時をかける白衣
大関和と生きた十五年
第一章 特権の解剖学
人体は、精巧に組み上げられた機械にすぎない。
それが、東京大学医学部医学科で三度目の春を迎えた当時の私の、揺るぎない世界観だった。
窓のない解剖実習室には、常にホルマリンの鋭い匂いが立ち込めている。冷たいステンレスの台の上に横たわる検体を前にしても、私の心に特別な感慨が湧くことはなかった。メスを握り、皮膚を切り開き、指定された神経や血管を分離していく作業は、複雑な立体パズルを解き明かす手順に似ていた。そこにあるのは「かつて心を持っていた人間」ではなく、ただ構造を理解し、いずれ修理法を学ぶための「物質」でしかなかった。
「お前、本当に手先が器用だな。少しは手加減しろよ」
実習が終わり、ロッカールームで白衣を脱いでいると、同期の友人が肩をすくめながら声をかけてきた。彼は自分の指先に染み付いた薬品の匂いを嗅ぎ、大げさに顔をしかめている。
「手加減してどうするんだ。僕はただ、パズルの正解を見つけるのが得意なだけだよ」
私は淡々と答えながら、スマートフォンの画面をスクロールした。先日行われた基礎医学の試験結果がPDFで配信されている。一番上の層に自分の学籍番号があるのを視界の端で確認し、すぐに画面を閉じた。
「出たか、その可愛げのない台詞。まあいいけどさ。今夜、新宿で例の飲み会だからな。遅れるなよ」
「わかってる。僕は図書室に寄ってから行く」
「はいはい。じゃあ後でな」
友人が足早に出て行くのを見送り、私は無造作に白衣を金属製のロッカーに押し込んだ。硬い扉を閉める冷たい音が、蛍光灯の下で無機質に響いた。
命の神秘や、心と体の繋がり。そういった文学的で曖昧な言葉を、そのころの私は全く信じていなかった。病気とは、いわば機械の故障だ。血液の数値や画像診断というデータを集め、壊れた部品やエラーの箇所を特定し、薬やメスという確固たる手段で修復する。それが医療であり、私たち医師――正確には、いずれ医師になる側の人間――に与えられた、特権的で知的な作業なのだと信じて疑わなかった。
大学病院の長い廊下を歩いていると、幾人もの看護師たちとすれ違う。
小走りで駆けていく彼女たちの、合成ゴムの靴底がリノリウムの床を擦る音。ナースステーションの前で交わされる、早口で業務的な引き継ぎの声。点滴のトレイを抱えた若い看護師の目元には、慢性的な疲労が張り付いている。
少し離れた病室の前で、不機嫌に声を荒らげる高齢の患者を看護師がなだめていた。彼女は腰を屈め、患者の目線に合わせて静かに言葉を紡いでいる。
その光景を横目で見ながら、私は内心で冷ややかに分析していた。
非効率的だ、と。
感情的になっている患者の不満を十分間かけて傾聴したところで、病巣が消えるわけではない。鎮静剤を打つか、論理的に状況を説明して納得させる方がはるかに早い。もちろん、巨大な病院という組織を円滑に回すために、彼女たちのような「ケア」を担う存在が不可欠であることは、理屈では理解している。
医師の指示を正確に実行し、病棟の環境を維持し、患者の感情的なノイズを吸収する。例えるなら、優秀で便利な手足だ。それが当時の私の、看護師という職業に対する偽らざる評価だった。
「結局、最後に命を救うのは医者だから」
いつだったか、友人とそんな軽口を叩き合った記憶がある。
患者の不安な声を聞き、体を拭き、下の世話をする。それは必要な労働だが、極論を言えば代替可能な作業だ。診断を下し、治療方針を決定する私たちとは、背負っている責任の重さも、立つべき階層も違うのだと。
他者の痛みに寄り添うことの価値を、当時の私は完全に軽視していた。いや、軽視しているという自覚すらなかったと言った方が正しい。
東大医学部という絶対的な肩書きと、健康で若く、何不自由なく動く男性の肉体。私はその強固な特権階級というカプセルの中に守られていた。自分がいつかそのカプセルの外に放り出され、一人の無防備な弱者としてベッドに横たわる日が来るなど、一秒たりとも想像していなかった。
ましてや、自分のこの身体の枠組みそのものが作り変えられ、見下していた「手足」としての労働を、自らの血の滲むような日々の糧とすることになる「未来」など。
図書室へ向かうため、私は東大病院の自動ドアを抜けた。
四月の生ぬるい風が、私の短い前髪を揺らして吹き抜けていく。
あの夜もそうだった。
愛花と出会ったのは、私のそんな傲慢さが最も鋭く、無自覚に尖っていた時期の、取るに足らない週末の夜のことだった。
第二章 グラスの水滴
新宿の居酒屋の個室は、安っぽいアルコールと揚げ油の匂い、そして無意味に高いテンションの笑い声で満ちていた。
東大医学部の男子学生と、他大学の女子大生や若手社会人が集まる、絵に描いたような金曜日の合コン。テーブルの上には、食べ散らかされた枝豆の皮や、誰が頼んだのかわからない色鮮やかなカクテルのグラスが乱雑に並んでいる。
私は適当に相槌を打ちながら、斜め向かいでくだらない下ネタで盛り上がっている同期の姿を冷ややかに観察していた。彼らも私も、自分たちがこの場において圧倒的な「上位者」であることを疑っていない。医師という絶対的なプラチナチケットを手に入れることが確定している特権階級。女子たちはその肩書きに群がる蝶のようなものであり、私たちは適当に蜜を振る舞ってやればいい。当時の私は、本気でそう思っていた。
だからこそ、彼女の存在は異質だった。
愛花。
私の対角線上の端の席に静かに座っていた彼女は、周囲の騒ぎに迎合するでもなく、かといって露骨に退屈そうな顔をするでもなく、ただ淡々とウーロンハイのグラスを傾けていた。年齢は二十二歳。どこかの看護学科を卒業し、都内の病院で看護師として働き始めて一年目だと、最初の自己紹介で聞いた。
東大病院の看護師ではない、という点に、私は無意識のうちに小さな安堵とさらなる優越感を覚えていた。同じ職場の人間がいれば何かと面倒だが、外部の、それも私大の看護学部か看護学校卒の看護師であれば、完全に「こちら側」がマウントを取れる安全な対象だからだ。
私はグラスを持って席を立ち、愛花の隣の空席に滑り込んだ。
「あまり飲まないね。楽しくない?」
人当たりの良い、優等生的な笑顔を作って話しかける。東大医学部生の私がこの笑顔を使えば、大抵の女性は警戒を解いて嬉しそうに身の上話を始めるものだ。
しかし、愛花は愛想笑いを浮かべることもなく、静かな瞳で私を見た。
「夜勤明けだから、お酒は少しだけにしてるの」
「夜勤明け? それはお疲れ様。ハードなんだね、看護師って」
「そうね。命を預かる場所だから、気が抜けないし」
彼女はグラスの表面についた水滴を、短く切り揃えられた清潔な指先で静かになぞった。その指先にマニキュアの痕跡はない。
会話をしながらも、彼女の視線が私ではなく、テーブル全体を絶えず舐めるように動いていることに私は気がついた。
見ていると、愛花は実に奇妙な動きをしていた。
彼女は会話の相槌を打ちながら、酔いが回って顔を真っ赤にしている私の同期の目の前から、そっと日本酒の徳利を遠ざけた。そして代わりに、彼の手が届きやすい位置にチェイサーの水のグラスを滑り込ませた。
さらに、空調の風が直接当たって寒そうに肩をすくめていた対面の女性の前に、さりげなく自分のカーディガンを置き、店員を呼んで空いた皿を手際よく下げさせた。
それらの動作は極めてスムーズで、誰にも恩着せがましさを感じさせない、ほとんど無意識のレベルで行われていた。
「さっきから見てたんだけど」
私は面白半分に口を開いた。
「君、全然この場を楽しんでないよね。みんなのこと、ずっと観察してる」
愛花は少しだけ目を丸くし、それから微かに口角を上げた。
「……ばれてた?」
「そりゃね。僕も一応、医者の卵だから。人の動きを見るのは得意なんだ。顔色とか、呼吸の浅さとか、グラスの空き具合とか、ずっとチェックしてたでしょ。職業病?」
からかうような私の言葉に、愛花は首を横に振った。
「職業病というより、それが私の仕事だから、つい癖が出ちゃうのかも」
「飲み会のお世話が?」
「違うわ」
愛花は私の目を真っ直ぐに見た。居酒屋の喧騒の中で、彼女の周囲だけが真空に切り取られたように静かに感じられた。
「看護は、優しさや自己犠牲なんかじゃない。観察と判断の連続なの」
彼女のアルトの声は、低く、落ち着いていた。
「その人が言葉にできないサイン――例えば、少し呼吸が荒いとか、皮膚が乾燥しているとか、視線が定まらないとか。そういう微細なデータを拾い集めて、患者さんの生命力の消耗を最小限に抑えるように環境を整えること。それが看護師の専門性なのよ。ただ手を握って慰めるのが私たちの仕事だと思ったら、大間違いよ」
私は少し虚を突かれた。
専門性。彼女は確かにそう言った。医師の指示通りに動く手足ではなく、独自の判断基準を持ったプロフェッショナルとしての自負が、その静かな言葉の端々に滲み出ていた。
「へえ、ナイチンゲールみたいだ」
私は努めて軽やかなトーンで返した。知的な興味は惹かれた。顔立ちも整っているし、何より底の浅い女子大生たちとは違う芯の強さがある。恋愛対象として、彼女は十分に魅力的だった。
しかし、彼女が語るその「職能としてのプライド」には、やはりどこか冷や水を浴びせたくなる衝動を抑えきれなかった。
「環境を整えるのは立派だと思うよ。でもさ」
私はビールのグラスを傾け、余裕めいた笑みを浮かべた。
「いくらベッドのシーツを綺麗にして、水を与えて、環境を整えたところで、病巣を切り取ったり、適切な抗生剤を処方したりできなきゃ意味がない。最終的に患者を『治す』のは、僕ら医者でしょ? 君たちの仕事は、そのための素晴らしいアシストだよ」
愛花の指先が、グラスの水滴をなぞるのをピタリと止めた。
彼女は怒ったわけでも、泣き出しそうになったわけでもなかった。ただ、目の前の人間を正確に評価するような、冷徹で凪いだ瞳で私を見つめ返した。
「……あなた」
愛花は小さく息を吐いた。
「人を『支える』ことを、何の能力もいらない下働きだと思っているのね」
その言葉は、鋭利なメスのように私の傲慢さの核心を突いていたはずだった。だが、強固な特権意識の鎧に守られていた当時の私は、その痛みに気づくことすらできなかった。
「そんなこと言ってないよ。ただ、役割分担の話さ」
私は肩をすくめ、悪びれずに笑った。
これが、私と愛花の最初の亀裂だった。
私たちはこの後、何度かデートを重ねて付き合う形にはなったものの、この夜に彼女が向けた失望の眼差しは、私の鼓膜の奥に小さな棘のように刺さり続けることになる。
そして、その棘の本当の痛みを思い知る日が、そう遠くない「未来」に迫っていることを、当時の私は知る由もなかった。
第三章 亀裂と『看護覚え書』
愛花の部屋は、彼女という人間をそのまま空間に翻訳したような場所だった。
余計な装飾はなく、家具の背は低く抑えられ、動線が完璧に計算されている。ほのかに柑橘系のフレグランスが香るその清潔なワンルームで、私たちは交際という名目の、ひどく表層的な時間を重ねていた。
あの日から数週間。週末に食事をし、映画を観て、彼女の部屋でコーヒーを飲む。はた目には順調なカップルだっただろう。だが、私たちの間には常に、極薄のガラス板のような見えない隔たりがあった。当時の私はそれを、東大医学生である私と、一介の看護師である彼女との間に横たわる、知的水準や階層の不可避な差だと思い込んでいた。
その夜、ローテーブルの上に一冊の古い文庫本が置かれているのを見つけた。
表紙には『看護覚え書』とある。著者はフロレンス・ナイチンゲール。ページの大半に細かい付箋が貼られ、小口は手垢で黒ずんでいた。
「随分と古典を読んでいるんだね」
キッチンでドリップコーヒーを淹れている愛花の背中越しに、私は声をかけた。パラパラとページをめくると、あちこちに赤ペンで几帳面な線が引かれている。
「古典だけど、本質は何も変わっていないわ」
愛花は振り返らずに答えた。お湯を注ぐ細い音が、部屋の静寂を際立たせている。
「あの飲み会の時にも言っていたね。ナイチンゲールがどうとか」
「ええ」
愛花は二つのマグカップを持ってテーブルに戻り、私の対面に静かに座った。立ち上る湯気の向こうで、彼女の黒い瞳が私を捉えた。
「そこに書いてあるのよ。看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理することだと」
彼女の言葉は、まるで暗唱するように滑らかで、確信に満ちていた。
「それらのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること。それが私たちの仕事のすべてよ。ナイチンゲールは、病気とは回復過程であり、自然が体を修復しようとする働きだと定義した。私たちはその自然の働きを邪魔しないように、徹底的に環境を管理するの」
私は軽く息を吐き、文庫本をテーブルの上に放り投げた。パサリ、と乾いた音が鳴った。
「哲学としては美しい」
私はマグカップを手に取り、コーヒーを一口飲んだ。少しだけ苦味が強すぎる。
「でも、現実の医療は哲学じゃない。いくらベッド周りを清潔にして空気を入れ替えたって、増殖するガン細胞は消滅しないし、敗血症を起こした細菌は死滅しない。ナイチンゲールの時代ならいざ知らず、現代の高度医療において病気を『回復過程』だなんて悠長なことを言っていたら、助かる命も助からない。自然の働きとやらを待つ前に、強力な薬剤を投与し、メスで病巣を切り離す。最終的に患者の命を救い、治すのは、僕たち医者の技術だよ」
言い終えた後、私は自分がいかにも論理的で、反論の余地のない正論を口にしたという満足感に浸っていた。彼女の時代遅れなロマンティシズムを、科学の冷水で覚ましてやったのだと。
愛花は、反論しなかった。
怒りで声を震わせることも、顔を赤らめることもしなかった。ただ、マグカップの縁をなぞっていた指先を止め、静かな、あまりにも静かな眼差しで私を見つめた。
「……あなたは」
彼女の声は、冬の夜気のように澄んで、冷たかった。
「人を『支える』ことを、能力だと思っていないのね」
「能力? 補助的な技術だとは認めているよ」
「違うわ。あなたは、他者の弱さや痛みを想像して、それが崩れ落ちないように環境の側から支え続けることを、知性を伴わない誰にでもできる単純作業だと見下しているのよ」
「極論だな。僕はただ――」
「治すのは医者。それは事実よ。でもね」
愛花はそこで言葉を区切り、まるで未知の、ひどく哀れな生物を観察するような目で私を見た。
「あなたは、治癒に向かうための土台が、どれほどの細心の注意と観察の上に成り立っているかを知らない。他者に身を委ねなければ生きていけないということが、どれほど無防備で恐ろしいことかを知らないのよ」
沈黙が降りた。
ルームフレグランスの香りも、コーヒーの熱も、すべてが急激に温度を失っていくようだった。
私は無意識に反論の言葉を探したが、彼女の瞳の奥にある底知れない失望の深さに直面し、口をつぐんだ。彼女は私の言葉に傷ついていたのではない。私という人間の底の浅さを見透かし、見限ったのだ。
それが、決定的な亀裂だった。
その場で明確な別れ話を切り出されたわけではない。だが、その夜を境に、私たちの関係は実質的に終わっていた。彼女のあの冷たい声の響きは、私の鼓膜の奥に小さな棘として残り続けた。
だが、特権階級の分厚い防弾ガラスの中にいた私は、その棘が警告する本当の意味を理解していなかった。
彼女が言った「無防備で恐ろしいこと」の正体を、私が自らの崩壊する肉体をもって知ることになるのは、そのわずか数週間後のことである。
第四章 過信の代償
私の肉体は、決して裏切ることのない精巧なハードウェアのはずだった。
若さという強靭なベースの上に、東大医学生という特権的な階級意識がインストールされた無敵のシステム。栄養状態は良く、大きな既往歴もない。病気とは、自分よりも知識のない弱くて不注意な人間たちが罹るものであり、私自身は常にそれを「観察し、治療する側」の安全地帯にいると信じて疑わなかった。
だから、五月の連休明けから続発していた身体の小さなエラーサインを、私は完全に無視した。
始まりは、喉の奥にへばりつくような乾いた咳だった。講義、部活、友人との飲み会、そして深夜までの試験勉強。睡眠時間を削ってカフェインで脳を強制起動させる日々の中で、私の免疫システムは確実にすり減っていた。しかし私は、手洗いやうがいといった基本的な感染防御すら「時間がない」という理由で怠っていた。医学を学んでいながら、細菌やウイルスの脅威をどこか教科書の中の仮想空間の出来事のように軽視していたのだ。
水曜日の夜、愛花から短いメッセージが届いた。
『電話で話した時、変な咳をしてたけど、ちゃんと病院で診てもらった? ただの風邪じゃないかもしれないから、無理しないで』
スマートフォンの画面を見下ろしながら、私は鼻で笑った。
あの夜、彼女に「人を支えることを能力だと思っていない」と冷たく言い放たれて以来、私たちの関係はぎこちないものになっていた。彼女からの連絡も業務連絡のように素っ気なくなっていたが、それでもこうして干渉してくる。
『ただの風邪だよ。僕みたいな人間が、こんな時期に寝込むはずがない』
私はフリック入力で素早く返信を打ち込んだ。
『自分の体調管理くらい自分でできる。いちいち看護師ぶるなよ』
送信ボタンをタップし、スマートフォンをベッドに放り投げた直後だった。
背筋に、氷の刃を滑らせたような強烈な悪寒が走った。
一瞬、部屋の空調が故障して冷風を吹き出しているのかと思った。だが違う。寒さは外からではなく、私の身体の深部から湧き上がっていた。
急いでクローゼットから冬物の毛布を引きずり出し、ベッドに潜り込んだが、震えはまったく収まらない。歯の根が合わず、カチカチと乾いた音を立てる。関節の隙間という隙間に、燃え盛る鉛を流し込まれたような激痛が走り始めた。
「……っ、なんだ、これ」
体温計をわきの下に挟む手すら、痙攣するように震えていた。
ピピピ、という無機質な電子音とともに表示された数字は、39.8度。
そこから先は、急転直下の崩壊だった。
熱は一向に下がる気配を見せず、やがて私の呼吸を奪い始めた。息を吸い込もうとするたびに、肺の奥底でヒュー、ヒューと不気味な摩擦音が鳴る。気道が狭窄し、肺胞に液体が溜まっていく感覚。肺炎の併発だ。医学部で習ったばかりの病理学的メカニズムが脳裏をよぎるが、知識はただ恐怖を解像度高く縁取るだけで、私の苦痛を何一つ和らげてはくれなかった。
自分の意志で指先一つ動かせない。
私は、意のままに操作可能なデータだと思い込んでいた自分の肉体が、突如として制御不能な「暴走する有機物」へと反逆を遂げた事実を突きつけられていた。
「だれか……」
助けを呼ぼうと口を開いたが、掠れた音しか出なかった。気管支が痙攣し、激しい咳の連作が私をベッドの上でエビのように丸まらせた。咳き込むたびに肋骨が軋み、眼球の奥が爆発しそうに痛む。酸素が足りない。手足の先が冷たくなり、痺れが広がっていく。
どんなに高度な医学知識を持っていようと、ベッドに倒れ伏せば、私は一人の無力な肉の塊にすぎなかった。自分で自分に処方箋を書くことも、メスを入れることもできない。ただ己の身体の内側で増殖する病原菌に蹂躙され、溺れるように息をあえがせることしかできない圧倒的な弱者。
視界の端で、放り投げたスマートフォンの画面が淡く光った気がした。
手を伸ばそうとしたが、指先がシーツを空しく掻きむしるだけだった。酸素の欠乏が脳に達し、視界の周縁から墨汁を垂らしたように黒く濁っていく。
「たす、けて……」
誰にも届かない私の掠れ声は、ひどく高熱を帯びた部屋の淀んだ空気の中に、あっけなく溶けて消えた。底なしの暗い水穴に引きずり込まれるように、私の意識はそこで途切れた。
第五章 ケアされる者の無防備さ
規則的な電子音が、遠い水底から響いてくるように聞こえた。
目を開けようとしたが、まぶたは鉛のように重く、視界はすりガラス越しのように白く濁っていた。輪郭のぼやけた白い天井と、四角い蛍光灯の光。むせ返るようなアルコール消毒液の匂いと、無機質な医療用酸素の匂いが混ざり合っている。
顔の半分が硬いプラスチックで覆われていた。酸素マスクだ。そこから冷たく乾いた空気がシューッという音とともに断続的に送り込まれている。右腕にはテープで固定された強烈な違和感があり、冷たい液体が一定の速度で静脈へと流れ込んでくるのがわかった。
視界の端で光るモニターの波形。耳障りなアラーム音は鳴っていない。
東大病院の設備なら、嫌というほど頭に入っている。ここは機器がひしめき合う集中治療室ではない。一般病棟の個室だ。しかし、状況を論理的に分析しようとする私の脳細胞とは裏腹に、私の肉体は完全に機能不全に陥っていた。
肺は水分を含んだ重いスポンジのようで、自力で空気を吸い込むことすらひどく困難だった。指先一つ、自分の意志で動かすことができない。
病理学的な機序ならいくらでも説明できた。細菌が肺胞に侵入し、激しい炎症反応が起こり、ガス交換が阻害されている。だが、そんな知識が今の私を救うことはない。
私は、ただベッドの上に横たわり、電子機器にバイタルサインを監視されるだけの、圧倒的で無力な「物体」に成り果てていた。自分の生命を維持するための主導権が、自分以外の誰かの手に完全に握られている恐怖。
その時、視界の周縁で何かが動いた。
ベッドサイドの丸椅子に、人の影が座っている。焦点の合わない目を向けると、私を見つめ下ろす静かな瞳と目が合った。
愛花だった。
彼女は東大病院の人間ではなく、都内の総合病院で働いている。夜勤明けなのか、それとも休みをとって駆けつけたのか、普段のきちんとした彼女らしからぬ、少し乱れた私服姿だった。
なぜ彼女がここにいるのか。疑問を言葉にしようとしたが、酸素マスクの内側で浅い呼吸が空回りするだけで、声にはならなかった。
不意に、シーツの上に投げ出されていた私の冷たい右手を、両手がそっと、しかし力強く包み込んだ。
驚くほど温かい手だった。
「凪翔」
凛とした、けれど微かに震えを帯びた愛花の声が、静かな個室に響いた。
「頑張って。息をして」
その手の熱と、少しだけこわばった指の感触に触れた瞬間、私はかつて自分がどれほど傲慢であったかを、絶望的なほどの鮮明さで突きつけられた。
『最終的に患者を治すのは、僕ら医者でしょ?』
あの日、私は余裕めいた笑みを浮かべてそう言い放った。患者の痛みを想像し、環境を整えて支えることなど、誰にでもできる補助的な作業なのだと。
だが、死の淵を漂う今の私を、この世界に辛うじて繋ぎ止めているのは、最先端の医療機器でも、点滴のチューブを流れる抗生剤でもなかった。
他者に完全に身を委ねなければ呼吸すらままならないという、この絶対的な無防備さ。
恐怖で散り散りになりそうな私の自我を一つの形に留めているのは、私を見下ろして手を握り続ける、この一人の女性の体温だった。彼女がただそこに座り、私の冷え切った手を握り、生命力の消耗を防ごうと祈るように見守ってくれていること。その「ケア」の重さが、今の私にとっては世界のすべてだった。
「がんばって……」
愛花の声が掠れた。
私の手の甲に、温かく重い水滴が落ちる感覚があった。
すまない、と私は心の中で呟いた。自分の底の浅さを詫びる言葉は、永遠に酸素マスクの内側に閉じ込められた。愛花の確かな手の温もりだけを感じながら、私の意識は底なしの完全な暗闇へと滑り落ちていった。
第六章 不思議な目覚め
深い水底から浮上するように意識が戻った時、私を包んでいたのは純白の天井でも、無機質な電子音でもなかった。
ひんやりとした土の匂いと、長い年月を経て乾燥した木材の匂い。微かにカビの気配が混ざった、淀んだ空気が肺を満たした。背中には不快な感触があった。現代の均等に体重を分散させるマットレスではなく、硬い地面の上に薄く敷かれた藁の束のようだ。
目を開ける。板壁の隙間から、埃の舞う細い光の筋が差し込んでいた。
私は身を起こそうとして、すぐさま決定的な違和感に襲われた。筋肉に送ったはずの出力の信号と、実際の運動のフィードバックが、根本から噛み合っていない。起き上がるための重心の位置が、記憶している自分の身体のそれとは明らかに異なっていた。肩幅がひどく狭く、そのせいで頭部が妙に重く感じられる。
私は薄暗がりの中で、自分の両手を顔の前にかざした。
それは、私の手ではなかった。
解剖実習のメスを握り慣れた若い男の骨張った指先ではない。手首は不用意に力を込めれば折れてしまいそうなほど細く、皮膚は青白い。
急激な動悸が胸を打つ。私は震えるその手を、自分の胸元へ這わせた。
着慣れない、ごわごわとした木綿の布越しに、そこにあるはずのない柔らかな肉の膨らみを感じた。そのまま弾かれたように手を下方へ滑らせる。下腹部を探る私の指先は、ひどく冷徹なパニックに突き動かされていた。
何もない。
男性器という、私がこの世界で優位に立つための最も根源的なパーツが、まるで最初から存在しなかったかのように、きれいに消滅していた。
特権的なハードウェアであったはずの「凪翔」の肉体は失われ、私は見知らぬ、ひどく華奢な骨組みの中に閉じ込められていた。
悲鳴を上げようとしたが、医学部で培った論理的思考の残滓が、それを喉の奥で強引に押さえ込んだ。
「ここは……」
掠れた息とともに漏れ出た音に、私は二度目の絶望を味わった。
鼓膜を震わせたのは、高く、澄んだアルトの声だった。女の声だ。自分の声帯から発せられたその見知らぬ響きに、私の脳はついに処理能力の限界を超え、思考を停止しかけた。
その時、ギイ、と重い木の扉が引き開けられ、埃っぽい土間に眩しい外光が雪崩れ込んできた。
逆光の中に、一つの人影が立っている。白衣を着た医師でもなければ、愛花でもない。
目が慣れるにつれ、その人物の輪郭がはっきりとしてきた。五十代半ばほどの女性だった。藍染めの地味な木綿の着物を着ているが、日に焼けて腰が曲がっているわけではない。帯の結び目はきつく引き締まり、背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸びている。衿元の整い方や、土間に立つ足運びには静かな品格が漂っていた。
遠くから、下駄の歯が乾いた土を叩く音や、荷車が通りを軋ませながら行き交う音が聞こえてくる。少なくとも農村ではない。人が密集して暮らす都市の喧騒が耳に届く。
「大丈夫かい、娘さん」
女性は納屋の中を覗き込み、落ち着いた低い声で言った。不審者を警戒するでもなく、かといって過剰に哀れむでもない、人生の不測の事態に慣れきった人間の実務的な響きがあった。
「娘……さん?」
「道端で倒れていたんだよ。ひどい熱でうなされていたから、とりあえずこの納屋に寝かせたけれど。熱は引いたようだね」
私は藁の上で後ずさりし、背中を冷たい板壁に押し付けた。
娘さん。その単語が、私の新しい社会的輪郭を決定づける烙印のように響いた。
「僕は……」
震える唇から、かつての一人称がこぼれ落ちた。
「僕は、東大の医学生で……病室にいたはずなんだ。愛花が手を握って……」
私の支離滅裂な言葉と、女性の姿をした人間が発した「僕」という単語に、女性の眉がほんのわずかに動いた。
彼女は私の乱れた長い髪や、怯えきった細い肩を観察するように見つめた。嘲笑うでも、気味悪がるでもなかった。ただ、目の前の存在が発する強烈な不協和音を、冷徹な目で評価しているようだった。
「ひどくうなされていたからね。まだ夢と現の境が曖昧なのだろう」
女性はそう言うと、手にした手桶を土間に置いた。
「立てるようなら、母屋へおいで。少し身体を拭いて、温かい湯でもお飲み」
女性が踵を返し、再び扉の向こうの眩しい光の中へ消えていく。
取り残された薄暗がりの納屋で、私は自分の細い腕を抱きしめた。自分が夢を見ているわけでも、狂ったわけでもないという残酷な確信が、冷たい泥水のように皮膚から浸透してくる。
未来を約束されたエリート医学生としての肩書き。
何不自由なく社会を闊歩できた男性としての特権。
それらすべてが、跡形もなく剥奪されていた。私は今、自分の身元を証明するものを何一つ持たない、ただの見知らぬ「若い女」として、埃っぽいどこかの片隅に放り出されたのだ。
藁のチクチクとした感触が、それが紛れもない現実であることを、私に絶え間なく告げ続けていた。
第七章 サバイバルが始まる
再び扉が開き、先ほどの女性が戻ってきた。
手には湯気を立てる木桶と、手ぬぐいが握られている。彼女は私のそばにしゃがみ込み、固く絞った手ぬぐいを無造作に差し出した。
「顔をお拭き。ひどい汗だったからね」
「……ありがとうございます」
私は手ぬぐいを受け取り、自分の顔に押し当てた。粗い木綿の感触とともに、かすかに灰の匂いが鼻腔を突いた。布越しに触れる自分の顔の骨格が、記憶しているものより一回り小さく、顎のラインに無精ひげのざらつきが一切ないという事実が、これが悪夢ではないことを再び冷徹に証明していた。
手ぬぐいを膝に置き、私は女性を見上げた。
「あの、……ここは、どこですか?」
私の口から出た「僕」という一人称に、女性は再びわずかに眉をひそめた。
「ここは東京府だよ。上野の山の裏手、根津さ」
「東京『府』?……今は……何年ですか。月日は」
私の問いに、女性は手桶を片付けようとしていた手を止め、じっと私の目を見た。その瞳には、哀れみよりも観察の色が濃かった。
「おかしなことを聞くね。明治二十二年、今は四月も半ばだよ」
明治二十二年。西暦一八八九年。
その数字が脳髄に届いた瞬間、私の内で強固に組み上げられていた近代科学のパラダイムが音を立てて崩落した。タイムスリップ、という手垢のついたサイエンス・フィクションの単語がよぎる。あるいは、私は病院のベッドで死にかけながら、脳のシナプスが見せている長大で精緻な幻覚の中にいるのか。
だが、手ぬぐいの湿った重さも、土間の冷気も、目の前にいる女性の着物の擦れる微かな音も、すべてが圧倒的な解像度で「現実」であることを主張していた。
私は目を閉じ、深く、静かに息を吸い込んだ。
東大医学部で徹底的に叩き込まれた論理的思考――優先順位決定のプロセスを、私は自分自身に対して強制的に実行した。
現在、私は未知の環境に孤立している。第一の脅威は「狂人として処理されること」だ。もしここで「自分は二〇二六年の未来から来た東大の医学生だ」などと主張すれば、即座に精神に異常をきたした娘として座敷牢に幽閉されるか、最悪の場合は見世物小屋に売られるかもしれない。明治という時代において、身寄りのない若い女の命など、路傍の石より軽い。
生き延びるためには、この時代のシステムに適応するための「安全なバグ」を自らに実装する必要がある。
私は目を開け、女性に向かってゆっくりと口を開いた。
「自分が誰なのか、思い出せないんです」
高くて細い、自分のものとは思えない声帯をコントロールし、私は可能な限り淡々と告げた。
「なぜここで倒れていたのか、どこから来たのか。頭の中に、濃い霧がかかっているようで……」
女性は黙って私の言葉を聞いていた。その鋭い眼差しが、私の表情の微細な筋肉の動きまでを査定しているのがわかった。
「名前も、わからないのかい?」
「凪翔……いえ、凪という文字が頭に浮かびます。それ以外は何も」
「……そうかい。ひどい熱病だったからね。頭の芯がまだ煮えているのだろう」
女性はそれ以上、私を追及しなかった。
彼女はため息を一つ吐くと、立ち上がった。
「時々自分を僕と呼んだり奇妙な言葉遣いをする娘さんだけれど、それも熱のせいということにしておこう。私の亡くなった夫は黒羽藩の家老、私も一応は武家の妻だったから礼儀作法にはうるさい方だよ。娘が帰ってくるまでに、その妙な口の利き方は少し直しておくことだね」
女性の言葉の端々に滲む誇りと教養に、私は自分の偽装がひとまず機能したことを確認した。
「ご親切に、ありがとうございます。僕は……いえ、私は」
言い淀む私を見て、女性はわずかに口角を上げた。
「私の名前は哲。ここに娘と、孫の二人の四人で暮らしている。私の娘はね、本郷の帝大病院で看病婦の取締をしていて大関 和というんだよ」
帝大病院。
その単語が、私の鼓膜を鋭く打った。帝国大学医科大学附属第一医院とは、東京大学医学部附属病院の前身であり、私が闊歩していた、あの権力の頂点だ。
そして「大関 和」という名。熱のせいで働きが鈍っていた私の脳髄の奥深くで、医学史の講義で聞いた固有名詞が、小さな火花のように明滅した。だが、それが完全に結びつく前に、女性は納屋の隅にあった古びた行李を開けた。
「とりあえず、これを着なさい。娘の古い着物だけれど、泥だらけの服よりはましだろう。着替えが終わったら母屋へおいで。少し腹に物を入れないと、動けやしないよ」
大関 哲と名乗った女性は、畳まれた藍色の着物と帯を私の脇に置き、再び扉を閉めて出て行った。
一人残された納屋の中で、私は与えられた衣服を見下ろした。
ボタンもファスナーもない、ただの平面的な布の束。これを自らの身体に巻き付け、縛り上げなければ、この世界ではまともな人間として扱われないのだ。
私は泥に汚れ、汗にまみれた自分の衣服に手をかけた。特権階級の医学生としての傲慢さは、もはや遠い前世の夢だった。今の私にあるのは、この脆弱な肉体に閉じ込められた自分自身を、いかにしてこの過酷な時代で生存させるかという、冷え切ったサバイバルの意志だけだった。
第八章 看病婦取締・大関 和
渡された藍色の着物に袖を通す作業は、単なる着替えではなく、この時代の「女」という不自由な鋳型に自らを押し込む儀式だった。
腰紐を締め、帯を巻く。胸部と腹部が強固に圧迫され、肺の膨らみが物理的に制限される。足には底の薄い足袋を履いたが、現代のスニーカーのようなクッション性は皆無で、板間の冷たさが容赦なく足裏から這い上がってきた。これが、この時代の女たちが日々纏っている拘束具のひとつなのだ。
母屋に上がると、大関 哲が土間で大根を刻んでいた。
部屋の隅には、十二歳くらいの少年と、十歳くらいの少女が並んで座り、見慣れない私を不安げな目で盗み見ている。
「娘の子だよ」
哲は手を止めずに言った。
つまり、私を拾ってくれたこの家族は、女と子どもだけで成人男性のいない世帯なのだ。家長制度が絶対的な明治において、シングルマザーの家庭がどれほど危うく厳しい生存環境であるか、歴史の知識として知ってはいた。だが、彼らの食卓に並ぶであろう質素な膳の気配と、板壁を抜けてくる隙間風が、その現実を肌に突きつけてきた。
夕暮れ時、表の通りで下駄の音が止まり、引き戸が開いた。
「お帰り、和」
母親の労う声とともに土間に現れた女性を見て、私はかすかに息を呑んだ。
年齢は三十を少し過ぎたくらいだろう。藍の着物に身を包んだその姿は、一見するとドラマで見た明治時代の市井の女と変わらない。だが、纏っている空気が決定的に違った。背筋の伸びた姿勢、無駄のない所作、そして何より、薄暗がりの中でも強い光を放つような、知的で意志的な左右の瞳。彼女が、帝大第一医院の看病婦取締、大関 和なのだ。
和は母親から私の事情を手短に聞きながら、土間の隅で手を洗い、座敷に上がってきた。
ランプの橙色の灯りの下で、彼女は私の顔をじっと見つめた。医者が初診の患者のバイタルを評価するような、あるいは優秀な面接官が相手の底を見透かすような、冷静で解像度の高い視線だった。
「凪さんというのね」
「……はい。僕がどうしてここにいるのか、思い出せなくて」
私は視線を伏せながら答えた。和の目は、私の身なり、言葉尻、声の震え、そして無意識に出た「僕」という一人称のすべてを正確に拾い上げていた。
「おかしな言葉遣いをするけれど、言葉の端々に教養がある。それに、手には水仕事のひび割れ一つない」
和は静かに、しかし断定的に言った。
「どこか士族の娘さんが、よほどの事情で家を飛び出し、熱病で記憶が混濁している……そんなところでしょうね」
私は否定も肯定もせず、ただ沈黙した。私の沈黙を「肯定」と受け取った和は、さらに言葉を続けた。
「いい? ここは東京府。身元も分からず、身寄りもない若い女が、一人で生きていけるほど甘い街ではない。野垂れ死ぬか、カネのために身を売るか、道は限られている」
彼女の言葉には、無責任な同情も、過剰な感傷もなかった。ただ冷厳な事実だけを提示している。
「もし、生きていく覚悟があるのなら、私の職場に来なさい」
「職場、ですか」
「私は、帝国大学第一医院の外科で、看病婦の取締をしている」和の背筋が、さらに真っ直ぐに伸びた。「住み込みの見習いとして、私のもとで働きなさい」
私が、特権階級の医学生として我が物顔で闊歩するはずだった巨大な権力の牙城。そこへ、最下層の「見習い看病婦」として潜り込むことになるという残酷なアイロニーに、めまいを覚えた。
しかし、選択の余地などないことは、誰よりも私自身が理解していた。傲慢だった男の過去は捨てなければならない。私は今、大関 和という一人の女性の庇護なしには、明日の食事すら保証されない脆弱な存在なのだ。
帯の締め付けで浅くなった肺いっぱいに、私はこの時代の淀んだ空気を吸い込んだ。
「……はい。働かせてください」
私の高い女の声は、ランプの微かな燃焼音の中に、静かに吸い込まれていった。
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