公園のオカマ(TS小説の表紙画像)

公園のオカマ:今日から女の子になりなさい

【内容紹介】男子が女子高生の制服を着させられるTS小説。主人公は大学1年生の秋野。親友の有田が公園で巨大なオカマと遭遇する。秋野はオカマが公園の駐車場で車中泊をしていると主張し、主人公と一緒に見に行くが、オカマにつかまって車中泊旅行に同行することになる。

公園のオカマ

 七月上旬の昼休み、いつものように有田とアマチュア無線研究会の部室で弁当を食べた。アマチュア無線研究会と言っても無線機があるわけではなく、免許も持っていない。部室を確保するために適当な名目で部を作っただけであり、僕と有田以外の部員は実質的に幽霊部員だった。

 有田小太郎は僕と同じ中学と高校を出て、この外語大に入学した親友だ。

 有田がふいに箸を置いて面白い話をし始めた。

「あ、忘れるところだった。今朝秋津公園でオカマを見たんだぞ」

「オカマなら高校のクラスにも一人いたよね」

「ああ、坂本のことか? あいつは確かにオネエっぽかったけど女子の制服を着て学校に来ていたわけじゃない。俺が見たのは本格的なオカマなんだ。スカートをはいて、ロン毛のかつらをつけて歩いているオッサンと、たった一メートルの距離ですれ違ったんだぞ」

「へえ、そうなんだ。オカマは毎日のようにテレビに出てくるけど、実物は見たことがないな。ゴツイ身体のオバサンじゃなくて、本当にオカマだったのか?」

「百八十センチ以上はある四十がらみのがっしりとした男がワンピース姿でハイヒールを履いて歩いていたんだぞ。誰が見ても一目でオカマだと分かるよ。こんな風に胸を突き出して歩いていたんだ。Gカップはある超デカパイだった」

「百八十でGカップというと、某国大統領の娘を思い起こさせるな」

「秋野は女性のサイズについて全くの無知だな。彼女がGカップというのはガセだ。俺が得た信頼できる情報によると、アンダーバストが七十四、トップバストが九十一・五のDカップだ。公園のオカマは俺の見立てではアンダーバストが九十五、トップバストが百二十のGカップだ。同じ百八十センチでも象とキリンほどに異なるのだよ、キミ」

「へえ、そうなんだ。詳しいんだね!」

「ボディーサイズの話はどうでもいいが、あのオカマの胸は明らかに作り物だった」

「豊胸してるってこと?」

「ブラジャーの中に発泡スチロールの三角錐を入れてる感じというか、全然ユラユラしなくて、胸に固定されている感じだった」

「へえ、よく見てるな。今度見つけたら写真を撮って見せてくれよ」

「よし、スマホに無音カメラのアプリをインストールしておこう」

 オカマの話はそれで終わり、有田との会話の話題には登らなくなった。

 しばらくして、夏休み直前の昼休みに「またオカマを見た」と有田が自慢話を始めた。

「今朝八時ごろに、また同じオカマを見たぞ。通学路の秋津公園の遊歩道に入ったら、あいつがコンビニの袋を持って何十メートルか前を歩いていた。俺は足を速めて距離を詰めたんだが、やつは遊歩道から木立を抜けて駐車場に入っていったんだ。俺は無音カメラのアプリを立ち上げて、気づかれないように後を追った。やつは駐車場の隅のワゴン車のドアを開けて入って行った。これがその写真だ」

 有田は自慢げにスマホを見せた。

「メタリックグレーのハイエースだな。オカマは映っていないじゃないか」

「シャッターを切る前にドアが閉まってしまったから……」

「なんだ、自動車の写真だけでは面白くも何ともないよ」

「じゃあ、明日、実物を見せてやろう」

「どうやって? そのオカマが何日の何時に公園のどの場所に現れるのか、分かるはずがないだろう」

「いいや、多分あいつは秋津公園に住んでいるんじゃないかと思うんだ。ハイエースを改造してキャンピングカーとして使っている人は多いらしい。今朝は公園の駐車場で目を覚まして、コンビニに朝ご飯を買いに行って帰ってきたところだったんじゃないかな」

「明日の朝早く駐車場に行けば見られるってこと?」

「その通りだ。土、日と駐車場でゆっくりするんじゃないかな。七時四十五分に公園の秋津交差点側の入り口に集合しよう」

 土曜日に早起きしてまでオカマを見に行きたいとは思わなかったが、もう有田がその気になっていたので仕方なく応じた。

 

 七月二十二日の土曜日の朝、七時四十五分に公園の南東入口で有田と落ち会った。早朝なのに木立の間から夏の太陽が頬を差す。公園内の歩道を野球場に向かって歩く。ずっと向こうに犬を散歩させている女性が歩いている他には、人影は見当たらなかった。

「あいつはここから駐車場に入って行ったんだ」
と有田は木立の間を指さした。歩道から木立の間を通れば駐車場に行けそうだ。

 広い駐車場には二台の自動車があるだけだった。有田のスマホの写真で見たのと同じメタリックシルバーのハイエースが左の奥に停まっている。

「この公園は夕方五時から翌朝まで駐車場が閉鎖されているんだ。オカマの車とあそこにある白いワゴン車が昨日の夜から停まっていたということだな」

 その時、ハイエースのドアが開くのが見えた。

「出てくるぞ! 隠れろ!」
と有田が言って右手前に停まっている白いワゴン車の後ろまで走って隠れた。白いワゴン車の陰からオカマの行方をうかがった。

 その人物が女性ではないことはひと目で分かった。白地に黄色い模様のあるニットのワンピースは膝上十五センチの短さで、胸は普通ならあり得ないほど前に突き出ていた。背中までの長さの栗毛の髪は不自然に細くてつややかだった。大柄なしっかりとした体躯とは余りにも不似合いで、誰の目にもかつらだと分かる。

「女装というより『オカマ装』と言う方が適切だろうな。もっと女性らしい服装にすればいいのに」

「それにしても大柄なオカマだな」

 僕たちがささやき合っているうちに、オカマは木立の間を通って歩道へと歩いて行った。

「すごいものを見させてもらったよ。さて、これからどうする? 新習志野駅のモールにでも行こうか?」

「何言ってんだ? 折角のチャンスなんだから、探検しよう」
と言って有田はハイエースの方へと歩いて行った。

「あいつはドアをロックしなかったぞ。車の中がどうなっているのか覗いてみよう」

「バカなことをするな! あのオカマが帰ってきたら泥棒と思われるぞ!」

「ここから一番近いコンビニは湾岸道路を越えたところにあるファミマだから、往復するのに十分はかかる。急ごう!」

「それはマズイよ、有田君。やめとこうよ……」

 僕が引き留めるのを無視して有田はハイエースまで歩いて行ってサイドドアのノブに手をかけた。

 有田の予想通りドアは開いた。有田はハイエースの中に足を踏み入れた。

「やめようよ、マズイよ……」

「男だろう! 一緒に来い!」
 有田に引っ張り込まれた。

「ドアを開けたままでは目立つ」
と言って有田はドアを閉めた。

 ハイエースの後部半分は、腰の高さのベッドになっていた。その下が収納スペースのようだ。サイドドアの前は、いわゆるリビングスペースで、座って食事できるようになっている。

「一人なら快適に住めそうだな」
と有田がくつろいだ様子で腰を下ろした。

「もうオカマが戻って来るかもしれないよ。早く出ようよ」

「まだやっと歩道橋に差し掛かったぐらいさ。勇気が無いやつだな」

「悪いけど、僕、先に行くからね」
と言ってドアを開けた。

 目の前にデカいオカマが立っていた。
「誰だ、お前たち!」
と男声で一括されて僕たちはすくみ上った。

「すみません、ちょっと覗いてみただけなんです」

「他人の車に乗り込んで『覗いてみただけ』だと? 警察で話を聞こうか」

「だからイヤだって言っただろう、有田君!」

「有田君というのか。朝、あの辺りですれ違った記憶がある顔だ」
とオカマは歩道を指さした。

「キミたちが下着泥棒だったんだな。先週車の中に干してあった私のブラジャーとショーツを盗ったのは有田君、キミだったんだな?」

「違います、誤解です! オカマの下着なんか触りたくもありません」

「学生のようだから警察に言う前に、学校に届けた方が良さそうだな。キミたちは高校生か? 大学生なのか?」

 僕はオカマの横をすり抜けて逃げようかと隙をうかがった。

「逃げても無駄だ。車内の様子は録画してある。動画をユーチューブにアップロードした上で警察に届ければ、すぐに身元がバレて捕まるぞ」

 オカマは僕を有田の横へと押し込み、ドアを閉めて僕たちの正面にデンと座った。有田はオロオロして泣きそうな顔をしている。

 僕たち二人の写真がテレビに出て、僕の好きな女子アナの夏目三久さんが「これがオカマの下着を狙った外語大生です」と言うシーンが頭に浮かんだ。

「警察に行く前に反省の言葉があれば聞いておこう。何が目的で侵入したんだ?」

「すみませんでした。大柄なお姉さんが早朝におめかしして駐車場から出てくるのを二度見かけたので、車の中で一人暮らししてるのかな、と興味が湧いて、中を探ってみたんです。つい出来心で……。でも、中のものを盗るつもりは全くありませんでした。下着泥棒は僕たちじゃありません」

「分かった。じゃあ、もう一人のキミは? まず名前を言いなさい」

「はい、秋野夕鶴ゆづると申します。有田君からオカマを見たと聞いて、見に行こうと誘われたからついてきました。僕、テレビでしかオカマを見たことがなかったので、つい……。僕は車の中をのぞくのは嫌だったんですけど、無理やり引っ張り込まれてしまいました。怖いもの見たさで来てしまいましたけど、僕はオカマには全く興味ないんです。お願いです、許してください」

「面と向かってオカマと呼ばれるのが、オカマ本人に乗ってどれほど傷つくか全然分かってないんだな。学生が悪気なしに侵入したというのが真相のようだから今回は放免しようかなと思っていたけど、やっぱり許すのはやめておく。言うに事欠いて怖いもの見たさとか、全然興味ないとか、プライドをズタズタにされた」

「秋野、お前って本当にデリカシーが無いんだから」

「ごめんなさい……。お姉さんも、ファッションを工夫したら少しは女らしく見えると思うんですよね。昼間出歩くのは無理でも、暗い夜道だけを歩くようにすれば、目の悪い人なら女だと思い込む人も居るはずです。オッパイは今の半分以下の大きさにすべきだし、スカートも普通の女性がはいているようなものにした方がいいですよ」

「自分ではうまく化けたつもりだったのに、私の外観はそれほどひどかったのか……。それにしても女性のファッションに詳しそうだな。秋野君も女装して生活したことがあるのか?」

「まさか! 僕は姉と妹にはさまれて育ちましたから、女性の日常生活について、オカマのお姉さんよりは詳しいだけです」

「オカマと呼ぶのはやめてくれ。私は坂詰勇人、女性名は遥という。遥姐はるかねえさんとでも呼んでくれ」

「じゃあ、遥姐さん、どうすれば僕たちを許していただけるんでしょうか?」

「君たちの夏休みはいつからいつまでだ?」

「来週の水曜日から、九月十六日までですけど」

「そうか、ちょうどいい。火曜日に学校が終わったらここに集合してくれ。午後五時にここを出発する」

「どこに行くんですか?」

「東北方面だ。実は私は小説家で、全国各地を転々としてその土地の風土や人間と触れ合うことによって、小説の構想を温めているんだ。火曜日の夜、北に向けて出発し、行けるところまで行って道の駅で車中泊する予定だ」

「この車の中で三人も寝られます?」

「多少窮屈かもしれないが運転席と助手席に横長のマットを敷いて一人が寝て、後部のベッドで二人が寝ることになる」

「へえ、結構面白い冒険旅行になるかもしれませんね。でも、僕たちはひと月半もの間何をすればいいんですか?」

「私の話し相手になってくれ。秋野君には女らしく見せるための着こなしなどをアドバイスして欲しい。それに、行く先々でアルバイトをすればいい」

「分かりました。その前に確認ですが、仰る通りに車中泊旅行について行きさえすれば、オカマの車に無断で入ったことは無かったことにしてくれるんですね?」

「水に流してあげよう。但し、今後私をオカマと呼ぶたびに罰金千円を徴収するぞ」

「十回で一万円ですか、そんなには払えませんよ。一回百円にしてください」

「うぅん……。よし、百円でいいだろう」

 遥姐さんとLINEの友達登録をして有田と僕は解放され、二人で新習志野のマクドナルドに行ってソーセージマフィンのセットを食べた。

「今日は本当に危ないところだったな」

「そりゃあ、他人の自動車に勝手に入ったらマズいよ。だから止めたのに」

「秋野があいつの前で俺の名前を呼ばなかったら逃げられたんだぞ」

「車内に侵入したところを動画に撮られたんだよ。名前が分からなくても警察に届けられたら、僕たちはずっと逃げ隠れしなきゃならないことになる」

「車内にカメラなんて見当たらなかったよ。あれはきっとハッタリだ」

「でも、夏休みに冒険旅行に連れて行ってもらえることになってラッキーだったじゃないか。棚からぼたもちってところだね」

「それを言うなら『災い転じて福となす』だろう。でも、俺は行きたくないよ。冬休みにスキーに行くためにバイトをして貯金するつもりだったんだから」

「今更そんなことを言い出しても、遥姐さんに行くって約束したんだから、もう遅いよ」

「うぅん……、イヤだなあ」

 マクドナルドを出て別れた時も有田は歯切れが悪かった。今日はどう考えても有田のせいでトラブルに巻き込まれ、僕はとばっちりを受けただけだ。別れた後で有田の態度を思い出して腹が立った。

いざ出発

 スポーツバッグにTシャツとパンツを五日分詰めると旅行の準備は完了だった。あのハイエースでの車中泊旅行なら、遥姐さんは洗濯のためにコインランドリーに立ち寄るはずだ。真夏の旅行は軽装で済むから楽だ。

 火曜日の朝、スポーツバッグを肩にかけて登校した。午後三時に夏休み前の最後の授業が終わるので、新習志野まで電車で行けば四時前には遥姐さんの待つ駐車場に到着するだろう。

 有田と一緒に行くつもりでいたが、秋津公園の北側にアパートがある有田がスマホの充電ケーブルを忘れて来たので取りに帰るとのことで、四時までに現地集合することになった。

 秋津公園の駐車場に行って、ハイエースのドアをコンコンとノックした。遥姐さんはムームーのようなホームドレス姿で、胸のふくらみは前回見た時の半分程度の大きさになっていた。

「オッパイが自然になって、とても女らしい感じになりましたね」
とお世辞を言うと、遥姐さんは恥ずかしそうに微笑んだ。

 四時になったが有田は到着が遅れていた。

「早く出発するほどラッシュアワーを避けられるんだけどねえ……」
 遥姐さんがイライラしている様子を見て申し訳ないと思った。

 四時五分に有田のスマホに電話を入れたが返事が無かった。

 二、三分後に有田からLINEでメッセージが届いた。

「急用で秋葉原に行かなきゃならなくなった。車中泊旅行は秋野君にまかせる。よろしく」

――ひどい! これでは敵前逃亡だ。有田は行くのを嫌がっていたが、こんな形で逃げるなんて許せない! 

「どうしたの?」

 遥姐さんが僕の手からスマホを取って有田からのLINEのメッセージを読んだ。僕は遥姐さんが激怒して不法侵入を警察に届けに行くと言い出すのではないかと心配した。

「じゃあ、出発するか」

「え、有田は来なくてもいいんですか?」

「土曜日に会った時に様子がおかしかったから、ひょっとしたら有田君は来ないんじゃないかという気がしていたんだよ。来たくない人を無理に連れて行ったら、せっかくの旅がつまらなくなる。来なくてよかったよ」

「本当はいいやつなんです。簡単に約束を破るような奴じゃないんですが……」

「だまし討ち的なドタキャンを食らわされた相手を弁護するとは、秋野君ってお人よしと言うか、いい子だね。私も有田君が悪人だとは思わないが、オカマに対する差別意識というか、彼が私を気持ち悪いクズだと考えているのをヒシヒシと感じた。だから、私の仲間になることへの抵抗が非常に大きいんじゃないかな。まあ、普通の人のオカマに対する意識というのはそんなものさ」

「でも、有田君は秋津公園でオカマを見たことをすごく自慢していたんですよ」

「オバケを見た、変態を見た、キモイ宇宙人を見た、そんな感じの自慢だろうね。私の場合は単なるオカマじゃなくて、車中泊のオカマだから、有田君のような人にとってはダブルで自慢のタネになるかな、アハハハ」

「今のお話、ちっともおかしくないです」

「秋野君はオカマに対する抵抗感が小さいんだね」

「まあ、怖いもの見たさと言うか……。あ、ごめんなさい! そんなつもりで言ったんじゃなかったんです。遥姐さんが賢くて面白そうな人だということは目を見れば分かりますから」

「本当は秋野君もオカマをやってみたいと思ってるんじゃないの? 手伝ってあげようか?」

「冗談はやめてください。そんなことを言うんだったら、僕、帰りますよ!」

「まあまあ、目くじらを立てて怒るほどのことじゃないだろう。さあ、出発するぞ」

 僕は助手席に乗り込み、ハイエースは午後四時二十七分に秋津公園の駐車場を後にした。

「東北自動車道に乗りに行くんですね。湾岸から首都高ですか?」

「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く? 勿論、一般道を走るのさ。それに、ここから高速道路に乗ろうとすれば随分大回りをすることになる。秋津公園から真っすぐ北上するルートを走るのが、ガソリンを節約できて地球にやさしい走り方だ」

「いいですね。エコで、頑張り過ぎないライフスタイルって」

「秋野君と私とは気が合いそうだね」

「あのう、遥姐さん。ひとつ質問していいでしょうか?」

「なぜオカマになったんですか?と聞くつもりだろう?」

「ええっ! どうして分かったんですか!」

「そんな当たり前の質問を言い当てられて、そこまで驚くか?」

「遥姐さんはLGBTのTなんですよね? トランスジェンダー。子供の時から自分の性別に違和感があって、自分のお姉さんや妹が可愛い服や着物を着せてもらえるのに、どうして自分だけが差別されるのか? どうして男子の制服で学校に行かなければならないのかと悩みながら育ったんでしょう? 第二次性徴が進まないうちにオチンチンを取れば女らしくなれるけど、大人になってからカミングアウトしたから普通の女性としては生活するのが困難なので、車中泊で全国を転々としている。そんな感じじゃないんですか?」

「図星だ!と答えて秋野君を喜ばせたいのはやまやまだが、全然違うね。私は男三人の兄弟の長男だが、子供の時から身体がデカいスポーツ少年で、女の子の服を着たいと思ったことはただの一度も無かった。サッカー部でエースだったし勉強も出来たから女にはよくモテた。京都大学に進んでアメリカンフットボール部で活躍した。だからこんな身体になって今は不便しているんだが……。大手商社に就職してニューヨーク駐在も経験した。某国大統領令嬢に似たモデル系美女と恋愛結婚をして、子供には恵まれなかったが幸せだった。リーマンショック後に始めた株式投資が成功して、その気になれば遊んで暮らせるほど金持ちになった」

「すごい! エリート人生そのものですね」

「私もそう思っていた。三年前に妻が死ぬまでは」

「そうだったんですか……」

「海外出張中に妻が交通事故で入院したという連絡が入り、予定を早めて帰国したら、もうこの世の人ではなくなっていた。それまで男は人前で泣くべきではないと思っていた私だったが、大声で泣いて、涙が止まらなかった。三日三晩泣いた後、世の中の全てが意味のないものに見えて、動く気にもなれなかった。会社に退職届を出して、引きこもりになった。コンビニに弁当を買いに行く時以外には殆ど外出をせず、妻のことを頭に浮かべて妄想ばかりしていた。ある時『妻になりたい』というアイデアが頭に浮かんだ。身体じゅうの毛をカミソリで剃って、化粧をして、妻の服を着てみた。ところが、私の身体に合う服は殆どなかった。ワンピースはとてもじゃないが身体を通せないし、大き目のスカートでウェストがゴムになっているものを見つけたが、無理にはこうとしてべりっと破れてしまった。結局、着ることが出来たのは、ネグリジェと、この間君たちに会った時に着ていたニットのワンピースだけだった」

「失礼ですが、あのワンピースは遥姐さんの身体にはパンパンで、体型の欠点が目立ちますから、人前で着るのはやめた方がいいですよ」

「今だからそう言われても聞き流せるが、三年前はあのワンピースだけが妻と私を同一化するための架け橋だった……。一ヶ月ほど、あのワンピースと妻のパジャマを交互に着て生活していたが、もっときれいになりたいと思うようになってきて、アマゾンで服やらウィッグやらアクセサリーを買ってはおしゃれをするようになった」

「なるほど、毎日女性の服で暮らすことによって自分は女だと意識するようになり、性的対象が女性から男性に変化したわけですね」

「結論を急ぐな。そんなに簡単に自分の性別に関する認識が変わるはずがない。自分は女だと意識するかどうかより『男って何だろう? 女って何だろう?』という疑問が強くなってきて、私は毎日必死で考えた。しかし、答えは出なかった。女とは何か、私は全く知らなかったからだ。それまでは、妻になりたいと思って、形を真似ようとしてきたわけだが、私はその時はじめて、形を真似ても女にはなれないということを悟った。生まれた時から女は男とは違う。考え方も、性格も、思考も、行動様式も、全く違うんだ。男と女は第二次性徴が始まってから分化するのではない。最初から異なるんだよ。私は文化人類学と自然人類学の書物をむさぼるように読んだ」

「やっぱり京大出の人は読む本が違いますね」

「秋野君とはひと月半もの間、寝食を共にするわけだから予め言っておく。私の性的対象は女性から男性に変化していない。私が好きなのは女性だ。妻が私の永遠の理想なんだ。もしそうでなければ、秋野君は明日の朝までには確実にバージンを失うことになっていただろう」

――そりゃそうだ……。僕は自分が無防備過ぎたことを反省した。

「人類学の観点から性別の問題を熟考するようになって、興味を抱いたのがLGBT問題だった。妻を失って以来、私はTすなわちトランスジェンダーの入り口を彷徨っていた。私は改めて自分自身をMTFトランスジェンダーの人間であると想定することによって、トランスジェンダー問題を深く研究したいと思った。引きこもって一人で女装していても何も分からないし何も始まらない。女性として人前に出て女性として生活することが大切だ。そう思って、毎日出歩き始めたが、結果は悲惨なものだった。鏡で見る限り、私は結構イケてると思っていたが、世間は私をまるでチンドン屋か喜劇役者のように扱った。私はショックだった」

「ホラー映画の役者じゃなくて、まだよかったじゃないですか」

「グサッ、秋野君は軽い冗談のつもりで言ったのだろうが、私は深く傷ついた」

「いえ、冗談を言ったつもりはないんですけど」

「えーっ、そこまで言う? そんなに傷つけられたら立ち直れなくなるぞ。とにかく、それがきっかけで車中泊旅行をするようになったんだ。昔から知っている近所の人に姿を見せるのは恥ずかしいが、ひなびた温泉地とか、田舎の道の駅に行けば、知らない人ばかりだし、人口が少ない場所だとすぐに覚えてもらえて、そんなにジロジロ見られなくなるのだよ。私が凶暴な狂人ではなく、無害な人間だということはすぐに分かるから、周囲の人との交流が芽生える」

「デカいから最初は怖いけど、そのうち慣れるんでしょうね」

「女はデカいと言われると傷つくんだよね。背が高いとかすらっとしているとか言ってくれないか?」

「す、すみません。でも、自分を女だと主張したいのだったら、その言葉づかいはおかしくないですか? 男言葉でしゃべっている限りは『オカマ』です。言っときますけど、今のは罰金は払いませんからね」

「いやあ、昔からオネエ言葉は大嫌いなんだよな……」

「道の駅で会う人は遥姐さんの事を女として扱ってくれました?」

「どうかな……。道の駅に野菜を持って来た農家のお婆さんから『女どうしだから』と言われた時は本当に嬉しかったな」

「トイレはどっちに行くんですか?」

「当初一度だけ女子トイレに行ったら、警察を呼ばれそうになった。その後は男子トイレに行っている」

「失礼ですけど、遥姐さんは女性として生活をしているんじゃなくて『女装しているのに男言葉で生活をしている変な男性』と言われても反論できないと思いますよ」

 運転をしている遥姐さんの表情がこわばり、顔面が蒼白になった。

――しまった、言い過ぎた……。

「私もそれは分かっているんだ。一線を越えられない自分を情けなく思う。秋野君、私に力を貸してくれ」

「はあ、勿論僕にできることでしたらお手伝いします。でも、遥姐さんは本当に女になりたいんですか?」

「その質問に対する答えを見つけることにも力を貸して欲しい。但し、話しておいた方がいいと思うが、私は『トランスジェンダー問題の実践評論家、坂詰遥』として名前が売れている。文化人類学、自然人類学、服飾の歴史、シェイクスピア研究、ウィメンズ・リブ関連、女性の地位向上問題、そして分子生物学に到るまで、さまざまな学術的な観点からトランスジェンダー問題に正面から取り組んでいる評論家は日本では稀だ。何冊かの著作も高く評価されているし、最近は講演の依頼もちょくちょく入るようになった。だから、MTFトランスジェンダーとしての実践をストップすることは考えられない」

「さすが! 引きこもりしたり、車中泊で旅をするだけじゃなかったんですか! 評論家として、理屈では最先端を行ってらっしゃるんですね。実践の方は三年かけても素人レベルみたいですけど」

「秋野君は痛い所を突くのが得意だね。サディストなのかな」

「姉と妹からはマゾと呼ばれて育ちましたが……」

「前にも言った通り、私は小説も書いている。坂詰遥というペンネームではなく、別のペンネームを使ってトランスジェンダー小説を電子出版してみたら、結構小遣い稼ぎになることが分かってね。読んで感想を聞かせてくれないか?」

「トランスジェンダー小説ねえ……。あまり興味はないというか、トランスジェンダー小説は面白いけど読むと人格が歪められて、ノーマルな人がトランスジェンダーに走ることがあると聞いたことがあります。まあ、一冊ぐらいなら読んで感想を言いますけど」

「『桜沢ゆう』という作家の名前を聞いたことはないかね?」

「さあ、聞いたことがあるような、無いような……。それが遥姐さんのペンネームですか?」

「違うよ。トランスジェンダー小説の作家の例を挙げたまでだ。私の小説家としてのペンネームは花屋敷果林だ」

 僕はそのペンネームについての感想を言うことで遥姐さんをがっかりさせるのを思いとどまった。

初めての車中泊

 おしゃべりをしているうちに車は水戸郊外にさしかかり、遥姐さんは温泉施設の駐車場に車を停めた。午後七時半だった。

「車中泊旅行初日だから心地よい夜を過ごして欲しいし、秋野君の歓迎会も兼ねて、普段よりは高級なスーパー銭湯に招待しよう」

「え、払っていただけるんですか?」

「勿論だとも。このスーパー銭湯のレストランで食事をしてから風呂に入る。そうすれば、道の駅に着いたら寝るだけでいい」

 僕は着替えのTシャツとパンツ、それにタオルと歯ブラシセットをビニール袋に入れて車を降りた。遥姐さんと並んでスーパー銭湯の玄関に入った。周囲の人から刺すような視線を感じる。ギョッとした表情、嫌なものを見るような目、好奇の目……。人それぞれだがいずれも好意的でない視線だった。遥姐さんは毎日こんな視線に晒されて生活しているのだ。

 遥姐さんが発券機に千円札を二枚入れて、大人券を二枚購入した。靴を下駄箱に入れてから受付で入場券を渡した。

 受付の男性は引きつった顔で遥姐さんを見上げた。

「あ、あのう……」
 男ですか、女ですか、と質問できないから困っているのだろう。

「どっちだと思います?」
 低い声で遥姐さんが聞いた。

「あ、声で分かりました。男性お二人ですね」
と受付の男性は青色のロッカーキーを二つ差し出した。さすが客商売だけあって、うまい返事を考えたものだと感心した。

 先にレストランに行き、空席を見つけて座った。周囲から胡散臭そうな視線を感じる。遥姐さんと同じ「串揚げ五種盛り合せ定食」を注文した。

「車中泊旅行で重要なことは、入浴の前に食事をして、お茶か水を十分飲むということだ。そうすれば風呂場で歯を磨くことができるし、道の駅に着いた時点で膀胱に尿がたまっているから、寝る前にトイレに行けばいい。入浴後に食事をしたり道の駅で缶ビールを飲むと、夜中にトイレに行きたくなりやすい。私のような女性にとって、夜中に公衆トイレに行くのは危険を伴うことだ」

「そりゃあ、夜中に公衆トイレで遥姐さんに遭遇したら危険を感じますよね」
と僕が冗談を言うと、遥姐さんは「ふんっ」と言って返事しなかった。

 言われた通り水を多めに飲みながら定食を食べた。とても美味しくて僕の普段の夕食より豪華だった。満腹になって、リッチな気持ちでレストランを出て風呂場に向かった。

 男風呂の暖簾をくぐって脱衣場に入る。

「オオッ」
 服を脱いでいた七、八十才の男性が遥姐さんを見て驚きの声を漏らしたが、気まずそうな表情で視線を逸らした。

 歓迎されていないという空気をピリピリと肌に感じる。それでも気丈に脱衣かごの前に立って服を脱いだ。遥姐さんは前開きのワンピースを脱いでから背中に手を回しブラジャーのホックを外そうとして「イテテ」と声を出した。僕は見ていられなくなってブラジャーのホックを外すのに手を貸した。遥姐さんが自分で発泡スチロールを切り出して作ったと思われる白いフェイクの乳房が床に落ちて脱衣場の入り口の方に転がった。僕はそれを拾って遥姐さんの脱衣かごに入れた。僕たちの動作の一部始終を何人かの男性が呆れ顔で見ており、表情にはあからさまな侮蔑が感じられた。遥姐さんは女物のショーツを脱いで全裸になった。

 遥姐さんはタオルを右手に持ち、背筋を伸ばして大浴場のドアへと歩き、僕はタオルで前を隠して後を追った。

 僕たちを射る視線は大浴場に入るとウソのように消え失せた。全裸の遥姐さんは単なる大柄なアラフォー男性であり、イケメンのお相撲さんを連想させた。均整の取れた長身はほどよい筋肉で彩られていて、ムダ毛の無い白い肌が遥姐さんを年令よりも若く見せている。女々しさのかけらも感じさせない、どこに出ても恥ずかしくない立派な男性に見えた。

 遥姐さんは二つ並んで空いていた洗い場を見つけて腰を下ろし、僕はその隣に腰掛けた。

「秋野君の若い身体を見て、大学時代を思い出したよ」

「え? アメリカンフットボールの選手だったから筋骨隆々じゃなかったんですか?」

「合宿で温泉施設に泊まった際に大浴場で他大学の卓球部の連中と一緒になった。その中の何人かは小柄で女性のような身体つきで、私の半分以下の体積だと思った。同じ人間でこうも違うのかという驚きを今でも鮮明に覚えている」

「僕の身体つきがその卓球部員と似ていると言いたいんですか?」

「いや、秋野君の方が筋肉がついていなくて、あの時の彼らよりもずっとたおやかだ。私のようなTから見ると実に羨ましい。チンチンも私の四分の一しかないな」

「四分の一? よく見てください。ちょっと小さいだけじゃないですか」

「秋野君こそよく見なさい。ほら、長さで三分の二以下だろう。体積は長さの三乗になるから、約四分の一ということだ。一方、体重は私が八十三キロに対して秋野君を推定五十二キロとすると私の六割にも相当する。男性ホルモンの分泌量が睾丸の体積に比例すると仮定した場合、秋野君の体重当たりの男性ホルモンの量を私と比べるとわずか四割に過ぎないという計算だ。秋野君の身体の男性度が低い理由が分かっただろう?」

「僕は少しオクテなだけですよ。遥姐さんは裸になった途端に態度がデカくなったんじゃありません?」

「シーッ、風呂で『遥姐さん』と呼ぶのはやめてくれ。今、変な目で見られたじゃないか。坂詰さんと呼んでくれ」

 シャンプーとボディーソープで身体を洗い、内風呂はパスして露天風呂に向かった。

 僕は右手に持ったタオルで股を隠して歩くが、遥姐さんには前を隠す気は全くなさそうだった。立派なものを持っていることを見せつけたいのだろうか? しかし、スカートで暮らしている遥姐さんが男性ホルモンの濃度を自慢するのは、どう考えても理屈に合わない。変な人だなと改めて思った。

「私の同期の友達には学生結婚して高校生の子供を持つ人もいる。こうやって秋野君と一緒に風呂に入っていると、自分の子供のような気がしてくるから不思議だ」

「僕の親は二人とも来年五十才ですけど、坂詰さんは四十二、三ということですか? 僕は坂詰さんが父親みたいな気はしませんけど」

「母親と言って欲しかったな。ちなみに私はまだ三十九才だよ」

「坂詰さんは脛毛も胸毛も腋毛もなくてツルツルですけど、毎日剃ってるんですか?」

「レーザー脱毛したんだよ」

「レーザー脱毛すれば二度と生えてこないんですか?」

「私の場合三十回近く施術したから、殆ど生えてこない。たまに黒いのが生えてきたら小型の家庭用レーザーを最大出力にして処理をしている。秋野君なら七、八回施術するだけで完璧だろうな」

「僕を仲間に引き入れようとするような発言はやめていただけません?」

 遥姐さんは上機嫌だった。僕も遥姐さんと一緒にいるのは結構楽しい。有田は親友だが意見が食い違ってケンカになることもあるし、お互いに遠慮が無いので葛藤も生じる。遥姐さんは高い位置から僕を見守る視点が感じられる。ひと月以上も一緒に旅をする相手としては有田より遥姐さんの方がずっといいかもしれない。もし有田が来ていたら、こんなにゆったりとした気持ちで風呂に入れなかったかもしれない。

「さあ、あまり遅くなると道の駅で静かな場所に駐車できないから、そろそろ行くぞ」

 遥姐さんにそう言われなければ、僕はあと一時間でも岩風呂でゆっくりしていただろうと思う。

 身体を拭いて脱衣場に行く。一時間余り忘れていた『他人の目』が再び僕たちに降り注ぐ。遥姐さんがブラジャーを着けるのを手伝い、逃げるように脱衣場を出た。

 遥姐さんがチェックアウトをする間、僕は離れて立っていた。

 ハイエースに戻り、ドアを閉めるとほっとした。

「湯上りは何が何でも化粧水。詠み人知らず」

「何ですか、それ」

「風呂を上がったらとにかく化粧水だけはつけなさいということだ。これは女性としての基本中の基本なんだ。秋野君もつけなさい」

「いいですよ、僕は。それより、銭湯に行く時はもう少しユニセックスな服装にして、ノーブラにした方がじろじろ見られないから楽ですよ」

「今日はあえてこうしたんだ。私たちが置かれている状況を秋野君にしっかりと認識してもらいたかったからね。心配しなくても、明日からはこんな大規模なスーパー銭湯には行かないから、大したストレスは無くなるよ」

 遥姐さんがエンジンをかけて、ハイエースはゆっくりと発車した。

 交通量の減った夜道を四十五分間走り「道の駅常陸大宮かわぷらざ」と表示された大きな駐車場に入った。遥姐さんは建物に向かって左奥にある静かそうなスペースにハイエースを駐車した。

「ここは完成して二年にしかならない新しい道の駅なんだ。設備も最新式で清潔だし、普通車と大型車の駐車場が明確に別れているから、比較的騒音が少ない。トイレに行ってから寝るとするか」

 僕たちはトイレまで歩いて行ったが、人通りは少なく、暗いためか、さほど他人の視線は気にならなかった。男子トイレの入り口で、出てきた老人がギョッとした表情で遥姐さんを見たが、特に何も言われることは無かった。遥姐さんはさすがに男性用の小便器の前には立たず、個室に入った。僕は用を足すと先に手を洗って、トイレの自動ドアの外で遥姐さんを待った。

 一緒に車まで歩いて戻った。

 遥姐さんはワンピースを脱ぎ、ブラジャーを外して巨大なネグリジェに着替えた。

「秋野君はパジャマを持ってこなかったの?」

「Tシャツで寝ればいいかなと思って……」

「私のネグリジェを貸してあげよう」

「それは遠慮します」

「ズボンのままベッドに寝て欲しくないなあ」

「じゃあズボンは脱ぎます。Tシャツとパンツだけでちょうどいいです」

「まあ、私の隣でパンツだけで寝たいのなら、私は止めはしないけど」

「へ、変なことは絶対にしないでくださいよね」
 僕は後部のベッドに遥姐さんに背を向けて横になった。少しうつ伏せ気味に寝て、パンツの中のものがギンギンに勃ってきたのを隠した。遥姐さんが僕に変なことをするとは思わなかったが、ネグリジェを着た人と同じベッドに並んで寝ていると思うとドキドキした。

 疲れていたためか、すぐに眠ってしまった。

 

 まぶたに当たる光が眩しくて目が覚めた。車の全ての窓が数センチ下げられていて、涼しい風が太ももを洗う。遥姐さんは車の中には居なかった。トイレにでも行ったのだろう。

 ズボンをはいてシーツのシワを伸ばした。窓の外を見て驚いた。建物に向かって左奥の端に駐車したはずなのに、景色が全く変わっている。僕は靴を履いてサイドドアを開けた。

「秋野くーん!」
 遥姐さんが屋外のテーブル席から手を振っている。僕はそちらに歩いて行った。

「よく寝ていたね。このテーブル席に近い場所に車を移動させたんだよ。もうすぐコーヒーが湧く。顔を洗って来たらどうだ?」

「あ、これ、湯沸なんですね!」

「ジェットボイルという登山用のガスバーナー内蔵式のクッカーだ。朝起きるとコーヒーを沸かしてゆったりとした気持ちで朝食を楽しむ、これが車中泊ライフの魅力の一つなんだ」

 トイレに行って帰ってくると、コーンスープとコーヒーが僕を待っていた。

「コンビニでパンやサンドイッチを買うこともあるが、旅行をしているとカロリーが過多になりやすいから、朝食は粉末式のコーンスープが丁度いい。女性はダイエットに気をつけなきゃならないからね」
と、遥姐さんは女性を自認して発言した。

 熱いコーンスープは驚くほど美味しかった。幸せな気持ちで朝食を食べた。

「今夜はどこの道の駅で泊まるんですか?」

「道の駅ではなく、研修所の駐車場だ。宿泊施設の温泉を利用できるので快適なんだ」

「その研修所はどこにあるんですか?」

「秋野君に住所を言っても絶対に分からない場所だ。福島県岩瀬郡天栄村大字広瀬字星野池二十にある里湯研修所というところだ」

「うわぁ、天栄村ですか! いいですね」

「天栄村を知っているのか! 広大な山域に五千人しか住んでいない過疎の村だぞ」

「天栄村が過疎の村だということはケンミンショーでもやっていましたから、全国的に結構名前は売れていますよ。僕の実家は福島市なんです。同級生のおばあちゃんが天栄村の二岐温泉に住んでいて、中学時代に二泊三日で遊びに行ったことがあります」

「そうか、秋野君の田舎は福島だったのか」

「田舎じゃありません。福島市は都会です」

「ムキになるなよ。実家のある場所は地方都市でも『田舎』と言うんだ」

「福島市は人口は少ないですが仙台市に並んで洗練された都会です」

「その意見は少数派だと思うが、まあいい。秋野君は都会出身ということにしておこうじゃないか」

「なんかムカつく……」

 ゆったりと会話を楽しんだ後、道の駅を午前十時に出発した。車は国道118号線を北上した。棚倉で左折し、白河へと進む。

「研修所では、研修を受けなくても風呂を使わせてもらえるんですか?」

「今回は研修を受ける側じゃなくて、講師として招かれている。だから大手を振って風呂を使える。私がトランスジェンダー問題の実践評論家だということを忘れちゃ困るね」

「有名な先生だったら研修所の中の部屋を用意してくれるんじゃないかと思いますけど……」

「そ、それはだな、私が車中泊を希望すると言ったから、その意思を尊重してくれるわけだ」

「へえ、そうなんだ」

「秋野君、信用していないな!」

「講師に招かれて、何を話すんですか?」

「オーディエンスは受験生で、高三か一浪だ。二週間泊りがけのサマースクールが開校されていて、約二十名の生徒が来ているそうだ。トランスジェンダーでの生徒も含まれている。私は、そんな中でトランスジェンダーの生徒が他の生徒からの偏見に苦しまないよう、LGBT問題の理解を深めさせるためのトークをしてくれと頼まれている。受験勉強の息抜きを兼ねて若者を啓蒙するという試みだ」

「へえ、それは立派なお役目ですね。是非僕にも聞かせてください」

「勿論だ。秋野君は私のアシスタントとして座っていなさい。私の講演は明日だから、今日の夕方までに到着すればいい」

「この調子だと昼過ぎには着きますよ。白河を通るんだったら、小峰城に寄ってはどうですか?」

「何だね、その小峰城とは?」

「え、ご存じない? 東北三名城のひとつ白河小峰城をご存じないんですか? 関東の人は単に『白河城』と呼ぶ人が多いですけど。京大卒というのは学歴詐称じゃないでしょうね?」

「考える力を尊び、知識を詰め込むことを軽視する、それが京都大学の伝統だ」

「それ、僕も今度言い訳をするときに使わせてもらいます」

「そんなにいい城なら見てみたいな。秋野君は行ったことがあるのか?」

「福島市の小学生は全員行きます。僕は何度も行きました。震災でしばらく本丸が立ち入り禁止になったので、高一の頃、彼女とデートで行った時には入れませんでしたけど、一昨年からまた入れるようになりました」

「ほう、秋野君にも彼女がいたのか!」

「当然ですよ。モテモテだったんですから」

 それはハッタリだった。一応、お互いに付き合っていると認識していたが「彼女が居た歴ゼロ」になりたくないから、そこそこに好きな相手を一応確保しただけだった。その子は八王子の大学に行ったが、高校卒業以来一度も会っていない。

 白河城に行くと、遥姐さんは説明書きの立て札を見つけるたびに真剣な目で全文を読んでいた。膝丈のゆったりした黒っぽいスカートとベージュのメッシュのカーディガン姿の遥姐さんは、昨日着ていたニットのワンピースと違って、さほど目立たなかった。それでも、並んで説明書きを読んでいる観光客は横顔を見て普通の女性でないことに気づくと、まるで感染を避けるかのように離れて行った。

 時々口に出すコメントから推測して、遥姐さんは明治維新絡みの会津藩の事情には詳しくないようだった。きっと日本史は得意ではなかったのだろう。でも、福島に会津、中通り、浜通りの三つの地方があることはちゃんと認識していたので、さすが京大と思った。大学の友達は浜通りのことを「原発事故による放射能汚染の影響が大きかった海岸沿いの地域」と思い込んでいる人が多く、僕はそのたびに福島の地形と歴史を説明しようとするのだが「へえ、そうなんだ」と口先だけのコメントしか返って来ないのが普通だった。

 白河城をひと通り見終わって遥姐さんは満足した表情だった。近くの店で白河ラーメンを食べて、駐車場を出たのは午後二時だった。

 県道三十七号線を会津若松方面に向かって進んだ。田舎道が田んぼ道になり、そして山道になった。周辺に動物しか住んでいなさそうな道路が続くと、ひょっとしたら遥姐さんは僕を人里離れた山奥に連れて行って「どうにかする」つもりではないだろうかと怖くなる。

 その心配は長くは続かなかった。道が開けて、遥姐さんは「道の駅羽鳥湖高原」と表示された駐車場に車を停めた。

「ここはスキーシーズンには混みあうらしいけど、夏場は閑散としていて、車中泊をして本を書くには最適の場所なんだ。誰にも邪魔されずに大自然の中でリラックスできる。去年の夏にはここで十泊したんだよ」

 遥姐さんは自分の所有する別荘を自慢するかのように言った。とっておきの場所を全国に持っている遥姐さんは、山中湖畔に別荘をひとつ持っている金持ちよりずっとリッチなのだ。

「まだ時間があるからコーヒーを一杯飲んでいこうか」
 僕は、早く目的地に行けばいいのにと思ったが、反対するわけにもいかず「はい」と答えた。遥姐さんはハイエースのドアの横にジェットボイルを置いて湯を沸かし、コロンビア・コーヒーをドリップしてくれた。車の窓を全開にして運転席と助手席に並んでコーヒーを飲んだ。

――美味しい! 

 僕がコーヒーを好きになったのは大学に入ってからだった。友達が、どのコンビニのコーヒーが美味しいかと議論しているのを聞いてコーヒーの味というものに興味を持った。僕はファミマのコーヒーが一番口にあうが、最近はローソンのカフェラテも好きになった。コーヒー豆を買ってきて自分のアパートの部屋でコーヒーを淹れる友達もいるが、僕にはそこまで面倒なことをするつもりはなかった。遥姐さんがドリップしたコーヒーは、大自然の空気の香りが溢れていて本当に美味しいと思った。

「ここで十日間も居たら、きっと人間が変わっちゃいますよね。コーヒーをすすると大自然がスーッと口から入って来て、僕の身体がコーヒーと一緒に大自然の中に溶け込むような気がする……」

「そうなんだよ。夜になると満天の星空がすぐそこまで迫って来て、星屑がスーッと体の中に入って来るんだ。そして自分の身体がバラバラになって星屑と混ざる気がする。性別に煩わされるのがとてもちっぽけなことに思えてくるんだ」

「星屑ってどんなイメージで仰ってるんですか?」

「夜にならないと説明は難しいな。星と星の間を埋める白い雲のようなものだ。実際にはこの銀河系の円盤方向に存在する無数の星々が星雲のように見えるだけだが、空気のきれいな高地で夜空を見上げると、すぐ近くに見えるんだ。ここほどじゃないが研修所でも見える」

「うわぁ、楽しみですね」

 とてもいい旅に連れて来てもらった。有田に誘われて秋津公園のオカマを見に行って良かった。有田がドタキャンしたおかげで一人で来られてラッキーだった……。

「そろそろ出発するよ」

 遥姐さんは目的地として研修所がセットされていることをカーナビで再確認してハイエースを発車した。到着予定時刻は午後四時と表示されていた。羽鳥湖に沿って北上し県道に入ってしばらく走った後で林道を右折した。

 舗装されていない道路を数分走り、木立の中へと右折すると、古い小学校の校舎のような木造の平屋と、二階建てのコンクリート造りの旅館のような建物がある開けた場所に到着した。遥姐さんは、二つの建物の間に停車した。


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