他人の空似:女装バイトの罠(TS小説の表紙画像)

他人の空似

【内容紹介】男性がナース服を着て病院で仕事をさせられる小説。前期試験が終わり夏休みに入った外語大の1年生の主人公はマクドナルドで自分そっくりの男性と遭遇する。二人は意気投合し、入れ替わってお互いの人生を体験してみようと盛り上がる。運命的な出会いとその男性の思惑が重なり、主人公の人生は驚くべき道を進み始める。

まえがき

 他人の空似という言葉がある。

「世の中には自分とそっくりな人間が三人いる」と言われる。地球上には七十三億人もの人間がいて、そのうち六割はアジア人だ。男女半々だとしてアジア人男性だけでも二十億人以上いるわけだ。その中に僕そっくりの人が三人いるとすれば七億人に一人のそっくりさんという計算になる。

 僕は特に変わった顔かたちをしているわけではない。頭の体操という観点で身長、体重、頭の形、目、鼻、口、耳、眉、肌の九つの項目を各々五つのタイプにプロファイリングするとしよう。五の九乗は約二百万だから、九つの項目が全て僕と一致する確率は二百万分の一だ。日本の男性人口は約六千万人だが僕の年齢層を十人に一人とすると六百万人だ。

 つまり「日本の男性のうち僕の年齢層で九項目の外観上の特徴を五種類にプロファイリングした場合、全ての項目が僕と一致する人が三人いる」という計算になる。

 こう考えると自分そっくりの人はそんなにはいないという結論にならないだろうか? 「九項目を各々五つに分類する」というのは非常にアバウトな方法だ。目の形や配置だけをとっても各人各様、千差万別であり、あえて分類しようと思えば百通りは必要だろう。

 だからこそ、自分としては姉とそんなに似ているとは思っていなかったのに「お姉さんとそっくりですね」などと言われるのだろう。同じ親の遺伝子からできた兄弟姉妹の身体は多くの項目の分類が一致するわけだ。つまり前述の「九の五乗」の手法で日本一僕に似ている人間は(性別を無視すれば)姉だったということも十分あり得る。結局のところ、本当に僕と生き写しの人間と日本で出会う可能性は極めて低いのだ。

 しかし、二〇一六年の夏、僕は実際に自分そっくりの人間に遭遇し、そのせいで僕の人生は全く予想していなかった方向へと動き始めた。

第一章 他人の空似

「瑠衣、昨日の夕方、駅で俺が声をかけたのにシカトしただろう」
 文化人類学の講義の前に友人の鴫田浩二に言われた。

「浩二に声をかけられた記憶はないけどなあ。それ何時ごろ?」

「五時十五分ごろだったかな」

「じゃあ僕じゃないよ。昨日は四時半過ぎの電車で帰ったから」

「他人の空似ってこと? 本当に瑠衣とそっくりだったんだけどなあ」

 浩二とそんな会話をしたのは七月上旬だった。その後は気にも留めていなかったが、七月末の前期試験の前日に、社会学の講義で僕のすぐ後ろの席に座った弓原京子からも同じようなことを言われた。

「更科君、日曜日に映画館で見ちゃったわよ。あの子が更科君の彼女なのね」

「映画館? 僕、映画はツタヤで借りるかアマゾン・プライムで見ることにしてるから、映画館には半年以上行ったことがないよ」

「とぼけちゃって。すぐ近くで目撃したんだから。彼女から『ルイ』と呼ばれてイチャイチャしていたくせに」

「それは他人の空似だよ。そう言えば最近鴫田から駅で声をかけたのに返事しなかったと言われたことがある。僕とそっくりな人がいるのかもしれないな」

「下手な言い逃れをしてもバレバレよ」

「本当だって!」

 毎日のように顔を合わせる浩二に取り違えられ、京子が僕の言葉を信じないということは、相当似ているのに違いない。一度会ってみたいものだと思った。

 その願いが叶ったのは夏休みに入ってからだった。

 八月一日の月曜日から夏休みに入ったのに毎朝電車に乗って大学の近くまで来ることが僕の日課になった。それはポケモンGOのためだった。七月二十二日にポケモンGOの配信が開始されたが、前期の試験の直前だったのでぐっと我慢をして試験終了後の七月三十一日にアプリをインストールした。満を持しての参戦だったが僕のアパートの周辺にはポケストップが殆どなく、せっかく珍しいポケモンに遭遇してもモンスターボールの手持ちが無くなってポケモンを捕まえ損ねるという事態が相次いだ。(ポケストップとはポケモンを捕まえるのに必要なボールなどの道具を無料でもらえる場所のことだ。)前期試験の前にポケモンGOを始めた友人から、大学の近くにポケストップが沢山あると聞いていたことを思い出して、通学定期で来られる海浜幕張までやって来た。

 通学路を歩いて調べたところ、海浜幕張駅から幕張テクノガーデンの裏側のスカイウォークを通って大学に来るルートがポケストップの密集地帯であることが分かった。最も効率が良いのはテクノガーデンの裏側のスカイウォークと、西隣のNTT沿いのスカイウォークを周回するルートだ。ポケストップは五分ごとにリセットされるので、周回ルートを五分かけて歩くと十ヶ所ほどのポケストップで道具をもらい続けることができる。つまり、一時間で百二十回ポケストップに立ち寄ることができるので簡単に大量のボールをゲットすることができるのだ。

 幕張テクノガーデンの周辺にはIBM、住友ケミカルエンジニアリング、NTTなどの高層ビルがあり、昼休みになると大勢のサラリーマンがポケモンを求めてスカイウォークに繰り出し「ルアーモジュール」を使い始める。「ルアーモジュール」とは三十分間ポケストップにポケモンをおびき寄せる道具で、昼休みになると、僕の周回ルートはポケモンの宝庫になる。

 八月一日の月曜日から三日の水曜日は朝の九時から夕方五時まで周回ルートを回り続けた結果、僕の「ポケモントレーナー・レベル」は一気に十七まで上がった。

「今週中にレベル二十に到達するぞ!」

 達成感に満たされると空腹を感じたので、テクノガーデンの二階を大通りへと通り抜けて一階のマクドナルドに行った。ポケモンGOの配信が開始される前と比べるとマクドナルドの店内は目に見えて混雑していた。日本マクドナルドがポケモンGOの会社と提携して各地の店舗にポケストップを設置したということはニュースで見て知っていたが、ポケモンGOによる集客効果は相当なものだと思った。

 カウンター席でマックフライポテトをかじりながらポケモンの整理に取り掛かった。ポケモンの整理とは捕獲した不要なポケモンを送り返してポケモンの「進化」に必要な「アメ」に変えてもらう作業のことだ。送還を終えて「進化」の作業に取り掛かった。「ポッポ」というポケモンだけでも十数匹分の「進化」が蓄積していた。「これは時間がかかりそうだぞ」僕は進化の作業を開始した。

 その時、カウンターで隣の席に座っている男性から声をかけられた。

「惜しいなあ。それだとポケモンを一匹進化させる度に五百ポイントしか入らないじゃないか。何匹も進化させるときには『しあわせたまご』を使わなきゃ」

「しあわせたまご? 何ですか、それ?」

「ポケストップで時々もらえるアイテムさ。しあわせたまごを使うと三十分間、ポイントが全て倍になるんだよ。道具箱のアイコンをクリックしてごらん。そうそう、その下の方だよ。ほら、しあわせたまごを三つ持ってるじゃないか。それをクリックするんだ」

 言われたとおりにすると画面に三十分間のカウントダウンが表示された。僕は慌てて進化の作業を再開した。一回ごとに千ポイントが貯まるようになり、あっという間にポケモントレーナーレベルが十八になった。

「すごい! 教えていただいてありがとうございました!」

 僕はその時初めて隣の男性の顔をまともに見た。ため口で話しかけられたので何歳か年上かと思っていたが、僕と同じぐらいの年齢のようだった。日焼けしていて肩の筋肉が盛り上がっており男性的な印象だが、横顔を見ると顎は細目で全体にきゃしゃな造りの小顔だった。切れ長の美しい目と真っすぐな鼻が印象的だ。

 あれっ? どこかで見たことがある顔だぞ……。

「おせっかいとは思ったけどアドバイスしてよかったよ」
 そう言いながら彼はポケモンの手を休めて僕の方を見た。

「あっ!」

 彼は僕と同時に息を詰まらせた。それは僕自身の顔だった。鴫田浩二と弓原京子が言っていた僕そっくりの人物とはこの人なのだと直感した。ただ、何か重要なものが欠けていてアンバランスな気がする……。

「驚いたよ。俺そっくりの顔の人がいるなんて」

「最近同級生から駅で声をかけたのに返事しなかったとか、映画館で彼女と一緒にいるのを見たとか言われたから、この近辺に僕と似た人がいるということは知っていたんです。確かに似てますよね。でも何かバランスが微妙に違うような気がしますけど」

「バランスって左右のバランスの事じゃない? 俺たちが普段見ている自分の顔は鏡に映った顔だから、実際の顔とは左右が逆なんだよ。ほら、僕たち髪の毛を右から左に流してるだろう」

「本当だ! 鏡で見るのとは左右が逆だからアンバランスだと感じたんですね」

「ちょっと、立ってみて」
 彼は椅子を降りながら言った。

 僕も椅子を降りて向かい合って立つと、目の位置は厳密に同じだった。肩の高さも同じだ。

「身長も同じだなあ。君、体重は何キロ? 俺は五十八キロだけど」

「僕は五十三キロです。筋肉の付き方が相当違いますもんね」

「筋トレをやってるからさ。俺が筋肉を落とせば同じような体格になるかもな」

「そうですね」

「俺、菅原瑠衣、十八歳」

「更科瑠衣、僕も十八歳です。瑠衣は王へんに留まる、それに衣と書きます」

「俺と同じ漢字なんだな。外観がそっくりの俺たち二人が名前まで同じだなんてすごい偶然だよな」

「僕は三月生まれですけど、菅原さんは?」

「俺、十二月生まれ」

「たった三ヶ月違いなんですね。だいぶ年上だと思って敬語を使って損しちゃった」

「俺は初めから同い年ぐらいだと思っていたけどさ。とにかく敬語は止めてくれよ」

「いきなりため口に変えるのは抵抗があるなあ……。じゃあ、菅原君と呼ばせてもらうね」

「ああ、俺もキミのことを更科君と呼ぶよ」

「僕はこの近くの大学の一年生。新習志野駅から五分のアパートに住んでるんだ。実家は杉並区で両親と兄、姉が住んでる」

「俺は市原市の出身だけど今年の春に稲毛海岸に引っ越して来た。母と俺との二人暮らし。母も俺も看護師をしているんだ」

「十八歳なのに看護師?」

「正確に言うと准看護師だ。中学を出て専門学校に二年間通うと准看護師になれるから、十七歳の看護師もいるんだよ。俺の場合は准看課程が三年間でさらに二年間専門過程に通えば正看護師の国家試験が受けられる学校だったけど、早く給料を稼ぎたかったから准看護師として就職したんだ」

「偉いなあ。僕なんて大人になったら何になるのかアイデアが浮かばないから、いくつか受験してたまたま受かった大学に入っただけだ」

「親の金で一人暮らしさせてもらえるだけの経済力のある家に生まれた更科君が羨ましいよ。俺は物心ついた時から母との二人暮らしで母が看護師をしていたから貧しいと感じたことはなかったけど、母は働きづめだった。俺は中学時代に人生に絶望して死のうかと思ったけど母のことを思うと自殺には踏み切れなかった。母に言われるままに看護専門学校の准看護学科を出ただけさ」

「男子で看護師になるなんて珍しいよね」

「最近は結構いるんだよ。介護や保育と比べて給料が高いからかな。でも准看護学科には男子学生は殆どいなかった。中学の男子生徒で看護師になりたいと思うやつは稀だもの」

「ということは看護学校の同級生の中で男子は菅原君ひとりだったわけか。いいなあ。自分以外のクラス全員が女子だなんて地上の楽園みたいだ」

「俺にとっては地獄の日々だった」

「どうして? クラスに男子一人ならモテモテだっただろう?」

「俺はそんなんじゃないんだ。更科君のシンプルな世界が羨ましいよ」

「でも今は看護師として仕事を楽しんでるんだろう?」

「今は俺らしく仕事ができる環境になった。でも俺の人生は素直に楽しめるような単純なものじゃない」

「彼女もいるんだろう? 映画館に一緒に行った女性」

「ああ、俺の大切な彼女だ」

「結婚するつもりなの?」

「まだそこまでは考えてないよ。お互い未成年だから。とにかく、そんなに単純なことじゃないんだ」

「ふうん……」

 僕は菅原がなぜ自分について持って回ったようなネガティブな表現をするのかが理解できなかった。世の中には学歴を人物評価基準として過大視する人が大勢いる。中卒で看護学校に行くことを低学歴と見なす人も多いだろう。でも男子たるもの一歩踏み出した以上は自分の進む道にもっと誇りを持てばいいのにと思った。

 僕たちはスマホを閉じて会話に夢中になった。菅原はものの見方が厳しく緻密で批判的、僕は他人にも自分にも甘くて楽観的だ。それは生い立ちの違いから来るものだろう。菅原は悲観的な発言が多いが自分で物事を切り開くタイプ、僕は起きたことを自然に受け入れるタイプで菅原とは対極的だった。しかし、時事ニュースや芸能関係の好みについては意外なほど考えが似ていた。

「僕たちは似ている部分について相同性が驚くほど高いね。もしかしたら同じ遺伝子を持っているのかもしれないよ」

「俺は君のお父さんが僕の母に産ませた子供だとでも言いたいの?」

「ご、ごめん。そんなことを思ったわけじゃないよ。似ている部分の一致度が高いから、遺伝子に考えが及んだだけさ。僕って気が利かないから失礼なことを口に出してしまって……」

「いいよ。俺は父親についての記憶がないから。父親は死んだと聞かされているけど、もし更科君が俺の弟だったら嬉しいよ」

「僕の父は超まじめで石頭だから、残念ながら短期間で二人の女性と関係を持つとは考えられないな」

「もしも、もしもだよ、僕たちが異母兄弟で、産んでくれた母親が違った結果、これほど異なる十八年間の人生を送って来たとしたら……」

 菅原は遠くを見るような目をして言葉を止め、しばらくしてから口を開いた。

「入れ替わってみたら面白いと思わないか?」

「入れ替わるって、菅原君と僕が?」

「そうさ。俺が更科瑠衣として大学に通って、キミが菅原瑠衣として看護師になるのさ」

「面白そうだね。でもバレちゃうよ。顔と身長は同じでも菅原君は筋肉モリモリの男性的な身体をしているから、僕が病院に行ったらすぐに別人だと分かるよ。それに看護師って専門的な知識が必要な仕事じゃないか。僕には無理だよ」

「病院というところは夜勤と日勤があるから、大勢の看護師がシフトを変えて働いてるんだ。俺の場合は勤務を開始してから日が浅いし、親しくしている人もいないから、入れ替わっても誰も気づかないと思うよ。それに母が同じ病院の正看護師だから、母と同じシフトで母のサブとして動けば仕事も支障は無いさ」

「そうかなあ? 一日でも病院で看護師になるなんて考えただけでもドキドキする。でも、お母さんが協力してくれることが前提条件だね」

「母は面白い事が好きな人だから協力してくれると思うよ。でも今夜は夜勤で家にはいない。俺は明日は午前八時から午後四時半までの日勤シフトだから、明日の夕方に俺の家に来てくれ。母はキミを見たら驚くぞ」

 僕は途方もない入れ替わり計画に胸を躍らせた。

 レンタルビデオで見た「ファミリー・ゲーム」というアメリカの映画を思い出した。両親が離婚した際に双子の女の子が父親と母親に一人ずつ引き取られるのだが、たまたま十一年後にサマーキャンプで再会して双子の姉妹であったことを知り、入れ替わって家に帰り、両親を結び付けようと画策するというストーリーだ。とてもワクワクさせる感動的な話だった。僕と菅原の場合は双子ではなく性別も男子という点で事情が異なるが、双子並みに似ているから、あの映画の主人公のように入れ替わって親の目を欺くことができるかもしれない。

 菅原の住んでいる稲毛海岸のアパートの正確な場所を僕のスマホの地図に登録してもらった。明日の夕方の六時に菅原のアパートに行くことを約束して菅原と別れた。

第二章 スイッチ

 翌日の木曜日、僕はいつもの通り午前九時に幕張テクノガーデン裏の周回ルートで午後五時までポケモンGOに励み、そのまま四キロほどポケモンGOをしながら歩いて午後六時少し前に稲毛海岸の菅原のアパートに到着した。

 玄関でチャイムを鳴らすと菅原が出て来て迎え入れてくれた。洗面所を左に見ながら廊下を進むとリビング・ダイニングルームへのドアがあった。食卓の向こうにソファーと五十インチのテレビがあった。僕はソファーに腰を下ろした。菅原の身の上話を聞いて質素で侘しい住まいを想像していたが、どこにでもある中流家庭の住まいだった。食卓の奥が台所への通路になっていて菅原の母親が姿を見せた。

 僕はソファーから立ち上がって一礼をした。
「こんにちは、更科瑠衣です」

「まあ、何という事なの。想像していた以上にそっくりだわ!」

「だろう? 俺の服を着てここに座っていたら母さんでも間違えるんじゃないかな」

「本当ね。ほっそりとしていて看護学校に通っていた頃の瑠衣と生き写しだわ。それにしても両方とも瑠衣という名前だから紛らわしいわね」

「俺のことは瑠衣、更科君のことは瑠衣さんと呼んだらいいんじゃない?」

「そうね。瑠衣さん、今日は瑠衣の好物のミンチコロッケを作ったからたっぷり食べてね」

「ありがとうございます。僕もミンチコロッケは大好きです」

 菅原は母親が食卓に料理を並べるのを手伝った。菅原の所作が自然で違和感がないことが意外だった。昨日マクドナルドで話をした菅原は全てにおいて男っぽくて、家で母親の家事を手伝う姿は想像できなかったからだ。

「更科君はそこの席に座ってくれ。オット、その前に石鹸で手を洗って来いよ」

 その言葉も菅原には似合わなかった。泥まみれの手でも平気で食事をしそうなタイプの男なのに、看護師をしていると清潔好きになるのだろうかと思って可笑しくなった。

 菅原は冷蔵庫からウスターソースとマヨネーズを取り出し、母親が席に着くのを待った。菅原と母親が両手を合わせて「いただきます」と唱和するのに僕も合わせた。菅原家のミンチコロッケというのはミンチが多めに入ったコロッケだった。僕の家のミンチコロッケはミンチカツに近いものだったが、菅原家のミンチコロッケの方がホクホクして美味しいと思った。

「母さん、さっき説明した通り、俺は更科君と入れ替わってみたいんだ。アパートで優雅に一人暮らししながら大学に通う十八歳の男性になりたい。更科君も母一人子一人の准看護師になってみたいと言ってる」

「さっき実際に瑠衣さんを見るまでは非現実的だと思っていたけど、これほど似ていたら不可能じゃないかもしれないわね。瑠衣が何不自由のない普通の男子大学生になりたいという気持ちは痛いほど分かるから、瑠衣さんが本気なら協力してあげてもいいわよ」

「でも、僕が看護師のフリをできるでしょうか? 注射をすることもあるんでしょう?」

「私とペアのシフトにして一緒に動けば何とかなると思うわ。勿論点滴や採血は私がするから、瑠衣さんは私の指示に従って簡単なことをやればいい。実際には看護師の資格が必要じゃない仕事が大半なのよ。検温、血圧測定、パルスオキシメーターの装着、耳垢除去、つめ切り、点眼、湿布のはり付け、軟膏塗布、座薬挿入、一包化された薬を飲む際の介助、口腔内の清拭、浣腸、身長体重や肺活量の測定、抜毛、検尿、検便。今言ったのは看護師でなくても正式に認められている行為の例よ。私に言われたことをするだけで結構忙しいわよ。それよりも瑠衣に大学生のフリができるかしら?」

「九月十四日までは夏休みですから全然問題ないですよ」

「俺が更科君のフリをして杉並の家に行ったらバレルかな?」

「両親とも僕の事なんか大して気に留めていないから意外とパスするかもしれないね。でももし疑われて警察に突き出されたりしたら大変だから、僕も一緒に行って家の近くの喫茶店で待機するよ。スマホでSOSをもらったら僕が現れて家族に説明すれば事が収まるだろう」

「そうしてもらえれば助かるわ。瑠衣がニセモノだとご両親にバレても瑠衣さんが出てきて事情を説明すれば笑い話で済ませることができそうね。でも瑠衣さんの場合はもし別人であることが露見したら大変なことになるわ。看護師資格のない人が医療補助業務を行えば保健師助産師看護師法に違反することになるもの。だから万一疑われても瑠衣さんは最後まで自分は菅原瑠衣だと主張し続けなければだめよ」

「何だか心配になってきました。そんな難しい役が僕に務まるでしょうか……」

「今更ビビるなんてキミらしくないなあ。とにかく母さんの言う通りに動いていればどうってことないさ」

「そうだよね。ドキドキするけどやってみようかな」

「細かい点まで私の指示に百パーセント従うことを瑠衣さんが確約してくれなければ踏み切れないわ」

「お約束します。絶対に菅原さんのお母さんの仰る通りにいたします」

「じゃあ協力するわ。『菅原さんのお母さん』では変だから瑠衣さんも私の事は『母さん』と呼んでちょうだい」

「はい、母さん」

「俺の母さんを取られたような気がして妬けちゃうな」

「代わりに僕の母を菅野君のお母さんにすればアイコじゃないか」

「俺たちがお互いを更科君、菅野君と呼び合うのは問題だな。入れ替わると俺が更科瑠衣、キミが菅野瑠偉になるもの。やっぱりファーストネームで呼び合うことにしよう」

「いいよ、瑠衣」

「じゃあ瑠衣、お互いのスマホを交換しよう」

「えっ? 何もかもスマホに入ってるからスマホがなくなるとどうしようもないよ」

「だからこそスマホを交換するんじゃないか。本気で入れ替わるんだからメールもLINEも入れ替わらなくちゃ。キミの場合はもし病院で誰かに疑われた場合に更科瑠衣のスマホを持っていたら大問題になるぞ」

「そりゃそうだけど……。でも、例えば菅原君の彼女から連絡があったらどうすればいいの?」

「キミが菅原瑠衣なんだから美和と付き合えばいいよ」

「無理だよ。瑠衣の彼女なんだろう? 僕が瑠衣じゃないことはすぐに気づかれるよ」

「冗談だよ。美和には俺が電話して、更科瑠衣としてデートするから。さあ、スマホを交換しよう」

 僕は渋々スマホを瑠衣に渡して瑠衣のものと交換した。僕たちはスマホ本体とメール・SNSのアカウントのパスワードなどの重要な情報を交換した。

「ねえ瑠衣、俺の家族についてもっと詳しく教えてくれよ」

「瑠衣の家族? お母さんのことは瑠衣が一番よく知っているだろう」

「バカヤロウ。俺は更科瑠衣だぜ。俺の家族ということは杉並に住んでいる両親や兄姉のことだ」

「紛らわしいな。分かったよ。僕の父は個人病院の院長だよ」

「キミの父じゃなくて俺の父のことか?」

「こだわるんだなあ。更科瑠衣君のお父さんは更科病院の理事長兼院長だよ。母は専業主婦。兄はK大学医学部を卒業した内科医で二十八歳だ。姉は研修医を終えたばかりで、家から大学病院に通っている」

「すごいな。でも瑠衣は金持ちの息子という感じは全くしないよね。普通のサラリーマン家庭に育ったのかと思った」

「父は質実剛健がモットーだと言ってる。それに家から通勤しているから子供としては普通のサラリーマンの父親と同じだった」

「俺の兄貴は医者なのか。ということは父の病院には既に兄という後継者がいて、俺は特に期待されていないんだな」

「特に期待されていないんじゃなくて全く期待されてないよ。何年浪人しても最低ランクの私立の医大にも行けるはずがない学力の息子なんて、必要のない存在なんだ。父と兄にとって邪魔にならないようにすることが更科瑠衣に期待されていることさ」

「キミって自分がどんなに恵まれているのか気づかなかったんだな。親から過大な期待をされずに何でも好きにやらせてもらえるわけだ。何でもやりたいことに挑戦できるわけだろう? 新しいことに挑戦して成功すれば親兄姉がよろこんでくれる。素晴らしいじゃないか」

「退屈な人生が好きならそれでいいんじゃないの。それよりも看護師として患者のために働いて自活している瑠衣の人生の方がずっとエキサイティングだよ。明日からが楽しみだな」

「二人とも自分の方が得をしたと思ってるみたいね。よかったわ」

 母は少年のような目をして僕たちとの会話を楽しんでいた。(僕が菅原瑠衣と入れ替わった以上、「菅原の母親」というのは不自然だから「母」と言うことにする)

 食事が終わって僕はお腹いっぱいになった。

「瑠衣さん、後でお茶を入れるからソファーでくつろいでいてね」

「はい」
と言ってソファーに移ろうとしたら瑠衣に制止された。

「何やってんだ? 瑠衣は自分のお母さんの手伝いをしないとダメだろう。俺は客だからソファーに座って待ってるけど。ねえ、菅原君のお母さん、瑠衣さんと呼んだのは俺のことですよね」

「勿論その通りよ。瑠衣、手伝って」

 母がいたずらっぽい目をして答えた。僕は仕方なく食事の後片付けの手伝いをした。杉並の家では食事が終わると僕は自分の部屋に行くのが当たり前と思っていた。子供の時から「勉強しなさい」と言われて部屋に追いやられていたのが習慣になったのだ。姉は大人になってから時々母の手伝いをするようになったが、男子たる兄と僕は家事を手伝うことを期待されていなかった。今、台所で一緒に後片付けをしていると母がとても近く感じられた。母と息子の二人暮らしで二人とも看護師として働いているのだから二人が家事を均等に分担するのは当然だ。母が仕事をしている横で息子がのうのうとテレビを見ている方が不自然と言える。

 母は僕と同じぐらいの背丈で引き締まった身体をしている。杉並の更科瑠衣の母よりはずっと若く見えた。

「母さんの年齢を聞いてもいいですか?」

「自分の子供に隠しても仕方ないから教えてあげる。三十八歳よ」

「随分若い時に生まれた子なんですね」

「五年制の看護学校を出た年の十二月に瑠衣が生まれたから、二十歳の子よ」

「姉さんみたいな母さんで、瑠衣は幸せですよね」

「瑠衣はあなたでしょう」

「そうでした。僕、幸せです」

「お世辞でもうれしいわ。でも瑠衣、自分の母親なんだから敬語を使わなくても良いのよ」

「えへへ、まだ恥ずかしいからそのうちに……」

 母に言われた通りにお茶を入れて、ソファーに座っている瑠衣のところに持って行った。

「どうぞ、瑠衣さん。粗茶ですが」
 おどけて言うと瑠衣は
「どもども、ごちそうさま」
と言って口をつけた。

 お茶を飲んだ後で瑠衣が立ち上がった。

「瑠衣のアパートの鍵と、学生証なんかが入った財布を出して」

 僕が出した鍵と財布を瑠衣はポケットに入れて、自分のポケットに入っていた鍵と財布を僕に渡した。

 あっけにとられている僕に瑠衣が言った。

「じゃあ俺、帰るわ」

「ええっ、帰るって……?」

「昨日知り合いになったばかりなのにご馳走になったばかりか泊めていただくのは図々しすぎるじゃないか」

「そんなことを言わないでよ。お互いもっと情報交換しておかないと」

「人間それぞれ膨大な情報を持っているんだから、一時間や二時間打ち合わせした程度では役に立たないさ。どうしても聞きたいことが出来たらLINEでやりとりすればいい。じゃあ菅原君のお母さん、俺、失礼します。今日はごちそうさまでした」

「瑠衣さんとお会いできて良かったわ。また遊びに来てくださいね」

 僕が早い展開について行けずに戸惑っているうちに瑠衣は出て行ってしまった。

 無茶だ! 無理がある……。瑠衣は行ったこともない僕のアパートで何をするつもりなのだろうか? 彼女を呼び出して遊ぶ以外に、何かすることがあるだろうか? 僕の友達からLINEが入ったらどう返すつもりなのだろう? 無茶なことをしないだろうか? さっき瑠衣に言われて深く考えずに差し出してしまったが財布の中には学生証だけでなくゆうちょ銀行のカードやクレジットカードも入っている。お札が何枚残っていたかもチェックせずに渡してしまった。もしも瑠衣が悪い人間で悪用されたら大変なことになる。いや、それ以上に不安なのが僕自身だ。病院の中がどうなっているのか全く知らないのに、いきなり看護師のフリをして仕事ができるはずがない。もしミスをして問い詰められたり、別人であることが分かって警察に突き出されたりしたら、僕は大学を退学させられるかもしれない。瑠衣が更科瑠衣として犯罪を犯した場合にも僕に災難が降りかかるだろう。僕は軽い気持ちで非常にリスキーなことに足を突っ込んでしまったのだ。

「母さん、僕、大変なことを引き受けちゃったかもしれない。やっぱり明日病院に行くのは止めといた方が良いんじゃないかな……」

 僕は涙目で母に救いを求めた。母は優しく微笑んで僕の頭に手をまわして髪の毛を撫でてくれた。

「大丈夫よ、瑠衣。母さんの言う通りにしていればきっと上手くいくわ」

 しばらく頭を撫でられているうちに不安が収まってきた。

「さあ、瑠衣から先にお風呂にはいりなさい。早く寝て明日に備えるのよ。パジャマと下着は洗濯機の上に出しておいてあげるから」

 僕は追い立てられるようにして風呂場に行った。明日病院でどう振舞うかという心配が再び頭をもたげてきて、不安で一杯になったまま首まで湯船に浸かった。それと同時に自分が本当に菅原瑠衣になってしまった気がして段々気が滅入って来た。中学を卒業して准看専門学校を出た、母親と二人暮らしの十八歳の男性。とても不安定でちっぽけな存在に思えた。でもそれが今の僕だ。どうせ夏休みということで、いつまで続けるのか明確な期間も定めずに気楽に飛び込んでしまった。でも、簡単にギブアップ宣言するのはシャクだ。冒険旅行に出かけるつもりで気合を入れてやってみようと心に決めた。


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