ジェイコブ・キングのプライド
男が女として生きる罰。その契約の果てにあるものとは。
原作:The Pride of Jacob King
A bet, a punishment, and the life he never imagined.
by Yulia Yu. Sakurazawa
第1章 鏡の中の男
ブルーボネットの集会室の空気は、泳げそうなくらいねっとりしていた。八月の湿気、薄いコーヒー、そして「ここ以外のどこかにいたい」と思っている三十人分の鬱々とした不満が混ざって、まるでスープみたいだ。天井の扇風機は軸がぶれてカタカタ揺れ、熱気を掻き回すばかりでちっとも逃がしてくれない。その規則的な小さな音が、この町の不満のメトロノームになっていた。壇上の後ろの壁には、ありえないほど青い花畑の色あせた壁画がかかっている。団地の名前が皮肉ではなく約束だった頃の名残だ。
私はジェイコブ・キング。妻のナタリーの隣に座り、シャツが肌に張り付く不快さを感じていた。生物の教師として、世界の優雅で容赦ない理はよく分かっている。生態系は、大事な要素がひとつ欠けただけで崩れる。うちの小さな生態系――町外れの二階建てレンガ造りの集合住宅群――は、廊下の明かりの点滅、春にミセス・ゲイブルがつまずいたプール脇のひび割れ、そして千の小さな出費でじわじわと出血多量になって、崩れかけていた。
その出血の源、うちの食物連鎖の頂点にいる捕食者は、アーメド・カーンの滞納管理費だった。
「三年ですよ」と、トーマス・オーウェンズが言っていた。声は乾いた落ち葉が舗道を転がる音みたいだ。前に立つその男の背筋は、長い銀行人生の重力で恒久的に曲がってしまったかのようだ。「三年。借金は何千ドルにもなっている。手紙も出した。電話もした。だがあの男は幽霊だ」
私は彼を見ながら、頭の中でこの部屋の反目やら派閥やらを星座みたいに結んでいた。オーウェンズ氏は管理委員会の会長で、その肩書を茨の冠みたいにかぶっている。殉教を楽しんでいるのだ。紙の王座に座り、現状維持を守る。それしかやり方を知らないからだ。問題は、その現状が沈んでいるということ。
ナタリーが隣で身じろぎし、テーブルの下で私の手を見つけて握ってきた。彼女の手は冷たい。病院で十二時間の勤務を終えたばかりで、目の下には薄い紫の疲れの影がある。昨夜もまた、例の話をした。お金の話。最後はいつも、子どもの夢をさらに一年先送りにする、で終わる話だ。その重さは物理的だった。胸が締め付けられる。勉強しろと言われた覚えのない試験で落第し続けている、そんな気分だった。
「で、次の手は?」と、後ろからメイソン・スコットが声を上げた。メイソンはこの建物の優しい巨人だ。体格の大きさは、恥ずかしがりのやわらかな人柄で打ち消されている。委員会の書記を務めているが、実際の仕事の大半をやっているのは彼だと皆知っている。「訴えるのは金がかかる」
「そうだ」とオーウェンズが、疲れ果てたため息に飛びつくように言った。「手の打ちようがない。繊細な問題だ。できることを、できる範囲でやるしかない」
できることをやる――英語でいちばん役に立たない四語(do what you can)だ。降参の言葉だ。喉の奥に、苦い熱がまた込み上げた。頭のいい生徒が「難しいから」と投げ出すのを見るときの、あの苛立ちだ。皆が問題ばかり見ているときに、自分には解決が見えている、その焦れったさだ。
そしてオーウェンズは、余計なひと言を口にした。部屋をぐるりと見渡し、私の前を視線が通り過ぎながら言う。「若い世代は、元気があり余っておるからな。もっといい知恵でもあるのだろう。だが、これは現実の世界だ。ゆっくり動く」
それは突き放しだった。頭をなでるみたいな。まるで「子どもには分からん」と言われたみたいだった。その瞬間、慎重にせき止めていた堰が切れた。金の不安、ナタリーの疲れ、私自身の不全感――それらが一つの、向こう見ずな誇りの波になって押し寄せた。
私は立ち上がった。椅子が床をこする音が、不釣り合いに大きく響いた。ナタリーの指が私の手を強く握る。黙って、必死に止める合図。でも私は無視した。
「問題は世界じゃありませんよ、オーウェンズさん」と、思ったよりも澄んだ冷たい声で言った。「問題は、意志がないことです」
オーウェンズは振り向き、目を細めた。「キング君。発言を許可する」
「三年ですか?」私は通路に出ながら言った。「三年も放置した。水道も止めていない。共用施設の利用も制限していない。本当の圧力を、何ひとつかけていない」
「そんな簡単な話では――」
「簡単ですよ」と私は遮った。「アーメド・カーンの問題を解決したいんでしょう? 権限をください。私にやらせてください。私ひとりで、この最大の問題――アーメド・カーンの滞納――を、三か月で片づけてみせます」
部屋に静けさが落ちた。敬意のある沈黙じゃない。事故の直後に落ちる、呆然とした好奇心の沈黙だ。私は、出すぎた口をきいた、では済まないことをした。王の前で、王は無能だ、と言い放ったのだ。
ナタリーの顔は真っ青だった。メイソン・スコットは私をじっと見ていて、その表情は読み取れなかった。
だがオーウェンズは、もう私を見てはいなかった。彼の顔に、ゆっくりと奇妙な笑みが広がっていく。そのとき初めて私は見た。疲れた銀行家の仮面の奥に、まったく別のものが潜んでいることを。鋭く、計算高く、そして底の底から満足している、何かが。
第2章 誇りの契約
翌朝は、誇りの二日酔いとともにやって来た。昨夜コミュニティ・ルームで口走った言葉が、ひとつひとつ鈍い痛みになって頭の中で反芻される。キッチンでペーパーフィルターを落ちるコーヒーを眺める。黒いしずくが落ちる速度は、腹の底に溜まっていく不安と同じだった。
ナタリーは小さなテーブルで紅茶をすすっていた。家に戻ってから、彼女はほとんど口をきいていない。その沈黙は、どんな説教よりもこたえた。
「バカだったよ、わかってる」私はカウンターから目を離さずに言った。
「傲慢だったわ、ジェイク」彼女は静かに、しかしはっきりと言った。「彼に恥をかかせた。自分にもね。オーウェンズみたいな人は、忘れない」
「オーウェンズみたいな人間には、ケツを蹴るやつが必要なんだよ」私はコーヒーを注ぎながらつぶやいた。「この場所を何年もかけて地に落としてきたんだ」
「で、あなたが自分で蹴る役を買って出た?」彼女は顔を上げた。灰色の瞳が心配で潤んでいる。それが良心に刺さる。「ここは高校のディベート部じゃないのよ。うち、だから。ご近所さんのことなのよ」
応える前に、ドアを叩く音がした。友だちの軽いノックではない。事務的で、要件を告げるようなノック。私たちは視線を交わした。不安が走る。ドアを開けると、トーマス・オーウェンズがウエルカムマットに立っていた。
糊のきいたシャツにプレスのきいたスラックス。未亡人の差し押さえにでも行く途中のような装い。手にはマニラ封筒。
「キングさん」感情の起伏を消した声。「少々、お時間を」
私は身を引き、狭い居間に招き入れた。彼はゆっくりと歩き、小さなソファ、擦り切れたラグ、結婚式の写真を、銀行員の目で値踏みするように眺めた。評価し、勘定している。
「昨夜の宣言について考えたんだよ」部屋の中央で立ち止まる。「君の…申出をね」
「比喩ですよ」私は慌てて言った。「苛立って、つい。言い過ぎました」
「私はそうは受け取らなかった」オーウェンズは滑らかに言う。封筒から一枚の紙を取り出し、コーヒーテーブルに滑らせた。「私は約束だと受け取った」
見下ろすと、契約書だった。タイピングされた本文に、下部には端正な署名欄。文言は精密で、ほとんど法的書面のようだ。昨夜の私の大言――九十日でアーメド・カーンの滞納を全額回収する――が記されている。そして、失敗した場合の結果が詳細に。
「……不履行の場合、署名者ジェイコブ・R・キングは、その生涯にわたり、女性としての社会的・服飾上の呈示を採用するものとする。これには服装、美容、公共の場での所作を含むが、これに限定されない。さらに、署名者は、当該移行を円滑にするため、医師の処方に基づくホルモン補充療法を受けることに同意する」
息が詰まった。ずっと前、メイソンやオーウェンズと酒の席でやらかした馬鹿話――私が冗談半分で言った罰の文言――が、黒いインクで冷ややかに定着している。彼は覚えていた。
「狂ってる」ナタリーが肩越しに読みながら囁いた。「冗談でしょ」
「とんでもない」オーウェンズは私を射抜く。「これは名誉の問題だ。君は公に誓った。私はそれを正式にする機会を与えているだけだ」彼は少し身を乗り出し、声を落とした。「私の妻は君のお母上を知っていた、ジェイコブ。キャサリン・キングは信義の人だったとよく言っていた。約束は約束。言葉は絆だとな」
母の名は、よく研がれたスティレットのように肋骨の隙間に差し込まれた。彼が突いているのは、私の虚栄ではない。血筋であり、性根だ。ここで引けば、母よりも劣ると認めることになる。見事に残酷な一手。
その合図のように、もう一度ノック。今度は柔らかい。ドアを開けると、メイソン・スコットが立っていた。大柄な体で入口をふさぐ。手にはホイルで覆った皿。
「昨夜、声が聞こえた」彼は私の顔から居間のオーウェンズへと視線を移す。禿鷹のように立つ男。「妹が焼いたシナモンロール持ってきた。……役に立つかと思って」テーブルの紙を見ると、親しい表情が消えた。「それは何だ」
「ただの友好的な賭けさ」オーウェンズが言う。
メイソンが一歩中に入る。その存在だけで部屋の重力が変わる。彼は契約書を読み、顔を曇らせた。私を見る。その目は必死に訴えていた。「ジェイク、やめろ。間違ってる。引け」それからオーウェンズへ。「あんたもわかってるだろ。こんなのは間違いだ」
「彼は大人だ」オーウェンズは冷たく返す。「自分で決められる」
メイソンは再び私を見た。「気をつけろ、ジェイク」低く切迫した声。「オーウェンズはお前の一家に因縁がある。会費だけの話じゃない」
だが、ほとんど耳に入らなかった。母の名が頭の中で反響する。昨夜の傷ついた誇りが、視界を狭め、足元の崖を見えなくする。罠ではなく、受けて立つ挑戦に見えた。自分の家で臆病者とは呼ばせない。干からびた老人に、私の名誉を疑わせない。
「ペンを」私は静かに言った。
「ジェイク、だめ!」ナタリーが叫ぶ。
彼女も、青ざめたメイソンの顔も無視した。オーウェンズの差し出すペンを取る。プラスチックの感触は冷たい。私は線の上に名前を書いた。サラサラという小さな音が部屋に響く。小さく、しかし最終的な音。鍵がかちりと掛かるような。
オーウェンズは契約書を持ち上げ、目に一瞬の勝利を光らせた。短くうなずき、出て行った。ドアの脇の床に皿を置いて――哀れな和平の印のように。
私は手元の控えを持ったまま、立ち尽くした。一枚の紙切れが、途方もなく重い。そこに私の未来がすべて載っている。燃えさかる誇りの壁の向こうで、寒く澄んだ震えがようやく体を走った。純然たる恐怖だった。
第3章 不可能な任務
最初の一週間、私の「使命」は清潔で鋭利なものに見えた。論理と作戦の問題。私は理科の教師ジェイコブ・キング。系統立ててやればいい。固定資産の記録を調べ、ネットで素性を洗い、アーメド・カーンの交友関係を地図にする――数は少ない。オーウェンズが言ったとおり、彼は幽霊だった。だが幽霊でも痕跡は残す。その痕跡が指す先は、3B号室だった。
火曜日の午後を選んだ。世間がいちばん忙しく、私の訪問が目立たない時間だ。三階までの階段を上ると、廊下は不気味に静かで、古い油と埃の匂いがこもっていた。3Bの前に立つ。自分の部屋と見分けがつかない薄茶のドア。私ははっきりとした音でノックした。目的のある男のノック。
しばらくの沈黙ののち、チェーンの外れる音。ドアがわずかに開く。現れたのは、私が思い描いていた中年男ではなかった。若い女だ。廊下の薄暗がりの中で、その顔は青白く、涙の跡が黒い筋になっていた。マスカラが頬を流れ、口元の細かい皺にたまっている。濃い焦げ茶の髪は嵐の雲のように乱れ、顔を縁取っていた。目は光を吸い込むように空洞だ。
「ミセス・カーンですか?」予定より柔らかい声が出た。
彼女は小鳥のようにかすかにうなずいた。「どちらさま?」
「ジェイコブ・キングです。ブルーボネット管理委員会の者です」口にした瞬間、肩書きの間抜けさが胸に刺さる。私は滞納通知の封筒を掲げ、自分の押しかけを正当化する小道具にした。「管理費の件で、ご主人とお話がありまして」
女の顔が崩れた。新しい涙がせり上がり、こぼれる。「彼はいません」擦れた囁き声。
私は待った。何を言えばいいのかわからなかった。この展開は計画にない。
「私を置いて行きました」彼女は、隠したままでは抱えきれない重さを吐き出すみたいに、ドアを広く開けた。「オマーンに戻ったの。あっちの家族のところへ」
私は部屋に足を踏み入れた。さっきまであった使命感は、不穏な混乱に溶けていく。家具は少ないが、その少ないものが乱れている。床には開け放たれた空のスーツケース。タンスの引き出しは引き抜かれ、スカーフや書類がこぼれ落ちている。荒らしたのは泥棒ではない。慌ただしい出発だ。
「両親は結婚に反対でした」彼女は手の甲で涙を拭いながら言った。「インドの娘が、三十も年上の人となんて……でも、あの人は話が上手で。世界はきれいで、私にそれを全部くれるって。本気で思わせた」短く、苦い笑いが嗚咽に変わる。「向こうには奥さんも、成人した子どももいた。私は……気晴らし。道楽。道楽は終わったの」
明確だった任務は、一瞬で泥濘になった。迫る自分の破滅が、この目の前の剥き出しの破綻の前では急に瑣末に思える。ポケットの中の契約は、男の見栄と酒の冗談から生まれた約定。だがこの部屋は、破られた約束が現実に何を壊すかの見本だった。
「お気の毒に……ミセス・カーン」薄っぺらな言葉しか出てこない。それでも先へ進まなければ。私の将来がかかっている。「ただ、管理費の件は残ります。かなりの額です」
彼女は私を見た。涙で潤んだ目に、信じられないという色がかすかに灯る。「管理費?」彼女は部屋を指し示した。「キングさん、私、何も持っていません。彼が全部持って行きました。出発前に、祖母にもらった金のイヤリングまで売ったんです。飛行機代が必要だって」その言葉には哀れみはなく、ただ事実があるだけだった。「仕事もない。結婚で勘当されて、頼れる家族もいない」
私は彼女を――本当に――見た。ファティマ・カーン。二十一か二十二、そんなところだろう。男の退屈を満たすために拾われ、外国で打ち捨てられた、漂流者。私は取り立て人として来た。冷酷になり、脅し、怯えたオーウェンズにはできないことをやってのけるつもりだった。
だが、すでにすべてを失った相手をどう脅す? 次の食事もおぼつかない相手に、どうやって金を出せと言う?
頭の中で二つの声が戦った。一つは自己保存の声だ。自分の人生がかかっている。金を取れ。インドの両親に泣きつけと告げろ。もう一つは静かで、しかし譲らない声。自分がなりたいと思ってきた人間――教師であり、まっとうな夫であり、善い人間、の声。共感の声。
勝ったのは後者だった。
肩の力が抜ける。ドアを叩いた作戦家は消え、残ったのはただ、静かな悲劇の証人としてのジェイコブ。
「何か……」喉が急に渇いた。「何か、私にできることはありますか?」
口にした瞬間、理解した。私は失敗した。賭けは終わった。九十日の任務は、この午後のただ一つの問い――滅びを呼ぶ優しさ――で終わったのだ。
第4章 ささやきの重さ
ファティマ・カーンを訪ねたあとの最初のひと月は、ひそやかな消耗戦だった。表向き、私の「任務」はブルーボネットの住民の目には続いているように見えた。だが、密かな失敗は生き物だった。私の時間と、金と、結婚を食う寄生虫みたいに。
週に二度、私はナタリーに「図書館で採点がある」と薄っぺらい口実を告げて、ファティマの部屋へ通った。食料を持って行き、履歴書をノートPCで一緒に作り、町外れのダイナーの面接に車で連れて行った。どの親切も、私自身の棺に打つ釘だった。彼女に渡した二十ドル、五十ドルは、こっそり貯めていた「赤ちゃん貯金」から出ていった。嘘は灰の味がした。
ナタリーは何かがおかしいと感じていた。何かは知らない。けれど、私たちの生活の骨組みがきしんでいるのは分かる。前みたいな気安さは消え、緊張した薄氷みたいな沈黙が居間に張りついた。彼女は、私が見ていないと思うと、私をじっと見た。眉間に、訊けない問いをたたんで。
ある夕方、彼女は私のジーンズのポケットからレシートを見つけた。いつものスーパーではない店名。家で買わない豆の銘柄、ローズウォーター、カルダモン。
「国際食品の店、行ったの?」寝室の戸口で、できるだけ平静を装って彼女は訊いた。
私は机で、生徒のレポートに目を落としているふりをしながら言った。「ああ。生徒の家が困っててさ……少し買って届けただけ」
嘘は薄い紙のようだった。透けて見える。彼女の視線が首筋に刺さる。真実を探している。でも、彼女はそれ以上何も言わない。続く沈黙には、傷つきと疑いが重く詰まっていた。新しい壁が一枚、また一枚、私の嘘で積み上がっていく。
部屋の外では、別種の圧力が強まっていた。町が見ていた。こんな小さな場所では、私の公言は大事件だ。レジの向こうでも庭の柵越しでも話題になった。九十日の締め切りは、町が見物する砂時計になった。
スーパーの通路を曲がるたび、視線が刺さる。会話がふっと止まる。春に転んだミセス・ゲイブルは、軽蔑よりこたえる同情の目を向けた。にやつく門番のテイラー・ウェルズは帽子のつばに指を触れて、「うちの幽霊の件、進展は? キング先生」と、敬意を装った声でからかった。
ささやきは、どこに行ってもついて回った。私はもう生物の先生ジェイコブ・キングではない。「あの賭けの男」。好奇の的。タイマー付きの道化。
ある土曜、車を洗っていると、メイソン・スコットが工具箱を持ってぶらりと来て、自分の網戸の取っ手を締め直し始めた。話す口実は見えすいている。
「賭け率、出てるぞ」彼は顔を上げないまま言った。「ダイナーでな。お前が失敗する方に二対一」
私はフロントガラスの鳥のフンを無心にこすった。「楽しみを提供できて光栄だね」
「娯楽じゃない、ジェイク」低く真剣な声。「オーウェンズが、残り時間を皆に吹聴してる。カーンの部屋から出てくるお前を見た、青い顔してた、ってな」
私は手を止めた。やはり。彼は待っているだけじゃない。失敗の見世物も演出している。
「まだ引ける」メイソンはようやく私の方を向いた。心底の心配が顔に出ている。「あいつのところに行って、『間違ってた』って言え。屈辱は一週間、二週間の話だ。あっちよりマシだ」
彼は逃げ道を差し出していた。プライドだけを差し出せばいい出口。ひと月前なら飲み込めたかもしれない。でも今は無理に思えた。負けを認めるには、理由を説明しなければならない。ファティマのことを話さなければならない。あまりにも個人的で、あまりにも悲しい物語を、自分の言い訳のために使うことになる。それに、私のプライド——あの厄介で破滅を呼ぶエンジン——は、今や妙な保護欲と結びついていた。
「うまくやるよ」私は自動的に嘘をついた。
メイソンはゆっくり頭を振り、深い失望を隠さずに、取っ手を締め終えると一言もなく去っていった。
その夜、私は天井を見つめて横になった。デジタル時計の赤い数字が10月17日を照らしている。残り三週間もない。隣にはナタリーが眠っているはずなのに、私たちの間には冷たいシーツの溝が横たわっていた。言えない恐れの峡谷。私は完全に孤独だった。不可能な約束と、考えるだにおぞましい結末のあいだに挟まれて。町のささやきは家まで追って来て、暗闇の中では、もうささやきではなく叫びになっていた。
第5章 最初の一錠
最後の日は、雷鳴ではなく、テキサスの十一月らしい陰気な霧雨とともにやって来た。空は洗い物の水みたいな色をしていた。朝から骨の奥で低く唸るような不安が止まず、じっと座っていられなかった。ナタリーは早番で病院へ出かけ、カウンターに「今夜、話をしなきゃ」とだけ書いたメモを残していった。その言葉は、約束でもあり、宣告でもあった。
午後五時きっかり。灰色の午後が早すぎる黄昏へ沈み始める頃、ドアを叩く音。トーマス・オーウェンズだった。一人ではない。立会人としてメイソン・スコットを連れている。メイソンの顔は苦渋に固まり、親友の処刑に同席する羽目になった男のように見えた。
対照的に、オーウェンズは静かな満足をまとっていた。契約書も紙束も持っていない。必要がないのだ。玄関マットの上で、ただ一言。「九十日目だ、ジェイコブ。時間切れだ」
私は何も言わなかった。言うべきことはない。失敗は、彼が連れて来た三人目の客のように、その場にいた。
「明日から契約の履行を見せてもらおう」彼は滑らかに続けた。「コミュニティ全体が見ている。失望させないでくれ」小さく口角を上げ、踵を返した。彼の出番は終わったのだ。
メイソンは残った。庇から雨粒を垂らしながら、一歩だけ中へ入る。「ジェイク」掠れた声。「まだ遅くない。弁護士に行こう。あの契約は……強要だ。不公正だ。持たないかもしれない」
「持たない?」私は空洞の声で笑った。「それでどうなる? 町の前で約束しておいて、果たす段になって弁護士の陰に隠れた男になるんだ。善良な老人を潰そうとした卑怯者さ。……もう勝負はついてる、メイソン。金の話じゃなかった」
彼の肩が落ちた。真実を知っている者の肩の落ち方だった。コートのポケットから小さな紙袋を取り出し、玄関のテーブルにそっと置く。「どうしていいかわからなくて」低く言う。「薬剤師の友だちに頼んだ……『妻の更年期』って言って」私の目を見られない。「やめてくれ、ジェイク」
彼は静かにドアを閉めて去った。紙袋が小さな凶兆みたいに残る。開けると処方ボトルが一本。ラベルには〈PREMARIN(結合型エストロゲン)〉とあった。
その夜は霞のように過ぎた。部屋の中を幽霊みたいに歩き回り、物に触れていく――棚の一冊、ナタリーのマグの丸み、結婚式の写真。大人のふりをした子どもが二人、笑っている。私は終わりゆく生活の遺品を目録にする記録係になっていた。
十時ごろ、ナタリーが戻った。雨は上がっている。私は暗い部屋に座り、テーブルの上にはボトル。彼女はすべてを一目で理解した。ボトルを手に取り、ラベルを読み、手が震える。
「本当にやるのね」驚愕で掠れた声。「神様、ジェイク。あの馬鹿げた、酔った勢いの虚勢のせいで?」
「それだけじゃない」私は絞り出した。「名誉の話だ。自分の言葉の」
「名誉?」彼女は叫び、声が割れた。ボトルが手から落ち、錠剤が小さな骨みたいな音を立てる。「私たちの結婚の名誉は? 私への誓いは? 何ヶ月も嘘をついて、こそこそ出歩いて、貯金を使い込んで! それのどこが名誉なの?」
「助けたかったんだ」弱く言う。「ファティマ……3Bの。夫に捨てられて、何もなかった」
彼女は私を見つめ、怒りの奥に、ゆっくりと致命的な理解を宿した。「じゃああなたは、他人のために、私たちの未来を全部捨てたの?」ソファに沈み、顔を覆う。「あなたが浮気してた方が……まだマシだったかもしれない」
長い沈黙。裂け目はもう亀裂ではない。峡谷だ。やがて私は立ち上がり、床からボトルを拾った。キッチンで水を汲み、戻る。
彼女は見上げ、縁に涙。「やめて」と囁く。
私は彼女を見なかった。見られなかった。子ども用の安全キャップを捻る。静かな部屋にカチカチという音が大きく響く。小さなえんじ色の錠剤を掌に一粒。驚くほど軽い。男の人生の重さを背負わせるには、あまりにも小さい。
舌に乗せる。粉っぽく苦い。水を口に含み、飲み下す。冷たい水が通り、錠剤が喉を滑り落ちていくのをはっきり感じる。帰れない国境線を越えた。終わった。最初の一錠。二度と戻らない国への、最初の一歩だった。
続きを読みたい方はこちらをクリック!
