羊皮紙の記憶
奪われたアイデンティティ
原作:The Palimpsest
A Novel of Erasure and Revenge
by Yulia Yu. Sakurazawa
第1章:硝子の檻
窓枠に切り取られた景色は、まるで処方箋のように無機質だった。
曇天の灰色、ヒースが広がる荒野のどす黒い紫、そして忍耐だけを約束するかのような岩だらけの稜線。眼下では川が岩を噛みながら奔流し、その音はホワイトノイズか、あるいは耳の奥で早鐘を打つ血流のようにも響いた。
アスペン病院の看護師たちは、その朗らかで丸みを帯びた声色でここをダートムーアの田園風景だと謳った。絵画のように美しく、心身を癒す場所だと。肺を浄化する清浄な空気に満ちた場所だと。だが二重の強化ガラス越しに見るその景色は、もはや私が住むことを許されぬ異界の絵図にしか見えなかった。
今日は土曜日だ。シーツが交換されていることでそれが分かる。糊のきいた布地からはラベンダーの香りが漂い、喉の奥に絡みつくような甘ったるさで、この施設特有の臭気を覆い隠そうとしていた。床ワックス、湿った羊毛、そして微かに漂う管理された狂気の金属臭を。
私はベッドの端に腰を下ろしていた。掌を上に向け、死んだ蜘蛛の脚のように指を軽く曲げて膝の上に置く。それを凝視する。手入れの行き届いた爪、執拗なまでに整えられた甘皮、白くほっそりとした美しい指。それは美しい手だった。だが私の手ではない。
これこそが私の存在における決定的な欠落であり、機械仕掛けのバグだった。借り物の器に宿っているという拭い難い確信。
私がここに収容されて十年になると彼らは言う。十年。その数字はポケットの中の丸くなめらかな小石のように、何の実体も重みも伴わなかった。十年であったかもしれないし、十分間であったかもしれないし、一世紀であったかもしれない。アスペンにおいて時間は流れず、ただ淀む。部屋の隅に積もる埃のように堆積していくだけだ。
「今日は調子が良いようだね、アンジェラ」
回診に訪れたヒックマン院長は、顔面に縫い付けたような笑みを浮かべてそう言った。
「意識が明晰だ」
明晰。硝子や水のように透き通っていることを指す言葉。だが私は明晰さなど感じてはいなかった。不透明で、綿を詰め込まれたかのように思考は鈍重だった。
立ち上がり、鏡の前へ歩み寄る。もちろん鏡は壁にボルトで固定されている。重力あるいは鎮静剤の効力が切れれば、私たちがどこかへ浮遊してしまうとでも危惧しているかのように、ここではすべてが繋ぎ止められていた。
鏡の中の女が、大きく怯えた瞳で私を見返した。矢車菊のような青い瞳は、この部屋にはあまりに鮮やかすぎ、その奥にある精神に対してあまりに無垢に見えた。麦藁色の髪は絹の滝のように重厚で、豊かな量感を誇っている。一房すくい上げて触れてみる。猫を撫でているかのような、どこか他人事の感触だった。
アンジェラ。
サイズ違いのコートの襟に縫い付けられたラベルのような名。口に出して囁いてみる。
「アンジェラ」
柔らかく、たわわで、輪郭を持たない響き。
見ることを禁じられている保管庫のカルテによれば、私は三十五歳だという。両親の命を奪った自動車事故の生存者であり、ひしゃげた金属と砕け散ったガラスの悲劇によって脳の回路を焼かれた女。外傷性健忘症。逆行性および前向性健忘。要するに私は、入口も出口もなく「現在」という廊下に閉じ込められた家なのだと言いたいのだろう。
だが精神が忘却しても、肉体は記憶していた。
私の肩はあるべき幅を記憶している。部屋を歩く際の歩幅は、足がもっと多くの地面を覆うことを期待しているかのように寸足らずに感じられた。皮膚の下には幻の地図があり、消し去られた国の地形が刻まれている。
鏡から背を向ける。これを書き留めておきたかった。記録したいという衝動は肉体的な疼きとなり、眼球の裏を圧迫した。矛盾点を列挙し、霧が再び立ち込める前に記憶の影を捕らえたかった。だがペンがない。
「休息が必要だ」
クリップボードを叩きながらヒックマン院長は言ったものだ。
「書き散らすことは神経を逆なでするだけだよ、アンジェラ。我々は炎症を鎮めたいのであって、傷口を掻きむしりたいわけではないのだから」
そうして私は沈黙に取り残される。
外では空が暗転しつつあった。雲は灰色から墨色へとあざを作り、暴力の予感を孕んで垂れ込めている。嵐が来る。気圧の低下が歯の根に響く。風が唸り声を上げて丘の上の葦を打ち据え、屈服させていた。
あの葦に対し、唐突で鋭い親近感を覚えた。
ノックの音。それは伺いではなく、警告として響いた。
私が口を開く間もなく、ヒル看護師が忙しなく入室してくる。丸い顔、丸い眼鏡、はち切れんばかりの制服に包まれた丸い体躯。彼女は円のみで構成された女だった。がたつくワゴンを押してくる。
「午後の紅茶よ」
作り物めいた明るい声は、無人の部屋で唸る蛍光灯のようだった。
「窓辺に立って、悲劇のヒロイン気取り? もっと血色を良くしなくてはね」
彼女は茶葉よりもミルクの分量が多い紅茶と、おがくずを固めたようなビスケットを置いた。促されるままに座る。ここでは常に促されるままにするのだ。抵抗にはエネルギーを要するが、私にはその蓄えが乏しい。
「よく眠れた?」
彼女はこちらを見ずに尋ねた。その目は部屋中を走査し、禁制品や混乱の兆候、私の仮面のひび割れを探している。
「いくらかは」
私は嘘をついた。
「結構。明日は叔父様がいらっしゃるのよ。最高のご様子でなくては」
彼女はポケットからヘアブラシを取り出した。
「後ろを向いて」
従うほかない。彼女は私の髪を梳かし始めた。その手つきはリズミカルだが強引だった。患者ではなく、品評会に出すプードルを整えているかのようだ。
「なんと愛らしい髪」
羨望も称賛もなく、ただ事実として彼女は呟いた。
「切ってしまうなんて罪深いことだわ」
罪。
唐突に、暴力的な映像が脳裏を閃いた。長く波打つ金髪ではない。床屋の床に散らばる短く軽い髪の残骸。タルカムパウダーとベイラムの匂い。剃り上げられた首筋に触れる冷たい空気。その記憶は鋭利で、内臓に響くほど生々しく、現実的だった。
私は反射的に頭を引いた。
「じっとして」
ヒル看護師の声から甘さが消え失せ、看守の冷鉄が顔を出した。
「厄介事はなしよ、アンジェラ。厄介なことになったらどうなるか、わかってるでしょう」
私は硬直した。心臓が肋骨を叩く。箱の中の鳥のように。何が起きるか知っている。あのキット。注射針。氷のように焼きつく液体、そして痙攣、発作、忘却。
「ごめんなさい」
謝罪は灰の味がした。
「それでいいのよ」
彼女は再び髪を梳き始めた。
「私たちはただ、あなたに幸せになってほしいだけ。あなたらしくあってほしいの」
鏡の中の彼女の影越しに、私は雨のカーテンに覆われ灰色に滲む丘を見つめた。
だが私は私ではない。頭蓋の沈黙の中で言葉が絶叫した。私は別の誰かだ。行方不明の誰かなのだ。
嵐が硝子に打ちつけ、私たち二人のために涙を流していた。
第2章:日曜日の演目
彼らは私を紙人形のように装わせた。
折っては畳み、撫でつけてはボタンを留める儀式。ヒル看護師は精肉店主が肉を包むような手際でそれを取り仕切った。あてがわれたドレスは合成繊維のエメラルドグリーンで、季節外れな上に時代錯誤でもあった。薄っぺらな布地は膝丈で終わり、あまりに白く無防備なふくらはぎを晒け出していた。
「ズボンではいけないの?」
口にした瞬間、静かな池に石を投じたかのような危うさを感じた。
ヒル看護師の手が止まる。拘束衣の代用品のようなデニムジャケットを手に、彼女はこちらを見た。
「ズボンですって? 馬鹿なことを言わないで、アンジェラ。あなたはレディなのよ。レディは風を感じるのが好きなものだわ」
反論を許さぬ口調だった。私はドレスの中に押し込められ、つま先を締め付ける茶色のパンプスを履かされた。観客のために組み立てられた女、それが私だった。
「ご家族がお待ちよ。待たせてはいけないわ。感謝は美徳でしょう」
感謝。その言葉は銅の味がした。私を閉じ込める屋根、監禁を持続させる食事、そして動物園の展示物を眺める観光客のように訪れる家族に対し、感謝せよというのだ。
廊下を歩く。リノリウムの床は人工的かつ化学的な光沢を放っていた。外に出る。昨日の嵐が世界を洗い流し、空は硬質で容赦のない青を湛えている。日差しが鋭く目に痛い。
刈り込まれた芝生の上に設えられた錬鉄製のテーブルで、彼らは待っていた。その光景はあまりに完璧で、「上流中産階級の慈愛」という概念を売るカタログ写真のようですらある。銀のティーポットが二つ。スコーンの乗った段皿。そして私と血を分けているはずの四人の人物。
ヒル看護師は私を芝生の端まで送り届けると、柵に止まる鷹のように敬意ある距離まで後退した。
「アンジェラ! やあ、来たね。眠れる森の美女だ」
立ち上がった男。ローガン叔父。要塞のような体躯の男で、この病棟の年間予算を上回るであろうバーバリーのスーツに身を包んでいる。政治家が好んで作るような顔立ちをしていた。重厚な自信に満ちたハンサムな顔だが、目尻の笑い皺とは裏腹に、瞳の中心は平坦で不透明だった。
胃が痙攣した。蝶が舞うような可愛らしいものではない。蛆が這うような感覚。
「こんにちは、叔父さん」
屋外の空気の中で、私の声は頼りなく響いた。
彼は歩み寄り、抱擁した。窒息しそうな抱擁だった。高価な煙草、革、そして脳幹にある原始的な警報を鳴らす甘ったるい麝香の香りがした。逃げろ、と本能が囁く。これは捕食者だ、と。
解放されるまで、私はその腕の中で硬直していた。
「顔を見せてくれ」
腕を伸ばして私の二の腕を掴み、彼は言った。指が肉に食い込む。
「健康そうだ。そう思わないか、息子たち」
「息子たち」はテーブルについていた。私の従兄弟たち。
ジェイコブは兄で、ポロシャツが悲鳴を上げんばかりの筋肉の塊だった。太い首、未熟な職人が花崗岩から削り出したような顎。彼は退屈と品定めが入り混じったような、解読不能な眼差しで私を見ていた。競売にかけられた未経産牛を見る農夫の目だ。
ノアは弟で、背は低く肉付きが良く、腹周りに重みが溜まっていた。歯茎を剥き出しにした笑みを向けたが、媚びを含みつつも本当の温かみは欠落していた。
「素敵だよ、アンジェラ。本当に。田舎の空気が合っているみたいだ」
「座りなさい」
ローガン叔父が手を振って命じ、私は座った。
テーブルにはもう一人いた。馬面で神経質そうな女、首を絞められそうなほど重厚な真珠を身につけている。ジェイコブの妻、サラだ。彼女は憐れみと病的な好奇心が混ざった目で私を見ていた。
「焼き菓子を持ってきたの。バースにある、あなたのお気に入りの店よ。その……好きだと聞いたから」
期待に応えるために一つ手に取り、皿の上で崩した。
「お仕事はどうですか」
唯一無難な話題だった。ワーウィック出版社。父が築き、今は叔父が支配する帝国。
「好調だよ」
ローガン叔父は紅茶を注ぎながら言った。
「学術誌の分野にも進出した。知的市場の需要は底なしだ。もちろん頭痛の種もある。物流だの組合だの。だが誰かが灯火を守らねばならんからな」
「私、たくさん本を読んでいるの」
胸の内に小さな反抗の火が灯るのを感じながら私は言った。
「移動図書館の本は全部読んだわ。もしかしたら……良くなったら、手伝えるかもしれない。校正とか」
テーブルに落ちた沈黙は即座にして絶対的だった。脚本からの逸脱に対する沈黙。
ジェイコブが椅子の上で身じろぎし、金属脚が石畳を擦って不快な音を立てた。彼はサラを睨みつけた。まるで彼女がこの野心の噴出に責任があるかのように。
「アンジェラ」
ローガン叔父の声が低くなり、宥めるような、それでいて危険なバリトンへと変わる。
「先走ってはいけないよ。ヒックマン先生の言葉を覚えているだろう。ストレスは敵だ。複雑な思考は……君には負担が大きい。また発作を起こしたくはないだろう?」
「ただ、思っただけ――」
「あなたは病気なのよ」
サラが早口で付け加えた。視線は夫の方を向いている。
「ただ休んでいてほしいの。あなたは……その、壊れやすいのだから」
壊れやすい。その言葉は頭から被せられた網のようだった。
「それに」
ジェイコブが低く唸るような声で言った。足を広げ、無造作な支配力を誇示するように背もたれに寄りかかる。
「君にはここにいてもらわなきゃ困るんだ。良くなること、それが仕事だろ。存在していることがさ」
「ジェイコブはロッジに一週間いたんだ」
崖っぷちの会話を逸らすように、ノアが大声で割り込んだ。
「射撃をしてたんだよ。なあ、ジェイク?」
「射撃?」
口の中のスコーンが砂に変わった。
「ただのウサギ狩りさ」
ローガン叔父が笑った。豊かで響き渡る笑い声だが、言葉の残酷さとは不釣り合いだった。
「害獣駆除だ。ジェイコブは腕利きでね。本能的な才能がある。土地のためには間引かれねばならん命もあるということだ」
その時、彼が私を見た。その目は暗く、底知れぬ穴のようだった。一瞬、親切な叔父の仮面が剥がれ落ち、別の何かが覗いた。罠にかかった獲物を見る狩人の目。
冷たく鋭い悪寒が背筋を走った。氷の記憶のようだった。
「理由のない狩猟は違法でしょう」
私が呟くと、ジェイコブが言った。
「俺たちはワーウィック家だ。俺たちが理由を作るんだよ」
「気にしないで」
震える手でティーカップを持ち上げながらサラが言った。
「男の人たちの遊びよ。アンジェラ、教えて……何か新しいことは覚えてる? ヒックマン先生が進歩があったと仰っていたけれど」
テーブルの空気が張り詰めた。これが真の尋問だ。紅茶とスコーンはただの賄賂に過ぎない。
私は彼らを見回した。私の遺産を握る叔父。警戒心に満ちた目で私を見る従兄弟たち。彼らに怯えるその妻。
「いいえ」
私はスパイのような滑らかさで即座に嘘をついた。
「何も。ただ霧があるだけ。いつもの霧よ」
ローガン叔父が息を吐いた。肩の力が僅かに抜ける。緊張が霧散し、陶器が触れ合う音だけが戻ってきた。
「可哀想に」
彼はテーブル越しに手を伸ばし、私の手を叩いた。その皮膚は乾いて温かかった。
「心配はいらないよ。我々がすべての面倒を見るから。君はただここにいて……安全でいればいい」
安全。
完璧に手入れされた芝生に太陽が降り注ぎ、影の輪郭を鋭く際立たせる中、私は恐ろしい確信と共に悟った。「安全」こそが、私が決して手に入れられないものであると。私がアンジェラである限り。私が彼らの所有物である限り。
第3章:新たな研修医
面会からの数日間は、雨とルーティンの中に溶けていった。熱湯の中の砂糖のように、日々は境界を失っていた。私は自分の墓をさまよう幽霊のように病院内を移動した。トレイが現れれば食べ、照明が落ちれば眠り、怪物を遠ざけるためだという錠剤を飲み込んだ。その実、怪物は錠剤を配る側なのだと疑いつつも。
そして火曜日が来た。
火曜日は通常、スミス医師の日だ。神経科部長。傲慢さを白衣のようにまとった男。彼はアヒルの子のように不安げな医学生の群れを引き連れて現れ、まるで私がペトリ皿の中の興味深いカビででもあるかのように指差すのだ。
「症例402。逆行性健忘。認知的不協和。感情の平板化と反応の欠如に注目するように」
私は火曜日を憎んでいた。棚から下ろされ、埃を払われ、少し傾いて戻される物品のような気分にさせられるからだ。
だがその火曜日、ドアが開いた時、そこにスミスはいなかった。
代わりに一人の青年が枠の中に立っていた。入室する権限があるのか確信が持てないかのように、戸枠に寄りかかっている。柳のようにひょろ長く、関節ばかりが目立つ体躯。髪は沈みゆく太陽の色――無菌室のような白い廊下に対する反逆のような、鮮烈で強烈な赤毛だった。
白衣を着てはいたがボタンは外され、下には黒のTシャツとジーンズが見える。医者には見えなかった。何かの間違いのように見えた。
「何かご用?」
私は尋ねた。声が錆びついていた。日曜日以来、口をきいていなかったことに気づく。
彼は少し驚いて姿勢を正した。
「実のところ、僕が君の役に立てればと思っていたんだ。だけど……どうやら地図をなくしてしまったみたいでね。比喩的な意味で」
彼は微笑んだ。歪んで自信なさげな笑みで、私が見慣れている専門家の洗練さとは無縁のものだった。瞳は灰色で、雨のように澄んで透明だった。
「ここは東棟よ」
私は言った。
「見込みのない症例のための保管施設」
彼の笑みが揺らぎ、それからより深い、真実味のあるものへと変わった。彼は部屋に足を踏み入れ、背後で静かにドアを閉めた。ラッチが噛み合う音が不自然なほど大きく響く。
「僕はレイだ。レイ・ワイズ医師。もっとも『医師』という部分はまだ他人の服を着ているような気分だけどね。研修医だ。精神科の」
「私はアンジェラ。ファイルを読んだでしょうけれど」
「読んだよ」
彼は認めた。窓辺の椅子――二日前にローガン叔父が座っていた来客用の椅子――に歩み寄り、腰を下ろした。だが医者のような座り方ではなかった。フォルダを開くこともペンを鳴らすこともなく、ただ膝の間で手を軽く組み、私を見ていた。
「でもファイルはただの紙切れだ。呼吸はしない」
私は彼を観察した。若い。私と同じくらいか、あるいは年下かもしれない。彼にはエネルギーがあった。部屋の静寂を乱す振動周波数が。
「なぜここに、ワイズ先生? 展示品の管理は普段スミス先生の仕事よ」
「僕は展示品を見に来たんじゃない」
レイは静かに言った。
「ローテーションで回ってきたんだ。それに……昨日、廊下で君を見た」
「昨日は部屋から出ていないわ」
「知ってる。ドアの窓越しに見たんだ。君は歩き回っていた」
私は身構えた。歩き回るのは私の「チック」の一つだ。ヒル看護師はそれを「興奮状態」と呼ぶ。
「ただ歩き回っていただけじゃない」とレイは続けた。その眼差しは真剣味を帯び、ぎこちなさが消えていた。
「君は測っていた。この部屋の外周を完璧になぞって歩いていた。踵から爪先へ。君の動きは……効率的だった。足の母指球で鋭くターンし、バランスを保っていた。君は窓のラッチを確認し、ドアのヒンジを確認した」
見られているとは気づかなかった。裸にされたような気分だった。
「それが?」
「つまりだ」
レイは身を乗り出した。
「それは十年もの間、鎮静剤を打たれて寝たきりだった女性の動きじゃない。『壊れやすい病人』の動きでもない。それは脱出を計算している者の動きだ。あるいは、空間を支配することに慣れている者の動きだ」
息が止まりそうになった。
「何を言っているのか分からないわ」
「分かっているはずだ」
彼は悪気のない口調で言った。
「スミス医師には壊れた脳に見えるかもしれない。でも僕には……別なものが見える。箱の中に収まりきらない人間が見えるんだ」
彼は部屋を見回した。
「本。ウルフ、プラス、ドストエフスキー。これらは認知障害のある患者のチョイスじゃない。読んだのかい?」
「ええ」
「理解できた?」
「ええ」
「なら君は、カルテに書かれている通りの人間じゃない」
この十年間で初めて、誰かが対等な人間として私に話しかけてきた。知性ある存在として。その安堵感はあまりに唐突で鋭く、物理的な打撃のように感じられた。涙が目に滲む。私は顔を背け、恥じ入った。
「どうして気にかけてくれるの?」
私は囁いた。
「直感さ」
レイは言った。
「勘と呼んでもいい。父も医者なんだけど、僕は医者にするには共感しすぎるって言うんだ。深入りしすぎるとね。でもアンジェラ、君を見ていると絶望的な症例には見えない。鍵のかかった扉が見えるだけだ。そして僕は、鍵開けがかなり得意なんだよ」
彼は立ち上がり、本棚へ歩み寄って背表紙を指でなぞった。
「来月まで僕が君の担当だ。医学生は連れてこない。僕だけだ。天気の話をしてもいいし、ドストエフスキーの話をしてもいい。あるいは……」
彼は振り返り、灰色の瞳で私を射抜いた。
「なぜ君が自分の肌を他人のもののように感じているのか、その話をしてもいい」
部屋の空気が変わった気がした。嵐の帯電が戻ってきたようだが、今度は壁の内側にあった。
「きっと信じないわ」
私は言った。
「もし本当のこと……私が感じていることを話したら、あなたは投与量を増やすだけだわ」
レイは首を振った。
「試してごらん」
私は彼を見た。真剣に彼を見た。無造作な赤毛、開けっ広げな顔、注射器や拘束具へと伸びていない手。彼は計算外の変数だった。ワイルドカード。
「私……」
言葉がつっかえながら出てくる。
「機械に取り憑いた幽霊みたいな気分なの。ファイルにはアンジェラ・ワーウィックとある。でも鏡を見ると……別な誰かが映っているのを期待してしまう」
「誰を?」
「分からない」
私は告白した。声が震える。
「でも、彼が彼女でないことは分かっている」
レイは瞬きもしなかった。「妄想」とメモを取ることもなかった。ただゆっくりと頷いた。まるで彼が抱いていた疑念を私が裏付けたかのように。
「分かった」
彼は優しく言った。
「なら、彼を見つけよう」
彼はポケットに手を入れ、禁制品を取り出した。黒いボールペン。彼はサイドテーブルに歩み寄り、私の本の隣にそれを置いた。
「書き留めるんだ。心に浮かんだことを何でも。彼らに君の言葉を奪わせてはいけない」
彼はドアに向かった。
「また明日、アンジェラ」
ドアが閉まりラッチが鳴ると、私はペンを見つめた。小さなものだ。安っぽいプラスチックの塊。だが白いラミネートの上に置かれたそれは、武器のように見えた。
手に取ってみる。重みを感じた。現実味があった。
十年ぶりに、完全な孤独ではないと感じた。硝子の檻に亀裂が入ったのだ。そしてレイ・ワイズは今、私にハンマーを手渡したのだった。
第4章:羊皮紙(パリンプセスト)
ペンは秘密だった。シーツの下、太腿に押し当て、自身の体温でプラスチックを温めていた。まだ使ってはいない。空白のページが私を誘惑する。『灯台へ』の余白が埋められることを叫んでいるようだったが、恐怖という習慣は断ち切りがたい。指にインクの染みがつけばヒル看護師に見咎められ、ペンは没収され、おそらく私の正気さえも奪われるだろう。
朝はリノリウムを擦るゴム底の音と共に訪れた。
「お風呂の時間よ」
ヒル看護師が宣言し、ドアを開け放つ。伺いではなく命令だった。
これも屈辱の儀式の一つだ。自分で体を洗うことはできるが、「高リスク」患者に対する病院の規定が監視を要求していた。浴室へ連行される。消毒液とカビの混ざり合った臭いのするタイル張りの部屋。浴槽は猫足の古びた怪物で、幾千もの洗浄による錆が磁器を汚していた。
「お湯に入って」
顔をしかめて湯加減を確認しながら彼女は命じた。
「ぐずぐずしないで。後でワイズ先生がいらっしゃるのよ。小綺麗にしておかなくては」
私は服を脱いだ。その行為は機械的だった。解離し、天井へと浮遊して、緑のドレスから抜け出す下の色白の女を見下ろす。自分自身を見ないようにした。曲線、柔らかさ――すべてが脱ぐことのできない衣装のように感じられた。
だが膝を抱えて湯に浸かっていると、ヒル看護師が石鹸を手渡してきた。
「脚を洗って」
タオルの整理をしながら彼女は言った。
「ちゃんとね」
石鹸を受け取り、脛から足首へと滑らせる。そこで手が止まった。
右のふくらはぎの裏、アキレス腱のすぐ上に印があった。もちろん以前から見ていたものだ。刺青。吸血鬼のように青白い肌にある唯一の傷。それを施した記憶はないにもかかわらず、自分の意志で選んだと感じられる唯一のものだった。
脚をひねり、石鹸水越しに覗き込む。
アンジェラ(Angela)。
流れるような優雅な書体。ゴシック体に近い。黒いインクは歳月を経て、打ち身のような深い青へと退色していた。
親指で文字をなぞる。A、n、g、e、l。
指が止まった。最後の文字――a――の感触が違う。
顔を近づけ、鼻先が水面に触れそうになるまで凝視した。最初の五文字は滑らかで、インクは真皮深くまで定着し、縁が時間の経過でわずかに滲んでいる。だが最後のaは……色が濃い。鋭い。フォントが数ミリずれており、セリフ(飾りの線)がわずかに攻撃的だった。
それは後から付け足されたもののように見えた。訂正のように。
「何をじろじろ見ているの」
タオルをぱちんと鳴らし、ヒル看護師が吠えた。
私は脚を下ろし、しぶきを上げた。
「何でもないわ。ただの痣よ」
「不器用な子ね」
彼女は呟いた。
「上がりなさい。ふやけてしまうわ」
***
レイは二時にやってきた。
彼は雨とコーヒーの匂いを纏っていた。鋭く苦い香りが病院の無菌的な空気を切り裂く。疲れているようだった。目の下に隈があったが、エネルギーは相変わらず狂おしく、ハチドリの羽ばたきのように振動していた。
「アーカイブを調べたよ」
彼は前置きなしに言い、来客用の椅子に座った。
「十年前の入院記録だ」
心臓が早鐘を打つ。
「それで?」
「完璧だ」
彼の声に苛立ちが滲んでいた。
「完璧すぎるんだ。署名はすべて正しい場所にあり、証人もいる。事故に関する警察の報告書もある。全て揃っているよ、アンジェラ。書類の要塞だ」
胸に押しつぶされるような重みがのしかかった。
「じゃあ私は狂っているのね。記録が正しいのよ」
「そうは言っていない」
レイは身を乗り出した。
「完璧だと言ったんだ。真実だとは言っていない。嘘は往々にして完璧なものさ。真実は大抵もっと乱雑だ」
彼は私を見た。
「何か見せたいものがあるんだろう?」
私は躊躇った。信頼という筋肉は何年も使っておらず、萎縮していた。だが彼がくれたペンを思った。私を見る彼の目――患者としてではなく、心から解きたいと願う謎として見る目を思った。
「ドアを閉めて」
彼は閉めた。
立ち上がり、ジーンズの裾を捲り上げた。今日はジーンズを勝ち取っていた。ヒル看護師が呆れて投げつけてくるまで、ドレスを拒否し続けた。脚を回し、ふくらはぎを晒す。
「刺青を見て」
レイは跪いた。インクの上を親指でなぞる感触は臨床的だが優しかった。彼は目を細めた。
「アンジェラ」
彼は読んだ。
「もっとよく見て」
彼はポケットからペンライトを取り出し、肌を照らした。沈黙。張り詰めた弓弦のような静寂が伸びていく。
「インクの乗りが違う」
彼は呟いた。
「密度もだ。最初の部分――Angel(エンジェル)――は古い。かなり古いものだ。aの周りの瘢痕化は、違うゲージの針で行われたことを示唆している。おそらく彫り師自体が別人だ」
彼は床から私を見上げた。その角度のせいで、彼は無防備で率直に見えた。
「パリンプセストだ」
「何?」
「パリンプセスト(羊皮紙の二重書き)だよ。古代、羊皮紙は高価だった。書記たちは古い巻物からインクを削り落とし、その上に新しい文字を書いたんだ。でも古い言葉は……決して完全には消え去らなかった。幽霊のような文字が下に残ったんだ」
彼は立ち上がった。目は大きく見開かれていた。
「誰かが君の上に書き足したんだ、アンジェラ。誰かがAngelという名前を取り上げ、aを付け加えた」
部屋が回転した。Angel。
その名は物理的な打撃のように私を打った。アンジェラのような柔らかさはない。鋭利だ。翼の音、高度、そして落下の響きがした。
私は Angel(エンジェル)だった。(訳注:Angelは女性に多い名前だが男性にも使われる。Angelaは女性名。スペイン語圏ではAngelは男性名。)
「私は男の子だった」
私は囁いた。その告白は空中に漂い、恐ろしくも絶対的だった。
「覚えているの……ローラースケートを。風を覚えている。息子であったことを覚えている」
レイは笑わなかった。後ずさりもしなかった。顔を強張らせて頷いた。
「もしそれが本当なら」
彼は言った。
「あのファイルの全て――性別、経歴、生物学的特徴――は捏造ということになる。極めて高額で、徹底的な捏造だ」
「でも私の体は……」
どうしようもなく自分の体を指し示す。曲線、柔らかさ。
「どうやって?」
「倫理を取り払えば、医学は恐ろしく奇跡的なことができる」
レイは暗い声で言った。
「ホルモン、手術。十分若いうちに始めれば……」
彼は髪に手を突っ込み、部屋を歩き回り始めた。
「これで全てが変わる。もし君がエンジェル・ワーウィック……男性の相続人だったとしたら……相続法では……」
彼は立ち止まり、私を見た。
「ワーウィック家の遺産だ。男系が途絶えたら誰が相続する?」
「知らないわ」
私は言った。
「父が長兄だった。ローガン叔父は弟よ」
「女性の相続人は?」
「確か……条項があるはずよ。古臭い条項が。ワーウィックの土地はワーウィックの男が継ぐと」
レイの表情が硬化した。少年のような危うさは消え、鋭く危険な知性が取って代わった。
「動機だ」
彼は言った。
「エンジェル・ワーウィックが行方不明になれば、ローガンには何も入らない。だがもしエンジェル・ワーウィックが死ねば……あるいは相続資格を失えば……」
「彼が全てを手に入れる」
私が言葉を継いだ。
冷たい手が喉を締め上げるような認識だった。ただの狂気ではない。ただのトラウマでもない。窃盗だ。想像しうる限り最も親密で、残酷な侵害。彼らは私の金を盗んだだけではない。私自身を盗んだのだ。
「証拠が必要だ」
レイは言った。
「刺青は始まりに過ぎない。状況証拠だ。記憶が必要なんだ。本物の記憶が。感情でも夢でもなく、事実としての記憶が」
「無理よ」
パニックがせり上がってくる。
「霧が……濃すぎるわ」
「薄めることはできる」
レイは言った。ポケットに手を入れ、持ってきた本を取り出した。医学書ではない。写真集だ。『ウォリックシャーの風景』。
「催眠療法はなしだ」
彼は言った。
「薬もなし。きっかけ(トリガー)だけだ。写真を見てくれ、アンジェラ。インクが削り取られた場所を見つけるんだ」
私は本を受け取った。手が震えていた。開く。
ページがめくられる。緑の丘。石造りのコテージ。そして、樫の並木道が続き、空に対して要塞のようにそびえるマナーハウスの写真が現れた。
息が止まった。
ただ家を見ただけではない。馬の匂いを嗅いだ。タイヤの下で砂利が砕ける音を聞いた。今持っているものより広く、強い肩に散弾銃の反動を感じた。
「この場所を知っている」
私は囁いた。
「いいぞ」
レイの力強い声。
「そこに留まって。何が見えるか教えてくれ」
だが写真を凝視するうち、霧は晴れるだけでなく、裂けた。そして暗く叫び声を上げる何かが、そこから這い出し始めた。
第5章:青いドレス
写真は鍵であり、私の精神は錠前だった。錆びついた軋みを上げ、それは回った。
本の中のマナーハウスの名は『ハイウィック・ホール』。キャプションを読む必要はなかった。その名は記憶の深い泥の中から、沼の泡のように浮かび上がってきた。ハイウィック。我が家。
「細部に集中して」
レイが促した。膝が触れ合うほどの距離に座り、私の心が過去の危険な領域へ漂流しそうになるのを、その存在が現在へと繋ぎ止めていた。
「記憶の中の季節はいつ?」
「夏」
私は呟いた。目は光沢のあるページに釘付けだったが、もはや紙を見てはいなかった。
「刈り取った草とガソリンの匂いがする」
私はローラースケートをしていた。感覚は鮮明だった。アスファルトの上を走る車輪の振動、胸に当たる風。だが風は乳房には当たっていない。平らで硬い胸に当たっていた。大きすぎて帆のようにはためくTシャツを着ていた。
私はエンジェルだった。
彼らの傍らにいた。両親。
父ウィリアム。背が高く、よく笑い、歩幅が大きくゆったりとしている。病院の記録にあるような陰気な亡霊ではない。彼は暖かさと安全そのものだった。そして母グレース……彼女は矢車菊の青と陽光の残像だった。空と全く同じ色のドレスを着ていた。
「母が」
声が湿った。
「青い服を着ている。母は……幸せそう」
「いいぞ」
レイは優しく言った。
「続けて。次に何が起きる?」
記憶がシフトした。日が傾く。ローラースケートは消えた。私たちは車の中にいた。革のシートが熱い。ロンドンからの帰り道だった。
「事故」
私は言った。心拍数が跳ね上がる。部屋のモニター――隅に立つ沈黙の番人――は音を立てなかったが、喉の中で自身の脈動が罠にかかった蛾のように羽ばたくのを感じた。
「事故のことを話して」
レイが言った。
「木がある」
私は言った。
「大きな樫の木。私たちが……それにぶつかる」
「本当に?」
レイの声が鋭くなった。
「記憶を見るんだ、アンジェラ。聞かされた物語を見るんじゃない。頭の中にある映像を見るんだ」
私は目を固く閉じた。衝突を見ようとした。ブレーキの悲鳴、ガラスの砕ける音を聞こうとした。
だがその音は金属がひしゃげる音ではなかった。
破裂音だった。
乾いた枝が折れるような、鋭く平坦な音。あるいは銃声。
「違う」
私は喘いだ。本を落とす。重い音を立てて床に落ちた。
脳内の映像が歪んだ。車は動いていない。止まっている。窓のそばに男が立っている。拇印のように特徴のない顔、太陽の眩しさの中でぼやけている。だが私はその立ち方を知っていた。肩の線を知っていた。
「そこにいる」
喉が詰まる。
「男が。彼は……銃を持っている」
「誰だ?」
レイが尋ねた。
「アンジェラ、彼は誰だ?」
「顔が見えない!」
私は叫んだ。
パニックが大波のように押し寄せた。ただの恐怖ではない、記憶に対する肉体的な拒絶だった。体が痙攣した。背中が椅子から反り返る。部屋が砂嵐に溶けていく。過呼吸になり、空気が肺の中で針に変わった。
「アンジェラ!」
レイが立ち上がり、私の肩を掴んだ。
「呼吸して。僕を見るんだ」
「彼が撃った!」
私は絶叫した。生の、動物的な叫びが喉を引き裂くように飛び出した。
「彼が撃ったのよ! 事故なんかじゃなかった! 彼が撃ったの!」
ドアが勢いよく開いた。
静かな入室ではない。侵入だった。スティーブンソン看護師――ルーク・スティーブンソン――が枠を埋め尽くしていた。山のような男、幅広で無言、その顔は残酷な無関心の仮面だった。背後からヒル看護師が甲虫のように這い出てきた。キットを握りしめている。
「発作を起こしているわ!」
ヒル看護師が叫んだ。
「拘束して!」
「待て!」
レイが私と彼らの間に割って入った。
「彼女はただ思い出しているだけだ! ブレイクスルー(突破口)なんだ、ブレイクダウン(崩壊)じゃない!」
「どけ、研修医」
スティーブンソンが唸った。片腕でレイを押しのけ、壁へとよろめかせた。
スティーブンソンが私を掴んだ。巨大で重く、逃れられない手。彼は私の腕を脇腹に押さえつけた。私は暴れ、蹴り飛ばし、踵が彼の脛を捉えた。彼は顔色一つ変えなかった。私をベッドに放り投げ、その体重で呼吸を押し潰した。
「やめて!」
私は叫んだ。
「離して! 思い出したの! 思い出したのよ!」
「鎮静剤を」
スティーブンソンが吠えた。
ヒル看護師はすでに注射の準備をしていた。鋼の輝きが見えた。小瓶の中の液体――透明で、無害に見え、致命的な液体が見えた。
「やめろ!」
レイが戻ってきて、ヒルの手首を掴んだ。
「量を確認しろ! 多すぎる! 昏睡状態になるぞ!」
「医師の指示よ」
ヒルは腕を振りほどき、言い捨てた。
「激しいヒステリーに対する標準プロトコルだわ」
彼女は私の上に覆いかぶさった。眼鏡が天井灯を反射し、目を空白の白い円盤に変えていた。
「あなたのためなのよ」
彼女は言った。
針が腕を貫いた。つねられるような痛みではない。炎のような痛みだった。
溶岩が血管を遡上する。心臓に達し、爆発した。
「レイ!」
私は喘いだ。
世界が横に傾いた。天井が溶け出し、白いペンキとなって床に滴り落ちた。自分の悲鳴が引き伸ばされ、速度を落とし、深く歪んだ呻きへと変わっていくのが聞こえた。
四肢が跳ねた。鎮静による弛緩ではない、自己と戦う肉体の暴力的で硬直した痙攣だった。歯が舌を噛んだ。銅の味が口の中に溢れた。
「痙攣している!」
レイが叫んだ。水の中から聞こえてくるような声だった。
「鎮静剤じゃない! 何を打ったんだ?」
「下がれ!」
スティーブンソンが咆哮した。
レイが床の何かに飛びつくのが見えた。私ではない。包装紙だ。ヒル看護師が捨てた小瓶の小さなホイルキャップ。
そして暗闇が訪れた。幕が下りるようにではなく、潮のように満ちてきた。窒息させ、溺れさせ、消し去っていく。
最後に見たのは、床に落ちた本の青い表紙だった。矢車菊の青。母のドレスの色。銃声が響く前の空の色。
そして、無になった。
第6章:誤った処方箋
金属の味とオゾンの臭いと共に目が覚めた。
世界は輪郭を失い、部屋の隅々が振動していた。現実の設定値が高すぎるかのように。舌が腫れ上がり、異物となって口内を埋め尽くしている。腕を動かそうとすると、肘のくぼみから鈍痛が広がった。
私は拘束されていた。
厚く使い古された革のベルトが、手首と足首をベッドフレームに縛り付けている。これが想起に対する罰だ。真実の代償だ。
私はじっと天井のタイルを見つめた。頭上の正方形の中にある穴の数を数える。百と十二。パニックに飲み込まれないよう、数字に集中した。
ドアが開いた。身をすくめる。スティーブンソンの重厚な影か、ヒルの丸い悪意を予期して。
だがレイだった。一人ではない。
年配の男が共に歩み入ってきた。同じ灰色の瞳だが、より深い懸念と権威の皺が刻まれた顔をしている。白衣ではなくスーツを着ており、一本の電話でキャリアを終わらせることのできる人間特有の、静かで恐ろしい引力をまとっていた。
「アンジェラ」
レイがベッドサイドに駆け寄った。憔悴していた。髪は逆立ち、シャツには皺が寄っている。
「よかった、神に感謝を」
「拘束を解きなさい」
年配の男が命じた。声は低く、ここのスタッフが常用する強迫的な朗らかさが欠落していた。
レイがバックルに手をかけた。革が緩むと血流が手に戻り、針で刺すような痛みが走った。手首をさすりながら上半身を起こす。
「どなた?」
しゃがれた声が出た。
「父だ」
レイは言った。
「ドクター・ジェイデン・ワイズ。新しい院長だよ」
「新しい?」
私は瞬きした。
「ヒックマンはどうなったの?」
「ヒックマン院長は……職務を解かれた」
ワイズ院長が言った。椅子を引き寄せて座る。患者を見る目ではない。犯罪の目撃者を見る目だった。
「財務上の不正と医療過誤の調査が終わるまでね」
彼はポケットに手を入れ、小さな物体をサイドテーブルに置いた。ガラスの小瓶。空で、ホイルのキャップがついている。
「レイが持ってきてくれたんだ」
ワイズ院長が言った。
「昨日の事件の後、君の部屋から回収した」
私は小瓶を見つめた。無害に見える。ただのガラス片だ。
「鎮静剤のはずだった」
私は囁いた。
「ジアゼパム。彼らはいつもそう言っていたわ」
「ジアゼパムではない」
ワイズ院長は険しい顔で言った。
「混合薬(カクテル)だ。高濃度のペニシリンGに、神経興奮剤を混ぜたものだ」
「ペニシリン?」
混乱した。
「抗生物質?」
「高用量を静脈注射すると、ペニシリンは神経毒となる」
レイが説明した。抑えきれない怒りで声が張り詰めている。
「発作閾値を下げるんだ。ミオクロヌス、痙攣、錯乱、そして健忘を引き起こす」
部屋の空気が冷えた。
「治療していたわけではない」
ワイズ院長は言った。
「毒を盛っていたんだ。組織的に。何年もの間」
私は自分の腕を見た。注射痕。数年間の「治療」の跡。
「私が動揺するたびに……」
恐怖が夜明けのように訪れた。
「質問を始めようとするたびに……彼らは『落ち着くための』注射を打った」
「そして注射が発作を引き起こす」
レイが言った。
「それが白紙に戻すんだ。化学的なロボトミーだよ、アンジェラ。君が真実に近づくたび、彼らは君の脳を再起動させていたんだ」
吐き気がした。ベッドの端から身を乗り出し、空嘔吐した。レイの手が背中にあり、円を描くようにさすり、私を現実に繋ぎ止めていた。
「なぜ?」
口を拭いながら喘いだ。
「なぜそんなことを?」
「君を壊れたままにしておくために大金を払っている人間がいるからだ」
ワイズ院長は言った。
「今朝、病院の口座を調べた。『特別ケアユニットB』という名目の裁量資金がある。ペーパーカンパニーから毎月入金があった。ワーウィック・ホールディングスから」
ワーウィック。
叔父だ。スコーンを持ってきた男。私の手を叩いた男。彼が私の脳を溶かすために金を払っていたのだ。
「彼は知っているのね」
私は言った。
「私が思い出していることを。だから面会に来た。だから私が働くことにあんなに神経質になっていた」
「ここから出そう」
レイが立ち上がった。
「今すぐに。今夜だ」
「だめだ」
ワイズ院長が鋭く言った。
「今動かせばこちらの意図を悟られる。ローガン・ワーウィックは力のある男だ。コントロールを失ったと思えば、彼女を消すだろう。あるいはもっと悪いことになる」
「じゃあ彼女をここに残すのか?」
レイが反論した。
「あの屠殺者どもと一緒に?」
「ヒルとスティーブンソンは停職だ」
ワイズ院長は言った。
「即時発効だ。私のチームを入れる。信頼できる看護師たちだ。アンジェラはこの部屋に留まり、24時間体制で警護する。薬を抜くんだ。精神を晴らし、立件の準備をする」
彼は私に向き直った。
「アンジェラ、これは過酷なものになる。離脱症状は不快だろう。戻ってくる記憶は……忘却よりも恐ろしいかもしれない。耐えられるかね」
私は窓を見た。景色は同じ――岩だらけの丘、灰色の空――だが、今は違って見えた。もはや絵画ではない。戦場に見えた。
ローラースケートの少年を思った。エンジェル。彼は強かった。消され、塗りつぶされ、薬で屈服させられた。だがインクの下で、彼はまだそこにいる。
「他に選択肢はないわ」
私は言った。声は安定していた。
「思い出したい」
ワイズ院長は頷いた。
「よろしい」
「もう一つ」
レイが言った。
「ファイルの性別マーカーだ。父さん、もし彼女が正しいなら……もし彼女がエンジェルだったなら……」
ワイズ院長は私を見た。その視線が私の女性的な特徴、顔の柔らかさ、体の曲線をなぞる。臨床的な目だが、深い悲しみを帯びていた。
「核型分析を実施しよう」
ワイズ院長は言った。
「染色体は嘘をつかない。だが身体的には……アンジェラ、もし君が意志に反して性転換させられたのだとしたら……投与されたホルモンは……単なる美容的なものではない。生理学的なものだ」
「分かっているわ」
私は胸に触れた。異質だが、紛れもなく私のものとなった皮膚。
「分かっている」
「今日から解毒を始める」
ワイズ院長は立ち上がり言った。
「レイ、彼女についていてやれ。この部屋を離れるな」
「離れません」
レイは誓った。
ワイズ院長が去ると、レイは椅子をベッドに引き寄せた。私の手を取る。その握力は温かく、堅固だった。
「治そう」
彼は言った。
「レイ」
私は繋がれた手を見て言った。
「私は壊れているわけじゃないから、治せないわ。私は……変えられたのよ」
「なら、君が何者だったのかを見つけよう」
彼は激しく言った。
「そして君が何者になりたいかを決めるんだ」
私は彼の手を握り返した。初めて、頭の中の霧がただ晴れるだけでなく、焼き払われていくのを感じた。そして立ち上る煙の中で、ついに敵の姿を捉えることができた。
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