集しているらしいわ。私は杉内数馬のツイートを見て知ったところよ」

 僕と幸子は付き合っていることを公言する仲だが、幸子が杉内数馬に、僕が早瀬美玖に憧れることについては許容するという合意が成立している。

「行く行く! 早瀬美玖の映画に共演できるんだったら、僕、何でもする」

「共演と言ってもエキストラだから、ほんの二、三秒映るだけよ。それに、早瀬美玖の撮影と同じ現場で撮るとは限らないから、エキストラに行っても早瀬美玖本人を近くで見られるとは限らないわ」

「最悪の場合でも『僕は早瀬美玖と同じ映画に出演した』と孫子の代まで語り継ぐことができる」

「発想がナイーブね。私は杉内数馬を近くで見られるならエキストラをやってもいいけど、そうじゃなきゃ行きたくないわ」

「そんなこと言わないで一緒に行こうよ!」

「ま、詩音の頼みならむげには断れないわね。じゃあ、申し込むわ。応募申込ページのリンクを送ってあげる」

 幸子からのリンクの着信とほぼ同時に早瀬美玖のツイート通知がポップアップした。


「【拡散希望】撮影中の『黄色い蕾』でエキストラさんが足りなくなったみたい。緊急募集中だからヨロシクネ! 詳しくはこちら」

 そのリンクをクリックすると幸子から届いたリンクと同じページが開いた。


エキストラ急募

■作品名:黄色い蕾
■監督:魚沼腰光こしみつ
■主演:早瀬美玖 X 杉内数馬

■募集内容:高校生に見える男女十名から二十名程度。
■撮影場所:江戸川堤防(JR市川駅より徒歩二十五分、バス送迎あり)
■撮影日時:十一月二十五日(土) 午前八時から日没まで
■待遇内容:出演料、交通費、食事代は出ません。小さな謝礼品を差し上げます。
■応募要領:yuszjp@gmail.comあてに「エキストラ希望」という題で住所、氏名、携帯電話番号、年齢、職業(学校名と学年)、身長、体重を記入し、顔写真(メール記入と同時に自撮りしたもの、画像加工アプリ使用禁止)を添付したメールをお送りください。二十四時間以内に結果を返信します。


――えっ、バイト料なしかよ! 交通費も自己負担とはケチだな……。

 エキストラに応募するのは始めてだったが、出演料がゼロで交通費も出ないとは知らなかった。まあ、早瀬美玖を十メートル以内で一分間見ることができるなら、一日分のバイト代を払ってでもエキストラになってもいいと思った。

 もう一つ面白いと思ったのはメール記入時に自撮りした顔写真を添付、それもアプリの使用を禁止するという点だった。これなら、確かに普段通りの素顔が分かる。女の子が美人になるアプリやメイク・アプリを使うことも禁止するというのも理に適っている。

 僕は早速スマホを右斜め上にかざして自撮りした。それは幸子から教わった、僕が最もカッコよく写る角度だった。その画像を添付してエキストラ希望のメールを送信した。

 僕と幸子は応募メールをほぼ同時に送信し「結果の返信が届いたらLINEで連絡するね」と言って別れた。

 午後の美術史学の講義が終わってスマホを見ると「エキストラご応募の件」というメールが入っており、ドキドキしながらクリックすると採用されたとの知らせだった。幸子に連絡すると、幸子にも同じ内容のメールが届いたとのことだった。

 その次の講義は心理学だったが、顔に見覚えがある女性が隣の席に座っていたので「僕、早瀬美玖が出演する映画に出ることになったんだよ」と話しかけた。

「えっ、オーディションを受けたの?」

「まさか。今日、緊急募集に応募したら、OKのメールが来たんだ」

「なあんだ、エキストラか。『映画に出る』というのはちょっと言い過ぎじゃない? ところで、あんた誰?」

「水沢詩音、国際コミュニケーション学科の一年だけど」

「ああ、どこかで見かけたことがある気がしたわ。これって、ナンパじゃないわよね?」

「ち、違うよ。僕、彼女がいるから……」

「あっそう。私は英米語学科一年の宮田節子よ。水沢君は早瀬美玖のファンなんだね。どんな映画のエキストラ?」

「『黄色い蕾』という映画で、早瀬美玖は高校生の役だよ。共演は杉内数馬だから学園恋愛ものじゃないかと思うんだけど、ストーリーは発表されていないんだ」

「早瀬美玖と杉内数馬という配役だけで観客を集めようという安易なラブコメなのかもね」

「違うよ! 早瀬美玖は可愛いだけじゃなくて女優としての演技力も抜群なんだよ! そんな安易な映画なら早瀬美玖は出演を引き受けたりしないよ」

「分かった分かった。ムキにならないで」

 心理学の講義が始まったので宮田節子との会話はそこまでで終わった。

 講義が終わった後、大学構内で会う人ごとに「早瀬美玖の映画にエキストラで出演することになった」と言いまくった。社交辞令で「よかったね、おめでとう」と言ってくれる人は多かったが、僕が期待していた「羨ましい」という感じの反応は得られなかった。うちの大学は四人に三人が女子なので「杉内数馬の映画」と言えば、もっとポジティブな反応があったのかもしれないが、僕のプライドとして、杉内数馬をネタに友達の関心を集める気はなかった。

 翌日の金曜日の朝、参加要領がメールで届いた。集合場所はJR市川駅から徒歩二十五分の撮影場所に自分で行くか、市川駅近くの指定場所でバスにピックアップしてもらうかのいずれかということで、地図のリンクが示されていた。服装は出来る限り高校の制服、不可能な場合は高校生らしい服装、と書いてあった。

 僕の高校の制服は福島の実家に置いてあり、今から送ってもらっても間に合わないので、ジーンズパンツにセーターを着て行くことにした。幸子は高校の制服で来ると言っていた。

 土曜日の午前七時半、紺の上着にプリーツスカート姿の長尾幸子と市川駅の改札で落ち合い、指定場所に行くと、既に二、三十人が集まっていた。高校の制服を着ている人が四分の三程度、他は僕と同じようなラフな服装だったが、ひいき目に見ても二十代後半にしか見えない人も混じっていた。

 バスが間もなく来て、僕は幸子と一緒にバスに乗った。

 普段はスリムパンツのボーイッシュな服装が多い幸子だが、今日は別人に見えた。膝が隠れる長さのプリーツスカートをはいている幸子は、僕が高校時代に秘かに憧れていた吉田美香を思い出させた。高校時代にタイムスリップしたような気がして、バスが揺れて幸子と肩が触れ合うたびに鼓動が高まった。

 幸子とは入学直後に学内の飲み会で知り合った。同じクラスの男子から『参加予定者十二人のうち男子は二、三人だからキャバクラ状態だぞ』と言って誘われ、実際に行ってみたら男子は僕を含めて三人だったので『やったあ、キャバクラだ!』と胸が高鳴った。

 ところが、女子にはキャバ嬢役で来たという意識の人は一人もいなかった。僕以外の男子二人も押しが強いタイプではなく、女子の話題でガンガン盛り上がる中、僕たちは控えめに話を合わせるか、女子から振られる質問に防戦一方だった。

 元々女子の方が口数が多いものだが、特に弁の立つ女子が二、三人居て、その人たちが中心になって、時々僕たちが耳の付け根まで真っ赤になるような質問を浴びせかけられた。確かにキャバクラ状態の飲み会だったが、僕たち三人はキャバ嬢の側の立場になってしまった。

 可愛い女の子を探して仲良くなるつもりで行ったのに、女子の外観を鑑賞したり評価するどころではなく、女子たちから評価される側の立場に置かれて、委縮した。

 自分が女子から見ていじりやすいタイプだと自覚したのは、その飲み会が初めてだった。というのは、他の二人の男子を合わせたよりも多くの質問が僕に浴びせかけられたし、他の二人は僕ほど真っ赤にはなっていなかったからだ。

 僕が女子たちの質問にたじたじとなって立ち往生しかけると、決まって幸子が助け舟になる発言をしてくれた。それが、僕が幸子を意識したきっかけだった。もしあの飲み会に幸子がいなかったら、と思うと今でも冷汗が出る。

 その飲み会以降、僕は大学構内で幸子を見かけると近づくようになった。そこにオアシスがあるような気がしたからだ。もし幸子が相当なブスでも同じような間柄になっただろうと思う。美醜とは全く関係のない理由で、僕は幸子を選んだのだった。

 今、女子高生姿の幸子を見て、新たな出会いが始まったと実感した。この女子高生は顔も、スタイルも、雰囲気も最高だ。高校の時に同じクラスだったら、一目で恋に落ちただろうと思う。自分の彼女がこれほどの美人だったことが分かってラッキーだった。

 バスは十分ほどで目的地に着いた。

 バスを降りると、係員に誘導されて土手の方に歩いて行った。

 驚いたことに、そこには既に四、五十人の高校生風の人たちが集まっていた。バスで来たのが約四十人だから、エキストラの数は全部で八、九十名ということになる。

「歩いて来た人が大勢いたのね。近所に住んでいる高校生がこぞって応募したのかもしれないわ」

「募集広告には『十名から二十名程度』と書いてあったから、早瀬美玖が僕を見てくれるかもしれないと思ったのに、百人近くも居たら、絶対気づいてくれないよね。ガッカリだ」

「例え十人でも、早瀬美玖の方から意識してエキストラの顔を見たり覚えたりするはずがないでしょ。詩音の方から早瀬美玖の実物を見られるだけで御の字よ。それにしても杉内数馬と早瀬美玖の姿が見えないわよね」

 僕はさっきから必死で探していたが、早瀬美玖らしい姿はどこにも見当たらなかった。

「エキストラの皆さん、こちらにお集まりください」

 メガホンを持った男性と、二、三人のスタッフが立っていた。僕たちはその人たちの辺りへと移動した。

「本日はボランティア・エキストラに応募していただきありがとうございました。私は助監督の森と申します。募集広告に『小さな謝礼品を差し上げる』と書きましたが、これから配布します。謝礼品はこのカードです」

 助監督は名刺のようなカードを持った手を頭の上にかざした。

「プレゼントは早瀬美玖と杉内数馬のスマホ待ち受け画面用の画像です。カードにプリントされたQRコードを読み取ってダウンロードしてください」

 僕は「やったあ」と思った。周囲からは軽度な喜びの声と「たったそれだけかよ」とがっかりした声が入り混じって聞えた。

「皆さんは『その他大勢』の役になりますが、若干名の特別エキストラが必要なので、まず一次選考させていただきます」

――もし選ばれたら早瀬美玖のすぐ近くに行ける! 

 周囲の人たちも僕と同じことを考え、ざわついた。

「ここに一列に並んで、謝礼品のカードを受け取ってください。その際に指名された人は、この辺りに残ってください。一次選考で残った人の中から若干名を最終的に指名させていただきます」

 助監督の前に列ができ、僕と幸子は真ん中より少し後ろに並んだ。一人一人にカードが手渡され、何人かに一人が「はい、あなた」と言われて助監督の左側に残り、指名されなかった人は落胆した表情で元居た場所に戻って行った。

 僕らの番が近づいた。見ていると助監督一人の判断で選んでいるのではなく、助監督の左側に立っている四十絡みの男性、右側の三十歳前後の女性が言葉を交わして選んでいるようだ。

 一次選考には気軽に選ばれても、二次選考は厳しいだろうから、仮に残ってもぬか喜びはできないなと思った。

 僕の番が来た。心臓がパンクしそうなほど音を立てている。

 助監督の前に立ってカードを受け取った。左側の男性が「いいね」と言って、右側の女性も「OKですね」と言った。助監督から「キミ、残って」と言われて、僕は一次選考を通った人たちの群れに加わった。

 僕の後に並んでいた幸子もOKをもらって、僕の所に来た。

「やったね!」とハイタッチした。

 最後の人がカードを受け取り、八、九十人のエキストラたちは、幸せな表情の約二十人と、がっかりした表情の六、七十人の二つの群れに分かれた。

 助監督の指示で、男女に分かれて身長順に横一列に整列した。男子は十一名で僕は小さい方から二人目だった。女子は九名で、合計二十人が一次選考を通過したことになる。

 女子の列の背の高い方から順に審査が開始された。審査といっても、一人当たり十秒ほどの目視だけの審査だ。助監督たち三人は殆ど言葉を交わさずに目配せで合意に達するようで、「一歩前に出てください」と言われた人は「はい」と表情を輝かせて足を踏み出した。

 残念ながら幸子は一歩前に出るようには言われなかった。女子で選ばれたのは三名だけだった。

 男子は僕の番が来るまでに既に五人が選ばれてしまったので、多分ダメだろうと思った。幸子が落ちて僕だけ受かるよりは、一緒に落ちた方がいいかもしれないと思った。

 予想通り、僕は選ばれなかった。

「最終選考が完了しました。一歩前に出た八名の方は、一般エキストラの方へとお戻りください。残った男女六名ずつ、合計十二名の方は篠塚さんの指示に従って、更衣室に行ってください」

 一歩前に出ていた八人は気の毒なほど落胆した表情でその他大勢の群れへと戻って行った。

「どうして一歩下がらせなかったんだろう? 一歩前に出ろと言われたら誰だって合格したと思うよね。期待させておいて梯子を外すようなやり方はよくないよ」
と、もし幸子が横にいれば僕は意見を言うはずだった。

 助監督が「篠塚さん」と呼んだのは横に立っていたアラサーの女性のことで、僕たち十二名は篠塚の後について歩いた。僕と幸子は自然に一緒になって並んで歩いた。友達どうしで来て二人とも最終選考に残ったのは僕たちだけだったようだ。

 篠塚に連れて行かれた「更衣室」は簡易テントで設営された男女別の小屋で、僕たち男性六人は紺色のジャージーの上下を手渡されて着替えた。

 幸子たち六人の女子はえんじ色のジャージー姿で更衣室から出てきた。高校時代にタイムスリップしたような妙な気持ちになった。

「それでは皆さん、これから撮影現場にご案内します。杉内数馬さんと早瀬美玖さんが所属するリズムダンス・チームが、荒川区予選に出場するシーンです。近隣の高校生たちがラフな格好で観戦しています。皆さんは、杉内数馬さんたちの前にパフォーマンスを終えた、他校の生徒たちです。杉内数馬さんたちが整列している横に帰って来てすれ違うシーンを撮影します。すれ違いざまに杉内数馬さん、早瀬美玖さんの方を見ないように、自然に前を向いて歩いてください」

 エキストラの中から一次選考を経て十二名が選ばれたのが、たった数秒のすれ違いのシーンのためだと分かった。まあ、一瞬とはいえ早瀬美玖と数十センチの距離まで接近できる。一般エキストラは十メートル以内に近づくこともできないだろうから、確かに選ばれただけの価値はあるのだが……。

 撮影場所まで歩いて行くと、一般エキストラたちは審査員席に近い土手に集まっていた。助監督が一般エキストラの前に立ち、メガホンで「私が左手を上げたら歓声を上げてください」などと言って練習させているところだった。

 そこから二、三十メートル離れた場所に出場者の出入り口があり、僕たち十二人はパフォーマンスを終えて出場者出口まで戻る練習を四、五回させられた。しばらくすると、更衣室の方向から杉内数馬、早瀬美玖を含む十名がジャージー姿で歩いて来た。

 一般エキストラたちから大歓声が上がった。助監督に言われて歓声の練習をしていた時とは違う、本物の歓声だった。

 早瀬美玖たちは僕たちのすぐ近くを通って出場者出入り口まで歩いて行き、スタッフの指示に従って整列した。

 監督が早瀬美玖達に指示をして、リハーサルが始まった。カメラは右斜め前の方向から十人を狙っている。

「テイク・ワン」
という声が掛かり、撮影がスタートした。出場を待つ十人の生徒たちの緊張した表情をカメラがとらえる。

 何度か撮り直しをしてOKが出た。次は僕たちが帰って来てすれ違うシーンだ。僕たちはグラウンドから出場者出入り口を目指して歩き、杉内数馬たちの右側を通ってすれ違う。

 僕は今まで杉内数馬には全く興味が無かったが、実際に大スターを目の前にすると胸がドキドキした。

「デカッ!」
 こんなに背が高かったのか……。すれ違う時に、思わず杉内数馬の顔を見上げた。

「カーット!」
と監督が声を上げた。

「そこの小柄な男子! すれ違いざまにスターの顔を見るな!」

 僕のせいだった。僕は監督に「すみません」とお辞儀をして、グラウンドの方へと引き返した。

 二回目の撮影が始まった。巨大な杉内数馬の顔を見上げずに通り過ぎたが、早瀬美玖の横を通る時、ついチラッと見てしまった。早瀬美玖の左ひじと僕の左ひじの距離はほんの十センチほどだった。今まで生きていてよかったと思った。

「カーット! 撮り直しだ! さっきと同じ小柄な男子、すれちがいざまに早瀬美玖の顔を見ただろう!」

 僕は「すみませんでした」と深くお辞儀をして謝った。

 三回目の撮影になり、さすがの僕もまっすぐ前を向いてスターたちの横を通り過ぎた。

「さっきの小柄な男子を抜いて撮り直しだ」

「僕、今度は誰の顔も見ませんでした!」

「男女五人ずつの十名にして撮り直す。女子は前から三番目の人、抜けてくれ」

 それは長尾幸子の事だった。結局、四回目は僕と幸子が抜けて撮り直し、一発でOKになった。

「バカ、詩音が杉内数馬と早瀬美玖の顔を見たお陰で、私まで除外されちゃったじゃないの。あーあ、十二人に選ばれなけば観衆役で映画に出られたのに、全く映らなくなったのよ。どうしてくれるの!」

「ゴメン、でも、三回目の時にはまっすぐ前を向いて歩いたんだけどなあ……」

 幸子の剣幕に、僕はすっかりしょげて涙目でうつむいた。

「泣くな! 男でしょう。まあ、杉内数馬を至近距離で見られたから、それでよしということにしてあげる。詩音も憧れの早瀬美玖と会えてよかったじゃない」

「幸子、ありがとう。大好き」
と僕は幸子の手を握った。

 出入り口のシーンの撮影が終わり、僕は他の十人からの冷ややかな視線を意識しながら、グラウンドでの撮影風景を見学した。

 十人のパフォーマンスが見られると楽しみにして見学していたが、グラウンドでの短いシーンを幾つか撮っただけで、撮影は終了した。近くにいたスタッフに幸子が質問したところ、リズムダンスのパフォーマンス自体はまとめて撮影済みだと分かった。

 助監督がマイクでエキストラたちにアナウンスした。
「エキストラの皆さま、本日はご協力ありがとうございました。市川駅までのバスは三十分後に発車します。皆さま、お気をつけてお帰り下さい」

「じゃあ、僕たちも着替えてバスに乗ろうか」

 篠塚について更衣室に行こうとしたところ、監督からメガホンで呼び止められた。

「ちょっと、キミたち! NG三回の小柄な男子と、そこの女子、ちょっと待ってくれ」

――撮影から外しただけでは気が済まずに、説教をするつもりなのだろうか……。

「監督、お言葉ですが、NGは二回だけですよ。三回目はちゃんとやったのに、どうしてダメだったんですか?」

「失礼した。キミが言う通りNGは二回だ」

「それに、皆の前で『小柄な男子』と三回も言うのは失礼だと思いますけど」

「どうして? 『小柄な』とは『悪い』とか『劣った』という意味なのかね? 『可愛い』とか『好ましい』という意味でもあり得るぞ」

「屁理屈みたいに聞こえますけど……」

「キミたち二人に話があるんだ。ちょっと時間をもらえないか?」

「市川駅行きのバスが三十分後に出るので、それに遅れないようにお願いします」

「もし遅れたら車で送るよ」

 監督は、森助監督に声をかけ、僕と幸子を含めた四人で、更衣室の近くの大型ワゴン車に入ってドアを閉めた。

「森君が言った通りだった。この二人なら代役に使えるぞ」

「そうでしょう! 本当にグッドタイミングでした」

「さっきカメラアングルで確かめたが、思った以上にいい感じだった」

「代役って何のことですか?」

「実は『ある問題』が起きて、役者二人が降板することになったんだ。その問題の詳細は明日まで言えないが、キミたち二人は降板する役者と似ているから白羽の矢を立てた」

「私たち、映画デビューできるんですか!?」

「その通りだ! といってもセリフは少ないが、印象に残る役柄だ。引き受けてくれるね?」

 僕は天にも昇る気持ちだった。何と、早瀬美玖と映画で共演するチャンスが巡ってきたのだ! 

第二章 転がり込んだチャンス

「ええと、小柄な男子くん、というとまた怒られるな。お二人の名前と年齢を教えてくれ」

「水沢詩音、十八歳、大学一年生です」

「長尾幸子、先月十九歳になりました。水沢君とは大学の友達です」

「友達どうしだったのか! それは奇遇だ」

「僕たち、付き合ってるんです」

「詩音、余計なことを言わないで!」

「ええと、美人のキミは、長尾幸子さんというんだね。いい名前だ。キミには佐宗綾香の役をやってもらう。早瀬美玖のクラスに転校してくる同級生だ。綾香は各務恵子かがみけいこの中学の同級生で、綾香が転校して来たのをきっかけに各務恵子への虐めが始まる」

 美人のキミと言われて幸子は鼻を高くしている。

「各務恵子は性同一性障害の少女で早瀬美玖が演じる本郷美菜の同級生だ。セリフは少ないがストーリーの展開において重要な役割を果たす脇役だ。各務恵子の役を水沢君にやってもらう」

「女子の役ですか? 悪いんですけど、お断りします。女子高生の制服で出なきゃならないんでしょう? そんなの絶対にムリです」

「詩音、これってすごいチャンスなのよ! 三年B組金八先生で上戸彩が出てくるシリーズを知ってるでしょう? 上戸彩は性同一性障害の少女の役で出演して大ブレークしたのよ」

「いや、ちょっと違うんだよ。上戸彩は女子の制服での登校を強いられたから、ロングスカートで学校に通った。今は時代が違うから、各務恵子の場合は親が学校にかけあって男子の制服での登校が許されるんだ」

「でも、女子の役をやらされることに変わりはないですから、やっぱりイヤです」

「エキストラの緊急募集に応募した男性はほぼ全員が早瀬美玖のファンだと思ったんだが、水沢君は早瀬美玖に会いたくて応募したんじゃないのか? 各務恵子は早瀬美玖とのキスシーンもあるんだけどなあ……。水沢君がどうしても女子の役がイヤというなら仕方ないが」

「ま、待ってください。本当に早瀬美玖とキスできるんですか? あ、分かった。僕を引っかけようとしてるんですね。どうせ、別れ際に軽くほっぺにチュッとする程度なんでしょう? まあ、それでもすごいと言えばすごいですけど」

「ディープキスだよ、キミ。舌を絡めるレベルのキスだ。早瀬美玖と性同一性障害の各務恵子が絡むシーンだから、普通の男女のキスと違って、長くて深いレズ的なキスになる。でも、水沢君が女子の役を断ると言うのなら他の人を探すしかない」

 幸子がぴくっと眉を上げて僕をにらんだ。その時の僕には幸子の気持ちに構っている余裕はなかった。

「いえ、やります。やらせてください! 早瀬美玖とディープキスできるのなら女子にでもサルにでもネコにでも喜んでなります」

 幸子が露骨な不快感を顔に出したが、早瀬美玖とのキスには代えられない。

「じゃあ、キミに各務恵子をやってもらうことにしよう。おめでとう、水沢君」

「そんな大事な役柄なら、それなりの俳優さんが決まっていたわけでしょう? 『ある問題』というのはスキャンダルではないかと推測しますが、どうしてちゃんと代役をオーディションで選ばずに、エキストラの中からピックアップするんですか?」
と幸子が質問した。

「佐宗綾香は無名の新人が決まっていたが、キミを見て、美人だし、私が抱いていたイメージにピタリと思ったんだ」

 重ねて美人と言われて幸子はうれしそうに「なるほど」とうなづいた。

「そして、水沢君が演じることになった各務恵子は島袋彩芽の役だったんだ」

「すごい! 誰でも知っているアイドルじゃないですか!」

「水沢君は島袋彩芽に似ていると言われたことはないか?」

「ああ、一度だけありますね。でも、僕自身は全く似てないと思います。島袋彩芽は目がきついし、顔の感じも全然違いますから」

「君の身長は何センチだ?」

「百六十三ですけど」

「やっぱり。島袋彩芽と同じだ。それに、パッと見て身体全体のバランスが似ているんだ。顔はメイクでどうにでもなる。各務恵子は最初のシーンから目立たない男子『恵斗』として登場する。高三の四月から十一月までは、同級生全員が各務恵子のことを普通の男子だと思っている。中学で同じクラスだった佐宗綾香が十一月に転校してきて、各務恵斗の本名は恵子で、性同一性障害の女性であることがバレるんだ」

「へえ、何だか深刻なストーリーですね」

「前半四分の三にはヤマ場が二ヶ所あるが、基本的に早瀬美玖と杉内数馬のラブストーリーの流れになっている。終盤になってダークサイドが暴かれるんだが、そこで各務恵子が重要な存在になる。黄色い蕾はクランクインしてから二ヶ月になるから、前半四分の三は取り終えているし、早瀬美玖と各務恵子が愛し合うシーンも撮影済みだったんだよ。前半四分の三で各務恵子が登場するシーンは多くはないし、大半は大勢の中にチラッと映る程度だからそのまま使えないこともなかったんだが、予算と時間の許す範囲で撮り直すことにした。明日、クラスの生徒全員が登場する短いシーンの撮影の予定があって全員が来るから、その際に各務恵子が出るシーンの取り直しをしたい」

「島袋彩芽に一体どんなスキャンダルが起きたんですか?」

「今は言えない。島袋彩芽が降板すること自体、出演者の中で知っているのは二、三人だけだ。明日発売の週刊誌に島袋彩芽に関連する記事が出るとだけ言っておこう。佐宗綾香役の新人も関係している内容だ。週刊誌の広告原稿は明日の朝刊に間に合うように新聞社の手に渡るし、今夜のニュース番組で取り上げられる可能性もあるが、キミたちは配役の変更を含め、恋人にも家族にも友人にも絶対にしゃべらないと約束してくれ」

「約束します。ただ、僕たち恋人同士ですから、恋人にしゃべらないという点は心配ご無用です」

「確かにさっきまでは恋人同士だったわ。詩音が早瀬美玖とのディープキスのためなら何でもすると言い出すまではね」
と幸子がイヤミっぽく言った。

「待ってくれよ。僕は女子の役はイヤだといったのに、幸子がけしかけたんじゃないか。それに、僕が早瀬美玖、幸子が杉内数馬を好きだということは、これまでお互いに認め合って許していただろう?」

「ファンとして好きなのは許せたけど、ディープキスなら完全に一線を越えるわ」

「幸子、冷静になってよ。僕は女子高生の役で同じクラスの女子とキスするだけなんだよ!」

「じゃあ、私も佐宗綾香として同じクラスの女子である詩音を思う存分虐めてやる」

「そうそう、その意気だ。佐宗綾香vs各務恵子として本気でガンガンやりあってくれ!」

「私たち何日ぐらい学校を休む必要がありますか?」

「さっきも言った通り、最後の四分の一を残して殆ど取り終えているから、来てもらうのは五、六回で済むはずだ。土、日の撮影もあるので、学校を休むのは三、四日程度と思っていいよ」

「その程度でしたか、ほっとしました」

「映画はシーンの組み合わせで出来ている。例えば教室を舞台にしたシーンは、数日間に起きたことを一日で撮ることもある。後で起きたことを先に撮ることも多いから、キミたちも最初は戸惑うかもしれない。島袋彩芽と早瀬美玖のラブシーンは映画の終盤のシーンだが、クランクイン直後に撮影したんだ」

「ところで、交通費って出るんですよね?」

「勿論だ。ギャラも出るよ。名前が出る役だから、コンビニでバイトするよりは沢山もらえるはずだ、アハハハ」

「やったあ! 時給はいくらですか?」

「キミたち、まだプロダクションには所属していないよね? 制作会社との直接契約にするか、どこかのプロダクションに所属してもらうかにもよるから、何とも言えないな。明日出演契約にサインしてもらうことになると思うが、その契約書に金額が書かれているはずだ」

「契約書にサインさせられるんですか。ちょっと怖いですね」

「島袋彩芽のように不祥事が起きてこちらから契約を切る場合もあるが、もし役者さんの都合や気分が変わったりして途中で投げ出されたら我々が大損するからね」

「なるほど……」

 その時、ドアがノックされる音がして、篠塚が入ってきた。

「明日の撮り直しのサマリーが出来ました」

 篠塚がA4の紙をホッチキスで留めたものを数部、監督に手渡した。

 監督は森助監督、僕と幸子に一部ずつ渡した。

 最初のページには明日一日のスケジュールがほぼ三十分刻みで書かれており、明日の撮り直しに来る登場人物もリストアップされていた。

「撮り直し箇所は全部で十だ。自分のパートにペンで印をつけてくれ。そう、恵斗と書かれた箇所をマークするんだ」

 篠塚から借りた赤のボールペンで「恵斗」の箇所にカギマークを付けた。

 恵斗と書かれているのは七ヶ所で、セリフの無い動作だけの部分も多かった。


教室
 恵斗:机に右ひじを立てて顎を乗せうつろな目を窓の外に向ける。先生の問いかけに反応しない。

教室
 恵斗:「はい」
 心がその場に無いかのようにボソリと答える。

教室
 恵斗:本郷美菜の後姿をじっと見つめる。

廊下
 恵斗:「僕、興味ない……」
 駿介に背を向けて足早に立ち去る。

教室
 恵斗:駿介が立って窓の外を見ている横で、俯せ気味に座って勉強を続ける。

放課後の校庭
 恵斗:一人でトボトボと校門へと歩く。

トイレ
 駿介と翔が便器に向かって立っている後ろをすり抜けて個室に入りドアを閉める。
 便座を下ろしてティッシューペーパーで拭く。
 ズボンのベルトを外して下ろす。


 明日撮り直す十のシーンのうちの七つのシーンに出演するといっても、セリフは「僕、興味ない」と「はい」の二つだけだった。要するに島袋彩芽がアップになって撮影されていた七つの短いショットを、僕の映像と差し替えるための撮影なのだ。

「どうだ、簡単すぎて拍子抜けしたんじゃないか?」

「後半四分の一を除くと、たった七回しか映らないんですね」

「いや、恵斗の顔は授業中、休み時間、放課後などのシーンに合計二十二回出て来る。監督と一緒に見てみたが、顔が小さく写っていたり、生徒の集団に混じっているショットは、撮り直さなくても大丈夫だと判断した。三つのシーンについては、デジタル編集で目元にタッチを加えることにした」

「あのう、私が出るシーンは、明日は撮らないんですか?」
 心配そうに幸子が質問した。

「十シーンの撮り直しが完了してから、明日の午後三時ごろから佐宗綾香が登場するシーンに取り掛かる予定だ。脚本の余分が手元に無いから、キミたちに渡せるのは明日の朝になる。佐宗綾香は先生に連れられて教室に入って来る、教壇に立って生徒たちにお辞儀する、恵斗と視線が合ってニヤリとした笑いを浮かべる、そして指さされた席に歩いて行って座る、明日撮影するのはそれだけだ」

「綾香と視線が合って、僕がマズイという表情になるシーンも撮影するわけですね?」

「そうだ。しかし『マズイ』じゃ済まない。綾香が恵斗の中学時代のことを生徒たちに話せば、友達が恵斗を見る目がガラリと変わるんだからね。恵斗は綾香を見て震えあがり、中学時代の苦悩と恐怖の記憶に打ちのめされるんだ。気合を入れて本気で演技してもらうよ」

「何だか、ゾクゾクしてきました」

 監督は僕たちを車で駅まで送るようにと篠塚に指示して出て行った。僕たちは篠塚から渡されたプロフィール・シートに住所、氏名、年齢、略歴、連絡方法などの個人情報を記入させられた。明日の朝は、今日と同じ場所で午前八時にピックアップしてくれるとのことだった。

「今日、黄色い蕾のエキストラとしてここに来たということはご家族やお友達に言ってもいいけど、代役で出演するという話は誰にも言わないように。もし明日家を出る時に家族から聞かれたら『エキストラの二度目の撮影』とかなんとか説明しなさい。それから、黄色い蕾のストーリーについても、公式発表以外は絶対に漏洩しないように注意する事。万一ツイッターで流したりしたら損害賠償請求を受ける可能性がある。いいわね?」

 篠塚に脅され、これは大人のビジネスなのだと実感して、身が引き締まる思いだった。

 更衣室で着替えをしてから、別のスタッフの人が車で市川駅まで送ってくれた。

 車を降りて幸子と並んで改札口の方へと歩いた。

「早瀬美玖と共演することになったと大声で叫びたい!」

「シーッ、皆に聞こえるわよ。誰も本気にしないでしょうけど。私は家に帰ったら家族にしゃべりたいのを我慢するのが大変だわ」

「二人でファミレスに行って話そうか?」

「今日は土曜日だから混んでるわよ。隣の席の人に話を聞かれちゃうわ」

「じゃあ、カラオケに行く?」

「カラオケの部屋に盗聴器がついていたらどうするの? 損害賠償請求を受けるわよ」

「そうだよね。お互い、今日は自分の部屋に籠ってひとり言で我慢するしかないね」

 僕たちは千葉行きの電車に乗り、幸子は津田沼で降りた。僕は最寄り駅の一つ手前の幕張本郷で下車して、早瀬美玖の事を考えながらアパートまで半時間の道のりを歩いて帰った。

 眠れない夜が明けた。日曜日午前八時、幸子と僕が昨日と同じ場所で待っていると、篠塚が車で迎えに来てくれた。篠塚が十分ほど運転して、車は荒川沿いの学校に入って行った。

「ここは移転した中学の旧校舎よ。取り壊し予定だけど、ここが借りられたお陰で制作費と製作期間を抑えることができたの」
と篠塚が自慢そうに言った。

 まだ八時半にもならないのに、スタッフたちは忙しそうに働いていた。土、日無しの大変な仕事だなと思った。

 篠塚は僕たちを理科室と書かれた部屋に連れて行った。

 棚や段ボール箱がひしめき合う倉庫然とした状況で、カーテンで仕切られた区画がいくつかあった。

「あなたたちをスタイリストさんに預けるわね」
と篠塚は僕たちに言って、アラフォーの女性に声をかけた。

「藤原さん、おはようございます。森助監督からお聞きと思いますけど、この子が島袋彩芽の代役です。一見して島袋彩芽の恵斗と見分けがつかないように仕上げられます?」

「今日はアップの撮り直しですよね? 集団映像や遠景に出て来る島袋彩芽と同一人物に見えればいいわけですね? それなら大丈夫です。アップの映像でそっくりにするのは困難ですけど。で、そちらのお嬢さんは?」

「転校生の佐宗綾香の役です。他の女子生徒と同じ制服を着させてください」

「まかせといて!」

 僕はカーテンで仕切られた場所に連れて行かれて裸になるように言われた。女物のショーツを渡されて、それをはくように言われたので頭に血が上った。

「僕、男子生徒の服装で出演すると、監督からはっきり言われました。これ、何かの間違いじゃないんですか?」

「監督が仰ったとおり、あなたには男子の制服を着せる。分かってるわよね? あなたが演じる各務恵子の身体は女性なのよ。男装した女性の役なの」

「僕は島袋彩芽さんに似てるから選ばれたと聞きましたけど、男と女では体型が違いますよね」

「だからコルセットでウェストを締めて、ヒップにはパッドを入れるの。胸はシリコンでAカップにした上からさらしを巻くことにする。カッターシャツを着たら、女性の身体なのに男子生徒になろうと苦労している感じが出せるわ」

「そこまでやるんですか……」

 僕は渋々女物のショーツをはいた。アソコが大きくなって先端部分が収まりきらなかった。ショーツの上に、きついガードルをはかされたが、ガードルの腰骨とお尻の部分にポケットがあり、スタイリストさんがその中に円盤状のシリコンゴムを挿入した。さらにその上にきついガードルを重ね履きしてから、コルセットでウェストをグイグイ締め上げられた。

「苦しい! 息が出来ません!」

「結婚式の花嫁と同じだから我慢しなさい」

 そう言われても花嫁になる予定がない僕には納得がいかなかった。この姿で夕方まで我慢できるだろうか……。

 更に戸惑ったのはシリコンでできたピンク色の乳房を接着剤で貼り付けられたことだった。乳首の感じがなまめかしい。僕はまるで魔法をかけられて女にされたような、妙な気分になった。スタイリストさんはその上から幅広の包帯のようなもので僕の胸をぐるぐる巻きにした。

「よし、これで男子の制服を着せれば男子生徒に見えるわよ」

 白いカッターシャツを着て、制服のズボンをはいた。腰の幅が広すぎて、自分の身体ではない気がする。ズボンはコルセットで締め上げたウェストにピタリだったので、普通の男子用のサイズではなく、女子の男装用にあつらえられたのだろうと思った。

 胸を見下ろすと、左右に丸みがあるわけではないが、バストの辺りが明らかに前に突き出ている。ウェストが異様に細いのでシャツがだぶついていて、腰とお尻も不自然なほど大きい。姿見の中に映っている人は顔以外は僕ではないと思った。

「この恰好だと明らかに女子が男装している感じですよね……」

「上着でカバーすれば男子に見えるわ。いい? あなたは女子であることを必死に隠して男子のフリをしているんだということを忘れないで。さあ、次はメイクさんにバトンタッチよ」

 メイクさんに引き渡されて、鏡の前の椅子に座った。まず島袋彩芽が演じる恵斗の写真を参照しつつヘヤーワックスで髪型を整えられた。自分で見て「ほおっ」と感心するほど写真と似た感じになった。次に、毛抜きとハサミで眉を整えられ、ペンシルでタッチが入ると、写真と同一人物に見えるようになった。メイクさんはそれでも満足せず、クリーム、スティック、ハケなどを慣れた手つきで操って僕の顔を仕上げた。

 迎えに来た篠塚は僕を見て「すっごい!」と声を上げた。

「あなた、本当に彩芽さんじゃないの? そっくりショーに出たら優勝するわよ。さあ、もうすぐミーティングが始まるからついてきて」

 篠塚に連れられて三年二組と書かれた部屋に行った。部屋には机や椅子はなく、がらんどうになっていた。監督が黒板を背に立っており、約三十人の生徒たちやスタッフが監督の方を向いて立っていた。憧れの早瀬美玖の姿が目に飛び込んできて、身体全体が熱くなった。

「おはようございます。撮影はほぼ八合目まで進みました。これからが正念場です。最後まで気を抜かずに頑張りましょう。さて、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今日は残念なニュースがあります」

 監督はひと呼吸おいて、部屋にいる人たちを見回した。

「かねてから暴力団との関係が噂されていた桂川浩二が麻薬取締法違反で逮捕されましたが、逮捕前に島袋彩芽さんが桂川浩二の自宅を頻繁に訪れていたこと、及び島袋さん自身の麻薬常習疑惑が今日発売の週刊誌に掲載されました」

 出演者やスタッフの多くにとって初耳のようだった。刺すような視線が僕に集中した。僕を島袋彩芽だと勘違いしているようだ。僕はブルブルと首を横に振って、自分は無関係だと無言で訴えた。

「一昨日、雑誌社から記事について情報を入手しました。各務恵子の出番は未撮影部分に集中しているので、新しい配役で大規模な撮り直しをすることも覚悟しましたが、昨日の堤防シーンのエキストラの応募者の中に、島袋彩芽さんに感じがよく似た人物が見つかりました。それがここにいる水沢詩音さんです」

「へえ!」
「本人かと思った」
「逮捕を避けるために彩芽さんが別人のフリをしてるんじゃないの?」
「それにしてもよく似てるなあ!」
とあちこちから声が上がった。

「水沢詩音さんの素顔は、島袋彩芽さんとはそんなには似ていません。スタイリストさんとメイクさんの手によって、彩芽さんの恵斗とそっくりの恵斗が出来上がっただけです。女性であることがバレてからの各務恵子は、水沢詩音さんの素顔を活かして、島袋彩芽さんを連想させないような恵子に仕上げるつもりです」

 早瀬美玖が「なるほど」と頷いているのを見て、僕はファイトが湧き上がるのを感じた。

「その週刊誌の記事の中で、もう一人、佐宗綾香役の小山内さんも覚醒剤使用の疑いが示唆されていますので、キャストを変更しました。代役はエキストラの中から選出しました。ここにいる長尾幸子さんです」

「よろしくお願いします」
と幸子がお辞儀した。僕はさっき自分が紹介された時に挨拶しなかったことを思い出したので、一緒にお辞儀をしておいた。

 ミーティングが終わって隣の教室で撮影が開始されることになり、脚本に挿入された座席配置図に従って着席した。

 八ヶ月前まで高校生だった僕にとっては見慣れた光景だった。教壇に向かって六列が並び、一列あたり五人なので、合計三十人のクラスだ。窓際の一列は男子の席で、僕は後ろから二番目の席だった。僕の右斜め前、わずか一、二メートルの距離に早瀬美玖が座っている! 背中から、早瀬美玖のオーラがふわふわっと放射されていて、僕は酔ってしまいそうだ。

 撮影が始まった。先に早瀬美玖の二つの場面を撮り直した。ハッとした表情を見せるセリフのない場面が一つ、もう一つは椅子から立ち上がって「先生、それは違うと思います」と発言する場面だった。各々二、三秒のシーンだったが、監督が何度かダメ出しをしてやっとOKが出た。

 もう一つは杉内数馬が演じる駿介の友達の翔太が、授業中に前の席の駿介にメモを手渡す場面だった。駿介はメモを受け取るのに一瞬顔が写るだけだが、その表情だけを撮り直すようだ。その一瞬の表情を撮るために、七回もNGが出て深刻な雰囲気になり、ピリピリとした空気が張りつめた。OKが出た時には僕もホッとした。

 さあ、残るは僕の七シーンだ。まずシーンの撮影が始まった。

 脚本通り、机に右ひじを立てて顎を乗せる。高校時代にそんな姿勢で授業を受けていて、何度か注意されたのを思い出した。

 先ほど森助監督から皆に紹介されたが、よく考えると水沢詩音として紹介されただけだった。詩音は男女どちらでも使える名前だから、僕の事を女性だと勘違いしている人が居ないかなと気がかりだった。早めに皆に言っておかないと、トイレに行くのに困ると思った。

 そんなことを頭に浮かべながら窓の外を見ていた。カメラが近くに来ているのは分っていたが、ボーっとしていた。

「はい、OK」
と監督の声が聞えた。

――え、もう終わっちゃったの? 

 早瀬美玖と杉内数馬は重箱の隅をつつくほど細かい動作や、ちょっとした表情までダメ出しされたのに、僕はろくにポーズもとらないうちにOKされてしまった。やはり僕の役は映画の中ではどうでもいい存在なのだな、と気落ちした。

 次は恵斗が先生に質問されてポツリと「はい」と答えるシーンの撮り直しだった。脚本には「心がその場に無い様子で」と書かれていたので、窓の外をボーっと見るシーンと同じ気持ちで「はい」と言った。さすがに一発OKは出ず、「はい」と言った後の視線の動きを指導され、三度撮り直してやっとOKになった。

 三つ目はお待ちかね、恵斗が右斜め前の席に座っている本郷美菜をじっと見つめるシーンだ。きっと恵斗は美菜が好きなのだ。身体は女でも自分は男だと思っている恵斗が美菜に憧れるのは自然なことだ。でも、もし身体の秘密がばれたら美菜は恵斗のことをどう思うだろうか……。

 僕が美菜への憧れを表情に出すのに演技は不要だった。憧れの大スター早瀬美玖……僕なんかを相手にしてくれるはずがない……でも早瀬美玖を想う気持ちは誰にも負けない。

「OKだ。いいねえ」

 まだ演技を始めたという意識も無かったのに、監督の声が聞こえたので驚いた。

「心と身体のアンバランスが垣間見える、いい演技だ。島袋彩芽よりもずっといいよ」

 恥ずかしくなるほどの言葉で褒められて戸惑った。この監督は褒めて乗せるタイプの監督なのだろうか? 心と身体のアンバランスが出るのは当然だ。僕は男なのに、男のフリをしている女を演じているのだから、頭の中がこんがらがっている。しかも僕が男だということを知らない人たちの前で演技をしているわけだから、アンバランスさが滲み出てしまうのだ。島袋彩芽の場合は本人も周囲も女だと分かっている状況で男装していただけだから、アンバランスな感じを簡単には出せなかったのではないだろうか。

 廊下での二つのシーンと、校庭を歩くシーンも二、三度でOKが出た。

 監督が僕に近づいてきて笑顔で言った。
「キミのお陰で予定の半分の時間で撮り直しが終わった。いやあ、エキストラ出身とは思えない。将来を感じさせる女優さんだ」

「あ、いえ、監督。僕、女優じゃなくて……」

「分かってるよ。でも、黄色い蕾の中ではキミは各務恵子という女性なんだ。撮影が終わるまでは各務恵子になりきらなくちゃだめだ」

「は、はい、監督」

 今朝、森助監督が僕が男子だと言わずに紹介したのは、そんな意図があったのか……。監督、メイクさんやスタイリストさん、そして出演者の一部の人は知っていても、僕にはあくまで各務恵子になりきることが要求されているのだ。自分の性別を友達に知られることを心配しながら高校生活を送る各務恵子と、まさに同じ心境と言える。

 幸子はずっと僕から遠くない場所に立って演技を見ていたが、監督が立ち去ったのを見て僕に近づいた。

「よかったじゃない、将来を感じさせる女優とまで言われて」
 皮肉交じりに幸子が言った。

「参ったなあ。男装をしている女性に成りきれと言われても、どうしたらいいのか分からないよ……。でも、トイレはどうなるんだろう? 校庭のシーンで身体が冷えてトイレに行きたくなったんだけど、男子トイレに行くところを見られたらまずいよね?」

「バカねえ。ダメに決まってるじゃない。男子の制服を着ていても、詩音の身体は各務恵子なのよ」

「女子トイレに行けというの?」

「監督にそう命令されたばかりじゃないの。当然よ」

「無理だよ。女子トイレになんか入れるはずがない!」

「勝手にしなさい。でも、おもらしする前に決断した方がいいわよ」

「助けて、幸子!」

「ま、仕方ないからついて行ってあげる。次は一人で行くのよ」

「ウソだろう……」

 僕は幸子に連れられて女子トイレに行った。自分が高校の女子トイレに行く日が来るとは、十八年間夢にも思わなかった。幸い、先客は誰もおらず、個室に滑り込んでドアを閉めた。

 それからがひと苦労だった。ズボンを膝まで下ろした後、ガードルとショーツを一緒に下ろそうとしたが、ビクともしなかった。女性はどうしてこんなにきつい下着を身につけるのだろう? 一枚目のガードルと格闘して何とか太ももまで下ろしたが、二枚目のガードルは四か所にシリコンゴムが入っており、ただでさえきついのが更にきつくなっていた。破れても仕方ないという覚悟で必死で少しずつ引き下ろし、やっと太股まで下ろすことが出来た。ショーツは力を入れずに下ろすことが出来て、何とかおもらしせずに間に合った。

 ガードルを上げるのは下げるよりは若干楽だったが、それでも必死の思いで何とか服を着直した。撮影期間中、トイレに来るたびにこれほど苦労するのかと思うと気が重い。

 個室を出て手を洗っていると、生徒役の女性が二人入ってきた。鏡を通して視線が合った。女子トイレの洗面所に男子の制服を着て立っている僕を見たのに、彼女たちは軽く微笑んで会釈をした。僕もお辞儀を返した。

 女性と思われているのは確かだ。でも、水沢詩音が男性であることはいずれ分かる。その時に、今日の軽犯罪法違反を遡って訴えられたりしないだろうか……。

「遅かったわね。何してたの?」

「ガードルの二枚重ねがきつすぎて……」

「篠塚さんが恵子と私を探しに来たわよ。今、美菜と駿介のシーンを撮影中で、その次に転校生の私が教室に入って来て紹介されるシーンを撮るんですって。早めにお弁当を食べてスタンバイするようにと言われたわ。撮り直しが早く終わったから、午後三時の予定が午後一時になったそうよ」

「やっと佐宗綾香の出番だね」

 幸子と僕は篠塚の所に行って幕の内弁当とペットボトルのお茶をもらい、二人で弁当を食べた。


続きを読みたい方はこちらをクリック!