痴漢冤罪
【内容紹介】満員電車で「この人、痴漢です」と言われた主人公の苦悩と苦闘を描いた迫真の長編TS小説。もし自分が痴漢事件に巻き込まれたら? 警察での取扱いや弁護士の起用に関する知識なしに満員電車に乗る男性は武器を持たずに戦場に赴く兵士と同じ。本書を読んで痴漢冤罪事件を疑似体験することをお勧めしたい。、」
第一章 この人、痴漢です!
本格的なフランス料理を食べたのは生まれて初めてだった。
「フレンチ」という名前を掲げるレストランや居酒屋に行ったことはあるし、ブイヤベース、鴨のコンフィとか、いわゆるフランス料理のひと皿なら食べたことがあるが、今日食べたのは本物のフランス料理のコースだった。食前酒のシャンパンを飲みながら「本日の料理」の説明を聞き、前菜から始まってサラダ、スープ、そして魚料理が出る。ああ、美味しかった、と思ったら、ソルベ(シャーベット)で口の中をリセットしてから、肉料理、フルーツが出てくる。ごちそうさまでした、と言いたくなった後でケーキとコーヒー。チョコレートが出てきて、コニャックを飲みながら談笑。それでやっと終わりだった。
さすが、菱丸物産の役員による接待は高級感にあふれていた。専務が慣れた様子でワインリストを見て、長い名前のワインを注文したが、僕たちが飲み会で飲むワインとは味も香りも別格だった。
ホスト側は専務と人事部の課長、接待されたのは今日の役員面接で事実上の内定をもらった大学生四人だった。
三年前、僕たちが大学に入ったばかりの頃には、就活とは困難を極める人生の難関だと聞かされていた。ずっと大学生のままで居られればどんなにいいだろうと思い、就職のことは出来るだけ考えないようにしていた。ところが、去年あたりから就職戦線の雰囲気がガラリと好転し、僕は第一志望クラスの数社から早々と内々定をもらうことができた。父母とも相談した結果、大手商社の菱丸物産を選んだ。その結果、今日の役員面接とディナーに到ったわけだ。
赤坂のレストランを出て専務たちと別れ、千代田線に乗って家路についた。乗客はサラリーマン、OL、大学生が大半で、半数はアルコールが入っている。
いいワインは酔い心地が違う。同じ酔っていても、他の乗客とは別次元の、セレブなアルコールが僕の身体に入っているという優越感を感じながら電車に揺られる。
大手町で東西線に乗り換える。午後九時半なのに満員だ。どこかの駅で人身事故があったために電車が遅れているらしい。来年就職したら毎日満員電車で通勤しなければならない。でも、僕は天下の菱丸物産の社員になるんだ!
東陽町で大勢のサラリーマンが乗り込んできて、僕は反対側のドアに押し付けられた。南砂町で少し乗客が減ったが、満員であることには変わりがない。
僕の左側にノースリーブのワンピースを着たアイメイクのきつい女性が立って、段々身体を寄せてくる。なんだ、この女? 次の駅でドアが開いたら、身体を移動させてこの女から離れねば……。痴漢と間違えられたらたまったものじゃない。彼女の向こう側には人相の悪い二十代前半の男が立っていたが、彼女がその男にチラッと目を向けて、お互いに軽く頷きあったように見えた。怪しい奴らだな、と感じた。
西葛西で停車する直前に、僕は突然左手首をつかまれた。あの女だった。
「この人、痴漢です!」
「ウソだ、僕は何もやっていない。人違いだ!」
「この人が私のお尻を触りました!」
「バカな、あんたはウソを言ってる!」
「シラを切るな! お前がこの女の人のお尻を撫でるところを見ていたぞ!」
そう叫んだのは、さっき彼女が視線を交わしていた人相の悪い男だった。
「電車を降りろ、言い訳は警察でしろ」
僕は二人に手を引っ張られて電車から引きずりおろされた。僕たち三人が降りるとドアは閉まり、満員電車はスーッと走り去った。
「僕は何もしていない。誤解だ」
「言いたいことがあったら警察で言え。もっとも、痴漢は九十九パーセント以上が有罪になるそうだから、お前が前科一犯になるのは確実だ。それがいやならこの女性に土下座して許しを乞うんだな!」
こいつらは確実にグルだ。僕から示談金を取ろうとしているのだ。
僕はスマホを取り出し、インストールしたばかりのアプリをクリックした。最近話題になっている「痴漢冤罪SOS特約付きの保険」を母が申し込んでくれたのが、早速役に立った。痴漢冤罪SOSアイコンをクリックすると気持ちが落ち着いてきた。
「今、弁護士を呼びました。痴漢の冤罪に詳しい弁護士です」
当惑の表情が二人の顔に浮かんだ。二人は顔を見合わせ、逃げようとする気配が感じられた。その時、二人の駅員が駆け寄ってきた。
「どうしました?」
「この人が私のお尻を触りました」
と女性が僕を指さした。
「触る所を目撃しました」
と男が言った。
「僕は何もしていません。これは冤罪です」
「話は駅長室でうかがいましょう、さあ、来なさい」
と言って駅員が僕の右手首をつかみ、もう一方の駅員が左手首をつかんだ。
「今、弁護士を呼んだところです。駅長室には行きません」
僕はきっぱりと言い切った。
保険に加入した時にもらったパンフレットの中に「弁護士が到着するまで現場を離れてはならない、駅長室には行かない事」と書かれていたのを覚えていた。駅長室に行った場合には刑法上の「私人逮捕による現行犯逮捕」が成立し、警官に現行犯逮捕されたのと同じ状況になるとのことだった。つまり、警官に痴漢犯罪の現行犯として逮捕されたものとして拘留され、身柄を送検されることになるので、非常に立場が悪くなる。
「ここでは他の乗客に迷惑だから、駅長室に行って弁護士さんを待ちなさい」
駅員は僕を引きずって行こうとしたが、
「僕はここで弁護士を待ちます。暴力はやめてください! あなたたち、罪に問われますよ!」
と叫んで地面に這いつくばった。
駅員たちは「罪に問われる」という言葉を聞いてひるんだ。
「警官じゃなくても現行犯なら逮捕できるんだぞ」
「私人による現行犯逮捕のつもりですか? 身元が明らかで逃亡の恐れが無い人を力ずくで連行すると刑法二二〇条の逮捕監禁罪に問われますよ」
実は、刑法の何条だったか覚えていなかったが、相手をビビらせるために適当な数字を言った。
「ほら、免許証を見てください。身元を明らかにした上で、弁護士を待つといっている僕に手をかけたら、あなたたち、会社をクビになるだけじゃ済みませんよ!」
二人の駅員は顔を見合わせ、そのうちの一人が僕の免許証の内容をメモし始めた。
もし心配性の母が僕を痴漢冤罪保険に加入させてくれていなければ、僕は駅長室に連行されていただろう。その時にもらったパンフレットを読んでいたお陰で、法律的知識があるかのように装って攻守を逆転することができた。保険料が年間数千円かかると聞いた時には無駄な気がしたが、一生分の保険料を取り返せた気分だった。
その時、季節外れのレインコートを着た白髪まじりの男性が僕たちの方に歩いてきた。六十絡みでテレビドラマに出て来る刑事あがりの雑誌記者のような風貌だった。
「弁護士さん、僕です! 僕が痴漢冤罪の被害者です」
「被害者は私よ!」
「日暮波瑠さんですね。弁護士の金田蜂彦です」
と言って僕に名刺を差し出し、
「まだ逮捕や起訴をされたわけではないので、冤罪の被害者というのは不適切ですな」
と言った。
「す、すみません」
「状況をご説明ください」
「大手町で東西線に乗り換えたのですが、電車が遅れていて車内は満員でした。僕は押し込まれるように電車に乗って、反対側のドアにへばりついて立っていました。僕の右側に立っていたその女性が、身体を寄せてきたので、逃れようとしましたが身動きが取れませんでした。西葛西駅の手前でその女性がそちらの男性と何やら目配せし合っていたので怪しいなと思いました。西葛西駅で停車した時に女性が僕の手首をつかんで『この人は痴漢です』と言いました。すぐにそこの男性が『目撃した』と言って、二人に電車から引きずりおろされたんです。ホームに降りてからその男性から、痴漢で逮捕されたら九十九パーセント有罪だから女性に土下座して和解することを勧めるという主旨のことを言われました」
「日暮さんからそちらの男性、女性、それに駅員さんに対して発言した内容を教えてください」
「僕は何もしていないということと、この場で弁護士さんを待つと言いましたが、力ずくで引っ張って行こうとしたので、免許証を見せて、逮捕監禁罪に問われますよと警告しました」
「完璧です。この場に留まる理由は無いので、場所を変えて打ち合わせしましょう」
「待ってください。警察を呼んだので駅長室で事情聴取を受けてください」
と駅員が食い下がった。
「お断りします。私は弁護士の金田蜂彦です。連絡先はこの名刺に書いてあります」
四人を残して僕たちはエスカレーターへと急ぎ、改札を出てタクシーに乗った。
***
金田弁護士が運転手に告げた雑居ビルにはほんの二、三分で到着した。
「駅から歩いてでも来られそうな場所ですね」
「すぐに警官が来ると駅員が言っていたから早く駅から離れたかったんですよ。間一髪でした」
「身元が明らかで弁護士さんが一緒だから警官が来ても大丈夫じゃなかったんですか?」
「目撃者が一緒でしたからね。心象としてはかなり怪しいんで、警官が逃亡の恐れがあると判断したら逮捕されても不思議じゃない」
「そうだったんですか……。でも、僕は心象として怪しいんですか?」
「飲酒したことが明らかな若いサラリーマン、女好きそうな顔立ちのチャラ男。失礼ですが、そんな印象を受ける人もいるでしょうな」
いくら年上で弁護士だからと言って、クライアントに「女好き、チャラ男」というのは口が過ぎている。でも、状況が状況なのできついことを言うのは思いとどまった。
「ちょっと名誉棄損レベルみたいに聞こえましたけど。ちなみに僕は大学生です。四月からはサラリーマンですが」
「ほう、内定が取れましたか、おめでとうございます」
「菱丸物産です」
と鼻先を上に向けて自慢した。
「それはまずい。痴漢で逮捕されたら内定取消は不可避でしょう」
「冤罪なんですよ! それに逮捕されてませんし」
「まだ現行犯逮捕を免れただけの段階です。今頃警官が被害者と目撃者から事情聴取をしているはずです。明日あなたの家に警官が来て任意同行を求められるでしょうな。調書を取られて、逮捕状が出て身柄を拘束されて送検されるか、ラッキーなら書類送検されることになるでしょう。書類送検すなわち在宅起訴となった場合でも検察庁に出頭させられます。それから裁判になるわけです」
「弁護士さんのお陰で、もう助かったと思っていたのに……」
「現行犯逮捕されていたら三日間は家族にも会えなかったところです。否認を続けた場合、更に二十日間拘留されていたでしょう。痴漢冤罪SOS特約付きの保険をかけたお陰で地獄への直行を回避できたわけです」
「明日、警官が来たらついていくしか無いんでしょうか?」
「警官が来る前に先手を打ちます。出頭する意思を表明しますが、弁護士同席で供述したいと申し入れます」
「じゃあ、同席していただけるのですね?」
「いえ、同席を申し入れても百パーセント断られます。但し、弁護士が警察署内に待機することは許可されます。任意出頭による取調ですから、刑事訴訟法一九八条一項但書により自由に取調室から退去することができます。取り調べ中に、どう答えればよいか分からなくなったら『弁護士と相談したいので少し時間をください』と言ってください。予め、私から取調官にそのような申し出があれば速やかに取り調べを中断して相談の機会を与えるようにと申し入れておきます」
「弁護士さんに一緒に行っていただいても、取調官に変なことを言われた場合の備えにしかならないというわけですか……」
「警察が取り調べする目的は公正な目で真実を調べることだと思っていませんか? 甘い、甘い。痴漢事件の場合、警察は被害者の訴えに基づいてあなたを逮捕、送検することにしか興味がないと思ってください。あなたに容疑を認めさせて身柄を送検し、検察官が略式起訴をして罰金刑にする。それが彼らにとって一番手がかからない最良のパターンです。あなたが否認した場合、容疑を認めさせようと二十三日間、硬軟両様で凄まじい精神的圧力をかけてきます。毎日脅されすかされの繰り返しですから、普通の人はやっていなくても『やりました』と言ってしまいます」
「警察ってそんなにひどいところだったんですか……」
「はい、痴漢事件の無実の被疑者・容疑者にとって、警察とは極悪人の集団だと思ってください。精神的圧力をかけられると、殆どの人は『ミス』を犯すのです。任意出頭の場合でも、一人で行けば逮捕拘留時と同様な状況に置かれかねません。弁護士が待機していると、取調官は不当な圧力をかけたり、不必要に長時間の取り調べができなくなります。非常に大きな違いですよ」
「なるよど、よく分かりました」
「念のためですが、ここからは有料です。保険の特約がカバーしているのは痴漢冤罪SOSに駆けつけて現場で対応するところまでです。厳密に言うと、タクシーに乗って以降のコンサルテーションは有料になります。あなたが支払った弁護士費用のかなりの部分は保険で取り戻せるでしょうが、その点はご自分で保険会社にお問い合わせください」
「弁護士料って高いんですよね……」
「そんなに高くないですよ。この説明書をご覧ください」
「あ、ホントだ、意外にリーズナブルですね。じゃあ、さっき言われた、警察に任意出頭を申し出てその時に同席するところまでは、この場で依頼させてください。そのくらいなら僕の貯金で払えますから。その後どうするかは今日帰って親に相談してからお返事します」
「それでは、事実関係を整理させてください。電車に乗る前に飲酒していたんですね? どの店でどれくらい飲酒して、どの駅で電車に乗りましたか?」
僕はグーグルマップのタイムラインを開いて金田弁護士に見せた。
「ほう、素晴らしい! 今朝家を出てからの移動が分単位で記録されてるんですね! レストランの名前と住所まで表示されている! メモを取らせてください」
と言って弁護士は僕の足取りをメモし始めた。
「メモしなくても、スクリーンショットの画像を弁護士さんにメールしましょうか? LINEで友達登録して送ります?」
「いや、LINEは好きじゃないんですよ。名刺に書いてあるアドレスあてにメールで送ってください」
僕はグーグルマップのタイムラインの詳細表示画面を三枚に分けてスクリーンショットを撮ってメールで送信した。
「近頃のスマホはすごいんですね。ちょっと見せてください」
金田弁護士は僕のスマホを手に取っていじり始めた。画面を指で触れまくっているようなので、LINEのトークとかで変なボタンを押されはしまいかとヒヤヒヤしたが、意外に手慣れた手つきだったので、この人、本当はスマホに慣れているのではないかという疑念が湧いた」
「もう返してもらっていいですか?」
と僕が言うと、弁護士は僕が今朝開いていたキンドル・アプリの画面を表示したスマホをテーブルの上に置いた。
それは僕が一週間ほど前にアマゾンで買った電子書籍で、最近アマゾンの「原作開発プロジェクト」というコンテストで優秀賞を受賞した「採用面接」という小説だった。
「採用面接の手引書にしては表紙の雰囲気が奇抜ですな」
「ええ、まあ……」
と、ごまかして返事した。採用面接をテーマにした小説を読めば就活の助けになるだろうと思って買ったのだが、読んでみたら化粧品会社に転職した商社マンがOLの制服を着せられて最後には女性にされてしまうというストーリーで、読んでいてドキドキした。僕がそちらの系統の人だと誤解されるとまずいので、採用面接の手引書と思われた方が都合がいい。
「同じ作家の本を他にも三冊も買ったんですね。ええと『LGBT婚活コンシエルジュ』、『性別という名のセレンディピティ』、それに『性を選ぶ』ですか。いずれも性別をテーマとした小説のような題がついていますね」
「『採用面接』がすごく面白かったので、つい同じ作家の小説を次々に買ってしまいました。ちょっと無駄遣いかなと反省してるんですけど……」
「いいじゃないですか。良い書物との出会いによって人生の流れが変わるというのは、よくあることですから。しかし『採用面接』は手引書ではなくて小説だったんですね。今後、私には何でも包み隠さずに話していただくよう、くれぐれもお願いします」
「隠すつもりじゃなかったんですが、すみませんでした」
と僕は素直に謝った。
「それでは明朝、警察に任意出頭を申し出てからお電話しますので、お帰り頂いて結構です」
僕は弁護士事務所を出て、タクシーを拾った。今夜東西線に乗ることは避けたかったので、小遣いをはたいて家までタクシーで帰った。
***
帰宅すると両親はパジャマ姿でソファーに座ってテレビを見ていた。
「波瑠、どうしたの? 顔色が悪いわよ。菱丸物産の偉い人とお食事してきたんじゃなかったの?」
「それどころじゃないんだ。僕の人生最大の危機なんだ!」
「可哀そうに、内定を取り消されたのね。菱丸物産だけが商社じゃないわよ。人生最大の危機だなんて落ち込むことはないわ」
「違うんだ。実は、警察に捕まりそうになったんだ」
僕は一部始終を詳しく話した。母は
「どうしましょう」
とオロオロしていた。父が僕をにらんで言った。
「波瑠、本当にやっていないのか?」
「信じてよ。絶対にやってない。もしウソをついていたら殺されてもいい」
「分かった、信じよう。しかし、大変なことになったな。痴漢で逮捕されたら、やってないと言ってもまず有罪になると聞いている。就職したくても、前科がついたら殆どの会社で門前払いになる。ここは被害を訴えている女性と示談するのが賢明かもしれない」
「あの男と目配せをした後に痴漢ですと叫んだんだよ。痴漢詐欺犯人にお金を払うなんて悔しいよ」
「逮捕、起訴された場合のマイナスを考えると仕方がない。お金のことは心配しなくても大丈夫だ。お父さんに任せなさい」
「ありがとう。弁護士さんには何と言えばいいの?」
「お父さんが電話で話そう。名刺はもらったか?」
名刺を父に渡すと、父はすぐに電話をかけた。
「もう遅いから事務所には居ないと思うけど」
と僕が言い終わらないうちに、電話がつながったようだった。
「弁護士の金田蜂彦先生ですね。私はさきほどお世話になった日暮波瑠の父です」
と自己紹介して、金田弁護士と話し始めた。
父は半時間近く電話で話していた。時々難しい用語も交えてしっかりした口調で冷静に話していたので、さすがビジネスマン、頼りになるなと感心した。
電話が終わると父が僕と母を見ながら言った。
「明日、任意出頭に同行する一方で、示談を打診するために女性との接触を試みるとのことだ。任意出頭しても逮捕状が出て身柄を送検される可能性は十分に高いので、明日の任意出頭は非常に重要だと言っていた。逮捕された後に示談が成立して不起訴になった場合は前歴が残るから、それは避けたい」
「起訴されて有罪にならない限り前科一犯にはならないんじゃなかったの?」
「それは前科だ。逮捕されると逮捕歴という『前歴』が警察署の記録として残るんだ。就職の際に会社から『前科・前歴はありません』という誓約書を求められた場合に、出せなくなる」
「それは困るよ。じゃあ、僕は任意出頭したら具体的にどうすればいいの?」
「この人は痴漢をしそうな人じゃないというクリーンな印象を与えること、そして逃亡や証拠隠滅の怖れはないので逮捕する必要はないと思わせるために、何を言われても激せず、誠意をもって真実を語る姿勢を貫くことが重要だ。警察に出頭する前に、弁護士さんが直接波瑠に説明すると言っていたが、とにかく弁護士さんに言われた通りにしなさい。明日、私は普段通り会社に行くが、弁護士さんから緊急の電話があれば対応する。携帯の番号を教えておいた」
「私、波瑠と一緒に警察に行くわ」
と母が言った。
「それはどうかな……。身元を明らかにするという点では親が同行するのもいいかもしれないが。それも金田先生の指示通りにしてくれ」
「波瑠、明日は頑張らなきゃならないから、早くお風呂に入ってゆっくり寝なさい」
何をどう頑張っていいのか分からないので、そんなことを言われると余計に眠れなくなりそうだった。でも、風呂を上がってベッドに横になると、あっという間に眠りに落ちた。
第二章 弁護士のグッドアイデアとは
「波瑠、早く起きないと警官が来るわよ」
母に肩を揺すられて眠い目を開いた。警官という言葉を聞いて眠気が吹き飛び、僕は厳しい現実の世界に連れ戻された。
「今、金田弁護士から電話があって、私と一緒に弁護士事務所に来るようにと言われたからすぐに着替えなさい。作戦会議をやってから警察に任意出頭するんだって」
「お父さんは?」
「とっくに家を出たわ。もう会社に着くころよ」
僕はマヨネーズ・トーストとヨーグルトで朝食を摂り、黒のスーツにネクタイという就活スタイルでバシッと決めて母と一緒に家を出た。西葛西駅で乗り降りすることを避けるため、タクシーを拾って弁護士事務所に行った。
ドアを開けると、腰の高さのキャビネットの向こう側の席に座っていた女性が僕たちに気づいて立ち上がった。受付担当の事務員なのだろうか? 能年玲奈に似ていて、この古ぼけた弁護士事務所には著しく不似合いな、ドキッとするほど美しい女性だった。
「日暮と申します。金田蜂彦弁護士とお約束しているんですが」
と母よりも先に僕が言った。
「はい、うかがっています。応接室にご案内します」
彼女について行くと、奥の応接室に通された。応接室というよりは古い木製のデスクとパイプ椅子だけがある、打ち合わせ部屋のような場所だった。金田弁護士が座って書類を拡げ、パソコンに向かっていた。
「キンパチ先生、日暮さんがいらっしゃいました」
と能年玲奈似の彼女が言った。
「キンパチ先生? 確かに似てらっしゃいますね。日暮波瑠の母です」
と母がお世辞ともつかない挨拶をした。
「金田蜂彦なので、金と蜂をとってキンパチと呼ばれています。いや、私もつい意識してこんなヘアスタイルにしているわけですが……。テレビで三年B組金八先生が始まったのは私が二十六歳の時で、それまでは『みなしごハッチ』と呼ばれていました」
「まあ、お気の毒に……。ご苦労なさったんですね」
「いえいえ、孤児だったわけではありません。父親は去年亡くなるまで弁護士をしておりまして、私は比較的裕福な少年時代を送りました。みなしごハッチと呼ばれたのは私の名前が蜂彦だからです」
「お母さん、変なことを言わないでよ!」
僕が非難する前に母はもう顔を真っ赤にしていた。母のそんなドジなところが僕は好きだった。
「これでも若い時には、みなしごハッチに似ていたんですよ」
冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、金蜂は僕たちを正面の席に座らせた。
金蜂はいきなり本題に入った。
「さきほど警視庁江戸川中央警察署に電話を入れて任意出頭の意思表示をしておきました。遅くとも今日の夕方までには出頭する必要があります。今回の事件で特記すべき点は、相手の女性が目撃者と目配せをした直後に被疑者の手首をつかんで『痴漢です』と叫んだという点です。そこで、現行犯逮捕が成立しておらず、被疑者が嫌疑を否認するだけでなく、女性が虚偽の目撃者と共謀していることを示唆しているケースを警察がどのように扱うか、前例を調べて見ましたが、役立ちそうな前例は見つかりませんでした。まあ、痴漢事件全般に関する警察の対応から判断すると、逮捕される可能性が非常に高いと考えられます」
「今日出頭したら、もう家には帰してもらえないということですか?」
「いえ、今日は取り調べだけになるでしょう。恐らく、明日再度任意出頭して供述書を作成することになります。被害者と目撃者からの事情聴取が完了している場合、被疑者の供述書が整った時点で逮捕状を請求し、明日または明後日に逮捕されることになるでしょうな。それまでに被害を申し立てた女性との示談を成立させるようにというのが、波瑠さんのお父上からのご依頼でした」
「逮捕されると示談はできないということですか?」
「勿論可能です。身柄が送検されると検察官が聴取したうえで起訴・不起訴の決定をします。本案件レベルの容疑ですと、その時点までに示談が成立していれば、起訴猶予になります」
「不起訴じゃなくて起訴猶予?」
「起訴猶予とは嫌疑なし、あるいは嫌疑不十分と並んで、不起訴の一種です。示談が成立している場合には、犯罪の立証が可能でも容疑者の年齢、境遇、犯罪の軽重などにより、検察官が訴追を必要としないとの裁量を下して公訴を提起しないのです」
「否認しているんだから『嫌疑不十分』じゃないんですか?」
「警察としては逮捕しておきながら嫌疑不十分では都合が悪いんですよ。その気になれば起訴して有罪にできるが、勘弁してやろうという態度なわけです。嫌疑なしでも起訴猶予でも、容疑者にとっては同様に望ましい状況ですが、逮捕歴は消えません。菱丸物産の内定はきっと取り消されるでしょう」
「菱丸物産の人事部の人たちは温かみの感じられる人たちでしたよ。そんな非情な対応をするでしょうか?」
「はい、します。実は、菱丸物産の顧問弁護士に私の大学の同窓生がいるので、日暮君の名前は伏せてこのようなケースの取り扱いについて聞いてみました。痴漢の容疑で逮捕された場合、被害を申し立てた女性と目撃者の共謀が立証されて告訴が取り下げられるなど、明確な形で容疑が否定されない限り、内定は取り下げになるだろうとのことでした」
母がテーブルの上の僕の左手を握り、二人で大きなため息をついた。
「逮捕されたら警察がその旨を発表します。日暮君は有名大学の学生ですから『K大生を痴漢で逮捕、容疑者は犯行を否認』などと実名を報道される可能性があります」
「金蜂先生、どうかそうならないようにお助け下さい!」
母が絶叫に近い声で懇願した。
「全力を尽くしましょう。まあ、そんな観点で頭を巡らせていたんですが、日暮君のスマホに表示されていた『採用面接』という本を読んで、これは使えるかな、とひらめきました。続けて他の本、ええと、『性を選ぶ』、『性別という名のセレンディピティ』と『LGBT就活コンシエルジュ』でしたか、アマゾンで購入して読みました」
「引き込まれたでしょう? それにしても昨日の夜から四冊も読むとはすごい!」
「お陰で、事務所で二時間仮眠しただけです。とにかく、これは使えると確信しました。日暮君がその四冊を購入したことはアマゾンの履歴に残っていますから」
「あの四冊を読んだことを人には知られたくないんですけど……。どう使うんですか?」
「『採用面接』はいいけど、他の三冊は何の本なの? 題名からすると、エッチな本じゃないの?」
「いいえ、日暮君のお母さん。四冊とも同じ作家が書いた小説で、ある意味で非常にまじめな本です。四冊とも主人公の少年や若者がいろんな事情によって女性として生活するように追い込まれて、最終的には性転換するというストーリーでした」
「波瑠、お前、女になりたかったのね?! 気づかなかった……」
「違うって、お母さん。そんなことは考えたこともないよ。『採用面接』はよしもととアマゾンがコラボして開催した原作開発プロジェクトというコンテストの優秀賞の受賞作品なんだ。読み始めたらグイグイ引き込まれて、気が付いたら最後まで読み終わっていた。だからその作家の他の小説も買ってしまったんだ。二冊目も面白すぎたし、三冊目と四冊目も夢中で読んだ」
「なぜその四冊に夢中になったか? それは女性になりたいという日暮君の願望を叶えてくれるストーリーだったからです。男子として生まれ育ったが、物心ついた時から自分の性別に違和感を感じ、女性になりたいと願っていた。すなわち、性同一性障害が顕在化しない状態だったわけです。そんな日暮君が電車の中で女性のお尻を触るはずがない。なぜなら、日暮君の性的対象は男性だからです」
「怒りますよ! いくら弁護士でも言っていいことと悪いことがあります! 小説を読んだだけで決めつけないでください」
「波瑠、隠さないで本当のことを言って! お前は大学に入るまではよく女の子と間違えられたわよね」
「あれは名前のせいだ。ハルちゃんとか、ハル子と茶化されたから。小学校の頃はそうでもなかったけど、中学になって同じ名前の女優が出て来てからしょっちゅうイジられるようになった。女優の波瑠が朝ドラに出てからは名前を言うたびに『男性なのに女性の名前なんですね』と言われるようになってしまった。それからは髭を剃らずにバリカンで七ミリの長さに揃えるようにして、女っぽいとか言われなくなったけど」
「波瑠が生まれた時には、男の子にも女の子にも使える名前だったんだよ」
「とにかく、僕が性同一性障害だなんて事実無根の誹謗中傷だ!」
「日暮君を誹謗中傷しているわけじゃありません。警察が起訴に走るのを躊躇させるための有力な手段として、そういうことにしてはどうかという提案です」
「つまり、今日と明日の任意出頭の際に『僕は性同一性障害だから女性の身体を触れることには全く興味はなく、痴漢をするはずがありません』と波瑠に言わせればいいわけですね? それで時間を稼ぎつつその女性との示談に漕ぎつけ、告訴が取り下げられたら、性同一性障害は方便だったということにする」
「さすがお母さま、理解が早い。勿論、告訴が取り下げられてもあれはウソでしたと警察に言いに行くのではなく、ほとぼりが冷めるのを静かに待つということです」
「イヤだよ、お母さん。僕が警察で性同一性障害のカミングアウトをしたという話が万一誰かに洩れたら生きていけないよ……」
「痴漢の犯人として逮捕されたことがテレビのニュースで流れたらどうするの? それを阻止するためにはどんなことでもすべきよ。波瑠、あんた、男でしょう!」
「矛盾してる。男なら、女になりたいフリをしろとは支離滅裂だ!」
「金蜂先生、その作戦でお願いします。くれぐれも先生のご指示に従うようにと主人から言われてきました」
「この二、三日が勝負だから、日暮君、頑張りましょう!」
「そんなぁ……」
「実は既にネットで調べてこの近所のレーザー脱毛クリニックを予約してあります。きっとご賛同いただけると確信していましたので。午前十時から約四時間で全身のレーザー脱毛を実施します。脱毛の後、十四時三十分に美容院を予約してあります。女性的な髪型にしてもらってから、江戸川中央署に出頭するという段取りです」
「髪型よりも眉の形を変えなきゃ。この子、子供の時から太くてくっきりとした眉をしていたのに女の子に間違えられたんですよ。眉をいじったらもっと可愛くなるのにと思って見ていたんですが、髭を伸ばすようになってからは、人相が悪くなって……」
「その辺はお母さまの女性としての感性が頼りです。美容院でお母さまからリクエストしてください」
「分かりました。波瑠、今日警察に行く時には、スカートをはいてもおかしくないほど女の子らしくしてあげるわよ」
「お母さん、少しノリ過ぎだよ。テレビで痴漢犯人扱いされないためにそうせざるを得ないということだから付き合うけど、ほどほどにしといてよね」
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