釜山にしおれた百合
国境と性を越える漂流
原作:The Withered Lily of Busan
A Gender-Bending Noir of Statelessness and Survival
by Yulia Yu. Sakurazawa
第一章 脚本の罠
大学のサークル棟の四階にある演劇部の部室は、常に埃と古いドーラン、それに若者たちの焦燥が混じり合ったような独特の匂いがした。
窓の外では五月の風が楠の葉を揺らしているが、遮光カーテンを閉め切った部室に季節感はない。あるのは、強力なスポットライトが作り出す人工的な光と影だけだ。
私はパイプ椅子に深く腰掛け、手元の脚本に赤いペンを走らせていた。
タイトルは『境界線上のアリア』。
私が脚本を書き、プロデュースも兼任している意欲作だ。テーマは重い。在日コリアンの青年と日本人女性の恋愛、そして彼らを阻む法と血の壁。社会派演劇を標榜する我々にとって、次回の大学祭での公演は、活動の集大成になるはずだった。
「水原、ここのセリフだけどさ」
舞台の中央で、金潤(キム・ジュン)が声を張り上げた。
「『国籍なんてただの紙切れよ』ってセリフ、本当にこのトーンでいいのか? 現実の壁はもっと分厚くて、汚いぞ」
潤は私の同級生であり、この劇の主役だ。整った顔立ちの中に、どこか憂いを帯びた瞳を持っている。彼自身が在日三世であり、この脚本には彼の実体験も反映されていた。
「だからこそだよ、潤」
私はペンを置き、彼を見上げた。
「ヒロインの沙織は、まだその壁の汚れを知らない。無垢な愛が、現実の泥に塗れていく過程を見せるのが第一幕なんだ」
「無垢、か……。残酷だな、お前の脚本は」
潤は苦笑し、前髪をかき上げた。
その時だった。
部室の重い鉄扉が乱暴に開かれた。
「ふざけるな!」
怒号と共に飛び込んできたのは、監督の権田だ。いつもは冷静な彼が、顔を紅潮させ、手にしたスマートフォンを床に叩きつけんばかりの勢いで震えている。
部室の空気が凍りついた。
「どうしたんですか、監督」
私が歩み寄ると、権田は忌々しげに吐き捨てた。
「玲子が降りるそうだ」
「えっ?」
玲子は、ヒロインの沙織役を務める三年生だ。演劇部きっての美貌と、繊細な演技力を兼ね備えた看板女優である。
「病気ですか? それとも怪我?」
「親だよ。親の差し金だ」
権田はパイプ椅子を蹴り飛ばした。
「脚本を親に見られたらしい。『韓国人と結婚する役など、演劇といえども許さん』だとさ。家の恥になるから、即刻退部しろと言ってきたそうだ」
私は絶句した。
頭の中で、何かが崩れる音がした。私たちが演劇を通じて告発しようとしていた差別そのものが、現実の刃となって私たちの演劇を殺しに来たのだ。皮肉と言うにはあまりにも救いがない。
「説得は?」
「無理だ。玲子は泣きながら謝るだけだった。実家からの仕送りを止めると脅されたら、学生にはどうしようもない」
権田は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「公演まであと一ヶ月だぞ。今から代役を立てるなんて不可能だ」
部室に沈黙が落ちた。潤も壁に背を預け、虚空を見つめている。彼の表情には、怒りよりも諦めに近い色が浮かんでいた。それがまた、私の胸をえぐった。
この脚本は、私の魂だ。潤の痛みだ。ここで中止にするわけにはいかない。
「新入生の中から探しましょう。演技経験のある子が一人くらいは……」
「無理だ」
権田は即座に否定した。
「この役は、ただ可愛いだけじゃ務まらない。第一幕の純真さと、第二幕での絶望的な狂気。その振れ幅を演じられる技術が必要だ。それに……」
権田は顔を上げ、私をじっと見た。その視線には、何か値踏みをするような、不穏な光が宿っていた。
「この役には、圧倒的な『華』が必要なんだ。舞台に立っただけで、観客の視線を釘付けにするような、有無を言わせぬ美しさが」
「なら、どうするんです。外部の劇団員を借りますか?」
私の問いに、権田は答えなかった。代わりに、ゆっくりと立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。
私の顔の目の前で、彼の足が止まる。
「水原。お前がやれ」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。
「……はい?」
「お前が沙織をやれと言っているんだ」
私は乾いた笑い声を上げた。
「監督、パニックになっているんですか。私は男ですよ。脚本担当で、プロデューサーです」
「知っている」
権田の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「だが、今のこの部で、一番沙織の感情を理解しているのは誰だ? このセリフを書いたお前だ」
「それは理解力の問題で……身体的な性別は別でしょう」
「身体か」
権田の手が伸び、私の顎を強引に掴んで上を向かせた。
部員たちが息を呑む気配がした。
「よく見ろ」
権田は近くにあった姿見を足で引き寄せ、私に対面させた。
鏡の中には、困惑する私の顔が映っている。
「お前のその線が細い骨格。色素の薄い肌。切れ長の目。喉仏も目立たない。……今の部内のどの女性よりも、お前の方が『女』を描ける素材を持っている」
私は鏡の中の自分を見つめた。
言われてみれば、私は昔から「中性的だ」と言われることが多かった。男らしい逞しさとは無縁の、どこか硝子細工のような脆さ。それがコンプレックスでもあったのだが、今、鏡の中の私は、スポットライトの逆光の中で性別の境界を失っているように見えた。
「で、でも、声が……」
「ボイストレーニングで潰して再構築する。一ヶ月あれば、ファルセットとミックスボイスで聴けるレベルには持っていける。所作は俺が叩き込む」
権田は私の顎を離し、命令を下す将軍のように言い放った。
「水原、これは命令だ。この劇を上演したいなら、お前が脱ぐしかない。男という皮をな」
私は助けを求めるように潤を見た。
彼は驚いた顔をしていたが、やがてゆっくりと私に近づいてきた。
「カオル」
彼が私の名前を呼ぶ。その響きは、普段の友人としてのそれとは少し違って聞こえた。
「僕も……見てみたい気がする。君が演じる沙織を」
潤の瞳に、奇妙な熱が灯っていた。それは、共犯者の目だった。
心臓が早鐘を打っていた。
拒絶すべきだ。常識的に考えれば、狂っている。男が女役を、それもシリアスな社会派劇のヒロインを演じるなど、下手をすればお笑い草だ。
しかし、私の内側の深い部分で、何かが蠢いていた。
脚本を書いた時、私は常に沙織になりきっていた。彼女の痛み、彼女の愛、彼女の絶望。それを誰よりも知っているのは私だ。玲子ではない。私なのだ。
鏡の中の私が、わずかに口角を上げたように見えた。それは私の意志だったのか、それとも鏡の向こうの魔物の仕業だったのか。
「……でも、キスシーンがあります」
私の口から出たのは、降伏の言葉だった。
「潤と、私が……キスなんて」
権田がニヤリと笑った。
「役者なら、板の上では石ころとでも恋に落ちるんだ」
私はゆっくりと脚本を閉じた。表紙に書かれた『水原薫』という著者名を指でなぞる。
これが、私が男として書いた最後の文字になるなどとは、この時はまだ知る由もなかった。
「わかりました」
私は立ち上がり、鏡の中の自分に向かって宣言するように言った。
「私が沙織になります。……その代わり、誰にも文句は言わせない。最高のヒロインになってみせます」
部室の空気が変わった。停滞していた澱みが消えて、狂気を含んだ熱気が渦巻き始めていた。
私はドーランの匂いを深く吸い込んだ。それは、甘美な地獄への入り口の香りだった。
第二章 境界の融解
女になるための第一歩は、痛みだった。
安直な女装ではない。舞台という結界の中で、観客を欺き、世界を欺くための儀式だ。
私は部室の奥にある更衣室で、裸になっていた。権田監督が連れてきたプロのメイクアップアーティスト――オネエ言葉を使う中年の男性だった――が、私の身体を冷徹な彫刻家のような目で見定めている。
「素材はいいわ。でも、これじゃダメだわ」
彼はそう言うと、熱したワックスを私の脛に塗りたくった。
一瞬の呼吸のあと、激痛が走る。
叫び声を上げようとする私を、彼は冷ややかに制した。
「声を太くしないで。悲鳴を上げるときも、喉を絞りなさい」
足、腕、脇、そして胸。全身の産毛という産毛がむしり取られていく。皮膚が赤く腫れ上がり、ヒリヒリとした熱を持つ。しかし、その痛みの後に現れたのは、陶磁器のように滑らかで、どこか非現実的な肌だった。
自分の足を手で撫でてみる。ツルリとした感触は、私の知っている自分の身体のものではなかった。それは、すでに別の生き物の表皮だった。
「次はこれよ」
渡されたのは、舞台衣装用のコルセットだった。
息を吐ききった状態で紐を締め上げられる。肋骨が軋み、肺が圧迫される。酸素が足りず、視界がチカチカと明滅した。
「苦しいか?」
様子を見に来た権田が尋ねた。
「……地獄です」
「その苦しさを覚えろ。呼吸が浅くなることで、肩のラインが華奢に見える。それに、その不安定な呼吸が、役柄上の『儚さ』を演出する」
私は鏡を見た。
そこには、腰のくびれた、信じられないほど細いシルエットの人間が立っていた。苦痛に歪む表情さえも、どこか被虐的な色気を帯びている。
私はその姿に、奇妙な興奮を覚えた。痛い。苦しい。けれど、美しい。
それからの三週間は、記憶が曖昧になるほどの過密スケジュールだった。
午前中は大学の講義、午後はボイストレーニング、夜は深夜まで稽古。
一番の難関は声だった。単なる裏声では、舞台のセリフとしては弱すぎる。私は喉仏の位置を意識的にコントロールし、鼻腔に響かせるミックスボイスの習得に励んだ。
喉が血の味で満たされるまで叫び、水を飲み、また叫ぶ。
次第に、私の喉には「女の声」という新しい楽器が形成されていった。普段の会話でも、ふと気を抜くとその声が出そうになる。
日常の水原薫という男が削り取られ、沙織という女が肉付けされていく。その感覚は、自分の体が他人に乗っ取られていくような恐怖と、麻薬的な陶酔を同時にもたらした。
そして、公演を一週間後に控えたある雨の夜。
部室には私と、相手役の金 潤の二人だけが残っていた。
雨音が屋根を叩く音が、外界との断絶を強調している。
「第3場のラストから、通そうか」
潤が言った。彼は疲れた様子でパイプ椅子に座っていたが、私を見ると、ふっと居住まいを正した。
今の私は、本番用の衣装を着け、フルメイクをした状態だ。
黒髪のロングウィッグ。切れ長の目を強調するアイライン。そして、薄い唇を濡らす紅。
潤の視線が、私の唇に吸い寄せられ、すぐに慌てたように逸らされるのを私は見逃さなかった。
男であるはずの友人が、私を見て動揺している。その事実が、私の腹の底に暗い優越感を広げた。
「……わかった。いくよ、潤」
私が発した声は、もう水原薫のものではない。沙織の声だ。
私たちは立ち上がり、向かい合った。
劇中の設定では、在日韓国人である主人公・民秀が、日本人の恋人・沙織に別れを切り出すシーンだ。
『君には、背負わせられない。僕の国籍も、家族も、歴史も』
潤が苦しげに吐き出す。演技ではない、本物の苦悩が滲んでいる。
私は沙織として、彼に一歩近づく。
『紙切れ一枚のことでしょう? そんなもので、私たちの関係が終わるの?』
『紙切れじゃない! 血だ。呪いなんだよ!』
潤が私の肩を掴んだ。強い力だ。男の力だ。
コルセット越しに伝わるその熱に、私の身体が震えた。台本には「怯える」とある。だが、私が感じていたのは怯えではなく、捕食される小動物のような、震えるほどの期待だった。
『私を見て、ミンス』
私は彼を見上げた。計算された角度。顎を少し引き、上目遣いに、潤んだ瞳で彼を射抜く。
『私は日本人とか、韓国人とか、そんな記号じゃないわ。私は沙織よ。あなたの愛する女よ。……それとも、違うの?』
潤の息が止まったのがわかった。
彼の瞳孔が開いている。彼は今、私の奥にいる水原薫を見ているのだろうか。それとも、私が作り出した幻影の女を見ているのだろうか。
あるいは、その境界線すら、もう見えなくなっているのかもしれない。
台本のト書きには、こうある。
――沈黙。そして、口づけ。
潤の顔が近づいてくる。
彼の整髪料の香りと、男特有の汗の匂いが鼻孔をくすぐる。
普段なら冗談交じりに「顔が近いぞ」と笑い飛ばす距離だ。だが、今の私は動けない。いや、動きたくない。
逃げてはいけない。これは演技だ。役者としての魂を賭けた、ただの動作だ。
そう自分に言い聞かせても、心臓の鼓動は嘘をつけなかった。コルセットの中で暴れる心音が、彼に聞こえてしまうのではないかと怖くなる。
唇が、触れた。
乾いた、熱い感触。
それは台本にあるような、悲しみを湛えた軽いキスではなかった。
潤の唇が私のそれを割り、貪るように押し付けられた。
「ん……っ」
私の喉から、練習していない声が漏れた。甘く、濡れた、女の喘ぎ。
その声がスイッチになったかのように、潤の腕が私の背中に回り、強く抱きしめられた。ウィッグがずれるのも構わず、私たちは貪り合った。
男同士であるという背徳感。
しかし、今の私は見た目も、声も、匂いさえも女だ。
潤の舌が入ってきた時、私は拒絶するどころか、自らそれを受け入れた。彼の唾液の味が、私の理性を溶かしていく。
頭のどこかで冷静な自分が「これは演技指導の範疇を超えている」と警告していた。だが、身体の芯は熱く疼き、「もっと」と叫んでいた。
私は潤の首に腕を回し、彼の髪に指を絡ませた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
唐突に、潤が私を突き放した。
私たちは荒い息を吐きながら、互いを見つめ合った。
潤の顔は紅潮し、目は泳いでいた。彼は口元を手の甲で拭い、信じられないものを見たような顔で私を見た。
「……カオル、お前……」
彼は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
私は乱れたウィッグを直しながら、妖艶に微笑んでみせた。それが、この場の支配権を握る唯一の方法だったからだ。
「どうしたの? 演技プランと違った?」
私の問いかけに、潤はしばらく呆然としていたが、やがて力なく首を振った。
「……いや。完璧だ。完璧すぎて、怖いくらいだ」
その言葉は、私にとって最高の賛辞であり、そして呪いの始まりだった。
***
一週間後の本番。
舞台は大成功を収めた。
私が舞台袖から照明の中に躍り出た瞬間、客席の空気が変わったのを肌で感じた。数百人の視線が、私の肢体に、表情に、声に釘付けになる。
誰も私が男だとは疑っていない。彼らは私を「美しい悲劇のヒロイン」として消費し、涙し、喝采を送った。
カーテンコール。
割れんばかりの拍手と、「ブラボー」の声。
潤と手を繋いで頭を下げた時、私は強いスポットライトの光の中で、めまいのような全能感に包まれていた。
水原薫としての二十年間の人生で、これほど愛され、渇望されたことがあっただろうか。いや、ない。
男としての私は、ただの平凡な学生だ。
だが、女としての私は、世界を熱狂させることができる。
隣で潤が私の手を握る力が強まった。
私は彼を見つめ、にっこりと微笑む。もはや演技をする必要すらなかった。
その瞬間、私の中で明確な「死」と「誕生」があった。
平凡な男子学生・水原薫は、この光の中で蒸発して消えた。
そして代わりに、怪物的なまでの承認欲求を持った「女優」が産声を上げた。
私は観客席に向かって投げキッスを送った。
もう、戻れない。
この甘美な毒を味わってしまった以上、私は二度と男の皮を被ることはできないだろう。
拍手の波は、私をあの世へ連れ去る潮騒のように聞こえた。
第三章 熱帯夜の錯覚
シンガポールの夜は、粘りつくような湿気を含んでいた。
チャンギ空港に降り立った瞬間から、私の肌は日本の乾燥した空気とは違う、重く甘い粒子に包まれていた。それは理性の輪郭を曖昧にする、熱帯特有の媚薬のようだった。
我々の演劇『境界線上のアリア』は、予想外の評価を得ていた。
日本の学生演劇フェスティバルでの優勝を経て、シンガポールの国際大学演劇祭に招待されたのだ。マイノリティの葛藤を描いた普遍的なテーマと、何より「美しすぎる主演女優」の話題性が、海を越えて注目を集めていた。
「すごい湿度だな。メイクが崩れそうだ」
ホテルの部屋に入った途端、潤がシャツのボタンを外し、エアコンのスイッチを入れた。
予算の都合上、私たちはツインルームをシェアすることになっていた。監督や他のスタッフも相部屋だが、主演の二人が同室というのは、建前上は「本読み(セリフ合わせ)の効率化」のためだった。しかし、それが監督の配慮なのか、それとも悪意ある実験なのか、私には判別がつかなかった。
私は窓際に立ち、夜景を見下ろした。マリーナ・ベイ・サンズのレーザー光線が夜空を裂いている。
「私のメイクは特殊加工だから、これくらいじゃ崩れないわ」
自然と口をついて出たのは、女言葉だった。
ここに来てから、私は一度もウィッグを外していない。パスポートこそ「水原薫(男性)」だが、ホテルのチェックインから食事、街歩きに至るまで、私は「女優・沙織」として振る舞っていた。周囲の目も、私を女性として扱っている。その心地よい誤解の中に浸りきっていた。
「……そうだな。お前は、いつだって完璧だ」
潤が背後から近づいてくる気配がした。
振り返ると、彼はシャワーを浴びるためにシャツを脱いでいた。鍛えられた胸板と腹筋。男の肉体。
かつてなら同性の友人として何とも思わなかった光景が、今は直視できないほど眩しく、そして生々しく感じられた。私は慌てて視線を逸らし、バスルームへと逃げ込んだ。
鏡の中の自分を見る。
ホルモン剤を使っていないのに、過酷なダイエットとコルセットで絞り上げたウエスト、そして入念なスキンケアで磨かれた肌は、薄暗い照明の下では十分に女に見えた。
私は自分の胸に手を当てた。そこにあるはずのない膨らみを幻視する。
この熱帯の夜が、私をおかしくさせている。
公演は大成功だった。
言葉の壁を越え、ラストシーンではすすり泣く声が客席から漏れた。
その夜、主催者が開いたレセプションパーティーは、コロニアル様式の白亜のホテルで行われた。
私は劇中の衣装ではなく、現地で調達したミッドナイトブルーのカクテルドレスを身に纏っていた。背中が大きく開いたデザインは、私の華奢な肩甲骨を露わにし、スリットからは滑らかな脚が覗く。
シャンパングラスを傾ける私の周りには、現地の学生や演劇関係者が群がっていた。
「素晴らしい演技だった。君の瞳には、アジアの悲哀が宿っている」
「美しすぎる。君は本当に日本人なのかい?」
英語での称賛のシャワーを浴びながら、私は優雅に微笑み続けた。自分が何者であるかなど、どうでもよかった。私は今、この空間の女王なのだ。
ふと、腰に温かい手が添えられた。
潤だった。彼はタキシードを着崩し、少し酔った目で私を見下ろしていた。
「彼女は少し疲れているようだ。借りてもいいかな?」
潤は周囲の男たちを牽制するように言い放つと、強引に私をバルコニーへと連れ出した。
蒸し暑い夜風が、火照った頬を撫でる。
「飲み過ぎよ、潤」
「……お前こそ。あんなに男どもに愛想を振りまいて」
潤の声には、明らかな苛立ちと、独占欲が滲んでいた。
私はゾクリとした快感を覚えた。彼は嫉妬しているのだ。男としての私にではなく、「彼の女」としての私に。
「演劇の宣伝よ。プロデューサーとしての仕事だわ」
「プロデューサー? 違うな」
潤は私を壁際に追い詰め、両手で逃げ場を塞いだ。
「お前は沙織だ。俺の恋人だ。……そうだろ?」
彼の顔が近づく。アルコールの匂いと、強い男の匂い。
否定すべきだった。けれど、パーティーの狂騒とシンガポールの熱気が、私の理性を麻痺させていた。
「……そうよ。私はあなたのもの」
その言葉は、脚本にはないセリフだった。しかし、私の魂の底から湧き上がった本音でもあった。
ホテルに戻るタクシーの中で、私たちは無言だった。
互いの太ももが触れ合い、その熱がジーンズとドレスの生地を通して伝わってくる。
部屋に入った瞬間、どちらからともなく求め合った。
ドアが閉まる音と同時に、潤の唇が私の唇を塞いだ。乱暴で、飢えた獣のようなキス。私は抵抗するどころか、彼の首に腕を回し、舌を絡ませて応えた。
ベッドに倒れ込む。
ドレスのファスナーが下ろされ、コルセットの締め付けから解放された身体が、大きく息をする。
「カオル……綺麗だ」
潤が私の肌を這うように愛撫する。その指先が触れるたび、私の皮膚の下で電流が走った。
彼は私を男として扱わなかった。私の身体には男性器がついている。それを目にした時、彼が正気に戻るのではないかという恐怖が一瞬頭をよぎった。
しかし、潤は止まらなかった。
彼は私の「それ」を見ても、まるで女性の一部であるかのように優しく、そして執拗に愛した。
「お前は女だ。俺だけの女だ」
耳元で囁かれる言葉が、呪文のように私の脳を書き換えていく。
快楽の波に溺れながら、私は確信した。
これは錯覚ではない。私は今、彼によって女にされているのだ。肉体の形状など関係ない。彼が私を女として抱く限り、私は女なのだ。
痛みと快感が混じり合う中、私は一度も「男としての自分」を主張しなかった。
ただ受け入れ、喘ぎ、彼にしがみついた。
演劇部で培った発声法など忘れ、獣のような、あるいは泣き叫ぶような声が喉から漏れた。それが自分の声だとは信じられなかった。
***
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む強烈な陽光で目が覚めた。
頭が重い。二日酔いの鈍痛がこめかみを叩く。
隣を見ると、潤が死んだように眠っていた。シーツからはみ出した彼の背中には、私がつけた爪痕が赤く残っている。
私は自分の身体を見下ろした。裸だ。昨夜の記憶が、奔流のように蘇る。
やってしまった。
一線を越えてしまった。
後悔の念が湧き上がるかと身構えたが、不思議と心は凪いでいた。代わりに胸を満たしていたのは、気まずさよりも、深い充足感と、ある種の諦めだった。
もう、戻れない。
友人には戻れない。男にも戻れない。
私は指先で、眠る潤の頬に触れようとして、やめた。
この関係に名前をつけるのは怖い。けれど、この共犯関係こそが、今の私を繋ぎ止める唯一の鎖だった。
潤が身じろぎをし、ゆっくりと目を開けた。
数秒の沈黙。互いの視線が交差する。
彼は驚くことも、狼狽えることもしなかった。ただ静かに私を見つめ、やがて短く言った。
「……バンコクへ行こう」
その言葉は、次の公演地への移動を意味すると同時に、私たちが地獄の底まで道連れになるという契約のようにも聞こえた。
私は何も言わず、ただ頷いた。
エアコンの冷気が、汗ばんだ肌に冷たく張り付いていた。
私たちは言葉少なに荷物をまとめ、逃げるようにホテルを後にした。
次の舞台はタイ。
そこで私は、本当の意味で何かを喪失することになるかもしれない。そんな予感が、私の背筋を寒くさせていた。
第四章 バンコクの契約とメス
バンコクは、混沌と欲望の匂いがした。
排気ガス、屋台の香辛料、腐った果実、そして路地裏から漂う下水の臭気。それらが混然一体となって、熱気と共に肌にまとわりつく。シンガポールの洗練された夜とは違う、もっと生々しく、暴力的ですらある生命力が、この街には溢れていた。
私たちの劇団が公演を行ったのは、現地の大学が所有する小劇場だった。
冷房の効きすぎた劇場から一歩外に出ると、眼鏡が曇るほどの湿気が襲ってくる。
「大盛況だったな」
潤が私の肩を抱いた。その手つきは、もはや同級生のそれではなく、所有者のものだった。
私たちはトゥクトゥクの爆音に揺られ、スクンビット通りにあるホテルへと戻った。
部屋に入った途端、潤が鍵をかけ、私をドアに押し付けた。
息つく暇もなく、唇が塞がれる。
昨夜のシンガポールでの出来事が、頭をよぎる。一度許してしまえば、それは既成事実となり、日常となる。潤の舌が私の口内を蹂躙し、手がシャツの裾から這い上がってくる。
「……やめて!」
私は反射的に彼を突き飛ばし、その勢いで頬を平手打ちしていた。
乾いた音が部屋に響く。
私の手平がジンジンと痛んだ。
「……ふざけないでよ、潤。私は男よ。昨日は酔っていただけ。錯覚なのよ!」
私は叫んだ。それは彼に向けた言葉であると同時に、崩れかけている自分のアイデンティティを繋ぎ止めるための悲鳴でもあった。これ以上流されたら、私が私でなくなってしまう。水原薫という男が、消滅してしまう。
潤は殴られた頬を片手で押さえ、私をじっと見つめた。
怒鳴られるかと思った。あるいは、殴り返されるかと身構えた。
しかし、彼の反応は予想外だった。
ゆっくりとその場に跪いたのだった。
そして、ポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、パカリと開いた。
安っぽい照明の下で、ダイヤモンドが冷ややかな光を放った。
「結婚してくれ、カオル」
時が止まった。
排気ガスの匂いも、外のクラクションの音も消えた。
「……正気なの? 法律的にも、肉体的にも、無理に決まっているでしょう」
「無理じゃない」
潤は私の手を取り、左手の薬指にリングを滑らせた。
「君は、誰よりも女性らしい女性だ。舞台の上の君を見た時、俺は確信した。君の魂は女だ。俺たちは魂で惹かれあっているんだ」
彼は私の膝にすがりつき、熱っぽく語り続けた。
「本来の君になってくれ。男の友人ではなく、俺の妻になってくれ。そうすれば、国籍の問題も、家族の問題も、すべて乗り越えられる」
甘美な毒だった。
「本来の君」。その言葉が、私の心の最も脆い部分を突き刺した。
演劇のために作り上げた「沙織」という虚像。それを彼が「本物」だと肯定してくれた。男として生きる日々の息苦しさ、演技をしている時だけ感じられる解放感。それら全てを、彼は知っていたのだ。
潤が再び立ち上がり、私にキスをした。
今度は、私は拒めなかった。
彼の舌を受け入れながら、私は涙を流していた。それは喜びなのか、諦めなのか、自分でもわからなかった。ただ、彼の腕の中で、男としての私が音を立てて死んでいくのを感じた。
「でも、戸籍が……身体が……」
唇を離した私が喘ぐように言うと、潤は暗い情熱を宿した瞳で微笑んだ。
「すべて手配してある。俺に任せて、ついてきてくれ」
翌日、連れて行かれたのは、バンコクの繁華街から外れた、雑居ビルの一角にあるクリニックだった。
看板には英語とタイ語で『美容外科』と書かれているが、入り口には鍵がかかっており、インターホンを押すと中から看護師らしき女性が顔を出した。
待合室は薄暗く、消毒液と、どこか饐えた血の匂いが漂っていた。
本来、日本や正規のルートでSRS(性別適合手術)を受けるには、精神科医による診断書、ホルモン療法の長期間の実績、そして何より慎重なカウンセリングが必要だ。
しかし、ここには何もなかった。
出てきたのは、愛想のない中年医師と、英語で書かれた一枚の同意書だけ。
「支払いは現金のみだ」
医師は事務的に言った。潤が分厚い封筒を差し出す。中には日本円の札束が詰まっていた。彼は空港の免税店で指輪を買っていただけではない。この手術のために、大金を用意し、裏のコネクションを使って予約を取り付けていたのだ。
その周到さに、私は戦慄した。これは愛なのだろうか。それとも、私を自分の理想の形に作り変えるための、狂気じみた執着なのだろうか。
「カオル」
潤が私の手を握り締めた。
「怖がることはない。眠っている間に終わる。目が覚めれば、君は生まれ変わっているんだ」
私は震える手で同意書にサインした。
『Mizuhara Kaoru』。その署名は、死刑執行書へのサインのように見えた。
手術台は冷たく、硬かった。
天井の無機質なライトが眩しい。
点滴の針が腕に刺される。麻酔薬が血管を駆け巡る冷たい感触。
意識が遠のく直前、私は自分の股間を意識した。
二十年間、私と共にあった男の証。それを憎んだこともあったし、誇りに思ったこともあった。だが、それもあと数分で肉塊として切り離され、医療廃棄物として処理されるのだ。
さようなら、僕。
視界が白濁し、私は深い闇へと落ちていった。
****
激痛で目が覚めた。
下腹部を焼けた鉄火箸で抉(えぐ)られるような、鮮烈な痛み。
「う、あっ……!」
声を出そうとしたが、喉がカラカラに乾いていて、掠れた音しか出ない。
目を開けると、薄汚れた天井が見えた。リカバリールームだ。
重い布団が掛けられているが、下半身の感覚がおかしい。
あるはずのものがない。そして、ないはずの場所に、深い傷口が存在している。
脳が混乱していた。切断された神経が「まだそこにペニスがある」という幻影の痛みの信号を送り続けているのに、現実の肉体は、そこに空洞が穿たれたことを悲鳴として伝えてくる。
喪失感と、獲得の痛み。二つの相反する感覚が、私の精神を引き裂こうとしていた。
「気がついたか?」
覗き込んできたのは、潤だった。
彼は安堵したような、それでいてどこか恍惚とした表情を浮かべていた。
「成功だ。先生が、とても綺麗に仕上がったと言っていたよ」
彼は私の額の汗をハンカチで拭った。
「痛むか? 鎮痛剤を追加してもらおう」
私は彼の目を見た。そこに映っているのは、苦痛に歪む私ではなく、彼が手に入れた「新しい妻」の姿だった。
私は手を伸ばし、彼の手首を掴んだ。
「……潤」
「なんだい? 水でも飲むか?」
「……愛して。こんなに痛いんだから、死ぬほど愛してくれなきゃ、割に合わない」
私の言葉に、潤は優しく微笑み、包帯の巻かれた私の手にキスをした。
「ああ、誓うよ。君は俺の女神だ」
私は目を閉じた。
麻酔の残滓が、再び意識を混濁させていく。
その闇の中で、私は血塗れの百合の花を見た。それは釜山の土に植えられるのを待っている、美しくも哀れな供花のように見えた。
こうして、私は男を殺し、女という名の檻に入った。鍵は、潤が握っている。もう二度と、外へは出られない。
第五章 砂上の楼閣
女であるためには、毎日欠かさず儀式を行わなければならない。
私はベッドの上で膝を開き、医療用の膣拡張器を、まだ生々しい傷跡が残る股間に挿入する。
脂汗が滲む。
造り変えられたばかりの身体は、放っておけば元の形に戻ろうとして、せっかく穿たれた穴を塞ごうとする。だから、こうして異物をねじ込み、「お前はもう男ではない」と肉体に教え込ませなければならないのだ。
それは、愛されるための準備というよりは、自分自身への拷問に近かった。
「まだ痛むか?」
潤がキッチンから顔を出した。エプロン姿の彼は、甲斐甲斐しく私の世話を焼いている。
「少しね。でも、馴染んできたわ」
私は作り笑いを浮かべ、ダイレーターを引き抜いた。
帰国してから一ヶ月。私たちは都内の潤のアパートで同棲を始めていた。
大学の友人たちが遊びに来た時、彼らは私の変貌に驚愕したが、拒絶はしなかった。むしろ、あの演劇『境界線上のアリア』の延長線上にある物語として、奇妙なほどスムーズに受け入れたのだ。
「やっぱり、薫は女だったんだよ」
「舞台の時からそうじゃないかと思ってた」
友人たちは無邪気に笑い、私たちを「お似合いのカップル」と祝福した。彼らにとって、私の性転換は究極の「役作り」であり、エンターテインメントの一部でしかないようだった。その軽さが、私には薄気味悪かった。彼らは誰も、私が夜毎味わっている肉体的な維持の苦痛や、ホルモンバランスの乱れによる情緒不安定を知らない。
ある晴れた日の午後、潤は私を連れて役所へ向かった。
性別の変更手続きは、潤が雇った行政書士の手腕もあり、予想外に早く完了した。戸籍上の「長男」という文字が消え、「長女」に書き換えられる。
だが、潤の目的はそれだけではなかった。
「カオル、これを見てくれ」
区役所の待合室で、潤は一枚の書類と説明書きを広げた。
そこには、日韓の国籍法と婚姻に関する複雑な特例が記されていた。
「僕たちの結婚を、韓国側でも法的に完璧なものにするには、タイミングが重要なんだ」
潤は蛍光ペンで引かれた箇所を指差した。
『韓国人の配偶者となった外国人が、婚姻から六ヶ月以内に出身国の国籍を離脱した場合、簡易手続きにより韓国籍を取得できる』
潤は熱心に語りかけた。
「通常、帰化には何年もかかる。審査も厳しい。でも、今なら愛の特例で、すぐに『金 薫』になれるんだ。逆に言えば、この六ヶ月を逃すと、君はいつまでも『外国人の妻』として、不安定な立場のままになる」
私は書類の文字を目で追った。
日本国籍の喪失。
その言葉の重みが、鉛のように胃の腑に落ちた。
「……日本国籍を捨てるということ? そんなに急ぐ必要があるの?」
「僕を信じてくれないのか?」
潤が悲しげに眉を寄せた。その表情は、バンコクでプロポーズした時と同じ、庇護欲を誘うものだった。
「韓国の家族は、血と籍を重んじる。君が외국사람(外国人)のままだと、実家の両親や親戚が君を完全には受け入れないかもしれない。僕は君を守りたいんだ。完全に僕の家族にするために」
君を守りたい。
その甘い言葉に、私の思考停止した脳は麻痺していった。
日本に未練があるのか? 両親とは、私の「女装」を巡って絶縁状態にある。親戚も私を奇異な目で見ていた。日本という社会に、私の居場所はもうないのかもしれない。
目の前にいる潤だけが、私の新しい世界なのだ。
「……わかった。手続きをするわ」
私は震える手でハンコを押した。朱肉の赤が、まるで血判状のように見えた。
窓口の職員は、事務的に書類を受け取った。「日本国籍を喪失することになりますが、よろしいですね?」という確認も、マニュアル通りの早口だった。
受理された瞬間、私の戸籍謄本には大きな「×」印が打たれることになる。
私は日本人・水原薫を、この手で殺したのだ。
***
そして迎えた結婚披露宴。
都内のホテルの宴会場は、華やかなシャンデリアの光に満ちていたが、その空気はどこか空虚で、歪だった。
私は純白のウェディングドレスに身を包んでいた。コルセットで締め上げたウエスト、豊胸パッドを入れた胸元、プロのメイクで彩られた顔。鏡の中の私は、間違いなく美しい花嫁だった。
しかし、会場を見渡すと、その異常さが浮き彫りになる。
新郎側の席には、潤の大学時代の友人や、日本在住の親戚、そして韓国から来日した両親と姉が座っている。
対して、新婦側の席。
そこには大学演劇部の仲間が数人と、私の数少ない高校時代の友人が座っているだけだった。
親族の席は、無人だった。
招待状を送る際、私は名前を「薫」とのみ記し、性別が変わったことを伏せていた。直前になって、親戚の間で噂が広まったのだ。「薫が韓国人の男と結婚するらしい」「しかも、女になって」。
保守的な私の両親は激怒し、親戚一同に「出席するな」と宣言したらしい。
母から届いた最後の手紙には、『お前のような恥知らずは死んだものと思うことにする』とだけ書かれていた。
「カオルさん、本当に綺麗よ」
私の手を取ったのは、潤の母親だった。
紫色のチマチョゴリを着た彼女は、満面の笑みを浮かべていた。
「ウリ(私たちの)息子が選んだだけあって、最高の嫁だわ。肌も白いし、背も高くて見栄えがいい」
義父も、義姉も、私を「チヤホヤ」していた。まるで高級な人・形・を手に入れたかのように。
彼らは日本語で「おめでとう」と言いながら、時折、韓国語で早口に何かを囁き合っていた。その意味が分からない私は、ただ曖昧に微笑むしかなかった。
「おめでとう、カオル!」
演劇部の仲間がグラスを掲げた。
「これぞ『境界線上のアリア』のハッピーエンドだな!」
誰かの無神経なジョークに、会場が笑いに包まれる。
私はシャンパンを煽った。
ハッピーエンド? 本当に?
スポットライトを浴びながら、私は強烈な孤独を感じていた。
私の親はいない。国籍もない。帰る家もない。
隣で微笑む潤の手が、私の腰に回された。その手は温かかったが、同時に私を逃がさないための鎖のようにも感じられた。
「来週には釜山だね」
潤が耳元で囁いた。
「向こうで本当の結婚式を挙げるんだ。伝統的な、厳かな式を」
私は頷いた。
そうだ。これはまだ披露パーティに過ぎない。本番は海を渡った先にある。
だが、その時の私は知らなかった。
東京での彼らの笑顔が、あくまで「日本のお客様」向けの仮面であったことを。
海峡を越えた先には、花嫁を祝福する鐘の音ではなく、隷属の日々が待っていることを。
キャンドルサービスの炎が揺れる。
私の心の中の不安のように、頼りなく、そして熱く、ゆらめいていた。
第六章 海を渡る
金海国際空港に降り立った瞬間、空気が変わったのが分かった。
海峡を渡る風は冷たく、どこか鉄の匂いがした。
自動ドアが開き、到着ロビーの喧噪が押し寄せてくる。飛び交うハングル。早口で、激しく、どこか怒っているようにも聞こえる抑揚。
私は無意識のうちに潤の腕にすがろうとした。
しかし、潤の手は冷たく私の手を振り払った。
「……人前だ。ベタベタするな」
日本語だったが、その声色は東京にいた時の彼とは別人だった。低い、命令するようなトーン。
私が驚いて顔を見上げると、彼はすでに前を向き、大股で歩き出していた。その背中は「恋人」のものではなく、この儒教社会における「家長」としての威厳を纏い始めていた。
迎えに来た黒塗りのセダンの中で、潤はずっと運転手と韓国語で話していた。
私は後部座席の隅で、車窓を流れる釜山の街並みを眺めるしかなかった。高層ビル群と、山肌にへばりつくような古い家々のコントラスト。この街のどこかに、私の新しい「檻」があるのだ。
潤は私に一言も話しかけなかった。東京ではあれほど私の機嫌をとり、愛を囁いていた男が、国境を越えた瞬間に私を「所有物」として扱い始めた。その変化への戸惑いが、恐怖へと変わっていく。
車は、海雲台に近い高級住宅街の一角にある、威圧的な門構えの屋敷に入った。
玄関を開けると、そこには独特の香辛料と、古い木材の匂いが漂っていた。
「オソオセヨ」
出迎えたのは、東京の披露宴で満面の笑みを浮かべていた義母と、義姉だった。
しかし、今の彼女たちの顔に笑みはない。能面のような無表情で、私を頭の先からつま先まで舐めるように一瞥した。
「……挨拶は?」
潤が私の背中を小突いた。
「あ、あの、こんにちは。お世話になります……」
私が頭を下げると、義姉が鼻で笑った。
「日本語? ここは韓国よ。嫁に来たなら、まずは言葉を覚えなさい。それが礼儀というものでしょう」
流暢な、しかし棘のある日本語だった。
東京で見せた親しげな態度は、あくまで「外国のお客様」に対する外交用の仮面だったのだ。身内になった瞬間、その仮面は剥ぎ取られ、剥き出しの敵意が顔を出した。
通された居間で、義父が重々しく口を開いた。
潤が通訳するが、その言葉は私を断罪するものだった。
「東京での結婚式、あれは何だ」
義父の声が雷のように響く。
「新婦側の親族がゼロ? 友人だけ? おかげで我々は恥をかいた。『金家の嫁は、親にも見捨てられた出処の知れない女だ』と、親戚中が噂しているぞ!」
「申し訳ありません、それは……」
私が弁解しようとすると、義母が扇子でテーブルを叩いた。
「言い訳は結構。日本人の女は口が達者だと聞いていたけれど、本当ね。親が来ないような結婚式なんて、ままごと以下よ。あなたは金家の顔に泥を塗った」
私は唇を噛んだ。
親が来なかったのは、私が性別を変えてまで、あなたたちの息子と結婚することを選んだからだ。全ては潤のためだった。なのに、潤は私を庇うどころか、床を見つめて黙り込んでいる。
「父さん、母さん。カオルにはこれから教育しますから」
潤が韓国語でそう言ったのが、雰囲気で分かった。彼は私を守る盾ではなく、彼ら側の人間なのだ。
その夜、私は「教育」の第一歩として、衣服を剥ぎ取られた。
私が着ていたブランド物のワンピースは「派手でふしだらだ」と捨てられ、代わりに用意されたチマチョゴリを渡された。
淡いピンク色の上着(チョゴリ)と、藍色のスカート(チマ)。
義姉の手によって、胸紐(オッコルム)がきつく結ばれる。
「痛っ……」
「我慢なさい。韓国の女は、こうして胸を圧迫して、慎ましさを保つのよ」
義姉は冷ややかに言い放つと、私の顔を鏡に向けさせた。
「見てごらんなさい。これなら少しはマシに見えるわ」
鏡の中の私は、もはや「水原薫」でも「女優・沙織」でもなかった。
そこには、伝統的な衣装によって個性を塗りつぶされた、ただの「異国の嫁」が立っていた。
コルセットとは違う、文化と歴史による締め付け。この衣装を着ている限り、私は彼らのルールに従わなければならないのだという無言の圧力が、肩にのしかかった。
翌日、潤に連れられて区庁へ向かった。
外国人登録と、韓国籍取得のための手続きだ。
窓口の職員は、私のパスポートと、日本での国籍喪失証明書を確認し、淡々と処理を進める。
「名前は?」
「……金 薫でお願いします」
潤が答えた。私の名前の韓国語読みだ。
書類にスタンプが押される乾いた音が響く。
バン! バン!
その音は、私の退路を断つ銃声のように聞こえた。
「これで完了です。外国人登録証は一週間後に発行されます」
職員から渡された仮の証明書には、ハングルで私の新しい名前が記されていた。
日本の戸籍からは消え、韓国の戸籍に入るための待機状態。今の私は、法的にどこの国の人間でもない、宙ぶらりんの存在だった。
区庁を出ると、釜山の空は鉛色に曇っていた。
「これで安心だな」
潤がタバコに火をつけ、紫煙を吐き出した。
「何が安心なの?」
私が睨みつけると、潤は煙越しに私を見下ろした。
「君はもう日本人じゃない。完全に僕のものだということさ。……さあ、帰ろう。母さんが夕食の支度を手伝えと言っていたぞ」
「夕食の支度? 私は今日、着いたばかりよ」
「甘えるな」
潤の声が低くなった。
「日本にいた時は、君をお客様扱いしていたが、これからは違う。郷に入っては郷に従え。日本人は韓国人を敬うべきだ。それが、過去の歴史に対する贖罪も含めた、君の義務だ」
私は言葉を失った。
彼の口から出た「歴史」「贖罪」という言葉。それは、個人的な愛憎を超えた、もっと巨大で理不尽な何かが、私たちの間に横たわっていることを示していた。
演劇『境界線上のアリア』で、私たちが乗り越えようとした壁。
その壁は、乗り越えられたわけではなかった。
私は壁の向こう側に引きずり込まれ、そこで一生、罪人のように生きることを強いられようとしているのだ。
チマチョゴリの裾を海風が煽る。
私は寒さに震えながら、潤の背中を追った。
その背中は、遠く、冷たく、そして絶望的に大きく見えた。
第七章 萎れた花
その朝、私は夫の背中ではなく、キャリーバッグの車輪が転がる音を見送った。
「大学の論文と、ビザの更新がある。一ヶ月、いや、もしかしたら三ヶ月くらい戻れないかもしれない」
潤は玄関で靴紐を結びながら、事務的に言った。彼はイタリア製のスーツを着て、髪を整え、都会的な青年の顔をしている。
対する私は、色あせたチマチョゴリを着て、化粧も許されず、ただ彼を見送るためだけに膝をついていた。
「私も連れて行って、潤。ここに一人でなんて、無理よ」
私は彼のズボンの裾を掴んだ。
「無理じゃない。君は『金家の嫁』なんだ。僕がいない間、両親に仕えて家を守るのが妻の務めだ」
潤は私の手を煩わしそうに剥がした。
「いいか、カオル。僕が戻るまでに、立派な韓国の嫁になっていろ。それができなければ、僕たちは日本で暮らすことなんてできない」
鉄の扉が閉まる。
エンジンの音が遠ざかっていく。
私はその場に崩れ落ちた。愛の逃避行だと思っていた旅は、私をこの監獄に捨てるための片道切符だったのだ。
地獄の釜の蓋が開いたのは、その翌日からだった。
起床は午前四時。
まだ夜も明けきらぬ暗闇の中で、私は義母に叩き起こされる。
「日本人は寝坊助だね。さっさと起きて、朝食の準備をしなさい」
広い台所は底冷えがした。石の床からの冷気が、素足に突き刺さる。
朝食といっても、トーストとコーヒーではない。ご飯、スープ、キムチ、ナムル、焼き魚……。十皿以上のおかずを、家族全員分、一から手作りしなければならない。
水道の水は氷のように冷たい。ゴム手袋を使おうとすると、義母に取り上げられた。
「手袋なんて楽しようとするんじゃないよ。食材に失礼だろう。素手で洗いなさい」
あかぎれで割れた指先に、唐辛子の粉が染みる。
激痛に顔をしかめると、横で監視している義姉が冷笑した。
「あら、痛いの? 私たちの祖母は、日本人のせいで、もっと痛い思いをしてきたのよ。その程度の痛み、歴史の重みに比べたら蚊に刺されたようなものでしょう?」
彼女たちの論理は常にそこに行き着いた。
私が皿を割れば「日本人は粗暴だ」。味が薄ければ「日本人は情がない」。
私の個人の失敗は、すべて「民族の罪」として断罪された。
私は反論することも許されず、ただ「申し訳ございません」と頭を下げる機械になった。
労働は深夜まで続いた。
掃除機を使うことは許されず、広い屋敷の床を雑巾掛けさせられる。膝が擦りむけ、黒ずんでいく。
洗濯は手洗い。買い出しは重い荷物を背負って徒歩で往復。
食事は家族が食べ終わった後の残り物を、台所の隅で立ったまま食べた。
かつて、東京のステージでスポットライトを浴びていた私は、もうどこにもいなかった。ここにいるのは、パスポートを取り上げられ、言葉も通じない異国で酷使される、性別不詳の奴隷だった。
ある夜、私は風呂場の鏡の前で、自分の裸体を見た。
悲鳴を上げそうになった。
あんなに誇らしかった陶器のような肌は、荒れ果て、所々に青あざができていた。
美しいくびれを作るはずだったウエストは、過労と粗食で骨が浮き出し、ギスギスとしていた。
そして何より、顔だ。
目の下には深い隈ができ、頬はこけ、潤いを失った髪はパサパサと広がっている。
ホルモン剤を飲む時間すら管理され、「毒になるから」と減らされていたせいで、肌の質感が少しずつ硬くなり始めていた。微かに生えてきた髭を剃るカミソリの手も震える。
「……これが、私?」
鏡の中の老婆のような女が、虚ろな目で私を見返している。
美貌。それだけが、私が男を捨ててまで手に入れた武器だった。潤を繋ぎ止めるための唯一の魔法だった。
それが、急速に剥がれ落ちていく。
ダイレーターを入れる気力も残っていない。性転換したばかりの傷口は、ケアを怠ったせいでケロイド状にひきつれ、鈍い痛みを訴えていた。
私はシャワーの音に紛れて泣いた。
涙も枯れ果てていたのか、嗚咽だけが乾いた音を立てて響いた。
限界だった。
私は監視の目を盗み、義母が居間でテレビを見ている隙に、電話をかけた。
震える指で、潤の日本の携帯番号を押す。
コール音が五回、六回。
『……はい』
懐かしい、そして憎らしい声が聞こえた。
「潤! 私よ、カオルよ!」
私は声を押し殺して叫んだ。
「助けて、潤。もう無理よ。殺されるわ」
『……なんだ、カオルか。今、論文で忙しいんだけど』
潤の声は、信じられないほど冷淡だった。
「論文どころじゃないでしょ! お母さんもお義姉さんも、私を人間扱いしてくれない。朝から晩まで働かされて、手はボロボロで……お願い、迎えに来て。日本に帰りたい」
一刻も早く、この地獄から連れ出してほしかった。
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、深いため息だった。
『カオル、君は大げさなんだよ』
「え……?」
『母さんから聞いているよ。「カオルは少しヒステリックだけど、一生懸命花嫁修業をしている」ってね。母さんは君のためを思って厳しく指導してくれているんだ。それを虐待だなんて、被害妄想もいい加減にしろよ』
「違う! 本当に酷いのよ! 『日本人は韓国人を敬え』って、毎日なじられて……」
『当たり前だろう!』
潤が怒鳴った。その声の大きさに、私は受話器を離しかけた。
『君は日本人が過去に何をしてきたか知っているのか? 僕の家がどれだけ苦労してきたか。嫁に来たなら、その罪滅ぼしをするのが愛だろう? それとも君の愛はその程度だったのか?』
言葉が出なかった。
愛。その言葉が、これほど汚らしく響くとは思わなかった。
彼は、洗脳されている。いや、これが彼の本性だったのだ。東京で見せていたリベラルで優しい「キム・ジュン」は、マイノリティとして生き残るための演技だった。
ここ、釜山での彼は、絶対的な権力を持つ「長男」であり、私はその所有物に過ぎない。
「……あなたは、私が男だった時の方が、優しかったわね」
私が乾いた声で呟くと、潤は鼻で笑った。
『男の君には価値がなかった。女になった君には、妻としての価値がある。期待に応えろ。……切るぞ』
プツン。
通話が切れた。
無機質な電子音が、私の最後の希望の断絶を告げていた。
背後で気配がした。
振り返ると、義姉が腕組みをして立っていた。その目は、獲物を見る蛇のように冷たかった。
「告げ口? 生意気な口ね」
彼女の手が上がり、私の頬を強打した。
私は床に倒れ込んだ。口の中に血の味が広がる。
「今日は夕食抜きよ。明日の朝までに庭の雑草を全部抜いておきなさい」
私は泥のついた床を見つめたまま、動けなかった。
頬の痛みよりも、心の中で何かが完全に壊れる音が聞こえた。
私は「萎れた」のではない。
根こそぎ引き抜かれ、踏みにじられたのだ。
庭の暗闇の中で、虫の音が聞こえる。
私はゆっくりと体を起こした。
もう、愛も夢もない。あるのは生存本能だけだった。
ここから逃げなければ。
たとえ、国籍も名前も失った「幽霊」になるとしても、この家で腐り果てるよりはマシだ。
私の目から、涙は消えていた。代わりに、暗く澱んだ決意の光が宿り始めていた。
第八章 無国籍の亡霊
関釜フェリーの重いエンジン音が、私の背骨を振動させていた。
夜の海は漆黒で、どこが空でどこが波なのか判別がつかない。私は甲板のベンチで膝を抱え、遠ざかる釜山の灯りを見つめていた。
所持品は、薄いボストンバッグ一つだけ。中身は、金庫から盗み出した自分のパスポートと、わずかな日本円、そして着替えの下着のみ。
あの「牢獄」から逃げ出した時の記憶は曖昧だ。ただ、深夜に義父母の寝息を確認し、裏口の鍵をこじ開け、タクシーに飛び乗った時の心臓の早鐘だけが、今も耳の奥に残っている。
海峡を渡る風が、痩せこけた私の頬を打つ。
数ヶ月前、私は「愛される花嫁」として海を渡った。
今、私は「逃亡者」として戻っていく。
鏡を見なくてもわかる。今の私は、かつて舞台で輝いていた「水原薫」でも、美しき「沙織」でもない。ただの、疲れ果て、怯えきった、性別不詳の生き物だ。
下関港の入国審査場。
私は迷わず「Foreigners(外国人)」の列に並んだ。
「Japanese(日本人)」のゲートは空いている。だが、私はもうそこを通れない。私のパスポートは日本のものだが、すでに韓国での国籍取得手続きを進め、日本国籍離脱の届出も済ませている。日本のデータベース上、私はすでに「除籍」された人間か、あるいは手続き中の宙ぶらりんな存在だ。もし日本人ゲートで止められ、詳細を照会されれば、潤に連絡がいくかもしれない。それだけは避けたかった。
「Next(次の方)」
入国審査官が事務的に手招きした。
私は帽子を目深にかぶり、震える手でパスポートを差し出した。
審査官は私の顔と写真を見比べ、怪訝そうに眉をひそめた。写真の私は輝くように美しいが、目の前の現物は骸骨のようにやつれているからだろう。あるいは、男の骨格を持ちながら、女の服を着ていることへの違和感か。
「……観光ですか?」
審査官が日本語で尋ねてきた。
「は、はい。久しぶりの帰省で……」
声が裏返る。
審査官は無言でスタンプを押し、パスポートを返した。
『上陸許可 短期滞在 90日』
そのシールを見た瞬間、目眩がした。
ここは私の生まれ故郷だ。なのに、私はここでは「90日しかいられない外国人」なのだ。
自動ドアを抜けると、日本の空気が満ちていた。しかし、それはかつてのように私を優しく包み込んではくれず、冷たく突き放すような余所余所しさを帯びていた。
実家のある関東郊外の私鉄沿線の町に着いたのは、夕方だった。
かつて見慣れた商店街、通学路。
だが、誰にも顔を見られたくなくて、私は路地裏を選んで歩いた。まるで指名手配犯のように。
実家のチャイムを鳴らすと、しばらくして母が出てきた。
「……どちら様?」
一瞬、母は私だと気付かなかった。それほどまでに私は変わり果てていたのだ。
「お母さん、私よ。……薫よ」
母の目が見開かれ、次に浮かんだのは安堵ではなく、狼狽と嫌悪だった。
「……何しに来たの」
「逃げてきたの。向こうで酷い目に遭って……もう無理なの。家に入れて」
私が玄関に入ろうとすると、母は立ちはだかった。
「近所に見られるじゃない! 早く入りなさい!」
母は私の腕を掴んで引きずり込み、素早く鍵をかけた。
居間の空気は重かった。
父は新聞から目を上げず、私の姿を見ようともしなかった。
「どんな面を下げて帰ってきたんだ」
父の第一声はそれだった。
「勝手に身体をメスで切り刻んで、親の反対を押し切って韓国人と一緒になったんだろう。それが、たった数ヶ月で『辛いから帰ってきました』だと? ふざけるな」
「辛いなんてレベルじゃないの! 奴隷みたいに働かされて、暴力も振るわれて……」
私が訴えても、父は冷淡だった。
「自業自得だ。お前が選んだ道だ」
「あなたね」
母が冷たいお茶をテーブルにドンと置いた。
「今、お前の妹の結衣(ゆい)に、いい縁談が来ているのよ。相手は公務員の真面目な家柄なの。そこへ、『性転換して韓国に嫁いだけれど、出戻ってきた兄』がいるなんて知れたらどうなると思う? 破談になるわ」
母の言葉には、私の安否を気遣う響きは欠片もなかった。あるのは「世間体」という名の鎧だけだ。
「じゃあ、私はどうすればいいの? 他に行くところがないのよ」
「……離れにいなさい」
父が吐き捨てるように言った。
「昼間は外に出るな。近所の人に顔を見られるな。お前は死んだものとして扱っているから、亡霊みたいにうろつかれると迷惑なんだよ」
実家での生活は、釜山での生活と大差なかった。いや、精神的にはもっと惨めだったかもしれない。
私は庭の奥にある物置同然の離れに押し込められた。
食事は母が運んでくるが、会話はない。
ある日、どうしても必要な生理用品を買うために、こっそりとコンビニへ出かけた。
帰り道、近所の主婦たちの井戸端会議の声が聞こえた。
「あれ、水原さんところの薫ちゃんじゃない?」
「えっ、韓国に行った息子さん?」
「やっぱり、女の格好してたわよ。気味が悪いわねえ」
「やっぱり、あっちの国の人と関わるとロクなことにならないわね」
私は顔を伏せて早足で通り過ぎた。
彼女たちの言葉が、鋭い礫となって背中に刺さる。
大学時代、私は演劇『境界線上のアリア』で、在日コリアンへの差別を告発しようとした。差別の不条理さを訴え、壁を壊そうとした。
なんという皮肉だろう。
今、私は「韓国人の妻」として、そして「得体の知れない性別の者」として、その差別のド真ん中に立たされている。
脚本の中のヒロイン・沙織は美しく散ったが、現実の私は、ただ薄汚れて、蔑まれているだけだ。
これが、差別の実態だったのか。
高尚な理念や正義感など通用しない、生理的な嫌悪と排除の論理。私はそれを、身をもって知った。
数日後、私は区役所へ向かった。
住民票を復活させ、国民健康保険に入らなければ、ホルモン剤も手に入らないし、病院にも行けない。
窓口で事情を説明すると、若い職員は困惑した顔でパソコンの画面を叩いた。
「あー……水原さん、ですね。ええと、戸籍上はすでに『国籍喪失』の届出が出ていますね」
職員の声が、周囲に響く。
「ですので、住民票の転入届ではなく、外国人としての『中長期在留者』の登録が必要になります。ですが……」
職員は申し訳なさそうに言った。
「現在、あなたのパスポートにあるのは『短期滞在』の資格だけです。これでは住民登録もできませんし、保険証も作れません。まずは入管(入国管理局)に行って、ビザの変更申請をしてください。……配偶者である金潤さんが身元保証人になれば、可能性はありますが」
目の前が真っ暗になった。
日本にいるのに、日本人ではない。
韓国人の妻としてのビザを得るには、私を虐待した夫・潤の協力が必要不可欠だというのだ。
「……夫とは、別居中でして」
「そうですか。そうなると、就労ビザか何か別の資格がないと、90日後には不法滞在になりますよ」
事務的な宣告。
私はよろめくようにカウンターを離れた。
ロビーの椅子に座り込み、天井を見上げた。
私には国籍がない。
厳密には韓国籍があるはずだが、手元にあるのは無効になりかけた日本のパスポートだけ。
日本という国が、巨大な壁となって私を締め出そうとしていた。
妹の縁談に差し障るから、実家にも居場所はない。
近所からは変質者扱い。
行政からは不法滞在者予備軍扱い。
私はカバンの中のホルモン剤の残りを確かめた。あと数錠しかない。
これを飲みきったら、私の身体はまた男に戻ろうとするのだろうか。それとも、男でも女でもない、崩れた肉塊になるのだろうか。
その時、ふと、大学のキャンパスの風景が脳裏をよぎった。
まだ希望があった頃。差別と戦おうとしていた頃。
戻りたい。でも、もう戻れない。
私は、社会の隙間に落ちたゴミ屑のように、ベンチで小さく震えるしかなかった。
この国には、私の居場所はどこにもなかった。
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