草食男子:美しすぎる上司たち
【内容紹介】男性がOLにされてしまうTS小説。主人公が勤務する会社でWork Life Balanceを推進するWLB委員会が斬新な新企画を提案した。女性が男性と同様に活躍できる環境にするには「男性が女性と同様に生活を重視できる環境」を作るのが近道であるというのがその理念だった。新企画「草食男子育成計画」とは?第一章 プロポーズ
五時半になって会社から帰ろうとしていたら、美和から「ちょっと話があるから来て」と大きな声で言われた。
課長や先輩たちの視線が僕に集まる。
美和が苦虫を嚙みつぶしたような表情をしていたので心配になった。僕は何か美和を傷つけるようなことを言っただろうか? もしかしたら、別れ話ではないだろうか! もしそうなら、どうしてわざわざ皆の見ている前で僕を会議室に連れていくのだろう……。
戦々恐々として美和について行く。小会議室の六人掛けのテーブルの真ん中に向かい合って座る。
美和は真剣な面持ちで僕に命令口調で言った。
「左手を出しなさい」
「は、はい」
同期入社なのに、つい敬語で答えてしまい、左手をテーブルの上に置いた。
「目を閉じて十からカウントダウンして」
「英語で?」
「そうよ、さあ、早く」
Ten, nine, eight, seven, six, five, four, three...
その時、美和に左手を乱暴につかまれて、僕の薬指に無理やり金属製のリングをはめられた。
「目を開けなさい」
キラキラとしたダイヤモンドがついたプラチナの指輪が僕の薬指に輝いていた。
「必ず幸せにするから、私についてきて欲しい」
「こ、これってもしかして……」
「そう、プロポーズよ」
「でも、まだそんな……」
「私のことが好きだったんじゃないの?」
「好きだ! というより、心から尊敬してる」
「やったー! 思い切ってプロポーズしてよかったわ。昼休みに宝石店に取りに行ってきたんだけど、もし断られたらどうしようかと思っていじいじしているうちに夕方になってしまったの」
「どうして僕なんかに……」
と言いかけた時にドアが乱暴にノックされた。
「本田、ロンドンとのテレビ会議が始るぞ!」
「はい、すぐ行きます」
と言って美和が立ち上がり、僕の手を握って言った。
「プロポーズをOKしてくれてありがとう。今日はバタバタしてるけど、明日の夜は空けといて」
と言い残し、美和は僕を残して出て行った。
僕はまだ返事をしていないのに美和は勝手にイエスと解釈してしまった。まあいいか、僕も美和と結婚したいと思っていたし、美和の方からプロポーズしてくれて助かった。本来は僕が指輪を買って美和に差し出すのが筋だが、貯金もないし、僕の方から言い出す勇気もなかった。
待てよ、僕がこのダイヤのリングをつけるのは不自然じゃないだろうか。これは女性用のリングだ。会社の人たちに見られたら、オトコ女とか言われないだろうか? いや、オンナ男だったっけ? 指輪を外そうとするが関節に引っかかって抜けない。サイズが小さすぎる。
その時、会議室のドアが開いて、隣の課の下条美紀が入って来た。続いてうちの課の一般職の須賀純子、ロンドンとテレビ会議をしているはずの都築課長も入って来る。そして更に、女性社員が何人も入って来る。
全員が右手にダイヤのリングを持って、
「寺川君、左手を出して」
と口々に言いながら僕に迫って来た。
ウワァーッ!
僕は床に押し倒されながら悲鳴を上げた。
***
ベッドの上で目が覚めた。パジャマの衿がびっしょりと塗れるほどの汗だった。
夢だったのか……。
会社で急にモテるようになって、最初は我が世にもついに春が来たと喜んでいた。中学二年の修学旅行以来モテ期というものが無かった僕は、女性からチヤホヤされることに憧れていたが、実際にモテ男になってみると、心地よい状況とはとても言えなかった。
モテすぎるのはもうコリゴリだ!
第二章 草食男子育成計画
僕の名前は寺川瑠衣、赤坂に本社がある商社の電子材料部、略称EM部に所属する二年目社員だ。
電通社員の自殺事件が大きく取り上げられて社会問題になってから数ヶ月後、うちの会社で「WLB委員会」が立ち上がった。WLBとはWork Life Balanceの頭文字だ。その名前の通り、仕事と生活のバランスを改善するための社内組織で、人事部の皆川由紀子というやり手の課長が委員長となり、僕の課の都築課長を含む、様々な部門の課長や主任クラスがメンバーとして指名された。
WLB委員会のモットーが社内掲示板で発表されたのを見て、心の中で応援の拍手をした社員は少なくなかったはずだ。
「社員一人一人がやりがいと充実感を持って働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できることを目指します」
要するに仕事はちゃんと頑張るが、充実した私生活を送れるよう、会社が配慮しますという意味であり、残業に追われてヘトヘトになっていた僕たちにとっては、最も歓迎すべきことだった。
しかし、具体的にどのような手段でWLBを改善するかは決まっておらず、これからメンバーが知恵を出し合おうという段階のようだから楽観はできない。サービス残業の撤廃については僕が入社する二、三年前に社長から明確な方針が出て改革が断行されたそうだ。少なくとも僕自身が勤務管理簿にインプットする出退勤時刻について上司から文句をつけられたことは一度もなく、残業手当は時間通り支給されている。また、長時間労働の削減策として、僕が入社した直後に午後十時消灯とノー残業デーが始まっていた。
僕が置かれている状況は、ネットで話題になるブラック企業の従業員とは比較にならないほど恵まれているのは間違いない。仕事もそこそこやりがいがあるから、僕は文句を言える立場にはないのかもしれないが、これで十分だとは思っていなかった。
こんな生活に慣れっこになり、働き過ぎることには不感症ぎみだが、仕事だけの人生を送ることには抵抗がある。順調にいけば、僕もそのうちに結婚して、子供が出来てという「日本人男性として当たり前の人生」を送ることになるだろう。僕は家族のため、会社のため、社会のために、働き蜂として一生を送るのだ。勿論、週末には僕自身が楽しむための時間も多少はあるだろうが、基本的に組織の歯車としての働きづめの人生が僕を待っている……。
僕の所属する課のトップは都築玲奈という女性課長だ。大学時代の友達と飲んだ時に自分の課長が女性だと言ったところ「女性課長なら残業が少なくていいな」と羨ましがられた。しかし、それは都築課長には当てはまらなかった。
都築は京都大学卒で、二度の海外勤務を経験した後、同期最年少の三十五才で課長になったエリートだが、三十七才になった今も独身だ。自分が陰で「スカートをはいた仕事の鬼」と呼ばれていると聞きつけた都築は、それ以来何かにつけて「私はスカートをはいた鬼だから」と言って笑いを取ろうとする。
都築は自ら手を上げてWLB委員会のメンバーになったとのことで、課内会議や飲み会の席でWLB委員会での議論について話してくれた。自然な流れとして僕たちはWLBに興味と期待を抱くようになった。都築によると、都築自身はWork Life Balanceというより入社以来Work Work Workが当然だと考え、そんな自分にプライドを持って生きてきたが、最近「これでいいのだろうか」という疑問が心をよぎり、自分自身を見つめなおす機会としてWLB委員に手を上げたとのことだった。仕事に対する情熱と喜びは大きくなる一方だが、例えば十年後に仕事に挫折するとか、二十数年後に引退した時点で、結婚と出産を経験せずに仕事だけの人生を送って来た自分に絶望するのではないかと心配になったそうだ。
都築の口からそんなに弱気な発言を聞くのは初めてだった。きっと都築はどんなトラブルがあっても挫折せずに乗り越えることができるだろうし、二十数年後に同期の人たちが退職していても都築は役員として幅を利かしているだろうと思う。でも、独身を通せばいつかは孤独な自分を虚しいと感じる日が来るのかもしれない。
都築は結婚できないような外観の女性ではない。長身でスタイル抜群だし、美人ではないが整った顔をしていると僕は思う。「若い時にはひどいブスだったが、海外駐在から帰ったらマシになっていた。海外で整形手術をしたのだろう」という冗談とも悪意ともつかない話を隣の課の課長から酒席で聞いた。それは性質の悪い作り話だと僕は思った。豊富な国際経験、教養や知性が積み重なって、今の都築課長の顔になったのだ。
きっと、同年齢層や少し上の年齢の社員にとって、都築課長は自分たちを脅かす存在であり、警戒や嫉妬を覚えるから、若い時にはブスだったのが少しマシになったなどと言われるのだろう。
課のナンバー・ツーは三十五才の笹川主任で「足で稼げ」が口癖の現場主義の小太りのオジサンだ。三十五才をオジサンと呼ぶのは気の毒かもしれないが、笹川主任は僕の父親の世代のような精神論者で、話を聞いていると都築課長より一回り上の年代ではないかと感じることがある。しかし笹川主任は何かにつけて都築課長を持ち上げ、課の推進役として機能している。もし笹川主任が隣の課長の下で働いていれば、正反対の発言をするのではないかと思う。飲み会で笹川主任の隣の席に座った時
「うちの課長は賢さがハンパじゃなくて、いつも冴えている。あの人は偉くなるぞ」
と酔った口調で言っていた。要するに出世しそうな人に気に入られたいだけなのかとガッカリしたが、その時は僕も
「頭の良い上司の下で働けるというのは幸せですよね」
と適当に話を合わせておいた。
笹川主任の下に二十七才の幾田洋史という五年目社員、その一期下に大久保桂吾という先輩、そして二年目社員の本田美和と僕がいる。短大卒で五年目の一般職の須賀純子を含めると七人からなるチームだ。
WLB委員会設立と同時に、休暇取得の促進策、個人別WLB目標シートの作成と管理、「労働時間に対する感度が高い職場風土の醸成策」などの項目を含む案がWLB委員会の提案として発表され、その翌週の役員会で承認された。
WLB委員会から第二弾の提案が発表されたのはその二週間後の六月十九日だった。第二弾の提案内容は、冗談ではないかと思ったほど具体的で斬新なものだった。
「『女性が男性と同様に仕事で活躍できる環境』、それは現代の日本の課題であり、当社でも産休制度、子育て期の女性の柔軟な勤務制度など、既に業界水準以上に整備されていますが、引き続き推進すべき課題です。
今回WLB委員会が着目したのは『男性が女性と同様に生活を重視できる環境』を整えることが『女性が男性と同様に仕事で活躍できる環境』以上に重要なのではないかということです。ブラック企業で問題となっている、度を超えた長時間労働やサービス残業は、会社トップの方針だけでなく、仕事のために私生活を犠牲にすることを美徳と考える従業員が、不健康な社風を容認しているから起きるのではないでしょうか? 女性はライフサイクルもあってWork Life Balanceが過度にW化することを本能的に避ける体質を身につけていますが、男性の場合は出世欲、同僚を凌駕したいという欲望、闘争本能が強く働きます。『男子はこうあるべきだ』という常識を壊さない限り、本質的な改善は不可能です。
そこで、今回WLB委員会は『草食男子の育成』を提案することにしました。草食男子というと消極的で気力が無い男性と決めつけられがちですが、私たちが育成したいのは『仕事だけにガツガツせず、私生活もほどほどに楽しむ、心に余裕がある男性』です。しかし、当社の男性社員全員が明日から草食男子になってしまうと社業に支障をきたしますので、限定人数のモデル社員を募集し、率先して『草食男子生活』を実践させます。具体的には、まず残業ゼロで定時退社を義務付けます。草食男子の期間は一年間ですが、残業をしないことによる人事考課上の不利は一切なく、B考課、すなわちSABCD五段階の標準の考課点をつけることにします。また残業代がゼロになることによる収入減を一部補てんする意味で、月額五万円に相当する金額を『草食男子インセンティブ』としてボーナス時に加算します。
もう一点、草食男子が異性から軽視されないための対策として『草食男子とのカップリングの優遇制度』を提案します。女性社員にも『男子はこうあるべきだ』という常識が根付いており、草食男子が異性として魅力的に見える状況を作る必要があると考えました。具体的には、期間中に草食男子と結婚した女性に、人事考課での加点を行います。考課がBの場合はAに、Aの場合はSにワンランクアップし、Sの場合はランクアップの権利を次年度にキャリーオーバーできます。さらに賞与が二十パーセント加算されます。
本提案が経営会議で承認された場合、草食男子の募集を実施します。独身男性であることを条件として十名を募集する予定です」
WLB委員会からの提案は人事部から全社員宛に送られたお知らせの中に「草食男子の育成に関するWLB委員会からの提案(詳細はこちらをクリック)」とさりげなく記されていた。忙しい社員ならそんなリンクはクリックしないものだが、草食男子の育成という語句には殆どの社員のクリックを誘うだけのインパクトがあったようだ。
僕はWLB委員会からの提案の内容を読んで、これは本気だろうか、ひょっとしたら組織的規模の冗談かもしれないと、真偽の判断がつきかねていた。
「これ、チョー受ける!」
僕の正面の席に座っている一般職の須賀純子がニコニコして言った。
「草食系男子だけじゃなくて肉食系女子も一緒に募集したらもっと受けるのに」
「これってシャレで書いてるのかな?」
と僕もつぶやく。
「他の部署ならとにかく、人事部が全社員宛のお知らせのメールに冗談を書くはずがないわよ」
と本田美和が正論を言う。
「草食系男子って積極性が無くて受身な男性のことでしょう? そんな男性がはびこったら、うちの会社はお先真っ暗になるんじゃないかしら?」
と、純子は本気で会社の行く末を心配しているようだ。
「男性社員全員を草食系にするんじゃなくて、もともと草食系だった人を十人だけ指名して、男らしさに縛られない会社生活を送らせることによって、社員の価値観を変革するための導火線にしようという発想のように読み取れるけど」
美和の解説を聞いて、純子と僕は「なるほど」と納得した。自分の彼女である美和の頭脳レベルの高さを目の当たりにして、どんなもんだい、と皆に自慢したい気持ちだった。
「さすが本田さんだな。お陰で俺も理解できたよ。オイ、寺川。本田さんにタメ口を叩けるのも今のうちだけだぞ」
と、僕たち三人の会話を聞いていた幾田洋史に言われた。やはり、美和と僕の関係を知らない人には同期のライバル同士に見えるようだ。
その日の昼休みに都築課長、笹川主任、大久保と僕の四人で会社の近くのカツ丼屋に行った。
「課長、例の草食男子とかいう話、実際に応募するやつは出て来るんでしょうか?」
と笹川主任が課長に聞いた。
「どうして?」
「実施期間中の考課は標準でも、業務経験の時間や熱意が大幅に低下した状態が一年間も続くわけですよ。そんな男は使い物にならなくなるんじゃないですか?」
「定時退社厳守によって仕事のやり方に抜本的な効率化が必要になる。一年間その効率化に取り組むチャンスを与えられた社員は、その後も業務効率化をリードできる人材になる。それから、笹川君の言う『熱意』は『男性はこうあるべきだ』という価値観そのものなんじゃないかな? その『こうあるべきだ』にはそぐわない男子社員をあえて容認する状況を作り出すことによって、旧来の価値観の変革の呼び水にしようというのが今回のWLB委員会の提案の趣旨なのよ」
「会社の利益のために全力で戦うという価値観を崩すべきだという発想は、私には理解できません」
「笹川君が賛成しないことは分っていたわ。だからこそやってみる価値があるのよ」
「まるで、遊びじゃないですか。そんなんじゃ競合企業と戦えません!」
笹川主任は顔を赤くして怒っているが、都築課長はどこ吹く風で平然としている。それは見慣れた光景だった。笹川主任は自分の常識を覆されるのが大嫌いで、都築課長は人の常識を覆すのが大好きだからこうなるのだ。不思議なことに一時間もすれば笹川主任は怒りを忘れてしまうので、二人の間には何のわだかまりも残らない。二人ともB型なのと、それ以上に都築課長の賢さや冴えに笹川主任が敬服していることがベースにあると思う。
「寺川、お前、応募しようと思ってるんじゃないのか?」
突然大久保に言われて、僕は頭をブルブルと横に振った。興味はあるが、実際に自分が応募するのはリスクが大きすぎると感じていた。
「そりゃあ、毎日五時半に帰れて、残業代相当額がボーナスに加算されるというのは魅力ですけど、課の人たちに迷惑がかかることだし……」
「寺川の場合、ただでさえ同期の本田さんに負けているのに、こんなのに応募したら一年後には本田さんとの差が決定的なまでに広がるぞ」
「大久保君、ちょっと待って。寺川君が本田さんに負けることが、どうしていけないの?」
「そりゃあ、同期の女性の下になるのは嫌でしょう」
「私は同期の男性より早く課長になったわよ。それを嫌だと思う男性と、快く事実を受け入れる男性に二分化されていたと思う。女性に負けるのが耐えられないというのはおかしいんじゃない? 寺川君は背伸びしてまで本田さんに勝ちたいとは思ってないと思うわよ。ねえ、寺川君?」
「えっ? は、はい……」
それはその通りなのだが、上司からそこまでハッキリと言われるのは辛い。
「異性をガツガツと求めず、異性を支配する必要も感じることなく、異性と肩を並べて自分のペースで優しく草を食べる。それが草食系のオスのイメージよ」
「じゃあ、課長は寺川が応募してもいいと思ってるんですか?」
「勿論よ。寺川君は優しいし、仕事では積極的な面もあるけど、私生活は受身で女の子に声もかけられない。草食男子に応募して受身宣言したら、受身な男性でも良いと思ってる女性から沢山声が掛かって彼女もできるんじゃないかな」
「課長、僕は私生活で受身なんかじゃないですよ! さっきの、異性と肩を並べて草をはむ、という表現はしっくり来ましたけど」
僕が美和と付き合っていることを知ったら、僕に対する課長の見方も変わるはずだ。
昼食時の話はそれで終わったが、僕が応募することを課長が容認、というか期待している一方、笹川主任と大久保は否定的、というよりはとんでもないと考えていることがうかがわれた。
うちの課は都築課長がWLB委員なので提案の真意がすんなりと理解できたが、部内の他の課では混乱が生じているようだった。
「あれはダメ社員をあぶりだす目的で人事部が仕組んだ陰謀だと課長が言っていた」
と隣の課の小島がトイレで会った時に僕にささやいた。
小島は昨年の秋に人事部から異動してきた三年目社員で、背は高いが仕草が女っぽいので陰ではオカマと呼ばれているが、僕と不思議にウマが合う。ネチネチしていて見るからに女性的なので、課長から草食系と思われて応募を自粛するよう釘を刺されたに違いない。しかし、小島を草食男子と思うのは小島を理解していない証拠だ。僕は、小島を肉食女子もどきのオネエに分類するのが適切だと思っている。
社内で雑談していると決まって草食男子のことが話題になる。会社からもっと早く帰りたいと思っている人が大半のようだが、毎日五時半きっかりに帰るのには抵抗があるという意見が大勢を占めていた。それよりも、一年間も「草食状態」に置かれると仕事面で取り残されて出世のマイナスになるという懸念を抱く人が大半なので、応募しようという男性は少なくとも僕の周囲には誰も居ないようだった。
女性社員はどう思っているのかが気になった。純子から聞いた話だと、一般職の友達の間では、草食男子に応募するような男性は出世の見込みがないからパスだ、という人が三分の二ぐらい、優しくてガリガリしない男性と一緒に心と時間に余裕のある生活を送れるなら、特に出世しなくても給料はそこそこでいいという友達が残り三分の一ぐらいだとのことだった。パス派が大半だろうと思っていたので、純子の話は意外だった。
次の日の昼休みに隣の課の下条美紀が同期の総合職の女性と会議スペースでお茶を飲みながら草食男子について雑談しているのが聞えた。下条美紀は幾田と同期の五年目の総合職で、オカマの小島の上司だ。
「もし草食男子と結婚したら私たちの考課がワンランクアップするというのは魅力よね」
「そうなのよ。私たちの年齢だと、昇格のタイミングに関わる可能性があるからワンランクアップというのは大きいわ」
「二十五万円のボーナスをあなたにあげるといって、彼氏に応募させるという手もあるわよ」
「ダメダメ。応募時点で結婚を前提に付き合っている彼女がいないという誓約書を出さなきゃならないんだから。それに、結婚後に夫の出世が遅れるのはイヤでしょ」
「若い男性をそそのかして応募させて、結婚して考課アップになった後で捨てるというのはどう? 美紀のところにいかにも草食っぽい子がいるじゃない。小島君と言ったかしら」
「そんなミエミエなことをしたら評判を落とすわよ。それに、生理的に合わない子を彼氏にして、考課アップのために夫にするなんて考えられない」
「冗談に決まってるじゃない。美紀ったら本気にするんだから」
そんな話を立ち聞きした僕は、男子社員を餌食にするという発想が出ること自体、総合職の女性は怖いなと思った。もし、美和が僕に応募を勧めたとしたら、自分のキャリアのために僕を犠牲にしようという意識がないかどうか、慎重に見極めなければならない……。
美和から話を聞きたかったがなかなか都合が合わず、話をすることができたのは金曜の夜だった。僕たちはひと駅離れたところにあるワインレストランで午後八時に待ち合わせた。雰囲気が良いわりに安いし、社内の人に見られる可能性が小さいので、僕たちの行きつけの店になっていた。
「草食男子の件、美和はどう思う? 都築課長は僕が応募することを期待してるみたいなんだ」
「瑠衣はどう思ってるの?」
「笹川主任や幾田さん、大久保さんを見ていると、あんなハイテンションの人生をずっと送るのはイヤだなと思うことがある。僕は美和が偉くなって自分は課長どまりでも気にしないよ」
「課長どまり? 甘いわね。せいぜい二人に一人しか課長にはなれないのよ。まあ、瑠衣のそんな甘さは嫌いじゃないんだけど。応募するのはやめときなさい。草食男子を育成することが長時間労働や生活重視意識の改善のための起爆剤になって、長期的な会社の利益になるというWLB委員会の発想は正しいと思うわ。でも、本人のキャリアにとっては明らかにマイナスになる。昇進が確実に一年遅れると思った方がいいし、下手をするとその余韻が何年間も長引く可能性も大きいわ」
「やっぱり……。美和はそう言うだろうと思っていたけど」
「それよりも、私は今まで通りに残業して、瑠衣だけが毎日五時半に会社を出ることになったらどうするの? 今日みたいにして会うのが難しくなるわ。それどころか、瑠衣が暇になって須賀さんとか一般職の女性から毎日誘われるようになったらどうするの? 私は許さないわよ」
「分かったよ、応募はしないよ。だから怒らないで」
「ゴメン。忙しい日が続いたから気が立っていて……。私こそ草食女子育成計画に応募する必要があるかな? アハハハ」
美和にきっぱりと反対されて吹っ切れた。また、僕を踏み台にして考課をワンランク上げようなどと姑息なことを考えている気配は全く感じられなかったのでほっとした。
第三章 正式発表
WLB委員会の提案が出てから二週間後の七月三日月曜日、草食男子の募集要項が人事部掲示板に正式に発表された。
「草食男子・募集要項
- 募集人数:男子五名
- 期間:一年間
- 申込期限:七月十日
- 勤務条件:残業ゼロで定時退社。
- 人事考課:期間中は標準考課とし、その後も不利な扱いはしない
- インセンティブ
二.期間中に草食男子と結婚した女性社員の考課をワンランクアップ(二半期分)及び二十五万円の祝金を支給
- 応募申込書に所属部門の部長と課長の承諾印が必要
- 応募時点で結婚を前提として付き合っている女性が存在しない旨の宣誓書を添付
- 応募者が五名に達しない場合はWLB委員会が候補者を選定し、上司経由で応募を要請する場合があります
詳細については人事部規定集の『草食男子育成計画に関する規定』を参照の事」
その日の夕方、課内会議の席で都築課長から説明があった。
WLB委員会が提案を発表した時と若干異なるのは、募集人数が半分に減っていることと、期間中に結婚した女性社員に出る祝金が微妙に減額されているということだった。後で都築課長から聞いた話だと、月額五万円のインセンティブを十人に払うと一年分で六百万円のコストがかかるし、結婚相手の女性社員のボーナスを二十パーセントアップするには、例えば都築課長だと五十万円以上になるので、経営会議で削られたとのことだった。
僕は草食男子の結婚相手としては二十代の女子社員をイメージしていたが、都築課長が自分を例に挙げたのが可笑しくて、ぷっと吹き出してしまった。
「何がおかしいのよ」
と都築課長ににらまれた。
「経営会議のメンバーはケチだなあと思って可笑しくなりました」
と、僕は咄嗟に言い逃れをした。
「そうなのよ、本当にケチだわ」
と都築課長が言ったのでほっと胸を撫で下ろした。
「で、応募の締め切りは今週金曜日ということになっているけど、応募用紙には課長印と部長印が必要だから、金曜日の午後四時ごろまでには提出してね」
と課長は僕の方を向いて言った。
僕は返事せずに黙っていた。応募しないことにしたと今言えば、何故応募しないのかと問い詰められるのが確実だ。「僕の彼女が反対している」と言えば仕方ないと納得するかもしれないが、都築課長のことだから「彼女のいいなりでいいのか」とか、突っ込まれるのが目に見えている。僕はまだそれほどの関係の彼女が居ることを知られたくないし、相手が美和だということは当分秘密にしておきたかった。
発表の翌日も、草食男子の話はさっぱり盛り上がらなかった。元々インパクトが非常に強い話だったので、当初WLB委員会の提案内容が発表された時に話題にし尽くされた感があった。候補となりそうな男子社員の場合、僕と同じように「応募すべきか否か」について悩んだり周囲の意見を聞いたりして、既に結論を出してしまっていたから、今更話題にする必要も無かったのではないかと思う。
僕は誰の目からも候補者だと思われているようだった。
「寺川君、どうするの?」
と何人もの人から聞かれたが
「いや、まあ、多分……」
と応募する気があるような無いような感じでお茶を濁しておいた。恐らく課長は僕が応募期限ぎりぎりに提出すると想定しており、課長の説得を避けるためにはそれが最善の策だった。
水曜日になって、二人が草食男子に応募したらしいという噂を純子から聞いた。二人とも五十代の男性とのことだった。純子ルートの話ということは人事部の一般職から友達筋に洩れた情報である可能性が高い。
五十代の独身男性ということは、第一線を退いた人とか、出世への意欲をとっくの昔に失った人が、「もう残業はしませんよ」と宣言するようなものだ。そんな人に定刻退社のお墨付きを与え、月五万円を支給するのは無駄だし、WLB委員会が意図する「男性らしさの固定観念を打破する起爆材」にはならないはずだ。
WLB委員会が意欲的な提案としてぶち上げたが、あんな突飛な内容では実現する可能性があるはずがないという意見が支配的になった。都築課長が不在だった時に笹川主任が
「二十代・三十代から自発的な応募者が出るか出ないか、昼めし一回分の賭けをしないか?」
と課員に持ちかけたが、
「応募者が出る」
方に賭ける人がいなかったので賭けは成立しなかった。
金曜日の朝一番で、笹川主任の予想が裏切られた。隣の課の小島が応募用紙を課長に差し出して
「ハンコをお願いします」
と申し出たからだ。隣の課長は苦々しい表情で
「本気なのか? どうなっても知らないぞ」
と言ってから応募用紙に捺印し、浅山部長のところに持って行った。
浅山部長は応募用紙を笑顔で受け取って捺印した。
「うちの部から応募者が一人も出ないのではWLB委員の都築課長のメンツにかかわるから、小島君が応募してくれてよかったよ」
と僕の席にまで聞こえる声で言って「小島君」と呼んで応募用紙を手渡した。
小島は
「ありがとうございます」
と言って、オカマっぽい手つきで応募用紙を受け取り、
「人事部に出しに行ってきます」
と課長に言ってスキップぎみに出て行った。
都築課長が会議で席を外した時に美和が僕に小声で言った。
「これで一件落着ね。うちの部から誰も応募者が出なかったら、都築課長はきっと寺川君を強引に指名していたでしょうから、助かったわね」
「マジ!?」
「応募者が五名に達しない場合はWLB委員会が候補者を選定し、上司経由で応募を要請すると書いてあったでしょう? その場合、実際にはWLB委員が一人ずつ指名することになるわ。都築課長が寺川君を応募させるつもりなのはミエミエだったもの」
「知らなかった……」
「まだ安心できないわよ。都築課長のことだから自分の部から二人の応募者を出すことでWLB委員会の中で主導的な立場を確保しようと考えるかもしれない。だから、応募が完全に締め切られるまでは出来るだけ都築課長に近づかない方がいいわ」
「分かった。気をつける」
都築課長が会議を終えて席に戻ったが、視線を合わせないように気をつけた。昼休みは、他の部の友達と約束があることにして、都築課長と一緒に昼食に行くのを回避した。午後二時から会計部との会議があり、午後三時半に終わったが、席に戻らずに担当者と打ち合わせをした。都築課長は午後四時から五時半まで会議予定が入っていたので顔を合わせずに済んだ。
僕は五時過ぎに笹川主任に
「すみませんが、今日は私用で約束があるので五時半丁度に退社します」
と言っておいた。
「まあ、たまにはいいだろう」
と笹川主任が言ったのでほっとした。
幸い、五時半に終業のメロディーが流れた時、まだ都築課長は席に戻っていなかった。僕は「失礼します」と小声で言って部屋から走り出た。エレベーターで都築課長と鉢合わせないように、階段で一階まで下りて会社を出ることが出来た。
よかった、これで草食男子に応募させられずに済んだ。この週末は解放された気分で過ごせる。
***
七月十日の月曜日、僕はいつもより早めに出社した。金曜日に定時に退社したことに後ろめたさが残っていて、それをリカバーする意欲を課長に見せたかったからだ。しかし、課長は早朝から会議に入ったらしく席には居なかった。
九時に始業のメロディーが流れてしばらくしてから、僕に内線で電話があった。受話器を取ると浅山部長だった。
「寺川君、すぐに第二会議室に来てくれ」
と言われて、立ち上がった。課長を飛ばして部長から会議室に呼ばれたことはこれまでに一度もなかった。何か悪いことではないかと心配になった。
第二会議室のドアを開けると、浅山部長、都築課長と人事部の皆川由紀子課長が座っていた。
「寺川君、そこに座ってくれ」
と部長の対面の席を指さされた。
「他でもない、草食男子プロジェクトの件だが、WLB委員会から寺川君を是非とも指名したいという話があった。今、都築課長とも相談の上、WLB委員会の要請を了承したところだ」
「でも、あれは金曜日で締め切られたはずでは……」
「だから応募申込書は金曜日の日付にしてある」
「希望者が応募するという制度じゃなかったんでしょうか?」
と部長が怒るのを覚悟で反論した。
浅山部長ではなく都築課長が答えた。
「寺川君、私はこのプロジェクトの発案者の一人だけど、寺川君を念頭に置いてアイデアを練ったのよ。定時退社によって仕事の効率化のノウハウを編み出して、全社の業務効率化をリードして欲しい。『サラリーマンはどうあるべきだ』とか『男性はどうあるべきだ』とか、古典的な価値観に縛られない自由な発想と素直な心の持ち主にこそ応募して欲しかった。部長も、皆川課長も寺川君に白羽の矢を立てたいと仰っている。私が万全のサポートをするから、胸を張って応募して欲しい」
「尊敬する都築課長にそこまで言われて断るようでは男じゃありません。分かりました、お任せください」
と、僕はヒーローになった気分で応募申込書にサインした。
「じゃあ席に戻っていいわよ」
と都築に言われて会議室を出た。
僕は意気揚々と席に戻り、笹川主任に報告した。
「今、草食男子の応募書類にサインしてきました。部長、課長と人事部の総意で白羽の矢を立てられたみたいで、男として『ノー』とは言えなかったもので」
「部長までWLBコンビに説き伏せられてしまったのか、じゃあやむを得ないな。ご愁傷さま」
笹川主任から、おめでとうではなくご愁傷さまと言われてしまった。
「いや、部長がそう仰ったんですよ」
「まあいい、というか、もう遅い」
ムシャクシャしていたら、美和に言われた。
「ドンマイ! 寺川君ならそんな生き方もアリだと思うわ」
「定時に帰れるようになるのね。じゃあ、今度、ケーキでも食べに行こうか」
と純子に言われた。僕は「うん」と答えたが、怖くて美和の方を見られなかった。
***
その日の午後に草食男子の認定者五名が人事部の掲示板に発表された。僕と小島の他に認定されたのは他の部門の入社一年目から三年目の若手三人だった。先週、純子から五十代の社員が二名応募したと聞いていたが、ガセネタだったか、またはWLB委員会が制度の趣旨に合わないという理由で落選させたのだろう。
部長が「皆、ちょっと聞いてくれ」と部全体に通る声で言った。僕たちは立ち上がり、部長席から数歩離れて部長の話を聞いた。
「人事部の掲示板を見て知っていると思うが、小島君と寺川君がWork Life Balance Committeeの提案に基づき草食男子として認定された。即日実施、期間は一年間だ。小島君と寺川君は今日から残業は一切禁止する。これに伴う業務内容の調整等については所属課の課長の指示に従ってくれ。所属課の課長は、運営上不明な点は人事課及びWLB委員長の指示に従ってください。と言っても、人事課長がWLB委員長を兼任しているんだけどね、アッハッハ。以上だ」
よし、これで今日から大手を振って定時に退社できる。とりあえず映画でも見に行こうかな。
席に戻ると都築課長から小島と僕に声がかかった。
「二人とも、今日の夕方は空いてる? 広瀬すずの映画でも見に行こうと計画していたんじゃないわよね?」
僕は心の中を見透かされてドキッとした。
「いえ、話題の新作は九月九日にならないと封切されませんから」
と言い訳をしてしまった。
「ふふふ、やっぱりね。実は今日五時半からWLB委員と草食男子のキックオフミーティングをしないかと声がかかったの。OKと返事していいわね?」
「ハイ」
と小島が不自然に高い声で返事をした。
「都合はつきますけど、五時半から会議だなんて、WLBの趣旨に反していません?」
と映画に行きたい気持ちを見透かされて気を悪くしていた僕は敢えて質問した。
「キックオフミーティングというのは表向き。君たち若い男の子を飲みに誘うための言い訳と思っていいわ。どう? 余裕のあるライフスタイルの定着を目指すWLB委員会らしいアイデアだと思わない?」
「おごってもらえるってことですか?」
「寺川君がそんなにみみっちいとは思わなかったけど、勿論そうなるでしょうね。でも、払ってもらうってことは、それなりの『借り』ができるってことよ」
「割り勘で結構です。とにかくキックオフの飲み会に参加することはOKです」
「じゃあ、五時三十五分に一階の受付のところに集合ね」
第四章 オリエンテーション
五時半に終業のメロディーが流れ、僕は一般職の須賀純子と同時に席を立った。
「皆さん、お先に失礼します」
と課の先輩たちに言うと、美和が「あ、お疲れ」と返してくれたが、笹川主任、幾田と大久保は僕を無視して、あるいは僕に声には気づかずにパソコンに向かっていた。今日は課長も一緒なので後ろめたい気持ちはなかった。
受付に行くと、人事部の新入社員、経営企画部の同期の岩本、会計部で小島の同期の三年目社員が既に来ていた。ちょっと気恥ずかしかったがお互いに「よろしくお願いします」と名前を言い合った。
人事部の新入社員の桐谷隆志は名前の通りきりっとした顔で小島の次に背の高いイケメン男子だ。物腰が柔らかそうな感じだが、相当モテそうなタイプだ。
経営企画部の同期の岩本登志は色白で繊細な、いかにも草食男子ですという感じの小造りな男性だ。といっても僕よりは背が高くて百六十六センチ程度だろうか。入社した時の新入社員名簿には「イワモト・トシ」と振り仮名が書かれていて、女みたいな名前だから女みたいな雰囲気に育ったのかなと思ったが、岩本は名前を聞かれると「イワモト・トウシ」と言っている。給与明細の表書きには名前がカタカナで書かれているから、トウシではなくトシであることはすぐにバレるのに、と思った。
会計部の鈴木昭三は平均的な身長だがスレンダーで女性がうらやむようなスタイルのヤサオトコだ。柔らかい無精ひげが特徴の顔には男っぽさが漂っていて、オカマの小島とは正反対の雰囲気だった。
数分すると都築課長、人事部の皆川課長、会計部の園田主任、経営企画部の辻村主任、法務部の行田課長が相前後してエレベーターから降りてきた。
僕たちが連れていかれたのは地下鉄の駅を過ぎたところにあるイタリアンバーだった。最大で十五人ほどが収容できそうな広めの個室に通された。
「WLB委員会を立ち上げようという話が出た時から、私たち五人で、このイタリアンバーを使っていたの。会社から見て地下鉄の駅の反対側にあって、会社の人と会う可能性が小さいから都合がいいのよ。飲み放題のセットメニューがリーズナブルだし、ハウスワインが結構美味しいの」
と皆川委員長が言った。
赤ワインのカラフェが五つも届いたので、お酒の弱い僕は無理に飲まされて潰されないだろうかと心配になった。お姉さま方がそろって酒飲みであることは間違いなさそうだ。
乾杯をすると、都築が
「委員長、草食男子たちにはなむけの言葉をお願い」
と皆川に言った。
「私の鼻は剥けるほどには高くないけど」
と皆川が言うと、
「ハナが違うだろう!」
と都築が突っ込んだ。皆川と都築の関係の親密さがうかがわれた。
「はなむけの起源は、遠方に旅立つ際に馬の鼻を目的地に向けて道中の無事を祈願したことだそうよ。花を向けると思っている人が多いけど、鼻を向けるでいいのよ。『剥ける』は論外だけど」
と法務の行田課長が解説した。
「よっ、さすが桜蔭・東大・ハーバードの行田真由子さま!」
と都築が合いの手を入れた。
「桜蔭・東大・ハーバードは辻村さんと園田さんよ。私はプリンストンでMBAを取ったから」
と行田がブスっとして反論した。確か皆川は都築の京大の一年先輩と聞いていた。学歴で能力は判断できないが、これは超高学歴集団だ。
IQが高そうな五人の女性がまるで僕の年齢層の男性のようなノリでテンポの良い会話をするのを、ポカンと口を開けて聞いていた。
「じゃあWLB委員会を代表して草食男子君たちにまず心からの歓迎の気持ちを表明します。WLBの設立の大体の趣旨については君たちも理解してくれていると思うけど、草食男子プロジェクトの趣旨は、WLBの理想を実現するために私たちが必要としている男性を育成するということです。
どんな男性を育成したいか、改めて言うわね。それは『仕事だけにガツガツせず、私生活もほどほどに楽しむ、心に余裕のある男性』です。私たちは『女性が男性と対等に戦うために、優しく気配りして支えてくれる』そんな男性を育成したい。そしてそれが草食男子の使命だと思ってほしい。
分かりやすいように言葉を変えて言うわね。女性が男性と同様に仕事で活躍できる環境を作るには、旧来の男性らしさの概念を捨てて、女性全般と同じ様に生活を重視する覚悟のある男性が必要なのよ」
人事部の桐谷隆志が「ハイッ」と手を挙げて質問をした。
「仰ることの感じはつかめましたが、具体的に何をしたらいいかよく分かりません。僕たちは定時退社をして、そのための業務効率化を心掛けることと、早く帰ることで私生活を楽しめばいいと思っていたんですけど、それだけじゃダメなんでしょうか?」
新入社員の分際で自分の課長に、そんな聞き方はないだろう。ストレート過ぎる質問だし、敬意と配慮が感じられない。きっと「甘い!」とか言われて一蹴されるだろうと思った。
「いい質問ね」
と皆川委員長が優しく言ったので僕は驚いた。
「今日のオリエンテーションは、草食男子君たちが具体的に何をすべきかを、ざっくばらんに教えるために設定したのよ。各WLB委員の部署からほぼ一人ずつ草食男子君が選ばれているから、各々の上司からじっくり話を聞いてちょうだい。EM部からは二人だけど、小島君は法務部の行田真由子さまから話を聞きなさい」
「その呼び方、やめてください。小島君、私を真由子さまと呼んだら生きて帰れないわよ」
そこで席替えをして、僕はテーブルの奥の橋の席に都築課長と向き合って座った。
「よろしくお願いします」
「飲み会の席で寺川君と一対一で向かい合うのは初めてね。草食男子プロジェクトが始まったから今後はちょくちょくこんな機会があると思うけど」
「それは光栄です」
「じゃあ、皆川さんの話の続きをしようか。寺川君は定時退社で私生活を楽しむことと、業務効率化を試行錯誤する事の他には、何をするのが草食男子の使命だと思っていた?」
「使命、ですか……。すみません、あのう、心に余裕のある男性社員が増えて、社内の雰囲気が良くなるし、それで働き甲斐のある職場になっていくとか?」
「ううん……。その答えは満点には程遠くて、まあ二十点ぐらいかな。でも寺川君は意識しなくても分かっていると思うから、合格ということにしてあげる」
「すみません。僕にも分かるように教えてください」
「まず、草食男子プロジェクトの最も基本的な考え方をおさらいしましょう。平たく言えば、男性総合職は一般職社員に甘えることによって戦闘環境を確保してきた。今後は、女性総合職が甘えられる相手を作ることで男女対等な戦闘環境を提供する。それが草食男子プロジェクトの基本精神なのよ」
「今仰った理屈だと、僕たちは女性総合職の下につくってことになりません?」
「勿論よ、それが草食男子の使命だもの」
「ええっ、そんなことはどこにも書いてありませんでしたけど」
都築の答えは僕にとって青天の霹靂だった。
「書けないから、口で言っているのよ」
「ちょっと待ってください。僕の場合なら年齢が上の女性総合職は課長だけですけど、まさか、同期の本田さんの下につけという意味じゃないですよね?」
「まさにそういうことなのよ。草食男子に認定されなかったとしても寺川君は本田さんと対等じゃないわ。同期は同期でも本田さんは元々幹部候補生よ。私や本田さんのような女性が、ライバルの男性に一歩も引けを取らないためにこそ、寺川君が必要なのよ」
「採用の時点で幹部候補生が区別されていたとは知りませんでした」
僕はショックを隠せなかった。
「誤解を与えちゃったみたいだけど、そういうことじゃないわ。面接段階で、この学生は将来会社を担う人材だという人が何人か出てくるのよ。人事部の採用のプロや役員が『この人だ』と思う学生は大体共通してる。だから入社時の配属調整会議では役員の間で数人の新入社員を奪い合うことになる。私たちの本部長は力があるから、断トツの人材と目された本田さんを取ることができた。ちょっと自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、私も入社時からそんな感じで扱われてここまで来た。だから、本田さんを大事に育てることを、経験者の私に託されたというわけよ」
「そんなこと、思いもしませんでした。けど、そんなエリートと偶然同じ課に配属させられた僕は、ある意味で悲惨ですよね。同じ総合職でも将来を約束されている本田さんと比較され続けるのでは、一生浮かばれません……」
「それはちょっと違う。偶然なんかじゃないわよ。考えてみなさい。社内で自分たち以外に、同じ年度の新入社員が同じ課に配属されている例を知ってる?」
「確か会計部に同期が四人入りました。そのうち二人は今年の四月に他の部に異動しましたけど」
「会計部は新入社員を育てて、社内の他部門に送り出すインキュベーターの役割を果たしているから話は別よ。会計部以外には居ないでしょう? 寺川君は偶然本田さんと同じ課に配属されたんじゃなくて本田さんの英才教育のために私が選んで引っ張ってきた人材なの」
「都築課長が僕を選んで下さったとは存じませんでした。ありがとうございます。でも、本田さんの英才教育のためというのは不本意なんですけど。本田さんが主役で僕は脇役みたいな響きで……」
「さすが寺川君! 適切な言葉が浮かんだわね。そうなのよ。寺川君は主役をより高く飛翔させるために、主役を陰で支えることができる人材として私が目を付けた名脇役なのよ!」
「やっぱ、脇役なんだ……」
と僕はがっくりと肩を落とした。
「そんな役目に僕を選んだのは、能力的にレベルが低いと思われたからなんですね?」
「まさか、会社の将来を担う人材を支えるのに、レベルの低いクズ社員を私が持って来ると思う? 正反対よ。最もハイレベルな男子社員だから寺川君を取ったんじゃないの」
「マジっすか? 脇役になることを納得させるために、僕にテキトーなことを仰ってるんじゃないんでしょうね?」
「あのねえ、上司にその言い方は無いでしょう? まあいいわ。本田さんと同じ幹部候補女性の立場で、どんなアシスタントが手元に居たらやる気が出るかという観点で寺川君に目を付けたのよ」
「僕はアシスタントなんですか? 笹川主任や、幾田さんや大久保さんが須賀純子をアシスタントとして使うように、本田さんが僕をまるでアシスタントみたいに使うということですか?」
「はっきり言ってその通りよ。いや、私と本田さんが寺川君をアシスタントとして使う、というのが正確かな」
「更にはっきり言えば、草食男子はエリート女性専用の一般職なんですか?」
「違う違う、そうじゃない。寺川君はあくまで本田さんと対等の総合職社員のままよ。対等だけど、優秀な女性のために、身を低くして優しく支える。そうすることに歓びを見出す。それが草食男子よ」
「ふうーっ。よほど優秀で尊敬できる女性が相手じゃないと、ちょっと耐えられなませんよね」
「寺川君は本田さんをどう思ってるの? 普段寺川君を見ていて、本田さんに好意を抱いてるようだなと思っていたんだけど」
「そりゃあ、すごく優秀だという点については憧れています。『尊敬しているかどうか』という目で見たことはありませんでしたけど、そう言われてみると尊敬の気持ちが湧いてくるような……」
「私の事はどう思っているの?」
「勿論、都築課長は僕より全ての点において格段に優れた憧れの存在ですから、心から尊敬していますしどこまででもついていきたいと思っています」
こんな質問をされる時は、またとない自己アピールのチャンスだ。
「うれしい、どこまででもついてきてくれるの! じゃあ何の問題もないじゃない。私と本田さんを下から支える役目を引き受けることは」
「はあ、確かに……」
「まあ、飲みなさい」
と言って都築は僕のグラスに赤ワインを注いだ。
待てよ、これは最初から陰謀だったんじゃないだろうか?という疑念が頭をよぎる。
WLB委員長の皆川由紀子も、都築課長と並ぶエリートだし、他の三人の委員も三十代後半から四十前後で、皆川や都築と似たタイプのバリバリの課長や主任だ。草食男子に認定された五人は、小島を除いて共通点が多い。身長は百六十三センチの僕から百七十七センチの小島まで千差万別だが、総じて骨格が細くて小顔、ギラギラした感じがない素直で優しそうな雰囲気の男性だ。WLB委員が自分がアシスタントにしたい若い男性に目を付けた上で「合法的に」自分の秘書として使うための手段として草食男子プロジェクトをでっち上げたとしたら……。
いや、もっと恐ろしい策略が隠されているかもしれない。期間中に草食男子と結婚したら、考課アップとボーナスがもらえるというのは、自分たちのためのお手盛りではないのか?
ということは都築課長は僕との結婚を狙っている? まさか!
僕は思わず身震いした。
お酒もだんだん回ってきて、自分がいつもより口数が多くなっていることに気づいた。いや、口数が多くなったのはお酒よりも都築課長の話術のせいだったかもしれない。普段会社で都築から褒められた記憶はないが、今夜は僕が取引先の女社長からいかに評判がいいかとか、毎朝僕から明るい声で「おはようございます」と挨拶をされるとトゲトゲしていた気持ちが和らぐとか、言葉に裏表が無いとか、僕が思ってもいなかったことについて何度も褒められた。
褒め言葉の合間に、
「寺川君みたいな感じのいい子は、家族の愛に包まれて育ったんでしょうね。お母さんはどんな方なの?」
などと聞かれると、僕の口は軽くなって何でもかんでもしゃべってしまう。
「寺川君をうちの課に引っ張って来られて私は本当に幸せ者だわ。本田さんを確保した上で、違ったタイプで引っ張りだこの寺川君も同時にうちの課に取るのは不可能に近かったんだけど、浅山部長と本部長を動かして獲得したのよ。これから毎日私の秘書としてそばに置けるなんて夢みたい。あっ、秘書じゃなくてアシスタントだった」
都築は本心では僕を秘書にしたつもりなんだなと思ったが、そこまで手放しで褒められると、言葉尻を捕まえて無粋なことを言うつもりはなかった。
自分の個人的な事を聞かれると、僕も礼儀として都築に家族とか、趣味など、個人的な質問を返すシチュエーションになった。まるで合コンのような会話だなと可笑しくなった。
僕以外の四人もそれぞれが合コンでカップルが成立したかのように会話をしている。
隣の席では経営企画部の辻村主任と同期の岩本が恋人同士のような雰囲気で向かい合っている。辻村は説教魔のようで
「トシ、あんたバカじゃないの?」
とか
「これからはトシじゃなくてドジと呼ぼうか?」
などと、僕なら我慢できない言葉で岩本を説教し続けている。それでも岩本は従順そうな微笑みを浮かべて居心地よさそうだった。僕は自分に目を付けてくれたのが都築で良かったと思った。
法務部の行田課長と小島が上手くやっていけるか少し心配だった。頭脳派のインテリ女性は小島のような気持ちの悪いオネエを毛嫌いするのではないかと思ったからだ。席が離れていて会話の内容は聞こえなかったが、五人の中で最年長で一番小柄な行田は、長身の小島の前にちょこんと座ると年よりずっと若い感じに見えて、小島を上目遣いに見上げていたので驚いた。人間の相性というものは当人同士にしか分からないものだなと思った。
お開きになったときには、全員がかなり酔っていて、僕はフラフラしていた。
イタリアンバーを出て駅に向かって歩きながら、都築に耳元で言われた。
「二人でもう一軒行かない?」
「今日はもういっぱいいっぱいですから帰らせてください」
「あら、どこまででもついてくるんじゃなかったの?」
僕は都築の質問には答えずに控え目に笑顔を返して失礼した。
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