採用面接
【内容紹介】2017 よしもと・Amazon 原作開発プロジェクト・コンテスト優秀賞受賞の本格TS小説。入社4年目の商社マン佐倉恵斗は新入社員の時にニューヨーク研修を経験しニューヨーク駐在に憧れている。ニューヨークの企業を買収し幹部としての派遣要員を募集中のメーカーから誘いを受けた恵斗は、渡りに船と転職する。第一章 スカウト
僕は採用面接が大きらいだ。
採用面接というものは得てして一方的で、不愉快なものだ。採用する側は大勢と面接してその中から少人数を選べばよい。本来、百人の候補者の中から十人の人材を選ぶのなら、良い点に着目して才能、魅力、将来性が特に輝いている人を選ぶべきなのに、日本人の傾向として減点主義に陥りがちであり、悪い点を見つけて候補者数を減らそうという姿勢で面接が行われることが多い。
極端な例として圧迫面接がある。面接官が意図的に意地悪な発言や批判、質問をぶつける面接のことだ。相手を理不尽で威圧的な状況に置いて、答えにくい質問を浴びせかけることによって、どんな対応をするかを観察するという手法だ。僕も大学四年の就活で一度だけ圧迫面接を受けた経験があるが、その時には面接官の失礼な言葉を聞いて頭に血が上り、血管が破裂しそうになった。
「礼儀をわきまえない社風の会社に就職するつもりはありません」
と席を立って帰ろうかと思ったが、実際には足がすくんで、しどろもどろの返事が口から出て来ただけで面接が終わった。後日不採用の通知が届いた時の、ほっとした気持ちが記憶に残っている。僕は威圧的な状況に置かれるのが不得手だ。
その会社は極端な例かもしれないが、他の会社に就活に行った時の面談も、概して上から目線で一方的なものだった。
唯一の例外が大手商社のS社だった。面接官は三十才前後の女性だったが、僕は不思議にリラックスして受け答えすることができた。彼女は最初から対等の視線で僕を見て、友達のように話してくれた。僕のどんな点が気に入られたのかは不明だが、その日のうちに部長面接、翌週に役員面接と進んで内定をもらうことができた。
僕はS社に就職し、入社半年後に海外研修生に選ばれてニューヨークに派遣された。海外研修生というのは「見習い駐在員」のようなもので、駐在員から言いつけられる雑用を通じて営業だけでなく経理、財務、法務、人事、運輸、保険、審査など幅広い実務知識をOJTで学ぶことができる。管理部門は現地スタッフの比率が高いので、管理部門相手の雑用が多い研修生は常に英語を学べる環境に置かれるのだ。
火曜日と木曜日の午後三時から一時間、同じビルにある英会話教室の個人レッスンに通わせてくれたが、それは発音の矯正や英語らしい言い回しの習得が目的だった。僕は耳は良い方で、英語の発音にも自信があったが、英会話教室に行った初日に「あなたはyearとearの発音が同じだ」と指摘されて面食らった。どちらも「イーア」と発音すると思い込んでいたからだ。先生がyearとearを何度も発音し、その日のレッスンが終わる時には先生の言うyearとearを聞き分けられるようになった。
駐在員として派遣されている中堅社員たちは、マネージャー的な仕事をしている。米国法人の従業員の半数は補佐的な業務に従事しており、駐在員たちは上から目線で米国人と接する機会が多い。「研修生」は英語で言うとtrainee、すなわちtrainされる立場という意味であり、秘書やアシスタントから見て自分より同等かそれ以下の存在だ。おかげで僕は駐在員が経験することのない「普通のアメリカ人従業員」の立場で一般従業員と親密な関係を築くことが出来た。
僕は特に秘書の女性たちからの受けが良く、自分の部の秘書だけでなく、会社中の秘書たちと気軽に声を掛け合える関係になった。一年の研修期間を終えた時はニューヨークを離れることが本当に辛かった。秘書たちから「一日も早く駐在員としてニューヨークにカムバックするのを待っているわ」と言われて涙の別れをした。
「いつか絶対にニューヨーク駐在員になろう」と心に決めて帰国したが、半年後の組織改編の際に、僕は国内市場が主体のグループに配置転換になってしまった。仕事はそれなりに楽しかったのだが、早くニューヨークで働きたいという強い思いが日増しに高まった。半年ごとの考課面接や人事関係の調査書などの機会があるたびに、ニューヨークで働きたいという希望を訴えたが、僕の願いが聞き届けられそうな気配は全くなかった。
転機が訪れたのは入社して四年半近くが過ぎたころだった。取引先の透華という化粧品メーカーの購買部長が社長のお供で米国出張することになり、僕が担当している原料メーカーの工場の訪問が予定に含まれることになった。僕は上司からその出張に同行するよう命令され、念願の米国出張の機会を得た。
透華は創業者の武藤社長のオーナー会社で、上場間近の優良企業だ。武藤社長は自身がCMにも出演する美しい女性で、五十代半ばにもかかわらず、潤子という名前に相応しい潤いのある肌をしていた。購買部長の山村啓子はアラフォーで、武藤社長のお供という大役に緊張していた。二人とも英語の読み書きは出来るが、英会話はごく初歩的なレベルだった。僕は通訳として大いに頼りにされ、出張を通じて二人の重要人物と親しくなることが出来た。
「佐倉君を見ていると透華を設立したころの自分を思い出すわ。目が新しいものを探し求めてキラキラと輝いている。佐倉君は入社五年目だから二十六才かな?」
「はい、三月に二十六になりました。二十六才の武藤社長ってどんなにおきれいだったのか、想像するだけでもワクワクします。透華という社名は当時の武藤社長の透き通る花びらのようなお肌からの連想だったんですか?」
「佐倉君に言われると、そんなお世辞でも嫌味な感じがしないわ」
「お世辞じゃありません。今、本当にそう思ったんです」
「ありがとう。でも、当時の私はスキンケアなんて眼中にないほど働きづめで仕事に夢中だったから、透き通る花びらどころか、潤子という名前を書くのが恥ずかしいほど潤いのない肌だった。私は二十六になるまで商社でOLをしていたんだけど、上司に連れられて香港の展示会に行った時に透き通る花びらのような肌の若い女性を大勢見てショックを受けたのよ。会社を作った時には透き通った花びらという意味の『透花弁』という社名を思いついたんだけど、母から『お弁当屋さんみたい』と言われたから透華にしたの」
僕は「お弁当屋さんみたい」というのが可笑しくて、クククッと笑った。
「透華と聞いて肌のことだと連想できる男性は稀だわ。佐倉君は良い感性を持ってるわね。化粧品に興味はあるの?」
「化粧品原料の営業を担当していますから、一応興味はありますけど、自分で使うのはヘアジェルだけです。セリアでCRESTという百円のヘアジェルを半年ごとに一本買うだけですから、一ヶ月の化粧品代は十八円ってところです」
「まあ、ひどい」
「ヘアカットもセリアで買った散髪用のはさみで自分でやっていますから、美容のために使ったお金は過去一年間で三百二十四円です」
「ホームレス並みのビューティーケア予算ね! それなのに佐倉君はとても美しい。うちの美容液を使えば、潤いのある、透き通った花びらのような肌になるわよ」
毎日英語力を見せつけた結果だろうが、武藤社長の言葉の端々に僕に対する敬意が感じられる。お互いに敬意がある状況での会話は心地よいものだった。武藤社長は肉料理が好きで、夕食はナパ・バレーの赤ワインとカンザス産のWagyuビーフをご馳走してもらった。
武藤社長は通常だとうちの会社の役員と一緒に年始の挨拶にでも行かない限り近くで見ることすらできないレベルのVIPだ。僕の年令でそんなセレブな女性と親しく接することが出来たのは、海外出張による役得だった。年齢的には母より少し上だが、姉のように感じられる女性だった。
出張から帰った翌週、購買部の山村部長から電話があった。武藤社長が出張のお礼に一席設けたいと言っているとのことで、翌日の夕方の都合を聞かれた。
「本部長の都合をチェックして折り返しお電話します」
「そういう趣旨の誘いじゃないの。佐倉君一人をご指名よ」
「僕でよろしければ、いつでもOKです」
翌日金曜日の六時半に赤坂の料亭に来るようにと言われた。
それはうちの会社だと部長クラスでも気軽には使えないクラスの高級な料亭だった。翌日、僕は買ったばかりのスーツ、新しいカッターシャツと下着を持って出社し、夕方会議室で着替えて、赤坂の料亭に出向いた。
先方は武藤社長と山村部長の二人だろうと想定していたが、武藤社長一人が部屋で待っていた。出張で親しくなったはずの相手だったが、僕の緊張は一気にピークに達した。
「どうしたの? すごく緊張してるみたいだけど」
「僕みたいなペッぺーが、武藤社長のようなセレブな方と一対一でご一緒するとは思っていませんでしたので……」
「アメリカではリラックスしていたのに」
「日本に帰ると、格が違いますから」
「心配しなくても取って食べたりはしないわよ」
気品と重みが感じられる和室だった。床の間を背にして僕と向かい合う武藤社長の肌の白さを実感して、頬が紅潮した。
仲居が入って来た。酌をされて食事が始まった。
「清潔感にあふれた服装ね。ひょっとして私に会うために、夕方カッターシャツと下着を着替えたんじゃないの?」
思いがけず言い当てられて、再び頬が赤らんだ。
「においで分かったんでしょうか……」
「もっと近くに来ないと、においで嗅ぎ分けるのは無理よ」
と言って武藤社長は微笑んだ。
僕はその言葉が、もっと近くに来いという意味なのではないかと思った。その時、僕が一人で料亭に呼ばれた理由がピーンと頭に浮かんだ。アメリカで『佐倉君はとても美しい』と言われたことを思い出した。武藤社長は僕の身体が目当てなのだ! そこの襖の向こうには布団が敷かれていて、食事の後、服を脱ぐようにと言われるのだろう……。左側の襖の方を見ながら、僕は自分の運命を呪った。心臓がドクドクと大きな音を立て、耳の付け根まで真っ赤になった。
「佐倉君と一週間行動を共にして、どうしても佐倉君を手に入れたくなったの」
「で、でも、僕は……」
唇と顎が震えて歯がガチガチと鳴った。もし断ったら、僕は出入り禁止になるだろう。透華はうちの会社との取引を止めるかもしれない。
「だめなの?」
頭の中がグルグルと回っていた。僕は目を閉じて二、三秒してから心を決めた。
「僕なんかでよろしいんですか?」
「うれしい! 来てくれるのね」
「今から、ですか?」
襖の向こうで服を脱がされるのではなさそうなので少しほっとした。ラブホテルに連れて行かれるのだろうか。明日の土曜日、いや、最悪の場合月曜日の朝まで奉仕させられるかもしれない……
「佐倉君、何か勘違いしてない? 私は佐倉君を透華にスカウトしているのよ」
とんだ一人合点だった。身体中の毛細血管が恥ずかしさのあまり破裂しそうだった。
「実は、アメリカで企業買収案件があって、英語が堪能な人材を必要としているの。買収するのは小さなスキンケア化粧品のメーカーだけど、製造は全て他社に委託しているファブレスメーカーよ。彼らのユニークな販路と、小さいけれど魅力のあるブランドが手に入る。買収後は製造と開発に透華本社の機能を活用できるから、投資を回収しやすい」
「その交渉に英語力が必要なんですね」
「交渉は森下常務に任せてある。必要なのは買収後に当社から派遣する人材よ」
「それはアメリカのどこにある会社なんですか?」
「ニューヨークよ」
僕は雷に打たれた気がした。憧れのニューヨーク勤務の話が、すぐ手が届きそうなところに来ている。
「透華のニューヨーク駐在員というお話なんですね!」
「ちょっと違うかな。買収した会社を透華本社の意向に沿って経営する役割よ。現在の社長はそのまま起用を継続するということが先方側の条件だから、佐倉君は副社長という肩書になるかな」
「副社長ですか? 僕なんかが!」
「アハハ、透華の副社長じゃないわよ。透華の社員が子会社に副社長として出向するだけだから、給料は透華本社の給与体系通りよ。大手商社の給与には見劣りするけど、透華は年功序列じゃなくて給与は役職によって決まるから、若くてもマネージャーになれば大手商社の若手より高い給料が取れる。逆に実力が無いことが分かってマネージャーから降格になったら大手商社の新入社員並みの給料まで下がることさえあり得る。佐倉君の場合は現在の給与レベルを考慮して、とりあえず主任として入ってもらうことになる。子会社の副社長として派遣された段階で本社の若手マネージャー並みの給与になると思うわ」
「本社の若手マネージャーの給料とはどのくらいですか?」
「とりあえず八百万だけど、買収した会社の業績が上がれば、ボーナス込みで一千万以上になる」
「すごい。是非やらせてください」
「副社長として使い物にならない場合は帰国させるわよ。そうなったら給料が半分以下になる可能性もある」
「給料の問題じゃなくて、僕はニューヨークで働きたいんです。副社長じゃなくても、ヒラの担当者としての派遣でもお引き受けしたいほどです。きっとご満足いただけるように頑張りますから、その仕事を僕にやらせてください」
「分かった。じゃあ、交渉成立ね。できるだけ早く今の勤め先に退職届を出して、うちに来てちょうだい」
「はい、社長」
突然目の前に明るい未来が広がった。こんなに爽快な気分になったのは大学を卒業して初めてかもしれない。
しかし、武藤社長の次の言葉で僕はどん底に突き落とされた。
「仕事の話はこれでお終い。その襖の向こうの部屋に先に行っていなさい」
僕の勘違いではなかったのだ。武藤社長は僕の身体を手に入れたくてスカウトしたのだった。本当にニューヨークに派遣してもらえるのだろうか? 社長のおもちゃとして飼い殺しにされるのではないだろうか……。それでも僕はニューヨークに行けるチャンスを逃したくない。意を決して立ち上がったが、長い間正座していたので、フラフラしていた。
「冗談よ、冗談。さっき佐倉君が襖をじっと見て、もじもじしながら真っ赤になっていたから、ひょっとしたら妙な想像をしてるんじゃないかと疑っていたのよ。やっぱりそうだったのね。アハハハハハ」
穴があったら入りたいと思った。
「私はスケベじゃないから、いくら佐倉君が魅力的でもそんなことは言わないわ。でもそういう選択肢もあったのね。子会社の副社長として使い物にならなかった場合は私の秘書にしようかな。アハハハ」
「そうならないように頑張ります」
***
月曜日の朝、課長に退職を願い出た。退職理由を聞かれて、明快に答えることが出来た。
「ニューヨーク駐在員としてスカウトされたからです。僕はどうしてもニューヨークで働きたかったので、機会があるたびに希望を出していましたが、この会社でいると当分チャンスはなさそうなので、スカウトを喜んで受けました」
課長からは「次期駐在員の候補に含まれていたのに」と、適当なことを言われて慰留されたが、僕はもちろん聞く耳を持たなかった。
課長と部長から了承をもらった後で人事部に行って退職の手続きをした。うちの会社は透華から見て原料納入業者であり、円満退職することが大切だと思い、言葉には気をつけた。翌々日の水曜日から一週間の有給休暇を消化して九月末付けで退職することになった。
一日半ほどで課の先輩への業務引継ぎを行い、僕は四年余り勤務した商社を去った。
第二章 入社初日の洗礼
十月三日の月曜日。透華への初出勤の日だ。透華本社のビルは新橋駅を降りて汐留シティセンターに向かう通路の途中を左折したところにある。雨の日でも傘無しで殆ど濡れずに行けそうだ。
人事部に出頭したところ、八階にある社長室に連れていかれた。ソファーに座って待っていると、武藤社長が五十才前後の赤い縁の眼鏡をかけた小柄な女性を伴って社長室に戻って来た。
「おはよう、佐倉君。あなたを透華の一員として迎えることが出来て嬉しいわ」
「光栄です。一生懸命頑張りますのでよろしくお願いいたします」
「森下常務、佐倉君をお任せしますから新戦力として役立ててください」
「承知しました。佐倉君、男性だからといって、手心は加えないわよ」
女性の上司に仕えるのは初めてだが、変な言い方をする人だなと思った。
「素直が取り柄ですので至らない点があればどうぞご遠慮なくご指摘ください」
「森下常務も途中入社で、国際部と法務部の二部門を統括されているの。私がサクセンチュアから引き抜いたスーパーエリートよ」
サクセンチュアは全社員のIQが百三十以上ということで話題になっている外資系の戦略コンサルタント会社だ。社長から最大級の賛辞を得た森下は、高くない鼻の穴が見える程に顔を上げて僕を見た。森下はハガキを一回り大きくしたようなカードを僕に差し出した。
「正式の辞令よ。『佐倉恵斗を国際部事業開発室の主任に任命する』。買収完了後ニューヨークに赴任する前提でNYプロジェクトを担当させるようにと、社長から承っている」
「よろしくお願いいたします」
僕はテーブルに額がつくほど頭を下げて辞令を受け取った。
森下常務と一緒に社長室を退出した。エレベーターに乗ってドアが閉まったが森下常務がボタンを押さないのでエレベーターは八階に停まったままだった。どうしたんだろう、この人、ボケたのかな? そう思って顔を見たら視線が合った。
しまった!
エレベーターの右側の壁に、各階の部署の名前が書かれていた。僕は国際部が五階にあるのを見つけて、五階のボタンを押した。
「状況判断に七秒もかかったか……」
森下常務が独り言のようにつぶやくのを聞いて背筋が寒くなった。
国際部と表示された部屋に入ると、窓を背に二つの席があり、その各々の前に、三席ずつが向かい合う島があった。
「向かって左側が海外営業課、島課長の下に総合職三名と一般職二名が居て、ひとつは空席。右側が管理課で、清水課長と一般職二名だけ。管理課の中央の二席は作業用の席で、下手の二席が空いているから、その二席を事業開発室の席にするわ」
「事業開発室って僕一人なのですか?」
「社長がNYプロジェクト用に大げさな名前の部署を作っちゃったのよ。私が室長で、部下は佐倉主任だけ」
「なんだ、そうだったんですか。主任というから部下が何人かいるのかと思いました」
「社長からスカウトされた時に質問をしなかったの? 状況把握の基本的能力に問題があるか……」
再び独り言のようにつぶやくのを聞いて、冷汗が出たが後の祭りだった。森下常務は管理課の清水課長のところに僕を連れて行った。
「清水さん、今日付けで中途入社した佐倉恵斗君よ。国際部事業開発室の主任という辞令だけど、勤怠管理は清水課長に任せたいの。佐倉君も一人では心細いでしょうから、管理課の一員みたいな感じで扱ってもらえないかな?」
「承知しました。こんなに若いのに主任なんですね」
「社長が決められたことだから」
と森下常務がぶっきらぼうに答えた。
「佐倉君、男性で主任というのは当社始まって以来だから色々プレッシャーもあるでしょうけど、困ったことがあったら何でも相談しなさい」
と清水課長に言われた。
「男性の主任は初めてなんですか? 存じませんでした。でも、主任をスキップして課長や部長に昇進はできませんよね……。あっ、そうか。課長以上の男性は全員が中途採用された人たちなのですね」
僕の発言に部屋中がどっと沸いた。国際部の全員が僕たちの会話に耳をそばだてていたようだ。
「透華は女性が女性のために作る化粧品のメーカーというコンセプトの会社だということを知らなかったの? 三年前から男性の採用を開始して、国際部には今年初めて男性が異動してきただけだったから佐倉君が二人目の男性よ。当社の管理職は当然全員が女性なんだけど」
僕は目を丸くして清水課長の話を聞いた。驚くべき話だったが、女性に囲まれて仕事ができると知って少しワクワクした。
「男性が転職先を選ぶうえで非常に重要な事項だと思うけど、そんなことも知らずに就職したの? 基本的な事項を把握する能力というか、視点が欠けているんじゃないの?」
森下常務からあからさまにダメ出しされた。初対面の上司の前で三つ目の失態をしてしまって、僕はうろたえた。
「購買の山村部長としか接点がなかったものですから……」
「透華を訪問した時に女性ばかりしか見かけなくても何とも思わなかったの?」
呆れたように言われた。どんな言い訳をしても墓穴を掘るだけだと思い、僕は黙っていた。
「まあいいわ。NYプロジェクトの状況を教えるから、十時に5Cの会議室に来なさい。5Cは十時半から予約を入れておいたけど、十時から二時間の予約に変更しておいて」
「はい、承知しました」
僕は5Cの会議室がどこにあってどのように予約の変更をすればよいか見当もつかなかったが、とりあえず「はい」と答えておいた。
森下常務が部屋から出て行った。清水課長から見て左側の末席が僕の席らしい。僕は着席してとりあえずノートパソコンを開きスイッチを押したが、ログオン画面でインプットするIDとパスワードをまだもらっていないことに気づいた。
「あのう、清水課長。会議室の予約を変更するのにパソコンを使いたいのですが、どうしたらよろしいんでしょうか?」
「関本さん、佐倉君に教えてあげて」
清水課長が、左斜め前の席に座っている四十絡みの女性に言った。関本と呼ばれた女性は僕を左の空席に座らせて、自分のパソコンで会議予約システムを開いた。
「十時まで、あと十分しかないから、私が変更をしてあげる。森下常務は時間に厳しい方だから、五分前に会議室に行った方がいいわよ。IDは従業員コード、パスワードは生年月日の八桁の数字で初期設定されているはずだから、初回にログオンした時にパスワードを変更すること」
「関本さん、ありがとうございました」
僕は自分の席に戻って従業員コードと生年月日を入力してログオンした。パスワードを変更するためのメニューを探し出すのに時間がかかったが、僕が普段使っている八桁の英数字をパスワードとして設定した。
「佐倉君、もう十時三分前よ。早く行かないと遅れるわよ」
「あっ、いけない」
関本に言われて立ち上がり、部屋から出て廊下を会議室エリアへと走って行ったが5Cの部屋は見つからなかった。
どうしよう。遅れる!
丁度若い女性が通りかかったので「すみません、5Cってどこでしょうか?」と聞くと「5Cは七階よ。エレベーターを降りて右側の突き当り」
お礼を言ってから階段まで走って行って、七階まで駆け上がった。5Cのドアを開くと、森下常務が不機嫌そうな表情で座っていた。
「二分遅刻か……」
「申し訳ございませんでした。別の階にあるとは思いもよらなくて……」
「ふうっ、困ったものだわ」
あきれ果てたようなため息を聞いて、僕はションボリとなった。
「武藤社長の気まぐれにも困ったものだわ。五回連続で五段階評価で上から五番目のスコアを取る『男性』をスカウトしてくるんだから」
森下常務の前で失態ばかり演じている僕は何を言われても仕方がないが、社長の気まぐれという表現は、武藤社長に対して失礼だと思ったので、僕は聞き流すことができなかった。
「汗顔の至りです。社長の気まぐれでなかったということは仕事で証明するしかありません」
「きれいな顔をツンとさせてそんな発言ができることが、社長の心をくすぐったのね。まあいいわ。NYプロジェクトの説明を始めましょう」
ますます酷いことを言われて耳たぶが燃えるように熱くなった。怒りが顔に出ていたかもしれない。
「クラリジェル社はVVコスメティックの百パーセント子会社だけど、VVコスメティックが欧州のクリスタルミネラーレを買収した結果、事業が重複するクラリジェルを売却することになったの。実際には私がVVコスメティックのトップに働きかけたからクラリジェルの売却方針が固まったんだけど。だから破格の条件で買収することができたわけ。これが先月調印した買収契約のコピーよ」
「既に買収が完了したんですね。ああ、よかった。買収計画が最終段階にあると聞いたので、もしまとまらなかったらニューヨークに行けなくてイヤだなと心配していたんです」
「佐倉君、商社マンだったのに企業買収は初めてなの?」
「いえ、ニューヨークで働いていた時に二件の買収を横で見ていましたから少しは分かります」
「買収を担当していたわけじゃないのね?」
「研修生でしたから書類を届けたり、社内弁護士のセクレタリーと大の友達になるほどどっぷりと案件に関わっていました」
「武藤社長の話と全然違うわ。トレイニーが秘書代わりにパシリをしていただけなのか……」
森下常務は僕に対して酷いことを言うが、こんなふうに独り言のように言われるのが一番傷つく。
「企業買収の際には、まず売買契約を締結するんだけど、殆どの場合は subject to due diligence という条件付きで契約するのよ。デューデリの内容についてはその契約書の十七条に記載してある通りよ」
「なんとかデリとおっしゃいました? ニューデリーとか、インドと関係があるんですか?」
「アハハハハ」
森下常務の爆笑のおかげで、緊張が解けた。
「佐倉君って面白いのね。土壇場まで追い詰められた状況でそこまでバカバカしい冗談を平気で言えるとは、さすが元商社マンだわ。サクセンチュアの社員にはできない芸当よ。見直したわ」
「お褒めいただいてるみたいで嬉しいんですけど、僕って何か変なことを言いましたっけ?」
「ま、まさか、デューデリという言葉を知らないんじゃないでしょうね?」
「駐在員の人がデューデリとか言っていたような気もするんですけど、何かデリバリー関係のことかと思っていたんです。あの時に調べればよかったんですが、会議用の資料のコピーを言いつけられてすごく忙しかったので……」
「アメリカのビジネスマンの秘書でも due diligence を知らない人は今どき居ないわよ。佐倉君はニューヨークでは秘書のアシスタント的な事をしていただけなのね。一体、武藤社長に対して自分を売り込むためにどんなプレゼンテーションをしたの?」
「何も売り込みなんてしていません。武藤社長のアメリカ出張のアテンドをして通訳をしたんです。帰国後、透華に来いとスカウトされました。もう一度ニューヨークで働くことが僕の夢だったので、買収予定の会社の副社長にしてくれるというお話に飛びつきました」
「本来は一般職として雇うべきレベルの子を、社長の勘違いで主任としてスカウトしちゃったわけか……」
「僕、帰国後も三年間も営業の担当者として働いてきました。一般職のレベルなんかじゃありません。必死で頑張りますから、森下常務の下で勉強させてください。お願いします」
「社長のメンツもあるから、主任の辞令を出した以上、すぐに一般職に降格させるのは無理か……」
恐ろしい独り言を言った後で僕を真剣な表情で見た。
「社長から頼まれた以上、私としては佐倉君を使いこなすべく最善の努力をしてみるべきね。死ぬ気で私についてくる覚悟があるんだったらチャンスを与えるわ」
「はい、何でも森下常務のおっしゃる通りにいたします。どうか僕にチャンスを下さい」
「わかった。じゃあ、契約書の内容を完全に理解することから始めなさい。私も、佐倉君の国際法務の理解力や英語のレベルがどの程度かを把握する必要があるから、契約書を最初から音読してみて。できるだけ早口でね。それを聞けば、英語力とリーガル・レベルが分かるから」
僕は声を出して契約書を読んだ。意味がつかめない単語が沢山出てきたが、時々つまりながら、結構速いスピードで読み続けた。最初のページを読み終わった時点でストップがかかった。
「私よりも良い発音だわ。耳が良いのね」
森下常務から褒められたのは初めてだった。僕は鼻高々で答えた。
「ありがとうございます。ニューヨークでも部にかかってくる電話は僕が真っ先に取って駐在員に回していましたので」
「今読んだ部分で百パーセント意味がつかめない単語に下線を引きなさい」
「すみませんけど、ペンを貸していただけますか?」
「自分が担当する予定のプロジェクトの会議に筆記用具を持たずに来たとでも言うの?」
「遅れそうになって慌てて席を立ちましたので」
「死ぬ気でやるというのは、その程度なのか……」
僕は殆ど泣きそうだった。
「今読んだ部分で、重大な問題点がひとつあるんだけど、それは第何条だか分かった?」
僕には全く答えようのない質問だった。
「じゃあ、ヒントを出すわ。当事者関係のことだと言えば分かるわよね?」
「……」
「分からないの?」
「すみません、知らない単語が多かったので……」
「この種の文章に分からない単語が出てくるのは日本人だから仕方ないわ。大筋が理解できて、明らかな問題点に気づければ何とかなる。でも、佐倉君の場合は一見きれいな発音で読んでいても、内容が殆ど理解できていないということが聞いていて明白だった。残念だけど、私も忙しいから、今日の説明はこれで中止させてもらうわ」
サジを投げられてしまった。僕はどうなるんだろうか。涙がどっと溢れてきた。
「きれいな顔で涙を見せても私には通用しないわよ。武藤社長の顔を立てるという意味で、明日まで時間をあげる。この契約書を隅々まで読みなさい。明日午前十時にもう一度面談して、佐倉君が教育に値する人材かどうかを最終的に判断することにする」
森下常務は席を立って会議室を出て行った。武藤社長から三顧の礼で迎えられて意気揚々と乗り込んできたのに、いざ入社してみたら鬼のような常務に丸投げされて、こてんぱんに打ちのめされた。色々と間の悪い状況が発生して僕のドジな面ばかり見せてしまうという不運はあったが、それにしても冷淡すぎる。きっと森下常務は僕のようなタイプの男性が嫌いなのだ。そう言えば「きれいな顔」と二回言われた。チビで風采の上がらないオバサンなら自分より整った顔の男性には好意を示してもよさそうなものだが、好意の代わりに羨望の念が湧いたのだろうか?
もう一つの可能性としては、サクセンチュア出身の森下常務が、大手商社マンという世間からもてはやされる花形の職種をライバル視していて、元商社マンの僕の能力を過小評価することによって、戦略コンサルタントという職歴の優越性を透華の社員に誇示したいと思っているのではないだろうか? そういえば、「さすが元商社マン」とか「商社マンなのに」とか、僕が商社マンだったことを意識した発言があった。
もし、外観への嫉妬と、商社マンの否定という二つの要因が合わさったものだったとしたら事は重大だ。武藤社長に直訴して、別の上司の下につけてもらった方がよいのではないだろうか? でも、海外関係は森下常務の管轄だから、そんなことをすればニューヨーク勤務の夢は消えてしまう。
しかし、冷静に振り返ると、森下常務の言っていたことはあながち否定できない。森下常務の頭脳や知識経験は、僕とは格段の差がある。「簡単な日常英会話の発音は良くても、能力的には秘書のアシスタント程度の知識経験しかない人間」というのは森下常務のレベルからすれば客観的で公正な評価なのかもしれない。武藤社長から過大評価されたことの方が、僕にとって悪運だったのか……
悔やんでいても始まらない。ハンカチは持たない主義なので、ポケットの中のティシューペーパーで涙を拭き、何度か深呼吸をして息を整えた。明日の午前十時までに契約書を熟読して森下常務をあっと言わせてやろうと心に誓って立ち上がり、国際部の部屋に戻った。
席に座ると関本の向かい側に座っている二十代の女性と目が合った。彼女は僕を見ると「ぷっ」と吹き出した。関本がそれに気づいて、僕の方を見た。
「佐倉君も早速洗礼を受けたのね」
と関本に言われた。
「海外営業課の水嶋君も何度も泣かされていたわ。常務は若い男の子を見ると虐めたくなる性格だから。特に美形の男の子には厳しいのよ。だから、佐倉君もあまり深刻に受け止めない方がいいわよ」
「由紀ちゃん、常務に聞かれたらどうするの? それに佐倉君は由紀ちゃんより一つか二つ年上で、主任さんなんだから『佐倉さん』と呼ばなきゃ」
「関本さんも一般職なのに佐倉君と言ってるじゃないですか」
「それもそうね、アハハ」
「僕、泣いたりしてませんから」
そう言うと関本と由紀が顔を合わせて手を叩きながら笑った。
「5Cで泣かされてティッシューペーパーで涙を拭いたでしょう。涙が乾いてから席に戻ったんじゃないの?」
「涙なんて流していません」
由紀が机の引き出しを開けて鏡を取り出し、僕に渡した。一体何だろうかと思いながら鏡を見て、関本と由紀が笑った理由が分かった。左右の目の周りにティッシューペーパーの断片が貼り付いていたのだ。僕は真っ赤になった。
「顔を洗ってらっしゃい」
関本に言われて、僕は顔を手で隠しながら立ち上がった。僕たちの会話は清水課長や海外営業課の人たちにも聞こえていたらしく、僕は笑い声を背中に受けながら部屋を出た。
トイレで顔を洗ったが、ハンカチが無いので何度も手で顔を擦って乾かした。由紀の言っていたことが本当だとすると明日からも泣かされる可能性があるから、ハンカチを持ってこなければ、と思った。席に戻ると、丁度正午のチャイムが鳴り始めた。
「佐倉君、もしよかったら一緒に食堂に行く?」
由紀から声をかけられた。僕にとっては本当に嬉しい誘いだった。
「ご迷惑でなかったら、是非よろしくお願いします」
僕は由紀について行った。
「佐倉君に敬語で話されると対応に困るわ。関本さんも言っていたように私の方が年下だし、一般職なんだから、タメ口で話してよ。佐倉君は何年卒なの? 私は平成二十四年卒だけど」
「僕は二十三年卒だから僕の方が一年上だね。三月生まれだけど」
「私は四月生まれよ。佐倉君が一ヶ月だけお兄さんなのね」
社内食堂に行って由紀と同じAランチを買って奥の四人席に向かい合って座った。間もなく二人の女性が加わって席が埋まった。
「今日入社した佐倉恵斗です。よろしくお願いします」
僕は立ち上がって二人にお辞儀をした。
「商品企画部の水野由香里です」
「経営企画室の橋本麻友です」
「由香里と麻友は総合職だけど、私と同期入社なの。大学も同じK大よ」
「超一流の大学なのに由紀ちゃんだけは一般職で入ったんだね」
「私も総合職として入社したのよ。ところが去年の春と秋の貿易実務試験の時にたまたま体調が最悪で、二度続けて落第点を取ったから、一月から一般職に落とされちゃった」
「そんなに厳しい会社なの!」
「そうよ。特に森下常務は冷徹だから。でも今年の試験は高得点だったから、もうすぐ総合職に戻してもらえる。私はこの一般職のピンクの制服が大好きなのに、返さなきゃならないから残念だけど」
「佐倉さんは男性初の主任として採用されたのに、早速泣かされたそうね。佐倉さんみたいな男の子が森下常務の下に配属になるなんて気の毒だわ」
「どうしてそんなことを知っているの?」
「誰でも知っているわよ。佐倉さんは注目されているもの」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。注目される要素が三拍子そろっているもの」
「僕が注目される要素って?」
「最大の要素は、普通は三十歳以下ではなれないはずの主任として、二十六才の佐倉さんが雇われたこと。うちの会社の二十代後半から三十前後の社員は全員が『ずるい』と思っているわ。佐倉さんがドジを踏んで降格させられるのを期待しているわけよ」
「初日に森下常務から泣かされるというのは予想以上の展開だから、注目度がアップしてるんじゃないかな」
「ちょっと可哀そうだと同情が集まって、佐倉さんとしてはプラスだったかも」
「由紀ちゃんと由香里さんと麻友さんも、僕をずるいと思っているの?」
「ねえ、由紀ちゃんとか由香里さんとか言うのはやめない? 由紀、由香里、麻友でいいわよ」
「でもいきなり女性社員を呼び捨てにするなんて……」
「そうよ。その方がいいわ。その代り私たちも佐倉さんの事は恵斗と呼ぶから」
「一応主任なんだけどなあ。まあ、それでもいいけど……」
「私も今朝恵斗が国際部の部屋に来るまでは『社長の横暴だ』と憤っていたけど、恵斗が思っていたイメージとは全然違っていたから拍子抜けしたわ。いかにも元商社マンですと鼻にかけているイケメンのエリートを想像していたら、全然違っていたし、泣きべそをかいた顔が可愛かったから」
「私もちょっと腹が立っていたけど、今、近くで見て気持ちが変わった」
「私も。っていうか、普通に総合職として入社したら皆から好かれるタイプの人なのに、主任として採用されたために虐められるのは気の毒だと思った」
「主任になりたかったわけじゃないんだ。透華の主任の給料が大手商社の五年目並みの金額らしいんだ。だから会社の方で勝手に僕を主任にしたんだよ。それよりも、残りの二つの注目要因も教えてよ」
「二つ目の要因は、社長がまた気まぐれで誰かをスカウトしてきたということ。今まで社長がスカウトしてきた人は変な人が多いのよ。その代表が森下常務」
「シーッ、由香里、声が大きいわよ」
「確かにIQは高いんだろうけど、明らかに変人よ。エリート女性としての意識の裏返しで、男性をこき下ろすというか。特に若くて美形の男性には異常なほど厳しい。森下常務が一生結婚できないのは間違いないわ」
「海外営業課の水嶋さんも泣かされたと聞いたけど、何があったの?」
「水嶋君はT大学出のエリートでうちの主力銀行の法務部に勤めていたのを社長がスカウトしてきたのよ。『いずれ当社の法務部門を任せる』的なことを言われたらしいんだけど、森下常務に丸投げされたのが運の尽き。水嶋君はまさに森下常務の餌食としてピタリの男性だもの。法務部で毎日けちょんけちょんにダメ出しされて、法務には不向きと烙印を押されて国際部に異動になったのよ。同時に一般職に降格されたんだから」
「だから水嶋君は男性なのに一般職なのか!」
「海外営業課に一般職として移って来た当日に、森下常務が水嶋君に皆の前でピンクの制服を渡したのよ」
「ス、スカートをはけと!?」
「水嶋君は泣きながら許しを乞うたんだけど、森下常務が水嶋君を会議室に引っ張って行って、しばらくしてピンクの制服を着た水嶋君を連れて戻って来た」
「うそだろう!」
「それが幸か不幸か、結構サマになっていたのよね。結局、水嶋君は三日間一般職の制服で仕事していたのよ。でも、その話が主力銀行の頭取の耳に入ったらしくて、頭取が乗り込んできた。武藤社長は森下常務にも恥をかかせることはできないし、結局、一般職への降格は撤回しないけど、特例として制服の着用義務は免除するということで話がついたみたいよ。一般職は期限付きで、今年中に総合職に復帰させるという約束になっているらしいわ」
「さすが主力銀行出身者だ。男性は制服の適用外ということになってよかったよね」
「『男性は適用外』じゃなくて水嶋君が特例として適用外になっただけよ。森下常務が水嶋君で果たせなかった夢を実現するのに、恵斗は絶好の素材なんだから、気をつけた方がいいわよ」
「まさか……」
「水嶋君は細身の美形だけど顔が大き目だし、百七十以上あるから、似合うといってもオカマっぽい感じだったのよ。恵斗なら小顔だし体格も小さいから、森下常務が想像を膨らませるのには格好の素材ね」
「そうそう、飛んで火にいる夏の虫というか」
「鴨がネギを背負って来たというか」
「どうしよう、今朝のミーティングで契約書のコピーを渡されて、明日の十時に理解度をテストされることになってるんだけど」
「きっと意地悪な質問で責め立てられて、その場で一般職降格を申し付けられるかも。明日の昼休みに会う時にはスカート姿かもね」
「99%そうなるわね」
「脅さないでよ」
「森下常務相手に理屈では敵うはずがないから、適当にお世辞を言ってにじり寄るのが賢明かもよ」
「もういいよ。午後、必死で勉強するんだから。ところで、三つ目の注目要因をまだ教えてもらっていないんだけど」
「三つ目も言わせるの?」
「恵斗には言いたくないな」
「もったいぶらないで教えてよ」
「回って来た写真の顔がとてもきれいだったからよ。社長がスカウトした動機がバレバレというか。でも、鼻にかけないでよね」
「鼻にかけるだなんて……。僕、男なんだから、そんなこと考えたこともないよ。言っとくけど、社長が僕をスカウトした理由は英語力だよ。武藤社長が丁度海外派遣要員を探していた時に、アメリカ出張に同行した僕に目をつけたんだ」
「でも、うちの会社には帰国子女が二人いるのよ。一人はアメリカの大学を出てるから、英語ができる若手を新たに中途採用する必要はなかったわ。スカウトしたくなる理由が他にもあったのよ。わかるでしょう?」
「……」
もしかしたら、僕は大変な間違いをしでかしてしまったのかもしれない。商社勤務を続けていればいずれは海外駐在のチャンスがあったのに、目先のニューヨーク派遣の話に釣られて、会社の内容も調べずに入社してしまった。社長が僕の能力以外の点を気に入って、気まぐれにスカウトしたという推測が当たっていたら困ったことだ。
隣の課の水嶋は『化粧品会社にわざわざ一般職として就職したヘンな男性』と思っていたら、僕と同じように社長の気まぐれでスカウトされたT大卒のエリートの成れの果てだと知ってショックだった。僕は森下常務の偏執狂的な虐めによって潰されるかもしれない。水嶋は元の勤務先の主力銀行が救ってくれたが、僕にはそんな後ろ盾は無い……
できることなら時間を戻したかった。
第三章 絶体絶命のピンチ
昼食を終えて席に戻ると買収契約書の読解に取り掛かった。いや、取り掛かろうとした。知らない単語だけでなく、企業買収契約書の構成とかチェックポイントについて調べるためにはグーグル検索が不可欠だ。ところが、僕のパソコンは社内システム専用で、メールもイントラネット経由でしか送受信できないことが分かった。
関本に相談したところ、インターネットに接続するには申請書を提出する必要があるとのことだった。イントラネットで申請書をダウンロードして印刷し、清水課長に承認を頼んだ。
「佐倉君の正式な上司は森下常務だから、森下常務の捺印が必要よ」
森下常務と顔を合わせたくなかったが、背に腹は代えられないので常務室に行ってドアをノックした。
「お忙しいところ恐れ入りますが、インターネット接続申請書にハンコをいただきたいのですが」
「インターネットで調べる前に自分で考える癖を付けるべきよ」
「でも、契約書を読むのに単語を調べる必要がありまして……」
「今朝私が言ったことを忘れたの? 単語が分からなくても大筋を把握して、何がポイントなのかを考えることが大事なのよ。最近の若い人は、分からないことがあれば何でもネットで調べればいいと思ってる。人間にとって最も大切な能力は思考力よ」
「国際部の所属なのにインターネットに接続できないのでは……」
「屁理屈をこねるのが得意なのね。分かったわ。そこの未決のトレイに置いて行きなさい。後で総務に回しておくから」
「ありがとうございます。心からお礼申し上げます」
「私は卑屈な部下は嫌いなのよ」
「……」
「そうそう、いいところに来たわ。この書類を二十セットコピーしてきて。明日からの出張に持参する資料だから正確にセットしてチェックするように」
「その種のコピーは一般職の仕事では……」
「これは事業開発室が担当しているNYプロジェクトに関する資料なのよ。事業開発室に一般職がいるかどうか、私が知らないとでも思っているの? 入社初日で何も仕事がないのに『主任ですからコピーはできません』ですって? 肩書を理由にコピーを断るということなら、肩書を変えるしかないわね。明日の十時の面談結果を見てから判断するつもりだったけど、今すぐ結論を出そうか?」
「結論って?」
「佐倉君は主任ではなく一般職が相応しいということよ。これから人事担当役員のところに行ってくる」
森下常務が席から立ち上がった。僕は真っ青になってその場に膝をついた。
「僕が悪うございました。どんな仕事でも喜んでお引き受けしますので、どうかお許し下さい」
「どうせ口だけなんだから」
森下常務は僕を無視して出て行こうと、ドアノブに手をかけた。僕はドアの前に身を投げ出し、森下常務の足元にひれ伏した。
「お願いです。どうかお許しください。何でもいたしますので、今日だけはお許しください」
「どきなさい、暴力で阻止するつもり?」
僕は泣きながら森下常務の白いストッキングに覆われた短い脚にすがりついた。
「お許しください。何でもおっしゃる通りにします」
「ふん。可愛い顔で涙を流したら何でも許してもらえる環境で育ったのね。そんな手は、私には通用しないわよ。まあ、今日のところは、私も忙しくて、くだらないことに時間を使えないから勘弁してあげるけど、今後一度でも口ごたえしたら、その場で降格させる。それでいいわね?」
「はい、常務。お許しいただいて、本当にありがとうございました」
「じゃあコピーしてきなさい。何分かかるかをチェックするからそのつもりで」
僕はその書類を引っつかんで常務室から退出した。
国際部の部屋に戻ってコピー機を使おうとしたが、勝手が分からなかった。キーを差し込まないと使えないようだった。僕は由紀に相談した。
「課長、恵斗が事業開発室の資料を二十セットほどコピーしたいらしいんですけど、うちのキーカウンターを使わせてあげてもいいですか?」
「恵斗? ああ、佐倉君の事か。その顔どうしたの? また泣いてるの? 森下常務からコピー数の削減を言われてるから、事業開発室専用のキーカウンターを申請して欲しいな。はい、この書類に常務の捺印をいただいて、総務に持って行きなさい」
「コピーにかかる時間と精度をチェックすると言われたんです。もしコピーを届けるのが遅くなったら、僕、僕……」
我慢していた涙がどっと溢れて来た。
「佐倉君みたいな男の子に泣かれると困っちゃうなあ。分かった分かった。今日はうちの課のキーカウンターを使っていいわ」
「ありがとうございます。清水課長」
僕は泣きじゃくりながら深く頭を下げてお礼を言った。
「来なさい、隣の部屋の新しいコピー機を使った方がソーティングが早いから」
由紀が立ち上がり、僕を隣の部屋に連れて行ってくれた。その部屋は作業室を兼ねた会議室のようだ。由紀は僕が常務から渡された書類をトレイにセットした。
「二十セットを作って、ホッチキスで留めればいいのね? 国際部に置いてあるコピー機は古くてエラーが多いし、自動でホッチキスで留める機能が無いのよ」
「ありがとう、由紀。持つべきものは友達だ」
「今度はどういう風に虐められたの?」
コピー機が自動でコピーをしている間、僕は常務から受けた仕打ちについて由紀に話した。
「アハハハ、まるで少女漫画みたいな虐めだわ。完全にターゲットとして選ばれたわけね」
「笑い事じゃないよ。本当に降格寸前まで行ったんだから」
「今夜、脚の毛を剃った方がいいわよ。私と同じ制服になるのは時間の問題だから。アハハハ」
由紀は口は悪かったが、とても親切だった。出来上がった二十セットのコピーを揃えて僕に渡してくれた。
「はい、常務に提出してきなさい。『遅いわね』と文句を言うつもりで手ぐすね引いている常務も、思ったより早いから驚くはずよ」
僕は小走りで常務室に行った。
「失礼いたします。お申し付けのコピーをお持ちいたしました」
常務はコピーを一部手に取ってページをめくった。
「何よこれ」
「何か……」
「十七ページと十八ページが逆になってるわよ。ちゃんとページ番号を打ってあるのに、チェックしなかったの?」
僕は真っ青になった。森下常務から渡された書類をそのままコピー機のトレイに置いたのだった。
「そ、それは……」
「チェックしたの? しなかったの?」
「……」
「しなかったのね?」
「申し訳ございませんでした」
「NYプロジェクトの資料なのよ。佐倉君はそのために入社したんじゃないの? 何が書いてあるか、中身を読みたいと思わなかったの?」
「少しでも早くお届けしなければと思って……」
「トレイニー時代と同じね。担当レベルどころか、セクレタリーの基本すらできていない。やっぱり単なるパシリだったか……」
「今度からは気をつけますので……」
「佐倉君のせいじゃないわ。一般職の仕事すら満足にできないレベルの人間を主任として採用した武藤社長が悪いのよ」
森下常務は受話器を手に取った。
「社長、森下です。ちょっとお話したいことがあるんですが、今からおうかがいしてよろしいですか?」
どうしよう、森下常務は本気なのだ! 全身から血の気が引いた。
「社長室に行ってくるから、その間に資料をセットし直しなさい。その後で二十部全部をひとつひとつチェックするのよ。はい、これ、ホッチキス」
「森下常務、どうかお願いです。もう一度僕にチャンスを下さい。心を入れ替えて一生懸命頑張りますので」
僕は土下座して額を床に着け、泣きながら必死で許しを乞うた。森下常務のハイヒールの音が僕の頭の横を通り過ぎていった。
ドアがバタンと閉って、僕は常務室に取り残された。
終わった……。
床に座ったまましばらく呆然としていた。初日にしてクビだ。全ては森下常務の部下にされたせいだ。不運としか言いようがない。いや、僕にも反省すべき点はある。森下常務の前でミスばかり重ねた僕の至らなさこそが元凶なのだ。自分が苦手な相手の前でビビってドジを踏むタイプだということは自己認識していたのだが、何もかもが悪い方に転んでしまった……。
武藤社長が悪いのだ。こんな僕をおだてて舞い上がらせた武藤社長を恨んだ。社長の補佐役としてそばに置いてくれたらよかったのに、森下常務に僕を丸投げして放置するからこんなことになったんだ。
僕はどうなるのだろうか? まさか、いきなりクビということはないだろう。会社に損害を及ぼすことをしたわけではなく、能力的に期待より低かったという理由でクビにはできないはずだ。ということは、やはり、降格させられるのだろうか……。イヤだ! 一般職に降格させられたなどと友達に知られたらバカにされる。まさか一般職の制服を着るなどという冗談みたいな事にはならないとは思うが、実際に水嶋がピンクの制服で仕事をさせられたという実績があるとしたら僕も……。
それにしても主任からいきなり一般職という、二段階の降格は酷すぎないだろうか? 主任の肩書を剥奪されてもよいから、普通の総合職へ一段階だけの降格にしてほしい。そうだ、それがいい。僕の年令で主任として採用されたことを、多くの社員が腹立たしいと思っていると由紀が言っていた。給料は下がっていいから、ヒラの総合職に降格してもらうことが僕にとって最も良いのだ。そうすれば森下常務の僕に対する態度も軟化するかもしれない。
やっと涙が止まり、僕は資料のホッチキスを外し始めた。一部ずつホッチキスを外し、十七ページと十八ページの順番を入れ替えてホッチキスで留めなおし、最初から最後のページまで一枚ずつページ番号を確認した。
三部目を終えた時にドアが開き、森下常務が戻って来た。
「できたの?」
「今、三部目まで直し終わったところです」
「半時間で三部だけ? まったく使えない子だわ」
「すみません、しばらく泣いていたもので……」
「小学生の女子か!」
「あのう……僕への判決は……」
「判決? 裁判じゃないんだから。あなたの能力が当社の一般職のレベルにも達しないことを武藤社長に報告して、即刻辞めさせるよう進言したわ」
「やっぱり、クビなんですね……」
「社長がスカウトしたという行きがかり上、会社理由で辞めてもらう形で、退職金を支払うよう、私から進言した」
「お金なんてもらっても……」
「でも、武藤社長がクビにすることはどうしてもできないと渋ったから、私も譲歩して、一般職への降格ということで、大筋合意したわ」
「やっぱり、恐れていた通りになってしまった……」
「佐倉君には一般職が相応しいわ。本来一般職として応募すべきだったのよ。一般職の子を君づけで呼ぶのは変ね。これからは恵斗と呼ぶわ、良いわね、恵斗」
「恵斗と呼ばれるのは結構ですけど」
「武藤社長が人事部長を呼んで、すぐに恵斗の辞令を一般職に差し替えるように指示されたのよ。当社側から声をかけて採用した以上、短期間で降格させるというのは世間体が悪いから、辞令の誤りを当日のうちに修正したということね」
「ということは、現時点で僕は一般職……」
「ところが、人事部長が、社内報にも載せたし、十月の月報にも男性一名を海外事業開発担当主任として大手商社からスカウトしたことを書いたから、それでは都合が悪いと主張したのよ。社内報と月報は主力銀行にも提出しているから」
「で、武藤社長は何と?」
「誰にでも体調の悪い日はあるから、恵斗の今日の不始末は水に流してやってくれと頼まれた。全く節操がないというか、コロコロ変わるんだから」
「じゃあ今日のミスは見逃していただけるんですか?」
「恵斗の今後の処遇は全面的に私に任せることを条件として、社長の頼みを聞き入れざるを得なかった」
僕は思わず森下常務に抱き着いた。
「常務、本当にありがとうございます。大好きです。これからは何でもおっしゃる通りにいたします」
「離れなさい。密室で男子社員と抱擁していたと言われたら私が困る!」
森下常務は僕の胸を手で突き放したが、満更でもないという様子が感じられた。
「私は明日の夜のフライトで二週間の海外出張に出かけるから、帰国するまでに勉強をして私をがっかりさせない人間になりなさい。資料は後で渡すからよく読んで理解しておくように」
「はい、かしこまりました。ご帰国の際には見違えるほどになってお迎えいたします。とりあえず明日の十時の試験に備えて、これから猛勉強に取りかかります」
「明日の十時の試験? ああ、買収契約書のことね。忙しいから明日の十時のミーティングはやめておくわ。今の恵斗じゃあ、結果は目に見えているから。5Cの予約もキャンセルしておいて」
「5Cの予約? あっ、それ僕に予約しろという意味だったんですか?」
「ええっ、予約していなかったの? やっぱりクビにすべきだった。私の判断は甘かったか……」
「申し訳ございませんでした」
僕は最敬礼して部屋を出て行こうとした。森下常務の前でこれ以上とどまると、事態が悪化するだけだと思った。
「待ちなさい。資料のページを修正することを忘れたの?」
「そ、そうでした……」
僕は隅のテーブルに資料を置いて、ホッチキスを外し始めた。
森下常務はパソコンに向かって一心不乱に仕事をしているようだった。出張の準備なのだろう。
「コーヒーが飲みたくなってきたわ。恵斗、私用を頼むのはよくないんだけど、コンビニで缶コーヒーを買ってきてくれない?」
「はい、喜んで。どうぞご遠慮なさらずに、私用でも何でも気軽に声をかけて下さいね」
「無糖のホットを買ってきて。恵斗も好きなのを買いなさい」
と言って五百円玉を渡された。
「僕、本当は微糖のホットが欲しいんですけど、やめときます。僕、ドジですから、きっと資料の上にコーヒーをこぼすとか、とんでもないことになるような気がするんです」
森下常務は表情を崩してアハハハと笑った。
「命令よ、恵斗の分も買ってきなさい。私の机の前の席に座って飲みなさい。飲み終えてから、そこのテーブルに戻ればいいのよ」
「はい、常務」
僕は缶コーヒーを買いに行った。泣いた後の顔を他人に見られたくなかったので、階段で往復した。息を切らせて部屋に戻ると、
「早かったわね」
と驚いていた。
「パシリなら誰にも負けませんので」
口に出した後で、僕から自虐的な冗談を聞いて森下常務が怒らないだろうかと心配したが、それは杞憂に終わった。
「そんな悪戯っぽい目で可愛いジョークを言えるのは一つの才能かもね。私には真似できないことだわ」
森下常務から始めての褒め言葉をもらった。
「きみは全体的にバトル向きではないけど、わたしは好きよ」
僕はどう反応すべきか迷った。「全体的にバトル向きではないけど好き」というのは、ポケモンGOでチーム・ヴァーラーの隊長がポケモンを評価する際の言い回しだ。しかし、森下常務がポケモンGOに興じる人だとは考えられない。そうだとしたら「バトル向きではない」というのは、総合職としての対外能力を低く評価するという意味だ。森下常務が急に優しくなって「わたしは好きよ」と言うのは、さっき僕が抱き着いたからだろうか。僕は色仕掛けで森下常務をたらしこむつもりはなかったのに……。
「ゴメン。『わたしは好きよ』と言われて困っているのね。『きみは全体的にバトル向きではないけど、わたしは好きよ。』というのは、ポケモンGOというゲームで、捕獲したポケモンを評価する際の、最低ランクの評価を意味する言い回しなのよ。恵斗が自分を卑下するような冗談を言ったから、私も恵斗の能力評価に引っかけたブラックジョークを返しただけなの。それ以上に深い意味はないから、真剣に受け止めないで」
「やっぱりそうでしたか! 僕は森下常務がポケGOのことを詳しくご存知かどうか自信がなかったのでとまどったんです」
「甘く見ないでよね。私はレベル三十二なんだから」
「すっごーい。尊敬しますぅ!」
「恵斗はいくつ?」
「僕、二十六才です」
「私はインテリジェンスを欠くダジャレは嫌いなのよ」
「すみません、ポケGOのレベルも二十六なんです」
「そうか、単なるダジャレじゃなかったのか。ゴメンゴメン」
「でも結局は僕、最低ランクの評価なんですよね」
「深く考えないで。バトル向きじゃないけど好きというのは、評価というよりも、恵斗にピタリの言い回しだと思ったのよ。私から見ると恵斗はCP80のピカチューみたいな存在だわ」
「ビミョー……」
「さあ、早く作業をして出て行って。忙しいんだから」
ぶっきらぼうな言い方だったが、言葉の響きからトゲが消えていた。僕は得体の知れない恐怖感から解放されて、ミスを恐れない気持ちで、残った資料の綴じ直しを再開した。ミスを恐れないというのは大げさかもしれないが、十部ほど残った資料のホッチキスを一気に外してページの順を入れ替え、ホッチキスをし直した。一部ずつページ番号をチェックして作業は完了した。僕は本来テキパキして要領が良い人間なのだ。
森下常務に資料を差し出した。
「やればできるじゃない。クビにしようと思ったのは誤った判断だったわ」
と笑顔で褒めてくれた。
「ありがとうございます」
とお辞儀をして、常務室から退出する前に、僕は森下常務の方に向きなおして背筋を伸ばして言った。
「僕、森下常務が大好きです。どこまでも森下常務について行きたいです」
由紀から言われた通り、この手の上司には媚びるのが良いかもしれない。
「私も恵斗を手元に置いておきたくなったわ。恵斗が毎日コーヒーを入れてくれたら嬉しいだろうな」
「おまかせください。森下常務のためなら何でもいたします」
「じゃあ、帰国したら辞令を出すことにする。一般職の恵斗がコーヒーを持ってくる姿が目に浮かぶわ」
森下常務はニヤッとした視線を僕に投げかけた。
「ま、まさか……」
「早く出て行って、忙しいんだから」
ブラックジョークだろうとは思ったが、もし本気だったら、と不安がよぎった。
席に戻ると、清水課長、関本と由紀が僕をジロジロと見た。
「今まで森下常務に捕まっていたの? 恵斗がいつまでたっても戻ってこないから心配していたのよ」
由紀が小声で僕に言った。
「ごめん、すごく深刻な状況に置かれていたんだ」
「泣きはらしたことが明らかな顔をしているのに、目がイキイキしてるわ。とことん虐められて気が狂ったんじゃないの?」
「実は僕がドジを重ねてしまって、ほとんどクビになりかけたんだ。でも、会社側にもいろんな事情があるみたいで、森下常務に預けられる形で首の皮一枚つながった。森下常務って怖いけど魅力的な人だよ」
「ワケわかんない。恐怖のあまり壊れかけてるんじゃないの?」
「由紀ちゃん、年上の主任さんにそんな口を聞いちゃダメって言ったでしょう」
清水課長の手前、関本が由紀を注意した。
「関本さん、気になさらないでください。二週間後に森下常務が海外出張から帰国されたら、一般職の辞令を出すとブラックジョークを言われましたから、由紀とは今から対等の口を聞いておく方が無難かもしれません」
「森下常務がブラックジョークだとはっきり言ったの?」
「いえ。その時にはおっしゃいませんでした。でも別件では『ブラックジョークよ』とおっしゃっていたような……」
「森下常務はジョークを言う時には必ず『ジョークよ』と言う癖があるの。恵斗には気の毒だけど、その辞令の告知はジョークじゃないわ。覚悟するしかないわね」
「そんな……」
関本にまで恵斗と呼ばれてしまった。水嶋の前例があるから、僕もそうなると決めつけているのだろう。でも、詳しい状況を説明するのは面倒なので黙っていることにした。
僕は買収契約書の読解に着手した。まだパソコンはインターネットにつながらないので、スマホを辞書代わりに使っていたら、清水課長から注意された。
「恵斗、特段の事情がない限り執務中のスマホ使用は禁止よ」
「パソコンがネットにつながるまでの間、スマホを使って調べているんですが」
「李下に冠を正さず。紛らわしい行為は避けなさい。特に今の恵斗の状況ではいくら注意をしてもし過ぎることはないわ」
「はあ、おっしゃる通りだと思います」
「もし森下常務が帰国後恵斗に一般職の辞令を出すつもりなら、今回のインターネット接続申請は保留扱いにされるはずよ。原則として一般職には許可を出さないことになっているから」
「一般職の辞令の話は99%はジョークだと思いますけど……」
スマホの使用を禁止された僕は、仕方なく、本棚に置いてあった古い辞書を使って買収契約書を読んだ。紙に印刷された英和辞典を使うのは何年ぶりだろうか。パソコンやスマホで調べるよりもずっと時間がかかったが、ちゃんと用例も書かれていて、一度調べると頭の中に入ってくる。何でも気軽にネットで調べるより、昔ながらの辞書で調べるのも良いことだなと思った。
あっという間に五時半が来て就業のチャイムが鳴り、僕の波乱の入社初日が終わった。
大変な一日だった。特に大した仕事をしたわけでもないのに、疲労困憊だった。それに、一日二回以上泣いたのは、記憶にある限り、ここ十年で初めてだった。一日に流した涙の量は、小学校二年で祖母が亡くなった時に次いで二番目だ。
買収契約書は徹夜してでも完全に理解しようと思ってアパートに持ち帰った。駅の近くのスーパーで魚フライ弁当を買って帰り、食べ終わってから、頭の中をすっきりさせるために風呂に入った。ところが、机の前に座るとどっと疲れが出てきて、少しだけ休もうとベッドに横になったら、そのまま眠ってしまった。
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