HLAの絆(TS小説の表紙画像)

HLAの絆
僕は父を救うためなら男でなくなってもいい

【内容紹介】男子が女子高生の制服を着て通学させられるTS小説。夫婦と息子二人のごく普通のサラリーマン家庭。子供が中1と小3の時にアメリカ駐在から帰国した家族は幸せな生活を送っていた。次男が中2の時に一緒に風呂に入っていた父親は次男から体の変調を指摘される。翌日クリニックに行って診察を受けた結果、精密検査のために大病院へ。父親は即入院、手術となった。命はとりとめたものの重大なハンディを抱えて苦しむ父親を家族が支える。それにも関わらず自殺未遂……。家族が一緒に困難を乗り越える姿を描いた愛のドラマ。

第一章 父と子

 僕は父が好きだ。小さい時から父のようになりたいと思っていた。

 父は商社マンで僕が三歳になる少し前にニューヨーク駐在員になった。家族は父が赴任してから三ヶ月後に渡米し、ニューヨーク郊外のスカースデイルという町の一戸建てに入居した。僕は泣き虫で母が近所のキンダーガーテン(幼稚園)に連れて行っても、僕を預けて帰ろうとする母にしがみついて離れなかったそうだ。でもその時のことを僕は殆ど覚えていない。

 何才に「物心がつく」のかについては諸説があり、人によって違うと思うが、渡米する前の記憶は殆どなくて、画像を伴う最も古い記憶は、家の裏庭で父とバーベキューをしている光景だ。僕の幼少時の記憶に出て来る友達は白人かアジア系アメリカ人で、親しかった女の子はアリスと言う名前の栗毛の子だった。

 四つ上に兄が居るが、兄は母が好きで母にベッタリ、僕は父が好きで父にベッタリだった。兄と父を取り合って競った記憶は全くないので、兄はあまり父が好きでなかったのかもしれない。

 何故僕がパパっ子になったのかは自分でも分からない。母によると僕は渡米するまでの幼少期に近所のオバサンにはなつかなかったが、クリーニング屋や新聞屋のお兄さんが来ると目を輝かせていたとのことで、生まれつき男性との接触を好むタイプの子供だったのだろう。

 誤解を招かないために言っておくが、僕はいわゆるホモっ気はゼロで、小さい時から美しい少女が大好きだった。僕はキンダーガーテンや小学校の同級生でも美人を選別する能力が非常に高く、幼少期の僕の「女を見る審美眼」の高さには父も感心していたそうだ。

 父は世界中を飛び回るビジネスマンで、米国駐在中は全国を飛び回り、夏休みになるとマイレージで家族を旅行に連れて行ってくれた。カナディアンロッキー、フロリダ、コロラドに行った時の感動は今でも心に鮮明に残っている。

 僕が小三の時に父の駐在任期が終わり僕たちは東京へと引っ越した。僕にとって日本は見知らぬ外国だった。僕のアメリカの友達は日本にはサムライやニンジャが住んでいて腰か背中に帯刀して歩いていると信じている人が多く、僕もある程度そう思っていた。

 帰国前に父から聞いた注意事項で最も怖いと思ったのは「日本では家の玄関を出ると数十センチ先を車がブーンと走っているので、日本に帰ったらドアを出る時には左右を確かめてゆっくりと道に出るように」というものだった。実際に日本に帰ってみると父の言葉はかなり誇張されていたことが分かったが、大筋父の言った通りだった。スカースデイルの家は玄関を出たら広い芝生の前庭を数秒走ってやっと歩道に出る。そのまま歩道を突き切って車道に飛び出さない限り僕は安全だった。

 日本に来てみるとスカースデイルだと比較的貧しい人が住むアパートのような家が多く、一戸建ての場合でも僕のスカースデイルの家の前庭程度の広さをコンクリートなどの壁で囲んだミニハウスのような家が殆どだった。僕たちが移り住んだのは市川市にある社宅で、何百戸もある大規模マンション(スカースデイルだと『コンド』か『コーポ』と呼ばれる集合住宅)の二、三十戸を父の会社が買い取って社員に提供しているとのことだった。僕は一度カンボジア移民の貧しい友達の家に遊びに行ったことがあるが、その子が家族と住んでいたアパートに負けないほど狭い家だったので驚いた。

 小学校に行って最も困ったのは言葉だった。音楽の時間に先生が持ってきたカセットレコーダーを「キャセット・リコーダー」というと友達に笑われた。そのレコーダーはレイディオウとしても使えるが、僕が「レイディオウ」と言っても先生しか分かってくれなかった。先生に「日本ではラジオと言うのよ」と教えられて驚いた。毎日遊んでいた「ポウキモン」のことを「ポケモン」と呼んだり、訳の分からない単語が沢山あった。

 後から思うとガイジン呼ばわりされるなど、ある程度の虐めは受けた気がする。しかしそれはアメリカでも同じで、アリスや僕の親しい友達は(そして僕自身も)僕のことを普通のアメリカ人と同じだと認識していたが、他所のクラスや上の学年の粗暴な男子生徒の中には僕を「チャイニーズ」と呼んでバカにしたり意地悪をする人がいた。僕は日本のクラスの友達から不当な扱いを受けたら面と向かってファイトバック(反論)するタイプで、友達を作るのも得意な方だから、虐められる状況が深刻化したことは一度も無い。

 友達を作るテクニックは生まれつきの能力とアメリカの小学校で身に着けたスキルとの両方であり、僕は相当レベルが高かった。父によると小さい時に僕を近所の女の子と一緒に置いておくと、席を譲ったりオモチャを渡したり色々気遣って話しかけたりして、女の子に対して類いまれなサービス精神と話術を発揮していたそうだ。僕は日本の小学校でも常に女の子の友達に取り巻かれ、男子の友達からも「モテモテ男」とお世辞を言われるのに慣れていた。

 僕の名前は「ミーオウ」で家ではミオと呼ばれていた。英語で言うと「リーオウ」すなわちレオと響きが似ていて、僕は自分の名前がとても気に入っていた。漢字では美桜と書き、英語に直すと beautiful cherry blossom であり本当にカッコいい名前だと思っていた。ところが日本の小学校に行くと友達から「ミオは女の名前だ」と言われてショックを受けた。
「美しいという文字が含まれるのは殆どは女の名前だ。それに、花の名前が入ると、まず女だ。両方入っているのは百パーセント女だ」
 僕はそいつを殴ろうかと思ったが思いとどまり先生に言いつけた。すると先生がそいつに
「名前は女の子でも柳田君は男の子なんだから、今後そんなことを言ったら許しませんよ」
と言って叱りつけた。その時から僕は自分の名前に自信が無くなって、友達には自分の事を出来る限り柳田君と呼ばせるようにした。

 兄の彰は僕とは違ってハードボイルドだった。日本に来てすぐに野球部に入り、中学も高校も朝練・夕練と野球の事だけを考え、僕から見るとサムライか僧侶モンクのようだった。毎日泥まみれになって家に帰り、ご飯を食べてお風呂に入って勉強をして寝る。兄はまさにシンプルライフを送っていた。そのせいかどうか、兄は勉強とスポーツでは優等生で、僕が中二から中三に上がる時に、超一流国立大学の医学部に進学した。面白いことは何も知らないしガールフレンドも居ない、僕から見ると「つまらない人」の代表のような兄だったが、両親や祖父母から見ると文武両道・高身長・イケメン・医者の卵である兄は「柳田家の宝」であり理想的な後継ぎとして期待を一身に集めていた。

 僕にとって兄は「デカくて怖い大人」で、しょっちゅう「軟弱だ」とか「もっと真面目にやれ」とか怒鳴られたり、たまには殴られることもあった。高一で百八十センチを超えていた兄はホームランを打つための筋トレに励んでいたこともあり、兄にとって僕は喧嘩の相手にならないひ弱な存在だった。僕は中二まで身長は常にクラスで小さい方から数人目で華奢だった。僕の分身のニンジャが五人一緒になって兄と戦っても勝ち目は無かったと思う。そんな状況は僕にとって決して居心地の悪いものではなく、性格の良い僕はどちらかといえば期待というストレスを感じることも無く「どうでもよい」存在として両親や祖父母に可愛がられた。中学に入った頃には日本語力もついてガイジン的な扱いをされることも無くなり、勉強は中ぐらいでも英語だけは軽く満点という気楽でカンファタブルな毎日を送っていた。

 幸せな一家が暗雲に包まれたのは中学一年の夏休みだった。父と一緒に風呂に入った時、僕は父のおチンチンの一部が異様に黒くなっているのを見つけた。

「お父さんのおチンチン、ちょっと変だよ。痛くないの?」

「痛くは無いが、春ごろから色が段々濃くなったみたいだ」

「それ、もしかして性病じゃないの? 外国によく行く人には性病にかかる人が多いってネットで読んだことがある」

「性病の場合は皮膚がただれたり熱が出たりするらしいから、これは性病じゃないはずだ。念のために抗菌軟膏を手に入れて塗ってみたけど改善しないんだ。このことはお母さんには秘密だぞ」

「絶対に内緒にする。僕はお父さんの味方だから。でも早くお医者さんに診てもらった方がいいと思うよ」

 父はその翌日会社の近くの泌尿器科に行ったようだった。「行ったようだった」というのは、げっそりとした顔で帰宅して僕たちには何も説明してくれなかったからだ。父は翌週に東京湾岸にある病院に精密検査を受けに行き、そのまま入院した。友達の家に遊びに行っていた僕が帰宅すると
「病院に行って来ます。夕ご飯はお兄ちゃんとコンビニでお弁当を買って食べてね」
という母のメモが千円札二枚と一緒に食卓に置いてあった。

 そんなことは初めてだった。夕方になって帰宅した兄も
「どうしたんだろう、お父さんに何かあったのかな」
と心配していた。

「おチンチンかもしれない。実は先週お父さんとお風呂に入ってこんなことがあったんだ」

 父が会社の近くのクリニックで診てもらって良くない診察結果が出たので、その結果大病院に行ったのではないかと兄に説明した。兄は先週父が帰宅した時にげっそりとしていたことには気づいていなかったようだ。

「バカヤロウ、おチンチンのことぐらいでお母さんまでが大騒ぎするはずが無いだろう」

 夜遅くに母が帰宅した。母は僕たちに父が入院したことを告げた。病院の名前に「がん」という文字が含まれていたので僕の血の気が引いた。

「お父さんは癌なの? お父さんは死んじゃうの? イヤだ、僕そんなのイヤだ!」

 立っているのが不思議なほどやつれた母を気遣う余裕も無く、僕は大声で叫んだ。

「死なないわ、絶対。幸いステージ2だったの。ステージ2の五年生存率は九十パーセントだそうよ。お医者さんも仰ってたけど、美桜がお風呂で見つけてお父さんに早く病院に行くようにと言ってくれたお陰で助かったのよ。もし病院に行くのが遅れて、リンパ節転移してステージ3になっていたら生存率は五十パーセントを切っていたところだったのよ」

「よかった。お父さんは運の良い人だから生存率が九十パーセントということは絶対に死なないということだよね」

「手術と抗がん剤治療を併用すればきっと大丈夫だって言われたわ」

「おチンチンの表面の黒いところをえぐるように切り取るのかな。痛いだろうなあ。でも、えぐって切り取った部分は段々元の大きさに戻るんだろう?」

「美桜、彰、これは絶対に他の人には言っちゃダメよ。お祖父ちゃん・お祖母ちゃんにも内緒よ。おチンチンは癌に侵されてしまっていて根元に近いところで切らなきゃならないんだって。多分立ってオシッコはできなくなるわ」

「男じゃなくなるのか」
 兄の粗暴な言葉に猛烈に腹が立った。

「お父さんのことを悪く言うな!」

 兄の胸に頭突きをすると、兄は「イタッ」と少しよろめいたが殴り返しはしなかった。きっと兄も自分の失言に気づいて恥じたのだろう。

「おチンチンの両横のボールは癌にかかっていないからお父さんの身体が女性化する可能性は無いのよ。オシッコを座ってするという以外は今まで通りよ。お父さんがそのことを気に病んだりしないように、皆で支えてあげようね」

「勿論。僕はお父さんのためなら何でも協力するよ」

 僕たちは柳田家最大のピンチを家族で協力して乗り切ろうと誓い合った。

 その週末、僕は父のお見舞いに行くつもりにしていたが母から家で待つように言われた。父はおチンチンを切り取られることを恥ずかしく思っていて、そのことを知っている人には会いたくないと思っているとのことだった。もうすぐ退院したら会えるので見舞いには行かなくてもいいと言われて僕たちはお見舞いに行くことを諦めた。

 母が出かけた後、兄が僕に言った。

「美桜、セックスって知ってるか?」

「知ってるよ」

「勿論オナニーをしたことはあるんだな?」

「当たり前じゃないか」

 それはウソだった。ついひと月ほど前に友達がオナニーの事を話すのを聞いて、僕もやってみたのだが何も起きなかった。多分やり方にコツがあるのだろうと思ったがそのままになっていた。

「女の人の割れ目の部分におチンチンを差し込んでピストン運動をすることで射精をする、それがセックスだ。お父さんは差し込むべきおチンチンが無くなったから、セックスはできない。つまりもう男じゃないんだ」

「またお父さんの悪口を言うつもりか!」
 僕は立ち上がって兄に飛びかかろうとした。

「待て待て、お父さんをバカにしているわけじゃない。美桜にお父さんの本当の気持ちを理解させたいからこんな話をしてるんだ」

 兄は先日失言したことの言い訳をしたいのだろうか? 

「大人の男性にとってセックスは非常に重要なことだ。お父さんはセックスができなくなったことで自分は男性ではなくなったと考えているはずだ。お母さんに対しても引け目を感じるだろう。お父さんにとっておチンチンを無くしたことによるショックは美桜が考えているより百倍大きい。美桜もその点は理解しておいた方がいい」

「お父さんはそんなにスケベな人じゃないよ。お兄さんみたいにセックス至上主義じゃない。お父さんがおチンチンを無くしたことで、お兄さんはまるでお父さんより優位に立ったような言い方をしてるじゃないか」

 僕の言葉は兄の逆鱗に触れたようだった。僕はボコボコにされて床に肩を抑えつけられ
「今度そんなことを言ったら殺すぞ」
と脅された。

 兄が父をライバルのように見ることがあるということには小さい時から薄々気づいていた。兄は小さい時から母べったりだったから、父と自分が母を取り合っているように思っていたのだろうか? 父は中肉中背で、母は同じ年代の女性ではかなり大きい方だ。兄が大きくなったのは母の遺伝子の影響が大きい。兄は父よりもずっと大きく、殴り合いをすれば父は敵わないだろう。兄は自分が父に勝ったと思っていて、今度父がおチンチンを無くしたことで父を見下す気持ちになったのかもしれないと僕は邪推した。

 

 父が退院した後、僕は兄の懸念が外れていなかったことを思い知らされた。

 病院から帰って来た日の父は、普段よりも更に優しい目をしていた。弱々しい笑顔で僕を見て
「ただいま、心配かけたね」
と言った。僕は父に抱き付いた。

「お父さん、頑張ってね。何があっても僕がついているからね。僕はお父さんのためなら何でもするよ」

「美桜と風呂に入った時に後押ししてくれたからお父さんは命を失わずに済んだんだ。ありがとう、美桜」

 父は目に涙を浮かべて僕の髪を指で梳いた。父の指はまるで母のようにしなやかだった。

 一週間ほど家で静養してから父はまた会社に通い始めた。それから一ヶ月ほどして海外出張も再開したが、帰国した日の父は別人のようだった。沈み込んでいて母が話しかけても返事をしなかった。後で母から聞いた話によると、香港の取引先の会社を訪問した際にオモラシをしたのだそうだ。その会社の男子トイレに個室は二つしかなく、そのうちのひとつが故障していて、残りの個室に入っていた人が中々出て来なかった。ドアをトントンと叩いても広東語で悪態が返って来るだけだったそうだ。父はもう限界だと判断し、ズボンを下ろして小便器の前に立って放尿したが前方には飛んでくれず、あたり一面が水浸しになりズボンもビショビショに濡らしてしまったそうだ。運の悪いことに出張に同行していた部下がちょうどトイレに入って来たので、切り株から尿が飛散する現場を目撃されてしまったのだった。

 帰国してからの父は日ごとに小さくなった。背をかがめ、うつむき加減で弱々しかった。
「何があったの?」
と母が聞いても返事しなかった。

 母は父に何があったのか大体の想像はついていたようだ。母から香港の事件について聞いていた僕もそうだった。

 香港出張に同行した部下は内緒にしてくれと父から頼まれても、大ニュースを心にしまっておくことは出来なかった。父に男性のシンボルが無かったというショッキングな事実と、女性のような股間なのに立小便を試みて失敗したと言う失笑を買うエピソードは、あっという間に会社中に広がったのだろう。

 父の酒量が増えたことは同情に値するかもしれない。父は飲んで帰ることが多くなった。ある日、酩酊して帰宅した父は一人食卓の前に座り母が冷蔵庫から出した麦茶を飲んでいたが、突然食卓にうつ伏せになって泣き始めた。僕は父がそんな風に泣くのを見たのは初めてだった。

「部長に言われたんだ。柳田君はもう男じゃないんだから無理をするなと。出張の必要がない管理部門に回されそうなんだ。イヤだ、そんなことになったら会社には行きたくない」

 父はうわごとのようにそう言った。完全に酔っていた。そんな父は見たくなかった。

 悲劇が起きたのは十二月の初めの金曜日の夜だった。

 父が早めに帰宅して家族四人で夕食を食べている時に、宅配業者が荷物を届けに来た。それはアマゾンから父あてに届いた荷物だった。母が玄関に出て受け取った。

「あなた、何を買ったの?」

「何も注文した覚えはないんだが間違って配達されたんじゃないかな?」

「でも宛先はあなたになってるわよ」

「何だろう、気になるな」

 父は食事の手を置いて、アマゾンからの荷物を開封した。

「何だこれ、女物の服じゃないか。お前が俺のクレジットカードで注文したんじゃないの?」

 母がビニールを開けて服を取り出した。僕の友達が着てもおかしくないようなワンピースだった。

「何コレ? サイズがXXLよ。いくら私が大きめと言っても失礼だわ。私はLで丁度いいのに」

 それを聞いて父の顔から血の気が引いた。

「あいつだ。あいつの仕業だ!」

「誰よ、あいつって?」

「来週月曜日のうちの部の忘年会にこの服を着て来いという意味だ。山崎が俺の事を女だと言いふらしてるんだ。俺を侮辱する為にわざわざこんなものを送って来たんだ!」

 父はそのワンピースの背中のファスナーを開けて左右に引き裂いた。父は「ごちそうさま」と言って一人で寝室に引っ込んだ。母も兄も僕も何といって父を慰めればよいのか分からなかった。僕たちは一言も交わさずに食事を済ませ、兄は自分の部屋に引っ込んだ。僕は食器をキッチンに運んだり、布巾で食卓を拭いたりと母が食事を片付けるのを手伝っていたが、ふと胸騒ぎがした。

 僕は父の寝室に走って行ってドアを開けた。父が仰向けに寝ているベッドの端が真っ赤だった。父は手首を切っていた。

「お父さんが自殺した!」
 僕が大声をあげると母と兄が駆けつけ、兄はすぐに居間に走って行って救急車を呼んだ。

 崖っぷちギリギリまで追い詰められていた父に、悪意のワンピースが最後のひと押しをしたのだった。

「お父さん、死なないで!」

 意識の無い父にすがりついて叫ぶ母と僕には構わず、兄はネクタイで父の腕を強く縛った。

「神さま、お父さんを助けてください。もしお父さんを助けてくれたら、僕のおチンチンを差し出してもいいです」

 胸の前で手を合わせて大きな声で神様に祈った。ほどなく救急車が来て父を病院へと運んで行った。

「あの程度の出血量では人間は死なない」

 落ち着いている兄の様子を見て僕は平静を取り戻した。

 一緒に救急車に乗って行った母から半時間ほどして電話があった。
「お父さんは助かったわ。心配しないで」
 僕はほっと胸をなでおろした。

 翌日、土曜日の昼すぎに父は退院し、母と一緒に帰宅した。

 父は何も言わずに寝室に行った。僕は父が再び手首を切らないかが心配で、父の横に寝て右手をしっかりと握っていた。

「美桜、もう二度と自殺を試みたりしないから心配しないでくれ。こんなところに寝ていないで勉強してくれ」

「約束だよ。絶対に手首を切らないって」

「分かった。約束する」

 僕は自分の勉強部屋に引っ込んだが父のことが心配で勉強どころではなかった。

 夕食の時間になると父は不思議なほどしっかりとした表情になっていた。

「皆、心配をかけて本当にすまなかった。それから彰、お前が腕をきつく縛って止血してくれたおかげで助かった。医者も感心していた。ありがとう」

 照れ臭そうにしている兄を誇りに思った。

「お父さんが助かったのは美桜が神様にお祈りをしたからだよ。『もしお父さんを助けてくれたら、僕のおチンチンを差し出してもいいです』あれは感動的だったなあ。そろそろ神様が美桜のおチンチンを召し上げに来るころだな」

「私もあの時、美桜のお祈りの言葉を聞いて感動したわ」

「ありがとう、美桜。お父さんも今回ばかりは反省したよ。月曜日からは気持ちを切り替えて仕事をする。そもそも手術をしたことを会社で隠そうとしたのがいけなかった。『陰茎癌が早期発見されたので陰茎を切除しました。五年生存率は九十パーセントです。睾丸には転移しておらず温存されました』それだけを皆の前で明言すべきだった。今からでも遅くは無い。月曜日の忘年会で発表するよ。それから、例のワンピースはアマゾンに返品して、送り主を突き止めるつもりだ。その上で、そいつがしたことを公表して、弱者の傷口に塩を塗る行為を糾弾することにした」

「それでこそお父さんよ」
 母が嬉しそうに言った。

「男子トイレの個室が塞がっている場合の問題については老人用のオムツを携帯することで対処する。万一の場合はトイレの隅でベルトを緩めてオムツをパンツの中に差し込めば良いんだ。海外出張の際には老人用のオムツをはいて行動してもいい」

「そうよ。でもそこまでしなくても早め早めにトイレに行くようにすれば大丈夫よ。私たちと同じなんだから」

 母が力づけようとして言った「私たちと同じ」という一言が父の心を傷つけたのが父の表情で分かった。母はその瞬間にたまたま目を反らしていたので気づかなかったようだった。

 父はアマゾンに何度か電話やメールをして送り主を突き止めた。

「やっぱりあいつだった」

 父は月曜日の夜遅くに晴れ晴れとした表情で帰宅した。忘年会の席で癌の手術についてカミングアウトし、悪意のワンピースが送られて来たことについては送り主の名前を明かさずにそれが如何に卑劣な行為であるかを訴えたとのことだった。忘年会には部員のほぼ全員が出席していて口々に「許せない」と言っていたそうだ。

「これで明日からは胸を張って会社に行ける」
 父の様子を見て僕は心から安心した。


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