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僕はシングルマザー:体験して初めて分かる現実

【内容紹介】男性が一般職OLとして働かされるTS小説。主人公は大手総合商社の2年目のサラリーマン。課の一般職女性が出産休暇に入り派遣社員が来る。彼女はシングルマザーで9:30~16:30の勤務だが早退、遅刻、欠勤が続き、迷惑した主人公が暴言を吐く。その暴言のせいで主人公はのっぴきならない立場へと追い込まれる。

第一章 仕事は一般職が回している

 梅雨明けを待ち望む朝、僕は会社の席でパソコンに向かっている。

 商社マンの朝は忙しい。昨日会社を出てから今朝までに入ったメールを読んで、ひとつひとつ処理することから一日が始まる。日本が寝ている間に欧米は起きているのだから仕方ない。地球は丸いのだ。

「純子さん、デュッセルドルフの永池さんから届いた資料をプリンターに流したので……」
 パソコンの画面から目を離さずに、アシスタントの純子に言おうとした。

「いっけねえ。今日から純子さんは産休だった」

 右斜め前の席に座っている先輩の香川浩二が僕の方を向いてニヤニヤしている。

「さっき俺も純子にコピーを頼むと言いかけちゃった」

「純子さんが居ないと本当に不便ですね。派遣社員は今日の午後から来るそうですけど、純子さんからの引継ぎなしで大丈夫でしょうか?」

「俺は面識がないけど、四年前にうちの会社を結婚退職した人だそうだ。人事の竹田さんが言ってたけど、すごく優秀だったらしいよ」

「それなら伝票関係の処理に慣れているでしょうから大丈夫ですね。よかった」

 商社の基本は受注、発注、出荷、配送、請求、入金などをきちんと管理して情報システムで処理することによって、一般職社員が実務を行っている。総合職社員は新規顧客や仕入れ先の開拓、関係の維持拡大、それに新規ビジネスの開発などの役割を担っているが、契約を締結しさえすれば、遊んでいても商売は回っていく。つまり商社の日常業務は実質的に一般職が切り盛りしているのだ。

 今日から産休に入った笠原純子はW大学を卒業して一般職として入社した五年目社員だ。永池美保は純子のW大学の同期だが、総合職として入社し、現在はデュッセルドルフ駐在員だ。笠原純子と永池美保は同じ大学の同期なのに著しく異なる人生を送っている。職種が違うから業務が全く異なるのだ。総合職の方が偉いというわけではないが、給料は総合職の方が上で、年齢が上がるほど総合職と一般職の給料差は拡大する。ちなみに僕は笠原純子を「純子さん」と呼ぶが、永池美保は「永池さん」と呼んでいる。

 総合職の方が一般職より上ではなく職種が異なるだけというのは建前であり、一般的な夫婦関係と同じく、総合職が「主人」で一般職が「家内」のような立場で仕事をするのが普通だ。

 総合職の女性比率は徐々に上昇しているが、うちの会社ではまだ二割ほどだ。一方、一般職は全員が女性だ。うちの会社は表向きには男女同権を標榜しているので、一般職の採用に性別制限は設けていない。現実には一般職は女性だけで、一般職の制服はライトブルーのスカートスーツだ。毎年一人か二人、男子学生が一般職に応募するらしいが、当然不採用になっている。受けをねらって応募しただけかもしれないが、このご時世だからLGBTの人が真面目な気持ちで応募した可能性もないとは言いきれない。。

 もし男性の一般職が採用されて、うちの課に配属されたらどうしよう。性的マイノリティーを差別すべきではないが、実際に身長百七十センチでがっしりとした髭剃り跡の青い人がお化粧をしてライトブルーのスカート姿で僕の前に座ったら、気持ち悪いだろうなと思う。特に来客時にお茶を出してもらうことだけは避けたいから、課長に相談して、来客用に缶コーヒーを買いだめするとか、何らかの対策が必要になるだろう。

 実際には、男性が一般職に採用された場合は制服は着用せず、総合職男性と同じように背広ネクタイ姿で仕事をすることになるだろう。男性にお茶やコピーを頼むのは気持ち悪くはないが、しっくりこないし、お茶を出してくれてもうれしくない。やはり今後も一般職は女性だけにしてもらいたいものだ。

 うちの課は佐藤課長、六年目社員の香川浩二、僕、新入社員の渡部晃子の総合職四名と、一般職の笠原純子の五人体制だ。

 十時過ぎに佐藤課長に来客があった。佐藤課長は「第四応接にお茶……」と純子の席の方を向いて言いかけて「おっとっと」と失笑しながら席を立った。

 僕は渡部晃子に「お茶を出しに行ったら好感度アップするんじゃない?」と口を滑らせてしまった。一般職が不在の際に新入社員がお茶出しを手伝うのは自然なことだという意識があったのだが、これが大失敗だった。

「どうして私なんですか? 早海さんが自分でお茶を出しに行って、課長からの好感度を上げればいいじゃないですか」

「僕がお茶を出しに行くのは不自然だろう。課長が気持ち悪がって僕の好感度がダウンするよ」

「何が不自然なんですか? 理由を教えてください」

「お茶は女性が出さなきゃ、お客さんもいやがるよ」

「私は早海さんと同じ総合職で、ちゃんと担当を持って仕事しています」

 渡部晃子の主張点は分っている。同じ職種なら性別を理由に仕事に差をつけるべきではないと言いたいのだ。渡部は帰国子女で Keio Academy of New York という現地高校を卒業後、K大に入ったので、入社年度は僕より一年下だが、年齢は僕と同じだ。厳密に言うと僕が三月生まれで渡部は九月生まれだから、渡部の方が六カ月年上なのだ。渡部は何かにつけて僕の自尊心を傷つけるような態度を示す。別に、実年齢は自分の方が上だとか、僕の卒業したN大よりも格上だとか、自分の方が背が高いとか、語学力が段違いだとか、言葉に出すわけではなく、僕が勝手にそう思っているだけなのかもしれないが……。

「分かったよ。渡部さんがお茶を出しに行ったら、と言ったのは失言だったから撤回する」

 その場はそれで収まり、昼食も課長、香川、渡部、僕の四人で近くのカツ丼専門店に行った。

 昼休みが終わる間際に席に戻った。

 人事課の三隅課長が三十代半ばの暗い感じの女性を連れて佐藤課長の所に来た。

「派遣社員の畑中葉子さんです。メールでお知らせしたとおり、九時半から四時半まで一般職業務を担当するという契約ですのでよろしくお願いします」

「課長の佐藤です。機械本部に勤務されていた頃の畑中さんの評判は存じていましたよ。うちの課員は若手ぞろいですがご指導よろしくお願いします」
 派遣社員に対してどうしてそこまでクソ丁寧なんだろうと不思議だった。

「私の右手に座っているのが六年目の香川浩二です。その向かい側が渡部晃子、新入社員ですがK大卒でTOEIC九百七十点の秀才です。その隣が早海陽詩ひなた、二年目ですが年齢的には最年少です。畑中さんは早海君の向かい側の席に座ってください」

 佐藤課長から紹介されるたびに僕たちは各々畑中に会釈をした。

「香川君と私は出張が多いので、早海君を畑中さんの勤怠管理者に任命します。うちの人事管理システムのことは頭に入っていると思いますが、畑中さんの承認者は早海君として設定しました」

「はい、承知しました」

「僕が勤怠管理するんですか? 大丈夫かなあ……」

「これもいい経験だから勉強のつもりでやってみろ」

「はあ……」

「そのためには早海君自身がしっかりとした時間管理をする必要があるな。渡部さん、早海君がちゃんとやっているか見張っていてくれ」
 こんな冗談が僕を傷つけているということを、課長は分っていない……。

「了解です!」
 渡部はこんな時にはノリが良い。だから上司の評価が高いのだ。

 畑中葉子は純子の席に座り、引き出しを開けて何冊かのファイルを取り出して、ささっとページをめくった。お客さんから電話が入ると、聞いていてさすがと思わせる手際よさで注文を取ったり、伝言を受けたりしている。今朝、香川、渡部、僕がお客さんから受けて出荷を手配した取引のメモを、あっという間にインプットし、プリントアウトされた伝票類をセットして各担当者のデスクに提出してくれた。

「早い海と書いて『はやみ』と読むのは珍しいですね」
 伝票に印字された担当者名を見て葉子が言った。

「下の名前の方がもっと珍しいと言われますよ。陽の字と、詩人の詩を組み合わせて陽詩を『ひなた』と読ませるのは稀なようです」

「でもそれ、女の子の名前ですよね」
 ズバッと直球で言われたのには面食らった。

「早海さん、商品明細のマスターファイルはどこにありますか?」

 突然畑中に聞かれたが、僕は「商品明細のマスターファイル」というものの存在すら知らなかった。

「さあ、僕、純子さんの仕事は把握していなかったので……」

「私の上司なんだから『一般職の仕事は把握していなかった』では困ります。仮に私が急病になったらどうするんですか? 早海さんの責任でしょう?」

 右斜め前の席の香川がニヤニヤして僕らを見ている。課長が僕たちの会話を聞いて「畑中さんの言う通りだ」と相槌を打った。

「じゃあ、商品明細のマスターファイルがどこにあるかは、他の課の一般職の人に葉子さんが聞いて、その結果を僕に教えてください。もしもの場合のために僕もファイルのある場所を覚えておきたいから」

 畑中は苦虫を噛み潰したような表情で立ち上がり、隣の課の上条真紀に聞きに行った。その結果、商品明細のマスターファイルは隣の課の近くにあるキャビネットの二段目に置いてあることが判明したようだった。

「早海さん、ちょっと来てください」

 畑中に呼ばれてそのキャビネットの所に行った。

「ほら、商品明細マスターファイル以外にも、うちの課の業務を処理するために必須なファイルがこのキャビネットに入っていますから、頭に入れておいてください。分かっていないと、もしもの時に困りますよ」

 どちらが上司だか分からないような言い方だった。

「それから、さっき私の事を葉子さんと呼びましたけど、まだそんな関係じゃないですから、ちゃんと名字で呼んで頂けます?」

「でも、うちの課では一般職の女の子は下の名前で呼ぶ習慣なんだけど」

「私は『一般職の女の子』なんかじゃないので」
 不愛想に言って自分の席に戻って行った。

 畑中は愛想は最悪だが、仕事の手際は見事だった。客先から電話で注文を受けてから、在庫からの出荷を手配したり、メーカーに発注をする様子は、まるで長年その仕事に携わってきたかのように完璧だった。その注文に関する伝票がセットされて担当者に回るまでの時間は純子の半分以下かもしれない。

 四時に来客があって佐藤課長と香川が応接室に向かったが、忙しそうにパソコンに向かって仕事をしていた畑中がさっと立ち上がってお茶を出しに行った。

 畑中は四時ニ十分に僕に手書きのメモを渡しながら言った。

「私の勤務は四時半までですので、今から十分後に退社します。今日の私の業務でまだ完了していないものをメモしておきましたから、フォローをお願いします」

 メモには三項目書いてあった。
 ・五時に情報システム部に行って、今日のインプットのモニターリストをもらってくる。
 ・課長と香川さんが席に戻ったら第四応接室のお茶を片付ける。
 ・在庫からの出荷分の伝票に渡部さんのハンコをもらって、受渡部の三原さんに届ける。

「こんなの明日でもいいんじゃないのかな?」

「早海さんは私の上司としてうちの課の一般職業務の責任を負ってるんですよ。一般職業務は時間との戦いです。その日のうちに片付けるべき基本作業ですから、必ずフォローしてください」

「分かったよ……。でも、僕にお茶を片付けろと言われても……」

「私たちはチームです。いいわね、絶対にやっとくのよ」
 最後は命令口調で言ってから「皆さん、お先に失礼します」と言って席を立った。

 僕は深いため息をついて、渡部にこぼした。

「ホント、やりにくいよね。多少ドジでもいいから若くて愛想がいい派遣の女の子を雇ってくれたらいいのに」

「畑中さんが来てくれて助かりましたよ。特に在庫からの出荷手配は簡単じゃないから、ちゃんと処理してもらえるかどうか心配だったんです。ドジな人だったら担当者に負担がかかります。その点、畑中さんは完璧だと思います」

「でも、僕にお茶を下げろだなんてヒドくない? 渡部さんも手伝ってくれるよね?」

「早海さんは畑中さんの上司として一般職業務をカバーをする義務があるんだから、自分でやってください」

「冷たいことを言うなよ……」

「はい、この伝票、受渡部の三原さんに届けてきてください」

「まさか、先輩の僕に使い走りをさせるつもりかよ?」

「早海さんが畑中さんに言われた仕事でしょう? もしすぐに届けなかったら、明日畑中さんに言いつけるわよ」

 渡部は意地悪そうな笑みを浮かべて僕に言った。仕方なく僕は伝票を受渡部に届けに行った。

 受渡部の三原は香川浩二と同期入社の一般職社員で、最初の三年間はうちの課に所属していたが、経理部から異動してきた笠原純子に仕事を引き継いで受渡部に移ったそうだ。三原は「サンキュー」と言って僕から伝票を受け取った。

「畑中さんにこきつかわれることになって、早海君も大変ね。あの人、優秀だけど厳しいから」

「九時半から四時半の勤務なので、僕がとばっちりを食ってしまいました。どうして九時から五時半まで働いてくれないんでしょうね」

「子供さんを保育園に送り迎えするからでしょう。四年前に寿退社したけど、できちゃった婚だったから、三歳の子供がいるはずよ。最近離婚したと聞いてるわ」

「そりゃあ旦那もあれほどガンガン言われたら離婚したくなりますよね」

「早海君、滅多なことは言わない方がいいわよ。畑中さんは顔が広いんだから、もし筒抜けになったらどうするの?」

「ひぇーっ。それはご勘弁を。畑中さんは昔は可愛かった面影があるし、賢いから、さぞモテたと思います」

「もう遅いわよ」

 自分の席に戻ると、渡部晃子に「ちゃんと届けてくれた?」と聞かれて、つい「はい」と答えてしまった。渡部はにっこりして「ありがとう」と上から目線で僕にお礼を言った。

 しばらくすると課長と香川が接客を終えて席に戻った。渡部に「早海さん、お客さんが帰ったわよ」と促された。手伝ってくれる気配は微塵もなかったので、一人で第四応接室に片付けに行った。湯飲み茶わんを給湯室のシンクの中に置いて出て行こうとしたら、部長席の横山と目が合って非難がましくにらまれた。僕はやむなくスポンジに洗剤を付けて茶碗を洗った。

 給湯室からの帰り道に、情報システム部に立ち寄り、今日のインプットのモニターリストをピックアップして、渡部の席に置いた。

 やっと畑中から押し付けられた用事を終えて自分の席に座ると、どっと疲れが出てきた。慣れないことを、他人から言われてするのは非常にストレスのたまることだと改めて実感した。僕は定刻に会社を出てアパートに帰った。

 それは僕の悪夢のほんの始まりに過ぎなかった。

第二章 マターナル・ハラスメント

 翌朝、ヨーロッパ各店からの返事待ちの案件があったので、僕は八時半に出社した。佐藤課長はあたりまえのようにパソコンに向かって仕事をしていた。香川は僕より少し遅れて出社し、渡部晃子は九時五分前に涼しい顔で「おはようございます」と席に着いた。

「もう少し余裕をもって早めに出社すればいいのに」
と僕は思わず苦情を言った。

「すぐそこのドトールに八時に入って、日経とウォールストリートジャーナルの電子版を読んでからマーケットスピードで主要通貨のオーバーナイトの動向をチェックすると八時五十分。更衣室に立ち寄ってから八時五十五分に席に着く。何か改善すべき点はあります?」

「いやまあ人それぞれだから……」

「早海さんはオーバーナイトの金融市場の動向はいつチェックしてるんですか?」

「そりゃあ、スマホとかで見るけど……」

「どのサイトで見られてるのか、教えていただけます?」

「その日によって色々あるから……」

「中堅国内商社の社員ならそれで良いかもしれませんけど、大手総合商社マンは金融市場動向を把握できていないと通用しませんよ」

「おい、渡部、そのくらいにしとけよ。早海が泣きかけてるじゃないか」

 香川が仲裁に入って、やっと渡部晃子の攻撃が止まった。元々僕が先輩風を吹かそうとして的外れなことを言ったのが悪かったのだが、それを倍返し、いや、五倍、十倍にして反撃するのは非情すぎる。優秀なのは確かだが、新入社員のくせに口が過ぎる。弱者に対する配慮がなければ尊敬されないよ、と言いたかったが、そんなことを言うと僕が弱者だと認めることになるので思いとどまった。

 メールの処理は九時半ごろに一段落して、ほっと一息ついていた時に、畑中葉子が「おはようございます」と席に着いた。時計を見ると九時三十三分だった。三分の遅刻について、上司として注意すべきかなと思ったが、今朝の渡部の一件があったので、ぐっと我慢した。

 畑中は僕が昨日情報システム部でもらってきたインプットモニターリストに目を通していた。畑中からの「ありがとう」の一言を期待していたのに無言だったので、「それ、ご指示通りに取って来たから」と押しつけがましく言った。

「渡部さん担当の在庫からの出荷で、インプットエラーがありますね」

「あっそう? 内容まで見ていないけど」

「これは受渡部のインプット分のエラーですから、その日のうちに受渡部の担当者に連絡して修正してもらうか、自分で修正しなきゃだめじゃないですか。そのままお客さんに請求書が出てしまったらどうするんですか?」

「モニターリストを取ってくるようにと言われたからその通りにしただけだよ。一般職業務の流れは僕には分からないよ」

「早海さんは私の上司なんですよ。うちの課の一般職業務の最終責任があることを自覚してください。私たち、チームで動いてるんじゃないんですか? 少なくとも、営業時間のうちで私が勤務していない時間帯は早海さんが百パーセント責任を持ってくれないと」

「でも……」
 僕は反論できずに口ごもった。

「あらっ? 郵便物が届いた形跡がないわ」
と畑中が言って、僕を睨みつけた。

「早海さん、郵便物を取ってこなかったの?」
 母親が中学生の子供を叱る時のような口調だった。

「え、何のこと?」

「出社したらまず郵便物をボックスでピックアップして各担当者に配る。それを怠ってどうするのよ? 私が出社するのを待って、うちの課の仕事を半時間も遅らせていいと思ってるの? 早海さん、自分の責任をちゃんと自覚しなさいよ」
 畑中の言葉から敬語が完全に消えていた。

「ボックスってどこにあるの? 僕、知らないもん。郵便物を配るのが半時間ぐらい遅れてもいいじゃない」

「半分は社内配布物よ。例えば昨日の夕方経営企画部が全課長宛てに配布した書類を、佐藤課長だけは半時間遅れて受け取ることになる。それでいいと思うの?」

「時間を争う内容ならメールで通知されるはずだから、実害は無いよ」

「あんた、一般職業務の基本が全く理解できていないわね。そんなことで私の上司が務まると思ってるの?」

「僕だって総合職としての自分の仕事で手一杯なんだから」

「よく言うわ。昨日半日、うちの課の仕事量配分を観察したけど、早海さんの仕事量は渡部さんの半分以下だったわ。能力的な問題があるから仕方ないんでしょうけど。だから課長は早海さんを私の上司に指名して、一般職業務をカバーさせようとしたのよ。それに気づいてないの?」

「……」

「私、郵便物を取ってくるわ。私の仕事が一段落ついたら、改めて教育の時間を取るから、それまでは自分の仕事をしてなさい」

 畑中が席を立ったが、僕は予想外の展開に呆然としていた。目に涙が浮かんできたので、僕は鼻をかむフリをしてティッシューで涙を拭こうとした。

 その時、長く美しい手が伸びてきて、僕にハンカチを差し出した。渡部だった。渡部は優しく微笑んで「ドンマイ」と言った。

 ハンカチで目頭を押さえた。涙を拭いてから、ハンカチを渡部に返し「ありがとう」と心からお礼を言った。渡部は何も言わずに仕事を続けた。

 きっと畑中は私生活のイライラを僕にぶつけているのだ。自分より若い社員が自分の上司になった事への不快感も加わり、僕を攻撃することで憂さ晴らしをしているのだろう。僕は昔から女性との口喧嘩は苦手だった。子供の時から妹と喧嘩するといつも僕が泣かされていた。妹は理屈が立って容赦なく僕を最後まで追い詰めた。ガンジー首相の信奉者である父から「男は決して暴力に訴えてはいけない」と教えられていたので、腕力で妹に言うことを聞かせようとしたことはなかった。

 単なる口からの出まかせとは思ったが、畑中から、僕の仕事量が渡部の半分以下しかなく、それは能力的な問題だと言われたことがショックだった。全くの的外れな誹謗中傷と言い切れる自信もなかった。今まで自分が気づかなかっただけで、実は畑中の言う通りなのではないかと思うと不安に駆られた。

 仕事量の尺度として、担当別売上高では僕の方が渡部より多い。しかし、僕の担当商品は国内メーカーの一次店として、二次店に流すものが大半で、実質的な日常業務は一般職が回している。海外取引や新規事業での渡部の英語力は課長や香川も舌を巻くほどであり、渡部の仕事の速さには僕は到底ついて行けない。客観的に見ると渡部は会社の将来を担うエリートであり、畑中が言うように、佐藤課長が僕を畑中の上司に任命したのは、笠原純子の産休中の一般職業務を僕にカバーさせるためなのかもしれない……。

 なにくそ、という気持ちが頭をもたげ、そしてすぐに萎んだ。相手が渡部晃子でなければ「負けるものか」というファイトが湧くところかもしれないが、自分が渡部に敵うはずがないと思った。

 畑中の仕事が一段落したのは午後二時ごろだった。佐藤課長と渡部は新規の海外投資案件の管理部門への説明会、香川は顧客訪問で外出しており、席にいたのは畑中と僕だけだった。

「今朝の話の続きだけど、私のいない時間帯に早海さんがカバーできるように、うちの課の一般職業務を教えるわ。一度しか言わないからメモを取りながら聞きなさい」

 畑中は僕の都合も聞かずに話し始めた。今朝怒りだしてから、タメ口のままだったが、下手に言葉遣いを指摘すると倍返し、十倍返しとなりそうな予感がしたので黙って聞いていた。

「まず、一番簡単な国内直送取引について手順を説明する。国内直送取引は当社が過去に商権を獲得した商売がそのまま継続している場合が殆どだから、問題が起きない限り総合職の担当者はノータッチと言ってもいい。重要取引先との国内直送取引は部長や課長が先方の上層部との関係維持を意識しているから、担当者の意識は非常に低い場合が多い。日常取引は私たち一般職が客先と担当レベルでのコミュニケーションを含め、切りまわしている。パターン通りの伝票処理を延々と繰り返すことになるけど、これが商社の基本だから、手を抜かずに迅速かつ正確に処理をすること。分かった?」

「はい、分かりました」
 今は畑中が先生の立場だし年上なので、下から目線で答えた。

 畑中は客先から電話で注文を受けてから実施すべき作業を解説してくれた。僕は畑中から言われた通りメモを取りながら聞いた。昨年春に入社して以来、僕の目の前で笠原純子はこんな仕事をしていたのだと初めて知った。純子は電話を取ったり、伝票をインプットしたり、担当者のために雑用をするのが仕事だと思っていたが、僕は何も分かっていなかった。

 ちょうど客先から注文の電話があった。畑中が電話を取って注文を聞き、そのメモを僕に渡した。

「さあ、教えた通り、やってみなさい」

「ええと、まずメーカーに注文の電話をかけるんですよね。これ、渡部さんの担当商品だから、畑中さんが電話していただけません?」

「あのねえ、私はきのう初めてこの席に座ったのよ。そのメーカーに電話するのも初めてなの。一般職は、初めての案件でも、五年前から毎日やっているかのようにこなせなきゃダメなのよ。早海君、私、注文を受けてから処理を完了するまでの時間を計ってるんだけど、ずるずる遅れるわよ。総合職として渡部さんの五十パーセントの能力として、一般職では私の何パーセントなのか、結果が楽しみだわ」

 僕は仕方なくメーカーに注文の電話をした。

「ええと、次はインプットでしたよね。直送取引は契約と受渡を一括入力だから、フォーマットはA1でしたっけ……」

「待ちなさい。今の瞬間に次の注文が入ったらどうするの? そして、次の注文の処理中にその次と、そのまた次の注文が入るかもしれないのよ。全部覚えていられるほど頭がいいの?」

「どうしろとおっしゃるんですか……」

「このノートにメモするのよ。私の前任者の受注ノートはこれ。電話を受けながら、時刻、相手先、担当者名、受注内容、そして右半分にメーカーに電話して発注した記録を書くのよ。そうすれば途中で作業を止めても、次の注文、その次の注文を並行して処理できる。処理中に総合職の人から雑用を依頼されても、待たせずにすぐ対応できるように、受注ノートはなくてはならないものなのよ」

「さっき教えてくれた時には受注ノートの事は言われなかったから書かなかっただけですけど……」

「自分で気が付くかどうかをテストしたのよ。それに、教えられたことを素直に学ぶ姿勢があるかどうかも。さあ、時間がどんどん過ぎるわよ」

 次のインプットが難物だった。そもそも、入社して以来、受注システムにインプットしたことがなかったので、一度教えられたぐらいで、まともにできるはずがなかった。僕がパソコンと格闘している間に、受注の電話が立て続けに三件あり、それは畑中が自分で処理した。結局、半時間ほど苦労して、やっとインプットが完了した。

「畑中さん、できました」

「ミリグラムのはずがキログラムになってるわ。それに、相手先コードの枝番を間違えているから、先方の大阪支店に請求すべきところが、本社あての請求になってる。早海君のミスによって何が起きるかわかる?」

「ええと……」

「五ミリグラム請求すべきところ、五百万ミリグラムの巨額の請求書が、大事な取引先の本社に届くことになるのよ。担当者である渡部さんのお客さんからの信用はガタ落ちで『やっぱり新入社員は』とか『女はやっぱり』とか言われるわ。佐藤課長が謝りに行くことになる。全部あなたのせいよ」

「すみませんでした。初めてインプットするので必死になっていたので、つい……」

「今回はメーカーへの発注を電話でしたからよかったけど、電子取引案件だったら、会社に巨額の損失を与えていたわよ」

「申し訳ございませんでした……」

「何をグズグズしてるの? 訂正をして、伝票を印刷して、チェックしてから担当者の席に置きなさい」

 僕はすぐに二ヶ所のミスを訂正して、畑中にチェックしてもらった。

「早海君、販売先の相手先コードが別の会社の大阪支店になっちゃってるわよ」

「あっ、本当だ! 枝番を直そうとした時に間違えたんですね。すみません、ドジを重ねてしまって、えへへ」

「笑い事じゃないでしょう。これは単位ミスよりも重大なミスよ。何故だかわかる?」

「巨額の請求が行く単位ミスの方が重大みたいな気がしますけど……」

「巨額の伝票は殆どの場合、印刷した段階で担当者がミスに気付くわ。でも相手先ミスは中々気づかないから担当者が見逃す可能性が高い。その結果、A社向けの価格でB社に請求書が出る。A社向けの価格の方が安いとしたら、B社の担当者は高く買わされていたことに気づくわ。値下げを迫られるのは勿論、信頼関係が一瞬にして崩れる。渡部さんに、佐藤課長に、部長に、会社に、どれほど迷惑をかけるか、考えてみなさい」

「本当に申し訳ございませんでした。二度とこんなことがないように気をつけます」

「すぐに直してプリントしなさい」

 このプリントがまた難物だった。取引のインプットフォームごとにネットワークプリンターが割り当てられているが、請求書用の数枚つづりの用紙がセットされているプリンターに成約票を流したら大変なことになって、畑中からコテンパンに叱られる。僕はネットワークプリンターの番号をメモし、実際に用紙がセットされているプリンターを見に行って、正しいことを確認してからやっと印刷ボタンを押した。意図していた通りに印刷されていたので僕はガッツポーズをしたくなった。

 一連のアウトプットをクリップで留めて「できました。最終チェックお願いします」と畑中に差し出した。

「内容は合ってるみたいね」

 そう言われて、ほーっ、と息をついた。畑中に褒められたのは、この二日間で初めてだった。

「でも、五十点ね。何が足りないか、渡部さんの立場で考えてみなさい」
と言って畑中は僕がセットしたアウトプットを僕の机の上に置いた。何がいけなかったのだろうか……。

「気づかないの? どうして右上をクリップでとめたのかな? 捺印すべきところにクリップがあったら、渡部さんはいちいちクリップを外さないと、二枚目、三枚目に捺印できないと思わない?」

「おっしゃる通りです……」

「一般職業務は、そんなこまかいことの積み重ねなのよ。テレビで医療物のドラマを見たことはある?」

「ええ、キムタクは好きじゃなかったんですけど、木村文乃がすごく良い演技をしていたから、キムタクも嫌いじゃなくなりました」

「オペナースが執刀医に器具を手渡す時に、執刀医が全く持ち替えずに使えるように、器具の向きやタイミングに気をつけてるわよね。商社の一般職はオペナースと同じなのよ。渡部ドクターにメスを渡すつもりで、全ての段取りを完璧にする。それが早海君の仕事なのよ」

 オペナースの例えは絶妙だなと感心した。笠原純子は僕をそんな風に支えてくれていたのだ。

「で、オペナースとしての早海君の採点結果を発表するわ」

 僕は先手を打って「五十点、いや、ミスがあったからせいぜい二十点ですかね」と言った。

「早海君が一件処理するのにかかった時間は百五分。私が三件の受注を同様に処理するのに十五分かかった。つまり、処理速度は私の二十一分の一ね。だから四捨五入して五点になるわ。そこから重大なミスと配慮不足を減点すると、マイナス三百十点。それが早海君の現時点での評価よ」

「厳しい……」

「厳しくないわよ。普通の会社ならクビよ。はっきり言って使い物にならないわ。そんな子とチームを組まされる私の身にもなって欲しいわ」

 僕はひとことも反論できない。ひどい言い方だが、実際に時間がかかったことも、ミスをしたことも事実だった。

「どうしてうちの会社に入ったの? 早海君に渡部さんと同じ仕事ができると思う? これから差は開くばかりよ。能力にこれほど差があったら、いくら努力しても無理よ。おまけに早海君はちゃんと努力できるタイプじゃない。叱られたらショボンとして涙を流すだけ。早く辞めれば?」

 そこまで能力を否定されたのは生まれて初めてだった。涙があふれてきて止まらなくなった。

「泣くことしかできないの? 悔しかったら、何か言い返しなさいよ。どうなの? 私は間違ったことを言った? 言ってないでしょうの?」

 泣きじゃくるのを抑えるので精いっぱいだった。

「明日もう一度国内直送取引の処理をおさらいしてから、在庫からの出荷の場合について指導する。あんた、聞く気はあるの? 私も忙しいんだから、ギブアップしたいなら早く申し出なさい。どうなの? 私に付いてくるの、こないの?」

「付いて行かせてください、お願いします」
と泣きじゃくりながら辛うじて言った。

「じゃあ、もうすぐ四時半だから私は帰るけど、昨日言いつけたのと同じ作業をちゃんとやるのよ、分かった?」

「はい、分かりました」

 畑中が退社してすぐ、渡部が席に戻った。渡部は僕の異常に気付いたようだった。

「どうしたの? また畑中さんにイジメられたのね。男の子なんだから簡単に泣かないで。ほら、ハンカチを貸してあげるから、トイレで顔を洗ってらっしゃい」

 渡部の優しさが心に染みた。畑中が来るまで、渡部は口の悪い女だと思っていたが、僕が間違っていた。渡部は負けず嫌いで血の気が多いから、僕から文句を言うと倍返しされるが、笠原純子に対しても礼儀正しく、親切だったし、僕が畑中にイジメられるのを見てこんなに親切にしてくれる。本当はとても優しい女性なのだ。スタイル抜群で、顔も美人だし、頭が良くて、仕事も抜群だ。今後は素直に敬意を示して接していこうと思った。これまでは、心の底に変な劣等感があって、それなのに対等であるかのような口を聞いていたから渡部を苛立たせることがあったのだ。

 トイレで顔を洗って席に戻った。客先から渡部の担当の国内取引商品を注文する電話が入ったので、受注ノートに記入しながらメーカーに電話して、インプットと受注票などの印刷を終えた。プリントアウトされた書類にミスがないかを一生懸命確認し、左上をクリップで留めて渡部に差し出した。さっきの数分の一の時間で作業ができた。畑中のスピードとは比較にならないが、僕もやればできるんだと自信がついた。

 五時にインプットモニターリストを取りに行くと、昨日と同じ商品でエラーが発生していた。僕は受渡部の担当の三原の所に行って「お忙しいところすみません」とモニターリストを見せた。

「ああ、これね。今朝インプットした分だけど、畑中さんに言われてチェックしたら、ルート設定が間違えていたことが分かったからすぐに訂正したわ。設定を変更したから二度と同じミスは起きない。でも、これは渡部さんの担当じゃなかったっけ? 早海君に担当が変わったの?」

「いえ、担当は渡部さんです。昨日、モニターリストにエラーが出ていたのに何もアクションを取らずにいたら、今朝、畑中さんから叱られたんです。だから、今度は叱られないようにと思って……」

「今日、早海君が畑中さんに叱られて泣いていたという噂は聞いているわ。畑中さんが下の子に厳しいのは有名だったからね。でも、こう言っちゃなんだけど、派遣のくせして総合職の男の子を泣くまで叱りつけるというのは、ちょっと行きすぎよね」

「一般職業務を全然知らなかった僕が悪いんです。畑中さんに教わって、何でもできるようになりますから、また教えてくださいね」

「私でよければいつでも聞きに来て。頑張ってね」

第三章 習うより慣れよ

 水曜日の朝、畑中が来てから三日目だ。「ビフォー畑中」と「アフター畑中」は僕にとって別世界だ。

 総務部のボックスで郵便物や社内配布物をピックアップしてから席に着き、佐藤課長、香川、渡部の席に配布した。日課のメール処理を開始したが、九時を回ると客先からの電話が入り始めた。注文が三件入り、僕はメーカーや受渡部の三原に電話して出荷を手配し、並行してインプットをした。三件目の注文をプリントアウトしようとしていた時に畑中が出社した。

 畑中は席に着く前に総務部に寄って、僕がピックアップした八時四十分以降にボックスに届いた郵便物を二、三通手にしていた。

「これ、追加の郵便物よ。九時過ぎに配布物がボックスに入れられることは多いから、必ず二度取りに行きなさい」

「注文の処理が終わったら取りに行こうと思っていたんですけど……」

「言い訳だけは一人前ね」

 渡部が僕たちの会話を聞きとがめた。

「畑中さん、彼、注文の取次ぎをしていて、忙しかったみたいですよ」

「すみません、担当の方の前でこんな話をして。今、色々教えているところですから」

「こちらこそさしでがましいことを言ってすみませんでした」
 さすが渡部だと思った。畑中を怒らせないためには、あんな言い方をすればいいんだと思った。

 追加の郵便物を畑中が配ろうとしないので僕が配った。三件分の受注のプリントアウトは僕がセットして、香川と渡部に配ろうとしたが、畑中の顔を立てるのが波風を立てないコツだと思い、畑中に渡してチェックを依頼した。

「OKよ」
と言って畑中はセットした伝票類を香川と渡部の席に持って行った。

 渡部の一言のお陰で、畑中の僕に対する口調が柔らかになり、僕は笠原純子がいた時と同じように心安らかに仕事に励むことが出来た。笠原純子と違う点は、コピーなどの雑用を頼めないということだった。課長、香川と渡部は純子の時と同じように「これコピー五セット」とか「経営企画部に届けてくれる?」とか「第二応接にお茶三つね」などと気軽に依頼して、畑中も当然のように応じている。でも、僕が畑中に「これ十部コピーしていただけませんか?」などと言おうものなら、無理難題が十倍、二十倍になって返ってくるだろうという気がした。僕は自分の事は自分ですることに徹したので、問題は起きなかった。

 午後から、在庫商品の受注処理を教えてもらった。インプットモニター表の件で、処理方法は大体把握していたので、一時間ほどで畑中から合格点をもらうことができた。

「在庫商品について先入れ先出しを心がけることと、どのロットから出荷すべきか判断できなかったら担当者に必ず相談することが大事よ。担当者が不在とか、相談できないほど忙しそうな場合は、受渡部の三原さんに相談に行けば間違いないわ」

 そう言った後で、周囲を見回して僕たちの会話を聞いている人が居ないことを確かめてから「昨日、私にイジメられて泣かされたと、三原さんに告げ口したらしいじゃない」と僕に言った。

 僕は「とんでもない」と必死で首を横に振った。

「それは全くの誤解です。僕は畑中さんからご指導を受けて、今まで知らなかった一般職業務が少しずつ分かるようになったことを感謝しています。三原さんにもそのように説明しました」

「私に弓を引く時にはそれなりの覚悟が必要だと言うことは覚えておきなさい」
 低い声で言われて身が縮む思いだった。

 続いて入金処理について教わったが、一段落ついた時に、畑中に外線から電話が入った。畑中は「分かりました、すぐ参ります」と言って受話器を置いた。

「保育園からの電話だった。子供が熱を出したの。これから迎えに行かなきゃならないんだけど……」

「そんな時にはご遠慮なく僕に頼ってください。早く子供さんのところに行ってあげてください」

「ありがとう、恩に着るわ」
と言って畑中は退社した。

 これが契機になって畑中といい関係になれればいいなと思った。

 それからの三時間はてんてこまいだった。客先からの注文の電話が次から次へとかかってきて、その処理が終わらないうちに、経理部から呼び出しがかかり、隣の課の一般職の上条真紀に留守を頼んで席を立った。受渡部に書類を取りに行く時にも真紀に「すみません」と声をかけねばならず、部内の一般職との横のつながりの大切さを痛感した。

 僕自身の担当業務に取り掛かることが出来たのは五時半を過ぎてからで、七時半まで残業して仕事を片付けた。


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