時間制限付きの女性化
性転の秘湯
【内容紹介】秘湯に浸かることで性別が変わる小説。「春日温泉の湯守」と同じ長野県の温泉で若返りと女性化が起きる。主人公は還暦を迎えたばかりの真理夫で、中学の同窓会で45年ぶりに再会した初恋の美咲から秘湯への冒険旅行を持ちかけられる。真理夫は妻の帰省の時期を狙って美咲と一緒に長野の温泉に行く。
本書は「春日温泉の湯守・性転の秘湯」と秘湯は共通していますが独立した小説です。
第一章 再会
六十歳になることを「還暦を迎える」ということぐらいは誰でも知っている。干支(えと)には甲子(きのえ・ね)から癸亥(みずのと・い)まで六十種類がある。僕の場合は丙申 (ひのえ・さる)生まれで今年目出度く干支が巡って来たというわけだ。
還暦というと「赤いちゃんちゃんこ」がつきものだ。六十年生きて再び赤ちゃんに戻るという意味と赤には魔除けや厄除けの力があるので年寄りには赤を着せておこうという安易な発想らしい。とんでもない! 水戸黄門じゃあるまいし、赤いちゃんちゃんこなんて着られるはずがない。もし家族や親類が還暦祝いに赤いちゃんちゃんこを持ってきたりしたら、その場で躊躇なく引き裂いてしまうだろう。
それに僕はまだ三月末までは現役サラリーマンだ。お腹も出ていないし、髪の毛もフサフサだ。二年前の役職定年で部長の肩書は失ったが、仕事の腕は落ちていない。パソコンやインターネットの知識は二十代の連中に負けない。最新のアンドロイド・スマホを身体の一部のように使いこなし、エンタメ関係のネタは女子大生と互角に渡り合える自信がある。だから若い女子社員とは話が合う。同じ六十歳でもジイサンのような同期も居れば、僕のようにその気になれば後十年は平気で現役を続けられる人間もいるのだ。一律に「六十歳定年」を押し付けるのは全く非合理的だ。うちの会社では数年前から再雇用制度ができて、本人が望めば六十五歳まで働き続けることは可能だが、六十歳になると給与がほぼ半分になってしまう。
僕は妻とも相談した結果、再雇用制度には応募せず六十歳できっぱりと退職するという道を選択した。ある程度の財産形成は出来ているから、あくせく働かなくても生活レベルは維持できる。三月末に退職したら、しばらくは旅行をしたり羽を伸ばしてから再就職先を探すか起業でもしようと考えた。仮に再雇用の道を選んだとしても五年後には退職することになる。それなら気力も体力も十分な現時点で退職して新しいライフスタイルを模索する方が理に適っているというものだ。
僕の六十歳の誕生日は三月六日の日曜日で、前々日の金曜日にうちの部の連中が退職記念パーティーを開催してくれた。パーティーといっても近くのレストランの一室を借り切った飲み会なのだが、部員二十五人の殆どが出席してくれた。一応三月三十一日までは社員の身分だが、明日から有給休暇の未消化分を取得するので、今日が事実上の最終勤務日だ。
「来週からは麻生さんのダジャレが聞けなくなると思うと寂しいですよ」
芹沢君が僕にワインを注ぎながら言った。芹沢は僕が十年ほど前に中途採用した課長で僕とは相性が良くいつも一緒に仕事をしてきた。しかし、ダジャレが聞けなくて寂しいと言われてもちっとも嬉しくなかった。私は芦沢にとってその程度の存在と思われていたのか……。芹沢でさえこれだから、他の連中は僕が辞めても何とも思わないのだろう。
「麻生さん、会社を辞められても、分からないことがあったら質問して良いですか?」
そう言ってLINEの友達になりたいと私に申し出たのは入社二年目の水田亜希子だった。僕たちはスマホをフルフルして友達登録した。歓送会の最後にもらった花束と記念品よりも、水田亜希子の友達登録の方が僕にとっては何倍も価値があると感じた。退職で一番悲しいことは、会社の女の子たちに会えなくなることだ。勿論、しょっちゅう無駄話をしていたわけではなく、たまたま昼食が一緒になった時とか飲み会とか何か仕事で用があるとか、一日にほんの数回言葉を交すだけだったが、若い女の子たちとのさりげない交流は僕の生きがいだった。明日からは四歳年下の女房と話す以外は、盆や正月に帰省して姪と会う時ぐらいしか女性と話しをする機会がなくなる。それは本当に悲しいことだ。
パーティーが終りに近づくと、うちの会社での三十八年間のサラリーマン生活が本当に終わってしまったことを実感して虚しさが込み上げてきた。最後に万歳三唱されて、さらに虚しい気持ちになった。花束を持って一人とぼとぼと家路に着いた。
***
三月六日の日曜日の朝、目を覚ますと妻の多恵子が「還暦おめでとう」と笑顔で言ってくれた。僕は本当に六十歳になってしまった。
今日はひと月ほど前から楽しみにしていた同窓会の日だ。それは中学の「第一回東京同窓会」だった。中学の同窓会は既に何度か福島で開催されたが、二年前の同窓会の際に、東京とその近辺の在住者で「東京同窓会」を開こうということになった。小、中、高と一緒だった川勝が幹事を引き受けて企画してくれた。今日の参加予定者八名のうち七名は福島での同窓会などでちょくちょく顔を合わせる連中だが、残りの一人は中学を卒業して以来一度も会っていない人物だった。それは後藤田美咲さんという、僕の中学時代の憧れの女性だ。彼女が中三の夏に父親の転勤で東京に引っ越して以来の再会だから、正確に言うと四十五年と七か月ぶりということになる。
幹事の川勝からのメールには昔のままの苗字で後藤田美咲と書かれていた。結婚しなかったのだろうか? いや、養子を取ったか、離婚して後藤田姓に戻ったのかもしれない。旧姓を通称として使っている女性も多いし、死に別れということもあり得る……。僕には多恵子という妻がいて仲良く暮らしているのだから、後藤田美咲が独身だろうが夫のいる身だろうが同じことなのだがつい気になる。
美咲に会えると思うだけでワクワクした。僕の頭の中にあるのは中学の卒業アルバムに載っている顔だ。女優に例えると広瀬すずが「学校のカイダン」に出演した時と雰囲気が似た、切れ長の目をした美人だ。僕よりも少し小柄だがスポーツウーマンで爽やかな感じの女の子だった。中三の春の時点での僕の身長は百五十九センチだったから、後藤田美咲は百五十六~百五十七センチといったところだろうか。しかし、同窓会に来るのはあれから四十五年間の年輪を重ねた女性だ。あまり当時のイメージを頭に描いて期待をすると実物を見てガッカリするかもしれない。
同窓会の会場は秋葉原駅から中央大通りの裏筋を上野方向に歩いたところにあるイタリアン・レストランだった。午後六時半開始だったが僕は六時過ぎにレストランに着いた。後藤田美咲の前か、最悪でも斜め前の席に座りたいので早めに行って席を取ろうと思ったからだ。レストランの入り口で川勝の名前を言うと、左奥の個室に案内された。川勝が先に来ていて、八人がけのテーブルの手前側の二つ目の席に座っていた。
「おお、麻生。久しぶりだな」
「何が久しぶりだ。年末に高校の同窓会で会ったばかりじゃないか」
「年末からはもう七十日近くになる。久しぶりと言うべきだ。とにかく麻生、俺の横に座れよ」
川勝の右の席を指さされた。手前の右端の席だ。
「もっと真ん中の席に座っちゃだめかな……」
「だめだ。俺の周囲の中央部分の三席は女の子を座らせる。参加者八人のうちで女の子は三人しかいないから、俺の左と、その正面と、俺の正面に座ってもらう」
あっさりと拒否されて、僕は渋々手前の端の席に座った。
「ということは、僕は斜め前にしか女の子が居ないわけだな。せめて、一番奥の端に座らせてくれないか。そうすれば隣と斜め前が女の子ということになる」
「麻生、セコイことを言うなよ。奥に座ったら俺と離れてしまうじゃないか。俺は麻生とも話がしたいんだ」
「いいなあ、川勝君は女の子三人と話せる席で」
「バカ野郎。幹事の特権だ」
幹事にそう言われると仕方ない。僕は後藤田美咲が来たら左斜め前の席、すなわち川勝の正面に座るように上手く誘導しようと心を決めた。
いい年して女の子、女の子、と言っているが、よく考えると六十のオバサン、いや、悪く言えばバアサンだ。昔からのクセでそう言っているだけだ。高校の同窓会でも女性の事を女の子と呼ぶし、女の子たちは自分の事を女子と言う。可笑しなものだ。
六時二十分を回ってほぼ同時に四人が到着した。男女二名ずつだった。川勝が女の子たちを所定の場所に座らせようとして必死に交通整理していた。川勝の苦労が実って、川勝と僕の前の二つの空席を残して六人が着席した。よかった! これで後藤田美咲が僕の左斜め前に座ることが確定した。
六時半丁度に男女一名ずつが息を切らせて駈け込んで来た。同窓会のたびに会う秋葉浩二と、もう一人は長身で颯爽とした感じの女性だった。後藤田美咲を今か今かと待っていた僕の心の緊張がプッツリと切れた。僕は心から落胆した。美咲は来られなかったのだ。
この女性は誰だろう? 五十代半ば並みの肉体を自認する僕よりも更に若く見える。五十歳と言っても通りそうな体型と肌のハリだった。中学の同期で百七十センチもある女子は宮沢さんと須藤さんぐらいだった。記憶の糸を手繰ってもこんな女子は出てこない。
先に入って来た秋葉浩二が川勝に言われて僕の前に座った。川勝はその女性を自分の正面の席に座らせようとしたが、その女性が秋葉に言った。
「秋葉君、悪いけど、真ん中の席に移ってくれない? 私、そこに座りたいから」
秋葉は怪訝そうな表情で
「ああ、良いよ」
と言って右の席に移ろうと立ち上がった。
「いや、女子が真ん中に座るルールだから」と川勝が秋葉を制した。
「ごめん、私、どうしても麻生君の前に座りたいの。お願い」
「仕方ないなあ……」
川勝が譲歩し、秋葉が席を移動して、その女性が僕の前に座った。今、彼女は確かに「麻生君の前に座りたい」と言った。この女性は一体誰なのだろう?
「今日は後藤田美咲さんも来てくれて八人で第一回の東京同窓会を開催することが出来てうれしく思います」
川勝が校長先生のような挨拶をして生ビールで乾杯した。僕の頭は混乱していた。この長身の女性が美咲だと言うのか? そんなはずはない。僕の頭の中の画像記憶領域がウィルスに侵されたのだろうか、それとも別人が成り替わって後藤田美咲のフリをしているのではないだろうか。
「麻生君、今日で六十歳ね。お誕生日おめでとう」
どうして僕の誕生日を知っているのだろう? この女性は邪悪な意図で周到な調査を行ったうえで僕に近づいた詐欺師なのかもしれない。僕は身構えた。
「どうしたの、その顔? 私を覚えていないの? 後藤田美咲よ。中二の時に学園祭で演劇の台本を二人で作ったじゃない」
この長身の女詐欺師はそんなことまで調べて来たのか……。
「後藤田美咲さんのことは勿論覚えているよ。ていうか、憧れていた人だから今日会うのを楽しみにしてたんだ。でも君は後藤田さんではない。後藤田さんはこのぐらいの背で、広瀬すずみたいな感じの女の子だったもの」
「アハハハハハ。麻生君、私の顔をよく見て」
その女性は顔を僕に近づけて、目を丸く見開いて僕の目を覗きこんだ。
それは確かに後藤田美咲の切れ長の目だった!
「ほんとだ。目がそっくりだ。全体の印象が全然違うから気がつかなかったよ。もしかして、後藤田さんの妹さんとか従姉妹じゃないの?」
「まだ信じてないのね。私、高校に入ってから急に背が伸びたのよ。バスケ部とサッカー部を掛け持ちしていたから体型や性格も変わったかも。麻生君の顔は中三から全然変わってないわね。こうやって向かい合っていると、あの頃に戻ったみたいでドキドキする」
「そうなんだ……」
ドキドキすると言われて僕も嬉しかったが、本当に後藤田美咲本人だろうか?
「まだ納得していないの? じゃあ、何か質問してみて。私たちだけしか知らないことを」
「図書館の裏とかで、何か特別な思い出はない?」
それはファーストキスのことだった。中三の夏休みの前に転校の話を打ち明けられた時に、目の前でうつむいた美咲の額に僕がチュッとキスをしたのだ。
「引っかけようとしているのね。図書館の裏じゃなくて体育館の裏よ。麻生君がここにキスをしたのは」
美咲は僕がキスした場所を正確に指さした。
「後藤田さん!」
それは確かに後藤田美咲だった。僕は美咲の手を握った。目が涙で潤んだ。
「よかった。初恋の人にやっと信じてもらえて。私、転校してからもずっと麻生君のことを考えていたのよ」
「それならもっと早く連絡してくれればよかったのに」
「忙しかったのよ。高校はバスケとサッカーと勉強で忙しかった上に、文芸活動もしていた。東大に入学した後はバスケとサッカーから足を洗って文芸活動と女性の地位向上のための活動で飛び回っていた。学生結婚して、三人の娘を産んで、子育てしながら会社勤めをして、店頭上場企業の役員になって、五十五歳で女性の地位向上の関係のNPOに移った。それからも土、日も無しに飛び回ってきたのよ。去年の秋に六十歳になった時に後進に道を譲って、顧問的な立場になったから、やっと自分のことを考える時間ができたわ。それで真っ先に思ったのが麻生君に会いたいということだった」
「後藤田さんが上場企業の役員になったことは風のうわさで聞いたことがある。すごいね、カッコいい人生だ」
「ありがとう。私、カッコいいと言ってもらうのが一番うれしいのよ。麻生君にそう言ってもらえたなんて夢みたい」
「苗字は後藤田さんのままなんだね?」
「いきなりその質問? 娘たちがまだ小さい時に離婚したのよ。私が女性の地位向上の活動をすることをサポートしてくれる人だと思ったからプロポーズを受けて結婚したんだけれど、蓋を開けてみたら昭和初期並みの性差別意識の男だった。失敗だった。実は私、三十二歳の時に探偵を雇って麻生君のことを調べさせたことがあるのよ。でも麻生君が幸せな結婚生活を送っていることが分かったから断念した」
「えっ、何を断念したの?」
「独身だったらプロポーズしようと思ったのよ。そのころ母が病気になって、小五、小三、小一の娘の面倒を見てもらえなくなったの。麻生君なら私についてきてくれると思ったから」
「僕に娘さんたちの面倒を見させるということ?」
「その通りよ。麻生君を私の奥さんにしようと思いついたの。麻生君は女性を主人として受け入れることのできる、心の広い人だから」
心が広いと言われるのは嬉しいが、女性を主人として受け入れられると決めつけられても……。中学時代の僕はそんな印象の少年だったのだろうか?
「その時に僕がもし独身だったら家事と子育ての人生を歩んでいたわけか……。東大出のエリート女性の奥さんになるというのは恥ずかしいな。ママ友との付き合いとか、舅姑との関係とか……。僕の実家の家族からも冷やかされただろうな」
「麻生君が私にプロポーズされたらOKするという前提で話してくれるのを聞いて嬉しいわ」
見透かしたように言われて、自分の顔が真っ赤になるのが分かった。
「でも僕、今も女房と仲良くしているから」
「うふふふ、分かってるわよ。今、麻生君に結婚を迫っているわけじゃないから」
既に紅潮していた顔がゆでだこのように真っ赤になった。顔から火が出そうだった。
「今日麻生君の前に座った目的は離婚して私の奥さんになるように口説くためじゃないの。全くそんな期待が無かったといえばウソになるけど……。麻生君、若返りたいと思わない?」
「な、何だよ、突然。そりゃあ、若くなりたいさ。でも、サプリとか、化粧品とか、エステとか、新興宗教とかは興味無いよ」
「麻生君、私がそんな勧誘をしようとしていると疑っているの?」
「そ、そんなことはないけど」
「少し若く見えるようになる、という類の話じゃないのよ。六十歳の私たちの身体が二十歳に若返るという話に興味があるかどうかと聞いてるの」
「勿論興味はあるよ。若返りをテーマにした映画とか小説のこと?」
「若返りの秘湯のことを覚えてない? 裏磐梯の山中に秘密の温泉があって、ひと晩浸かると老人が若者になったという話よ」
「中二の時に一緒に調べた会津の伝説の中に確かそんな話があったよね」
「そう。その温泉が見つかったのよ」
「ウソだろう!」
「うちのNPOに相談に来て私が対応した二十歳の女性から秘密裡に聞いた話なの。その人が七十六歳だった時に、ある山奥の温泉の従業員に教えられて、その温泉の奥の林の中を通り抜けた所にある秘湯に入って二十歳に若返ったんだって。会社勤めを始めたところセクハラを受けて困っているという相談だった」
「それで、その女性から秘湯の場所を教えてもらったわけ?」
「そうよ。スマホの地図にその山奥の温泉の建物の場所が表示されたから、露天風呂からどちらの方向に入って行くのかを教えてもらった。温泉の裏は絶壁になっていて下に川が流れているのよ。絶壁沿いに左に歩くということで、地形から判断してたどり着ける場所は限定されているから、その秘湯の場所がほぼ特定できたの」
「裏磐梯の山中なら標高によってはまだ雪が残っているかもしれないね」
「それが、秘湯の場所は裏磐梯じゃなかったのよ。見せてあげようか?」
美咲はスマホの地図を拡大して僕に見せた。それは長野県佐久市から八ヶ岳連峰の北の端の方向に上がって行ったところにある温泉だった。
「その女性は気が狂っているか、想像力が豊かな人なんだよ、きっと」
「それでもいいじゃない。夢を見ましょうよ。万一本当に若返ったらラッキーということで」
「長野か、遠いなあ」
「佐久インターから僅か半時間よ。東京から二時間半ってところかな。麻生君の場合は奥さんにどう説明するかが一番の問題ね」
「うちの女房は二十五日の金曜日に福島の実家に帰るからその週末なら大丈夫だけど」
「麻生君は一緒に帰らないの?」
「女房の父が老人介護施設に入ってるんだけど、女房のお姉さん夫婦が実家に住んでいて面倒を見てくれているんだ。女房はそのことを申し訳なく思っていて、春休みにお姉さん夫婦を旅行に行かせてあげるために実家に帰る予定なんだよ。僕は邪魔になるだけだから一緒には行かないことになっている」
「良い奥さんなのね。でも、同窓会で再開した初恋の女性と浮気する為に温泉旅行に行くわけじゃないから、良心の呵責にさいなまれる必要は無いわよ」
「後藤田さんが僕の初恋の人だとは言っていないけど」
「言わなくても分かってるわよ」
「女房に内緒で行って、もし本当に若返ったら困ったことになるよね」
「その時は体当たりして率直に話し合えばいいのよ」
「そりゃそうだね。ていうか、本当に若返るはずが無いから。まあ一度ぐらい女房に内緒で、中学の友達と長野に冒険旅行に行くぐらいなら万一バレても許されるよね、きっと」
「じゃあ約束よ。私が車を出すから三鷹まで電車で来てくれない? 二十六日の土曜日の朝にJR三鷹駅の北口で麻生君を車でピックアップするということでどうかな?」
「何か用意すべきものは無い?」
「林の中を歩いて秘湯を探すから、山歩きのような服装とトレッキングシューズがあれば良いわね。それから、翌朝、若返った後でも似合いそうなスポーツウェアを着替えとして持ってきて。ドローンは私のを持って行く」
「ドローンって、あのUFOみたいなやつ? 後藤田さんがあんなものを持っているの?」
「そうよ。林の中を歩いて探しても見つからない場合は上空から捜索するのが一番だから。私の三女の夫が去年ドローンを買って河原で飛ばすのについて行ったのよ。面白くて夢中になったから、自分用に一台買ったの。まだ一度しか使っていないけど、私はドローンの操縦に関しては才能があるみたい」
美咲と僕はずっと二人だけの会話に夢中になっていた。
「これから一人一人の近況報告ということで後藤田さんからお願いします」
という川勝の言葉が耳に入って「今日は同窓会なんだった」と現実の世界に引き戻された。
美咲はさっき僕に言ったような内容の近況報告をした。絵に描いたようなエリート人生で、五十五歳で上場企業の役員のポジションを捨てて、自分の思想を実現する為にNPOに移ったというところがカッコいい。
「へえー、すごいな」
と皆が口々に言っていた。僕が多恵子と結婚していなければ三十二歳のときに、この人の奥さんになっていたかもしれないんだと思うと、誇らしいような、恥かしいような複雑な気持ちになった。
最後に僕が
「今月末で定年退職します。一昨日が最終勤務日でした」
と近況報告すると、
「英断だ。実に素晴らしい」
と川勝が言って皆から拍手された。しかし、今日参加している女子三人のうち美咲以外の二人は医者で、男子五人のうち僕以外は六十五歳まで働く意向なので、結局退職するのは僕一人であり、拍手されても素直に喜べなかった。外観的には僕が一番若いのに……。
「暇だったら後藤田さんのNPOで働かせてもらえばいいのに」
と吉峰由紀子に言われた。
「アシスタントの女の子が三月末で辞めるから、麻生君が来てくれるなら大歓迎よ」
と美咲が本気な感じで言った。
「いっそ、後藤田さんの奥さんになったらどうだ」
酔いが回った秋葉がつまらない冗談を言ったが、僕は
「結婚してるから」
と言い訳をするつもりは無く、秋葉を無視した。
「私としては大歓迎よ」
美咲が僕に顔を近づけて、他の人に聞こえない声で言った。
その時にウェイターが
「五分後がラストオーダーです」
と言いに来た。飲み放題二時間半のコースだったが、やはり飲み放題というシステムには弊害がある。どうしても飲む量が増えてしまうので、先ほどの吉峰由紀子や秋葉浩二のように、素面なら言わないような失礼なことを平気で発言する人が出てくる。誰でも酔うと気が大きくなって相手の気持ちに配慮せずに本音が出てしまうのだ。
吉峰と秋葉の発言に続けて美咲が「大歓迎よ」と二回言ったが、本気なのだろうか? 僕を美咲のNPOで雇ってもいいという誘いだ。。僕はこの同窓会に来てよかったのかどうか分からなくなった。多恵子と平穏に暮らしていたのに、初恋の人が四十五年ぶりに目の前に現れて、僕の心に踏み込んで来た。僕の心は柳のように揺れている。
「えー、宴たけなわではありますが本日はこの辺でお開きにさせていただきます。次回の幹事は秋葉君が引き受けてくれました。よろしくお願いします」
全員がフラフラと立ち上がった。美咲と僕は他の六人の後姿を見てから立ち上がった。
「あれれれっ! 麻生君、中三の時のままじゃない。大きくならなかったのね」
美咲が僕の前に立って言った。僕の目の高さに美咲の唇があった。
「中三の時は百五十九だったけど今は百六十二・七センチあるから少しは伸びたんだけどなあ。後藤田さんは僕より小さかったのに……」
「私は百七十二・九センチだけど人には百七十二センチと言ってるの。麻生君よりも丁度十センチ高いのね。こんなだと、おでこにキスをするのは私の方になっちゃう」
と言って、突然、美咲は僕の肩に両手を置いて額の中央にキスした。それは僕が四十五年七か月前に美咲にキスしたのと正確に同じ場所だった。予期しなかった出来事に心臓が止まりそうになった。
「真理夫、今日会えて本当に良かったわ。二十六日が楽しみね」
中学の時には麻生君と呼ばれていた。美咲からファーストネームで呼び捨てにされたのは生まれて初めてだった。
「は、はい」
僕は美咲を見上げて思わず敬語で答えてしまった。
第二章 浮気旅行
翌日の月曜日の朝、僕は普段通り六時半に目が覚めた。目覚ましはかけなくても身体が六時半を覚えているのだ。顔を洗って、コーヒーのドリップをセットする。布巾を洗って食卓をきれいに拭く。朝食に使うお皿を並べる。そして日経新聞を読みながら多恵子が起き出すのを待つのが僕の日課だった。コーヒーのマシンが立てるボコボコという音で多恵子が目が覚めて、多恵子がトーストを焼く。ミルクとヨーグルト、そしてトーストにはハムとレタスを乗せるのが定番だった。
朝食を終えると、七時十五分に家を出て一日が始まる。それが長年の平日の朝の習慣なのだが、今日から僕には行くところが無い。新聞を読み終えると手持無沙汰なので寝室にある自分のデスクのパソコンのスイッチを入れてメールチェックをした。それから昨夜の日経新聞の締め切りから今朝までに欧米で起きた新しいニュースと、ロンドン・ニューヨーク市場の動向をチェックする。そこまでは、毎朝僕が会社の手前のコーヒーショップに入ってスマホでしていた作業と同じだった。
しかし、それから後が続かなかった。本を読んだり、パソコンで佐久の温泉の周辺の状況を調べたり、インスタグラムで広瀬すずが昨夜アップロードした画像を見たり、家の中をぶらぶらしたり……。
多恵子は洗濯と掃除をして、忙しそうに家事をこなしている。長年ずっとそうしてきたように。多恵子が十一時前に家事を終えてソファーに座ったのを見て、僕は多恵子をねぎらおうと思いつき、
「コーヒーを入れようか?」
と声を掛けた。
「もう、一人にしてくれる?!」
多恵子がイライラした様子で叫んだので僕は驚いた。
「これから私の時間が始まるのよ。だから邪魔しないで」
僕はすごすごと寝室に引き下がり、デスクでパソコンに向かって芸能ニュースを見始めた。
十二時半ごろ、多恵子から不機嫌な声で
「ご飯よ」
と声がかかり食卓まで行った。
「昨日まではお昼は私の自由時間だったのよ。これから毎日あなたのために昼食まで作らなきゃならないの?」
「僕、昼ご飯ぐらいは自分で作れるよ。だから明日からは気にしないで」
「私は台所を使われるのが嫌なのよ。お願いだから、毎朝どこかに出て行って夕方帰宅してくれない? 給料は持ってこなくていいから、とにかく昼間は家に居ないで欲しい!」
多恵子が本気でそう言っていることは確かだった。多恵子にとって僕が平日に家に居ることがそれほどのストレスになるとは予想していなかった。熟年離婚という言葉が頭にちらついた。
「わかったよ。明日から毎朝外出するよ」
「どこに行くのよ?」
「とりあえず図書館にでも行くさ。今まで勉強したくても時間が無くて出来なかった事とか、調べるのにいい機会だから」
「この辺りには小さい図書館しかないけど」
「明日は日比谷図書館に行くつもりだ」
「電車代がかかるじゃない。お昼のご飯代も」
「仕方ないだろう、外に出ればお金がかかるんだから」
「公園で散歩でもしてきなさいよ。毎晩、おむすびを握って冷蔵庫に入れておきなさい。朝、それをチンして持って行けば余計なお金はかからないわ」
「毎日朝から晩まで公園でブラブラできるか!」
僕の口から「僕が働いて貯めたお金なんだから電車代や昼飯代ぐらいは使わせろ」という言葉が出かかったが、辛うじて思いとどまった。それを言うと多恵子が怒るのは目に見えている。
気まずい沈黙の時間が過ぎて昼食を終えた。
僕はジャケットを羽織ってスマホと財布をポケットに入れた。
「公園に行ってくる。晩御飯までには帰る」
多恵子が「言い過ぎたかな」という表情をしたので内心ほっとした。僕は家を出てあてもなくブラブラと歩き始めた。
「そうだ、谷津干潟に行こう」
歩いて一時間ほどの距離だから、谷津干潟で三時間過ごせば、午後六時半頃に帰宅できる計算になる。多恵子と何度か車で行ったことがあって、好きな場所だった。
気持ちの良い散歩だった。曇り空で、日差しが無いから長距離を歩いても暑くない。京成八津駅を越えて商店街を通り谷津バラ園の前の公園のベンチに座った。しばらくスマホで時間を潰してから立ち上がり、バラ園の西の歩道を抜けて谷津干潟の周回歩道に出た。渡り鳥の姿は見えなかったが、さまざまな水鳥が浅瀬や杭の上で羽を休めている。干潟のはるか向こう岸には大規模なマンション群が立ち並び、高速道路が見える。でも騒音は遠い。ここは鳥たちにとってはシベリアや、北海道の湿地帯、東北の湖沼と同じオアシスなのだ。
僕にとってオアシスとはどこだろう? それは「我が家」かな、と思っていたが、そうではなさそうだと分かった。あれは多恵子の我が家であって、僕の物ではないようだ。「我が家」の方から見ると僕は毎朝出て行って夕方帰って来るべき住人に過ぎないのだ。もう少し財産があればどこか温泉がある地域に別荘でも買えるのだが……。そうだ、安曇野が良い。安曇野に行けば中古の別荘が一千万円以下で買えると聞いたことがある。でも、今一千万円を使うと言い出したら多恵子が怒り出すに違いない。
何だか虚しい気持ちになった。再雇用制度に応募して、給料が半分になっても六十五歳まで働けば、多恵子からあんな風に邪険にされることはなかったのに……。いや、六十五になって退職したら、やはり今朝と同じようなことを言われるに違いない。その時には年が寄っている分だけ益々虚しく感じるだろう。
昨夜の後藤田美咲との会話が頭に浮かんだ。美咲は三十二歳の時に僕が結婚していなければプロポーズするつもりだったと言っていた。更に、もし今でも独身だったら奥さんにしたいという意味の発言をしていた。「奥さんになる」ことについては明確なイメージが湧かないが、多恵子に邪魔者扱いされるぐらいなら、美咲の奥さんになった方がマシかもしれない。今は僕が台所に入ることさえ毛嫌いされている。美咲の家で奥さんになったら台所が僕の仕事場になるわけだから、その点は問題なくなる。でも、僕が初恋の人と結婚する為に多恵子と離婚をするというのは社会的に容認され難いことだ。老後のために蓄えてきた資産は半分以上多恵子に取られるだろう。一文無しでなくても、行き場を失った貧乏な老人が、エリート女性の支配下に入ることになるというのも惨めな話だ。
あれこれ考えながら谷津干潟を二周すると肌寒くなってきて、干潟の向こう岸のマンション群が夕日を背に輝き始めた。
「まあ、しばらく我慢してみよう。多恵子だって、長年の日常が急に変化したから神経質になっているんだ。慣れてくれば風当たりも和らぐだろう。これから二~三週間は毎朝家を出て公園か図書館にでも行くさ」
そんな独り言を頭の中で唱えながら一時間の道を歩いて帰った。
後二~三週間すれば多恵子は実家に帰って、それから十日ほどは僕一人の「我が家」になる。いや、それよりも、二十六日に佐久に行ったら帰る時には僕は二十歳の若者になっているかもしれないのだ。多恵子が僕を見て、年齢差があっても一緒に暮らしたいといえばそうするし、そんな若い男は相手に出来ないと言われたら、離婚して二十歳になった美咲と二人で人生をやり直せば良い。何だか本当にそうなりそうな気がしてきた。
「よし、あと二週間の辛抱だ」
僕は玄関の前でそう声に出し、深呼吸をしてから家に入った。
***
それから二十五日までの三週間、僕は毎朝七時半に家を出て、徒歩三十分の距離にある図書館まで歩き、その横の小さな公園でスマホをしながら図書館の開館を待って図書館に入った。午後五時に閉館すると、再び横の公園で六時過ぎまでスマホをしたり、近くの駅まで歩いてブラブラして六時半から七時の間に帰宅した。雨の日には図書館の外での待ち時間がわびしかったが、取り立てて言うほどの苦労だとは思わなかった。
多恵子の機嫌は段々良くなってきて、二十五日の夜には「十日間も一人にするけどごめんね」と言って新宿のバスターミナルに向かった。
「やった、これで自由の身だ!」
僕は旅行用の衣服とスニーカーをスポーツバッグに詰めこみ、トレッキングシューズを玄関に置いた。
秘湯に浸かって目覚めたら湯面に映る自分の顔が二十歳の美しい若者になっているというシーンをベッドの上で想像した。そして、僕の横には広瀬すずに似た切れ長の目をした二十歳の美女が座っている。待てよ、身長はこのままなのだろうか。美咲は高校時代に百七十三センチになったはずだから、二十歳に若返っても百七十三センチのままだろう。その横に僕がちょこんと立つのでは様にならないなあ、と思った。まあいいや。どうにかなるさ、と楽観的な気持ちになると、ふっと睡魔に襲われた。
***
三月二十六日の土曜日の朝、僕は七時過ぎに家を出た。総武線の電車の中で三鷹駅の到着時刻を調べて、美咲にLINEで知らせた。遠足に行くようなウキウキした気持ちと、多恵子へのある種の裏切りについての良心の呵責が入り混じった気持ちだった。もっとも、美咲とエッチなことをするつもりは無いので正確に言うと浮気ではないのだが、夫婦生活に重大な変化を招く「若返り」を求めて初恋の人と冒険旅行に行くのだから、良心の呵責の念を抱くのは自然なことだと言える。
御茶ノ水駅で乗り換えた青梅行きの快速電車が三鷹駅に到着した。北口を出て待ち合わせの位置に行くと、白のレクサスの窓が空いて「真理夫!」と呼ぶ声が聞こえた。美咲だった。僕は助手席のドアを開けてレクサスに乗り込んだ。
「さすが、元役員だけあって良い車に乗ってるんだね」
「元役員と言われるのは嫌なのよ。今の仕事の方が劣ると思われているみたいだから。私自身は上場企業の役員からNPOの理事にステップアップしたつもりなのよ」
「ごめんなさい。そんなことに気づかなくて。でも僕にとっては、自分とは別次元の偉い人だから、どちらにしても違いは無いよ。後藤田さんのことは心から尊敬しているもの」
「あらあら、同窓会が始まるまでは可愛い初恋の女の子だったのが、いきなり尊敬する偉い人に昇格したのね」
「えへへへ」
「同窓会の前の金曜日が最終出社日だったのよね? 毎朝ゆっくり寝られるようになって良いわね」
「それがそうでもないんだ」
僕は多恵子から思わぬ反発を受けて毎朝図書館に行くことになった事情を詳しく説明した。美咲は時々「アハハハ」と楽しそうに笑いながら聞いていた。
「奥さんの気持ちは痛いほどわかるわ。要するに真理夫の自宅は奥さんのお城なのよ。給料を運んで来なくなっても、今まで何十年間働いて家族を支えたという功績がある真理夫に対する敬意がまだ少しは残っているから、仕方なくご飯も食べさせてくれているけど、今後時間が経つにつれて昔の御威光は消えて行くわよ。真理夫が奥さんにとって粗大ごみになるのは時間の問題というところかな」
「僕の女房はそんなに冷たい人じゃないよ。それにしても酷い言い方だなあ。まるで離婚をそそのかしているみたいだ」
「うふふ、図星よ。奥さんにゴミ扱いされる前に別れなさい」
「離婚したら老後資金を半分取られちゃうよ」
「全部奥さんに差し出せば喜んで離婚してくれるわよ。着の身着のままで私が貰い受けてあげる」
美咲は左手を伸ばして僕の太ももの上に置いた。右足のつま先まで鳥肌が立つのを感じた。冗談っぽく言っているけれど美咲は本気なのだと思った。僕は何もコメントせずに黙って俯いていた。
「どうして私にメールで相談しなかったの? 毎朝出かけて夕方に帰宅したいんだったら、私のNPOで使ってあげるわよ。給料は僅かだけど交通費も出すわよ」
「本当? そうしてくれると助かるなあ。勤務時間とかはどうなってるの?」
「九時から五時半よ。アシスタントは時間給で、定時にきっちりと帰れるわ」
「アシスタントなの?」
「女性の社会的地位の向上が目的のNPOだから、男性は補助業務にしか使わないというのが暗黙のルールなのよ。真理夫は女性の上司にお茶を入れたりコピーを取ることに抵抗を感じるの?」
「経験は無いけど多分気にならないと思うよ」
「じゃあ、明後日の月曜日の朝一番で私のオフィスに来なさい。これで労働契約成立よ」
「ありがとう。でも本当に雇ってもらっていいのかなあ……」
美咲が僕の上司になることについては全く抵抗がなかった。こんなことなら、多恵子から文句を言われた日に美咲に相談すればよかった。僕は幸せな気持ちで助手席でくつろいだ。
「そうそう、ひとつ言い忘れていたわ。社内規定は遵守する事」
「そりゃあ社内規定を遵守するのは当然だよ。何か特別な規定でもあるの?」
「アシスタントは全員制服着用という規定があるのよ。だから真理夫もピンクのスカート・スーツを着てもらうことになるわ。セクシュアル・マイノリティーの保護というNPOの方針もあるから、誰も不自然だとは思わないわよ」
「ま、ま、待って。スカートをはくなんて嫌だよ。絶対にダメ」
「今更そんなことを言っても遅いわよ。さっき労働契約が成立したんだから」
「そんな! 許してよ、お願いだよ」
「許さないわ。月曜日からはスカートよ。真理夫が私の部下になったというニュースを月曜日にツー・ショット付きで同窓会に流そうかな。楽しみだわ」
「後藤田さんがそんなにひどい人だったなんて……」
目から涙が溢れてきた。とにかく今日明日と二日がかりで美咲を説得して許してもらわなければならない。
「ウッソぴょーん!」
「えーっ、冗談だったの? ひどいよ、後藤田さんったら」
「ちょっと冗談を言っただけなのに真理夫が本気にしたから、私も引けなくなったのよ。うちのNPOに制服はないから心配せずに来なさい」
「良かった……」
美咲と話しするのは楽しかったが、ドキドキの連続だった。中学時代の美咲はウィットには富んでいても僕をからかったりすることは無かった。今の美咲はサディスティックな冗談を言っては僕の反応を楽しむようなところがある。
あっという間に時間が過ぎてレクサスは佐久インターを下りた。国道百四十二号線沿いの信州そばの店で昼食を取り、鹿曲川沿いに蓼科山の方向に進んだ。春日温泉に到着したのは十二時半だった。
「行くわよ」
美咲は小さなリュックを背負って車を出た。温泉施設の左端を越えた所にある木々の間を抜けて林に入る。
「ほら、今はここだから、林の中を鹿曲川に向かって真東に進むのよ」
美咲がスマホの地図を指で拡大して示した。地図では大まかな場所しか分からないが、僕たちが鹿曲川の手前の地点にいることは分かった。ブナの林の中を進み、灌木に突き当たると隙間を探して分け入った。美咲は顔に枝が当たってもものともせずに進み、僕は美咲の後ろについて行った。鹿曲川を右に見下ろしながら五分ほど進むと松林と深い灌木の壁に阻まれてそれ以上進めなくなった。右側の松林を越えると鹿曲川を見下ろす断崖になっているようだ。正面の深い灌木の向こうには岩壁が立ちはだかっている。
「おかしいなあ、地図だとこの辺りのはずなんだけど」
美咲はもう一度前後左右の林をチェックした後で
「こりゃダメだわ」
とため息をついた。
「やっぱりその情報はガセだったのかなあ」
と僕が言うと
「バカ、そんなに簡単に諦めていたら何もできないわよ」
と上司が部下を叱りつけるように言われた。月曜日からは美咲にこんな風に叱られるのかなと思いながら
「すみません」
と一応謝っておいた。
「車に戻ってドローンで調べるわよ」
僕たちは来た道が分かるようにピンクのリボンを枝に結んでマークしながら温泉施設の横の林に辿り着いた。レクサスに戻ると美咲は段ボール箱の中からドローンとコントローラーを取り出した。美咲はコントローラーに自分のスマホをセットしながら言った。
「六軸ジャイロのドローンよ。鹿曲川の河原に下りて、さっき辿り着いた場所の近くまで行ってドローンを飛ばしましょう」
美咲はドローンを大事そうに抱きかかえて少年のように目を輝かせ、僕にドローンのコントローラーを持たせて鹿曲川の河原への降り口を探した。僕たちは冒険にワクワクしていた。中学時代に戻ったような気持ちだった。タイトフィットのスラリと足が長いジーンズ姿の美咲は、ガキ大将のように生き生きしていた。浅瀬でトレッキングシューズの中まで濡らして、やっと先ほどの林の中の地点に近い崖の真下辺りの場所に到達した。
「ここからだと秘湯があるはずの地点との距離は高低差を考えても七十~八十メートルになるはずだわ」
美咲はドローンのスイッチを入れ、リモコンを操作してドローンを浮上させた。ドローンは魔法のように舞い上がって松林を見下ろす位置にまで上昇した。
「真理夫、モニターをご覧。さっきの地点の横の松林がこれよ」
僕は美咲に身を寄せて立ちモニターを覗きこんだ。美咲はリモコンを器用に操作してドローンを前後左右に動かした。
「さっきの灌木の向こうの岩壁がこれね。岩壁の向こう側は高い木で覆われていて、その先が断崖になっている。ほら、あそこの断崖よ」
美咲は口でその断崖の方向を僕に示した。ここから見ると鹿曲川の左側に切り立った崖が聳えていて、その上に高い樹木が林立した地域があり、その向こう側には更に崖が切り立っている。崖の高さと樹木の高さが同じだから、ここからは黒い断崖の塊のように見える。
「あっ、見て。崖の横の高い樹木のエリアの真ん中に小さな隙間があるわ」
モニターを見るとそのエリアは一見濃い緑の枝で覆われているようだったが、中央部分がまばらになっているようだ。
「あれっ、後藤田さん、まばらな枝の間に池のようなものがチラッと見えたような気がしたよ」
「私には見えなかったけど」
美咲はドローンの高度を樹木の梢のすぐ上の辺りまで下げた。
「これ以上高度を下げると木にぶつかるわ」
しばらくドローンの位置をゆっくりと変えながらモニターを注視していた美咲が叫び声を上げた。
「あった! 真理夫の言う通りよ。水面が見えたわ。あれが秘湯なのかもしれない!」
美咲は樹木の隙間にドローンを降下させようとした。
「真理夫、見てなさい。ここからは高等テクニックなんだから」
僕は必死でモニターに目を凝らした。枝の間をすりぬけて水面が見えた。枝を抜けると空間が広がった。木々と岩壁に囲まれた泉だ。それが温泉なのかただの池なのかは分からない。その時、画面が急に乱れて画像が消えた。
「私のドローンが墜落しちゃったみたい。十二万円もしたのに……」
美咲は中学生のように悔しがった。
「でも目的の秘湯は見つけたわ。やったわね。真理夫のお手柄よ」
美咲は左手を僕の肩に回した。僕が見上げた美咲の横顔はそれまで以上に頼もしい感じがした。
「問題はあの崖の向こう側にどうやって行くかよ。灌木を倒しながら分け入って、崖を登れる場所がないか探してみましょう。もし無ければ松林からアプローチするしかないけど、崖から落ちそうだから命がけね。とにかく車に戻ってからもう一度さっきの場所に行きましょう」
僕たちは車に戻った。美咲は軍手をして手ノコをリュックに入れて林へと出発した。僕は美咲の後をドキドキしながら追った。ピンクのリボンでマークしておいたお陰で、先ほどの場所に戻るのは簡単だった。僕たちは灌木の中を分け入るのに、楽そうな場所を探した。しばらく探した結果、僕は一見灌木が高く深く見える場所の間に踏み込めそうな場所があるのに気づいて、美咲に報告した。
「真理夫、でかしたわ」
美咲は軍手で灌木を左右に分けながら突入し、僕は美咲の後に続いた。
「ここよ、ここだわ」
途中から灌木の間に細い道が現れて岩壁が草で覆われた部分に突き当たった。美咲が草を押しのけると、そこに洞窟の入り口があった。
「やったわ!」
美咲は僕の手を引っ張ってトンネルに入って行った。
洞窟を抜けると、ぱっと広い空間が開けた。
この世のものとは思えない光景だった。一方を高い岩の壁に、それ以外の周囲を密に茂った高い木々に囲まれたその一角は大きな天然の岩風呂になっていた。日は当たらず外界とは完全に遮断された別世界だ。十二メートル x 十メートルほどの楕円形の泉だ。猿と鹿が向こう岸に浸かっていた。洞窟に近い側にはイノシシとリスが浸かっていて、湯だまりには鳥が数羽湯あみをしていた。動物たちは眠っているかのように静かでお互いの存在を気に留めていない。
「後藤田さん、僕たち、ここで若返るんだね」
僕はジャージーを脱ごうとチャックを開けた。美咲がもうすぐ僕の目の前で裸になるのだと思うと、股間が急に硬くなってきた。
「まだよ、真理夫」
美咲が僕を制した。
「この秘湯に入るだけでは若返らないのよ。ほら、動物たちも特に若返った感じはないでしょう? あそこの春日温泉の露天風呂に入ってから、この秘湯に一晩浸かるというのが『ザ・シークレット』らしいのよ。だから、私たちはこれからチェックインして、腹ごしらえしてから露天風呂に入りましょう。私がNPOで会った女性によると露天風呂から直接林に入って行けるらしいわ。林から露天風呂に行くルートを、今から探しましょう」
「うん、わかった」
僕たちは洞窟を戻って灌木に分け入り、さきほどの一見行きどまりに見えたエリアに到達した。そこから林の中を戻って、道路に出ずにしばらく進むと、温泉の匂いとかすかな暖気が樹木の間から流れてきた。鹿曲川と反対方向に林を進むと露天風呂の裏に出た。右手に見える露天風呂には老人が二人お湯に浸かっていた。それから垣根を経て左に行ったところに女風呂があるようだった。もし僕が女風呂を覗きに行けば軽犯罪法違反に問われるので美咲だけがマーキング用のリボンを持って林を分け入り、しばらくすると戻って来た。
それから僕たちは先ほどの林の入り口を出て車に戻った。
「じゃあ、チェックインしようか」
美咲と二人で同じホテルに泊まるのだと思うと鼓動が高まった。いや、勿論別々のシングルルームに泊まるんだ。そうしなければ、これは露骨な浮気旅行になってしまう。
フロントに行くと別の客がチェックインしているところだった。二、三分ほどして僕たちの番になった。
カウンターに立っているピンクのツーピースの制服を着た若い女性が僕たちに聞いた。
「ご予約でしょうか?」
「いいえ、空室はありますか?」
「はい、お取りできます」
「じゃあ、ダブルベッドの洋室をお願いします」
美咲の言葉を聞いて、僕は心臓が止まりそうになった。おまけにツインではなくダブルを頼むなんて……。
「お名前とご住所をお願いします」
とフロントの女性に言われて、宿泊者欄に後藤田美咲と記入し、二行目には後藤田真理夫と書いた。夫婦を装って温泉に泊まろうとしている……。
「ご主人さまの年齢欄をご記入いただけますか?」
美咲は自分の名前の横の年齢の欄に六十と記入した。
「あのう、ご主人さまの年齢欄も……」
「私が主人なんだけど」
美咲は意地悪そうな目でニヤッとして僕を見下ろしながらフロントの若い女性に答えた。
「失礼いたしました。それでは奥様の年齢欄もご記入いただけますでしょうか」
フロントの女性が僕に笑顔を向けた後で美咲に言った。僕は奥様と言われた恥ずかしさで耳まで真っ赤になった。美咲はおもむろに僕の名前の横に六十と記入した。
鍵をもらってエレベーターに行き、三階にある部屋に行った。
「後藤田さん、ホテルの人に僕を奥さんだと言うなんてひどいよ。恥ずかしくて死ぬかと思った」
「結婚したら当然私が主人だから、真理夫のことはどこに行っても私の奥さんとして紹介することになるわよ。今のうちから慣れておいた方がいいわ」
美咲は真顔だった。もし三十二歳の時に美咲と結婚していたら、そんな感じの人生になっていたのだ。美咲の口車に乗って多恵子と離婚して美咲と再婚したら、人前で奥さん扱いされる毎日になる。多恵子に冷たく扱われるのとどちらがマシなのか分からなくなってきた。
「同窓会で会った時からずっと真理夫は私の事を後藤田さんと呼んで、私は真理夫のことを呼び捨てにしてるでしょう? 私たち二人の関係は初めからそういうことなのよ。身長だってこんなに違うんだから」
美咲の言っていることは全てが事実だった。僕は急に自分がちっぽけな存在に思えて、反論の言葉が見つからなかった。美咲は僕の前に近接して立ち両手で僕の後頭部を掴んで額にキスした。僕の顎はがくがくと震えた。
時計はまだ三時を回ったばかりだ。美咲が秘湯には今夜から明日の朝まで浸かることになると言っていた。この温泉の露天風呂から奥の林を通って秘湯に行くのだから、日のあるうちに行く方が無難だ。これから、どこかのコンビニにお弁当かおにぎりでも買いに行ってから露天風呂に入り、そのまま林の奥に入って行くのが良いのではないだろうか。
「あのう、後藤田さん、車でお弁当を買いに行って、明るいうちに露天風呂に入るという予定なの?」
聡明な美咲のことだから行動計画は立てているはずだ。僕は美咲に差し出がましいことを言いたくなかったのでそれとなく意向を聞いてみた。
「真理夫は心配しなくてもいいのよ。計画はここに入っているから」
美咲が自分の頭を指さして言った。
「うん、僕は後藤田さんの言う通りにするだけだけど」
質問しなければよかったと思いながら言った。
「計画を聞きたい?」
「できれば教えて欲しいけど、後藤田さんが言いたくないのならそれでもいいよ」
「じゃあ教えてあげる。七時からレストランで夕食を食べることにする。しばらく部屋で休んで、午後十一時を回ってから露天風呂に行くのよ。人が沢山いる状況だと露天風呂から奥の林に入って行くのは難しいから。露天風呂に行く時にはこのビニール袋にスニーカーと着替えを入れて行くのよ。林の中を裸で行くのは虫に差されたり肌を枝で引っかいたりするから避けたいわよね。登山用のヘッドランプを二個持ってきたから夜道でも大丈夫よ」
「さすが後藤田さんだ。完璧なプランだね」
「そうよ。真理夫は何も考えずに私の後についてくるだけでいいのよ」
「うん、そうする」
「夕ご飯までには四時間半もあるわね。それまで良いことをするわよ。こちらに来なさい」
美咲は僕をベッドまで引っ張って行った。
「裸になりなさい。私の方を向いてゆっくりと脱ぐのよ」
「待って、後藤田さん。僕、結婚してるから……」
そんな言葉は何の役にも立たなかった。僕は今朝家を出た時からこうなる可能性を予測していたはずだった。美咲がそうするつもりだということも、同窓会での会話を思い出せば分かっていたはずだ。そうだ。僕は浮気を覚悟で長野旅行に来たのだ……。
後ろめたい気持ちで美咲とキスした。美咲にキスされたと言う方が正確だった。僕は妻を裏切り、美咲に身を任せたのだった。それは多恵子との交わりとは全く違っていた。僕は美咲が演奏する楽器にされてしまって、美咲に奏でられるまま息絶えだえになった。
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