性別交換シェアハウス(TS小説の表紙画像)

性別交換シェアハウス

【内容紹介】男子が女子大生にされてしまうTS小説。主人公は幕張駅の改札口で見知らぬ女性と正面衝突してその場に倒れる。その衝撃で中身が相手の女性と入れ替わり、女性の身体で目が覚めるというのがTS小説のよくあるパターンだが、残念ながらそうはならない。その女性の誘いに乗ってその女性が住んでいるアパートに行くと、そこは若い男2人と女3人が住んでいるシェアハウスだった。どれほど驚天動地の将来が主人公を待ち受けているのかは読んでのお楽しみ。

第一章 本当の自分

 
「ユウ、こっちよ」
 モリシアの一階のマクドナルドの前で璃子が手を振っている。秋の朝の風にグレーの長いスカートがふわりと広がって、璃子の長身のシルエットがガラスのドアの前で鮮やかに浮かび上がる。
「素敵なロングのフレアスカートね」
「これはミモレ丈よ。フィッシュテールだから後ろから見るとロングに見えるかも」
 璃子は右手でスカートを持ち上げてその場で一回転した。ため息が出る程素敵だった。
「うらやましいな。私も璃子みたいに背が高かったらAラインのロングのフレアスカートをはけるのに……」
「ユウは百六十三センチもあるんだから、厚いコルクソールのサンダルを履けばどんなスカートでも似合うわよ。それよりもユウの着ている服の方がずっと可愛いわ。黒のレースのトップスと白地に小さな水玉模様のスカートの組み合わせね。それ、ドッキングワンピなのね?」
「そうよ。先週お母さんに買ってもらったの」
 璃子とマクドナルドに入ってソーセージマフィンとコーヒーのコンビを買う。店内にいる男性たちの視線を首筋や膝の裏側に感じる。ピチピチとした二人の女子大生は、こんな視線には慣れっこだ。これは美しい女の子に生まれた代償なのだ。
 お昼近くまで璃子とおしゃべりをしてマクドナルドを出る。パルコに向かって歩きながら、璃子とそっと手をつなぐ。
「やめてよ、ユウ。私は背が高くて男っぽいから、ユウみたいな女の子と手をつないでいたらレズだと思われるわ」
「璃子となら女どうしのカップルでもいいんだけどなぁ……」
 夢見るように言うと璃子から満更でもなさそうな口調で「バカねえ」と言われる。
 パルコの二階には先週から目を付けていた秋物のワンピースがある。今着ているワンピースを買ってもらったばかりだからお母さんには頼みにくいし、お小遣いを全部使ってしまうと財布が空っぽになってしまう。この世の中には欲しいものが次から次へと出現するので、欲しいものを見つけても我慢する姿勢が大切だ。
 時々「もう売り切れちゃったかな」と思いながら店の前を通ると、まだ吊るされているのを見つけてほっとする。
「これよ、欲しかったワンピは」
「大人っぽいのに可愛いわね。そのワンピを着たらユウのイメージが変わって大人の女みたいになるかも。試着して私に見せて」
「でも、これを買うとお財布が空っぽになるから我慢してるの」
「とにかく着て見せてよ。さあ、早く」
 璃子に急かされてハンガーを手に試着室に入る。着ていたワンピースの背中のホックを外してファスナーを下げる。肩から外すとワンピースがスルリと足元に落ちる。
「アレッ? これ何?」
 胸を見ると黒のブラジャーの中に変な色のゴムのような塊が入っている。これは本物のお乳じゃない! 
「まさか……」
 黒のショーツを下ろすと、醜い芋虫のようなものがおへその下の方にポロリと垂れ下がった。
「ユウ、もう開けていい?」
 璃子にカーテンの間から覗き込まれ、咄嗟に後ろを向いてうずくまった。
「ユウ、何してるのよ?」
――どうしよう。僕は女の子じゃなかったんだ……。頭の中が真っ白になり、ダンゴムシの姿勢でうずくまったまま絶望した。
 

 
「佑太、早く起きなさい。学校に遅れるわよ」
 母の声で目を覚ました。首から胸にじっとりと汗がにじんでいる。助かった……。母のお陰で悪夢から救い出された。
 僕にとって一番苦しい悪夢だった。普段憧れていたことが実現して幸せの頂点にいたのに、最後にどん底に突き落とされた。最後の部分だけを悪夢と呼ぶべきなのだろうが、夢から覚めた現実の世界の方が僕にとっては本物の悪夢だ。
 大学のキャンパスで女子が可愛い服を着ているのを見るたびに「いいなあ」とため息が出る。僕もあんな服が着たいのに……。でもそれは許されない。勿論母にも言い出せない。夢想の世界では毎日とっかえひっかえ流行を追いかけて可愛い服で外出し、気の合う友達と女どうしでおしゃべりしている。夢の中にいる時間の方が長いから、現実という悪夢の世界に引き戻されると呆然自失になってしまう。

 小さい時から悪夢の中で育った。
 二歳上の姉と二歳下の妹に挟まれて育った僕は、女の子というものを見慣れていた。姉や妹がスカートなのになぜ僕だけがズボンかということについて、子供心に何となくやるせない気持ちを抱いていた記憶はあるが、小学校に上がるまでは深刻な問題とは意識していなかった。僕は茜沢家でただ一人の男の子として何かにつけて特別扱いされ、顔や性格がきょうだいで一番可愛いと言われて、ちやほやされて育ったからだと思う。
 男女とは違うものだと殊更に教えられて不安と焦燥に駆られたのは小学校二、三年の頃だった。それは女子たちが自分が女子であることを意識してプライドを振りかざし始める時期と一致している。
 その頃まで僕は自分が男子であることを意識しつつ、クラスの女子たちを姉や妹と同じように対等で近しい存在だと思っていた。しかし、クラスの女子たちから「茜沢君は男子だから」と、一緒に話したり遊んだりする資格が無いような言い方をされるシチュエーションを何度か経験するうちに、深い疎外感にさいなまれるようになった。
 自分が本当は女の子なのに男に生まれてしまったと明確に認識するようになったのは小学校高学年だった。クラスの女子の胸にツンとした膨らみを見たり、早い子は生理が始まったりして、僕は一生彼女たちのレベルには到達できない劣った存在なのだと思い知らされた。
 決定的なショックは声変わりだった。僕の声は今でも男性としては高い方だが、中学二年で声変わりが始まった頃には親戚の人と会うたびに「佑太は喉が変になった」と揶揄された上で「これからだんだん男らしい身体になる」と予言された。僕にはそれが死刑宣告のように聞こえた。
 その時から、既に気づいていても自分自身は気づかないふりをしていた驚愕の事実から目を背けられなくなった。僕の声はどんどん低くなって、顔には髭が生え、いずれ父のようなゴツゴツした大人の男性の身体になるのだということを。
 近所にキリスト教の教会があり、そこに行けば助けてもらえるかもしれないと思ったが足を踏み入れる勇気が無かった。僕は誰にも言わずに心の中でキリスト教に改宗し、毎晩寝る前にベッドの横で跪き胸の前で手を組んで「神様、早く僕を女の子にしてください」とお祈りをした。
 でも僕の声は神様には届かなかった。
 高校時代は、今にも濃い髭が生えてくるのではないか、声がもっと低くなるのではないか、顔や身体の骨格が父のように大きくなるのではないかと恐怖に怯え続けた。背が伸びて父のような大男になったら、僕はもう生きていけないと思った。幸か不幸かきょうだいの中で僕だけが母方の血を継いでしまったようで、身長の伸びは姉と同じ高さで止まり、高二の時に妹に追い越された。幸い、僕は第二次性徴についてはオクテのようで、大学に入学した段階でも「まだ今なら間に合う」という希望を胸に抱き、同時に焦りに圧倒されていた。
 僕にとって幸運であり同時に不幸だったことは、僕が内面で極度の苦悩に喘ぎながら、表面上は平静を装えるほどの精神的な強さを持っていたことだった。僕は学校でも家でも普通の男子を演じ続けることができた。
 母に「僕を女の子にして」と泣きつくことができたら、どんなに楽だっただろう……。それなのに僕はあたかも普通の男子であるかのように遊び、勉強し、発言したので、周囲からは普通の男子として扱われた。高校時代には「彼女」を作ってデートさえしたし、大学に入ってからは男子として合コンに参加して、普通の男性を演じることが出来た。
 僕は女の子としゃべったり遊んだりするのが大好きだ。普通の男子が女子と付き合いたいという気持ちとは相当違うと思うが、僕の中身は女子なので普通の男子がどう感じているかについては十分な自信が無い。女子となら心を割って話せるし、一緒にいて気持ちが落ち着く。いつも夢に出て来る璃子は僕の高校時代の彼女で、今も一番の友達だ。でも、璃子と洋服の話をするのは夢の中だけで、現実世界で会う時には僕は男子のように振舞う。僕が女の子になりたいと焦っていることを璃子は気づいていないと思う。
 もし神様が僕の願いを無視し続けるなら、大学に入ったらバイトをして、自分の身体に「必要な措置」を講じようとずっと考えていた。しかしいざ大学生になってみると時々バイトをすることはあったが、女性ホルモンの注射をしてもらうためにクリニックに足を踏み入れる勇気は出てこなかった。僕が実行できた最も前向きな対策は女性ホルモンに似た化学構造を持つ大豆イソフラボンを多く含む豆乳、豆腐、納豆などの大豆製品を沢山食べるという程度だった。
 このままズルズルと大人になって、三年半後にはどこかの会社に男子社員として就職し、普通にどこかの女性と結婚して、子供を作って父親になり、自分が女性であることを隠したまま死んでいくのではないか……。そんな暗澹たる未来が見え始めた。
 僕が青天のへきれきに撃たれたのはそんな頃だった。
 

第二章 青天のへきれき

 
 十月十二日の水曜日、早めに大学を出て午後三時半ごろ幕張駅に着いた。ホームから階段を上がって右端の改札機を通ろうとした時、改札の外側に立っている女性と一瞬目が合った。僕と同じぐらいの年齢、身長の女性だった。次の瞬間、その女性は僕が通ろうとしている改札機に向かって駆け込んできた。
 あっ、ぶつかる! 改札機を出た僕が右に避けようとすると、彼女も同じ方向に避けた。
 ガーン。
 おでことおでこが正面衝突して目から火花が飛んだ。僕はその場に倒れ込んだ。
 頭の中に素晴らしい妄想が花火のように開いた。神様がやっと僕の願いを聞き届けてくれるのだ。頭と頭でガッチンコして、この女性と中身が入れ替わり、目が覚めたら僕の身体は女性になっているだろう!
「女性が倒れているぞ、救急車を呼べ」
 誰かが叫んでいる。年配の男性の声だ。僕はとうとう女性になれたのだ……。生涯で最高の歓喜の中で意識が遠のいた。
 

 
「あっ、目を開けたぞ」
 男性の声が耳に入る。
「大丈夫ですか?」
 女性の声で聞かれている。
 駅の天井と、僕を覗き込む数人の男女たちの顔が目に入る。バッグを持っていない方の手を胸に当てて自分の胸にふくらみがあることを確認し、思わず頬が緩む。ぶつかった女性は、というか今の僕はスカートをはいている。もしめくれてパンティーが見えていたら恥ずかしいと思って、手をスカートへと移動させる。あれっ? ズボンみたいだ。おかしい……。
 まさか! 
 目の前の中央に見えるのはさっきの女性の顔だった。身体を起こして胸から下を見ると、元通りの僕だった。
 神様は奇跡を起こしてくれなかったのだ……。
「大丈夫? 指は何本見える?」
 彼女は僕の目の前に指を三本立てて見せた。
 普段の僕なら「四本」と答えて会話のきっかけにしていたかもしれないが、青天のへきれきが空振りに終わって憔悴しきった僕にそんな余裕はなかった。
「三本ですけど、どなたでしたっけ?」
「ただの通りすがりの女よ」
「なあんだ」
 自分からぶつかって来ておきながら、ゴメンも言わないとはフテブテしい人だと思いながら立ち上がり、お尻についた汚れを手でポンポンとはたいた。周囲の野次馬たちは、大した事件に遭遇しなかったことにガッカリしながら散って行った。
「キミは女になりたいのね」
 いきなりド真ん中の直球を投げ込まれて僕はオロオロした。母にさえ読まれなかった僕の心の秘密が、どうして初対面のこの人に分かったのだろうか? 
「図星だったみたいね」
 失敗だった。すぐに否定すべきだった。こんなシチュエーションで黙っているのは認めるのと同じだ。
「ち、違いますよ。でも、どうしてそう思ったんですか?」
「私は人の心が読めるのよ」
「まさか……」
「素直に認めたわね。キミの正直な態度に免じて種明かしをしてあげる。私とぶつかって倒れた時に近くに居たおじいさんが『女性が倒れてる』と叫んだでしょう。あの時キミがすっごく嬉しそうな顔をしたのよ。それから、目を覚ました時にとても幸せそうに胸に手を持って行った。私とガッチンコして脳みそが入れ替わることを期待していたのよね。私はキミの財布を拾って胸ポケットに戻した時に、わざと立てて入れたのよ。キミは膨らんでいる胸ポケットをオッパイだと誤認して嬉しそうな顔をした。三回もあんなに嬉しそうな顔をしたんだから、99.9の確率でキミが女になりたいと思っているということを断言できたわけ」
「すごい推理ですね! と言っても、認めたわけじゃないですよ。僕は生まれてこの方、女になりたいなんて思ったことは一度もありませんから」
「意地を張ってもどうにもならないわよ。体型、仕草、表情、それに何よりも目を見れば、キミが女になりたいと願っていることは一目瞭然よ。私には一目で分かるわ。キミの周囲の人たちも、分かっているけど言いづらいから言わないだけじゃない?」
「そんなはずはないです。誰にも一言もしゃべったことはないし、母も知らないんですから」
「やっと完璧に口を割ったわね」
「あっ! いえ、違います。誤解です!」
 僕は耳の付け根までゆでだこよりも赤くなった。
「私は別にキミをからかうのが面白くてこんなことを言ってるんじゃないのよ。キミが本当にホンキなら願いを叶えてあげられるから、意向を確認したいだけなの。神様がキミにチャンスを与えようとして、私を使者として遣わせたと思って正直に答えなさい」
「神様からの使いだったんですか?! 何年も祈り続けた甲斐があった……」
「じゃあ、ついてきなさい、茜沢君」
 名乗っていないのに僕を茜沢君と呼んだ。やっぱり彼女は天使だったのだ。
 幕張駅の南口から商店街を通り、踏み切りを越えた次の道を右斜めに入ってしばらく歩く。彼女はスカートをはいているのに、ややがに股で男性のような歩き方だ。でも天使が羽が生えたように軽やかに「天使でございます」という感じで動けば、天使だと見破られはしなくても仕事上マイナスかもしれない。そういう意味では好感が持てる。
「あのう、天使さん。どこに向かってるんでしょうか?」
「私は天使じゃないわよ。羽もはえてないでしょ。涼本美代って名前なんだけど。美代と呼んでいいわよ」
「でも、さっき僕の名前を言い当てたじゃないですか」
「キミの財布が落ちたのを拾って胸ポケットに入れたと言ったでしょう。その時に財布の中の学生証を見たのよ」
「なあんだ……。これからどこに行くんですか?」
「この路地の奥にある建物よ」 
 美代は右手に入って路地を進む。突き当りの古いアパート風の建物の階段を二階まで上り、左側奥のドアを開けた。そのアパートにしては広いリビングルームに通された。
 もうすぐこの部屋の主の男性が現れてお金を脅し取られるんじゃないだろうか? 不安が頭をかすめる。
「ここはどなたのお住まいなんですか?」
「私の住処よ。正確には私を含む六人のためのシェアハウス。ははあ、私のアパートとしては大きすぎるから、誰かほかの男が出て来て身ぐるみはがされるとでも思ったんじゃないの?」
 美代に人の心を読む特殊能力があることは確実だ。
「まあいいわ。ここに連れて来たのは、他人に聞かれない場所でもっと詳しく対話するためよ。女の子になりたいということは分かったけど、キミが女の子になりたいというのはどういう観点なのかなあ? 要するにスカートをはいてお化粧をしたりして女の子に見えるようになりたいのね?」
「そりゃあ女の子になったらそういうことをすると思いますけど……」
「女装したいという願望のある男性って驚くほど多いのよ。お姉さんの目を盗んで制服のスカートをはいてみる中高校生とか、アマゾンでネグリジェを買って毎晩パジャマ代わりに着て寝る一人暮らしの大学生とか、メルカリで女子高生のお古のセーラー服を買うアラフォー独身サラリーマンとか」
「僕は女装趣味なんかじゃないです。頭の芯まで女性なんです」
「なるほど、男が好きなんだ。男性に抱かれて、太いのを身体の奥まで挿入されたい、女性と肌をふれあうなんてとんでもないというタイプね」
「いいえ、自分でもよくわからないんですけど、男性はあんまり好きじゃないんです。勿論、人によっては友達として一緒にいると楽しい男性もいるんですけど、抱かれるなんてとんでもない。一緒に寝るとしたら女性の方がずっといいです。特に背の高い女性が好き」
「要するに、キミは性的な成熟度が低いんだわ。女の子がうらやましくて、女の子みたいにしたいという、未成熟な草食系の少年を思い起こさせる」
「ちょっと、失礼じゃないですか? 何度も言いますが僕は中身が女性なんです。女性として生活し、女性と認識され、女性として扱われたいんです。女性として男性と相対した経験がないから、男性が好きだという気持ちはまだありませんけど、人生を一緒に生きていきたいという男性が将来現れるかも知れません。僕がまだ十分に大人になっていないというのは否定できませんけど……」
「女性として生きて、女性としての責任を果たす覚悟があると言い切れるの?」
「勿論です。僕は女性ですから」
「自分が女性だと確信しているんだったら、女性として暮らしなさいよ。何をためらっているの?」
「そんなことを言われても、無理ですよ。僕は美代さんと違って家族と一緒に住んでいますから、女っぽい服装や行動をすれば家族から横やりが入ります。ハードルが高すぎるんですよ」
「じゃあ家を出るべきよ。親元を離れて一人暮らしをすれば自分の思い通りに生きられるわ」
「お金もないし、女性として暮らせと言われても実際にどうしたらいいのか分かりません」
「自分と同じ境遇の人から情報が得られて助け合える環境に自分を置けばよいのよ」
「どうやって?」
 美代はリビングルームの周囲の部屋のドアを「みんな出て来て!」と言いながらノックして回った。男性二人と女性二人が出て来た。美代と僕を含めて六人がリビングルームのソファーや丸椅子に思い思いの姿勢で腰を掛けた。
「私とこの子の話は皆に聞こえていたわよね?」
 美代の質問に四人が頷いた。
「この子が茜沢君。私がパートナーとしてスカウトしてきた子よ」
 その言い方だとまるで美代が茜沢という男性をスカウトして来ることを他の四人が知っていたかのようだ。
「美代さん、待って。ここは六人のシェアハウスだと言ってましたよね? つまり残りの一室に僕を住まわせようとスカウトしてきたということですか? それに、パートナーとはどういう意味ですか?」
「みんなを紹介するのがキミにとって一番分かりやすい答えになると思うわ。私の左が豪太とパートナーの美帆。そちらの二人は哲太と美月よ。悪いけど、豪太、美帆、ちょっと起立してくれるかな」
 豪太と呼ばれた男性はボーイズラブコミックから抜け出したかのようなすらりとした長身のイケメンだった。美帆は豪太と同じぐらいの身長の美人で女性としては何かにつけて不便かもしれないほど大柄な感じがした。豪太と美帆には身長以外にも不思議な共通点があったが、その共通点が何かを言葉にするのは困難だった。
「豪太、美帆、ありがとう。座っていいわ。次は哲太と美月が立って」
 哲太と美月の共通点は身長が低くてぽっちゃり系ということだ。僕は男性としては小柄な方だが、哲太は僕より五センチほど身長が低いようだ。美月は哲太とほぼ同じ身長だから、女性としては平均的な高さということになる。哲太と美月にも、身長以外に形容しがたい不思議な共通点があった。そして、その共通点は豪太と美帆の間の不思議な共通点と似通っている。僕はそれが一体どんな共通点なのか、四人を交互に見比べながら頭をひねった。
 四人とも何となく不自然な違和感があった。そして身体全体から半端ではないほどの「らしくない」感が放散されていた。 
「ま、まさか……」
 僕はそれが何なのかに気づいた。
「やっと分かったのね。哲太と美月は最近入れ替わったのよ。豪太と美帆は半年前までは美帆と豪太だった」
「俺たち、今日はバレるまで五分ほど持ったよね」
 長身イケメンの豪太が男としては少し高めのニヒルな声で格好良く言った。
「美代がヒントを出さなかったらバレてなかったわよ」
と、美帆が女性としては低めの声で言った。
「アタシと哲太は新参者の割には長持ちしたんじゃない?」
 派手なアイメイクの美月のしゃべり方はブリッコのようで、声の低さとのアンバランスが目立った。
「俺たち入れ替わってからひと月しか経っていない割には優秀かもな」
 哲太の高い声を聞いて、男性を演じるにはまだ無理があると思った。
「豪太、哲太と私の三人が半年ほど前にLGBTの会合で出会ったのがそもそもの始まりだったの。当時は三人ともFTMという共通の悩みを持つ女性として暮らしていた。豪太は当時は美帆だったわけだけど自分とよく似た外観のMTFの男性と知り合って一緒に暮らし始めたところだった。哲太(というか、当時の美月)と私は豪太と美帆の入れ替わり計画のことを聞いて触発されたのよ。美月は自分と似た体格のMTFの哲太という人を見つけて、二組が揃ったから私を含めて五人でシェアハウスを借りたの。私はそれから間もなく佑太を幕張駅で見かけて、ストーカーのように追いかけてやっとチャンスが巡って来たというわけ」
「すみません。LGBTは分りますけど、MTFって何のことですか?」
「LGBTのTのトランスジェンダーにはMTFとFTMの二種類がある。MTFはMale to Female、つまり佑太と同じで男性の身体に生まれたけど中身が女性の人のことよ。私はFTM、Female to Maleのトランスジェンダーよ」
「パートナーということは結婚みたいな関係でしょう? 僕、美代さんとは会ったばかりだし、お付き合いしてみないとそう簡単にはパートナーになれるかどうかお答えできませんよ」
 僕の質問には長身の美帆が答えてくれた。
「うふふ、私と豪太が夫婦に見える? 私たちは信頼し合っているけど、男と女としての関係にあるわけじゃないのよ。MとFが入れ替わるための便宜を提供し合い、支え合うだけよ」
「あなたは私ほどじゃないけど小柄でしょう。私たちみたいに小柄な人は、すらりとした長身の異性に憧れることが多いじゃない? 哲太も私も多分自分よりずっと背の高い異性と結婚したがると思うわ」
 僕より五センチも低い美月から小柄な同性どうしのように言われて、少し割り切れない気がした。
「入れ替わるという意味がもうひとつよく分からないんですけど、例えば僕と美代さんが入れ替わったとして、僕が大学を出て就職する場合、茜沢佑太としてじゃなくて涼本美代として就職するってことですか? 僕の両親や姉妹と僕との関係はどうなるんでしょう?」
「最初からそこまで規定しようとすると簡単には踏み切れないでしょう? だから、あくまでトライアルと考えればいいのよ。まずあなたは涼本美代として暮らし、私は茜沢佑太として大学に通う。例えばひと月たって、やっぱりやめとこうということになれば元通りの自分に戻ればいいのよ。その間は私が茜沢佑太として講義に出席しているから単位を取るのに困ることはない」
 突拍子もない話だが、ひと月ほどやってみて駄目なら元に戻ればいいという美代の言葉を聞いて気が軽くなった。美代が言っていた通り、自分で一歩踏み出さないと僕の人生はこのままズルズルと不本意なまま流されて行くだろう。豪太、美帆、哲太、美月、そして美代という、自分の人生を切り開くために新しい試みを実行に移す人たちと一緒に暮らすことにも魅力を感じる。
「僕、トライしてみたい気持ちになってきましたけど、家を出ることについて両親と話し合う必要があります。LGBTのシェアハウスと言えばダメだと拒否されますから、普通のシェアハウスに住むということで話してみます」
「早く佑太が来てくれるのを楽しみに待ってるわ。というか、今度来た時にはキミを美代と呼ぶことになるけど」
 そう言われて、シェアハウスに戻ってくることの意味がずっしりと重く再認識された。

第三章 家を出る

 
 美代たちと別れて帰宅した。夕食が始まったら皆の前で出て行くことを宣言しようと思って口上を練った。家から出たい理由を問い詰められても、女性として生活するためとは口が裂けても言えないので、独立心を養いたいだとか説得力のある説明はないかと色々考えた。ところがいざ夕食が始まって家族を前にすると、緊張で鼓動が高まり、話を切り出せないまま時間が過ぎた。いつも真っ先に食べ終える妹の真里菜がごはんの最後の一口に箸を付けた時、このままでは美代たちに面目が立たないと奮い立って口火を切った。
「僕、一人暮らしを経験したいと思ってアパートを探してるんだ」
 父、母、姉、妹の視線が僕に集まった。
「家から大学までドア・トゥ・ドアで二十分で通えるのに、アパートを借りるなんて無駄よ」
 予想していた通りの反対が母から出た。
「高校の同期の男子の半分以上が親元を離れて暮らしているんだよ。僕は自分自身でも依存心が強い方だと思うから、強い人間になるためにお父さんやお母さんから離れて暮らしてみたいんだ」
「良い心がけだ。男子たるもの自立心が大切だ」
 父がいきなり肯定したので僕は却って戸惑った。
「ずるいわよ、佑太だけ。私だって一人暮らしがしたかったのに、経済的なことを考えて家から通える大学を選んだのよ。自立心に男子も女子も無いわ」
 姉の絵里菜は片道一時間かけてお茶の水の大学に通っているが、進学当初、一人暮らしをしたいと言っていたことは僕も知っている。
「経済的な迷惑はかけないよ。生活費はバイトで稼いで自活するつもりだ。ただ、大学から請求が来る学費だけは今まで通りお父さん、お母さんから大学に振り込んで欲しいんだ」
「佑太がそこまで思い切るとは驚きだ。佑太、お父さんは嬉しいぞ」
「大丈夫なのかしら。ご飯は食べに帰るのね?」
「それでは自活したことにならない。大学に振り込む学費以外は全部自分自身で責任を取る覚悟が無いなら家を出る意味がない」
 父がキッパリと言った。
「そうよ、家を出たらお盆とお正月以外は帰ってこないでよね。佑太の部屋は私と真里菜がクローゼットとして使うから、荷物は全部持って出るのよ。もし途中でギブアップして家に舞い戻った場合でも私たちの荷物は置いたまま、佑太は私たちのクローゼットで寝ることになる。その条件を飲むなら勘弁してあげるわ」
「分かったよ。そうするよ」
「私も一人暮らしには憧れるけど、バイトで生活費を稼いでご飯も洗濯も自分で何とかしなきゃならないのなら、今のままの方がいい気がする」
と高二の真里菜が言った。僕も本来は真里菜と同じ気持ちだった。
「アパートを借りるのには敷金礼金とかお金がかかるのよ」
「敷金礼金がゼロの物件を探してみるよ。それに、小さい時からお年玉を使わないで貯めてきたから、ゆうちょの残高が三十万円ほどあるんだ」
「佑太はお金が貯まる性格だからその点は安心ね」
 母は絵里菜の顔をチラッと見ながら言った。絵里菜は昔から臨時収入があるとすぐに使ってしまう性格なので貯金が全くないことを家族全員が知っている。
「お母さん、私にイヤミを言ってるの? 女の子にはお金の使い道が沢山あるのよ。佑太みたいな地味な草食男子はお金の使い方を知らないだけよ」
「たとえ女になったとしても僕なら貯金をして余裕をもってやりくりできると思うけどね」
 絵里菜が怒って僕に殴りかかりそうな気配が感じられた。折角両親からスムーズに了承を取り付けられたのに姉を敵に回すのはまずい。それに、万一取っ組み合いになると男である僕が絵里菜に暴力を振るうわけにはいかないので殴られ損になる。絵里菜は身長は僕と同じだが体重は数キロ重く、本気で戦ったら負けるかもしれない。
「でも、お姉ちゃんは美人だから『お金のかかる女』のフリをする方が高収入な男性がお姉ちゃんに寄って来るかもしれないよね」
 絵里菜の表情が僕の殺し文句で緩んだ隙に「ごちそうさまでした」と言って自分の食器を台所のシンクまで運び、二階の自分の部屋へと逃げ込んだ。
 案ずるより産むが易し。何事も勇気を出して一歩踏み出せば良い結果が得られるものだ。僕は早速美代に、家を出ることについて両親の許可が得られたことをLINEで知らせた。数分後に美代から返信があった。
「おめでとう。明日、大学のフードコートの二階で正午過ぎ(二時限終了後)に会おう。入り口から遠い席で待つ」
 まるでもう僕と入れ替わって男になったかのような文体での返信だった。今日会った時の美代は女性らしい話し方だったのに……。既に美代の頭の中では僕が今日の美代のような言葉でしゃべるのが当然と思っているのかもしれない。事の重大さを感じて胸が苦しくなった。
 それにしても美代が僕の大学のキャンパス内の地理に詳しいというのは意外だった。二時限終了後すぐにフードコートに行けば正午過ぎになるなどと、まるで大学の関係者のような口ぶりだ。僕の学部はマンモス学部なので同じ学年でも顔と名前が結びつくのはごく一部だけだが、美代の顔は一度も見た記憶がない。他の学部の学生なのかもしれない。僕は美代について何を知っているだろうか? 身長と体型が僕と似ている事、顔、性別、それに現住所。これから入れ替わろうというのに、それ以外の事は全く知らない。もし美代が犯罪歴のある少女だったり、膨大な借金を背負っていて暴力団から追われている人間だったらどうするのだ? 明日美代に会ったら、正式に入れ替わる前に、重大なマイナス材料が無いかどうかをしっかりと確認しなければならない。
 絵里菜から部屋を明け渡すことが条件だと言われたからには、部屋を空っぽにするつもりで引っ越しの用意をする必要がある。当面の生活に必要な衣類や身の回りの物をスポーツバッグに入れてシェアハウスに入居し、後は段ボール箱にでも詰めて家とシェアハウスの間を何度か往復しようと思った。しかし、当面の衣類をスポーツバッグに詰め終えた時、大事なことに気付いた。
 シェアハウスに行ったら僕は美代と入れ替わるんだから、スポーツバッグに詰めた男物の衣類は使えないんだ! 
 僕の持ち物の中で「男物」は美代が使いたいものだけをシェアハウスに持って行けば良い。でも、美代がどれを使いたいと思うのか、美代の好みは僕には分からない。また、美代は僕と身長が同じだし体格も似ているが、性別の違う美代の身体に僕の服がフィットするかどうかは着てみないと分からない。
 明日はとりあえず既に用意したスポーツバッグを持ってシェアハウスに行き、美代と相談してから本格的な引っ越しに取り掛かることにしよう。
 それにしてもこの部屋にあるもので、僕が美代になっても使えるものは何だろうと考えた。目覚まし時計、文房具、デジカメ、スマホ、PC、プリンター、バックアップ用の外付けハードディスク、オロナイン軟膏、ムヒ……。完全にジェンダー・ニュートラルなアイテムというのは非常に少ないということを実感した。
 男も女も同じ人間として生活をしているのだから、ほとんどの「モノ」は性別と無関係に使えて良いはずだ。それなのに電気製品以外の「モノ」の中で性別の色がついていないものが如何に少ないことか……。そんな観点で「モノ」を仕訳するのは初めてだったが、あまりの結果に唖然とした。
 勿論、男性用のアイテムでもその気になれば女性でも使えなくないものはある。バッグ類、ティーシャツ、スニーカー、等々。でも性別を疑われるリスクは犯さない方が賢明だから、使わない方が無難だろう。
 美代として暮らし始めると名義が違って不都合なものもいくつかある。ゆうちょの通帳、ゆうちょのキャッシュカード、クレジットカード類、それにスマホだ。クレジットカード類にはYUTAと書かれているしコンビニで使うと店員には男女が分かるらしいから、美代の名前で作り直す必要がある。その際には美代名義の銀行口座が必要になるからややこしい。最悪現金決済だけで暮らせば良いのだろうが、ポンタやTポイントなどが使えなくなってしまう。
 もしそのまま僕のSUICAカードで改札を通っていて機械のトラブルが起きた場合、外観が女性の人が男性名義のカードを使っていると盗難を疑われるリスクがある。現代の世の中は男女差別を無くすと標榜しながら、名前、性別が明確に判別される仕組みに満ちている。
 性別を変更するというのは単にスカートをはいて女言葉をしゃべるということではなく、自分の存在の基本的な部分を含めてゼロから出直すということなのだ。あれこれ細かいことを考え始めると気が重くなってきた。
 

 
 翌日の木曜日、二時限目の講義は最後部の出口近くの席に座り、講義が終わるとすぐに部屋を飛び出してフードコートの二階まで駆けて行った。カレーうどんを買って入口から遠い席に美代の姿を探したが見当たらなかった。きっと遅れているのだろうと思って、入口側から来た人に見えやすそうな二人席に座ってキョロキョロしていた。すると、見たことのない男子学生が僕の前に座ろうとしたので「すみません、そこは塞がってるんですけど」と言った。
「誰も座っていないのに塞がっているというのは理屈が通らないな」
 意地の悪い人だなと思った。こんな人とは関りにならないのが無難だ。僕は他の席に移ろうと席を立った。
「本当に僕が誰だか分からないの?」
 ニヤッと笑った顔には見覚えがあった。
「み、美代さん!」
「シーッ」
 美代は人差し指を唇に交差させて言った。
「美代さん、変装して来たんですね! 昨日の髪はヅラだったんですか?」
 僕はひそひそ声で言った。
「僕は茜沢佑太だ。佑太と呼んでいいよ。美代というのは今日からはキミの名前だ」
「ゆ、佑太さん……」
 他人を自分の名前で呼んで、すごく抵抗を感じた。
「じゃなくて涼本さん、まだですよ。僕は親から家を出る許可を取り付けたばかりです。正式に入れ替わる前に色々と教えてもらうべきことがあります」
「例えば?」
「涼本さんのプロフィールの全部です。まだ氏名、性別、身長しか聞いていません。出身地、家族構成、学歴、職業、それから犯罪歴とか……」
「アッハッハ、そんなことを心配していたのか。涼本美代は補導歴のないごく普通の女子学生だよ。プロフィールは引き継ぎ事項としてこの封筒の中の資料に詳しく書いたからよく読んで頭に叩き込んでくれ」
 彼はA4サイズの封筒を僕に渡した。中には涼本美代に関する詳しい履歴書と住民票が入っていた。美代は福島の出身で、この三月に福島の高校を卒業して上京し、この大学の僕と同じ学部に入学したことが分かった。
「知らなかった。美代さんが同じ学部にいたなんて……」
「キミが女装していた僕を見て初対面だと思ったのは、涼本美代が大学では中性的な服装、というよりは男装していたからだよ。美代は入学直後に自分そっくりの佑太を見て驚いたんだ。客観的にそっくりの顔とは言えないかもしれないが、入れ替わって大丈夫なほど似ていると思ったわけだ。遠巻きに佑太を観察していて、佑太が女性になりたいと願うMTFの人間だと確信した。そして佑太について詳しく調べ、入れ替わり計画を練った。ひと月余り前に哲太が美月を説得して豪太・美帆に美代を加えてシェアハウスでの生活を始めた。美代は佑太に近づいて入れ替わり計画を持ち掛けるという行動を早く実行に移す必要に駆られた。頭をひねった結果思いついたのが『コードネーム:青天のへきれき』という戦法だった。佑太が駅の改札から出て来るのを待ち伏せして、頭をぶつけて体当たりすることでお近づきになるという、破天荒なアイデアだった。美代が青天のへきれき計画を実行に移したところ、予想以上に理想的な展開となって、一気に入れ替わりを合意したというわけだ」
「ひどいよ。わざとぶつかって来たなんて!」
「キミが僕にぶつかって来たんだよ。お陰で一挙に核心に迫る話が出来たんだから、青天のへきれき計画は大成功だったと言える。そうでもしないと、美代が佑太をカミングアウトさせるまで追い詰めるには何ヶ月もかかったと思うよ」
「それはそうだろうけど……」
「とにかくもう済んだことだ。早く僕の家に行って引っ越しを始めよう。美代が一緒に来てくれないと僕の家に入れないからよろしく頼むよ」
 彼は完全に自分が茜沢佑太になったと考えているようだ。
「僕はまだ入れ替わったとは認識していないんだけど……」
「いいから、早く」
 涼本美代が素性の悪い人間で無くてほっとしたが、計画的に追い込まれたという気がした。僕のアイデンティティーは殆ど奪われかけている。でもまだ僕は美代ではない。誰から見ても男子学生で言葉も男子の僕を美代と呼ぶのは間違っている!
 カレーうどんがなかなか喉を通らなかった。
「食うのが遅い女は面倒だな。もう食わないのなら僕が食ってやろうか?」
 彼が僕の丼鉢を取ろうとしたので「やめてよ、自分で食べるから」と制して食べ始めた。「やめてよ」は女言葉に聞こえたかもしれないと思って、僕は彼に負けたような気がした。
 彼と二人で大学を出て駅まで歩いた。彼はまるで男子学生になったように胸を張って歩いている。よく見ると胸が少し膨らんでいるようにも見えるが、ぱっと見では他人には分からない。ずっと男装をして大学に通っていたと言っていたから男が板についているのだろう。僕はもう自分が半分男性ではなくなったような気分で、半歩遅れてトボトボと歩いた。時々自分がスカートをはいているかのような錯覚に陥り、足元を見るとちゃんとズボンをはいていてほっとしたが、もう風前の灯火だった。
 総武線に乗って幕張駅まで行き、僕の家まで歩いた。家の前で彼が僕に言った。
「美代、僕の家族の前ではキミのことを『茜沢君』と呼ぶから、キミは僕のことを『涼本君』と呼んでくれ。怪しまれないように、僕の家族の前では女言葉を使っちゃダメだぞ。いいな」
 そんなことは当たり前なのに、と思いながら「分かってるよ」と答えた。そう答えた後で、相手が茜沢君で僕が涼本美代になったことを認めてしまったことに気付いて、失敗だったと思った。
 父は会社に、姉と妹は学校に行って留守だと分かっていたが、母も買い物に出かけたらしく不在だった。僕の部屋に行くと「大きいバッグを出してくれ。バックパックがあれば良いんだが」と言われたので、高二の時に買ってもらった登山用のリュックサックと、大きめのバッグを二つ出した。彼はタンスの中の衣類や部屋の中にあるものを片っ端からバッグに詰めた。僕が昨夜荷造りをしたスポーツバッグにも更に詰め込んでパンパンにした。彼はリュックサックを背負い、両手にバッグを持ち、階段を下りて行った。僕はスポーツバッグだけを持つのでは彼に悪い気がしたのでベッドの上の枕を持って彼の後を追った。
 玄関のドアに鍵をかけて彼を追いかけた。彼は大きなリュックサックを背負い、手がちぎれそうなほど重いバッグを両手に持っているのに、大股で颯爽と歩いている。
「もうひとつ僕が持つよ」と声をかけると「これは男の仕事だから気にするな」と言われた。
 十分ほど歩いてシェアハウスに着いた。他の住人は皆出かけていて、彼は奥の左側中央の部屋のドアを開けた。
「あと一、二往復すれば引っ越しを終えられるだろう。このリュックサックが便利だから取りあえず中身はベッドの上に空けさせてもらうよ」
 そう言って彼はリュックサックの中身をベッドにぶちまけた。
「さあ、もう一度僕の家に行くぞ。ついて来てくれ」
 彼は自分の旅行用の赤いスーツケースとハンドカートを出してきた。僕にハンドカートだけを持たせて僕の家へと急いだ。僕の部屋の押し入れの中の段ボール箱を玄関まで運び、ハンドカートに乗せてベルトをかけた。部屋に残っていたものはリュックサックと旅行用のスーツケースにすべて収まった。彼はスーツケースとハンドカートを玄関の外まで運び、僕を待たせて部屋に上がって行ったが、すぐに掛け布団を丸めて肩に抱えて戻って来た。彼は僕にはスーツケースだけを引かせて、自分はリュックサックを背負い、掛け布団を丸めて肩に抱えた上でハンドカートを引いて歩き始めた。
「佑太さん、僕にももっと持たせて」
 僕はつい彼の事を佑太さんと呼んでしまった。
「これは男の仕事だと言っただろう。黙ってついて来い」
 僕は女の子扱いされて腹が立つどころか、胸がキュンとなった。自分が同じ状況に立たされればきっと相手に荷物を半分持たせるだろうと思った。彼の男らしさがキラキラと輝いて見えた。
 シェアハウスに行って荷物を部屋に運ぶと「さあ、もう一度僕の家に行くぞ。これで最後だ」と言われた。あと残っているのは敷布団だけのはずだった。
 僕の家に行くとまだ母たちは帰宅していなかった。彼は僕の部屋で敷布団を丸め、荷造り用の紐で三ヶ所を縛って肩に抱えた。
「家族が帰って来て部屋が空っぽになったのを見たら泥棒が入ったと思うだろうから、美代はここに残って、今日引っ越しをしたことを僕の家族に説明してくれ。晩御飯を食べてからシェアハウスに帰ってくればいいよ。頼んだぞ」
 僕の家族のことを美代が「僕の家族」と呼ぶのを聞いても、もうほとんど気にならなくなっていた。僕は「はい、分かりました」と答えて居間に行き、ソファーに寝転がってテレビを見ながら母の帰宅を待った。しばらくすると母が帰って来て洗濯物を取り入れ始めた。僕は黙ってソファーでテレビを見ていたが「佑太、来て!」という母の叫び声が聞こえて飛んで行った。
「佑太の部屋が空っぽになっているわ。110番に電話して!」
「違うんだよ、母さん。今日引っ越し先が決まったから友達に手伝ってもらって荷物を運び出したんだ」
「どうしてすぐに言わなかったのよ? 洗濯物をタンスに仕舞おうと思って佑太の部屋に来たら布団まで無くなっていたからびっくりしたわ」
「ごめん、後で言おうと思って……」
「そんなに簡単にアパートが見つかったの? 場所はどこ?」
「駅の向こうの集合住宅だよ。六人用のシェアハウスで、大学の同じ学部の友達が入っているんだ。そのシェアハウスでたまたま一部屋が空いたということを今朝教えられて、その友達が引っ越しを手伝ってくれたんだよ。敷金礼金もゼロだから助かった」
「シェアハウスなんて大丈夫なの? テレビドラマによく出て来るけど、他の五人の中に悪い人が混じっていたらどうするのよ? とにかく私にも部屋を見せなさい。それから、そのお友達にお礼をしなくちゃ」
「そのシェアハウスは例え家族でも外部から人を連れ込むことは禁止という厳しいルールがあるんだ。基本的にうちの大学の学生と教職員しか入れないシェアハウスだから悪い人なんていないよ。友達へのお礼は僕自身がするからお母さんは口出ししないで。そういうことを全部含めて『自立』を目指すために家を出るんだから」
 少し嘘が混じっているが、そうでも言わないと母に納得してもらえない。
「そうかもしれないけど……」
 母はやはり僕のことを心配してくれているのだ。
「今日晩御飯を食べてからシェアハウスに行くよ。今度帰って来るのは正月になると思うけど」
 母は僕の洗濯物を畳んで袋に入れて僕に渡しながら言った。
「駅の向こうにいるのにお正月まで帰らないの? 時々ご飯を食べに帰って来なさいよ」
「いつでもLINEでやりとりできるじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 母は悲しそうだった。僕を一番愛してくれている母をこんな風に騙すことに心が痛んだ。僕は母の期待を裏切ろうとしている。今度会うときにはスカート姿かもしれないのに……。
 夕食を終えると母に玄関まで見送られて家を出た。
「さようなら、母さん。さようなら、茜沢佑太」
 僕は今までの自分に別れを告げた。
 


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