ホームレスあがり(TS小説の表紙画像)

ホームレスあがり
 今日からOLになりなさい

【内容紹介】ブラック企業で酷使されて心神喪失に近い状況で放り出されホームレスになった青年が、北千住駅の階段を空腹でフラフラしながら降りていて、中年紳士と肩がぶつかり階段を転げ落ちる。中年紳士はホームレスの青年に牛丼を食べさせ、風呂で身体を洗わせる。身の上話を聞いて親身になり、就職を世話してやろうと言い出す。大手紳士服チェーンに連れて行かれ就活のためのスーツを買ってくれることになるが、バーゲンの「就活五点セット」はホームレスの青年が予想もしなかった取り合わせのものだった。男性が一般職OLとして働く羽目になるTS小説。

第一章 地獄に仏

 待ちに待った春が来た。

 桜の蕾を見上げながら歩く朝の上野公園。湿った透明な空気が気管支の奥まで潤す。国立科学博物館の横から鬼子母神の北を抜けて入谷に入り、仲ノ町通りを歩き始めると清川はもうすぐだ。

 長い冬だった。今、自分が元気に歩いていることが不思議だ。咳も鼻水も出ず、大きく息をして真っ直ぐに道を歩くことができる。僕は生きている。コンビニのゴミ箱で拾ったオカカおにぎり二個を大事にポケットに入れて持ち帰り、昨夜上野公園の物陰で食べたから、僕は特にひもじさを感じずに普通の人のように歩いている。

 昨日の昼下がり、トイレに行ったすきに全財産を盗まれた。それ以来、鍋もスプーンも着替えも無い。不運だった。でも大丈夫だ、春だから。もし一月か二月に盗まれていたらと思うとぞっとする。今の僕の全財産は着ている服とジャンパー、それに、ポケットの中の五百円硬貨だけだ。このお金はもしもの場合に飢え死にしないためのお守りとして大事にしている。

 山谷さんやの朝はざわめき立っていた。日雇いの仕事を求めて大勢の労務者がたむろする。僕も仕事にありつこうと必死でもがく。一番安い仕事でも一日弱ほど働いて五~六千円にはなる。幸運なら僕でも一日八千円の仕事にありつけることがある。それだけのお金があれば、この季節なら一週間生き延びられる。もし継続する仕事が手に入れば安宿に泊まって人間らしい生活をすることだって夢ではない。

 でも、やはり僕は今日も仕事にありつけなかった。労務者の殆どは中高年だ。中年で体格のいい人にとってここは天国だ。僕は華奢でひ弱すぎるように見えるし、若すぎる。
「若いのにどうして働かずにホームレスなんかしているんだ?」
と、おせっかいなオジサンに言われたことは二度や三度ではない。確かにホームレスの殆どは五十歳以上ではないかと思う。でも僕だって好きこのんでこんな生活を送っているわけでは無い。

 一度ホームレスになってみないと、這い上がるのがどんなに難しいかは分からない。僕の場合は若いという事実が、這い上がるために却って邪魔になっている。二十三歳だが華奢でひ弱そうな骨格の僕は十八前後にも見える。成人に見られた場合でも「何故健康な二十代の若者がホームレスに甘んじているのだ」という偏見に満ちた視線が、せっかく這い上がろうとしている僕を突き落す。「きっと何かあるのだろう」と思われるようだ。

 こんなことを言うと白い目で見られるかもしれないが、若くてひ弱なホームレスよりも、ヨボヨボの老人の方がまだマシかもしれない。生活保護の認定を受ければ山友荘さんゆうそうに入れる。勿論空きがあればの話だが。山友荘は全室個室で三食付きで介護付きだから飢え死にする心配はなくなる。気持ちの持ちよう次第だが、ひ弱な若者としては炊き出しに並ぶのさえ後ろめたい気がすることがある。

 また明日頑張ろう。城北福祉センターの前の炊き出しにありつければ一日生き延びて明日を迎えることが出来る。春だから何とかなる。

 そう思って僕は汐入公園しおいりこうえんに向かって歩き始めた。外人観光客で一杯の上野公園と違って、人間らしく時間を過ごすことのできる汐入公園は僕の安息の場所だ。

 穏やかな春の日だった。汐入公園の中を静かに散歩し、いくつかのベンチを渡り歩く。瞑想の時間。何を瞑想しているのかと聞かれても答えられない。それが瞑想というものだ。豊かな時間だ。昔のフランス国王がベルサイユ宮殿の庭で瞑想しているのと、今僕がここで過ごす瞑想の時間とどちらがリッチだろうか? 若くて健康な僕の汐入公園での時間は、優雅さという点で昔のフランス国王に負けないのではないかと思う。

 陽が傾き始め、僕は立ち上がって公園を出る。南千住みなみせんじゅの駅周辺でチェックすべきコンビニのゴミ箱を覗いてから泪橋なみだばしに行くことにした。早めに福祉センターに行って並ぶのが安全だ。お腹がグーッと鳴った。やはり一日一食ではキツイ。南千住駅を一度越えてマックから松屋の前を通り、また引き返すのが僕のお決まりのルートだった。しかし、食べ物にはありつけなかった。要するに競争率が高いのだ。仮に食べ物が落ちていても、他のホームレスが先に取ればアウトだから。
 駅の階段をトボトボと下りる脚が少しふらついて身体が左に揺らいだ時、後ろからドーンと左肩に体当たりを食らって僕は階段を転げ落ちた。

「大丈夫か、君!」

 目を開くと、身なりの良い中年の男性の顔が、僕の上に見えた。

「すみません。フラッとしたみたいで……」
 起き上がろうとしたがお腹が空いていて力が出ない。

「指は何本だ?」
 男性が指を四本立てて僕の目の前に出した。

「五本」
 僕は微笑みながら答えた。僕の冗談に男性も笑って座が和むと思った。

「大変だ。頭を打ったんだな。下から三段目ぐらいから落ちただけで外傷は無さそうだが、とにかくCTを取りに行こう。君、歩けるか? 救急車を呼ぼうか?」

 男性は僕の背中を抱え上げて立たせた。僕は空腹でフラフラしていたが何とか自力で立つことが出来た。五本と言ったのは冗談で本当は四本見えたと言い出すタイミングを逸してしまった。

 僕のお腹がグーッと鳴った。半径数メートルに響くほど大きな音だった。男性は僕がフラフラしている原因の一つが空腹にありそうなことを察したようだった。
「先に何か食べていくか?」

「お金が無いんですが……」
と正直に答えた。

「勿論おごるよ」
と男性が微笑んだ。

「それにしても臭いな。こんなに臭い身体で飲食店に入ったら追い出されるぞ。ちょっと待ってくれ、そこの『すき屋』でテイクアウトを買ってきてやる。牛丼の特盛で良いかね?」
と言って、牛丼を買いに行った。僕が立って待っていると数分後に牛丼が二、三個入ったビニール袋を手に提げて戻って来た。

「一緒に来なさい。私は大阪から来た出張者で、そこのホテルにチェックインするところだ。風呂に入って、その臭いを落としてから食べてくれ」

 男性は牛丼の入った袋を僕に持たせて、ビジネスホテルにチェックインした。僕は少し離れて待っていたが、男性がキーを手にしたのを見てエレベーターまで歩き、一緒に八階に上がった。部屋に入ると清潔なツイン・ルームだった。ツインの部屋ということは、ひょっとして、明日の朝までここで過ごさせてくれるのだろうか。もしそうだとすれば、こんなふかふかした清潔なベッドで寝るのは半年ぶりだ。

「さあ、風呂に入って身体の隅々まで洗って来てくれ。その間に私は缶ビールとおつまみを買ってくるから」

 僕は風呂のドアを開けて浴槽にお湯を貯めながら服を脱いだ。頭からお湯をかぶり、シャンプーを使ったが汚れ過ぎているのか泡が立たない。シャワーをして頭を流してからもう一度シャンプーをつけるとやっと泡立ってきた。タオルにボディーシャンプーをたっぷりとつけて髪の生え際、耳たぶの裏、耳たぶ、耳の穴の中、クビ、脇の下、おへそ、肛門、大事な場所、手足から指の先まで念入りに洗い、シャワーを流した。生き返るとはこんな気持ちを表現するのだろう。浴槽に潜って頭までお湯の中に沈んだ。お湯の中で髪から身体の隅々まで手で擦った。

 滅多にない機会だからもう一度洗おう。僕はシャンプーを髪につけて泡立たせ、立ちあがってボディーシャンプーで身体を一通り洗い直した。息を止めて鼻の穴の中にシャワーを吹き込み、歯磨きをして口の中をシャワーで洗った。

 男性が部屋に入って来るドアの音が聞こえた。僕は浴槽のお湯を流し、次に入る男性の為に風呂の隅々までシャワーできれいにした。ハンドタオルを絞って髪の毛の水分を拭きとってからバスタオルで髪と身体を乾かした。バスタオルを腰に巻いて風呂を出て、作務衣のような備え付けの寝間着を着た。

「ほお、石鹸の臭いがする若者になったな。しかし肌が真っ白になっているから驚いたよ。よほど汚れがこびり付いていたんだな。悪いが、君が来ていた服をこのビニール袋に入れて袋の口をしっかりと縛ってくれないか。臭くてたまらん」

 僕は言われた通りにしてから、もう一度手を洗った。

「さあ、食おうか。まずは乾杯だ」
 男性はアサヒスーパードライの大缶を四本コンビニの袋から取り出した。

「いただきます」
 僕はビールを開けて男性と乾杯した。

 ビールの喉ごしが新鮮だった。世の中にこんなに美味しい飲み物があったのか。

「ビールは半年ぶりです。僕はお酒は弱いので大缶だと酔っぱらうかも知れません」

「酔っぱらったら寝ればいい。牛丼も食べなさい。特盛を三人前買ったから、良ければ君が二つ食べてくれ」

 僕は牛丼の蓋を開けて食べ始めた。美味しい! 新品の牛丼とはこれほど美味しいものだったのだと感激した。

 階段でぶつかったぐらいでこんなに親切にしてくれるなんて……。それもふらついて身体を傾かせた僕が悪いのに。男性が神様のように思えた。食べながら涙ぐんでしまい、鼻をジュクジュクとすすりながら牛丼の特盛を一つ空っぽにした。缶ビールの残りをゆっくりと飲むと、ホームレスだった自分が普通の人間に戻ったような気持ちになった。

 お腹が一杯になった。元々小食なのに、毎日生きながらえるのに最小限の食糧しか口にしない毎日が続いていたので胃が小さくなったのだろう。

「無理をせずに後でお腹が空いたらもう一つの牛丼を食べればいい。もっと欲しければ買ってきてあげるから」

 男性の優しい言葉に、ホロっと来てしまった。
「ありがとうございます。まるで神様と出会ったみたいです」
と涙声で言った。

「失礼だが、臭いと汚れから推測すると、君は所謂その……ホームレスというやつか?」

「はい、ご指摘の通りです」

「若いのにどうしてホームレスをしているんだ? 信条として自由を大事にしたいから昔で言うヒッピーのような生活をしているのか?」

「若いのにどうして?」その言葉はこれまで何度か傷つけられた心無い中高年男性の言葉と同じだった。しかし、この男性には軽蔑、侮辱、不信、偏見の気持ちがないためだろうか、僕は少しも不快とは思わなかった。

「一度ホームレスに落ちてしまうと這い上がるのは至難の業なんです。ずっと這い上がりたかったんですが……」

「君には、何というか、悲劇的な外観とは裏腹に、教養と心の余裕が感じられるんだ。どんな事情があったのか、話してみないか。いや、話したくなければ黙っていてもいいんだよ。聞けば助けになれるとは言わないが、話すと気持ちがすっきりするということもあるから」

 悲劇的な外観と言われて、風呂を出た後でも僕の外観に悲劇的な要素が残っているのだろうかと気になった。男性は自分の不用意な言葉が僕に与えた影響に気づいたようだった。

「不適切な表現をして申し訳なかった。表現しにくいんだが、風呂から出て来た君をひと目見て、マッチ売りの少女を連想したんだ。無力で、今にも壊れそうで、マッチの火が消えると天に召されそうな雰囲気を称して悲劇的な外観と言ってしまった」

「天に召される前のマッチ売りの少女ですか……」

 男性の言い訳で納得したわけでは無いが、悪意が無い事はよく分かった。それにしてもマッチの火が消えたら死ぬなんて縁起でもない。僕にはもっと生命力がある。だから今日まで生き延びられたのだ。

「僕は二十三歳です。一年前に福島の大学を出て東京の上場企業に就職しました。レストランチェーンと老人介護を二本柱とする会社で、僕は最初の半年間、山梨県の老人介護施設で勤務しました。施設に併設された従業員寮で寝泊まりしながら介護の仕事に明け暮れました。シフトを勝手にどんどん増やされたり、土・日も無い厳しい勤務でした。ブラック企業とはこういうものなのかと気づきましたが、介護の仕事はとてもやりがいがありました。僕が介護を担当しているおじいちゃんやおばあちゃんが元気に笑うのを見ると疲れは吹っ飛びました。僕は男性としてはかなり非力ですが、同僚の殆どは女性ですし、コツを覚えると同僚と同じように大抵の仕事ができるようになりました。充実した毎日でした。

 転機が来たのは十月です。その企業の業績が急激に悪化したのです。老人介護事業は収益部門だったらしく、売りに出されました。大手の企業が飛びついて、売却が実現しました。しかし、僕のように本社から介護施設に派遣された人間は事業譲渡の対象から外され、僕は飲食部門に配置転換されたのです。飲食部門は赤字部門で、もともと人件費節減のためにブラック企業的な傾向があったのが、立て直しのために更に酷くなりました。僕は毎日朝から夜中までこき使われ、土曜日も日曜日も無く奴隷のように働かされました。僕が配属された店は店長が人間味の無い最悪の上司で、人員整理の目的も兼ねて僕は毎日怒鳴られ、罵られました。そのうちに僕の頭の中は空っぽになって、まるで廃人のようになってしまいました。結局、十一月の中旬に、午前一時ごろ後片付けをしている途中に小突かれながら罵倒されて、僕は半狂乱で店を飛び出しました。会社の寮で寝泊まりしていたのですが、翌朝寮に行くと僕は既にクビになったとのことで、荷物と一緒に放り出されました」

「しばらくは失業保険で暮らしていたんだね」

「いいえ、僕は正社員として雇われていると思っていたのですが、バイトと同じ扱いにされていて社会保険には加入していなかったことが分かりました。正真正銘のブラック企業だったのです。財布に入っていた二万円ほどのお金でネットカフェに寝泊まりしてバイトをしていましたが、病気になってしばらく働けなくなり、財布が空っぽになってネットカフェを出るしかありませんでした。スマホを売ったりして一週間食いつなぎましたが、アルバイトにはありつけませんでした。気がついたらインターネットを含め通信手段が全く無いホームレスになっていました。山谷で日雇いの仕事にありつけない限り、炊き出しが頼りの毎日でした」

「実家を頼ることは出来なかったのかね?」

「僕は震災で両親を失い、遠い親戚のおばあちゃんに引き取られて大学まで出してもらいました。でも、おばあちゃんは僕が就職してすぐに亡くなり、家や財産は僕が知らない人たちが相続しました。僕には帰るところはどこもないんです」

「大変だったね。よく頑張って生きて来た。立派だった」

 男性は僕の手を強く握ってくれた。僕は涙が止まらなくなり、大声で泣いた。声を出して泣いたのは久しぶりだった。熱い涙で心が洗われた。

「君が働けそうな所を当たってみてあげよう」
 男性はスマホを取り出して電話をした。

「富永君、大森だ。ああ、実は事故に遭って今日は行けなくなったんだ。明日の午前中に行くから時間を開けておいてくれ。ちょっと聞きたいんだが、今度退職する杉野美佐の後釜の募集をかけていたね。そうか、明日もインタビューをするのか。実は丁度いい候補者が居るんだが考えてくれないか。二十三歳の男性だ。知ってるよ。ちょっと訳アリなんだが、真面目そうな人物だ。そうか、やっぱりだめか……。分かった。明日もう一度話そう」

 どうも不首尾に終わったようだった。電話の相手の声は女性だった。

「今話していた相手は東京の関連企業を任せている富永という社長だ。丁度退職者が出たので、そこに君を使ってくれないかと思ったんだが、女性じゃないと駄目らしい。東京の他の関連企業も当たってみてあげよう。それでもだめなら大阪の本社での採用を考えてあげよう。警備員の仕事に空きがあればいいんだが。もし空きが無ければ社内食堂とか、掃除係とか、中高年女性向けの仕事を当たってみよう。そのうち真面目に働いていれば大卒に相応しい仕事につけるチャンスを提供できるかもしれない」
 電話で大森と名乗っていたこの男性は大阪の会社の社長のようだ。社内食堂がある会社なら相当な規模だろう。東京に複数の関連企業があるとはすごい。

「ありがとうございます。大阪でもどこでも喜んで行きます。電車代は貸していただく必要がありますが……。中高年女性向けの仕事でも、社食のおばちゃんのような仕事でも何でも結構です。僕、飲食関係なら勝手が分かっていますから直ぐにでもお役に立てると思います」

「よく言った。それでは就職の世話をしてあげよう。但し、同情すべき過去があっても、従業員としてひいきはしないよ。働きが悪ければクビにする。それを分かった上でついて来るか?」

「はい、よろしくお願いします」

「ところで、ビニール袋に入れてもあの服の臭いはちょっと耐えられないな。これからホテルの前のゴミ箱に捨てて来るよ。近くにドンキがあったから、ジャージーの上下でも買ってきてあげよう。必要なものがポケットに入っていたら出しておきなさい。その靴も服に負けないほど臭そうだからビニール袋に入れてくれ。安物のスニーカーか何かを買ってきてあげよう。君の靴のサイズは何センチだ?」

「今履いている靴は二十七センチですけど、僕は二十三・五センチ以上なら何でも大丈夫です」

 そう答えながら僕はズボンのポケットからお守りの五百円玉を出し、ビニール袋に靴を突っ込んで臭気が漏れないように括りなおした。
「ああ、臭かった!」
 僕は先ほどまで自分がどれほど臭かったのかを思い知った。浴室に入り石鹸で手を洗い直した。

 大森は三十分ほど出歩いてから部屋に戻って来た。薄っぺらい安物のスニーカーと、明るいえんじ色のジャージーが入った袋を僕にくれた。「パンツは新しいのをひとつ余分に持ってきたからそれを上げよう」と言って、カバンの中から出したトランクスを渡された。

「君のそのホームレス・ヘアを何とかしなきゃならないと思って、百円ショップでハサミを買ってきた。もう一度裸になって風呂に入れ。私が髪を切ってやろう」

「社長の会社は散髪屋さんと関係があるんですか?」

 僕は真面目に質問したつもりだったが、大森は
「わっはっは、まあまかせておけ」
と言った。僕の言葉のどの部分が笑いを誘ったのかは不明だった。

 男どうしなので大森の前で素っ裸になった。大森は僕を浴槽の横の便器に後ろ向きに座らせ、耳の数センチ下の位置にハサミを入れて、真横に切っていった。僕は元々マッシュの髪型だったが昨年の夏に美容院に行って以来、忙しくて伸ばしっぱなしだったので髪の一部は首筋から肩まで掛かっていた。耳の下で切りそろえられて首筋がスースーした。

 髪の毛が便器の中に入らないように注意しながら前向きに座り直した。むき出しになった陰部を大森に見られるのが恥ずかしくて、ペニスの根元を下に押し下げながら太腿をしっかりと閉じた。

「オイオイ、そのポーズは勘弁してくれ。君がそんな恰好をすると女に見えるじゃないか。第二次性徴が始まる前の少女をホテルに引っ張り込んで悪いことをしているような気分になってしまうよ」

 大森が僕のおへその下を見ながら苦情を言ったので、僕は股を開いて男性であることが分かるようにした。

「前髪がうっとうしいな」

 大森が櫛で髪全体を真下に下ろすように梳くと、前髪は口まで届いた。大森は丁度眉の位置にハサミを入れて、両目尻の間の約十センチを真横に切り落としてしまった。目にかからなくてスッキリしたが、これでは、おかっぱ頭だ。

「我ながらいい出来だ。悪いが、風呂の床の毛はきれいにしておいてくれ」

 僕は風呂のドアを閉めて、二度シャンプーをしてからもう一度タオルにボディーソープをたっぷりつけて身体の隅々まで洗い直した。髪の生え際はカミソリできれいにした。ひと月ほど前に体中が痒くなって山谷のボランティア団体に貰った薬を塗って治っていたが、気になっていたので腋毛、陰毛から初めて身体中の毛をカミソリできれいに剃った。元々体毛は少ないが皮膚がツルツルになって気持ちよかった。もし痒みがダニのせいだったら、今後はもう大丈夫だろう。

 床に散らばった髪の毛はトイレットペーパーで丹念に拭き取り、残らずトイレのゴミ入れに捨てた。シャワーのお湯をたっぷり使って身体と浴槽をきれいにして風呂を出た。バスタオルを腰に巻いてヘアドライヤーをかけると髪の毛がフワフワになってボリュームが出た。髪の毛がこんなにフワフワになったのは何ヶ月ぶりだろうか。

 大森からもらったトランクスは想像以上に大きかった。買ってくれたジャージーの上下は大きすぎて、ブカブカだ。元々骨格が小さい上に、ろくに食べられない日々が続いたので、僕の身体は見るからに貧弱になっていた。
「MサイズとLサイズのどちらにするか迷ったんだが、小さすぎるよりは大きめの方が良いだろうと思ってLを買ったんだ」
と大森が言い訳をした。

「それにしてもパンツ一丁で見るとメチャメチャ小柄だな。普通の女性より小さいんじゃないか? この身体では警備員に採用するのは無理だな」

「僕は女性の平均よりはずっと背が高いんですよ。ホームレスになって以来ダイエットに励んだ結果少し体重を落とし過ぎましたが」
と言うと、大森は気まずそうに
「今のが冗談だとしても、ちょっと笑えないな」
と言った。

「色白だし肌も女性のようにきれいだな。君なら本社の食堂でオバチャンたちと一緒に働くのが無難かもしれない」

「ホームレスをやっている間、汗と埃とアカで身体中を保湿パックしてしていたようなものです。パックが分厚かったのでUV防止効果が十分だったんでしょうね。そこら辺の女性よりずっとお肌を大事にしていたことを自慢したいぐらいです。アハハハ」

 僕は自分の口から出た冗談のセンスの良さに悦に入った。

「オエッ、さっきの臭いを思い出したよ。君の冗談はあまり好きじゃない」
 大森に言われて意気消沈してしまった。

 大森が買って来た靴はこれ以上安物の靴は中国にも売っていないだろうと思えるようなペラペラの赤いスニーカーだった。サイズは二十四センチと書いてあったが、僕の足には大きすぎた。栄養不足で足が縮んだのか、靴が大きすぎるかのどちらかだ。もう少しマシな靴を買ってくれればよかったのにと内心不満だったが、大森から
「ジャージーと靴の代金を合わせてもさっきの牛丼特盛三人前より安いから気にしなくていいよ」
と言われた。大会社の社長なのに経済観念がしっかりしていて好感が持てた。

 大森が風呂に入る間、僕はジャージー姿でベッドの上に寝転がってテレビを見ていた。テレビは集会所とか待合所など色々な場所で見ることが出来たが、こんなにくつろいで清潔な場所でゴロゴロできるのは本当に久しぶりだ。自分で自由にチャンネルを変えることが出来ることも夢のようだ。

 大森はベッドの上に分厚い財布をむき出しにして置いてあった。初対面のホームレスが居るホテルの部屋に貴重品を置いて風呂に入るとは無防備な人だなと思った。いや、実は財布の中の現金は少額で、大森は僕を試しているのかもしれない。僕は例え十万円の現金を目の前に置かれても持って逃げたりはしない。ホームレスから抜け出せるチャンスが目の前にあるのに、僕がそのチャンスを捨てるはずがない。

 ああ気持ちいい。天国だ。僕はテレビを見ながらウトウトしてそのまま眠ってしまったようだった。

第二章 どちらかといえば幸運な就職

 カーテンの間から洩れる光で目が覚めた。ベッドの真っ白なシーツに寝ていた。そうだった。僕は昨日の夕方、足長おじさんに拾われてホテルの部屋に泊めてもらったのだった。ああ気持ちいい。時計を見ると六時前だった。昨日のお風呂の気持ち良さを思い出した。このまま大森が雇ってくれてホームレスから脱却できればいいが、まだ手放しで楽観はできない。風呂に入れる時にもう一度入っておこう。

 僕はジャージーとパンツを脱いでそっとお風呂に歩いて行き、ドアを閉めて湯船にお湯を満たした。昨夜ビールを飲んだせいで膀胱がはち切れそうだった。大きな音を立てながら尿を勢いよく便器の真ん中に放出した。タオルにボディーソープをたっぷりとつけて、シャンプーで頭を泡立たせたまま身体の隅々までごしごしと洗った。

 その時、浴室のドアをノックする音が聞こえた。
「オーイ、君、トイレを使わせてもらってもいいか? 洩れそうなんだ」

「どうぞどうぞ」

 大森が浴室のドアを開けて入って来た。ズボンを下ろすと寝間着の前をはだけて巨大な逸物を指で持って豪快に放尿した。浴室のトイレの部分は僕には余裕がある広さだと感じていたが、大森が立つと、狭いにオリに無理やり押し込められたゴリラのようだった。大森はトイレの水を流して、浴槽と便器の間のシンクの前に窮屈そうに立って顔を洗った。

「お先にお風呂を使わせていただいて済みません。すぐに上がりますから」

「私は朝シャワーする習慣は無いから気にしないで良い」

 大森は顔を拭きながら僕に笑顔を向けた。

「君のその姿を見ると女の子みたいでドキッとするよ。昨夜そう思わなくて良かった、イッヒッヒ」

 大森の冗談に思わず肛門が引き締まった。ホームレスをしていても、そんなふうに冷やかされることはよくあった。中には実際に身の危険を感じるような異常な視線を僕に向けるホームレスにも何度か遭遇した。でも大森はそんな人たちとは違う。大森が心身健康なことは話をしていれば分かる。

 パンツをはいてジャージーの上下を着た。ドライヤーをかけると髪がフワフワになって、ホテルのアメニティーの櫛で梳いても髪の量が多すぎる女子高生のようだった。

「すみません、髪がボーボーなので、ヘヤリキッドとかジェルをお持ちでしたら使わせていただけませんか?」

 僕の方から物をねだるのは気が引けたが、こんな髪ボーボーの若い男を連れて歩くのは大森にとって迷惑だと思った。

「イヤ、そのままで丁度良い」
と一刀両断されたので、まあいいや、と思った。

「昨夜もう一つ牛丼が残ってましたよね」

 そんなにお腹は空いていなかったが、ホームレスの習性として食糧確保が気になった。

「冷蔵庫の中にあるが、昨日のだから捨てた方がいい」

「どうしてですか? 蓋を開けないまま冷蔵庫に入れておいたのなら新品同様ですよ」

「新しいのを買ってやるから、それは捨てろ。トイレに流しておいてくれ」

 大森に言われて、良心の呵責にさいなまれながら中身を便器に入れて二回水を流した。

 ホテルを出たのは午前八時だった。朝食には何を食べさせてくれるのだろうかとワクワクしながらついて行った。大森が入ったのはマクドナルドだった。
「こう見えても私は朝マック派でね」
 大森はソーセージマフィンとコーヒーのコンビを頼んだ。僕にはメガマフィンとミルクを注文してくれたので感激した。この人は物の価値が分かるいい人だと確信した。

「実はこの近くの客先と九時にアポがあるんだ。君を連れて行くわけには行かないから、ここで待っていてくれるか? 十時には戻る」

 大森は九時前に席を立ち、財布からコーヒーの無料券を取り出して僕にくれた。この人は本当に思いやりのある人だと感じた。

 大森がマックに戻って来たのは十時前だった。

「さあ、これからうちの関連企業のオフィスに行くぞ。昨夜君が眠った後で、富永君を説得する方法を色々考えたから、もう一度富永君に体当たりしてみるつもりだ」

「富永さんって昨日電話されていた社長さんのことですね。でも昨日はあっさりと断られたんでしょう?」

「一度断られて引き下がるようではダメだ。失敗する度に、何故失敗したのかを振り返って、敗因を分析するんだ。その上で頭を使って打開策を練る。そして再度挑戦する。成功するまでそれを何度でも繰り返すんだ」

 僕は話を聞いていて胸がジーンとした。やはり成功する人は何かが違うんだ。僕がツブされたブラック企業では「とにかく働け、バカになれ」と言われるだけだった。大森の言うことの方が数段優れている。

「社長、僕も勇気が湧いてきました。何があっても絶対に雇ってもらう気構えで挑戦したいです」

「良く言った。絶対に今日栄冠を勝ち取れるように死に物狂いでついて来い」

「はいっ!」

 二分ほど歩くと大手紳士服チェーンがあった。昨夜テレビを見ている時に、僕がホームレスになる前からファンだった若手女優が出てくるCMを見たばかりだった。十時開店と書いてあり、開店直後だった。大森はその店に入って行った。

「ま、まさか、こんな大会社の社長さんだったんですか?」

「わっはっは。君の冗談を面白いと思ったのは今のが初めてだ。就職に成功するには身なりを整えることが最も大事なことの一つだ。君も一年前に就活した時にはスーツを着て会社回りをしたんだろう」

「はい、でもそのスーツは売って食料に化けてしまいましたので……」

「だから今日、君にスーツを買ってやることにしたんだ。富永君対策として昨夜考えたことだ」

「でもそんな大金を会ったばかりの方に払っていただくなんて……」

「気にするな。とにかく、私が選んだものを文句を言わずに着るんだぞ」

「勿論です。難アリのコーナーで一番安いスーツを見つけて買っていただければ十分です。小さすぎるのは着られませんが、LLサイズでも袖を折れば着られますし、際どい色のスーツでも結構ですよ。社長に選んで頂ければどんな服でも決して文句は申しません」

「よく言った!」

 大森は入って直ぐの通路を左の奥へと進んでいった。

「社長、難ありコーナーは右の手前ですよ。そちらは婦人服コーナーです」

 社長は近くにいた店員を呼び止めた。僕は手招きされて社長の所まで歩いて行った。

 社長がその店員に
「店の外に就活五点セットのキャンペーンの広告が出ていたが、それをこの子に見繕ってやってくれ」
と言った。

「はい、かしこまりました」
 女性店員は僕を見て、目で採寸してから、ハンガーにかかっていた服を手にした。
「ここには九号しかかかっていませんので十一号と十三号を取ってまいります」と言って足早に店の奥に入って行った。

 店員が手にしていたのは婦人服だったので、何を勘違いしているんだろうと首をひねった。

「社長、あの店員さんってあわてん坊ですよね。これ、婦人服ですよ」

「五点セットというのはレディーズ就活五点セットで、スーツ、ブラウス、パンプス、バッグ、ストッキングが全部合わせて三万四千八百円だ。しかも、就活シーズンは終わっているから、そこからさらに五千円引きと書いてあった」

「僕、男なんですけど」

「あっそうか、まだ言っていなかったんだっけ。昨夜君が熟睡していたから起こして説明するのは思いとどまったんだった。富永君は後任には女性しか雇えないと言った。だから君を女性の姿にして連れて行くんだよ」

「無理ですよ。そんなのすぐにバレますって」

「当たり前だ。男性であることを隠し通せと言うのではない。当社全体としてLGBT対策にまだ着手できていなくて、外資系を中心に取引先から指摘されているんだ。このまま全く対策を取らないわけにはいかないから、形だけでも社内規定をLGBTフレンドリーなものに変更することを検討中なんだよ。外部から見て真剣にLGBT対策に取り組んでいるという、目に見える証拠を作りたいと考えていたところだ。だから、主要関連企業の一つで心は女性、身体は男性の性同一性障害の人間を雇用したということにする。わが企業グループとして社会的要請に応えるためにどうしても必要だと私から言われれば富永君も断れないだろう。どうだ、頭がいいとは思わないか?」

「社長の頭がいいことは昨日から分かっています。でも、僕はどうなるんですか? スカートで働けとおっしゃるんですか。無茶苦茶です!」

「『社長に選んで頂ければどんな服でも決して文句は申しません』と言う君の言葉がまだ耳に残っているぞ。君は舌の根も乾かぬ内に前言を翻すような男だったのか!」

「そんなご無体な……」

「そんなやつは今すぐ私の目の前から消えろ。一生ホームレスとして暮らせばいい」

「社長……。そんなことを仰らないでください。僕の気持ちになってみてください」

「勿論、突然女装しろと言われて躊躇する君の気持ちは分からんでもない。二十秒やるから、もう一度よく考えて返事をしてくれ。私に必死でついて来るか、それともホームレスのままでいるか」

 その時、店の奥から女性店員がハンガーに掛けた服を持って近づいて来た。二十秒が過ぎてしまったので
「一応、試着はしてみますけど」
と大森に答えた。
「よろしい」
と大森が満足げに微笑んだ。

 僕は試着室に入ってカーテンを引き、パンツ一丁になった。カーテンの隙間から渡されたスーツを試着した。スカートはウェストは丁度良いか少し余裕があるぐらいだった。お尻は布が余っていた。ジャケットは胸の部分が余っているが、僕にピタリのサイズだった。カーテンを開けると店員が大げさに賞賛の声を上げた。

「可愛いですわ。まるでお嬢様の為にあつらえたスーツみたいです」

 大森が近づいて来て
「私の目に狂いは無かった」
と大きく頷きながら独り言を言った。

「このまま着て行きますから、ブラウスとストッキングも着させてください。靴も適当なものをお願いします」

 店員から白いブラウスとストッキングを手渡され、僕はカーテンを閉めてブラウスを着た。カーテンを開けると黒い婦人靴が置いてあった。履いてみると踵が少し余っている。店員が一つ小さいサイズを取って来て、それを履くとピタリだった。

「この身長で二十三・五センチが合うなんて、羨ましいですわ」
と店員が言ったが、お世辞でもなさそうな口調だった。

「ヒールが高すぎませんか?」
と店員に聞くと
「五・五センチですからお嬢様には丁度よろしいかと存じます」
と言われた。
 カーテンの隙間からパンツ一丁の僕の姿を覗いたはずなのに、よく平気でお嬢様などと呼べるものだと呆れた。

 レジの手前でバッグを選ばせてくれた。女性用のハンドバッグを選んでいる自分が滑稽に思えたが、着ていたジャージーが入りそうな一番大きいバッグを選んだ。

 大森がクレジットカードで支払いを済ませ、僕は大森について店を出た。

「社長、すみませんが、もう少しゆっくり歩いていただけませんか? ハイヒールは初めてなものですから」

「すまなかった。それにしてもこんな美人と同じ部屋で一晩過ごしたと思うと股間がモゾモゾして来たよ」
と大森が真面目な口調で言った。

「ただ、声がいけない。声が低すぎるとは思わないが、しゃべり方が男だ」

 そんな事を言われても、僕のしゃべり方が男なのは当然だ。男なんだから。

「君は就活面談に臨む女子なんだから、それに相応しい言葉遣いと声でしゃべるように気をつけなさい。今朝言っただろう。チャンスをつかむためには、必死で取り組まなきゃだめだ。昨日まで二十三年間男性だったとか、甘っちょろい言い訳が頭に浮かんだらその時点で君は負けだ。分かったか!」

 僕は大森の気迫に押されて。

「はい、社長さん、アタシ頑張ります」
と女言葉で答えた。

「勘違いするな。色っぽいしゃべり方をする必要はないんだ。若い女性として爽やかにしゃべりなさい」
と言われた。

 大通りの手前でタクシーに乗った。大森は北千住駅前のビルの名前を運転手に告げた。

 タクシーを降りてオフィスビルのエレベーターに乗って五階に行くと、株式会社インディファレントという会社の玄関があった。これが大森が僕を雇わせようとしている関連企業なのだ。大森は僕の耳元に口を近づけて、
「私が富永君にタネを明かすまでトコトン女性のフリをするんだ、いいな」
と言った。

 玄関は社名とロゴを掲げた看板の前に電話機が置いてあるだけだった。大森はそのまま玄関を左に入っていった。

「おはようございます」
 比較的年配の二、三人の社員が立ちあがって大森に会釈をした。

「富永君は居るかね?」
 通路の奥の管理職らしい女性に聞くと、
「はい、大森会長をお待ちかねのようでした」
とその女性が答えた。

 大森の後ろを歩いてズカズカとフロアーに侵入してきた僕に前後左右から視線が注がれた。敵意は無いが「どこの誰が何をしに来たんだろう」というささやきが聞こえてくるような気がした。

「おはよう、富永君」

 社長室のドアを開けて大森が言った。富永と呼ばれた女性が立ち上がり、
「ごゆっくりとしたお越しで」
とイヤミっぽく言った。

 黒のパンツスーツで四十代半ばの年齢に似つかわしくないほど高いヒールのサンダルを履いた女性は、骨太でがっしりとした体格だった。大男の大森と同じぐらいの身長に見えるから百七十センチはありそうだ。

「どうぞおかけください。コーヒーでよろしいですか、そちらのお嬢さんも?」
と外観に相応しくない優しい口調で聞かれて、僕は
「はい」
と答えた。

 富永は電話の受話器を上げて、
「美佐ちゃん、コーヒーを三つお願い」
と言った。

 大森がソファーの奥にドカンと腰を下ろし、僕は膝を揃えることに注意を払いながら大森の横に座った。ハイヒールを履いた足にはソファーが柔らかすぎて、スカートの中が富永に見えそうな気がした。僕は膝を揃えたまま足を斜めに折ってスカートの中を見られないように工夫した。

「杉野美佐の後任の募集の件だが、」
と大森が言うと富永は最後まで言わせずに言葉を遮り、
「昨日申し上げた通り、女子限定です。そちらのお嬢さんならとにかく、幾ら会長のご要請でも男性はお断りします」
ときっぱりと言った。

「そうか、やっぱり男性はだめか……。実は昨日富永君にそう言われたので反省した。その結果連れて来たのがこの人だ。本社としてはこの人をどうしても雇いたい事情があるんだよ。多少の不満があっても受け入れて欲しい」

「多少の不満だなんて……。どうせ重要取引先のお嬢さんか何かなんでしょう。この人なら年齢的にも外観的にも問題があるはずがございません。但し、杉野美佐の後任は高校新卒が対象ですので、こちらのお嬢さんがもし大卒でも、職級と初任給は高卒一年目としてのスタートになりますよ。あなた、それでもいいの?」

 僕は
「はい、喜んで」
とだけ答えた。

「お名前は?」
と富永に聞かれて、ここ十年余りその質問を受ける度に言い続けて来た答えをした。

「ヒイラギクルミです。木偏に冬と書いてヒイラギ、名前は漢字で木の実を表す胡桃です。古いの横に月、それに桃と書きます。コトウと読めますので、あだ名でドクター・コトーと呼ばれていました」

「そう、クルミちゃんね」
と富永は面倒くさそうに省略した。

 その時コーヒーをお盆に乗せて僕と同年齢と思われる女性が入って来て、大森、僕、富永の順にコーヒーを置いた。

 お辞儀をして出て行こうとする女性に富永が声を掛けた。

「美佐ちゃん、この人があなたの後任候補のクルミちゃんよ。まだ面接中だけど、本社の推薦があるからこの人で決まる可能性が高いわ。もしそうなったらよろしくね」

 僕は立ち上がって美佐と呼ばれた女性に微笑みかけてお辞儀をした。

「ところで、美佐ちゃんのアパートは会社借り上げだったわよね」

「ええ、そうですけど」

「そう、分かったわ。じゃあ、また後でね」

 美佐が出て行った後、富永は僕を見て質問した。

「クルミちゃんは今年の新卒なのね? 他の会社への就活はどうして駄目だったの?」

「卒業は昨年です」
僕が大学名を言うと富永は
「国立大学を出ているのか……、でもさっき言った通り高卒としての採用よ。去年卒業して今まで何をしていたの?」

「昨年四月に老人介護とレストランを二本柱とした上場企業に総合職として入社しました。老人介護施設に配属されて忙しいけれど働き甲斐を感じていましたが昨年九月に老人介護事業が売却されるのと同時に飲食部門に配置転換になりました。事実上週七日勤務で毎日十四時間労働で残業代もつかないブラック企業でした。それでも文句を言わずに働きましたが、パワハラも手伝って心身共に疲弊して倒れてしまい、退社に追い込まれました」

「若い女性に耐えられる仕事じゃないわね。うちの会社は一般職の残業には必ず残業代が出るし、一般職をひと月二十時間以上残業させた例は一度も無いから安心なさい」

「すごい! 夢のような職場ですね」

「ありがとう。でも、くどいようだけど高卒一年目の一般職扱いの採用だから地位も給与もこの会社で一番下になるわよ。四月に入る二十二歳の総合職女性からコピーやお茶出しを命令される立場になるし、今度大卒一般職で入る子よりも四級も下として扱われるのよ。それでいいのね?」

「はい、全く不満はございません」

「今のお住まいはどちら?」

「住んでいた場所を昨日引き払ったものですから、夜露を凌げる場所を今夜までに探す必要があります」

「面白いことを言う子ね。でも丁度いいわ」
 富永が電話で
「美佐ちゃん、ちょっと来て」
と呼ぶと、間もなく美佐が入って来た。

「美佐ちゃん、クルミちゃんが後任に決まりそうなんだけど、昨日アパートを引き払ってきたから今夜から泊るところが無いんだって。美佐ちゃんのアパートに泊めてくれない? アパートをそのまま彼女が引き継ぐことにすれば美佐ちゃんも楽でしょう」

「それは助かります。新居が四月四日にならないと入居できないので、もしそれまで泊めてくれたらパーフェクトなんですけど」

「美佐さんさえよければ、私は異論はないんですが……」

 短期間とは言えこの若い女性と同じアパートをシェアするという話が進んでいる。僕が服を脱いで男性ということが分かったら美佐は腰を抜かして逃げ出すに違いない。僕は大森に救いを求める視線を送った。

「美佐ちゃん、ちょっとそこに座ってくれ」

 大森は社長の隣のソファーを指さした。美佐は
「はあ……」
と言いながら僕の正面に腰を下ろした。

「これから私が話すことは、富永社長から指示がない限り社内でも極秘にしてもらうべき内容だ。富永社長と美佐ちゃんに聞いて欲しい」

 大森の前置きを富永と美佐が怪訝そうな表情をして聞いていた。

「LGBT対策という概念は理解してるね? レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどのセクシュアルマイノリティーが差別されないような対策を企業は要求されている。残念ながら本社でも、関連企業でもLGBT対策は後回しにされてきた。その必要性を感じさせるような事例がなかったというのが後回しになった理由だが、正直なところ私自身も、LGBTは言葉としては理解していたが、実際にLGBTの人と会話をしたことが無かったから、よく分からなかった。君たちも同じような感じじゃないかな」

「隣の課の隅谷君は時々女言葉を使いますし、オネエみたいな仕草をするんです。それなのにキャバクラ通いが趣味みたいで、訳わかりません」
と美佐がコメントした。

「そうか。でも、キャバクラ通いが趣味ということは、隅谷君にはLGBTの資格がない可能性が高いね。まあ、本人が希望するなら産業医の巡回の際に診察させても良いんだが」

「ホント、気持ち悪いんですから……」

「LGBTの人間が気持ち悪いとは限らない。それどころか、見るからに爽やかな美しい女性である場合もある。その代表例がこの柊クルミさんだ」

 富永と美佐が、
「ええっ」
と声を上げて、穴の開くような目で僕を見た。

「わ、私はレズの女性に対して嫌悪感は無いし、一度くらいは経験してもいいかなとは思っていましたが、結婚を目前に控えた身ですので夜の交流はご勘弁ください」

 美佐が慌てて両手をおへその下に揃えた。

「わっはっは。その心配は無用だ。柊さんは男性に抱かれることしか望んでいない。美佐ちゃんに手を出すことはあり得ないよ」

 話が変な方にずれている。会長が紛らわしい言い方をしたので美佐は僕をレズの女性だと勘違いしたようだ。

「会長、ちゃんと仰ってくださいよ」
と僕は大森に懇願した。

「じゃあ、クルミちゃんはLGBTには当てはまらないじゃないですか。LでもGでもBでもないわけでしょう?」

 富永はそう言った後で口籠った。

「ま、まさか……Tなんですか?」
 富永が息を飲んだ。

「そう、その通りだ」

「確かに貧乳なのは気づいていましたが、この人が元男性だなんて……」

 富永が言うと、美佐も
「ウソでしょう!」
と首を大きく横に振った。

「彼女は、物心ついた時から、心の性と身体の性の不一致に苦しんできたそうだ。彼女が今後本来の女性として生きていけるように会社としてサポートしたいんだ。協力してくれるね」

「そういうことでしたか。分かりました、会長。私も同じ女性として一肌脱ぎましょう。ところでクルミちゃん、アレを取る手術は何歳の時にしたの?」

「アレって……?」

「分かってるでしょう、おチンチンとタマタマよ」

 僕は顔が真っ赤になってしまった。

「ま、まだです。まだついています……」

「最後まで話を聞いてくれ。実は彼女は私と昨日会うまでの二十三年余り、男性として生活して来たんだ。だから昨年就職した会社にも男性としての就職だった。昨日私と会って、苦しい胸の内をすっかり話してくれたんだ。だから、今朝、彼女を大手紳士服チェーンに連れて行って、女性用の就活五点セットをプレゼントしたばかりだ。スカートをはくのは今朝が生まれて初めてだったらしい」

「ウソでしょう!」
 富永と美佐は声を合わせて絶句した。

「会った時は髪もバサバサだった。私が百円ショップでハサミを買って来ておかっぱに仕上げたんだ。この子は手を入れるともっともっと女らしく美しくなるぞ。女性になるために必要な医療費は本社のLGBT対策費から補助する形でサポートをしたいと思っている。これで会社として本格的なLGBT対策の実績が出来るのだから安いものだ。いずれにしても富永君の会社に費用を賦課するつもりは無い。とにかく女性として仕事できるように助けてやってくれ」

「承知しました。お引き受けします。美佐ちゃん、退職するまで短い期間だけど、服装やお化粧などについてこの人が女性として適応できるように指導をしてあげてね」

「はい、承知しました。面白くなってきました。引越の時に捨てるつもりだった衣類も沢山ありますから、色々差し上げます。私も手間が省けて助かります」

「フィアンセの方は許してくれるかしら? アパートをチンチン付きの女性とシェアすることを?」

「それは大丈夫ですよ。この人、弱そうですもの。万一襲って来たら逆に私が押し倒して食いちぎりますから、アハハハ」

「それでは人事担当の須藤さんを呼ぶから入社に必要な手続きをしなさい。クルミちゃんの本名は何というの?」

「先ほど申し上げた通り、ヒイラギクルミです」

「でも、戸籍は男性だったんじゃないの?」

「本当にヒイラギクルミが本名なんです」

 富永は大森と美佐と顔を見合わせた。三人がこらえきれずにククククッと笑ったので僕は傷ついた。

「大変だったわね、そんなに可愛い名前だと、普通の男の子でも変になっちゃうかも、ウフフフ」

「富永君、それは違うよ。普通、性同一性障害の男性は脳の構造自体が違うんだ。名前によって女性化したわけではない」

「ごめんなさい、クルミちゃん。性同一性障害に関する理解度が低くて。社長としてそれではいけないわよね。とにかく、人事担当にだけは性別の秘密を知らせざるを得ないけれど、それ以外の社員に対しては当面極秘扱いにする。ただ、福利関係のデータには性別が出ることも多いから、一日も早く戸籍も女性に変更できるようにベストを尽くしなさい。いいわね」

「富永社長、ご協力に感謝するよ。それからもう一つ、彼女は事情があって一文無しなんだ。入社初日で異例だがひと月分を限度として給与の前払いをしてやってくれ」

「承知しました。ところで美佐ちゃん、クルミちゃんはノーブラみたいだからどこか近くの衣料店で安いブラを買って来てくれない? 布切れか何か詰めて少しは胸を膨らませないと、異常なペチャパイを見て疑う人が出たら困るもの」

「私、ロッカーに古いブラがひとつ入っていますからそれをクルミちゃんに上げます。以前、デートの前に勝負下着に着替えた時に脱いだまま置いてあったんです。給与の前借りをするほど金欠だったら節約しなきゃ」

「ありがとうございます」
 僕は美佐に心から頭を下げた。

 一体僕は何をやっているんだろう……。

 ホームレスから脱却させてくれた大森には感謝の言葉も無いほどだが、大森の口車に乗って訳アリの女性として就職することになってしまった。一日も早く戸籍を女性に変更しろと言われて、僕はそれを受諾してしまったみたいだ。女性になるんだぞ……。僕が好きなのは女性だ。男性と身体を触れあうなんて考えられない。それに毎日スカートで通勤して、女子トイレに行くなんて……。どうしよう。今からでも遅くはない。逃げ出そうか。でもホームレスに戻るのは嫌だ。熱い風呂に入り、ひと晩ふかふかのベッドの上で寝てしまった今、段ボール箱で身を覆って、いつ襲われるかと恐れながら夜を過ごすことはもう考えられない。ホームレスになるぐらいなら、女子社員になる方が数段マシだ……。

 僕はしばらく成行に身を任せることにした。

 美佐と一緒に更衣室に行ってブラジャーを着けた。女の臭いがするブラジャーだった。更衣室の棚の上に古いタオルの入った箱があったのを美佐が思い出し、タオルを引き裂いてクシャクシャにしてブラジャーのカップの中に突っ込んだ。ブラウスの上から見た僕の胸は普通の女性の胸に見えるようになった。

 人事担当の女性と会議室に入り、入社手続きをした。その途中で大森が会議室に入って来て僕の肩に手を置いた。

「じゃあ、私はこれから仙台に行って、その後、大阪に帰るよ。困ったことがあったら何でも富永君に相談しなさい」

「会長さん、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
と言って深くお辞儀した。

 実際のところ、僕は恩を受けたのかどうか確信が持てなかった。LGBT対策に利用されただけではないかという気もしたからだ。極論すれば「性別を捨てる代わりに衣食住を手に入れた」ということだ。

 いや、それは被害妄想というものだ。大森はこんな奇策を思いつく前から僕を助けてくれようとして色々親切にしてくれたのだ。牛丼を買ってくれた時の嬉しさは、本当の空腹を経験した人にしか分からない。僕は大森を落胆させないように、少なくとも当面は女子社員として働いてみようと思った。


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