うちの会社のいいところ

  (性別による差別がない会社)

第一章 告白

「深澤君、今日の夕方、時間ある?」

 梅雨明けを待つ七月のある日、同期の岩倉奈帆から廊下で声をかけられた。

「うん、あるけど。どうしたの?」

「ちょっと、相談したいことがあるの。とても大事なことなの」

「六時以降ならいつでも大丈夫だよ」

「じゃあ、場所と時刻は後でメールしとくわね」

 僕は心の中で「ヤッター!」とガッツポーズをした。岩倉奈帆は同期の新入社員の中でも断トツの美人だ。入社後の同期の懇親会で隣り合わせた時に勇気を出してメールアドレスを交換したが、その後は部の飲み会で立ち話をした程度だった。僕は特に内気な方ではなく女性とも気軽に話すことが出来るタイプだが奈帆だけは別だった。僕のタイプにピタリはまりすぎているというよりも、理想を越える女性なのだ。隣の課に座っている奈帆の後姿を見るだけで胸がいっぱいになった。

 奈帆は超一流の国立大学を卒業したエリートで少林寺拳法の有段者でもある。ミス東京にも出たことがある百七十センチの八頭身美人だ。どこを取っても僕には釣り合わないという意識も手伝って、遠くから密かに憧れる存在だった。そんな奈帆から大事なことで相談したいと誘われるとは信じられないほどの幸運だ。

 奈帆からのメールに指定されていたのは秋葉原の駅ビルの二階のカフェ・レストランだった。赤坂にある会社からは随分遠いしロマンチックな場所とは言えないが、奈帆は僕が総武線沿線の住人だと知っていて秋葉原を選んでくれたのだろう。奈帆の心遣いが嬉しかった。

「深澤君、突然呼び出してゴメンネ」

「とんでもない。男だったら岩倉さんに呼び出されれば例え親の死に目に会えなくても飛んで来るさ」
 冗談っぽく聞こえたかもしれないが、それは僕の本心だった。

「大げさね。でも私たちも段々忙しくなってきたわよね。入社当初は上司から言われたことを機械的にこなすだけで精一杯だったけど、最近は自分がやっている作業の意味や位置づけが理解できるようになってきて仕事が楽しくなったわ」

「岩倉さんほどじゃないかもしれないけど僕もそんな気がする」

「二課にもCEIの調査が来てるでしょう? あれってすごいわね。アメリカの一流企業はここまで来てるのかと驚いたわ」

 CEIとはCorporate Equality Indexの略で米国の人権団体がLGBTに対する職場の公平性を示すベンチマークとして構築した企業平等指数のことだ。最近アメリカの顧客から「お宅の会社はCEIに準拠していますか?」という問い合わせが急増している。その問い合わせの中に「もし準拠していなければ取引を停止する」と明確に記されておりCEIに対応することは当社にとっても死活問題だ。

「僕なんか本田さんからCorporate Equality Index 2016という百ページもあるPDFファイルを渡されて来週までに読むように言われたんだよ。月曜日に口頭でテストをして、もし不合格なら僕には営業の仕事はまかせられないと言われちゃった。お陰で今週は土日返上だ」

 本田さんとは僕の所属する米州部第二課の課長代理の本田詩音のことだ。ご本人は元ニューヨーク駐在員で英語はペラペラだから僕に気軽に命令するのだが、僕にとっては大変な重圧だ。

「Corporate Equality Index 2016は絵や図表が多いから文章としては三十ページ程度よ。私も課長から言われたけどスマホにダウンロードして帰りの電車で読んだ。高校を出ている人なら誰でも簡単に読める内容よ」

 僕が最初の三ページを読むのに既に二日間かかっていると言えば奈帆にバカにされるのは確実だ。この話題はまずいと思った僕は話題を変えようとして本題に切り込んだ。

「ところで大事な話ってなに? 会社で言われた時からそのことが気になっているんだけど」

「もっと色々おしゃべりしてから話そうと思ってたんだけど……。でもその話を聞いてもらいたくて呼び出したんだから勇気を出して話すわ。実は私、ある人からプロポーズされて迷っているの」

 何という重大な話なのだ! 僕にラストチャンスを与えるために打ち明けてくれているのだろうか? 落ち着け、落ち着かなくっちゃ。

「相手は会社の人なの?」

「そうよ。でもその人が誰だかは言えない」

「その男性が誰だか教えてくれないと、僕は同性から見てその人が岩倉さんに相応しい人かどうかコメントしようがないじゃないか」

「人物評価をして欲しくて相談したわけじゃないの。その方はずっと年上で能力・経験も私が足元にも及ばないような人なの。でも私は自分の力を発揮したくてこの会社に入ったのよ。自分の力が全く及ばないような人からのプロポーズを受けるということは、その人に寄りかかる人生を送ることになるんじゃないかと思うのよ。その点がまだ納得できていないの」

「分かった、相手は阿部課長なんだね」

 阿部課長とは奈帆の所属する米州部第一課の課長だ。ニューヨーク勤務経験のある四十歳のエリート課長で彫りの深い顔だちの身長百八十五センチのイケメンだがバツイチだ。うちの部で年長好みの女性は全員が阿部課長の熱烈なファンだと聞いたことがある。阿部課長が相手では僕には手も足も出ない……。

「相手が誰だかは明かさないと言ったでしょう。でも阿部課長じゃないことだけは教えてあげる。これ以上カマをかけても何も答えないわよ」

「よかった!」

「どうして?」

「阿部課長からプロポーズを受けたからどうしようと相談されたら僕は泣き寝入りするしかないもの。第一、身長が一割以上違うし」

「あらうれしい! 深澤君は私のことが好きだったの?」

 予期せぬ突っ込みに僕は耳たぶまで赤くなり、シドロモドロになってしまった。

「岩倉さんは全ての男性の憧れだから……」

「深澤君のその言葉のお陰で少なくともひと月は幸せな気持ちで居られるわ。ありがとう。でもそんなことを言ってくれたのは深澤君が初めてだし、残念ながら他の男性からそんなそぶりも感じたことは無いわ。私みたいに背が高すぎる女は敬遠されるのよ。深澤君は自分より背が高い女性でも気にならないの?」

「気にならないどころか、背が高い女性の近くに来るとドキドキするんだ。でも自分より背の低い男性を好む女性は滅多に居ないから……」

「深澤君からの誤解を解くために言っておくけど、プロポーズされた相手は深澤君よりも小柄な人なのよ」

「ええっ! 国際事業部で僕より身長の低い人は二人しかいないけど二人とも既婚者だよ。岩倉さん、不倫はいけないよ。それとも他の本部の人なの?」

「さっき言ったでしょう! 相手の特定につながる質問には一切答えないから」

「ゴメン。もう聞かない。でも一体僕は何をコメントすればいいの? 岩倉さんはずっと年上で能力のある小柄な男性からプロポーズされて、もし受ければ相手に寄りかかる人生になりそうだから迷っている。女性には女性としてのライフスタイルがあるから、僕が何をアドバイスできるのか想像もつかないよ」

「深澤君がもし私と同じ立場に立ったらどうするかを聞きたいの。例えば身近な例で言うと本田詩音さん。十五歳年上のエリートで身長も私より高い。もし深澤君が自分より十五センチも背が高い本田さんからプロポーズされたと想像してみて」

「そんなことはあり得ないよ。但し、言っとくけど身長は十五センチも違わないよ。本田さんが百七十とすると僕が百六十五だから五センチしか違わないんだよ」

 僕はつい自分の身長を二センチ大きめに言ってしまった。

「それ、ちょっとサバ読んでるでしょう。深澤君って小顔で華奢だから女の子の平均ぐらいかと思ってたわ」

「ということはプロポーズされた相手は女性の平均よりもチビの男性なの?」

「その手の質問は受け付けないと言ったでしょう。私の質問に答えて。もし深澤君が本田さんからプロポーズされたらどうすると思う? 本田さんは仕事でも深澤君のスキルアップを助けてくれるし色々サポートしてくれるわよ。但しあくまで上から目線で」

「そうか、そう言う質問だったのか。やっと岩倉さんの質問のポイントが理解できた気がする。そうだなあ。僕は相手が本田さんみたいに目上で能力的に絶対に足下に及ばない人でも抵抗は無いと思うよ。さっきも言った通り身長の高い女性は好きだし……。でも男女が逆転したみたいな形の結婚になるから友達に対して恥ずかしいだろうな。きっと西田美紀さんや佐村順子さんから『深澤君のご主人はお元気?』みたいなことを言われると思うな。あっ違うか。本田さんと結婚したら僕は本田明日香になっちゃう可能性が高いよね」

「子供が生まれたら深澤君が産休を取ることになるわよ。本田さんが会社を休むより深澤君が休む方が収入面で有利だから」

「僕が赤ん坊の面倒を見るのか……。それに家事も手伝わされるよね」

「手伝わされるんじゃなくて深澤君が家事をするのよ。家事育児は深澤君の責任。私はまさにその決断を迫られているの」

「困るよね……。僕はそんな人生は想像したこともなかったもの。でも愛し合ってしまったんだろう? そして本田さんがそれを希望しているし僕は本田さんの希望に沿いたいと思ってる。そんな状況でプロポーズをされたら僕なら迷いはしないと思うよ。家事をしたくないとか人からどう思われるということより、相手が僕に何を希望しているかの方が遥かに大事だもの」

「深澤君ありがとう。そうよね、深澤君の言う通りだわ。心の中のモヤモヤが晴れた気がする。深澤君に相談して本当に良かったわ」

「僕は憧れの女性が他の男性のプロポーズを受けることを後押ししちゃったわけ? トホホホ」

「お礼に一つだけ教えてあげるけど、さっきの本田さんの話は話を分かりやすくするための仮定であって、深澤君が本田さんからプロポーズされる可能性はゼロに近いわよ。だって本田さんが好きなのは女の子だから」

「ええっ! 本田さんはレズなの? ショック……」

「うちの部の若い女性の間では阿部課長より本田詩音さんの方が人気が高いのよ。そこそこのレベルの男性は殆どが既婚者でしょう。バツイチの阿部課長は別にして、うちの部の未婚男性と本田詩音さんを並べると本田さんの方がずっとセクシーだし危険な匂いがするわ」

「ショックだな。うちの部の女の子たちの意識がそこまで乱れてるなんて」

「さっきはとても良いコメントをしてくれたのに、今の発言はガッカリよ。LGBTを差別してるのね? CEIの基準で深澤君のスコアをつけると落第点がつくわよ」

「そ、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。本田さんがレズだと聞いてショックが大きすぎただけだよ」

「ショックついでにもう一つ教えてあげる。深澤君は私にプロポーズした人が誰かと言うことについて真っ先に阿部課長を思い浮かべたみたいだけど、阿部課長には部内に恋人がいることは女の子の間では公然の事実よ」

「誰? まさか一課の佐村順子じゃないだろうね? あいつ阿部課長に呼ばれるといつもウキウキした表情になるもの」

「深澤君が順子の表情をそんなに注視しているとは知らなかったわ。あの子とても可愛いものね」

「変な言いがかりをつけないでよ。僕は何とも思っていないんだから。それより阿部課長の恋人って誰なの?」

「橋本さんよ」

「橋本さんって欧州アフリカ部の部長席のオバサンのこと? まさか男前の代表みたいな阿部課長が四十代の太ったオバサンと恋に陥るとは!」

「ハズレよ。あの橋本さんじゃないわ。うちの課の橋本幸宏さんよ」

「ゲゲゲゲ、ゲイだったの? それも、よりによってあの汗っかきで三段腹のブサイクの代表みたいな橋本さんを相手に選ぶなんて信じられない」

「もし阿部課長の相手が深澤君だったら部の全員が納得したでしょうけど、人の心って分からないものよね。阿部課長と橋本さんはしょっちゅうアメリカに一緒に出張してるじゃない。私が聞いた話だと去年二人がアトランタに出張した時に手違いで橋本さんの部屋だけが予約取り消しになってたんだって。コンベンションでアトランタの全部のホテルが満室だったから、仕方なくキングサイズベッドの部屋に二人で泊る羽目になって、その夜にできちゃったらしいわ」

「ヒエェ、怖い話だな。僕も豊福課長と一緒に出張する時にはホテルの予約をダブルチェックするようにしないと。もし不倫関係になってしまって豊福さんの奥さんに恨まれたらいやだもの。一度豊福課長の家にお呼ばれしたけど、すごく素敵な奥様とお嬢様だった。あの人たちを敵に回すのは絶対に嫌だ」

「深澤君の場合は本田さんとの出張の方が現実的に危ないんじゃない? 本田さんが遊びのつもりで深澤君に手を付けて、その結果本田さんのレズの彼女から目の敵にされる。会社の前でナイフで刺されて二十二歳の人生に幕が下りるとか」

 怖ろしい! 遠いアメリカの問題だと思っていたLGBTがうちの部でそれほどまで現実化しているとは信じられなかった。奈帆がプロポーズを受けたという話に負けないほどショックだった。
「今日私から聞いた話は絶対に他言しちゃだめよ」
と奈帆から念を押された。

 

 奈帆と別れてアパートに帰ると僕の頭の中で様々な思いが錯綜した。まず第一に思ったことは僕が大変なミスを仕出かしてしまったのではないかということだ。ずっと目上で能力的に及ばない人からのプロポーズを受けると家事育児の責任が自分にかかるし仕事に打ち込めなくなるので、僕ならどうするかを質問したかったと奈帆が言っていた。でもそんなことは女性にとっての共通の問題であり、同性の友人と相談すればよいことだ。それなのに付き合ってもいない僕をわざわざ呼び出してそんな大事なことを相談するというのはどう考えても不自然だった。

 待てよ……。そうだ、奈帆は僕のことが好きだったのだ! プロポーズをした相手が僕より身長が低い事をわざわざ伝えることにより僕からプロポーズがあればOKであるとヒントをくれたのではないだろうか? それに対して僕は奈帆がプロポーズを受けることを後押しするような発言をしてしまった。最悪だ! 僕は人生最大のチャンスを棒に振ってしまったのだ。

 このままでは一生後悔すると思った僕は明日もう一度奈帆に会って結婚を申し込むことを決心した。

 プロポーズに必要なものは指輪だ。普通預金口座の残高と財布の中の現金を合計すると二十二万五千円あった。クレジットカードの未決済残高と電気ガス水道料金を差し引き、月末の給料日までに必要な食費を計算すると十七万円残った。借金をしてはいけないというのは深澤家の家訓であり結婚指輪をクレジットで購入することは僕の主義が許さない。明日の夕方六時半ごろに奈帆の約束を取り付けて、明日の昼休みか終業後にでも赤坂の会社の近くの宝石店で指輪を買って持って行こう。

 奈帆の指輪のサイズはどのくらいだろうか? ネットで身長体重や体型から推測する方法を調べると奈帆だと十号前後ではないかと推測された。明日宝石屋に行ったら買った後でサイズの変更をしてくれるかどうか確かめてから購入しなければならない。

 翌朝、僕は奈帆に
「昨日の話を聞いて、ちょっと渡したいものがあるのですが今日午後六時半に昨日と同じ場所で会えないでしょうか?」
というメールを送った。
 送信ボタンを押した後で硬い文体になったことを後悔したが幸い奈帆からすぐに絵文字付きで「いいわよ」という返信があった。僕は昼休みにATMで十七万円を下ろして赤坂通りを入った所にある宝石店へと走った。十七万円で買える婚約指輪は僕のイメージよりも貧相なものしか置いてなかった。店員からは婚約指輪ではなく結婚指輪として使えるシンプルな指輪を勧められた。迷った挙句、可愛いデザインで小さなダイヤを幾つかあしらった指輪に決めた。もしサイズが合わない場合は調節するとの約束を取りつけた上で購入した。その日の夕方五時半までにイニシャルを刻印してくれることになった。

 昼休みが終わって席に着くと、上司の本田詩音に「今日は大事な用があって五時半丁度に失礼します」と言っておいた。

「二日連続ね。まあ、急な仕事ができても西田さんに残業を頼めば大丈夫だから、全く問題ないけど」
と冷たく言われた。

「西田さん」というのはうちの課の一般職の西田美紀のことだが一流の私立大学を出て三年目の女性だ。帰国子女で英語はペラペラだし貿易実務試験も上級をA合格している。客観的に見て美紀の方が僕より能力的にはずっと上だ。僕が美紀に勝っているのは身長だけだった。それも一センチかそこらの差だが。美紀はそんなことは百も承知の上で一般職として僕をそれとなくサポートしてくれる。本田からは事あるたびに「西田さんを総合職転換して深澤君を一般職にするのが最も合理的なんだけど」とイヤミを言われている。

 上司のイヤミなど、大事の前の小事だ。五時半が来て僕は隣の課で僕に背を向けて座っている岩倉奈帆にテレパシーでラブコールを送りながら立ち上がり、宝石屋へと走って行った。濃紺のベルベットの小箱に入った指輪を袋に入れてくれた。僕はその袋をバッグに入れて千代田線に乗り新御茶ノ水で総武線に乗り換えて秋葉原に行った。

 ドキドキしながら奈帆を待った。一世一代の告白の時間が迫る。

 奈帆は約束の時間に十分ほど遅れてレストランに到着した。

「遅くなってゴメンネ。急な仕事を言われて断れなかったの」

「岩倉さんのためなら一時間でも二時間でも喜んで待つよ」

「で、渡したいものって何なの?」

 僕は奈帆の目をじっと見ながら人生で最も大事な告白をした。

「昨日岩倉さんがプロポーズされたと聞いて、家に帰って途方もない喪失感に襲われたんだ。そして僕がどんなに岩倉さんのことを想っていたのかを実感した。僕は岩倉さんのためならどんなことでもできる。家事や育児も岩倉さんと公平に分担する。いや、岩倉さんが仕事の方を優先したいという気持ちなら家事は六四か七三で引き受けてもいい。どうしてもと言うなら八二でも良いよ。僕は岩倉さんの人生を応援しながら一緒に歩みたいんだ。岩倉奈帆さん、僕と結婚してください」

 僕は頭を下げて結婚指輪を差し出した。奈帆が結婚指輪の箱を受け取ってくれた時、僕は天にも昇る気持ちだった。

「オーケーしてくれるんだね?」

「やっぱり誤解されちゃったか。無駄に高い買い物をさせてゴメンネ。それにしても可愛い指輪だわ」

「ダ、ダメなの?」

「ごめんなさい。私、深澤君のことは大好きよ。でも、結婚対象としてじゃなく友達として好きなの。女友達は口が軽いし親友だと思っていても心のどこかで私をライバル視していたりするのよ。深澤君なら安心して心を打ち明けられると思ったから……。実際に話をしたらその通りの結果だった。深澤君のお陰で何もかも吹っ切れたから、昨日の夜プロポーズをお受けしますと電話で返事したのよ」

「そうだったのか……。岩倉さん、一つだけ教えて。もし昨日僕が岩倉さんの話を聞いてその場でプロポーズしていたら間に合った?」

「いいえ。深澤君は何というか……私にとって異性じゃないの。だからこれからも仲良くしてね。いえ、私の親友になって」

 二十二年間の人生でこれほど打ちのめされたことは無かった。小学校二年の時に僕を可愛がってくれた祖母が亡くなった時でさえ、今日よりもマシだった気がする。僕が奈帆にとって異性でないとは酷すぎる一撃だった。

「この指輪、刻印しちゃったから返品や買取はしてもらえないわね。指輪なんて買ってこなくてもプロポーズできたのに」

「刻印を削って他の客に売れないのかな?」

「ムリムリ。買取価格はプラチナの重量分だから、多分数千円にしかならないわよ」

「十七万円が数千円……」

「可哀想。ねえ深澤君、この指輪、今日の告白の思い出として私にプレゼントしてくれない? いえ、一番の親友への貢物として」

「親友になるのに貢物というのは理屈に合わないだろう! 数千円で店に買い取ってもらうのはバカバカしいからプレゼントするよ。でも、旦那さまになる人に対してどう説明するの? きっと彼氏は他の男からもらった指輪なんか捨てろと言うに決まってる」

「いいえ、決してそんなことは仰らないわ。深澤君への感謝の証として相手が誰だかを教えてあげる。正式に発表するまでは絶対に誰にも言わないと約束してくれる?」

「絶対に言わない。もし僕がしゃべったら、一般職の制服を着て社内を歩き回ってもいい。約束する」

「じゃあ教えるわ。うちの部の部長さんよ」

「ぶ、ぶ、ぶ、ぶちょう? でも藤井部長は女性だよ。この場に及んでつまらない冗談はやめて本当の事を言ってよ」

「本当よ。入社して一週間後に部長から飲みに誘われて告白されたの。私は藤井部長にとって『なりたいけれど決してなれない理想の女性』なんだって。お話しすればするほど部長のことが好きになった。ひと月ほど前に結ばれてからは部長のお傍に近づくだけで胸から太ももまでジンジンするようになった。誰にも言わないでね。一番の親友の深澤君だから言ってるのよ」

 何ということだ! 

 僕は絶句した。

 それ以上言葉が続かなかった。

「指輪をプレゼントしてくれて本当にありがとう。この指輪のことは部長にも自慢できる。心の広い方だから喜んでくれると思うわ。これからは何でも相談があったら気軽に声をかけてね。親友として、いつでもお茶したり飲みに行ったりしようね」

 奈帆と別れて帰る道、ショックが大きすぎて涙も出なかった。結局のところ、有り金をはたいて買った指輪は無駄にはならなかった。だってミス東京に出たことのある美人から一番の親友にしてもらったのだから。

 あまりにも虚しすぎる一日だった。

第二章 カミングアウト

 それから二週間ほど僕は夢遊病者のようだった。

 仕事をしていても課長や本田が言うことは耳には入るのだが、もう一方の耳から素通りして宇宙空間に拡散してしまう。注意されても機械的に謝るだけだった。Corporate Equality Index 2016を読めという本田からの宿題に関する口頭テストの結果は「零点」と言われた。

「深澤君は総合職の仕事には向いてないようね。西田さんを総合職転換して深澤君を一般職にする話は本気で進めさせてもらうことにする」

「本田さん、今の深澤君にそこまで厳しいことを仰らないでください。失恋による痛手が癒されるまで大目に見てあげてください。それまでは私が穴を埋められるように頑張りますから」
 西田美紀の優しさが心に響いた。

「女子高生なら大目に見るところだけど、深澤君は社会人よ。失恋したからといって何日間も頭が空っぽになる人に大事なことは任せられない。深澤君には補佐的な仕事しか無理だわ。西田さんも冷静に自分の事を考えなさい。例え今はその気が無くても総合職転換の申請書は早めに出しておいた方がいいわよ」

「総合職転換を希望するという書類は前回の考課面談の際に部長と課長に無理やり書かされましたから、一応提出済みです。でも総合職の深澤君を一般職に降格するというのは無茶ですよ。犯罪とか不祥事があったわけじゃないので」

「総合職で入った新入社員は半年間は飽くまで仮採用よ。つまり十月から総合職社員にする予定で採用したという状態なのよ。仮採用期間を終えて深澤君は一般職としてしか採用できないと上司が判断したら、一般職になるか辞めるかの二者択一になる。西田さんと深澤君が入れ替わるのは極めて自然で現実的なことよ。西田さんもそう思うでしょう?」

「そりゃあ思いますけど可哀想ですよ」

「お二人とも毎回ブラックジョークで僕を虐めないでください。でもどうして僕が失恋したことが分かったんですか? 同期の親友にさえ話していないし、相手の女性もそんなことを言いふらす人じゃないんですけど」

「相手は女性だったの?」
 本田と西田が同時に叫んだ。

「ま、まさか僕が男性に失恋したと思ったんですか!」

「だって、先週深澤君が二日続けて五時半に帰った日は二日とも阿部課長が一人で顧客訪問をして直帰した日だったもの。私はてっきり深澤君が阿部課長に二日連続でお持ち帰りされた後で捨てられたんだと思っていたわ。順子もきっとそうだと言ってたし」

「私も信頼できる筋からそんな噂を聞いて、そうだと思っていたけど」
と本田も言った。

「失礼な。僕はノーマルそのものですよ。本田さん、セクハラです」

「ゴメンゴメン、海よりも深く反省した。だからと言って深澤君に対する業務上の評価が上がるわけじゃないけど」

「西田さんも同罪ですよ」

「悪かったわ、一応。相手の女性とやらが誰なのかを聞くまでは百パーセント信じたわけじゃないけど」

 僕は同じ課の女性二人にそんな風に思われていたことを知って愕然とした。大学時代にもLGBTという言葉は知っていたが実際にLGBTの人は僕の回りには居なかった。居たのかもしれないが僕には分からなかった。うちの会社はLGBTを当然と考えるアメリカの会社と付き合っているうちに感化されてきて、LGBTが当たり前だと思うようになったのだろうか。同じ課の人がこの僕を見てホモセクシュアルだと想像するという環境は異常としか言いようがない。

 しかし、本田と西田から際どいことを色々言われた結果、僕もいつまでも失恋の余韻に浸っていたら本当に無能な社員だと評価されるかもしれないとの危機感を抱いた。つい先日まで口も聞けなかった憧れの奈帆から「親友」と言われたのだから角度を変えて考えれば運気が上がったと言えなくもない状況だ。よし、これからは心を入れ替えて仕事に励もう。

 

 社長名で「LGBTに対する基本方針」という題の通達が出たのは三連休明けの七月十九日の朝だった。

「当社は米国を中心とする顧客企業からセクシュアル・マイノリティーの人たちの権利を尊重し差別を禁止する企業であることを求められており、LGBTに関するグローバル・スタンダードに対応しない限り国際市場での生き残りは不可能である。会社としてLGBTの従業員を差別しないことを宣言し、LGBTのカップルに対して夫婦に準じた人事的配慮を行う。手始めとして同性のカップルが夫婦の場合と同様の産前産後休暇、育児休暇、介護休暇を取得できるよう人事規定を改正する。また同性カップルから届け出があれば結婚祝い金を支給する。今後更にLGBTの従業員が働きやすいように諸規定の改正を行う」

 その翌日の七月二十日の朝、藤井部長が声をかけて全員を部長席の周りに集めた。

「米州部の皆さん。昨日社長から発表があったLGBTに関する取組について、うちの部でも同性カップルが二組届け出ましたのでお知らせします」

 部員の間からざわめきが湧きあがり、自分の周囲に立っている人たちに探るような視線を投げかけた。

「まず阿部課長、パートナーをご紹介ください」

「ウソでしょう、阿部さんがゲイだなんて」
 数人の女性がいかにもショッキングだという声を上げた。

「皆さん、今まで隠していて申し訳ありません。というより、私と橋本幸宏君が愛し合っていることを公然とお話しできる日が来るとは思いませんでした」

 女性部員の半分程度が阿部課長と橋本幸宏の仲について既に知っていた様子だった。男性部員は全員が信じられないと言う表情をしていた。

「そしてもう一組のカップルは私と岩倉奈帆さんです。年齢が二倍という年の差カップルですが、お互いを信頼し、支え合って生きていく所存です。どうか暖かく見守って頂けますようお願いいたします」

 部長と奈帆の関係は奈帆と僕以外にとって完全に寝耳に水だったようだ。本田と西田も心底驚いていた。

「つきましては今週の金曜日に立食形式の飲み会を開催することになりました。阿部さんと私が費用を折半して皆さんをご招待します。なれそめ等についてはその際にお話ししたいと思います」

 部員たちが席に散った後も衝撃のニュースの余韻が部内に充満したままだった。

「深澤さんの失恋の真相がやっと分かったわ。そりゃあショックだったでしょうね」
と西田が慰めてくれた。

「バカなことを言わないでよ」
と僕は抗議したが、西田は噂の方を信じているようだった。

 本田はガッカリした表情で言った。
「なあんだ、深澤君はノーマルだったのか。つまんない」

 

 同性カップル二組の披露パーティーは金曜日の午後六時から会社の近くの居酒屋の一室で行われた。当初は簡単なビアパーティーの予定だったのが本部長が十万円もの協賛金を出してくれたので立派な立食パーティーになった。

 先に藤井部長が奈帆とのなれそめについてスピーチをした。

「なりたいけれど決してなれない理想の女性」である奈帆を見た時の興奮や心の動揺について語る藤井部長の目は少女のように輝いていた。なれそめの話は奈帆から聞いて知っていたが藤井部長本人が語るのを聞いていると、藤井部長も僕と同じような気持ちで奈帆に憧れたんだなと実感した。いわばライバルである藤井に対して親しみを感じた。奈帆は恥ずかし気な面持ちで藤井部長の半歩後ろに立っている。七センチはありそうなヒールを履いている奈帆の横に立つ藤井は実際以上に小柄に見えたが「どんなもんだい」と言いたげに胸を張っている姿が、僕には羨ましく感じられた。今僕があの場所に立っていても不思議では無かったのだと思うと奈帆を失った悲しみがぶり返す。

 僕は心からの祝福を伝えるために藤井カップルに近づいた。奈帆は右腕を恥じらい気味に藤井の脇に絡ませ左手は真下に垂らしている。僕は奈帆の左手を見てハッとした。左薬指には僕がプレゼントした指輪が藤井に貰ったのであろうシンプルなプラチナのリングと一緒にはめられていた。

「深澤君、いつも奈帆に良くしてくれてありがとう」
 藤井から思いがけない言葉をかけられて戸惑った。

「その指輪はとてもセンスがいいわ。婚約指輪や結婚指輪は誰でも貰えるけれど親友から友情の証の指輪を貰える女性は滅多に居ないと言って奈帆が自慢していたわよ」

 奈帆がそんなことまでも藤井にしゃべったことには軽い怒りと敗北感を覚えたが、奈帆がそう思ってくれていることを知って悪い気はしなかった。ただ、奈帆が明らかに藤井のものであることを否応でも印象付ける一言だった。

「あなた、深澤君とは今後も二人で飲みに行ったりケーキを食べに行ったりしておしゃべりしたいんですけど、よろしいですか?」

「勿論よ。奈帆の一番の親友なんだから私に気兼ねをすることは無いのよ。但し、私が家で夕食を食べる予定の日に深澤君と食事に行く場合は会社を出るまでにメールか何かで知らせてね。帰宅して奈帆もいなくてメシも無いということになったらガックリと来るもの」

「はい、あなた。必ずお知らせいたします」

「深澤君、今後も奈帆のことを支えてやってね。奈帆はとても優秀だけど集中力があり過ぎて身の回りのことが見えなくなる傾向があるのよ。そんな時に奈帆の足りない部分をそっと補完してくれる人が傍に居れば、奈帆は思う存分に能力を発揮できる。もし将来奈帆と同じ部署で働くようになったらよろしくね」

 僕の上司である藤井部長が無意識のうちに奈帆が主役で僕は補佐役と認識していることがミエミエな発言をするのを聞いていい気はしなかったが、藤井から頼まれなくても奈帆を支えたいという気持ちは誰にも負けない。

「はい、部長。勿論です。奈帆さんは僕なんか足下に及ばないほど優秀な人ですからそのうち僕の上司になるのが目に見えていますけど、部下としてしっかりと支えることをお約束します」

「もう、深澤君ったら」
 奈帆は照れ臭そうに笑いながら言った。

「深澤君がそう思ってくれていることが分かってほっとしたわ」

 そこに中村本部長が近づいて来た。殆どの男性がクールビズのカジュアルな服装で来ている場に、白っぽいサマースーツにネクタイ姿の紳士が居ると場が絞まって見えた。阿部課長より二、三センチ身長は低いが肩幅の広い中村本部長は同じぐらい大きく見えた。

「深澤君、元気にしているかね? そうか、新婦の岩倉奈帆さんとは新入社員どうしなんだね」

「はい、本部長。岩倉さんは同期の男子全員の憧れの存在でしたので」

「本田詩音君に次ぐ長身で優秀な頭脳を持つ期待の若手だ。深澤君は本田君の部下で岩倉さんとも相性がいいということは今後の為に大いにプラスだな。アッハッハ」

「はい、今藤井部長にも申し上げましたが岩倉さんの部下になるのは時間の問題だと自覚しています」

「素直でよろしい。君は確か西田美紀さんの部下だったね。うちの部でTOEICの持ち点が最高でK大卒の優秀な女性だ」

「ええ、でも西田さんは僕の二年上の一般職ですけど」

「優秀な女性たちと強いコネクションを持っているのは非常に良いことだ」

「はあ。お褒め頂いたようなそうでもないような……」

「君は女性のように優しい目をしているし実に物腰が柔らかかつ爽やかで会津出身とは思えないね」

「僕の出身地を覚えていて下さったんですか! ありがとうございます」

「私も会津出身だから君が入社した時から気にかけていたんだよ。君ほど会津男子のイメージとかけ離れた人は見たことが無いよ、アッハッハ」

「はあ、それはよく言われるんですが……」

「まあ会津出身どうし仲良くしてくれ。そうだ。メルアドを交換しよう。いや、LINEの友達になってくれないかな? 実は同窓会で友人に言われてスマホにLINEのアプリをインストールしたんだが、どうやったら友達を登録できるのかがよく分からないんだ。だからまだその男だけしか友達がいない」

「簡単ですよ。今スマホでLINEを開いていただけますか?」

 僕は中村と僕のスマホでふるふるをしてお互いを友達登録した。

「ご用があればここをクリックして下の枠の中にメッセージをタイプしてください」

「ありがとう、じゃあそのうちに飲みに誘うよ」

「はい、楽しみにしています」

 中村は僕の肩をポンと叩いて立ち去った。藤井部長と奈帆は他の人たちと話し始めていたので僕は阿部課長にお祝いを言おうと歩いて行った。

「阿部課長、おめでとうございます」

「まあ、俺もそろそろ責任を取るべき時期が来たと言う訳さ」

 責任を取るなどと言われると橋本幸宏が怒るのではないかと心配したが橋本は他の男性三人と大声で話していて聞こえなかったようだ。

「会社中の女性の憧れとの噂を聞いていたのでLGBTの発表を聞いて驚きました」

「俺が深澤君を抱いたという噂も出ていたらしいよ。俺としては光栄だが、深澤君には迷惑だったな」

「いえ、とんでもない。あっ、というか僕は女性しか愛せないタイプですので」

「そんな風に決めつけない方がいいよ。人生には思わぬ展開が待っている場合があるから」

「あのう、男性どうしのカップルの場合は男性役と女性役が居るんですよね? 阿部課長が女性役ということは考えられませんし……」

「アハハハ。いきなり激しい突っ込みだな。俺はBすなわちバイセクシュアルだがゲイとして交わる場合相手に女役を演じることは求めない。そもそも橋本が女っぽい仕草をしたら気持ち悪いだろう。正味男性どうしが交わるのが本当のゲイだよ。俺がもし深澤君を抱くとすればゲイとしてではなくバイセクシュアルの感覚でのセックスになるかもしれない。ゲイの男性でも深澤君みたいな女っぽい男性が好きな人もいるから人それぞれさ。要するに生まれながらの生物学的性別にこだわらないのがLGBTなんじゃないの?」

「お言葉ですけど僕は女っぽいところなんて全く無いですよ。女性を愛する、男性らしい男性です」

「自分でどう思おうが勝手だが、俺にはそう見えるのさ。生まれつきの性別を固定的に考えない俺たちのような人種から見ると深澤君は男には見えないよ。隣の課に入社した時からそう思っていた」

「阿部さん、深澤君を口説いてるんじゃないでしょうね」

 突然橋本が割り込んで来たので僕は後ずさりした。元々橋本は苦手だった。いつも脂汗が滲み出ている感じのする男性は生理的に寄せ付けない。阿部と橋本の関係について知った後も阿部とは以前と同じように接することができたが、橋本とは同じ空気を吸うのも汚らわしい気がした。いけないいけない、こんなことを考えているようでは米国の先進企業と付き合う資格が無い。

「深澤君、阿部課長はもう僕の物なんだから、他の人を当たってくれ」

 橋本の言葉に冗談の響きは感じられなかった。僕は阿部に一礼して橋本には返事もせずに立ち去った。

第三章 新組織計画

 同性カップルの披露パーティーが終わり、次の日から僕は平静を取り戻した。冷静に考えて藤井は奈帆が旧来の女性としてのライフスタイルを受け入れるに値する相手だと思った。社会的にも人格的にも、そして何よりも奈帆を愛する姿勢という観点であれほどの相手はそうは出てこないだろう。僕は自分がまだ藤井の側に立てるほど成熟した人物になっていないことを思い知った気がする。

 奈帆とはしょっちゅうデートするようになった。いや、もうデートとは言えない。親友どうしのおしゃべり会と言うべきだろう。事情を知らない人の目から見れば若いカップルに見えているはずだが……。

 僕が奈帆と二人でケーキを食べに行ったことが本田と西田に知られた時には
「深澤君、そんなことして大丈夫なの?」
と心配された。

「僕たち藤井部長公認の親友ですから。一緒にケーキを食べに行っていることも部長はご存知ですよ」

「へえ! まあ女子会ということならとやかくは言わないけど」

 僕が五時半に終業のメロディーが流れるのと同時に立ち上がることが何日か続いた時に本田から嫌味を言われた。

「深澤君、私生活に口を差し挟むつもりは無いけど、サラリーマンの能力は五時半以降に決まるのよ。深澤君はスタートラインが低いんだから勉強を怠っちゃだめよ。岩倉奈帆さんは超一流大学卒の頭脳明晰な人だし海外在住経験が無いにも関わらずTOEICの持ち点は私よりも上なのよ。それにとても勉強家で短時間で集中してどんどん頭に入るタイプの人なの。深澤君は岩倉さんとおしゃべりをして、ああ楽しかったで終わるかもしれないけど、岩倉さんは帰宅すると家事をこなした上でちゃんと勉強を重ねている。このままだとどんどん差が広がる一方よ」

「岩倉さんが僕より上なのは分かってますよ。この間のパーティーで藤井部長とお話しした際も、岩倉さんを下から補佐してくれみたいなことを言われましたから」
 僕の自暴自棄な発言を聞いて本田は腹を立てたようだった。

「深澤君は西田さんにも負けているし、岩倉さんの下になるのは当然だわ。このままだと佐村順子にも負けるわよ」

「どうして短大卒一般職の佐村さんの名前が出て来るんですか? 約束に遅れますから失礼します。僕、これからは毎晩ちゃんと勉強しますのでご心配なく」

 本田詩音は外見もかっこいいし仕事もできるが自分の価値観を押し付けすぎるのが玉にキズだ。本田と僕は性別も年齢も違う。僕の価値観を理解しようとせずに自分の意見を押し付けても心に響かない。

 奈帆と向かい合ってケーキを食べながら本田の悪口を言った。

「深澤君は本田さんのことを十分理解できていないわ。本田さんは深澤君が好きなのよ。だから深澤君の能力を伸ばそうと思って色んな形で指導してくれるんじゃない。本田さんは性格的に私と似ているし、仕事の上では私の目標の人よ」

「でも岩倉さんは女性としてのライフスタイルを選択したんだろう? だから本田さんとは目指す所が違うじゃないの」

「それは誤解よ。私は家事や育児を担うことを決心したけれど仕事の面での目標を下げるつもりは全く無いわ。より多くのものを背負ってでも頑張るという決意をしたのよ」

「すごいなあ。僕には真似できないかも」

「そんな態度の深澤君ってキライ。私と付き合うことで向上心が疎かになってもいいと思ってるんだったらもう会ってあげないわよ。うちの課の佐村さんの方がずっと向上心があるわ」

「どうして佐村順子の話が出て来るんだよ、本田さんも奈帆も……」

 そんなことがあって奈帆とのデートの頻度はめっきり減ってしまった。それなら僕だって勉強して皆をあっと驚かせてやる! そう思って夜お風呂に入った後に英語の資料のファイルを開くのだが、アルファベットとにらめっこしているとスーっと睡魔に襲われて気がついたら朝になっているというのが常だった。

 お盆が近づいて課長、本田と西田が休暇のスケジュールを調整していたが僕はその調整には加わらなかった。福島の実家では医学部を卒業したばかりの二歳上の姉が医師国家試験に落ちて浪人中だった。姉は二月に国家試験を受けた時に百パーセント合格したような言い方をしていたので三月の合格発表の日には泣きわめいて大変だった。次の日から人間が変わったような雰囲気で勉強を始め、家族がテレビを見ることさえ憚られる状況だった。夏休みに実家に帰る気にはなれなかった。

 八月の上旬からお盆までは日本国内の顧客企業からの問い合わせや電話がめっきりと減るので、会社に出ていてもストレスを感じない。そんな楽な時期に出社して、有給休暇は普通に忙しい時期に取得する方が賢いということに他の人は気づかないのだろうか? もっとも、そんなことを口に出すとヤル気の無い社員と思われるので黙っていた。

 八月十日の水曜日の午後に思わぬLINEメッセージが入った。中村本部長からだった。

「今日一杯飲みませんか?」

「はいよろこんで」

「五時半に私の部屋に来てください」

 その日、本田と西田は有給休暇を取っていた。僕は五時半丁度に席を立ち、課長に「失礼します」と言って気づかれないように本部長室に行った。課長に「本部長から飲みに誘われました」と報告しようかなとも思ったが、同郷出身ということで贔屓されていると思われてもプラスにならないので黙っていた。

「この料理屋を予約してあるから先に行っていてくれ。私は十分ほどして追っかけるから」

 赤坂見附のホテルの手前にある店の地図を渡された。

 それなら最初からLINEに貼り付けて送ってくれれば現地集合できたのにと思ったが
「はい、承知しました」
と答えて本部長室を出た。

 それは赤坂らしい店で若手社員には滅多に来る機会がなさそうな料亭だった。中村本部長の名前を言うと「はい、お待ち申し上げておりました」と小部屋に通された。床の間がある小部屋に向かい合って席がしつらえられている。僕は床の間に対面する席の厚い座布団の上に正座して中村本部長を待った。

 中村が来たのはそれから十五分後だった。

「お待たせして申し訳ない。社長から電話があって切ろうにも切れなかったんだよ」

「社長からですか? すごいですね! 僕は入社式の日にひと言だけ言葉を交わしただけですが」

「アハハハ、ただの爺さんだよ。深澤君もそのうちに社長が出席される会議に出られるようにしてやろう」

「ありがとうございます。お茶出しでもいいから社長との会議を一日も早く覗いてみたいです」

「欲の無いやつだなあ。そんなところが深澤君の魅力だけどね」

「ありがとうございます」

「実は今日深澤君に声をかけたのはそんな理由もあるんだよ。深澤君をスカウトしたいんだ」

 スカウトという言葉を聞いて僕は舞い上がりそうになった。でも新入社員の僕に昇進のチャンスを与えてくれるなんてことが有りえるのだろうか? 

「スカウトされなくても僕は既に本部長の部下ですけど」

「私の部下の藤井部長の部下である豊福課長の部下が本田詩音で、君はそのまた部下だ。私は深澤君をもっと近くに置きたい。勿論深澤君を直属の部下にするのは難しいが、私の直轄の新しい組織に深澤君を呼びたいんだ。そうすれば深澤君は私の部下の部下ということで気軽に話が出来る」

「身に余る光栄です」

「その組織の人事構成については未だ明かせないが、我が社の将来を担うエリートによる少数精鋭集団であるとだけ言っておこう」

「すごいですね。そんなチームの末席に加えて頂けるなんて、ワクワクします」

「何をするための組織かと言うことだけは大まかに説明しておこう。勿論、これはここだけの話であって口が裂けても他言しないように」

「銃を頭に突き付けられても決して口外はいたしません」

「いやいや、深澤君が殺されるぐらいなら漏えいしてもらった方がマシだ。国際事業本部の構成を見て無理があるとは思わんかね? うちの本部には七つの海外子会社群があるが所在地によって欧州アフリカ部、アジアパシフィック部、米州部の三つの部の下につく形になっている。つまり子会社の経営は実質的に各部の課長あるいは担当者の手によって行われている。それは担当者の育成という観点ではいいことなのだが、経営とは高度に専門的な作業なのだよ。子会社七社の経営を統括する部署を創設することで、経営管理のマンパワーを大幅にセーブできるし、私の意向を直接子会社の経営に反映させることが出来る。同時に既存の三つの部を手間のかかる経営管理業務から解き放ち、営業に専念させることが出来る」

「すごい部ですね。僕なんかにそんなことができるでしょうか……」

「君に子会社の経営をやれと言っているわけではない。少数精鋭のエリート集団の手となり足となれと言ってるんだ」

「僕、何でもします。頑張ります」

「よしよし。十月一日付けの新組織だから九月末までに詳細プランが明らかになるだろう。現時点では君の心の中だけにしまっておいてくれ。硬い話はこれまでにしよう。さあ、飲みなさい」

 小さなグラスにビールを注がれ、僕は一気に飲み干した。僕は中村のグラスの減り具合に注意しながら料理を楽しんだ。課長や本田のお供をして顧客の接待の席に出たことは二度あるが、今日の料理が味も見栄えも格段に上であることは僕にも分かった。偉くなるとこんな贅沢が当たり前になるのだろう。僕も今回の栄転を機に頑張って出世街道に挑戦しようと心に決めた。

 二時間ほどのセレブな雰囲気での食事の後、中村がタクシーに乗るのをお辞儀して見送った。僕にも道が開けた日だった。

 

 翌日からの僕は何かが違っていたのだと思う。というのは滅多に僕を褒めない本田から賞賛の言葉を貰ったからだ。

「深澤君に書いてもらったメールの原稿、とてもよくまとまってるわ。まるで別人が書いたみたい。西田さんに手伝ってもらったんじゃないでしょうね?」

「バレちゃった」
と西田が言った後、数秒経ってから
「今のは冗談です。本当に深澤君が自分で書いたものです。私は一切手を触れていません」
と言った。

「やっと深澤君にもヤル気が出て来たのかな。一般職に落とす予定だったけど、この調子なら再考の必要があるかな」

 褒められているのには間違いないが本田のブラックジョークには時々リアルで怖い響きがある。

「きっと今日はタマタマですよ。長続きするとは思えませんけど」

 僕は西田の冗談を聞いてムカッと腹が立った。いくら一流大学を出ていてTOEICの持ち点が最高でも今は一般職だ。総合職の僕をバカにするのは失礼だと思った。

 僕は本気を出すことにした。本田も西田も僕が十月スタートの少数精鋭集団の一員として引き抜かれることを知らない。その時に泡を吹かせてやるために、もっと基礎力を付けておこう。今後は本田は僕のライバルだと思うことにしよう。西田も将来総合職転換試験を受験して何年後かにはライバルとして浮上する可能性がある。そうだ、奈帆もライバルだ。ライバルたちと比べて僕が明らかに後塵を拝しているのは語学力だった。三人ともTOEICの持ち点は九百点を軽く越えていて、僕を三百点以上も引き離している。最近読んだコミックでTOEIC五百点に満たない劣等生が一年後には八百点を取ったという話があった。ということは六百点前後の僕も一年で本田、西田、岩倉に並ぶことだって不可能ではない。

 そう思い立った僕は、週三回終業後に英会話クラスに通うことにした。人事部に聞きに行ったところ出席率が八割以上なら半額補助が出るとのことだった。奈帆に指輪を買った時に貯金は底をついていたが、新入社員にも少額ながら一律で出たボーナスにはまだ手を付けていなかったので当面の授業料は捻出することができた。人事部への申請には所属課長と部長のハンコが必要だった。豊福課長がその申請書を見て
「深澤君、ヤル気になったんだね。君の英語力が向上すれば上司としては非常に助かる。是非頑張ってくれ」
と言ったので本田や西田にもバレてしまった。本田と西田は僕を見てククッと笑っていた。悪あがきをしても自分たちの足元にも及ばないと見透かしたような笑い方だった。今に見ていろ僕だって、と奮い立った。

 毎日が忙しくなった。奈帆は僕が英会話教室に通い始めたのは自分の言葉が僕の向上心をかき立てたと結果だと思い込んだらしく、また僕をケーキ屋に誘うことが増えた。その結果、僕は週五日、毎日五時半には席を立つのが日課になった。しかし、以前と違って周囲の人は僕が勉強のために定刻に帰っているという認識になっていたので遠慮なく帰ることが出来た。

 中村本部長から二度目の誘いを受けたのは九月の第二週の事だった。今度はLINEで地図を送って来て七時に赤坂見附のホテルの二階のレストランで集合した。

 中村はワインリストから南アフリカ産の赤ワインを注文した。

 テイスティングをして「実にいい」と低い声で言う様子がサマになっていた。カッコいいな、でも僕は二、三十年経っても中村のようにはなれないだろうな。中村は身体のサイズが大きいだけでなく僕には絶対に真似のできない風格がある。

「カベルネ・メルローだがボルドーワインと違って南アフリカらしい土の風味があるんだ。それに、単に木の香りのニュアンスがあるんじゃなくて、天空に近い空気感がある」

 同じことを僕が言えば聞きかじりのキザな戯言と思われるだろう。

「南アフリカに出張されたことがあるんですか?」

「欧州総支配人としてロンドンに住んでいたころ、二度バケーションを取って女房と二人で行ったんだ。ヨハネスブルグは標高千七百四十メートルの高原都市でね。空の雲はこんなに低いところにかかってるんだ」
 中村は斜め上のランプを指さしてそう言った。

「南アフリカ産のカベルネ・メルローを飲むと、いつもそんな空気感を思い出すんだ」

 遠くを見る目で中村が言った。僕はそれほど深みのあるロマンティックな発言をする人を目の前にしたのは初めてだった。中村が体感している空気感を僕もその一端でも味わいたいと思い、深呼吸してからワイングラスを口に当てた。ワインを含んで喉でころがし、ゆっくりと飲み込んだ。目を閉じて木の香りの余韻を楽しんだ。低い空にたなびく白い雲が見える気がした。

 心地よい沈黙の時間が過ぎた。

「本部長、僕、あのぐらいの高さに雲がたなびいているのが見えました」

 心の底からそう言った。手を斜め上に伸ばして、数分前に中村が示したランプを指さした。

「深澤君は思っていた以上の人だった。こんなことを話せる相手って滅多にいないんだよ。私が部長や課長たちとの飲み会でワインの事をしゃべったら『さすがワイン通』とかお世辞を言われるのがオチだ。私はワイン通じゃないしワイン通になりたいとも思わない。私はただあの時に自分がどう感じたかを思い出しながら、遥々南アフリカから海を渡ってこのテーブルに来たこのボトルを味わっているだけなんだ。私のそんな気持ちを理解してやさしく見守ってくれる女性には何人か遭遇したことがある。高級クラブのママとか一流の料亭の女将には優れた感性を持っている人が居るからね。でも、私と同じように感じようとして一生懸命にワインを味わい、そして本気で共感してくれた人は深澤君が初めてだ。人生に光明を見出した気持ちだ」

 人生の光明とは言い過ぎだと思ったが、僕のワインの味わい方をそれほどまでに気に入ってくれたことが嬉しかった。僕は恥ずかしさで一杯になった。何か気の利いた事を言おうと思ったがつまらない発言でいい雰囲気を台無しにすることを恐れて、黙って微笑んでいた。

 それから中村は饒舌になってロンドン在住時代の思い出や、世界各国に出張した際のエピソードを話してくれた。中村の話を聞いていて好ましいと思ったのは、一方的に話し続けるのではなく、僕の反応を見ながら適切な間を置いて話すという点だった。

「深澤君、私の質問に対してスコットランドの会社の社長が何と答えたと思う?」

 勿論僕は必死で考えようと試みるが正解が出せるはずが無い。中村は僕が何らかの答えを口に出すのを待って、
「そう思うだろう、深澤君。だがその社長はこんなことを言ったんだ」
と続ける。

 僕の答えは後で思い出すと赤面するほどトンチンカンで的外れなものばかりだったが、中村は決して僕をバカにする発言はせず、なぜ僕がそう考えたのかを推測したうえで話を続けてくれた。僕の方では中村が気持ちよくしゃべれるようにということだけに気を付けていたつもりだったが、後で考えるとそれは逆で、中村が僕を楽しませようとして話を組み立ててくれていたのだった。

 レストランを出た時、中村は大きな手を僕の肩に置いて言った。
「今日は付き合ってくれて本当にありがとう。来週は出張が入っているし夜はしばらくアポで埋まっているが、また時間を作って声をかけさせてほしい」

「僕なんかでよろしければいつでも。でも、あと三週間もすれば本部長のお傍で働ける日が来るんですね」

 中村の優しい目を見上げると、とても大きく見えた。

 高級なレストランでご馳走になった上にお礼まで言ってくれた。たまたま本部長が会津出身だったということで僕だけがこんなに大事にしてもらうことには気が引けたが、幸せな気持ちで帰路についた。

 

 九月二十六日の月曜日の午後、その日の午前中に開催された部課長会議で海外子会社を統括する新組織について課長レベルに開示されたようだった。豊福課長は午後五時半に臨時課内会議を招集した。就業時間外に課内会議が開かれるのは僕の入社後初めてだった。

「これまで国際事業本部の海外子会社は各部が経営管理を行ってきたが、十月一日付で新設される企画部で子会社管理を行うことになった。企画部という名前だが部長を含めて数名の小さな組織だ。部長が誰かを含め人事についてはまだ本部長の胸の中にあるが、企画部に異動となる対象者は既に課長レベルに内示された。本田詩音、西田美紀、岩倉奈帆、深澤明日香の四名だ」

 驚くべき内容だった。中村本部長は僕を含む少数精鋭の組織と言っていたが、僕の周囲の若手ばかりだ。本田だけは紛れもなく精鋭だが奈帆は優秀と言っても新入社員だし、西田は一般職に過ぎない。本田と西田は驚いた表情をしていなかった。女性の情報収集力は侮れないと思った。

 僕はそれよりももっと気になったことを質問した。
「課長、うちの課は一体どうなるんですか?」

「実は私はインドネシアの関連企業に出向することになった。第二課の営業業務は第一課が引き継ぐことになる。第一課が担当している子会社の企画部への引継と第二課担当の営業業務の第一課への引継は、十月一日の企画部設立と同時に開始されることになる」

「企画部長はどこから来るんですか? まさか経営企画部の新宮さんじゃないでしょうね?」

 新宮というのは経営企画部長より年上で意地の悪いオジサンだった。僕は新宮の顔が大嫌いだったが、本田が経営企画部との会議から帰るたびに悪態をついていたことも手伝って、世界一上司にしたくない人物が新宮だと思っていた。

 豊福は「ブッ」と笑いを押しとどめてから答えてくれた。
「部長人事は極秘で私も知らないんだ。でも新宮さんじゃないことは賭けてもいいよ。これは本部長の戦略的組織改正であって前向きなものだ。深澤君、本部長が新宮さんを部下に迎えると思うか? オット、課長が部下に言うべきことじゃないな。忘れてくれ」

「ハイ」
と僕は手を上げてもう一つ質問をした。

「企画部はこのフロアのどこに出来るんですか? 別の部屋に移るんでしょうか?」

「アッハッハ、面白い質問だね。深澤君、よく考えてごらん。このフロア全体では部長が一人増えるだけなんだ。うちの課には四人分の座席がある。藤田部長の席を五十センチほど東に移動すれば、窓際に部長席を一つ増やせる。私が出て行った後の席に岩倉奈帆さんが移動してくるだけのことだ」

 第二課はスペースの無い場所に無理やりに作った島なので二列が向かい合った四席しかない。他の課は課長席の大きめのデスクが端に会って左右の課員を見渡す配置だが、威張らないタイプの豊福課長は普通の課員の位置に座っていた。

「なあんだ。豊福課長が居なくなってとても寂しいですけど、その席に岩倉さんが来て賑やかになる訳ですね。後は部長として変な人が来ないことを祈るばかりです」

「そんな風に割り切られてしまうと私としてはガックリ来るな。私にとって君たちと別れてインドネシアに行くのは単にショックという以上のことなんだよ。人生で一つの充実していた期間が終わりを告げたという気持ちだ。君たちと一緒に仕事ができて本当に幸せだった」

 豊福の目に涙が光り、僕たちは一斉にもらい泣きした。ハードボイルドな本田でさえ、鼻をグシュグシュ言わせていた。

 その翌日、総務部の男性が部長用の机と椅子を運んできた。どこかで廃止になった部の部長が使っていたと思われる古い机と椅子だった。藤井部長の席を少しだけ東に動かして、企画部の物理的な形が完成した。

 豊福課長の歓送会は二十九日の木曜日の夜に決まった。ついでに岩倉奈帆も呼んで企画部創設の前祝を兼ねることになった。

第四章 むごい人事

 翌日火曜日の昼すぎに中村本部長からLINEの着信があった。前回と同じホテルのレストランに午後七時に来て欲しいとのメッセージだった。僕は本部長が本当に新組織を少数精鋭のエリート集団と考えているのかどうか聞きたいという気持ちもあったし、もしかしたら部長が誰だかを秘密裏に教えてくれるのではないかと期待した。来週月曜日に立ち上がる企画部の人事は遅くとも金曜日の午後には発表になるはずだが、当事者であり会津出身の僕にはこっそり教えてくれるかもしれないと思った。

 中村は十五分遅れてレストランに到着した。とても疲れた顔だった。普段は四十代半ばと言っても通りそうなダンディーな中村が、今日は実年齢の五十歳よりも老けて見えた。

「私から呼び出したのにこんなに待たせて申し訳ないな」

「とんでもございません。僕は月水金は英会話教室に通っていますが火、木は完全に暇です。いえ、本部長からのお誘いがあれば英会話教室なんて休んでもへっちゃらですから、毎週七日間三百六十五日、本部長からLINEを頂けばどこにでも飛んで参ります」

「深澤君のように心からそう言ってくれる人を前にして、さっきまでのイライラが解消したよ。役員会とは大公秀吉の元に集まった戦国大名のようなものなんだ。徳川家康のように秀吉の後を狙う人も役員も居れば他の役員の行く手に地雷を埋めることに必死な役員も居る。深澤君と会うと、そんな世界のことを忘れられる」

「僕も本部長とお目にかかると本田さんからボロクソにけなされて一般職に降格すると脅されたり、一般職の西田さんからバカにされたことがバカバカしく思えてきます。酷いことを言わないのは親友の岩倉奈帆だけです」

「そうなのか、幸せという言葉を人間の形にしたように見える深澤君にも色々あるんだな。来週からは大変だと思うが気を落とさずに頑張ってくれ。深澤君には私がついているから」

「来週になって気を落とすとは、やはり企画部の部長は厳しい人が来るんですね」

「えっ? ああ、まだ課長以下には新部長が誰になるかを開示していなかったんだったな。新部長は深澤君にとってはある意味で非常に厳しい人かもしれないが、慣れれば今よりもずっと快適な労働環境になると思うよ。これ以上のことを教えてあげられないのは残念だが、深澤君はいずれ新しい職場環境を気に入ると私は確信している。もう人事の話は勘弁してくれ」

「すみませんでした。一新入社員が質問してよい範囲を越えてズケズケと色んな質問をしてしまいました。本部長のお顔を見るとつい甘えてしまって……」

「いいんだ、どんどん甘えてくれ。深澤君が甘えてくれればくれるほど私も元気になるから」

「ありがとうございます」

「さあ、ワインを選ぼう。今日のワインは赤がいいか、それとも白にするか?」

「今日は本部長に告白させてください。分かるような顔をしようと努力してるんですが、本当はワインってちっとも分からないんです。先日の南アフリカの赤ワインはとても美味しかったですけど、今日も赤の美味しいワインが頂ければ幸せですし、白のワインで本部長がお好きなのを僕にも味合わせて頂ければすごくうれしいです」

「告白すると言われた時には心臓が止まるかと思ったよ。ワインは私が好きなのを深澤君にも飲んで欲しいから、今日は白ワインにしよう。甘いのと辛いのはどちらが良い?」

「梅酒の場合甘すぎるのを沢山飲むと気持ちが悪くなることがあるんですけど」

「梅酒の甘味は角砂糖、ワインの甘味はブドウそのものから来ているんだよ。だから甘いと言っても別物なんだ。深澤君のような人が好きそうな甘いシャルドネにしようかとも思ったが、今日は私が一番好きな白ワインを深澤君に好きになって欲しい。トライしくれるか?」

「はい、喜んで」

 中村はワインリストからシャブリを選んだ。

 テイスティングには前回の赤ワインの時と比べて香りを味わうことと透明な色を鑑賞することに時間をかけているのが分かった。中村はワインを口に含んですぐ、スルリと喉に通した。無言の微笑でソムリエに軽く頷いた。

「深澤君のしなやかな未来に乾杯!」

 自分の未来について「しなやかな」と形容されたのは初めてだった。晴れやかで明るい未来、洋々とした前途、力強い希望に満ちた人生……。そんなふうな誰でも思いつく言葉と違って、とても新鮮で自分に相応しい響きが感じられた。

「ありがとうございます。僕の未来がしなやかでありますように!」

 ワインは裏磐梯の山奥の湧水のようにさりげなく喉を通った。

「さりげなくて優しいワインだと思います。オシャベリみたいには思いませんけど」

「オシャベリ? いや、深澤君、これはシャブリだ。フランスのシャブリ地区で産するワインで、辛口白ワインの代名詞だよ」

「すみません。専門用語は存じませんで……」

「ワインに関する知識が全く無いのにこのワインを口に含んだだけで『さりげなくて優しい』と評するとは大した感性だ。そうなんだよ。これは深澤君のようなワインなんだ。僕の好みそのものだから選んだんだ」

 会津つながりで中村本部長から飲みに誘われる関係になれたことはラッキーで、一緒に飲んで僕の性格を気に入られたのは喜ばしいことだと思っていた。人からズルいと思われるかもしれないが本部長から贔屓されれば同期より早く昇進できるという打算も心のどこかにあった。でも、ワインを飲んだ感想として苦し紛れのあてずっぽうのコメントをしたら、それがたまたま当たっていた程度の事で、ここまで持ちあげられると当惑してしまう……。

「深澤君に聞きたかったことがあるんだ。今度企画部にスカウトされたメンバーの岩倉奈帆君は親友だと言っていたよね? 君は彼女の事をどう思う?」

「どう思うって……。岩倉さんは僕の憧れの女性だったんです。但し、話したことは殆ど無くて密かに想っていただけなんですけど。それがある日、折り入って相談があると呼び出されてある人からプロポーズされたと打ち明けられたんです。ひょっとして僕にもチャンスがあるんじゃないかと誤解して、翌日僕がプロポーズしたら見事に断られました。その代わりに親友にしてくれたんです。恋人の代わりに親友になれたわけですが、単に振られるよりは良かったです」

「それは興味深い話だね。だが、私が聞きたかったのは岩倉奈帆君が藤井さんとカップルになったことをどう思うかという点だ」

「勿論当初はレズと聞いて驚きました。岩倉さんは元々はレズじゃなかったと僕は思っています。岩倉さんが悩んでいたのは旧来の女性的なライフスタイルに甘んじて家事や育児の主な責任を負う人生を選択してもいいのかどうかという点です。岩倉さんの話を聞いていると彼女がそこまでして藤井部長とカップルになりたいという理由が良く分かりました。正しい選択だったと思います」

「そう思うか? それは良かった。もし深澤君が同じ状況に置かれたら岩倉奈帆君と同じ選択をする可能性があると言うことだね?」

「いえ、それは有りえません。藤井部長は人物的には素晴らしい方だと思いますが小柄すぎます。僕は身長が高い相手じゃないとドキドキしないんです」

「そ、そうか。そういう想定で質問したわけじゃないんだが、気持ちは分かった」

「はあ……」

「酔いが回らないうちにお願いがあるんだ」

「はい、何なりと」

「今週の土曜日は空いているか? 私の自宅に来て欲しいんだ。私は最近料理に凝っていて、得意の手巻き寿司を作ってご馳走したい。ネタはフルーツ、キノコ、ハム、そして鮮魚。それぞれに合うワインも出るよ」

「うわあ、すごいですね。本当に僕なんかを加えて頂いてよろしいんですか? 感激です」

「よし、話は決まった。じゃあグーグルマップのリンクをLINEで送っとくよ。いや、私も深澤君と話を合わせられるようにと思ってスマホの使い方を色々勉強してるんだ」

「とても楽しみです」

「言っとくが必ず手ぶらで来なさい。もしお菓子とかワインとかの手土産を持って来たら家には入れないぞ」

「母からヨソの家に行くときは必ず何か持って行くようにきつく言われて育ったんですけど」

「じゃあヨソの家じゃなく自分の家だと思いなさい。分かったね! ところでLINEについて教えて欲しいことがあるんだ。初めて誘った時にLINEの友達登録をするのに『シャカシャカ』とかやってたじゃないか。『バイバイ』みたいな。スマホを買ったばかりの同期の友達にシャカシャカを教えようとしたがうまくいかなかった。やり方を教えてくれ」

「あれは『シャカシャカ』でも『バイバイ』でもなくて『ふるふる』と言うんです。スマホの使い方に関しては本部長も僕の『オシャベリ・シャブリ』と同じレベルなんですね」

 僕にこき下ろされて不満な表情の中村にふるふるで友達登録する方法を教えた。中村の動作がぎこちないので中村の手の甲を握ってガイダンスを行った。その時、僕は中村の手が巨大であることに気づいた。

「本部長の手ってメチャメチャ大きいんですね。人間とは思えないぐらい」

 戸惑う中村の左手に僕の右手を合わせた。僕の指先は中村の指の第一関節あたりまでしかなかった。

「失礼ですけど、ゴリラの手みたいですね。太くて毛が生えてる」

「オイオイ、自分の本部長をゴリラ呼ばわりするのか? 私の手は身体なりのサイズだ。君の手が小さすぎるんだよ」

「披露パーティの時に藤井部長の手を見たら僕のより小さかったですよ」

「私も深澤君も身体なりの手の大きさなんじゃないか? 深澤君の手は女性の手のように華奢だから私の手と並べると余計に小さく見えるだけだ。ほら、こんなに小さい」

 中村は僕に拳を握らせて、その上に自分の手を被せた。僕のこぶしは中村の手の中にスッポリと収まった。少し汗ばんだ中村の手の生暖かい刺激によって僕の上腕から首筋が鳥肌立った。

 気まずい数秒間が過ぎて、中村はバツが悪そうに手を引いた。

「手の大きさが違っても同じ大きさのワイングラスで乾杯するなんて不公平ですよね」

 僕はその場を取り繕うために意味のない発言をして、ワイングラスの柄を持ち、中村と乾杯した。グラスの中のワインをぐっと飲み干して中村に微笑みかけた。

「無知なのも困りものだなあ。こんなに高いシャブリを安物の発泡酒のように飲まれたら無理をした甲斐が無い」

 僕たちは声を合わせて笑った。

 心地よいひとときが終わってレストランを出た。

「深澤君、もう一軒行こうか? このホテルの最上階にとっておきのバーがあるんだ」

 中村が僕の肩に腕を回して言った。中村はいつもより酔っていた。疲れているのだ。僕は中村は健康のために早く寝るべきだと思った。

「本部長、美味しいワインのお陰ですっかり酔ってしまったみたいです。明日からは企画部の準備の為にしっかり頑張らないとまた本田さんに叱られますので、今日は失礼させてください」

「そうだな、焦ることはないよな。時間をかけてお互いの理解を深めるのがいいよな」

 僕はタクシーを停めて本部長を押し込み、見送った。

 

 木曜日の夕方になった。第二課の全員に岩倉奈帆を含めた五人が一緒に会社を出て近くの居酒屋まで歩いた。狭い個室のテーブルにお互いの腰が触れ合いそうな間隔で座った。

「そんなにシンミリとするなよ。私も笑顔で送り出してもらう方が助かるんだよ。深澤君も言ってたじゃないか。私の代わりに岩倉奈帆さんが座って賑やかになるだけだって」

「課長、僕たちにとってはそんなに簡単な問題じゃないんですよ。怖い部長が来ることを忘れてませんか?」

「やはり今日話しておいた方が良さそうだね。明日の朝、十月一日付けの辞令が正式に発表になる。絶対に他言はしないという条件で、企画部の人事について君たちに教えておこう」

 僕たちは息を飲んで課長の次の言葉を待った。

「企画部は部長を含めて総勢四名の少数精鋭の部になる。部長は本田詩音さんだ。異例の抜擢による最年少部長の誕生だ。本田さん、おめでとう」

 美紀、奈帆と僕は心から驚き拍手した。変な怖い部長が来るのではないことが分かってほっと胸を撫で下ろした。

「本田部長以下、総合職二名と一般職一名という小ぶりな部だが海外子会社の管理にかけては十人分のパワーを発揮するだろう。何といっても英語力が抜群だ。総合職三名のTOEICの平均が軽く九百点を越えるのは当社でも企画部だけだ」

「いえ、僕は六百点に届くか届かないかですから、平均すると足を引っ張ります。英会話教室に行ってますから一年後には三人の平均が九百を点超える可能性はゼロじゃないと思いますが」

「西田さんの事を言ってるんだよ。総合職転換試験は年一回だが、企画部創設のために先週特別に西田さんだけの試験が実施されたんだ。見事合格だった。おめでとう、西田さん。企画部の中核メンバーとして担ってくれ」

「ありがとうございます。部長、岩倉さん、よろしくお願いします。深澤君もね」

 全員が大きな拍手をした。

「そりゃあ一流大卒で貿易実務試験もTOEICも抜群なんですから当然と言わば当然ですよね。ということは総合職四人のTOEICの平均を僕が引き下げることになって申し訳ありません。英会話教室にしっかりと通って頑張ります。ところで課長、西田さんが総合職になったら、企画部には一般職がいなくなりますよね。派遣を雇うんですか?」

「いや、そうじゃないんだ、深澤君。誠に申し上げにくいことなんだが、実は……」

「課長、私の責任ですから私に言わせてください」
 新部長になる本田が口を挟んだ。

「深澤君、何度か予告したから覚悟は出来ていると思っていたんだけど、深澤君には十月一日付けで一般職の辞令が出ることになったのよ」

「じょ、じょ、冗談ですよね。男性の一般職なんて聞いたことがありません。お目出度い日にブラックジョークを言わないでください」

「深澤君、これは降格じゃないわよ。六ヶ月間の試験採用期間を経て深澤君の能力や性格に最も適した一般職の辞令が出たのだとポジティブに受け止めて欲しい。月曜日からは企画部の一般職として私と西田美紀さんと岩倉奈帆さんの仕事を支えてね。よろしく頼んだわよ」

「深澤君、立場は変わるけどよろしくね。一般職の仕事については色々教えてあげるから」

「深澤君が私のアシスタントになってくれるなんて夢みたい。頑張って仕事をしなくっちゃというパワーが湧いて来た。よろしく」

「そんな……」

「外で戦う総合職の私たちにとって、オフィスに戻ると若い男性のアシスタントが居るというのは素晴らしい環境だと思うわ。同じお茶を出してもらっても若い男性が微笑みながら出してくれたら心が癒されるもの」

 西田美紀はずっと前から総合職だったような口ぶりだった。

「私は家では主人のお世話をして、会社に来ると深澤君が身の回りの世話をしてくれて主人の立場が味わえる。毎日新鮮な気持ちになれそう」

「そりゃあ深澤君が出すコーヒーの方が西田さんが出すコーヒーより美味しいかもしれないけど……。部長としては男性一般職は他に例が無いだけに色々面倒が多いから歓迎できない。でも実力主義だから仕方ないわ」

「歓迎できなかったのにどうして僕を企画部のメンバーに入れたんですか? 総合職のまま一課に異動させればよかったのに。一課の一般職の佐村順子を企画部に引っ張ってくれば済んだ話じゃないんですか?」

「私もそう考えていたのよ。うちの会社には総合職としての素質が多少不足している人も毎年入社する。でも一度総合職枠で採用したら、だましだまし使って戦力として育てているのが実情よ。深澤君も同じように育てられるんじゃないかと思ったから一般職の辞令を出すことには反対していたの。何度も脅したことがあるけど、あれは本気じゃなくてブラックジョークのつもりだった」

「じゃあどうしてこんなことに?」

「本部長が深澤君をお気に入りみたいで、深澤君を企画部のメンバーに入れることに固執したのよ。私は子会社経営には本部の人件費を含めてコストを最小限にすることが肝要だと考えてる。だから本部長から打診された時点から、企画部は素質があって英語力の高い西田さんと岩倉さんだけを採ろうと決めていた。最後まで本部長がどうしても深澤君をメンバーに入れろと言うものだから、私は深澤君は一般職としてなら採用してもいいですけど、そうでなければお断りしますとハッキリと申し上げたのよ。私は本部長が個人的な好みで人事をごり押しすることに腹を立てていたから……」

「その結果本部長が安易な選択をしたと?」

「安易な選択と言うか、困難な選択をしたと言うべきか……。火曜日に本部長室に呼ばれて辞令の最終案を見せられたの。深澤君が一般職として企画部のメンバーに入っていた。本部長はニヤッと笑って『君から提案された条件を飲んだだけだ』と言ったの。私の負けだった。でも、人事が決まる経緯なんてその時その時で何でもありなのよ。ネガティブに考えるのは間違ってる。深澤君は総合職としては現在の能力や将来の素質という点で無理があるけど、性格を含めて一般職にはピタリ嵌るわよ。岩倉さんだって難しい決断をして皆の前でカミングアウトしたのよ。深澤君も一般職を天職だと思えばいいのよ」

「同期の男たちにバカにされて、もう会話も出来なくなります。うちの会社の女性で僕をお婿さん候補と思ってそれなりにリスペクトしてくれていた人たちからも、落ちこぼれと見なされて相手にしてもらえなくなるのは確実です」

「深澤君を可愛いと言う友達はいたけど、主人の候補と思っている人は居ないと思うわよ」
 奈帆にはっきりと言われてダブルショックだった。

「CEI 2016をちゃんと理解していないからそんな発言が出るのよ。深澤君をご主人候補と思う女性に結婚対象を限定するのは間違ってるんじゃない? 藤井部長には既に岩倉さんがいるし阿部課長には既に橋本さんが居るけど、男でも女でも深澤君が尊敬できて深澤君らしい関係を築ける相手を探せばいいのよ。そうそう、本部長でもいいのよ。本部長は深澤君がお気に入りみたいだし」

「つまらないことを言うと部長でも怒りますよ。そもそも本部長には愛する奥さまがいらっしゃるんですから」

「去年亡くなったわよ。そうか、今年入社した人たちは知らないんだ。二十歳以上離れた年の差カップルだったけど女の子が二人出来て幸せの見本みたいだったのに、悲劇だった」

「ほ、ほんとうですか……」

 僕は中村にそんなに悲しい過去があるとは知らなかった。だから優しい目に時々ふっと寂しい気配を漂わせることがあるのだ。まさか、中村が僕を飲みに誘うのは会津出身だからではなく、LGBT的な興味によるものなんだろうか?

 ナイナイ、そんなことがあるはずはない。男前で社会的地位が高くて経済的にも恵まれている。話し相手をいい気持ちにさせるテクニックも豊富だ。グルメでワインもプロ級で国際経験が豊かだから話も面白い。亡くなった奥さんがそうであったように、中村が声をかければついてくる女の子はワンサカいる。わざわざ新入社員男性に手を出そうとするはずが無い。

 いけない、また本田のブラックジョークに乗せられるところだった。

 土曜日に中村の家にお呼ばれする時に聞きたいのはそんなことじゃない。どうして僕を一般職に落としてまで企画部に入れようとしたかということだ。ひょっとしたら中村は将来のサプライズ人事を隠し玉として胸に抱いているのかもしれない。一旦一般職に落とされた社員が逆境を乗り越えて三年後には異例の主任への昇進を勝ち取るとか……。そうだ。きっと何か理由があるはずだ。

「部長、明日からのお茶出しは深澤君にしてもらって良いですか?」
 西田が嬉しそうに本田に聞いた。

「明日は九月三十日だからまだ深澤君は総合職よ。私を部長と呼ぶのも月曜日からにしてちょうだい」

 僕は憂鬱だった。いや、憂鬱どころではない。針のむしろでも言い足りない。処刑の前日から四条河原でさらし者になった遊女の心境だ。会社に行きたくない……。実家に帰って国試再受験でカリカリしている姉にお茶を出す方がまだマシだ。


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