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玄関先のキスは百年前のロンドンで

タイムスリップしたら女になっていたワクチン研究者の奮戦記

原作:Samantha Warren, 1918

A Time-Travel Novel

by Yulia Yu. Sakurazawa

第1章 ミラ・メサ――別の場所を欲するようになる

私は24歳だった。人生のほとんどのあいだ「未来」というものは、高速道路の出口をひとつ正しく選びさえすれば辿り着ける場所のように思えていた。

私はサンディエゴのミラ・メサで育った。光が人工的に調整されているように感じられる、街の明るい楔形の一角だ。澄んでいて頼もしい。疑うことが難しい。近所は小さく、ほどよく囲われていて、人が「いい地域だね」と言うときに意味している種類の「きれいさ」がある。けれど同時に、ここは透けてもいる。食料品の棚のあいだや学校の食堂や駐車場の空気を通って、文化が互いの内側へ滲み出してくる。言葉が空気に乗って移っていく、その移り方で。

ミラ・メサにはインド系の人が多い。「インド系」という言い方が特別なラベルにならない程度に多い。ひとつの“属性”というより、土地の気候のようなものだ。

子どもの頃の私は、平均的な白人カリフォルニア少年なら本来そうするはずもない頻度でヒンドゥー寺院へ行っていた。誰かに引っ張られたわけではない。そこが肝心だ。私は自分から行った。色が欲しかったのだ。色が「なくても平気」なものとして扱われている土地で、色そのものになりたかった。香の匂いと鈴の音と詠唱の響きが、アメリカの学校で私が訓練されている種類の「確かさ」より、ずっと古い種類の確かさに思えたからでもある。アメリカの学校で確かさとは、紙の上で証明して、成績が出たらすぐ忘れるものだ。

寺院の中の空気は甘さと煙で濃い。像は独特の光り方をしている。磨かれた金属の光ではない。むしろ「注目」が磨き上げた光だ。幾千という視線が通り過ぎて、表面が艶を帯びたような。私は祈りの言葉を理解していない。正確には理解していない。けれど信仰の構造ならわかる。そこで私は初めて、仮説が「何が真実か」ではなく「人間は何に耐え、それでも意味と呼び続けられるのか」になっている“実験室”に足を踏み入れた。

サンディエゴにはハイテク企業が多い。私の知るインド系の人々の多くは、両親が「いい仕事」と呼ぶ仕事に就いていた。技師、ソフトウェア関係、科学者。私は検証もせずに、インドの人は知的で創造的だという信念を育てていた。大陸ひとつを、才能ある子どもにかける褒め言葉程度に縮めてしまうようなものだ。お世辞でもあり、怠慢でもある。けれどそれは私に貼りつき、そのまま好奇心のエンジンのひとつになった。私の想像の中のインドは、真面目な頭脳が公の場で生きている場所だった。

UCサンディエゴで分子生物学の修士課程を終える頃、私は「こうなりたい人生」の入口に立ち「別の何かになりたい自分」もそこに立っていた。UCSDは効率がいい。資金と機器と、疲労を勲章のように身につけながら顔には出さない人間たちの、清潔な唸り声がある。私はそこをやり過ごした。むしろ長距離走を楽しむのに似た仕方で楽しんでもいた。痛みを進歩の証拠だと決めてしまえば、走ることは快い。

そして卒業すると、質問が届く。鈍くて重い。頼んでもいない荷物みたいに。このまま進むのか。博士課程に入って長いトンネルに身を預けるのか。20代を論文と蛍光灯の夜で測る種類の人間になるのか。それとも「新しいこと」をするのか。「新しい」という言葉は自由の音がする。だが定義しろと言われた途端、息が詰まる。

私がまだ世界を二項対立で考えていたとき、マリア叔母が何気なく私の年表を組み替えた。

マリアは母のずっと年下の妹だ。私が高校生の頃、彼女はしょっちゅう家に来ていた。遊びに来て物を借りて、母が白目をむくような冗談を言う。叔母というより、少し年上の姉に近い。助言する権利も、無視される権利も持っている姉。あの頃の彼女は、言葉どおりあらゆる意味で「活動的なアメリカ人女性」だった。大きな笑い声。速い意見。扉は自分のために開くと信じているような動き。

その後、彼女もUCSDに進み、インド人の博士課程学生と出会って結婚し――6年ほど前にムンバイへ移り住んだ。いま彼女が電話をかけてくると、背後の音が違う。いつも声の向こうに生活がある。扇風機、クラクション、横で誰かがヒンディー語を話す声。彼女はムンバイを親密に知っている。頭だけではなく身体ごと覚え込まなければならない種類の場所として。

ある日、彼女は半分冗談みたいに言った。「ねえ、博士課程をムンバイでやったら? ムンバイ大学よ。ちょっとは“生きてみなさい”」

もし彼女が厳粛な顔で言っていたら、私は動かなかったかもしれない。真面目な提案は、真面目な理由で断っていいものだから。けれど冗談は抜け道になる。防御の下を滑り込む。脳の中に落ちて、計画ではなく像として居座る。カリフォルニアを出る私。どこか別の場所にいる私。概念としてしか知らない都市の真ん中にいる私。

最初は娯楽のように扱った。やがて少しずつ計算を始めた。

私がインドで学ぶつもりだと友人たちに言うと、彼らは私がサーカス団に入ると言ったみたいな反応をした。「インド?」「コロナがあるのに?」彼らの反対は残酷ではない。アメリカ人がよく持つ種類の実用性だ。実用性が、ときどき表計算の形をした恐怖にすり替わるあの感じ。

ここで私の科学者訓練が、私を手に負えない人間にする。

私は彼らに「1人あたりの数字を見ろ」と言った。インドの人口は確かに多いが、人口比で見れば感染者数は米国より低い。当時、米国は1日に10万人を超える新規感染を記録しているのに、インドは人口が4倍あるにもかかわらず1万人を下回っている。私はそれで議論が終わるはずだという顔で言った。人間が比率で説得される生き物であるかのように。

友人たちは笑って、私が本気なのか、ひどい冗談なのかと訊いてきた。笑いは、群れに引き戻すための社交ツールだ。そうしようとする彼らを責める気にはならない。けれど私も気にしなかった。

私は大げさに聞こえるから公言しない真実がいくつかある。ひとつ、映画みたいな意味で私は勇敢ではない。危険それ自体を欲しがるタイプではない。ふたつ、私は変わりたい。どこかから戻ってきたとき、内側の化学が変質していたい。物質が適温で適切な時間だけ加熱されたときに性質を変える、その変わり方で。みっつ、私が欲しがるべきだとされている人生――まっすぐな上り坂、整った履歴書――は、ゆっくりした窒息なのではないかと、ずっと疑っていた。

少なくともムンバイは「清潔」だとは言えない。

2022年9月、私は到着して学生寮に落ち着いた。都市はその押しの強さで私を殴った。通りはサンディエゴの通りとは違う忙しさをしている。サンディエゴは車と個人の空間のために作られている。ムンバイは身体のために作られているように見えた。見知らぬ他人も含めて、あらゆるものが思ったより近い。ここは「あなたが中心だ」と装ってくれる街ではない。

それなのに、私は不意にムンバイに恋をした。

新奇さだけではない。文化が鮮烈で、騒がしく、層を成したまま恥じない。街がいろいろなことを生き延び、それでも進み続けてきた感じがする。楽観的だからではなく、止まるという選択肢がないからだ。食べ物もある。私は辛さに本気で惚れた。辛さは口の中に「いま」を強制する。寮の食堂で私はインド式の朝食と夕食を食べ、それが日々の楽しみになった。苦役ではなく。金属のトレーに何が載るかで1週間を測り始めた。豆と米と野菜とパンの組み合わせ、その微妙な違いで。食事は素朴だが、生きている。

マリアは街の北部ポワイに住んでいる。寮から行くには混んだ電車に乗って1時間以上かかる。私はすぐに学ぶ。「混んでいる」の意味がアメリカとは違う。腕を上げても誰にも触れないような混雑ではない。外国人にとって満員電車は快適ではない。ときにはまったく行く気になれない。私は自分だけの言い訳の尺度を育てた。仕事、疲労、天気、駅の行列。真実はもっと単純だ。私はあの種の接触に慣れていない。他人の生活に押し込まれることに慣れていない。

けれどマリアには小さな娘が2人いる。5歳と3歳で、可愛らしい。自分が責任を負わなくていい子どもが可愛い、その可愛らしさで。マリアは私をディワリに招いた。10月の終わり頃に5日間続く祭りだ。私は娘たちと祝うのを楽しみにしているのだと自分に言い聞かせた。それは本当だ。だが同時に、マリアが“自分の場所”で生きている姿を見たかった。私が知っていると思っていた人が、私の知らない誰かになっているのを。

10月の初め、雨季が終わる。空気が乾く。日中はまだ明るく、太陽は高くて容赦がないが、朝夕は涼しくなり、ときにはセーターが必要になる。大学の友人たちは、この季節が1年でいちばんいいと言った。天気のことを、人が自分のアイデンティティみたいに言うときの確信で。

マリアの普段着は、ほとんどの場合パンジャビ・ドレスだった。多くのインド人女性が日常的に着るものだ。特別な行事になると、彼女はサリーを着る。初めてサリー姿の彼女を見たとき、私の中で何かが脈打つように持ち上がった。反応があまりに即座で、私はそれが嫌だった。

「エキゾチック」という言葉は怠惰だ。植民地主義の言葉だ。欲望を認めずに感謝しているふりをしたい男が使う言葉だ。けれど私は感じないふりをできない。私にとってサリーは、エキゾチックで、セクシーに見えた。

布だけではない。変身なのだ。

サリーはマリアを洗練させ、優雅に見せた。彼女が自分の古い版に足を踏み入れたように。より落ち着き、より慎重で、読み取りにくい版に。私は本当に胸が跳ねた。馬鹿げている。彼女は叔母なのに。けれど生物学は家系図に配慮しない。光と動きに反応する。布が巻きつき落ちていく、その落ち方に反応する。形を見せずに形を示唆する、その示唆に。

私は自分に言い聞かせた。文化を見ているのだ、と。伝統を称賛しているのだ、と。完全な嘘ではない。だが同時に私は「アメリカの叔母」だと思っていた女が、自分の内側で分類不能な何かに変わっていくのを見ていた。分類しようとすれば、自分を裏切ることになる何かに。

彼女は母の妹だが、私が10代の頃は、いつも家に来ていた。ほとんど年上の姉のように。あの頃の彼女は元気で気楽で、南カリフォルニアによくいる普通の女だった。インド人の男と結婚してから、彼女は突然、穏やかになり、控えめになった。どこか「淑女」めいてさえ見える。私はそれが胡散臭かった。彼女が以前どんなふうに喋っていたかを知っているからだ。変化があまりに鮮やかで、私はときどき、巧妙ななりすましを見ている気分になる。マリアがマリアを演じている。ただし別の観客のために。

いま目の前にいるサリーのマリアは、かつて私たちのソファに座って私の髪をからかい、台所からおやつを盗んでいた女とは同じに見えない。サリーの女は、私が訪問者としてしか入れない世界の住人に見えた。

私は思った。静かに、ひそかに。これこそが、私が追いかけてきたものだ、と。

国としてのインドではない。都市としてのムンバイでさえない。自分のいつもの自分が自動的に馴染まない場所へ足を踏み入れる感覚。アイデンティティを交渉し直さなければならない感覚。過去と未来が抽象ではなくなる場所。私にはまだよくわからない規則のもとで、人々が長い時間を生きてきた場所。

私はまだ知らなかった。自分が望んだものを、ほどなくして正確に与えられることを。


【訳注】

  • ディワリ:インドで広く祝われる「光の祭り」。晩秋に数日間続く。
  • パンジャビ・ドレス:北インドなどで一般的な女性の服装(サルワール・カミーズ等を含む系統の呼称として用いられることがある)。
  • サリー:一枚布を身体に巻き付けて着用する伝統衣装。

第2章 天井の虫

ムンバイでの生活も、6か月目に入っていた。そろそろ「ふつう」になっていくはずだった。

この街でのふつうは、いつも動いている。静けさではない。慣れだ。クラクションに肩をすくめなくなる。どの料理が本気で腹を罰し、どれが脅すだけかを覚える。汗と自分だけの関係を結ぶ。恥ではなく、生理現象として。ほかの生理現象と同じように管理するだけのものとして。

3月6日(月)、私は食堂で夕食を終え、1時間前に出てきたのと同じ世界へ戻るような顔をして自室へ歩いた。廊下は洗剤と古い油と、かすかなカビの匂いがした。天井のファンがぬるい空気を押し回している。終わる気のない口論みたいに。

ベッドへ倒れこみ、仰向けになって天井を見た。頭の中は、ここ数か月ずっと同じだ。隙を与えると、戦争へ走る。

ウクライナ。スマホの画面に映る都市。難民になり、数字になり、コメント欄の論争になる人々。私は地政学を趣味にするタイプの男じゃない。だが映像は、しつこく残る。自分の家が「場所」になって、他人がコーヒーを飲みながら語り合う対象になる感覚を想像する。自分の生活が見出しへ翻訳される感覚を。

胸が詰まる。でも、その扱い方がわからない。だから訓練どおりにする。解けるものを考える。機構のあるものを。

眠りに落ちたのだと思う。次に気づいたとき、尿意が切実で、アラームみたいに私を睡眠から引きはがした。暗闇に瞬きし、時計を睨む。針は午後11時を指していた。

私は、眠ると決めないまま眠っていた。

浴室へよろけて行き、シャワーをひねり、冷たくなりきらない水の下に立った。爽快にはならない程度にぬるい。汗を流しているのに、同時に汗をかいている。宇宙が私をからかっているみたいだった。

それから薄い綿の半袖パジャマの上と短パンを引っかけた。着られる救済にいちばん近いものだ。ベッドへ戻る。

食堂のテレビは夕食のあいだ、夜のニュースを流していた。誰かがほとんど陽気な声で「今日のムンバイは最高39.3度」と言った。乾季だ。「乾いたサウナみたいだな」とテーブルの男が冗談を言い、みんな笑った。空気そのものが敵みたいな日には、笑うのがいちばん手っ取り早い。

いま部屋の熱は静かだが、まだそこにいる。見えない圧力のように。私はまた仰向けになり、睡眠が私を引きずり込んでくれるのを待った。

そのとき見えた。

小さな虫が、天井をゆっくりと確信ありげに這っている。ドラマチックな怪物じゃない。人が「インド」と聞いて映画みたいに想像する怪異でもない。ただ小さく、褐色がかって、意志がある。生きている。

私はそれを、カウントダウンみたいに見つめた。

頭に浮かんだ映像が鮮烈すぎて、胃がひくりとした。夜、虫が落ちてきて私の顔に着地する。私は脚をばたつかせて飛び起き、頬を叩き、ぐしゃりと潰れた感触を得る。それから私は、幼児みたいに虫で絶叫する男になる。

私は自分に言い聞かせた。インドに住むなら天井の虫1匹を実存的危機みたいに扱っていられない。ついでに、頭が24歳の男であることをどうしてもやめないので、虫を怖がる若い男は女にモテない。

目を閉じ、寝ようとした。

無理だった。

虫は這い続ける。想像は肌の上へ落とし続ける。少し眠りに沈みかけるたび、脳が別の最悪な短編フィルムで私を叩き起こす。

とうとう私は、規律みたいな決断をした。殺す。危険だからではない。思考に飼われるのに疲れたからだ。

裸足で温い床タイルを踏み、天井へ届く長さのものを探した。使えそうなものは見当たらない。だが思い出す。浴室にモップがある。柄が長い。ちょうどいい。

浴室へ行き、ドアに手をかけ、開けながら反射的にスイッチへ指を伸ばした。

止まった。

そこに「気配」がある。空気が違う。証拠を見る前に、部屋に入って「ひとりじゃない」と悟るときの感覚。皮膚が粟立ち、手が冷えた。

浴室に誰かがいる。

暗くてはっきり見えない。それでも形は見える。シャワーのスペースに人が立っている。私が気づくのを待っていたみたいに、動かない。心臓が暴れて、相手にも聞こえる気がした。

「おい――誰だよ!」私は叫び、覚えのない防御の姿勢に身体が跳ねた。拳が半分握られ、肩が上がる。武器がないことに気づく。何も持っていない。私は、憤りだけで侵入者と戦おうとしている馬鹿だ。

「どうか、お待ちください」影が言った。列に並んでいるみたいに落ち着いた声で。「あなたに危害を加えるつもりはありません」

「信用できるかよ」声が荒れて出た。「真夜中にうちの浴室にいる見知らぬ男が、危害は加えないって言ったってさ。安心しろって方が無理だ」

「ごもっとも」彼は言う。まるでゼミで議論しているように。「おっしゃるとおりだ」

私は唾を飲み、頭の電源を落とさないようにした。「さっきシャワーを浴びた。浴室の電気を消してベッドに戻った。部屋のドアは内側から施錠してある。浴室の窓には鉄格子がある。大人がすり抜ける幅じゃない。それにここは4階で、外壁はつるつるだ。スパイダーマンでもない限り、よじ登ってきたって線はない」

言葉が速く溢れる。脳が「ケース」を作っている。ケースなら解けるからだ。

「どうやって入った?」私は詰めた。

侵入者は動かない。刃物も光らない。飛びかかってもこない。ただ聞いている。忍耐強く、ほとんど……礼儀正しい。

私は瞬きし、彼の奇妙さに遅れて気づいた。

彼は毛織のスーツを着ている。

ムンバイで。

3月に。

古い映画で見る服だ。自分で鞄を持たない男が着ているやつ。薄暗いのに、輪郭だけで「英国紳士」が読める。構築された肩、落ち着いた姿勢、権利意識と自制の美学。暑さと場所に対してあまりに不釣り合いで、一瞬、恐怖が不信に割れる。

「度胸あるな」私は言った。震えないために。「泥棒にしては」

間があって、彼は磨き上げた英国訛りで答えた。舞台の台詞みたいに整った声で。「失礼ながら、“泥棒”という語は……私の立場の者には、あまり適切ではないかと」

「その“立場”って何だよ」私は言う。「真夜中の浴室幽霊か?」

彼は息を整えた。同僚の前で自己紹介するみたいに。

「お目にかかれて光栄です」彼は言った。「私はリチャード・スワンソン博士。ロンドン医科大学の教授であり、付属微生物学研究所の感染症部門の責任者でもあります。私は1918年ロンドンから時間旅行して、スペイン・インフルエンザの治療法を探しに来ました。ここは2021年のムンバイで間違いありませんね?」

それを、ひと息に言う。資格を持った狂気のように。

説明は不可能だ。だが代案も同じくらい不可能だ。私は施錠を思い返す。窓の鉄格子。4階。平らな外壁。普通の方法で人が私の浴室に入り、私に気づかれないなんてありえない。

それに、もうひとつ。彼の物腰だ。服だ。世界には規則があり、彼はその規則を知っているという話し方。

理性に反して、私は奇妙な既視感を覚えた。うまく話せないのに、昔から好きだった言語を耳にしたときのような。

「2021年ではありません。2023年です」私は言った。叫んでも意味がないと、脳が黙って決めたせいで声が落ちている。

彼は瞬きひとつしない。「なるほど」彼は言った。「では、ほとんど当たっていたのですね」

「ほとんど当たり、ですか」私は短く息を吐いた。笑いとは呼べない。「……どうしてムンバイなんですか」

「未来において、インドは科学技術の中心地だからです」彼は自明のこととして言う。「それに、秘密の予言が――」

「予言、ですか」

「――秘密の予言が」彼は動じない。「未来の歴史を記録した書物です。2019年に始まったウイルス性のパンデミックが、2020年に発売された画期的ワクチンによって制圧されたと書かれている。そのワクチンが世界を救った」

私は暗闇で彼を見つめた。いま私は「秘密の予言」という言い回しを真顔で使う男と会話している。

「mRNAワクチンが流行の抑制に寄与したのは事実です」私は慎重に言った。自分の幻覚と口論したくない。「ただ、その“予言”はどこに書かれていたんですか」

「『未来史』と呼ばれる巻物です」彼は言う。「機密の写本」

「未来史……なるほど」私は言った。「興味深いですね。ただ、精度は疑わしい気がします」

彼は顎をわずかに上げた。浴室破りの演説を訂正され慣れていない男の顔だ。

「まず、そのmRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンは輸入品です。アメリカ製です」私は言った。「それに、インドが科学技術の中心地――という点も、時代の見積もりがずれている可能性があります。あなたの“未来”が、100年先とは限りませんから」

彼は眉をひそめる。「書物には――」

「狙いが外れている、と申し上げています」私は遮った。科学者の脳が完全に起動してしまった。「もし時間旅行をやり直せるなら、アメリカのジョージア州アトランタにある国立の感染症研究機関へ行ったほうが確率が高いです」

「できません」彼は言った。磨きの下に苛立ちの棘がのぞく。「時間旅行には制限がある。往復できるのは1人につき1回だけだ」

物理を訊きたい。パラドックスを訊きたい。この毛織スーツでどうして汗だくにならないのかも訊きたい。だが彼は続ける。声の調子が変わる。講義ではなく、懇願になる。

「お願いします」彼は言った。「ここから何か意味のあるものを持ち帰らせてください。今おっしゃった“メッセンジャー何たら”のワクチンはありますか? 少し分けてもらえないでしょうか。ロンドンへ持ち帰れれば、多くの命を救えるかもしれない」

「仮に数本手に入れられても」私は言った。「何百回分もの確保は極めて難しい。しかもあれは-80℃以下で輸送しないといけない」

彼は私を見つめた。「-80」彼は繰り返す。人間が腕を羽ばたかせて飛べると聞いたみたいに。

「そのような凍結技術が、あなたの時代では実用されているのですか」初めて彼の声が心底の驚きを帯びた。「未来科学は壮大だ。しかし私は、凍結装置ごと時間旅行することはできない」

彼は漫画みたいな「車輪付き巨大冷凍庫」を想像しているようだ。でも話がややこしくなるので言い返さなかった。

「予言のワクチンは“メッセンジャー何たら”に限られているのですか?」彼は言った。「問題が輸送なら、1918年のロンドンで再現できる科学者を連れて帰ればいい」

「失礼ですが」私は言った。丁寧語のまま、声だけを硬くする。「そもそもワクチンが何か、理解していらっしゃいますか。免疫という概念は、そちらの時代でも確立しているのでしょうか」

「私を何だと思っている」彼も怒気を帯びる。「私は微生物学の教授だ。あなたこそ、ジェンナーが1796年に天然痘ワクチンを発明したことを知らないのではないのか」

年号を切り札みたいに言う。

私の脳はメモを取った。これは勝ち負けの議論ではない。訂正しても、ただの小便のかけ合いになる。私はまだ、彼が本物なのかどうか測りかねている。

そのとき、何かが噛み合った。

虫でも、モップでも、施錠でもない。頭の中で、ひとつの考えが、科学者が同時に信じたがり疑うあの眩しさで音を立ててはまった。

恐怖が消えるわけじゃない。形が変わる。焦点になる。

「教授」私は言った。自分の声に高揚が混じるのがわかった。「DNAワクチンはどうです?」

彼は瞬きする。「DNAとは?」

私は息を止めかけた。「そうか」低く言う。「遺伝学はまだ――」

彼の表情が固まる。傷を押したみたいに。

「私はモーガン博士のショウジョウバエ突然変異の論文を読んだことがある」彼は防衛的に言った。「たしか遺伝因子が染色体上の特定の座に存在すると提唱していた」

私は一度呼吸した。「DNAとはデオキシリボ核酸の略です」私は言う。「遺伝情報を担う分子です」

「率直に言って」彼は、告白にだけは妙な品位がある。「その略語は聞いたことがない」

私は頷いた。時間旅行がロマンである時間は短い。これは、はんだごてでスマホを作り直す作業に近い。

「今回のパンデミックでは」私は言った。「ワクチンはウイルス表面のスパイク蛋白を標的にします。私の研究は、プラスミド――環状DNA――を大腸菌に導入して、細菌にその蛋白を発現させることです」

彼の目が鋭く光る。初めて彼が「道」を見る顔になった。

「あなたはワクチン研究者なのだな」彼は興奮を隠せない。「どうりで、若くして知性のある男だと思った」

「お世辞は効きませんよ」私は反射で言った。褒め言葉を原理的に受け取れない脳だ。「それに、自分の顔が“知性的”って言われたのは生まれて初めてです」

「お世辞ではない」彼は真面目に言い張る。「あなたの澄んだ理性的な眼差しには、言い表しがたい魅力がある」

腹が立つのに、口元が引かれるのを止められなかった。信じたわけじゃない。ただ、汗だくの寮生活者ではない何かとして見られる快感を否定できない。

「つまり」彼は畳みかける。「その細菌を1918年ロンドンへ持ち帰れば、そこでワクチンを製造できると?」

「正確には違います」私は言った。「今言ったのはCOVID-19用で、スペイン風邪には効きません。でも1918年のウイルスは現代インフルエンザと構造が近いと聞きました。なら、組換え菌にインフルエンザ用の抗体を産生させる設計は可能です。持ち帰って培養し、蛋白を精製すればいい」

彼は飢えた人間みたいに聞いている。

「その組換え菌はどこで入手できるのですか?」彼が訊く。

「私の研究室にあります」私は言った。「ストックがある。COVID用の株で培養の予行演習をしたばかりなので、少し分譲できる程度には」

「それだ」彼は小さく言った。声が、畏れに近い震えを帯びる。「私が必要としていたものは。未来史は真実だった」

「待ってください」遅れて責任感が顔を出す。「培養も発現も精製も技術が要ります。教授の知性は疑っていません。でも1918年で再現するなら、少なくとも1週間は私の研究室で訓練が必要です」

「1週間」彼は繰り返し、口元を強く結んだ。「だめだ。時間を浪費している余裕はない」

私は彼を見た。「それじゃ失敗しますよ」

彼は鼻から息を吐き、苛立ちを飲み込む。そういう抑え方をする男だ。次の瞬間、彼は唐突に話題を変えた。

「失礼」彼は言った。「あなたのお名前を伺っていなかった」

「サミュエル・ウォーレン」私は言う。「サムでけっこうです」

「サム」彼は繰り返した。彼の訛りでは、その短い名前が借り物の道具みたいに聞こえる。「1918年ロンドンへ一緒に来てください」

「ムリ、ムリ」私は信じられない笑いを漏らした。「ありえません」

「あなたは唯一無二だ」彼は譲らない。「訓練なしで操作できる。研究所で予期せぬ問題が生じても、あなたなら対処できる。――神があなたに、1918年で多くの命を救う使命を与えたのです」

私は首を振った。「まず、私は南カリフォルニア育ちです。寒いのが苦手で、UCSDを選んだのもサンディエゴを出たくなかったからだし、ムンバイを選んだのも――寒さが嫌だからです。個人的言い訳ですが」

一度息を入れ、ほんとうの理由を言った。「それに、研究がいま正念場なんです。だから休みたくない」

彼は壁の時計を見る。意味があるみたいに。「今日は何日です?」

「2023年3月6日です」私は言った。「あと30分もしたら3月7日になる」

「100年過去へ時間旅行しても」彼は言う。「出発した場所と同じ時刻に戻れます。たとえロンドンに1か月滞在しても、戻るときはこの部屋の、3月6日の夜です。あなたは何事もなかったかのように3月7日の朝に研究室へ行き、研究を続けられる」

それは美しい嘘だった。だが同時に、恐ろしく論理的でもあった。

「考えてください」彼の声が甘くなる。「1か月間のロンドン。自由で、異国情緒があり、費用はすべてこちら持ち。食事つき。豪奢な観光を無料で」ほんの少し間を置き、滑らかに付け足す。「それから――英国訛りの美しい女性は、お嫌いですか?」

当然、脳がイメージを供給する。

リズ。

リズは試薬会社の営業担当だった。UCSDの研究室へ週1回来て注文を取る。てきぱきして有能で、あの英国訛りで、いちばん普通の一文まで映画の台詞みたいに聞こえる。20代後半で目を引く。彼女の声を聞くのが楽しみになっている自分に気づいたことがある。情けないくらいに。声だけで。

ムンバイにも美しい女性はたくさんいる。流暢な英語を話す人も多い。だが訛りが違う。クラスメイトが冗談で「Englishじゃなくて“Inglish”だ」と言ったことがある。英語とヒンディー語の境が溶けるように混ざる話し方に、私の耳はまだ力を抜く方法を覚えていない。

「英国訛りの女性が嫌いってわけじゃない」私は慎重に言った。「美人なら、そりゃ…」

彼は満足げだった。鍵を見つけた男の顔だ。

「私には秘書がいます」彼は言った。「名はイザベル。美しい英国女性です。滞在中に何かあれば、イザベルが助けます」わざとらしいほど何気なく付け足す。「ちなみに彼女は未婚です」

安い台詞みたいなのに、効く。効いてしまう。

「1か月で戻れるんですね?」私は訊いた。もう一度聞かないと、脳が契約として処理しない。

「必ずしも正確に1か月とは限りません」彼は言う。「本質条件は、私の研究者たちにワクチン製造を教えること。3週間でも3か月でも、あなたの技量次第です。最大は1年。それ以上滞在すると、戻れない危険が増すかもしれないので」

1年。

私の生活が停止する。実験台。指導教員。サンプル。20代を生き延びるために積み上げてきた合理化の山。

そしてロンドン。

1918年。スペイン風邪。抗生物質も遺伝子解析もない世界。若くて健康な人間なら感染症では死なないのが当然だと思える時代はまだまだ先の話。

本来なら私を拒絶させるはずなのに、引っ張られる。

「……わかりました」私は言っていた。自分の声の硬さに自分が驚いた。「行きましょう」

彼の肩がほんの少し緩む。「ではすぐ研究室へ行き、組換え菌と必要なものを持ち出してください。持てるのは、この袋に入る分だけです」

彼は布袋を渡してきた。市場へ持っていくみたいな袋だ。世紀をまたぐ荷物入れには見えない。

私は袋を握り、短く自分の教授を思った。「シャルマ教授に許可を取っていいですか?」

「だめです」スワンソンは言った。「シャルマ教授は、1918年ロンドンの微生物学者が真夜中に浴室へ出現して“組換え株をください”と言ったら、喜んで譲るタイプの学者ですか?」

私は思わず鼻で笑った。「このインドで、そんな教授なら今の地位まで上がれません」

「では明朝、材料を元の場所へ戻せばいい」スワンソンは、ペンを借りろと言うみたいに言った。

口の中が乾いた。彼は私に研究室から盗めと言っている。借りるという顔をしているが、盗みだ。

「この袋じゃ1か月分の着替えも入りません」私は言った。実務的な異議が自分の口から出るのを聞きたかった。

「必要なものはすべて用意します」彼は言った。「あなたはそのままの恰好で構いません」

私は自分の短パンを見て、情けなくなった。

「いいでしょう」私は言った。「行きましょう。研究室へは一緒に来るんですね?」

「いや」彼は言い、苛立ちの火花がのぞく。「私が行けば疑いを招く。あなたは1人で行くべきだ」

たしかに、そうだな。

私はジャージに着替え、走った。

夜のムンバイは静かじゃない。だが違う。キャンパスの廊下は薄暗い。空気はまだ温い。犬が意外な場所で寝ている。遠くでクラクションが鳴り、途中でぷつりと切れる。遮られた思考みたいに。私は、自分の人生に遅刻しているみたいに走った。速度が決断を可逆にしてくれるかのように。

研究室に入ると、蛍光灯の下のすべては正常に見えた。ベンチ。ピペット。ラベルが支配する整然とした圧政。私は素早く動いた。手が少し震える。移動可能なストックがあるものを選び、組換え細菌や必要なものを袋に詰める。旅行の荷造りみたいに。ただし旅先は100年前で、鞄は布袋だ。

結果を考えない。結果を考えるのは、動きを止める方法だ。

寮の部屋へ戻ると、スワンソンは私が離れたときの場所に、まったく同じように立って待っていた。意志の力で部屋を固定していたかのように。

「さあ」彼は言った。「タイムマシンに乗りましょう」

私は見つめ返した。「どこに?」

「シャワーブースです」彼は言い、浴室へ向けて手を振った。ガレージでも指すみたいに。

彼に導かれてシャワーのスペースに入る。

私は洗練された映画的なものを想像していた。パネルやライトがあり、投資の匂いがするものを。

そこにあったのは、私の身長よりわずかに低い円筒形の物体だった。……安っぽい。産業用ドラム缶を、過剰な自信の趣味人が転用したみたいな。

「これ?」私は言った。「これで100年戻れるんですか?」

「戻れます」彼は腹立たしいほど確信している。

「2人入れるんですか」

「入れます」彼は言った。「さあ。中へ。立って、落ち着いて」

落ち着いて。浴室の円筒の中で。1918年から来たという毛織スーツの男と。

私は気持ちが変わる前に引き込まれ、扉が閉まった。狭すぎる。空気に金属の匂いがある。古い硬貨みたいな。

「目を閉じてください」彼が言った。

私は閉じた。開けたら、これは狂気だと気づいて身体が拒否する。

「目覚めたら」スワンソンの声が不意に柔らかくなる。「あなたは1918年ロンドンにいます。準備はいいですか」

私は唾を飲んだ。喉が小さくなった気がした。「ああ」私は言った。「……いいです」

次の瞬間、私の身体は、私の知る「動き」とは無縁の感覚に掴まれた。四方八方へ同時に引き伸ばされる。言葉にならない形へと展開されていく。そうして――

光。

明るい球体がすべてを呑み込む。

そして私は消えた。


【訳注】

  • mRNA:メッセンジャーRNA。遺伝情報の一部を細胞内で伝える分子。
  • DNA:デオキシリボ核酸。遺伝情報を担う分子。
  • プラスミド:細菌などが持つ環状DNA。遺伝子導入に用いられる。
  • ショウジョウバエ(Drosophila)/大腸菌(E. coli):遺伝学・微生物学でよく用いられるモデル生物。

第3章 10人に1人の確率

カーテンの隙間から日光が押し込んできて、私の目を責めるみたいに刺した。私は目を細めながら目覚める。重たいキルトに包まれている。知らないベッドの上だ。マットレスは寮のどれより柔らかい。キルトには密度のある重みがある。金を払って手に入れる種類の重みだ。空気は冷たく、最初のひと呼吸が洗い流されるように澄んでいる。

一瞬、脳が怠けた説明を寄越す。ホテルだろう。学会だろう。時差ぼけだろう。世界を壊さずに済む言い訳なら何でもいい。

だが記憶が来る。丸ごと。ありえない形で。浴室の円筒。毛織のスーツの男。すべてを呑み込む光の球。

ロンドン。1918年。

私は勢いよく起き上がった。視界が揺れる。ここは時代劇のセットみたいだ。けれどセットにある作り物の散らかりがない。かわりに永続の静けさがある。壁のモールディング。古い比率の部屋。持ち主より長生きするつもりで作られた家具。

私はまだジャージ姿だった。少なくともそう思った。だが襟元をつまむと、服の落ち方が妙だ。シャツがだぶついている。袖が垂れる。まるで他人の身体を借りていて、服だけが追いつけていない。

キルトを押しのけ、自分の身体を見る。指先が不器用になる。

最初に「おかしい」のは、失われたものではなかった。

増えたものだ。

身体を動かすと胸が動く。そこにあるはずのない重みで。柔らかな引きずり。否定できない感覚。私は決めるより先に手を上げ、布の上から押し当てた。

丸いふくらみがある。

胃が沈んだ。

「……何だ、これ」

声に出してしまう。考えるだけより、声は現実にしてしまうから。

シャツの布をつまみ、肌から引き剥がす。下の形は詰め物じゃない。見間違いでもない。

キルトをさらに持ち上げて凝視する。

私のジャージの下に、乳房がある。

「嘘だろ……」

言葉が壁に跳ね返る。「これ、――」

私は獣みたいに勢いよく起き直した。何か這い回るものを振り落としたい動きで。すると髪が前に飛び、顔を叩いた。

髪。

長い髪。

私の髪じゃない。私は短髪だ。実験室仕様の、邪魔にならない長さ。これは肩を越えて流れ落ちる暗い塊だ。毛先が湿っている。冷たく頬に貼りつく。

あまりに馬鹿馬鹿しくて、ほんの一瞬、脳が私を救おうとする。

そうだ。スワンソン教授。これは悪ふざけだ。私に薬でも盛って、部屋を用意して、偽物のオッパイを貼りつけ、ウィッグを業務用の接着剤で固定したのだ。凝りすぎて、逆に感心する類の冗談。

私は笑ってしまう。鋭く驚いた音。

「スワンソン教授……本気で手が込んでますね」

ドアの向こうにカメラでも構えていると思って、私は髪を掴んで引いた。ウィッグがずれるはずだ。

ずれない。

強く引けば引くほど頭皮が痛む。自分の髪を引いたときの痛みだ。

笑いが止まる。

私はシャツの襟を掴んで引き上げた。布が肩に引っかかる。焦った手で乱暴に脱ぎ捨てる。真実との緩衝材が消える。

乳房。白い肌。以前は粗かったはずの場所の滑らかさ。組織のかすかな痛みがある。身体そのものが、私の凝視に憤っているみたいに。

「違う。違う、違う……」

私は囁き、頭を振る。手が股間へ向かう。ポケットの中の携帯を探すみたいに。

ない。

慣れた形が消えている。子どもの頃から頼ってきた身体地図が、許可なく塗り替えられている。

息ができない。部屋が傾く。視界が狭まる。

冗談じゃない。夢じゃない。衣装じゃない。

これは別の身体だ。

私はその中にいる。

ドアがノックされた。鋭く、普通で、家庭的な音。その平凡さが私を殴った。外では正常な世界が続いている。私の恐慌など関係なく。

反射的にキルトへ潜り込む。顎まで引き上げる。布で生物学が隠れる気がした。

ドアが開いた。

スワンソン教授が入ってくる。

ムンバイで見たとおりだ。背が高く、落ち着いている。世界が自分のために場所を空けると信じている男の装い。ここでは毛織のスーツが自然だ。寒さが彼に合う。時代が彼に合う。

「おはようございます」彼は言った。昨夜より声が柔らかい。「具合はいかがですか」

私は口を開け閉めする。喉が言葉にならない小さな音を出す。

彼は知っている。すぐわかる。小道具を探さない。驚かない。

「どうして……こうなったんですか」

やっと絞り出した声は、私の声じゃない。高い。薄い。女の声だ。この身体の声だ。その音を聞くだけで、私は縮こまる。

スワンソン教授の表情が、同情めいたものに寄る。彼が上手なら、という条件付きの同情だ。

「時を越えるとき、確率があります」彼は言った。「およそ10人に1人は、性別が変化します」

「10人に1人……?」

私は反復する。計算すれば安全になるみたいに。「副作用ってことですか。吐き気みたいな」

彼は一度だけ頷いた。

「そして」彼は平然と付け足す。「あなたは、その稀な幸運に当たった」

「幸運?」

笑いがこぼれ、すぐ引きつる。「そんなこと、言わなかったじゃないですか」

「言えば、あなたは来なかった」

当然のように言う。

「元に戻してください」私は言った。「今すぐ」

彼の目が揺れる。罪悪感ではない。頼まれて困る種類の苛立ちだ。

「申し訳ありません」彼は言った。「私には人の性を変える力はありません。それは神の領分です」

私は息を飲む。脳を動かす。泣きたくても、いまは泣けない。

「戻るときには」私は言った。「未来へ戻るときは……元に戻るんですよね。私が時間旅行で帰れば、全部、元に戻るんですよね」

「はい」教授は言った。「100年先へ時間旅行すれば、あなたは元の姿で戻ります。心配はいりません」

「そんなふうに簡単に言う」私は呟いた。「私は……このままここで暮らせっていうんですか。どれだけの期間かもわからないのに」

教授は、形が変わった資産を点検するような目を私に向けた。

「真実を告げてはなりません」彼は言った。「誰も信じない」

「だからこそ」私は声を荒らげる。「詰んでるんです。説明できない。外へ出て『実は男です、でも時間旅行で――』なんて言えるわけがない」

教授が手を上げる。私を切る。

「理性的になりなさい」

その傲慢さで頭がくらむ。

「自分は時間旅行してきたトランス・ウーマンだ、なんて主張する人間を」教授は、現代語をぎこちなく使いながら言った。「誰が受け入れますか。あなたは重要な使命のために来たのでしょう、サム」

名前を呼ばれ、胸のどこかがねじれる。サム。錨だ。私が存在する証拠。

「ええ」私は言った。「でも教授は、私に演じろと」

「生き延びるためです」教授は言った。「働くためです。成し遂げるためです」

私はキルトの模様を見つめる。そこに指示が書いてある気がした。

教授が思案するように続ける。

「それから……『サム』という名は、いまのあなたには実用的ではありません。サマンサがいい。サマンサを『サム』と呼ぶことは不可能ではない。男の子っぽい愛称としてはあり得ます。しかしこの時代では、サマンサと呼ばれるほうが賢明でしょう。あなたが嫌でなければ、ここではサマンサと呼びます」

名前は小さい。だが巨大だ。傷口に貼られる絆創膏みたいに押しつけられる。

「どうでもいいです」私は平板に言った。「好きに呼んでください」

教授は安堵した顔をした。私のためじゃない。物流の問題が解決したからだ。

「では」彼は宣言するように言った。「今日からあなたはサマンサ・ウォーレンです」

彼はすぐ次へ進む。彼の罪悪感の処理方法は決まっている。罪を段取りに変えることだ。

「サマンサ、熱いシャワーを浴びて移動の汚れを落としなさい。そのあいだに、若い女性にふさわしい服を用意します」

私は頷く。ほかにできることがない。

教授は出ていく。ドアを閉める。まるでこれが普通の朝の手順であるかのように。

しばらく私は座っていた。静けさを聞く。クラクションがない。ファンの音がない。キャンパスの廊下の気配がない。沈黙が濃い。金持ちの沈黙だ。

やがて私は立ち上がった。

立つことが違う。重心がずれている。重量が知らない配分で散る。視線を落とすと、自分の太腿が見える。柔らかく、滑らかで、脳が躊躇する。正しいファイルを読み込めずにいるみたいに。

浴室へ歩く。脚は私のものでもあり、私のものじゃない。1歩ごとにデータが増える。

浴室は清潔でタイル張りだ。設備は古いが手入れされている。安いプラスチックがない。ネオン色のボトルがない。すべてが抑制されている。文明的だ。

私は湯を出し、その下へ入った。

熱い湯が肩を叩く。知らない身体を伝って落ちていく。以前は剛毛があった場所に、いまは滑らかな皮膚がある。胸毛がないことは、馴染んだノイズが消えたみたいだ。失って初めて頼っていたとわかる類のノイズ。

私は苛烈な几帳面さで身体を洗う。清潔にすれば秩序が戻る気がして。手が乳房を撫でる。脳はまだ「私のものじゃない」と言い張るのに、神経は平然と応える。重みが不安だ。目立ちすぎる。否定できない。世界に「理由」として使われやすい。

洗い終え、身体を拭く。私は反射でタオルを胸に巻きつけた。女性がするのを何千回も見た仕草。自動的で、少し屈辱的だ。頭より身体が覚えている。

寝室に戻ると、ベッドの上に服が置かれていた。供物みたいに。

下着がある。工学のようなものだ。コルセット。いらない場所にボリュームを足す布の山。ペチコート。スカート。層。私は自分の周りにテントを建てることになる。

私はコルセットを見つめた。

「どうやって着るんですか、これ」

返事はない。

私はゆっくり着替える。説明書のない家具を組み立てるみたいに、頑固な忍耐で。コルセットは格闘だ。ペチコートは屈辱だ。スカートは重く、脚の周りに落ちると、この時代に所有された気分になる。

全部どうにか着終えると、私は座り込んだ。波のような非現実が来る。

服は醜くない。よく作られている。だが私の身体を「メッセージ」に変える。送ることに同意していないメッセージだ。

次は髪だ。

長い。腰まである。水を吸いすぎる。タオルで拭いても重い。濡れた長さが背中に貼りつき、せっかく着た布を濡らしそうになる。

私は反射でドライヤーを探した。

ない。

しかたない。

私は廊下へ出る。食べ物の匂いを辿る。家は上品に整えられていて、最近手が入った感じがする。黄ばんでいない塗装。降伏していない艶。

食堂を見つける。

重いテーブルに朝食が並んでいる。トースト、卵、ハム、チーズ、紅茶。豊かすぎて、私は一瞬腹が立つ。人がインフルエンザで死んでいるのに、この家はトーストを当然みたいに出す。自然法則みたいに。

教授はすでに座っていた。

彼は私を見る。公衆の場で通用するかを測る目だ。それから髪へ視線が跳ねた。

「サマンサ」教授は驚く。「髪を洗ったのですか」

私は瞬きする。「はい?」疑いが先に立つ。「朝シャワー派なんです。教授は夜しか洗わないとか、そういう――」

「朝か夜かはどうでもいい」教授は言った。「しかしあなたの髪の長さで洗えば乾くのに時間がかかる。今日は朝食後に外へ出るのです」

私は濡れた髪を持ち上げる。途方に暮れる。「ドライヤーを探したんですが…。朝食のあと借りられますか」

教授が私を見つめた。

「ドライヤー?」

私は答えを先に理解する。「……まだ存在しないんですか」

教授はわずかに愉快そうだ。私の急なへりくだりが面白いらしい。

「自然乾燥以外なら」彼は言った。「暖炉のそばに座るか、日なたにいるかです。しかしそれは労働になる。多くの女性は髪を月に1度か2度しか洗いません」

私は口を開けたまま止まる。

正気マジですか」私は言う。「2週間でも――いや、無理です。髪が臭くなる」

「食べなさい」教授は強く言った。「いま」

皿を持った女が入ってきた。母の年齢くらいだろう。丈夫で有能で、何十年も家と男を回してきた人の静かな威厳がある。

教授が少しだけ立つ。敬意の動きだ。

「サマンサ」教授は言った。「こちらはケイト。私が子どもの頃から面倒を見てくれている。ケイト、このわがままな若い女性は今朝髪を洗ってしまった。朝食後に出かけるので、湿り気が目立たないように整えてくれないか」

ケイトは私に微笑む。柔らかい。思いがけず喉が痛くなる。

「もちろんです」ケイトは言った。「私に任せてください」

私は食べる。アドレナリンで動いていた身体に、燃料が落ちてくる。

トーストは厚い白パンだ。外は香ばしく、中はしっとりしている。マーマレードを塗る。多すぎるくらい塗る。空腹で、甘さが慰めだから。チェダー、卵、燻製ハム。紅茶を飲む。香りが澄んでいて鋭い。ムンバイのチャイと違う。ミルクと香辛料で殴ってこない。芳香があり乾いている。街そのものみたいに。

「英国式の朝食が気に入ったようで何より」教授が言う。

そのとき私は、自分がどれほど必死に見えているかに気づく。食べ物が消えるとでも思っている顔をしているのだろう。

顔が熱くなる。「すみません」私は言った。何に謝っているのか自分でもわからない。食べることか。生きることか。存在することか。

朝食後、ケイトが背後に立ち、濡れた髪を手慣れた手つきでまとめる。ねじり、留める。重みを背中から上げ、湿り気を隠す形にする。

「はい」ケイトが言った。「ギブソン・ガール風。お似合いです」

ギブソン・ガールという言葉は、この瞬間の私には意味がない。昨日なら2秒で調べていた。いまはネットがない。ケイトの手。髪のピン。私は文化の翻訳を他人に頼らなければならない。

教授が立つ。もう次へ行く。

「さあ」教授は言った。「仕事があります」

外へ出ると冷気が喉を叱る。私はケープを引き寄せた。

「今日は何日ですか」私は訊く。錨が欲しい。

「1918年3月7日です」教授は言った。「真夜中に移動したのを忘れたのですか」

「ムンバイは40度近かった」私は呟いた。「ロンドンはまだ冬ですね」

「春はすぐ来ます」教授は言う。春が同僚で、借りを返しに来るみたいに。

ロンドンは、脳が嫌がるほど現実だ。セピアじゃない。静寂でもない。忙しく、堅牢で、生きている。建物が古典的な列で並ぶ。人々は目的を持って動く。女性は長いスカートをはいている。私のように膨らんだものもあれば、もっと細くて歩きやすそうなものもある。男の服は想像ほど芝居がかっていない。むしろ実用的で素朴だ。

教授が黒いタクシーを止めた。車が唸り、私たちは乗り込む。

少し走ると見える。兵士の列だ。銃を持ち、隊列で歩いていく。

私は見つめる。現代の分類を古い映像に当てはめようとして、脳が滑る。若い。若すぎる。

口が勝手に動いた。

「観光用の兵士ですか――」

「黙りなさい」教授が息を詰めるように言う。私の耳に近づく。「何十万ものロンドン市民が前線へ送られている。なんという発言だ」

顔が燃える。脳が慌てて組み立て直す。

ロシア革命は1917年、だから――

「すみません……」私は小声になった。「第一次世界大戦の最中なんですね」

教授が固まる。それから、私の言葉が彼の内部の何かを割ったみたいに顔を向ける。

「第一次世界大戦?」教授が繰り返す。「第一次があるなら、第二次もあるということだ。100年のうちに世界大戦がもう一度起きるのですか」

私は教授を見た。教授の目が鋭くなる。

「この戦争がいつ終わって」教授が詰める。「次はいつ始まるのか、教えてください」

私は恥ずかしいほど頭が真っ白になる。日付。名前。昔ぼんやり知っていたはずのことが、逃げる。

「すみません」私は言った。「世界史、得意じゃなくて」

教授は言い返したそうに見えたが、飲み込んだ。

私は立て直そうとする。「敵はドイツですよね。この戦争は。まだヒトラーじゃなくて、別の誰か。でもロンドンは大陸より安全でしょう」

教授が鋭く振り向く。

「何を言っている。英国が無傷だとでも?」教授は声を低くする。「脅すつもりはないが、ロンドン自体が脅威にさらされている。2月16日には大規模な空襲があった。30人以上が死んだ」

言葉が氷みたいに腹へ落ちる。

「そんなことも言わずに私を連れてきたんですか」私は思わず噛みつく。「それは――フェアじゃない」

「2月17日以降、襲撃はない」教授は固く言う。「そしてあなたは幸運だ。女性である限り徴兵はない」

怒りが残り、同時に崩れる。いちばん単純な真実が残る。私は彼の論理と、この時代の規則に閉じ込められている。身体がその入場券になっている。頼んでもいないのに。

タクシーが減速し、煉瓦造りの建物の前で止まった。背筋が勝手に伸びるような、制度の顔をした建物だ。

中へ入る。

廊下は微かに消毒と紙の匂いがする。歩きながら教授が声を落とした。

「学部長と研究所長だけが、あなたの真の出自を知っている。ほかには全員、あなたはアメリカ人研究者だ。いいですね」

「もちろんです」私は言った。「時間旅行してきたなんて言ったら、信用は5秒で終わります」

教授の執務エリアに女が現れた。背が高く、肩幅があり、輪郭が鋭い。教授と同じくらいの年齢に見える。

「イザベル」教授が短く言う。「こちらはミス・サマンサ・ウォーレン。アメリカから来たばかりだ。助けてやってくれ。サマンサ、困ったことがあればイザベルに相談しなさい」

私はイザベルと握手し、笑う。礼儀は鎧だと学び始めている。

頭の中で思う。これが、教授が餌にした「美しい未婚の秘書」。

彼女は若さとは別の意味で美しい。だが私より少なくとも15歳は上だ。釣り文句の露骨さに、本来なら笑える。いまの私の生活が粉々でなければ。

教授は研究所の研究者たちに私を紹介し始める。全員男だ。彼らは好奇心と礼儀で私を見る。面白い標本が自分で歩いて入ってきたみたいに。

「諸君」教授が言う。「こちらはミス・サマンサ・ウォーレン。サンディエゴ大学で訓練を受けた微生物学者だ。スペイン・インフルエンザの予防に役立つかもしれない興味深いタンパク質を産生する、特別な菌株を持ってきている。この生物を培養し、タンパク質を生産する仕事に当たってもらう。全面的に支援してほしい」

教授は最年長の研究者、スミス博士を私の補佐と案内役に据えた。

スミス博士は丁寧にドアを開けてくれる。女性が研究室にいることを真剣に考えたことがない男の仕草に見えた。そのことが、3秒だけ私を希望にする。

研究室へ入る。

ガラス。ベンチ。見覚えがあるのに原始的にも見える器具。1秒だけ恐怖が薄れ、興奮が差し込む。100年前のラボ。1918年の科学。未来を手にしたまま過去の隣で働く機会。

そのときスミス博士がこちらを向いた。表情は中立だ。声は天気の話でもするように落ち着いている。

「ミス・ウォーレン」彼は言った。「あなたは本当に科学の背景がおありですか」


【訳注】

ギブソン・ガール:20世紀初頭の米国で流行した理想的女性像と、その髪型・装いの呼称。


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