絵画モデル(TS小説の表紙画像)

絵画モデル

【内容紹介】男性が絵画のモデルのアルバイトをしたことをきっかけに女性化させられるTS小説。大学1年生の主人公は夏休みに割の良いバイトの募集を見つける。それは絵画モデルの仕事だったが、実際にやってみると簡単ではなかった。内面から浸み出たオーラという衣装を身にまとったモデルたち。BLカテゴリーでベストセラー1位となった人気作品。

絵画モデル募集

 クロッキークラスとデッサンクラスのモデルさんを募集しています。

1)人物クロッキークラス モデル
 第1、第3金曜日 午後7時半から午後9時まで

2)人物デッサンクラス モデル 
 第2、第4金曜日 午後7時半から午後9時まで 固定ポーズ

  • 自分の美しさ、顔、スタイル、体型などに自信がある方
  • 写真を撮られるのが好きな方
  • 絵あるいは写真に興味がある方
 モデル経験のない方も歓迎します。
 身長は163cm以上、187cmまで
 年齢は18歳から37歳まで
 報酬は時給2,500円から4,800円
 交通費は全額支給します

 ご興味のある方は、お名前と連絡先の電話番号、メールアドレスを明記の上、上半身と全身の画像を添付してご応募ください。

アトリエ小惑星
http://www.atelier-asteroid/
mail:miyuki@atelier-asteroid.com

第一章 モデル募集

 先月頭に描いていた計画としては、夏休みは帰省して親元でゆっくりする予定だった。四月に東京の大学に入学して四ヶ月目。初めて経験する一人暮らしは快適だった。毎日好きな時間に起きて、気が向くままに授業に出て、学食かどこかで適当に外食して、アパートに帰ってボケーっとテレビでも見て寝る。まだ彼女もいないし、会いたくないのに押しかけてくる友達もいないから毎日が自由だ。元々一人になるのは好きだからそれで良いのだが、時々降って湧いたように人恋しさを覚えることがある。実家に帰ればたまには高校時代の友達とワイワイ言うこともできるし、毎日祖母、父、母、姉、妹と同じ屋根の下にいる安心感が懐かしい。

 計画が変わったのは六月中旬に祖母が亡くなったのが原因だった。まだ七十二歳だった。僕が三月末に東京のアパートに移った時には少し身体の調子が悪いと言っていただけだったのに、僕が知らないうちに病状が悪化してあっけなく逝ってしまった。母に言わせると僕に隠していたわけでは無いとのことだった。三月に体調が悪いと言っていたのは胆嚢の結石で、全く生死にかかわる病気ではなく、死因は脳の血管が破裂したからだった。

 姉から電話で知らされて新幹線に飛び乗り、病院に駆け付けた時には祖母はもうこの世の人では無かった。おばあちゃん子だった僕は家族の中で一番取り乱して大泣きした。心に大きな穴が開いた。簡単に埋められる穴では無かった。告別式が終わって夜行バスで東京に戻った。翌日の講義に出席する必要があったからだ。

 高三の秋に失恋した時と同じで、一日中ボオーっとしていた。自分の周囲で何が起きているか、周囲の人が僕に何を話しかけているのか、目や耳には入るし無意識のうちに認識は出来ているのだが、全く頭に残らず、解釈もされずに頭から抜けて行った。五感は働いていても脳の思考領域が活動を停止していたのだ。

 七月の最後の講義が終わった時には僕の脳は普通の状態に戻っていたと思うが、祖母のいない実家に帰るのは怖かった。祖母のいない食卓で父母姉妹と普通に会話できる自信が無かった。高校時代の仲間に会っても、祖母を亡くした僕が何も起きなかったかのようにワイワイと騒げるとは思えなかった。だから夏休みは東京で過ごすことにしたのだ。

 アルバイトをしなくても何とか生活できるだけの仕送りをしてくれていたが、六月の新幹線代も懐に響いたので、何か軽いバイトでもしてみようかなと思っていたところだった。大学の友人の中には大学生か働き者のフリーターか分からないほどバイトに明け暮れている人もいた。大手外食チェーンで定常的にバイトをしている人の話を聞くと相当大変そうだ。身体がシンドイだけでなく、店長からの締め付けや意地悪な上司、無責任なバイトの同僚から受ける精神的ストレスの方がずっしりとこたえるらしい。「この不条理を乗り越えることが将来の自分の力になる」と友人が言うのを聞いて凄いなと圧倒された。僕には無理だ。

 そんな時に目に入ったのがモデル募集広告だった。午後七時半から午後九時までという点が真っ先に目を引いた。テレビで二時間物のサスペンスを見るよりも短い時間だし、その時間帯なら夏休みが終わってからも続けられる。行ってみて万一多少気乗りしない仕事であることが分かったとしても、僕だって一時間半ぐらいは我慢出来るだろう。

 そして何よりも時間給の高さが魅力だった。時給千円のバイトを四時間してヘトヘトにならなくても、一時間半立っているだけで同じバイト代が入る。美人女子なら親に内緒でキャバクラでバイトすればその程度の時給は貰えるかもしれないが、男子にはこんなに時給の高いバイトは滅多に無い。

 身長は百六十三センチ以上、百八十七センチまで、年齢は十八歳から三十七歳までとある。僕は身長も年齢も丁度その下限に入っている。「美しさ、顔、スタイル、体型などに自信がある方」と書いてあり、自分で言うのは少し恥ずかしいが、その点もクリアしている。時給が高いのは、まさにこの点をクリアする人が稀だからだろう。

 自分のスタイルが一番よく見える黒のTシャツとグレーのタイトなパンツに着替えて全身像を数枚撮影し、一番良さそうな写真を添付してアトリエ小惑星にメールで申し込んだ。

 メールを送信したのは昼過ぎだったが、夕方に返信があり、翌日の午前十時からのオーディションに来て欲しいとのことだった。交通費は全額支給すると書いてあった。アルバイトの募集なのに一方的にオーディションに呼び出して、気に入らなければ採用しないというのはどうかと思ったが、交通費を支給するということは僕が送った写真を見て、少なくも候補者として認めたということだろう。どうせ他に予定があるわけでは無いから行ってみることにした。

 テレビのドラマやルポで俳優のオーディション光景を何度か見たことがあった。会議室に数人の審査員が座っていて、その前に立つか椅子に座るかして質問に答えたり、セリフを言わされたりして合否が決まるというものだ。会議室の外には何人も、場合によっては何十人もの応募者が座っていて、名前か番号が呼ばれるのを待っている。自分がそんなオーディションを経験することになるとは思ったことが無かったので心が躍った。

 アトリエ小惑星は地下鉄の駅から数分歩いた雑居ビルの四階にあった。無人の受付カウンターでメールに書かれていた番号をダイアルした。名前を言うと「その場でお待ちください」と言われた。一分もしないうちに電話の相手らしい大柄な三十代の女性が受付に来た。

「あのう、オーディションの会場はどちらでしょうか?」

 女性は可笑しそうな表情を見せて「こちらにお越しください」と僕を受付の横の小さな会議室に連れて行った。

 座って待っていると、その女性がコーヒーの入った二つの紙コップを持って戻って来た。

「アトリエ小惑星 代表取締役 社長 篠原美由紀」と書かれた名刺を渡されて僕の緊張は一気に頂点に達した。社長という肩書の人と面と向かって話するのは生まれて初めてだった。

「オーディションと書いたけど単なる面接のことよ。写真の通り美しい人かどうかを会って確かめたかっただけだから緊張しないで」

 僕はほっと一息をついたが、期待していたようなオーディションを経験できなくなったのは残念だった。篠原社長は僕の落胆に気付いたようだった。

「ひょっとしてAKBのオーディションみたいなことを想像していたの?」
 それは図星で、僕はまさに一週間ほど前にテレビで見たAKBのオーディション光景を頭に描いていたので、赤面してしまった。

「アハハハ。あなたの年齢だとそんなことを考えるのね」

「は、はい……」

「モデルの経験はどの程度あるの?」

「全くありません。生まれて初めてです」

「やっぱり。じゃあ、まず詳しく自己紹介をして。形式は問わないから」

「谷崎凛太郎と申します。N大学の一年生です。1998年3月6日生まれの十八歳です。実家は福島市で父母と姉、妹がいます。趣味はテレビを見ることぐらいです。ひとりでボオーっとしているのが好きです。身長は百六十三センチで、バランスの良い体型がセールスポイントだと思います。ええと、それから……」

「そんなところでいいわ。普通の就職面接での自己紹介だったらアウトでしょうけど、モデルの自己紹介としてはOKよ」

「普通だとどんな点がアウトなんでしょうか?」

「趣味がテレビでひとりでボオーっとしているのが好きと言う学生を採用する職種は受付嬢ぐらいじゃないかしら」

「なるほど、勉強になりました」

「モデルの面接では話すときの表情、目の動きや口元、声質などを見るのよ。全ての項目において合格。難点は身長だけど、自分で言っていたように体型のバランスが良いから合格にしてあげる」

「身長は一応下限には入っていますので」

「少しサバを読んでない?」

「三ミリほど」

「聞かなかったことにするわ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、今週金曜日のデッサンクラスから来てくれるわね? その次は来週金曜日のクロッキークラス」

「はい、大丈夫です。ところでデッサンとクロッキーとはどう違うのですか?」

「モデルを見ながら時間をかけて質感や陰影の濃淡まで詳しく描くのがデッサン、短時間で把握して速写するのがクロッキーと思っておけばいいわ。うちのアトリエの基本は二十分間のポーズのあと十分間の休憩だから、一時間半のクラスだと三セットになる。デッサンの場合は三セットとも同じポーズ。クロッキーの場合は先生の指示によってポーズを変えるの。五分以下の場合もあるわ」

「絵描きさんは二十分毎に休憩を取るんですね。知りませんでした」

「休憩するのはモデルだけよ。二十分間同じポーズを取ると疲れるから十分間の休みをくれるのよ。モデルが休んでいる間も描く側は休まない」

 まるでゲスト扱いだなと思った。楽そうな仕事だと思ったが口には出さなかった。

「募集に書いたデッサンクラスとクロッキークラスのモデル以外にも単発の仕事を受けることは可能かな? アトリエ小惑星は私がクラスを教えるのと、場所貸しの両方で成り立っているの。レンタルの場合はお客さんが自分でモデルを手配して連れて来るのが基本なんだけど、時々モデル込みのレンタルの依頼もあるのよ。引き合いがあった時点で私からモデルさんにメールで都合を聞いて、もし都合が合えば来てもらうことになるけど」

「学生ですから大学の授業が優先ですけど、時間が合えばお引き受けします。特に夏休み中は暇ですから大歓迎です」

「今日の十一時から二時間のレンタルのお客さんで、モデルが病気でドタキャンになったから手配できないかという問い合わせが今朝入ってお断りしたんだけど、もし良ければオファーしてみようか? お客さんは幾つかプロダクションに当たってみるとは言ってたけど時間的に難しいから手配できなかった可能性が高いと思う」

「今日は完全にフリーですから大丈夫ですよ」

「じゃあ、お客さんに電話してみるからしばらく待っていてね」
 社長は部屋から出て行ったが五分ほどして戻って来た。

「成立よ。モデルの代わりに使う石膏像を車に積んだ所だったらしくて、とても喜んでいたわ。初めてだから時給は二千五百円だけど、今日は十パーセントの緊急割り増しをつけて二千七百五十円。二時間だから五千五百円よ。それで良いわね?」

「はい、結構です。募集広告には二千五百円から四千八百円と書いてありましたけど、経験とともに時給が上がるのでしょうか?」

「売れっ子になれば別だけど経験を積んでもそんなには上がらないわ。うちでは二千五百円が基本で、専属契約を結べば上乗せがある。四千八百円というのはヌードモデルの場合よ。私のクラスでヌードモデルを使うのは女性だけだけど、レンタルのお客さんでたまに男性のヌードモデルの引き合いもある。もし興味があるのなら登録しておけば引き合いがあった時に連絡するわ。その場合は後で全身像を撮影させてもらうけど」

「ヌードはちょっと……」

「恥ずかしいと思うのは未経験のモデルさんだけよ。デッサンする側は石膏像と同じオブジェとしか思っていないから」

「じゃあ将来の課題という事で……」

「男性のヌードモデルの場合は古代ローマの彫刻のような肉体をイメージして探す場合が多いから、失礼だけど谷崎さんの場合はお客さんの希望に合わない場合も多いと思う。でも一応全身の裸像は撮影しておかないと引き合いが来ないわよ」

「いえ、やっぱりヌードはやめときます」

「分かった。気が変わったら教えて。じゃあ、十一時の開始まであと五十分ほどだから、この部屋で待っていてね。飲み物はそのコーヒーだけにして、十一時までにこの突き当りのトイレに行っておくこと。二時間はトイレに行けないと思っておいて」

「二十分毎に休憩があるんじゃないんですか?」

「それは身体を休めるためよ。レンタルの場合はどんな衣装になるか直前まで分からないことが多いし、トイレに行くと衣装の線が崩れるから、できるだけトイレに行かないのがモデルとしての心がけ」

 そう言って社長は部屋から出て行った。

 オーディションを受けに来るだけのつもりだったのに五千五百円もの臨時収入があるというのは朗報だった。それにしても割の良いバイトだ。時給二千五百円だと一日四時間、ひと月二十日間働けば、二十万円の月収になる。就職しなくても生活できるレベルだ。しかも二十分ごとに休憩を取れたり、大事に扱ってもらえる楽な仕事のようだった。

 僕はもうすぐ始まるモデルの仕事のことを想像してワクワクしたが、十一時が近づくに連れて緊張してきた。十一時十分前に社長が部屋に来た。

「トイレは済ませた? そろそろお客さんが来るからアトリエで待機して。これがあなたのプロフィールよ」

 社長からプロフィール画面をコピーしたものを渡された。「モデル名:りん」と書かれた下に、全身と上半身の画像が並び、身長、体重、年齢と血液型が記されているだけのシンプルなものだった。

「りん、ですか?」

「谷崎凛太郎と本名を書くことも可能だけど、美しさが売りのモデルはストーカー被害などを防止するために本名は使わないことをお勧めするわ。男性モデルは普通苗字が入るけど、あなたの場合は短い名前の方が売りやすいと思う」

「いえ、りんで結構です。平仮名で書かれていたので面食らっただけです」

「最初、『凛』と漢字で書いてみたんだけどしっくりこなくて、片仮名の『リン』と平仮名の『りん』を並べてみたら平仮名がフィットしたのよ」

「へえ、色々考えるんですね」

「そりゃそうよ。あなたにとっても自分の名前は大事でしょう。さあ、ぐずぐずしていられないわ」

 僕はトイレに押し込まれた後、二十畳ほどの教室のような部屋に連れて行かれた。前方の教壇の位置にホワイトボードがあり、その近くの中央に移動式の台がある。その周囲が折り畳み式の椅子を置くスペースになっている。

 その時、受付から社長に呼び出しがあった。僕はアトリエで立って待っていた。社長は七人のグループを率いてアトリエに戻って来た。男性三名と女性四名だったが年齢は四十代から七十代に幅広く分布している。

「これがモデルのりんです」
 社長が右手を僕に向けて言った。

「りんと申します。よろしくお願い申し上げます」
とお辞儀をした。

 先生格らしい五十代の男性が僕に衣装を手渡して「ローマ時代の農夫の衣装です」と言った。僕は着替える場所を探そうとキョロキョロしたが隅に移動式の仕切りが置いてあったのでその陰に行った。それは麻袋を思わせる素材でできた被るだけの服で、ウェスト部分を紐で縛るようになっていた。パンツ一丁になってその服を被った。分かりやすく言えばざっくりとした膝丈のワンピースだった。

 ホワイトボードの近くまで戻ると先ほどの男性から靴を脱いで台の上に立つように言われた。

「靴下もですよね?」
と僕が聞くと、社長に睨まれたのですぐに裸足になり、台の上に立った。

「両手を軽く広げて『ああ』と絶望の吐息を出しながら天を見上げるポーズでお願いします」

 僕は言われた通りのポーズを作ったが、まるでマネキンのようにその男性に手や首の方向を動かされ、口と目の開き方まで注文を付けられた。

「それで結構です。動かないで」

 僕は斜め上を見ているので七人が何をしているのかは殆ど見えないが、僕と画用紙を交互に見ながら鉛筆を走らせているのは確かだった。社長が出て行った気配は感じられなかったので、社長は僕がちゃんとモデルの役目を果たすかどうかを心配して見守るか見張るかしているのだろうと思った。

「隅田先生、ローマの農夫の男性という設定で描いて良いんですよね?」
 男性の一人が質問するのが聞こえた。

「それは皆さん次第です。若い男性、少年、胸の小さい少女、或いは捕虜にした敵国の王子が去勢されて奴隷になっているのかも知れませんよ。ご自由に想像力を発揮してください」

「そういう意味では最高のモデルさんね。よかったわ」
 母よりも年上の女性の声だった。

 それは面と向かって「お前は中性的だ」と言われるのと同じで嬉しくはなかったが、僕は考える余裕のない状況だった。というのは、二十度ほど左右に開けている腕がしびれてきて、腕を動かさないようするのに必死だったからだ。肘が反り返るほど真っすぐに伸ばし、掌がやや外側を向く位置で止めたのが間違いだった。その方が恰好は良いのだろうが、人間の腕は外側に捩じって肘を反り返らせた状態で長時間固定するようには出来ていないのだ。上腕部が痛くなりぴくぴくと引きつり始めた。でも動かすことは許されない。拷問とはこういう状況のことではないかと思った。最もつらいのは視野の中に時計が無いので拷問状態があとどれくらい長く続くかが分からないということだった。既に一時間が過ぎた気がするが、まだ五分しか経っていない可能性もあった。
「ああ、もうだめだ」
 そう思った時に先生から声がかかった。

「モデルさんご苦労さま。十分間の休憩に入る前に今のポーズと角度をしっかり覚えておいてください」

 このポーズは身体が嫌と言うほど覚えている。僕は足の位置と身体の向きを確かめてからポーズを解いた。七人はわき目も降らずにデッサンの作業に集中している。僕は彼らの視界の外まで歩いて行って屈伸運動をした。そして両手を交互に使って肩から上腕部をマッサージした。肩を回しながら七人がどんなデッサンをしているのかを遠目で覗くと、同じモデルを見て描いているのにここまで違うのかと驚いた。ローマ戦士のような絵もあれば、明らかに女性を描いているものもあった。どうせ初心者で下手だから似ていないのだろうと思ったが、よく見るとそれぞれの画像はしっかりとしていた。

「モデルさん、元のポーズをお願いします」

 先生は大きな腕時計とにらめっこしている。モデルを一秒でも余計に休ませることのないように管理しているのだろう。僕は台の上に戻って先ほどと同じポーズを取ったが、肘が反るほど真っすぐに伸ばさないよう注意して、腕を外転する角度も減らした。すると先生が僕のところに来て、肘の伸ばし方と腕を捩じる角度を元と同じになるように修正した。「鬼!」と叫びたかったが仕方ない。僕はマネキン人形なのだ。

 社長がアトリエから出て行くのが気配で分かった。僕が一応モデルとして通用することが分かったから仕事に戻ったのだろう。

 肘と腕はだるくはなったが先ほどのように痙攣寸前になることはなかった。身体がこの状態に慣れて学習したという事だろう。今度痛くなったのは首と口だった。人間の首は真っすぐ伸ばして前を見るように出来ているのだ。四十五度以上の仰角で固定することには相当な無理があることを思い知った。それ以上に苦痛だったのが口だ。僕は小さい時から口を半開きにしていることを祖母や母に指摘されては口をつぐんでいた。だから口を開いたままにすることに問題は無いはずだったが、「ああ」と天を向いて絶望する時の開口度は半開きより二段ほど大きく開いた状態だ。それを維持するのは本当につらい。顎が痛くなるし、もしハエでも飛んで来たらどうしようと心配になった。首が今にも折れそうな感じになった時に「モデルさん、休憩していいですよ」という声がかかった。

 残った二セットのポーズは惰性で何とかやり終えた。恐らく僕のモデルとしてのパフォーマンスは最後の二十分間がベストだったのではないかと思う。というのは、当初は絶望して天を見上げる自分を演技していたのだが、最後のセットの場合は本当に絶望して天井を見上げていたからだ。

「はい、ご苦労さま」

 緊張の糸が解けて僕がその場で首と肩を回し始めた時、既に社長がアトリエに来ていたのに気付いた。

「りん、頑張ったわね」
 社長が僕の肩に手を乗せて言ってくれた。
「初めてやるときが一番しんどいのよ。次からはずっと楽になるから」

 僕はどれほど酷い拷問状態だったかを社長にぶちまけたかったがお客さんの前なので黙って微笑んでいた。

「りんさんでしたね。いやあ、実によかった。実はもう少し男性的なモデルさんをイメージしていたので、十一時に来た時には正直なところがっかりしたんですが、描いてみて価値が分かりました。ボディーや顔の部品の一つ一つが精密にできているし、想像力をかき立てられるオブジェでした」

「先生、来週は従来のモデルさんに戻るんですか?」
 一番若いと思われる女性が質問した。

「りん、どうなの?」

「夏休みは九月二十四日までなのでそれまでは大丈夫ですけど……」

「皆さんいかがですか? 九月二十四日までりんさんにお願いしますか?」
と先生格の男性が質問すると、全員から「賛成」という声が上がった。

「それではりんさん、お願いします」

「はい、承知しました」
 僕ではなく社長が答えた。

「月一回はヌード・デッサンですが、それも大丈夫ですよね?」
 先生が社長に質問した。

 僕が口を出す前に社長が「料金は倍ですが」と言ったので僕は慌てた。

「勿論承知しています」

「分かりました。りんは新人でヌードはまだ契約に入っていませんが本人を説得しておきます。月一回とはいつですか?」

「来週のこの時間になります」

「分かりました」

「りん、衣装を脱いでお返ししなさい」

 僕が衝立の陰で衣装を脱いでいた時に社長が来た。

「悪いけどパンツを脱いで足を拡げてちょうだい。もしあまりにも酷すぎたらお客さんからクレームが出るからアソコを一応確認しておきたいの」

 僕はパンツを脱がされる事よりも社長の上から目線の態度に戸惑ったが、プライド的にはちゃんと見せておこうと思いパンツを下ろして股を拡げた。社長は屈んでじっくりと見てから指先でチョンチョンと持ち上げ「合格」と言った。

 僕がパンツを上げてズボンをはいている間に社長は衣装を畳んで客に返しに行った。モデルとしてはお客さまを見送るべきだと思っていたが、七人の客は社長に率いられてそそくさと出て行った。僕と挨拶を交わす必要性は全く感じていないようだ。

 僕は客が使った椅子を元に戻してアトリエを整頓した。そこに社長が戻って来た。

「あら、整頓してくれたのね。そんなに気が利くモデルさんは珍しいわ。私の部屋でコーヒーでも飲んでいかない?」

 僕は立派な社長室をイメージしていたが、連れて行かれたのはデスクが三つしかない事務室で、社長のデスクの横に四人分の応接スペースがあった。

 四十代の事務のオバサンが一人座っていた。

「こちらは米倉常務よ。米倉さん、新人モデルのりんよ」

 ただのオバサンと思った人が常務だと分かって緊張した。

「そんなに緊張しなくても良いわよ。米倉常務というのはハッタリ。私の姉が家事の合間に手伝ってくれてるだけ。普段は姉さんと呼んでるの。このビルは私たちの父が所有していて、私はこのフロアを父から借りてるのよ。芸術学部を出て絵の先生をしているうちに、三、四年前から場所貸しも始めたの。手を広げると忙しくなるから、モデル付きレンタルまでやるつもりは無かったんだけど、お客さんから強い要望があったから仕方なく始めたのよ」

「モデルは何人ぐらい雇ってらっしゃるんですか?」

「りんを含めて四人よ。金曜日のデッサンクラスは生徒五人あたりモデルが一人だから、りんと、もう二人のモデルが来るわ。今まで男性のモデルは誰もいなかったのよ」

「それで募集を出されたのですね?」

「やっぱり気付いてなかったのね。あれは女性のモデルの募集広告よ。スタイルの良い美人に限ると遠回しに書いたつもりだったんだけど」

「でも身長は百八十七センチまでと……」

「うちの三人の女性モデルのうち二人は百八十以上よ。もうひとりはとても小柄で百六十七しかないけど。ファッションモデルを目指す人が生活費のために絵画モデルをするケースが結構多いのよ。私はその手のモデルが好みなの」

「すみません……」

「メールに凛太郎と書いてあって驚いたけど、とてもきれいな顔立ちだったからオーディションに呼んだのよ。予想以上だったので即採用ってわけ。すぐ商売になったから良かったわ」

「商売になったって?」
 米倉が社長に質問した。

「今まで場所貸しだった今日のお客さんがりんを気に入って、次回からモデル付きに変更になったのよ。それも月一回はヌードで」

「社長、やっぱりそれ困ります」

「何が困るの? ウェブサイトにヌードモデルとして載せるわけじゃないのよ。今日のお客さんはサンプル画像も見ずに来週のヌードモデルの注文をしたんだから、りんは台に立つだけ。今日やっていて分かったと思うけど、お客さんはりんを単なるオブジェとしか見ていない。だから今日も挨拶もせずに黙って帰ったでしょう」

「そう言われてみれば確かにそうですけど……」

「来週やってみてどうしても嫌だと思ったら、それっきりにすればいいのよ。二時間で九千六百円もらえるのよ。時給千円で十時間汗だくになって働くのとどちらが良いと思う?」

「じゃあ、来週やってみて、その結果でそれ以降どうするかを僕が決めるということで良ければ」

「了解。契約成立よ」
 社長に手を差し出されて握手した。


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