僕は落第ヘルパー
【内容紹介】男性が病院でナース服を着て仕事をさせられる小説。医学部を卒業して4月から研修医になる予定の主人公が、その病院に3月からバイトで働き始める。バイトといっても、主として内科での予備研修をするのだが、一応ヘルパーの職員として正式採用された形になっている。その年は医師国家試験の合格発表日が3月29日で、合格発表まではあくまでヘルパーの立場で医療現場を経験することになる。病院は女性が主役の職場だ。経営層は男性で占められ、医師たちも女医を含めていわゆる男性的視点が支配的なのだが、実際の医療の大半は女性の手で動いている。多くの女性がそれぞれ医療への想いを胸に抱いて、使命感を持って頑張っている。病院の職員の性格も千差万別で好き嫌いもあり、人間ドラマが渦巻いている。この長編小説の主役は数人の女性で、主人公は脇役と言った方がよいかも知れない。主人公は病院の中の世界を下から見上げるような視点で、毎日新たな難局に遭遇して、「主役たち」に助けられたり叱咤激励されたりしつつ難局を乗り切る。これでもか、これでもかというほどの難局を主人公と一緒に体験できるシリアスなTSエンターテインメント作品。第一章 もうすぐ研修医
平成二十二年の二月十二日の朝、僕はクラスメートの幸村説子と仙台駅前のホテルのロビーで待ち合わせて一緒に試験会場に向かった。
説子と僕は福島にある大学の医学部の六年生だ。今朝の新幹線で仙台に来ても十分間に合ったのだが、真冬の東北では鉄道が必ずしも頼りになるとは言えない。万一の場合を考えて二月十一日の金曜日の列車で仙台まで来て駅前のホテルに泊まったのだ。医師国家試験の試験会場になっている産業見本市会館サンフェスタは地下鉄東西線の卸町駅のすぐ近くにあるので、大雪が降っても辿り着くことができる。
今朝は同じ大学から八十名もの学生が仙台に受験に来ている。気の合う同級生どうしで一緒に来る場合が多いのだが、僕と説子のように異性の二人組というのは珍しい。親友の坂崎に
「国試には一緒に行こうよ」
と誘われた時に
「ごめん、幸村説子と一緒に行く約束になっているから」
と断った。
「あっそう、じゃあ仕方ないね」
と坂崎に言われた。
しかし坂崎は僕と説子ができていると思っているわけではない。僕と説子は医学科で常に成績トップを争う仲で、お互いに認め合う優等生どうしだ。二人ともいわゆるガリ勉ではなく、真面目に人生を楽しむタイプの学生だ。自分で言うのも気恥ずかしいが、説子と僕はちゃんと授業を受けていれば自然に頭に入るので、卒業試験もそんなに苦労せずに合格できた。同級生も僕たち二人は別格と認めているようだった。
僕は説子を女性として意識したことはなく、説子の方からそんなそぶりを感じたこともない。手短に言えば僕たちは「同性」だった。僕には僕の同性の友達が居て、説子には同性の女友達が沢山いるから、僕と説子が同性だと言うと三段論法に矛盾が出るのだが、そんなことはどうでもよかった。勿論トイレや風呂は別でありお互いの下着姿を見ることも無いが、どんな話題でも気軽に話し合える友達だった。
共通の友人としては、僕の親友の坂崎と、説子の親友で看護学科四年生の瀬口環奈がいる。
「棚瀬君と環奈なら良いカップルになるんじゃない？」
と説子から何度かけしかけられたことがある。僕としては看護学科を代表する美人の環奈とカップルになることに文句があるはずはなく、環奈の方も満更ではない感じに見える。一点だけ問題があるとすればそれは身長だった。というのは、幸村説子と瀬口環奈はともに百七十センチ以上の長身で、僕は百六十三センチしかない。もっとも、若い男性の医者は売り手市場だから、自分の外見がどうであれ婚活市場で臆する必要は無い。絶世の美女を求めれば手に入る。元々それが目的で医学部に入ったのだから。
自分の外見が劣るかのように聞こえたかもしれないので、補足説明が必要だ。僕は医学科で最も美しい学生と言われていた。身長が伴えばイケメンと呼ばれたのだろうが、僕は「最も美しい」という形容詞に心から満足していた。僕の姉も妹も近所では評判の美人で「寿々男が女なら美人三姉妹になったところだ」と親類から言われて育った。説子が僕と仲良くするのは、僕の美しさに惚れたからではないかと、僕は密かに思っていた。
＊＊＊坂崎は地元の病院長の息子だ。卒業後は仙台で研修医をした後、父親の後継者として働くことが決まっている。環奈は以前から卒業したら東京の病院に就職したいと公言していて、娘を手元に置きたい両親と意見が対立していたが、結局千葉市に住んでいる母親の姉の近所の病院なら許してくれるということになり、津田沼のＫ病院への就職が早くから内定していた。
僕と説子の就職先も早くから決定していた。実際には卒試と国家試験が通らなければ医師として働けないわけだが、早期に「決定」するのが普通だ。今年の場合医師国家試験は二月十二日から十四日までで国試の合格発表は三月二十九日だから、四月一日にどの病院で研修医として働き始めるかは早めに決まっていて当然なのだ。
環奈がＫ病院の雰囲気や設備のことを絶賛するのを聞いて、説子は研修医マッチングの病院訪問のしょっぱなにＫ病院に行った。その夜、病院長による夕食接待の席で熱烈ラブコールを受けてその場で就職を内定してしまった。その際に
「うちの学部での成績は私がいつもトップで私の親友の棚瀬君がいつも二番です」
と自慢したらしく、病院長から
「是非その棚瀬さんもＫ病院に引っぱって来てください」
と頼まれて福島に帰って来た。
その翌日、説子、環奈と僕の三人で学食で昼食を食べていたときに、Ｋ病院の事務長から僕の携帯に電話がかかって来た。
「幸村説子さんから棚瀬寿々男さんのお噂をうかがいました。往復の新幹線代と宿泊代を出しますので明日にでも面接にお越し下さい」
「ハア、ちょっと考えさせてください」
と電話を切ったが、説子と環奈から
「面接に行かなかったら絶交よ」
と脅されて、その日の夕方の新幹線で東京に行き、翌日面接を受けた。結局、僕も病院長に押し切られ、その席でＫ病院で研修医になる約束をしてしまった。
同じ大学の同期生どうしが福島の同じ病院の研修医になるのはよくあることだが、遠く離れた千葉の病院に仲の良い同期生どうしが（しかも親友の看護学科の学生を併せて三人一緒に）就職するのというのは極めて異例だ。坂崎からは
「お前ら仲良しグループはまるで子供だな」
と呆れられた。
二月十二日の土曜日の朝の気温は零度を下回っていた。雪は積もっていないが滑って転ばないように気をつけながら卸町の地下鉄駅から国試の会場まで歩いた。
試験会場に行く道で何人もの同級生と会った。
「坂崎、頑張ろうな」
と声をかける。医師国家試験は大学入試などと違って狭い定員枠を競うわけではないから、友人どうしが心の底で「お前はドジをしろよ」などと思うことは無い。心から「一緒に頑張ろうな」と言い合えるのが良いところだ。ただ、皆が「棚瀬寿々男と幸村説子だけは落ちるはずが無い」と思っていることは僕にも感じ取れる。だから僕は「頑張ろうな」と言う時に、つい上から目線になってしまう。
一日目の試験は各論百二十分、総論十五分、必修六十分の三回に分けて実施される。大半は五択の問題だ。過去問通りの問題もかなりあったし、僕はスラスラと回答できた。合計百五十三問中で迷ったのは六問だけだった。仮に、迷った問題が全部不正解だったとしても、百五十三問中百四十七問正解で正答率九十六％になる。医師国家試験は正答率八十％以上で合格だから楽勝だ。
「今日の問題はやさしかったわね。拍子抜けしちゃったわ」
ホテルへの帰り道に説子が僕に言った。
「そうだね。明日も同じようなものだろうから、寝ていても大丈夫だ。今夜はカラオケに行っても良いぐらいだね」
「バカ言わないで。気を抜くと地雷を踏むわよ」
「分かってるよ。冗談だよ」
「地雷」というのは禁忌肢問題のことだ。医師国家試験問題には、医師として絶対に選んではいけない選択肢を忍び込ませて、その選択肢を一定数以上選んだらアウトという怖い落とし穴がある。患者の生命や臓器の機能等を不可逆的に大きく損傷させるような臨床判断をする傾向が見られる人物とか、倫理的に明らかに誤った考えを持つ人物を医師にはしないという考え方だ。そんな選択肢は冷静に考えれば選ばないはずだが、出題する側は「この地雷を踏ませてやろう」と非常に巧妙に落とし穴を作る。三日間で合計五百問もの問題が出て、そのうち例えば（年度により異なるが）四問について禁忌肢を選択してしまうと残り四百九十六問全問が正解でも、不合格になる。
本来医学部に入れる学力が無いのに猛勉強を重ねて二浪、三浪して入学し、一、二度留年して何とか卒試にも合格するという人は同期でも片手に余るほど思い当たる。勿論その多くはまともな人物なのだが、中には頭脳を慢性的にギリギリまで酷使した結果、医師として最も大切な「患者を守る」姿勢が疎かになる人もいる。禁忌肢問題はそんな人たちを排除するための問題だが、僕や説子のように極めてまともな学生がうっかり地雷を踏むこともあるから注意せねばならない。
その夜、僕は説子とホテルの食堂で二人で夕食を食べた後、持参した過去問集を一通り読んで早めに床についた。
国試の二日目、二月十三日の日曜日も朝から曇り空で零度を下回っていた。僕にとっては絶好の受験日和だ。大雪が降ったり、中途半端に温度が上がって地面がジャリジャリするのは困るが、冬はシーンと凍った空気の方が頭が冴える。卸町の駅を出た時に説子が「良い朝ね」と言うのを聞いて連帯感が深まった気がした。
試験は一日目と同じで僕にとっては非常に易しかった。判然としない問題は六、七問しかなかった。禁忌肢を選択することを避けるには、「正答では無いが禁忌肢でもない」という選択肢をわざわざ選ぶこともできたが、僕としては全問正解でトップ合格することを密かに夢見ていたので、時間をかけて「これだ」と考えられる選択肢を選ぶ姿勢を貫いた。
三日目はホテルをチェックアウトして仙台駅のコインロッカーに荷物を預けてから地下鉄東西線で試験会場に向かった。午後五時に最後の試験が終わった時には、達成感と爽やかな疲労感に包まれて、説子と一緒にブラブラと仙台駅に行った。僕も説子も楽勝だったという確かな感触を得ていた。
「せっちゃんはいつごろ津田沼に行くの？」
「国試の合格発表が三月二十九日だから、三十日の朝の新幹線で東京に行くわ。できればその前にアパートを下見に行くつもりだけど。棚瀬君は津田沼でバイトすることにしたのよね？」
「うん、僕は二月二十八日に津田沼に移動して独身医師寮に入ることになってる。三月一日から三十一日までは研修医見習いみたいな立場で勉強しながら先輩ドクターの手伝いをする予定だ。時給に換算すると千円以上になるからバイトとしては悪くないんだよ」
「そうなんだ。環奈は三月の下旬に千葉の伯母さんの家に行って、三十一日に看護師寮に入るって言ってたわ」
「じゃあ三十一日にせっちゃんと環奈と僕の三人で前夜祭をしようか？」
「その日になってお互い都合が良さそうなら会うということにしておこうよ。棚瀬君もバイトが忙しくて飲み会どころじゃないかもしれないわよ。これから医者になるわけだからあくまで仕事が最優先よ」
「はいはい、せっちゃんの仰る通りです。もし研修医が終わった後も同じ病院で勤めたら、せっちゃんが偉くなって僕がせっちゃんの部下になることも十分あり得るよね」
「うふふ。私はそのつもりよ。棚瀬君に命令してコキ使うことを楽しみにしてるんだけど」
「もう、せっちゃんったら口が悪いんだから」
「棚瀬君にひとつアドバイスしておくけど、環奈のことが好きなら早めに押しまくらないと他の人に取られるわよ。環奈ほどの美人が入ったら、病院中の男性からアタックされるのは確実よ。何歳か年上で背の高いイケメンの医師に言い寄られたら、環奈もフラフラっとその男の方に行ってしまうかも。棚瀬君には身長と言うハンディがあるんだから、早く告白しないと後悔するわよ」
説子から身長の事をハンディと言われて僕は傷ついた。そんな言い方をされたのは初めてだった。説子も僕をチビだから自分には相応しくないと思っているのだろうか……。
新幹線で隣の席に座っていても、さっき言われたことが頭に引っかかって口数が少なくなった。説子がそんな僕の気持ちを感じ取ったかどうかは分からない。
＊＊＊
あっという間に二週間が過ぎて、僕は二月二十八日の日曜日に衣類や身の回りのものを詰め込んだスーツケースを転がしながら新幹線に乗り、東京駅から総武快速で津田沼まで行った。津田沼駅から事務長に教えられていた独身寮までタクシーに乗った。独身寮という名前は付いているが、数十室の賃貸マンションのうち数室をＫ病院が借り上げているだけで、寮としての管理人は居ない。僕の部屋は四〇五号室だが、三一二号室の池中という医師の所でキーを貰って入居するようにと事務長から言われていた。
三一二号室に行って玄関のボタンを押すと腰から下にタオルを巻いた半裸の男性が迷惑そうに玄関のドアを開けた。
「研修医見習いとして明日からお世話になる棚瀬寿々男と申します」
とお辞儀をして、そのために買って来た柏屋の薄皮饅頭を差し出した。その男性は
「あっ、どうも」
と言って薄皮饅頭の箱を受け取り、引き換えに僕の部屋のキーをくれた。
「悪いけど、手が一杯で」
玄関に赤いハイヒールの靴が置いてあるのが見えた。
「ありがとうございました。よろしくお願いいたします」
とお辞儀をして立ち去った。
エレベーターで四階に上がり、四〇五号室の玄関を開けた。先ほど見た三一二号室とは左右が逆のようだったが、多分同じ造りの部屋なのだろう。廊下を入ると左にバストイレが、右にキッチンと十二畳はありそうなリビングルームがつながっていて、バストイレの並びが寝室になっていた。一応１ＬＤＫというべきだろうが、小さな子供がいる夫婦でも住めそうな広さだった。冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、ソファー、ベッドも装備されているのには驚いた。これならシーツと布団と枕だけ買えば住むことが出来る。
三一二号室の先輩ドクターは身長は僕より少し高いが、ずんぐりとした体形で、丸くて大きな顔は髭も剃っておらず、率直に言ってブサイクな男性だった。あの男性でも当たり前のように日曜日の昼間に女を連れ込んで好き放題をやっているのだ。医者ならＫ病院の女性職員は「食べ放題」なのだろうか……。あのブサイク医師でもそんなことができるなら、うちの医学科で最も美しいと言われた僕なら、選り取り見取りで酒池肉林の日々を送れるかもしれない。世の中の女性の半分は高身長の男性にしか見向きもしないが、残りの半分は高身長でなくても他の条件が良ければ許容すると言われている。つまり、医者の僕にとって手が届くポピュレーションだ。そのポピュレーションのうち美少年系が好みの女性なら、僕の意のままになるかもしれない。
イケナイ、僕は何て事を考えているんだ！ ブルブルと頭を左右に振って、つまらない考えを頭から振り払った。
僕は立派な医者になるためにここに来たのだ。説子のアドバイスもあるから環奈にだけは声をかけるつもりだが、それ以外の女性に興味は無い。元々僕はセックスが好きな方ではない。変人と思われるのが嫌だから一応セックスは一人だけ経験しておいたが、正直なところ精神的にも肉体的にもやたらストレスが大きい。将来本当に愛し合う相手と自然にベッドインすることになるまでは、三一二号室の医師の真似をするつもりはない。
スーツケースの中身を造り付けのタンスに収納した後、僕は通勤路の確認方々、津田沼駅に隣接するデパートに買い物に出かけた。病院までは徒歩七分で、そこから六分歩くとデパートに着く。アパートからデパートまで直接歩くと十分かかるが、アパートの周辺にはコンビニが三軒もあった。さすが都会は違うなと感心した。僕はデパートで掛け布団と枕とシーツだけ買って一旦アパートに帰り、それから近くのコンビニに弁当とお茶を買いに行った。拍子抜けするほど簡単に生活態勢が整い、僕は広いベッドで手足を伸ばしてぐっすりと眠ることができた。
第二章 多難な勤務初日
三月一日の月曜日、僕はＫ病院の事務長の元に出頭した。事務長は僕を院長室に連れて行った。
「おはようございます。今日からお世話になる棚瀬寿々男です。よろしくお願い申し上げます」
「おお、よく来てくれたね、棚瀬君。合格発表までは研修医見習い、つまり、無資格状態の医学生が先輩医師について現場で学習をしながら雑用を担当する形になる。医師でも看護師でもないから、診察の際に同席する場合には患者さんの許諾を得る必要があるので、雑用担当といっても制約が大きい。あまり肩ひじ張らずに勉強のつもりで医局に通えばいいよ。実際の運用は所属科の部長に委ねることになるがね。四月一日から幸村説子君と一緒に内科の研修からスタートすることになっているから、棚瀬君は一足先に内科の横山部長に預けることにする」
「ご配慮いただきありがとうございます」
「うちの病院に独身のイケメン医師は何人かいるが美少年系はいないから、棚瀬君は引く手数多だろうな。特にうちの三十代後半から四十代の独身の女性には危険なのが何人かいるから気をつけた方がいいよ。アッハッハ」
危険な女性とは誰なのか具体的に教えて欲しかったが、自分の母親のような年代の女性と付き合う気になるはずがないので、僕はさらりと受け流した。院長は僕を従えて内科に行った。病院の従業員はほぼ全員、院長を見ると道を譲って会釈したが、僕に好奇の視線が注がれるのを感じた。
内科のナースステーションでアラフォーの看護師に紹介された。
「藤田主任、彼は今日から研修医のタマゴとして内科預けになる棚瀬寿々男君だ。研修医は医者のタマゴだが、棚瀬君はその研修医のタマゴだ。タマゴのタマゴだから割れないようにしてやってくれ。アッハッハ」
「棚瀬先生、分からないことがあれば何でも私に聞いてください」
「あのう、二十九日に合格発表があるまでは先生じゃありませんので」
「そうですね、じゃあ、棚瀬さんとお呼びしましょう」
と僕に言った後で、周囲に居た女性たちに
「皆さん、いいわね、二十九日までは棚瀬さんと呼ぶのよ」
と大きな声で言った。僕に対しては必ずしも敬語ではないが丁寧語だった。ずっと年上の看護主任からこんな丁寧語で話しをされて、医師の肩書きの重みを改めて感じた。
藤田主任は三十代後半と推定される均整の取れたしゃきっとした身体つきの女性だ。ペタンコの靴を履いていても身長は軽く百七十センチはありそうで背筋もピンと伸びている。上下が白の制服を着ていて、ナースキャップもしていないから外見だけでは女医と区別がつかなかった。
藤田主任以外の女性の制服は白の人も居ればブルー、ピンクの人も居た。ズボンが多いがスカートの人もいた。女性の制服にはかなりの自由度があるようだ。
院長はナースステーションの横のドアを開けて内科医師控室と書かれた部屋に入った。
「内科の先生方、今日から研修医見習いとして働く棚瀬寿々男君だ。二十九日の合格発表までは無資格だから診察室に入れる場合患者には医学生の同席について許諾を得ることを励行してください」
四人の医師が口々に「はい」、「了解です」と答えた。二人が女医で、全員が平服の上にドクターズコートと呼ばれる白衣を羽織っている。
「棚瀬寿々男と申します。よろしくお願いいたします」
「今年の合格発表は二十九日なのか。ギリギリで大変だね」
六人の中でも年配に見える男性が僕に声をかけた。
「厚労省は国試の結果が出てから引越しても間に合うように配慮すべきですよね。引っ越しが終わった後で国試に落ちていたら目も当てられませんから」
と若い男性の医師が言った。
「棚瀬君の場合はその心配は無いよ。四月一日に研修医として着任する幸村説子さんと常にトップ争いをしていた秀才だから。アッハッハ」
「いやあ、それほどでも」
と僕は頭を掻いた。
部屋の奥の内科部長室と書かれたドアに向かって院長が歩を進めようとした時、ドアが開いて大柄な五十絡みの男性が出てきた。
「院長、おはようございます。話が聞こえたので出てまいりました。棚瀬君、ようこそ」
「今日付けで正職員としての雇用だ。職級としては三月一杯は看護助手四級職、四月一日付で研修医となる。但し今日から研修医に準じる扱いをしてくれ。事務長にはそのように指示しておいた」
「看護助手四級職の給与で雇うのなら余り酷使はできませんね」
「私も面接の際に、三月は安い給与しか出せないよと棚瀬君に言ったんだが、それでも早く来て勉強したいというから看護助手四級職として受け入れることにしたんだよ」
「地元の福島だと時給千円ももらえるバイトはまず見つかりませんので僕にとっては夢のような好条件です。ご遠慮なく酷使してください。残業も大歓迎です」
「よく言った。じゃあ棚瀬君の指導員は飯島先生にお願いしよう。飯島先生、回顧分析のデータ整理に時間がかかると言っていたよね。棚瀬君に手伝ってもらえばいい」
「いえ、それは自分でやりたいので……」
アラサーの小柄な女医が、不意を突かれて困ったという感じで答えた。
「雑用でも何でも、使い方は君次第だ」
「はあ、じゃあ、お引き受けします」
飯島が渋々ながら僕の指導員を引き受けた。飯島の横の席を与えられ、腰を下ろすと、僕は今日から社会人になったのだという実感が湧いて来た。
「棚瀬君、事務方からのオリエンテーションの予定はあるのかしら？」
「いえ、今朝事務長の所に出頭したらそのまま院長室に連れて行かれましたので、何も伺っていません」
「じゃあ、研修医用の白衣を支給してもらってから一通り案内してもらう必要があるわね。まず重要なのはＩＤカードよ。ほら、全員が写真付きの職員証の入ったホルダーを首から吊るしているでしょう。社員証は非接触型のＩＣカードになっていて、社員証が無いとイントラネットにログインできないし、ＩＤカードで入室権限を確認する部屋も多い。まずは事務長の所に行ってドクターズコートとＩＤカードの交付を受けてきなさい」
「は、はい……。行って来ます」
一緒に行ってくれるか電話でも入れてくれればいいのにと思ったが、飯島先生も忙しいのだろう。社会人初日、僕も頑張ろうと立ち上がった。
事務室に行くと事務長は会議で席を外していた。人事総務を担当しているという三十代後半のショートヘアの女性が
「事務長から聞いてるわ、棚瀬寿々男さんね」
と言って、面談テーブルへと誘導された。
「看護助手四級職で内科に配属ね。組織上の上司は内科のヘルパー主任の神岡さんということになるから、この就業開始確認書に記入して神岡さんのサインをもらってきなさい。看護助手は名札着用が必須。ＩＤカードも常時首にぶら下げてないと入れない部屋が多いわよ」
飯島の説明とは少し違うが、人事総務担当の女性の言う方が正確なのだろう。
「ちょっと待っててね、制服を持ってくるから。ええと、あなたならＬでもよさそうね」
「いえ、僕はＳなんですけど。Ｍの場合もありますが」
「棚瀬さん、病院内でＳとかＭとかくだらない冗談は慎みなさい」
僕はその女性の卑猥なジョークを聞いて思わずプッと吹き出した。
「何が可笑しいのよ」
と言いながら立ち上がった女性は奥の棚からビニール袋に入った制服を取って戻って来た。ビニール袋の色のせいかもしれないが、色がピンクがかって見えた。
「はい、これがＬサイズの制服よ」
「はあ……」
研修医用のドクターズコートは真っ白ではないのだろうか。女性の研修医ならこれでも良いが、男性の研修医にピンクがかった白衣を着せるとは趣味が悪いなと思った。でも病院の規則なら仕方がない。
「就業開始確認書は午前中に私の所に持って来てよね。以上」
その女性が立ち上がったので、僕は
「ありがとうございました」
とお辞儀をして、制服と書類、それに名札とＩＤカードを持って内科のデスクに帰った。
「飯島先生、制服を貰ってきましたけど、研修医用のドクターズコートってピンクがかっているんですね」
僕は一番不思議に思ったことを上司の飯島に洩らした。
「何それ！ あなた、それを着るつもりなの？」
飯島の素っ頓狂な声が部屋中に響き渡った。飯島は僕を立たせて、ビニール袋から制服を取り出して肩に当てた。それは鮮やかなピンク色のワンピースだった。
「棚瀬君って性同一性障害だったの？ 知らなかったわ、アハハハハ」
「人事総務の担当の方は事務長から聞いてると仰った上でこれを支給してくれたんですが」
「ピンクはヘルパー用の制服よ。新米ヘルパーは特別な理由がない限りスカートということになっているの。棚瀬君は看護助手四級職で採用されたから、新米ヘルパーの制服が支給されたわけね。名札もＩＤもピンク色で看護助手と書かれているわ」
「だから就業開始確認書にヘルパー主任の方のサインをもらってこいと言われたんですね」
「この病院は規則にうるさいからね。看護助手四級職で採用された以上、それは仕方ないわ。それに、その制服は棚瀬君なら似合うと思うわよ」
「そ、そんな！ お願いです、飯島先生、助けてください」
「冗談よ。棚瀬君みたいな男の子にピンクのワンピースを着てウロウロされたら内科の雰囲気が変になるわ」
飯島の言葉を聞いて部屋中にどっと笑い声が上がった。
「とにかくその就業確認書に記入しなさい。私が神岡さんにサインを取りつけてあげる」
僕が就業確認書に記入し終わると、飯島は僕を連れてナースステーションに行き、ピンクの制服を着た五十代の太った女性に僕の事を説明してサインを取りつけてくれた。この人が神岡ヘルパー主任なのだ。
「正式には私があなたの上司なのね」
神岡は僕を舐めるように見て言った。
事務室に行くと、事務長は会議を終えたらしく席に戻っていた。飯島が事務長に事の次第を説明すると、事務長が
「山際さん、ちょっと」
と先ほどの女性を呼んだ。
「棚瀬さんに研修医用のドクターズコートを支給してくれ」
「事務長、職員の人事・総務を担当している私としては服務規程を無視することは出来ません。看護助手の新米はピンクのスカートと決められています」
そこに飯島が口を挟んだ。
「山際さん、棚瀬君は男性ですからスカートをはけというのは無茶です。それに規定には職級ごとに決められた制服を着用することになっていますが、スカートとは書いていないはずです。以前、膝に火傷の跡のある女性ヘルパーにズボンを許可したことがあると記憶しています。その際、スカートを強制する規定はヘルパー職に男性の起用を阻止することになり違法ではないかとの議論もあったはずです」
「確かに、飯島先生が仰った事は正論ですね。分かりました。じゃあ、ピンクの上着とズボンの制服を支給しましょう」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
飯島がピンクの上下で妥協したので僕は慌てた。
「でも、ピンクだと女性みたいで……」
思いもしない方向から助け船が出た。事務長だった。
「それはまずいだろう。棚瀬さんがピンクの制服を着ていると、患者さんから女性と間違えられるか、性同一性障害の男性だと思われるよ。棚瀬さんは便宜的に看護助手四級職で採用したが、研修医に準じる扱いをするというのが院長のご意向だ。ドクターズコートを支給してくれ」
事務長がピンクの制服に反対してくれたので僕はほっと胸を撫で下ろした。
事務長に言われて山際は渋々、
「分かりました白衣を支給します」
と承知した。
「ところで、棚瀬君の勤務評定は神岡ヘルパー主任ではなく私が……」
と言いかけた飯島を事務長が遮った。
「飯島先生、これ以上無理は言わんでください。ヘルパーにはイントラネットに入る権限が与えられていません。勤怠管理はヘルパー主任の手入力になります。ご不満ならヘルパー主任と話をつけてください。棚瀬君が記入した勤務カードに飯島先生がハンコを押す形で、ヘルパー主任が飯島先生に管理を委託する方法が考えられますが、いずれにしても棚瀬君の勤務入力はヘルパー主任にしかできません」
飯島はこれ以上の議論は無理だと判断したようで、僕に
「私がハンコを押して神岡ヘルパー主任に渡すということで藤田さんに話をつけるわ」
と言った。
僕たちは事務長に礼を言って、山際にピンクのワンピースを白のドクターズコートに交換してもらった。その場で白衣を身にまとい、「内科看護助手 棚瀬」と記されたピンクの名札を胸につけ、ＩＤカードを首に吊るして事務室を出た。
僕は飯島がＩＤカードを首にかけているだけで名札を付けていないことに気づいた。
「飯島先生は名札は無いんですか？」
「医師はＩＤカードさえ吊るしていればとやかく言われないのよ。でもナースとヘルパーは必須。昔は名札だけだったのがＩＤカードに変わった際に正看護師から准看護師と見分けがつきにくいという苦情が出て、正看護師は白、准看護師はブルー、ヘルパーはピンクの名札をつけることになったのよ」
「へえ、この病院でも看護師の世界は封建的なんですね」
「それは違うんじゃないかな。法律上、正看護師と准看護師では実施できる医療行為に差があるし、看護助手は医療行為は出来ないから、客観的にひと目で分かるようにすることは有益なのよ」
「なるほど」
「せっかくヘルパーとして就職したんだから、看護師、准看護師、ヘルパーの職務権限と役割についてしっかり勉強しなさい」
こうして僕のＫ病院での多難な勤務の第一日がスタートしたのだった。
第三章 微妙な立場
「僕は何をしたらよろしいでしょうか？」
僕は白衣の姿で内科のデスクに座ると張り切って飯島に聞いた。飯島は机の引き出しからフォルダーを二つ引っ張り出してドサッと僕の机の上に置いた。
「とりあえず病院の規定集でも読んでくれる？ 私、イチイチ構っていられないから、私の邪魔にならないように静かにしていてよね。必要になったら声をかけるから」
「はい、飯島先生。お邪魔にならないようにしてご指示をお待ちします」
僕が大きな声で言うと部屋に残っていたもう一人の医師から苦笑が聞こえた。
「水本穂乃花です。よろしく」
二十六、七歳と推測される色白の美人だった。
「棚瀬寿々男です。よろしくお願いします」
「名乗らなくても知ってるわ。女性の間で、今年入る研修医は男前の女性と美人の男性だって評判だったから。大勢の職員の前で院長が言った話が広まったのよ。確かに美人ね」
「あまりうれしく無いんですけど……。幸村説子さんが男前というのは言い得て妙とだと思います。百七十三センチで凛とした顔で性格も男性的ですから」
「うふふ、面白いコンビね。まあ、それ以上は詮索しないけど」
「ち、違います。幸村さんと僕は同性のような関係で、親友なんです」
「女性どうしなのね。実に面白いわ」
「もう、水本先生、怒りますよ」
「君たち、無駄口はいい加減にしなさい、気が散るから。棚瀬君、コーヒーでも入れて頂戴」
「私も！」
僕は部屋の隅のキャビネットの上に置かれているコーヒーメーカーを使ってコーヒーをいれた。
「部屋付きの可愛いヘルパーさんが身の回りの世話をしてくれると快適だわ」
「水本先生、今の言葉、他のヘルパーさんが聞いたら良い気はしないわよ。ヘルパーさんは看護師の補助業務のための職種であって医師の身の回りの世話をする仕事じゃないわ」
「失言でした。すみませんでした」
と水本が素直に謝った。
しばらくして飯島に書類を薬剤部の新谷薬剤師に届けるように言われた。
「二十七、八のぽっちゃりした可愛い子よ」
書類を持って薬剤部に行って新谷薬剤師を探した。二十代後半の固太りの女性が見つかった。名札はしていなかったがＩＤを見ると新谷と書いてあった。
「失礼します。内科のアシスタントの棚瀬と申しますが、飯島先生からのお届け物です」
「お届け物というのもヘンだけど、まあいいわ。あなたが美人研修医の棚瀬先生ね」
美人研修医と言われて僕は顔が真っ赤になった。
「三月二十九日の国家試験の合格発表までは医師ではありませんので、先生とは呼ばないでください」
「ふうん？ 美人という形容詞については否定しないんだ」
僕はますます真っ赤になって血管がはち切れそうだった。
「確かに受け取ったわ、棚瀬君。ご苦労さま」
と言った後、新谷は僕の耳元で
「また合コンに誘うわね」
とささやいた。
＊＊＊
内科のナースステーションの横を通った時、ブルーの制服のナースから「棚瀬さん」と声をかけられた。名札は白で、看護師 楠田奈々と表示されている。ということは正看護師だ。
「今朝退院された患者さんからの頂きものの栗饅頭よ。とてもおいしいのよ。先生たちの分は無いからここで食べて行って」
「でも、飯島先生たちに内緒で僕だけ頂くなんて……」
「棚瀬さんは看護助手として雇われたんでしょう？ だからヘルパーさんの頭数に入っているのよ。もう少しでピンクの制服を着せられる所だったそうね。事務の友達から聞いたわ」
そんなうわさ話が早くも伝わっているとは驚いた。まあ、勤務表をヘルパー主任に提出しなければならない身分なのだから、ヘルパーとしてお菓子をもらってもいいか、と割り切って、栗饅頭をひとつ食べた。美味しかった。
「ナースステーションの有志で棚瀬さんの歓迎会をしようという話になってるんだけど、都合の悪い日があったら予め教えといて」
「僕は何曜日でも百パーセント大丈夫です」
「良かった。じゃあ、決まったらイントラネットのメールで知らせるわね」
「看護助手は主任以外はイントラネットには入れないらしいのでメールは使えないんですけど」
「へえ？ メールが使えないなんて、研修医のタマゴをするのに困らないかしら。じゃあ、決まったら口頭で言うわ」
看護主任の藤田からは敬語に近い丁寧語で話しかけられたので緊張したが、楠田からは年齢相応の言葉づかいだったのでほっとした。
＊＊＊
デスクに戻ると、先輩医師たちは全員が出払っていた。診察室に行ったのだろう。他にすることもないので、僕は飯島から渡されたＫ病院の規定集を読み始めた。組織図や職務権限の明細が表にまとめられていて、病院のホームページを見ただけでは分からないことが職務権限明細を見ると理解できた。
看護師には国家資格の看護師資格と都道府県知事が与える准看護師資格があって、准看護師は正看護師の指示により働くということは知っていたが、看護助手すなわちヘルパーについては正確に把握できていなかった。Ｋ病院ではヘルパー主任という職種が規定されており、ヘルパー二級の資格が必要と書かれていた。ヘルパーは看護師又は准看護師の指示に基づき、医療行為以外の補助業務を行うと書かれている。ヘルパーの上司はヘルパー主任だが、ヘルパーは直接個別の看護師又は准看護師の指示を受けて動くことになっており、業務上の指揮命令系統と人事管理系統が異なっている。
勿論、個別の看護師も個別の医者の指示により動くわけだから同じことなのだが、ヘルパーの上にヘルパー主任を置く理由が、その時点の僕には理解できなかった。
規定集の中で最も興味を覚えたのは研修医の院内カンファレンス参加に関する規定だった。研修医はその時点での所属科の部長の許可により、どの部門のカンファレンスにも参加できると書かれていた。僕が現在所属する内科の正式名称は総合内科で、毎朝八時からモーニングカンファレンスが行われているが、Ｋ病院の消化器内科、循環器内科、脳神経外科、形成外科などで毎日実施されるモーニングカンファレンス、症例検討カンファレンス、リサーチカンファレンスなどに研修医は参加を許されているようだ。研修医でなければ他科のカンファレンスにむやみに忍び込めば敬遠されるだろう。研修医の二年間は「カンファレンス破り」の異名がつくほど出来るだけ多くのカンファレンスに参加させてもらおう、と意欲が湧いて来た。
問題は研修医のタマゴである看護助手四級の職員にその規定を適用してもらえるかどうかということだった。事務長に相談すれば却下されるだろうと思ったので、僕は昼休みに飯島に相談した上で、午後、内科部長に訴えた。
「各科のカンファレンスに積極的に参加するというのはグッドアイデアだ。君の場合医療行為を行えないから飯島君も持て余すことになる。毎日二、三時間カンファレンスに行ってくれれば飯島君の負担を減らせる」
お荷物と思われていることが露骨だった。
「早速事務長に相談してみよう」
と言って電話を取り、僕がカンファレンスに参加できるように手続きをして欲しいと手短に依頼した。
電話を切ると内科部長が僕に言った。
「数年前に米国の医者を当病院で一ヶ月預かった際に日本の医師資格を有しない人物をカンファレンスに参加させる場合の特例を作ったそうだ。君にも同様の特例を適用するための申請書の原稿を作って持って来てくれるとのことだ。私が申請者、院長が承認者だから一両日中に許可が出て、イントラネットで各科にも通知が回るだろう。通知の写しが君に届いた時点で参加が可能になる」
「看護助手としての採用なのでイントラネットには入れないと言われたのですが……」
「そんなバカな。イントラネットが見られないと仕事にならないじゃないか」
内科部長はその場で事務長に電話をかけた。一分もかからずに電話は終わった。
「うちの医療法人の他の病院の管理職が津田沼に出向する場合に、期間限定でアカウントが付与される。その特例を君にも適用してくれるそうだ。その件も簡単な申請書の原稿を作って、カンファレンス参加資格の申請書と一緒に持って来てくれることになった。同時に許可が下りるだろう」
電話一本で、特例が玉手箱のように出てくることに驚いた。しかもハンコを押すだけの状態になった申請書を代筆して届けてくれるとは。飯島が直談判に行ったら即座に断られそうな案件なのに……。
「事務長には山際君という優秀な右腕がいるからね。至れり尽くせりというところかな」
今朝の横柄な女性と同じ人物のことを言っているのだ。院長からの指示と聞いたらコロッと態度が変わったし、総合内科の部長の依頼なら難題も処理するのだろうか。山際という女性が信じられなくなった。
「ところで棚瀬君、さっきから気になっていたんだが、ピンクの名札は外しなさい。それにそのＩＤカードの色も不自然だ。君がそんな名札やＩＤカードを付けていると、コレみたいだ」
内科部長は右手を反らせてオカマの仕草をして見せた。僕は恥ずかしさに思わず紅潮した。
飯島と事務長に相談に行った時に言下に断られたと言い訳しようかと思ったが、僕はその場でピンクの名札を外し「ＩＤカードの色の変更は事務室にお願いに行ってきます」と言っておいた。もし僕が内科部長に告げ口したということが事務長の耳に入って、肝心のカンファレンス参加資格とイントラネットアカウントの件がスムーズに進まないと困る。ＩＤカードの色の変更については二、三日してから「内科部長に指示されました」と事務長に頼みに行こう。
しかし、僕の悩みはあっけなく解消された。十五分もしないうちに人事総務担当の山際が書類を持って内科部長室に入り、すぐに出て行った。その三十分後には「研修医待遇 棚瀬寿々男」と書かれ、小さなフォントで看護助手と添え書きされた白いＩＤと、イントラネットの期間限定アクセス権限付与通知が一緒に届いたからだ。これで大手を振って院内を歩き回ることが出来る。
外来の診察を終えて戻って来た飯島は一目で僕のＩＤカードの変化に気づいた。僕がカンファレンス参加資格とイントラネットのパスワードをもらったことを説明すると自分の事のように喜んでくれた。
「私も反省しているわ。この病院では上を通さずにジタバタしても無駄どころか逆効果になることがあるのよ。今朝は棚瀬君にピンクのワンピースを着せないということは説得できたけど、ピンクのズボン・スーツの制服を着せることを一旦承諾してしまったものね。今思い出すと自分の力不足にぞっとするわ。ごめん」
「とんでもないです。飯島先生が僕の為に議論してくださって心から感謝しています。今後ともよろしくお願いいたします」
「今日一日接していて、棚瀬君が良い子だということだけはよく分かったわ」
「いえ、それほどでも」
「褒めたつもりじゃなかったんだけど……」
翌日以降のスケジュールについて飯島から指示された。
「うちの八時のモーニングカンファレンスには必ず出席しなさい。総合内科の医師と藤田看護主任が出席する会議よ。八時半にはナースステーションの朝礼があるからモーニングカンファレンスが長引く場合には藤田主任は退席する。棚瀬君は藤田主任と一緒に退席して、ナースステーションの朝礼に参加しなさい。棚瀬君はヒラのヘルパーだから本来は参加資格がないけれど、院内の全カンファレンスの参加資格を盾にして参加させてもらうといいわ。朝のナースカンファレンスでは受け持ちの重症患者に関する留意事項や手術、検査などの予定についての看護師どうしの細かい申し送りが行われるし、ヘルパー主任が同席してヘルパーのマンパワーを割り振るための参考にする。医師の視点でのモーニングカンファレンスと、ナース視点でのカンファレンスの両方に参加することは、看護助手の棚瀬君だから許容されることだと思うの。一ヶ月間、とても貴重な体験ができると思う。ある意味、羨ましいわ」
「看護師さんたちのカンファレンスは朝だけですか？」
「月、木の午後一時半から看護師を主体として、医師、薬剤師、栄養士と入院患者の状態と治療計画について話し合うカンファレンスがある。そのカンファレンスにもヘルパー主任は参加する。棚瀬君はそのカンファレンスには看護師を補佐する視点で参加してみなさい」
「はい、僕、頑張ります」
「日勤の看護師のシフトは四時までだけど、不定期で四時半から六時まで自主勉強会を開いてる。それは看護師の有志による勉強会でヘルパーは対象外みたいだから、いくら棚瀬君でも参加するのは難しいでしょうね」
「いくら棚瀬君でもという表現はちょっと気になりましたけど、分かりました。機会があったら年齢の近い看護師の方にでも聞いてみます」
「他科のカンファレンスは午後四時スタートのものもあるけど、五時以降のものが多いから、日程表を組んでどんどん参加しなさい。但し、言っておくけど、終業後のカンファレンス参加は時間外手当の対象にはならないからね」
僕は週間日程表を作成した。毎日、朝と夕方はカンファレンスで埋め尽くされ、何となく立派な社会人になったような気がした。
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