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行方不明

原作: Kingdom of Dust and Mirrors

A Himalayan Novel of Disappearance and Transformation

by Yulia Yu. Sakurazawa

第一章 ヒマラヤの王国へのバス旅行

三十時間のバス旅行がやっと終わろうとしている。

初めてのインド旅行に「デリー滞在二週間」という格安ツアーを選んだのは失敗だった。東京からの往復航空券と朝食付きのホテル十二泊というフリー・プランだったが、僕は二日間でデリーに飽きてしまった。人力車でオールドデリーの隘路を巡り異国情緒を味わってからデリー市内の観光名所を回ったが、もうこれで十分だという気持ちになった。

コロラドで生まれ育ち日本に留学して東京の大学に進んだ僕にとって、デリーは確かにエキゾチックな街だった。でも、時間が過ぎるにつれ、ここは自分の肌には合わない場所だという気持ちが強くなった。

土色と原色が交錯する色彩感覚、破られることが前提の規則、親切そうな笑顔に混じる意味のない卑屈さ、そして不潔な埃が漂う雑踏……。

何が悪いというのではない。渋谷の雑踏と比べて、デリーの混雑が酷いかと聞かれれば、むしろ逆だ。結局僕が耐えられなかったのは不潔さだった。鼻腔や口から肺へと入って来る空気に無数の埃と雑菌が含まれている気がして、ここではもう呼吸したくないという強迫観念に憑りつかれた。

そこで、僕は残りの十日余りをデリーの外で過ごそうと決意した。夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻って、どこに行こうかと考えた。真っ先に頭に浮かんだのがネパールだった。ロッキー山脈の麓で生まれ育った僕にとって、ヒマラヤの王国ネパールは最も親しみやすい場所だった。初めから「デリー滞在二週間」ではなく「カトマンズ滞在二週間」という格安ツアーを探せばよかったと思ったが、今となっては後の祭りだ。

デリーからカトマンズに行く方法をスマホで調べた。最も簡単なのは飛行機での往復だが、カトマンズでのホテル代を含めると、懐に余裕がなくなってしまう。

最も安いのはデリーからゴラクプールまで列車で行ってそこからバスに乗り換えて国境の街スナウリに行き、徒歩で国境を越えてからカトマンズ行きのバスに乗るというルートのようだ。しかし、間違えたり騙されたりせずに何度も乗り換えられるかどうか不安だった。

それよりは少し高価だが、デリー発カトマンズ行きの直行バスサービスがあることが判明した。エアコン付きで車内映画も見られる豪華高速バスと書かれていた。僕は翌日の午前七時にデリーのマンジュカティラ駅を出るカトマンズ行きのバスの切符をネットで購入した。

デリーのホテルの宿泊代はツアー料金に含まれておりキャンセルはできないので、荷物の大半は部屋に残し、軽いリュックサックに三日分の着替え、パスポート、スマホと財布だけを入れてカトマンズに行くことにした。

翌朝、僕は市内観光に行くかのような軽装でホテルを出た。フロントで鍵を渡す時に、カトマンズで七、八泊するが、僕の部屋はそのままキープしておくようにと念のために言っておくつもりだったが、フロントには人相の悪い男性従業員が一人立っていただけだったので、何も言わずに鍵をドロップしてホテルを出た。

リクシャでマンジュカティラのバス乗り場に着いたところまでは順調だったが、カトマンズ到着は次の日の午前八時になると知って驚いた。何と二十五時間もバスで揺られることになる。おまけに、高速バスといっても日本のようなちゃんとしたバスではなく、薄汚れた粗末なバスだった。

よく調べずに直行バスを選択した自分がバカだったと反省したが覆水は盆に返らない。直行バスと言っても眠っているところを国境で起こされ、一旦バスを降りてインド出国とネパール入国の手続きをしなければならなかった。ビザ代として二十五ドルかかったのも誤算だった。

ネパールに入国して心なしか空気が清潔になった気がしてほっとしたが、カトマンズの中心部にさしかかるとバスの外の景色はデリーの雑踏をさらに一回り混とんとさせて、デリーの空気を二回り不潔にしたように思えたので僕はげっそりした。結局二十五時間のはずが三十時間以上かかってカトマンズに着いた時には疲労困憊で足がふらついていた。

それでも奮起して、ハエのようにたかってくる客引きを避けてタクシーに乗りこみ、ドアを閉めた。

「タメルのホテル・シヴァまで」
とドライバーに行先を告げた。

デリーのホテルの部屋からエキスペディア経由で予約を入れたのはカトマンズ観光の中心地区であるタメルにある安ホテルだった。ドライバーは小太りの中年男性だったが、ホテル・シヴァを知っているようだったので安心した。

カトマンズの市内の混雑はバスの中から見るよりもひどかった。こんな道を自動車が通れるのかと思うような場所を、タクシーが人混みをかき分けて進むのにはハラハラして罪悪感を禁じえなかった。ドライバーは好意的な口調でしゃべるのだが、運転席と助手席の間のバックミラーを見るといつも運転手と視線が合った。

「ここはごった返していますが、カトマンズから何キロか出れば美しい自然が見られますよ」
と片言の英語で言われて少しは慰めを感じた。

ホテルに着くまでの約三十分間、ドライバーからずっと観察されている感じがしていた。僕がいつバックミラーを見てもドライバーと視線が合うということは、ドライバーが僕の顔が映る方向にバックミラーを向けて常に見ているということであり、気味が悪かった。

東京の同じ大学の女友達が、タクシーに乗ると運転手にバックミラーでチラチラ見られるのが嫌だと言っていた。男性の運転手が若くて美しい女性客をついチラチラ見てしまうというのは分からないでもないが、ネパールの中年ドライバーが十八歳のアメリカ人男性をこんな風に盗み見するというのは、ゲイでない限りあり得ない。アメリカで同じような目に遭ったら、そのドライバーは高い確率でホモだと考えていい。

いや、途上国の素朴な労働者をゲイだと決めつけるのは早計かもしれない。外国人を乗せるのは珍しいことだから、運転手はウキウキした気持ちでついチラチラと視線を走らせるのではないだろうか。僕は自分が高慢だったことを反省した。

僕が彼らを見てエキゾチックだと考えるのと同じように彼らも僕を見てエキゾチックと思っているのだ。僕のルーツはフランス人で、日本の血が八分の一混じっている。肌は真っ白で眼は褐色、髪はいわゆる銅色のブロンドだ。日本の血が入っているせいか肌のきめが細やかで、細身でしなやかな体型だ。アメリカ人の女友達から「ルーベンは小顔で体毛が薄くて、まるで日本女性のようなデリケートな肌だから羨ましい」と言われたことがある。

タクシーは路地のような狭い道へと右折すると、オレンジ色の大きな建物の前で停車した。玄関にチベットの龍が描かれた建物だったが、立派な外観にかかわらず何か胡散臭い感じと悪い予感がした。玄関の周辺に煙草を吸いながらうろついている人が大勢いたからかもしれない。タクシーの運転手に頼んで他のホテルに連れて行ってもらおうかとも思ったが、そんなことをしたらキャンセル料を取られるので思いとどまった。

僕はリュックサックを肩にかけてホテルに入った。フロントに立っていた無表情な若い男が予約を確認した。チェックインをしている間、周囲の人からジロジロと見られている気がした。気味が悪くなって振り返ると、僕をここまで乗せてきたドライバーが玄関のところに立って僕を見ていた。ドライバーの左右にも数人の男が立って僕を見ている。ロビーから奥のレストランにかけて、ホテルのスタッフとも外部の人ともつかない多くのネパール人が、僕にじっと視線を凝らしていた。

這うような不気味な視線だった。背筋がぞくっとして、顔から髪の毛の付け根まで赤くなるのを感じた。

――僕の顔に何かついているのだろうか?

チェックインを済ませて鍵を受け取り、周囲の視線を無視して階段へと向かった。軽装で来たのは正解だった。部屋は一階(受付ロビーがあるグラウンドフロアーのひとつ上の階)だが、エレベーターに乗るのは怖い気がした。

階段を半分上ったところで、
「ミスター・ルーベン・ヤング!」
とフロントの男性から大声で呼び止められた。

まだ受付の手続きが残っていたのだろうかと思いながら渋々階段を下りてフロントへと歩いて行った。

僕に声をかけたのはストライプのシャツに黒いズボンの男性だった。

「ディナー?」
とブロークン・イングリッシュで僕に聞いている。

彼の手ぶりから推測すると、これからホテルのレストランで食事をするつもりかどうかと質問しているようだ。

そんな質問のために呼び戻されたと分かって腹が立った。僕は猛烈にお腹が空いていたが「ノー」と答えた。大勢の異様な視線に晒されて食事をする気にはなれなかったからだ。

とにかく一人になりたくて階段を駆け上り、部屋に入ると内側から鍵をかけた。カーテンを閉め、シャワーを浴びると何もせずにベッドに転がってスマホのスイッチを入れた。

デリーのホテルのフロントに何も言わずに出てきたことが気になっていた。メイドがベッドメイキングに来て、僕が何日も部屋に戻っていないと気づいたら荷物を勝手に片づけて部屋を他の客に貸すのではないかと心配だったので、ホテルに電話かメールを入れておこうと思った。

ところがスマホは電話もデータ通信もつながらなかった。東京で「アジア九ヶ国八日間使い放題」というSIMを買ってスマホに挿し込んで来たのだが、バスがデリーを出発した直後からインターネットにつながらなくなっていた。SIMが届いた日にスマホに挿し込んでAPNの設定をした後SIMを抜いたのだが、その日から八日目経過したために期限が切れてしまったのだろうと思い当たった。

フロントに電話して「WIFIのESSIDとパスワードを教えて欲しい」と質問したところ「WIFIはありません」というシンプルな答えが返って来た。

第二章 新しい友人

翌朝目を覚ますとジーンズと青いTシャツに着替えてレストランに朝食を食べに行った。トーストにジャム、目玉焼き、カレー味のジャガイモとチャイだけの朝食だったが、とても美味しくて満足した。

市内観光のためにタクシーを手配したいと思ってフロントに行った。丁度若い男性がシフトを終えて立ち去ろうとしていた。

「おはようございます、タクシーを手配したいんですが……」

「すみません、今シフトが終わったところです。ティカバイに頼んでください」

デリー滞在中に名前の後に「バイ」を付けて尊敬を表すと聞いていたので、ティカバイとは偉い人なのだろうと思った。

「ティカバイとは誰ですか?」

「このホテルの支配人です。あっ、今来ました」

フロントの若い男性が示した方向から、身なりの良い五十絡みの小柄な男性が歩いて来た。平たい顔に眼鏡をかけている。

「おはようございます。支配人のティカ・チェトリです。昨日チェックインされたお客さまですね? その際にフロントに居合わせず大変失礼いたしました」
と支配人は淀みなく一気に語った。全く真心がこもっていないお決まりの言葉だと感じた。僕にとって、シフトを終えた若い男性は口数が少なすぎ、支配人は口数が多すぎた。この人は信用できないと直感した。

「観光のために車を手配したいのですが、可能でしょうか?」

「勿論ですとも。どこの観光をご希望ですか?」

「まずカトマンズ市内を見たいですね。その後でナガルコットまで足を延ばせればいいのですが」

「何時ごろのお帰りをお考えでしょうか?」

「そうですね……。まあ、七時ぐらいに帰って来られればいいと思っています」

「分かりました。お値段は六千ルピーになります。初日ですので、受付担当のヴィカスという男を案内のために同行させましょう」

ネパール・ルピーは日本円とほぼ同じだから、丸一日で六千円ということになる。まあ、そんなものだろう。

「いえ、ガイドは不要です。一人の方が気楽ですから」

「追加料金はかかりませんよ。ヴィカスは非常に良い男で、愛想もいいんです。カトマンズ市内を回るには現地人のガイドが是非必要です。明日からはお一人で回ればよろしいかと」

僕は考えあぐねていたが、若い従業員が出社してきた。百七十三センチの僕よりも十センチほど背が高く、ネパール人としては非常に長身だった。頑丈かつ堅牢な体躯で肌は浅黒い。素朴で子供のような笑顔に好感が持てる二十歳そこそこの男性だった。

「これが今お話ししていた男です。ヴィカス・タマングという名前です」

僕はひと目でヴィカスを気に入り、是非観光案内をして欲しいと思った。ネパールに来てから初めて出会った好ましい人間だった。

「ルーベン・ヤングです。コロラド出身で、東京に留学中です。よろしく」

「お目にかかれて光栄です」
とヴィカスが笑顔で言った。

丁寧過ぎる言葉だったが、支配人のような虚言ではなく、そこはかとなく誠意が感じられた。

「お荷物をお持ちします」
とヴィカスが言って僕のリュックに手を掛けた。

「大丈夫です。殆ど空っぽですから自分で持てます」

「お客様は非常に華奢なお身体ですから荷物はヴィカスに運ばせます」
と支配人が口を挟んだ。不適切なタイミングでの不愉快なコメントだったが、ヴィカスに悪い印象を与えたくなかったので黙ってリュックを渡した。

手配してくれたのはホテルが保有する自動車らしく、ヴィカスについて行くと運転手がドアを開けてくれた。ヴィカスは助手席に乗り、僕は後部座席に一人で座った。

「カトマンズ観光で最も重要なのはダルバール広場です。マッラ王朝時代の中心地であり、美しい寺院が立ち並んでいます」

広場の入り口には入場料が「千五百ルピー」と書かれていた。随分高いなと思ったが、二人分として三千ルピーをヴィカスに渡した。ヴィカスは笑いながら「ネパール人は無料なんです」と言って千五百ルピーを僕に返した。ネパールでは少しでも隙を見せたらお金をぶったくられると聞いていた。黙って三千ルピーを受け取っても僕には分からないのに正直な人だなと思った。

立札の説明を読みながら見学した。建物の装飾の美しさは格別だった。オールドデリー観光をした時には案内人に聞きもしないことをベラベラ説明されて辟易したが、ヴィカスは僕が自分のペースで見学するのを黙って観察しながら、聞きたいことがあれば丁寧に教えてくれた。ダルバール広場を出て、次の見どころである夢の庭園に着く頃には気の合う友達のように思えてきた。

アメリカにはブロマンス"bromance"という言葉がある。ブラザーとロマンスをつなぎ合わせた言葉だが、性的な関係が無い男どうしの、恋人のように親密な関係のことだ。僕はヴィカスとならブロマンスを共有できそうな気がした。僕は女性と出会って一瞬にして恋愛感情を抱いたことは何度かあったが、男性に対してブロマンスの感情を持ったのは初めてだった。ヴィカスも僕に対して同じような気持を抱いていることが感じ取れた。正直なところ「真の友情」とブロマンスが異なるものだとは今日まで知らなかった。生まれた国も育った背景も全く異なる二人の男性が短時間でこれほどの親近感を共有できるのはすばらしいことだと思った。

夢の庭園、ガーデン・オブ・ドリームズは十九世紀から二十世紀の半ばまでネパールを支配していたラナ家の庭園とのことだった。二人で庭園の入り口に向かって歩いていた時「ちょっと待って、動かないでください」とヴィカスが言った。

ヴィカスは僕の足元にさっと屈み、僕のズボンの裾の折り返しに挟まっていた草をつまんで取り除いてくれた。屈強な身体の矢のように速い動作がとても美しかった。ヴィカスがズボンの裾の折り返しを反対にしてクズを取り除いた時、ヴィカスの指が僕の足首にかすかに触れた。細くて白い足をヴィカスの目に晒したことが訳もなく恥ずかしかった。

まるで中世の騎士が貴婦人の足元に屈んでスカートの裾に付着した雑草を取り除くような礼儀正しさに接して僕は戸惑った。人からそんな扱いを受けるのは生まれて初めてだった。こんなロマンチックと言ってもいいような扱いを受けることが何を意味するのかと考えて、顔が赤くなった。

いや、ヴィカスは単なる親切心でしたのだろう。きっとこの国の人にとって外人客のズボンの裾をはらうのは、何も特別な意味を持たないことなのだ……。

ガーデン・オブ・ドリームズを出てナガルコットに向かう車中で、僕は先ほど感じた騎士と貴婦人のようなムードを打ち消したいと思って、ヴィカスと運転手に対して男っぽい話をすることに努めた。運転手は子供が二人いて腹の出ているディーパックという名前の中年男だが、ヴィカスや僕と話しが合った。僕が冗談を言うと大声で笑って反応してくれるのが嬉しかった。ヴィカスも僕に男どうしでしか言えない種類の冗談を言った。

僕は心からほっとした。ネパールに着いてからずっと居心地が悪かった。ネパール人の男性からまるで女性を見るような卑猥な視線を浴びているという気がして、僕自身が女になったかのような妙な気分だった。ヴィカスとディーパックと三人で下ネタの冗談を言い合って大声で笑ったお陰で、男としてのプライドを取り戻せた気がした。

ナガルコットは地図で見るとカトマンズ中心部からの直線距離は十七キロしかないが、途中からくねくねした細い道になり、二時間ほどかかってやっと到着した。標高二千メートルを超す高地にある町で、ヒマラヤ山脈が手に取るように見える。天気の良い日の早朝や夕方にはエベレストが見えるそうだ。

時間の関係でナガルコットを早めに発ってカトマンズへと折り返した。

帰路にバクタプルという観光名所の近くを通った。中世の街並みを残した古都とのことだったのでどうしても寄り道したくなったのだ。元々今日の予定には入っていなかったし時間的な余裕もないので、僕一人が駆け足で見学してくることになった。赤レンガ造りの町並みを小走りで見て回ると中世の世界にタイムスリップしたような不思議な気分になった。ヴィカスとディーパックが待つ車に戻ると、運転手のヴィカスが悪戯っぽく歯を見せて笑いながら僕に言った。

「寄り道した事をティカバイに知られたら超過料金を取られますよ」

「じゃあティカバイには内緒にしてください」

「いいですよ。但し、ティカバイに内緒にする交換条件として、ホテルに帰るまで何でも言う通りにすると約束してください」

ディーパックの言葉には裏がありそうだったが、僕は冒険したい気持ちになっていた。

「アハハハ、いいですよ。言う通りにしましょう。どこに連れて行ってくれるんですか?」

「楽しみにしていてください。お客さんがバクタプル観光をしている間にヴィカスと相談して特別なプランを練ったんです。ネパールに来た思い出として一生忘れないような冒険になるかもしれませんよ」
とディーパックが言ってウィンクした。

ヴィカスと相談したのなら大丈夫だろうと思ったが、一体何が待っているのだろうかとドキドキした。二人のお陰で僕のネパール旅行は期待していたよりも冒険に満ちたものになりそうだった。

第三章 勇気と欺瞞

車はカトマンズ市街に差し掛かり、ホテル・シヴァに近づいた。しかし、ディーパックはホテル・シヴァを迂回して、タンカの宗教画を売っている店の前に停まった。その店のすぐ横にはネパール人の半裸の女性が誘惑の視線を投げかける写真が掛かっていて「ダンス・バー」と書いてあった。写真の下に矢印が貼ってあり、暗くて薄汚い階段を指していた。

「なるほど、このダンス・バーに冒険に行くんですね!」

ディーパックはニヤリと笑って答えた。
「その通り。でも何でも言う通りにするという約束を忘れないでください。女の子が躍っているのを見るだけじゃないですよ」

「勿論です。僕は約束を守る男ですから」

ネパールについて初めて、体内からアドレナリンが湧き出てくるのを感じた。ディーパックの思わせぶりな様子から考えると、あっと驚くほどきれいでセクシーな女の子がいるのかもしれない。そんな女の子に足を絡ませてダンスをする自分を想像するとゾクゾクしてきた。カトマンズが男性にとっての天国だとは知らなかった。

ディーパックはいやらしい想像をしているような目つきで笑っていた。ヴィカスは僕と同じように、怖さ半分、期待半分という表情だった。

僕はヴィカスに聞いてみた。

「この種のバーにはよく来るんですか?」

「いえ、今日が初めてです」
 ヴィカスの浅黒い顔が髪の付け根まで赤くなった。

ヴィカスは僕より二、三歳年上のようだが、ひょっとしたらまだ童貞かもしれないと思った。僕は何人かの女性と経験したことがある。ネパール人は結婚するまでは性交渉を避けるのかもしれない。勿論、それは人によって異なるだろうが、ヴィカスは真面目でオクテなのだろうと思った。

今朝会ったばかりの年下の僕に正直に答えてくれたことで、ヴィカスに対する尊敬の気持ちがさらに強くなった。僕は気心の知れた友人どうしとしてヴィカスの手を取り、ディーパックの後を追って薄汚い階段を上った。

階段を上がって薄暗いホールに出た。身体の線が露わなけばけばしい衣装を着た女たちがヒンズー語と思しき歌に合わせて小さなステージの上で踊っている。ディスコ風の派手なライティングで、頭上からのレーザービームがダンサーたちの身体を隅々まで浮かび上がらせる。

ステージの向こう側に観客の男たちが座っているテーブルがある。ディーパックが慣れた様子で席を確保し、ウィスキーをボトルで注文した。ディーパックがその場で現金を払い「今日は私がホストとしてあなたたちを接待します」と宣言したので驚いた。今日車を雇った料金から考えると運転手の収入はたかがしれている。本当にご馳走になっていいのだろうか?

インド旅行の計画段階から、水はミネラルウォーターのボトルを自分で封を切らない限り飲まないことに決めており、氷は更に信用できないと思っていたので、僕はウィスキーをストレートで飲んだ。エキゾチックな音楽に合わせて女たちが身体をくねらせるのを見ているとついお酒が進んでしまった。

安物のウィスキーのせいか酔いが早く回った。ふらふらしてきたので「もうそろそろホテルに連れて帰って下さい」とディーパックに頼んだ。

「まだまだ。夜は始まったばかりですよ」
とディーパックが僕の腕をつかんで引き留めた。

「こんなところで酔いつぶれて変なことになるのは嫌ですから」

「何を言ってるんですか! 今夜は何でも言う通りにすると約束したのを忘れたんですか?」

「確かに約束しましたけど……」

もうしばらく飲まざるを得ないと覚悟した。

ディーパックは店の女性を手招きして呼び寄せた。店員やダンサーに指示を出しているマネージャーと思われる女性だった。ディーパックは彼女にお金を渡した。

「この人を中に連れて行って衣装を着せてくれ」
とディーパックが言うと、彼女は僕の手を引いてステージの裏の小さな部屋に連れて行った。何をしに行くのか不明だったが酔いが回っていた僕はフラフラとついて行った。

気がついたら服を脱がされてパンツだけになっていた。彼女は僕にダンサーが着ていたような真っ赤なロングスカートと小さなシャツを着せた。おへその上下の部分が大きく露出されている女性の服を着せられてドキドキした。もし酔っていなかったら絶対に拒否していたはずだが、僕は半分夢を見ているような気持ちだった。

僕の髪はラフなメンズ・ボブスタイルだが、彼女は僕の髪が完全に真っすぐになるまで何百回もブラシをかけ、僕の髪はストレートヘアの女性のようになってしまった。首には重いネックレスを、頭にもゴテゴテした髪飾りをつけられた。あっけにとられているうちに化粧までされてしまって、鏡の前に立たされた。

真っ赤な口紅と黒く縁どられた大きな目が印象的なすらりとした女性が映っていた。それが自分だとは信じられなかった。

「さあ、できあがったわ」
 女性の後を追って部屋を出た。ドアの外に立っていたヴィカスと鉢合わせになった。

「ディディ」
とヴィカスが僕に声をかけた。ディディとはネパール人が女性を呼ぶときの言葉だ。

「この中に僕の友達が入って行ったんですけど、見かけませんでした? 細身のアメリカ人男性なんですが」

ヴィカスは僕が誰だか気づいていなかった。無理もない。鏡を見て僕自身が自分だとは思わなかったのだから。

「ヴィカス、よく見て!」

「オー・マイ・ゴッド! ディーパックがここまでやるとは……」
とヴィカスは首を横に振って困惑を露わにした。

丁度そこにディーパックがやってきた。

「これはこれは! これほど可愛い女になるとは、期待していた以上だぜ! こっちに来いよ、ディディ」

こんな恰好をしていても、運転手と外人客の関係としては馴れ馴れし過ぎる言い方をされて不愉快だった。ディーパックが僕の腰に手を回したのにもゾッとした。でも、酔っぱらってフラフラしていた僕は何も言えないままステージの上へと押し出された。前のステージが終わってステージにダンサーは居らず、照明も落ちていた。ディーパックは僕がステージに立ったのを見届けるとどこかに姿を消した。

その時、照明のスイッチが入りレーザービームが僕の顔から全身に注がれた。眩しくて、レーザービームを遮ろうと手をかざしたが、何もできずに立ち尽くした。夜道で突然自動車のヘッドランプを浴びた鹿はこんな気持ちなのだろうと思った。

観客席の男たち全員の視線が僕に注がれていることを痛いほど感じた。僕がダンスをするのを催促する視線だった。

店の誰かがオーディオのスイッチを入れて大音量の音楽が流れ始めた。僕はステージの上で凍り付いたまま立っていた。男たちがネパール語で口々に短い言葉を僕にかけ始めた。言葉は分からなかったが、早く踊れと言われているのだと感じた。男たちの声が段々苛立ってきたことが分かる。このままだと乱暴されるかもしれないと思った。僕はディーパックとヴィカスに助けを求めようと見回したが、二人の姿はどこにも見当たらなかった。

仕方なく、僕は腰をゆっくりと左右に振った。とにかく踊っているふりをする必要があった。しかし、客席の男たちからのヤジと掛け声は高まるばかりだった。僕はさっき踊っていた女たちの動きを思い出して同じような動きをし始めた。客席からのヤジが歓声へと変わり、掛け声に乗せられて僕は激しく身体を動かした。

自分がこんな時間にこんな国のこんな場所でこんなことをしていることが現実とは思えなかった。あまりにも突拍子で、恥ずかしい、あり得ない体験だった。ただ、大勢の人に見られている姿は、僕がさっき鏡の中に見た、ネパール人ダンサーの衣装を着た女性の姿であり、僕とは似ても似つかない人物だという安心感のようなものが心の中にあった。

踊っている時にステージの裏から男がカクテル・グラスを片手に近寄って来た。レーザービームが眩しくて顔はよく見えなかったがディーパックかなと思った。客席からも囃したてられて男から渡されたカクテルを一気に飲んで踊り続けた。

しばらくして急に酔いが回り、僕は立っていられなくなってその場にしゃがみこんだ。

僕はそのまま意識を失ってしまったようだった。

***

目が覚めたのはホテルの部屋のベッドの上だった。胸が悪くて頭が重かった。昨夜のダンス・バーでの出来事はおぼろげながら覚えていたが、どうやってホテルに帰ったのかは全く記憶がなかった。そうだ、ステージの上で音楽に合わせて踊っていて、途中でカクテルを飲んだのがたたって、急に酔いが回ったのだった。

ベッドの上に重い身体を起こして目を擦った。何と、昨夜ステージ出来ていた衣装のままだった。どうしよう! 気を失った僕をホテルまで連れ帰ったのはディーパックとヴィカスだろうか? ヴィカスは途中から姿を見ていないし、ディーパックは僕よりも沢山ウィスキーを飲んで相当酔っていたはずだが、誰が僕をホテルに運んだにせよ、服を着替えさせてからにしてほしかった。女装して酔っぱらった姿でホテルの玄関から運び込まれたのなら、少なくとも従業員には見られているはずだ。

部屋の入り口のドアを見ると、閉ってはいたが鍵がかかっていないことがノブの方向で分かった。ひどい話だ。気を失った客を部屋に運んで鍵もかけずに出て行くとは、泥棒にどうぞお越しくださいというようなものだ。僕は荷物も少ないがパスポートとスマホと財布という貴重品がある。

ひとこと文句を言ってやろうと思ってフロントに電話を入れ、ティカ支配人に部屋に来るように言ってくれと頼んだ。

間もなく支配人がやってきたが、一人ではなかった。一緒に来たディーパックの顔を見て気まずい思いがした。

ティカ支配人は勝ち誇ったような満足気な顔を僕に向けた。ディーパックが昨日とは違う変な目つきで僕を見たので、いやな感じがした。

「昨夜誰が僕をここまで運んだんですか?」

僕は客として威厳ある態度を示そうと上から目線で支配人に質問したが、自分の真っ赤なスカートが目に入って声が萎んだ。

支配人はディーパックを指さした。さっきから僕を変な目つきで見ていたディーパックは「全くいい女だ」とだけ言った。

「失礼じゃないですか! 口を慎んでください。それで、ヴィカスはどこに行ったんですか? あなたが一人で僕を部屋に連れて来たんですか?」

僕の質問に答えたのは支配人だった。「お客さんがステージで気を失った後、ディーパックが私に電話で報告しました。話を聞いて、ヴィカスはすぐに家に帰して、代わりに私がダンス・バーに行ってディーパックと二人であなたをホテルまで運んだんですよ」

支配人の慇懃無礼な態度が気に食わなかった。

「その姿を人に見られたのではないかとご心配なのですね? 大丈夫、毛布でくるんで運びました。ミスター・ルーベン・ヤングが女装をしてダンス・バーで踊っていたことは誰も知りません」

支配人は邪悪な笑みを浮かべてこう付け加えた。

「但し、私がその気になれば、その事実を世界中に公表することが出来ます」

「ど、どういう意味ですか?」

動揺する僕を横目に、ディーパックが待ってましたとばかりスマホをティカに渡した。ティカはスマホを操作して動画を表示した。そこには僕がステージで踊っている姿が映っていた。客席の男たちを誘惑するような目つきで腰を蛇のように動かしていた。

恥ずかしい動画を見せられて僕は赤面した。気づかないうちにディーパックに撮影されていたのだ。ディーパックに対する強い怒りが湧いてきて僕の顔はますます赤くなった。

「いったいどんなつもりで! 今すぐ動画を削除してください。}

「残念ながら動画は削除できません。画面をよく見てください。これはユーチューブの画面です。既にユーチューブにアップロード済みですが、タイトルに『ダンサー』と書いてあるだけなので、誰がどこで踊っているのかは分かりません。あなたの家族や友達が見ても、あなたが女装した姿だとは気づかないでしょう。しかし、もしタイトルを変更したら状況は急変します。例えば『十八歳で女として目覚めたルーベン・ヤングの妖艶な踊り』とか」

「冗談ですよね? もしそんなことをされたら僕の評判はガタ落ちです。大学でも笑いものになるのは確実です」

「大丈夫、落ち着いて。私の言う通りにすれば、そんなことはしませんよ」

――脅すのか……。脅してお金を巻き上げようとしているのだ!

「いくら欲しいんですか?」

「誤解しないでください。私がそんな無節操な悪人に見えますか?」

「お金でないとすると、何が欲しいんですか?」

「何でもない事です。その服を着たまま今日一日ご自分で市内観光に行ってください。その服は明日ダンス・バーに返却します。この美しい姿を一晩だけで終わらせるのはあまりにも惜しい。それが私の望みなのです」

「ほ、本当にそれだけでいいんですか?」

「私を信じてください。ご自分でもお分かりの通り、あなたがその格好をしていたら誰もミスター・ルーベン・ヤングだとは分かりません。あなたはいかにも西洋人ですという顔ではありません。ネパール人にも色白な人はいるから目立ちませんよ。胸を張って、気兼ねなしにネパールで異性になった体験ツアーをすればいいのです」

支配人とディーパックは外人客を無理やり女装させてネパールで女性としてのツアーを体験させることに喜びを覚える変態なのだろうか? とにかく、今の僕にとっては変態的要求に従う以外の選択肢は無さそうだ。衣装は明日ダンス・バーに返却すると言っているから、今日一日だけ我慢すればいいのだ。

第四章 罠にかかった鹿

支配人とディーパックは部屋から出て行った。女性の姿で観光に出かける前に昨夜の汗を落とそうとシャワーを浴びた。化粧を落とすのは面倒なので首から下だけを洗った。浴室から出るとベッドの上に布の袋とメモが置かれていた。

「袋の中にスカーフ、シリコン・ブレストと化粧品が入っています。シリコン・ブレストは粘着性がありますがシャツの中のカップで支えると安定します。へそ出しルックでの観光は不適切なので適宜スカーフで覆ってください。支配人より」

袋の中に入っていたドキッとするほどリアルな擬似フェイク乳房ブレストを手に取ると胸が締め付けられるようで妙な気持ちになった。ずっしりと重い二つの塊を胸に貼り付けると今にも剥がれ落ちそうだったがシャツを着て内装されたカップで支え、貼り直して位置を微調整すると安定した。その場で軽くピョンピョンすると、まるで本物の女性の胸のように上下に揺れた。シャツの外から触って、一瞬自分の胸に本物の乳房ができたのではないかと錯覚した。

髪を昨夜のように真下にブラッシングし、化粧が乱れた部分に上塗りした。口紅を塗って、ブロンズ色のアイシャドウを軽く乗せると、昨夜鏡の中で見たのと同じ女性が出来上がった。

ナップサックを持って部屋を出た。鍵をフロントに預けたがヴィカスは居らず、二十三、四歳の小柄で眼鏡をかけた真面目そうな女性が立っていた。シャツの胸に「サンチタ・ジャティ」という名札がついていた。

「マダム、何かご用でしょうか?」
と丁寧な口調で聞かれた。女装男性と疑っている気配は感じられなかった。

「これから外出するので鍵を預けたいんですが」

「承知いたしました、マダム」
と答えてサンチタは鍵を受け取り引き出しに入れた。僕とそれ以上口をきくつもりは無さそうだった。無口で仕事だけのために立っているという雰囲気の従業員だ。

「ヴィカス・タマングを知っていますか?」

「ええ、知っていますが、どうしてですか?」

「彼がどこに居るのかを知りたいんです。ちょっと聞きたいことがあって」

「今朝支配人からヴィカスは辞めたと聞きました。ご質問があれば支配人にご相談ください。その旨支配人にお伝えしておきます」

「い、いえ、結構です。支配人には言わないでください」
と僕は慌ててサンチタに言った。

ヴィカスが辞めたとは一体どういうことだろうか? 支配人とディーパックが僕を脅すのと同時にヴィカスが居なくなる……どう考えても不自然だ。ホテル・シヴァには何かがある……。

ディーパックの仲間かもしれない運転手とは一切かかわりたくない気持ちだったのでタクシーには乗らず、歩いてホテルを出た。タメルの雑踏をしばらく歩いてから、リクシャに乗ってセントラル動物園に行った。リクシャの運転手が僕の姿を見て何も不自然だと思っていないのは確かだった。動物園に着いて料金を払う際、十ルピー余計に渡したところ「ありがとうございます、マダム」と言われた。

入場券売り場の女性も僕を見て変な顔はしなかったし、動物園の中を歩き回る間、誰からも特別な視線は感じなかった。人工池でボートに乗ったが、ボート漕ぎのお兄さんも僕を単なる外人女性と思っているようで、ブロークン・イングリッシュであれこれ話しかけられた。僕は特に高い声でしゃべろうとせず、普通に声を出していたつもりだったが、それでも変な顔はされなかった。ハスキーな声の女性と思われたようだ。ネパール人は男性でも平均身長が百六十三センチしかなく、彼らにとって欧米人は男も女も巨大な異星人に見えるので、女装していれば疑いもせず女と認識するのかもしれない。

動物園ではエレファント・ライドが人気のようで、僕も一度象に乗りたいと思っていたがスカートが気になったので自重した。

動物園を出ると再びリクシャをつかまえて、ナラヤンヒティ宮殿に行った。そこはネパール王族殺人事件の舞台として有名な場所だけに、入り口でのチェックは厳しかった。ナップサックをロッカーに預けて手ぶらで入ったところ、ボディーチェックがあると分かって引き返そうかと思ったが既に遅かった。女性職員に身体を触られた時には冷汗が出た。こんな薄い服を着てどこに武器を隠し持つことができるのかと抗議したい気持ちだった。この恰好で爆弾を隠すとしたら胸と腰しかあり得ないと考えているのか、シャツの上からシリコン・バストを触られた。結局、異常なしと判断されて、無事に入場することが出来た。

ナラヤンヒティ宮殿の見学を終えて、近くのヒンズー教寺院まで歩いた。僕は女性の列に並ぶように言われ、僧侶から朱色の顔料の皿を差し出されたので指につけて額に朱色の印をつけた。それはビンディと呼ばれ、夫が存命中の既婚女性が朱色のシールを貼ったり顔料で描いたりするものだと、ニューデリー観光の際に聞いたのを思い出した。ヒンズーの神に祈り、祝福された気分で寺院を出た。

異教徒が性別を偽って祝福を求めに来たら、ヒンズーの神々は腹を立てるのではないだろうかと冗談交じりに思った。秘かに胸を躍らせた特別な経験だった。

ホテルに帰りついたのは午後七時だった。フロントで鍵を受け取って部屋に入ると、出かける時に頼んでいた通り「完璧に」掃除されていた。部屋に置いてあった僕の服が全て消え去り、ベッドの上にはネパールの女性が着る服が置いてあった。クルタスルワールと呼ばれる絹のような素材のワンピースとパンツの組み合わせと、首から後方に垂らすショールだ。

これは明らかにティカの仕業だ。僕はフロントに電話をして、すぐにティカ支配人を部屋によこすように要求した。

ティカは部屋に来ると慇懃無礼に会釈した。
「マダム、今日の観光はいかがでしたか?」

「いい加減にしてください! 今すぐ僕の服を返してください」

「そんなに強気に出ていいんですか? ユーチューブの動画の題名を変更する作業には一分もかからないんですよ」

「そ、それは……。でも、約束を破るなんてひど過ぎます!」

「約束を破った? 聞き捨てなりませんね。その服を着たまま今日一日市内観光するようにとは言いましたが、明日どんな服を着せるかについて私が約束をしましたか?」

「でも、この服は明日ダンス・バーに返却すると……」

「だからその代わりに着る服を用意して差し上げたのです。約束を破ったなどと言われるのは論外です。さあ、謝って下さい!」

「す、すみませんでした。僕の誤解でした……」

「明日はその服を着るんです。いいですね!」
と僕に叱りつけるように言うと、支配人はバタンとドアを閉めて出て行った。

ティカの剣幕に負けてお詫びの言葉を言わされた自分が情けなかった。これでは明日からも女性の恰好で観光することを約束させられたようなものだ。変態の悪戯にしては度が過ぎている。僕をどこまで苦しめれば気がすむのだろうか? この調子ではいつ解放してくれるのか分からない。

最初から僕を陥れるつもりだったことは間違いない。だから予めディーパックに命じてあのダンス・バーに連れて行かせ、ウィスキーで酩酊させてから女装させて動画を撮影したのだ。

彼らの魔の手から逃れる方法は一つしかないと思い当たった。そしてそれは簡単だ。ユーチューブを勝手に流させればいいのだ。もし友達が僕の名前が入った動画を見つけて何か言って来たら「そんな動画は合成だ。そもそも僕とは全然似てないじゃないか」と一蹴すれば大丈夫だ。

僕はスマホ、財布とパスポートを小袋に入れてしっかりと手に持った。実際問題として、この三点セットさえあれば、それ以外は荷物を全部失くしてもどうってことはない。部屋を出ると非常階段のドアを開け、音を立てないように階段を下りた。

「どこに行くんだ?」

階段の下にはティカ支配人が手を広げて待っていた。

「お前が考えそうなことぐらい分かってるんだぞ、この甘っちょろい女鹿め!」

僕はショックで言葉も出せずに後ずさった。ティカは僕が手に持った小袋を見ながら右手を差し出して「よこせ」と言った。

「イヤだ」と言った瞬間、ティカに肩をつかまれて小袋を取り上げられた。

「部屋に戻って大人しくしていろ」
と命令口調で言われた。

異国の地でお金もIDも通信手段も取り上げられてしまった。僕はトボトボと階段を上って部屋に戻り、ベッドの上に仰向けになった。ティカの言いなりになるしかないのだろうか……。

しばらく呆然として天井を見ていたが、これではいけないという気持ちが湧き上がった。パスポートを持っていなくても僕がルーベン・ヤングだということは調べれば分かることだ。アメリカ大使館か警察に駆け込めば保護してくれるはずだ。とにかくここから逃げ出すことが先決だ。

僕は部屋の電気を消して寝たふりをした。ティカが監視している可能性があるので油断させるためだ。

真夜中になって道路からの車の音がまばらになってから、僕は逃亡計画を実行した。靴を手に持ち、裸足で部屋を出て音を立てないように階段を下りる。細心の注意をしながらそっとドアを開けて建物の裏側に出た。周囲に人の気配は無かった。僕は手に持っていた靴を履き、腰をかがめてホテルの裏門へと進んだ。鉄格子の門は閉まっていたが鍵はかかっていない。取っ手を回すとギーッという高い軋み音がした。一瞬息を止めてから、できるだけ音を立てないように取っ手を引いた。

その時、背後で足音がして振り返ると緑色の制服を着た男が立っていた。ホテルの正面玄関に立っている門衛と同じ制服だ。男は僕をにらみつけながら左手で僕の肩を掴んだ。右手には警棒を持っている。

「とんでもないアバズレだな。ティカバイが睨んだ通りだ。ティカバイはお前が逃げることを見越して今夜は支配人室で待機している」
と言ってポケットの無線機のボタンを押した。

「待って、私は何も悪いことはしていません。警察を呼んでください」
と僕はその門衛に訴えた。彼は僕が悪人だと思い込んでいるようだ。多分、女だと思われている……。

門衛が僕に返事しないうちにティカ支配人がやってきた。

「この薄汚い売女め! 悪事を働いてホテルの看板に泥を塗っておいて、コソコソと夜逃げするとは不届き千万だ! 大人しく言う通りに謹慎したら許してやろうと思っていたが、私が甘かったようだな」
とティカは門衛に聞こえるように僕を怒鳴りつけた。

「ウソです、支配人が言っていることは全部作り話です! 助けてください」
と門衛にすがりついた。

ティカは突然僕の頬を叩き、僕はその場に倒れた。ティカは僕の髪をつかんで立たせ、門の鉄格子に押し付けた。小柄な男のどこからこんな力が出て来るのだろうと驚き、怯えた。

「乱暴しないでください!」

「ディネッシュ、このホテルでは不届きなアバズレがどんな折檻を受けるのか、こいつに教えてやれ!」

「やめて! 悪いのはこの人です」
と言い終わらないうちに門衛が警棒で僕のお尻を叩いた。

「助けて!」
と叫ぼうとしたがティカに口をふさがれた。息が出来ないままお尻に何度も何度も警棒が振り下ろされ、僕は気が遠くなった。

第五章 返済

翌朝目が覚めるとベッドの上に裸でシーツにくるまっていた。叩かれたお尻がズキズキ傷む。昨夜起きた事を頭に浮かべるだけでも気が変になりそうだった。悪事を働いて捕まった売春婦が夜逃げをする現場を押さえられて門衛の手で容赦なく折檻される……。少なくともあの門衛は本気でそう認識していた。どうして僕がこんな目に遭わなければならないのだろうか?

ティカのことが心底怖くなった。彼は単なる変態ではない。やると決めたらとことん最後までやり遂げるタイプの人間だ。僕がどう動くのか、一歩先、二歩先を読んでいる。昨夜逃げようとしたのは間違いだった。下手に動くとどんな目に遭うか分からない……。

足を引きずって風呂場に行き、シャワーを浴びた。お尻を鏡で見ると傷はないが紫色の縞模様になっていた。

風呂を出ると昨日観光から帰った時に部屋に置かれていたクルタスルワールと呼ばれる絹のような素材のワンピースとパンツの組み合わせと首から後方に垂らす色とりどりのジグザグ模様のショールを身につけた。

若いホテルのボーイが朝食をトレイに乗せて持って来た。ロティというインドのパン、ダールと呼ばれる黄色いカレーとチャイだけの質素な朝食だった。トレイの上にはティカからのメモが乗っていた。

「ちゃんと着替えて化粧をしてから部屋で待て」

それは客に対する依頼ではなく、僕への命令だった。昨夜、ホテルに帰って来た時までは丁寧な口調でしゃべっていたのに、ティカと僕との関係は根本的に変わってしまった。僕は客室に滞在しているが、ティカはもう僕を客とは見なしていない。

二時間ほど経ってティカがノックもせずに部屋に入り「ついて来い」と僕に命令した。ティカは布袋を手に持っていた。あのダンス・バーに一昨日の夜借りた衣装を返しに行くとのことだった。ホテルを出るとティカと並んで雑踏を歩いた。すれ違う人たちから特別な視線は感じなかった。ネパール人女性と同じクルタスルワールを来た僕の姿は自然に受け止められているようだ。

行く手に警察官の姿を見かけて、一瞬助けを求めようかと考えた時、ティカが僕にニヤリとした顔を向けた。この男は僕が何を考えるかを分かっている。彼がこの地域の警察とどんな関係を持っているか想像もつかないが、もし逃げたら必ず捕まってひどい目に遭わされるのは確実だと思った。

ダンス・バーへの薄汚い階段を上った。ジーンズにTシャツ姿の女性が出て来て、現地の言葉でティカと何やら話していた。その後、ホールを通って事務所に通された。五十絡みの大柄な男性がティカと僕を出迎えた。このバーのオーナーとのことだった。ネパール人には日本人に似たモンゴロイド系の人とインド人のようなコーカソイド系の人がいるが、彼は後者で、肌の色は中近東の人のように白かった。

「一昨日の夜ここでお借りしたスカートとブラウスをお返しするために参りました」
と僕はできるだけ高い声で言った。借りたスカートをこんな恰好をして返しに来たのが男性だったら変に思われるからだ。

「ドライクリーニングから上がって来たばかりです」
とティカが補足した。

オーナーの男性は布袋の中からスカートとブラウスを出して、破れや汚れがないことを確認した。彼が大きな声で女性の名前を呼ぶと、一昨日の夜僕にその服を着せたマネージャーらしい女性が部屋に入って来た。

「このお嬢さんが衣装を返しに来てくれた」

女性は僕の顔を見てニヤッと笑ってから「で、宝石類は?」と質問した。

ダンス・バーのステージに立った時、ネックレスやずっしりと重い髪飾りなどを身につけていたのを思い出した。ディーパックに撮られたユーチューブの動画にもゴテゴテに装飾品をつけた姿が映っていた。でも、昨日の朝ホテルで目が覚めた時には衣装は着たままだったが装飾品類は一切身につけていなかった。

「ここを出た時には気を失っていましたが、お返ししなかったんでしょうか?」

「いいえ。覚えていないんですか? その方ともう一人の男性に抱えられるようにして出て行かれましたが、宝石類は身につけられたままでした」
と女性は真剣な表情で答えた。

僕はティカの方を見た。
「はい、間違いなくこのマダムは色んな飾りを着けていました。ここから出た時にも、そして部屋のベッドに寝たときも、確かに身に着けたままでした」

「そうだとすれば、宝石は一体どこに……?」
と僕はティカに助けを求めた。

「さあ、どこにあるんでしょうね。いずれにしてもご自分の責任で解決してください、マダム」

困ったことになった。ホテルに戻った時の状態は分からないが、朝起きた時にネックレスや髪飾りを着けていなかったのは間違いない。そうだ、部屋のドアがロックされていなかったから、物騒だなと思って、文句を言うためにフロントに電話したのだった。他の客かホテルの従業員が部屋に入って来て、泥酔している僕の身体から宝石類を剥がしとったに違いない。

最も疑わしいのはティカとディーパックだ。二人は外人客を女装させて楽しむ変態などではなく、女装させたうえで宝石などを借りさせ、酩酊させて奪い取る詐欺グループなのだ。宝石をブラックマーケットで売って二人で山分けするのだろう。しかし、これは推測に過ぎない。もし僕が推測を口に出したら、それこそ何をされるか分からない。

こんな場所でウィスキーをガンガン飲み、ダンサーの衣装を着せられようとした時に抵抗しなかった。僕の完全なミスだ。誰にも責任転嫁が出来ない状況に追い詰められ、どうしていいか分からなかった。僕は手で涙をぬぐいながらうなだれた。

「ごめんなさい……」

「マダム、ごめんなさいで済むことではありませんよ」
とオーナーが強い口調で言った。

「お貸ししたのは玩具ではありません。特にネックレスはタヨと呼ばれる特別なものでネワリ族が儀式に使うネックレスです。髪飾りはニャプシッカという精巧なものです。金メッキの安物ではなく十八金です。紛失したにせよ盗まれたにせよ、返却できない場合はすぐに現金で払っていただくしかありません。旅行保険が掛かっているなら保険会社に相談すればよろしいですが、それは保険会社とマダムとの間の話であり、私とは無関係です」

あの髪飾りがずっしりと重かったことが印象に残っていた。十八金なら相当高価なものに違いない。いくら酔っぱらっていたとはいえ、高価な宝石を身に着けさせられた時点で拒否しなかったのは僕の落ち度だ。きっとディーパックがこの女性か他の人かに話をしてそう仕向けたのだろうが、そんな憶測は何の役にも立たない。

「それで、どのくらいの金額になるのでしょうか?」
と僕は声を震わせながら質問した。

「購入価格で五万というところです」
 僕は数字を聞いて大きくため息をついた。

「五万! すぐには払えない金額です……」

「旅行保険の保険契約書のコピーはお持ちですか? 宝石類の紛失や盗難がカバーされているかどうかは保険契約の条項次第ですが」

「すみません、旅行保険はかけてこなかったんです……」

絶望的な気持ちになって目から涙があふれた。あの髪飾りの重さから考えると純金なら五万ドルというのは決して吹っかけではないと思った。我慢しようと思ったがその場で泣きじゃくってしまった。

「元々うちの運転手がバーに連れてきたのが間違いでしたから、私のホテルで雇って働きながら返させましょう」
とティカが言った。

「そうしてください。では、返済について書類を作成します」

オーナー、女性マネージャーとティカの三人は現地の言葉で話し始めた。三人はお互いによく知っている間柄のようだった。しばらくしてA4で三ページの契約書のようなものが出来上がり、オーナーとティカがサインした。

「マダムもここにサインしてください」
とオーナーに言われた。現地語の書類だったが英数字で五万と書かれている箇所があったので、金額の上乗せはされていないようだった。大丈夫だろうと思ってサインをした。

***

ホテルに歩いて帰る途中でティカはティーショップに立ち寄ってチャイをごちそうしてくれた。

「そんなに気を落とすな。一週間のネパール旅行のつもりが、長く滞在することになったと思えばいいじゃないか。私の下で働いてホテル業の勉強をしながらネパール語を覚えれば特殊技能として役に立つぞ。ネパール語はインドの公用語の一つだしヒンディーにも近いから、その気になればネパール語とヒンディーの両方を習得することも可能だ」

「でも、僕は早く東京に帰りたいし、アメリカの家族とも会いたいです。こんなところで働くなんて……」

「こんなところとは何だ? カトマンズを見下しているのか? それともネパール人は不幸だとでも思っているのか? 周囲を見回してみろ。皆、一生懸命に働いているということが分からないのか!」

「すみませんでした。おっしゃる通りです」

ティカは悪い人ではないのかもしれない。思い起こせば、今日はずっと僕の側に立ってサポートしてくれた。もしティカが一緒に来ていなかったら、ダンス・バーのオーナーにお金を払えと迫られた時にどうすることもできなかっただろう。ネパールでは貧しい家の娘がインドに売り飛ばされるという悲劇が日常的に起きていると聞いたことがある。ダンス・バーのオーナーなら人身売買に携わる人たちとのコネクションを持っていてもおかしくない。今頃人身売買業者に引き渡されていた可能性も十分にあったのだ。

僕にとって今日のティカは恩人だった。さっきはホテルの部屋に忍び込んで宝石を奪ったのがティカとディーパックだと疑ったが、ティカは関わっていなかった可能性が高いのではないだろうか? ディーパックの単独犯なのかもしれない。いや、きっとそうだ! 

「ティカ支配人、今日は本当にありがとうございました。一生懸命働きますのでよろしくお願いします」

「よし、いい心がけだ」

「ひとつだけ教えてください。どのくらいの期間ホテル・シヴァで働けば五万ドルもの大金を返せるのでしょうか?」

「五万ドル!?」

ティカは一瞬唖然とした表情を見せたがすぐに真顔になった。

「ホテル・シヴァで働いて、残額については半年から一年後に三者で相談して決定するという契約書になっている」

「半年から一年後ですか……。やはりアメリカの親に泣きついた方がいいですよね」

「親に泣きつくのはいいが、既にサインした契約書に従って当分の間働く義務があるということは忘れるな。返済については私にプランがある」

「どんなプランですか?」

「もう考えてあるから黙ってついて来い」

ホテルに着くとティカは僕を支配人室に連れて行ってドアを閉めた。ティカはデスクの向こうの肘掛付きの椅子にふんぞり返り、僕を前に立たせた。

「支配人がお持ちのプランについて教えていただけないでしょうか?」

「教えてやろう」

ティカはスマホを取り出して美しい女性の画像を表示させた。

「この女が誰だか知っているか?」

「いいえ、存じません」

「シラパッソーン・アッタヤコーンという名前で、タイの有名なモデルだ。この女が元は男性だったと信じられるか?」

「へえ、本当ですか! どう見ても美しい女性にしか見えませんよね!」

僕はティカが何を言いたいのか考えあぐねていた。

「お前はこのモデルに引けを取らないほどの美人になる素質がある。男として生まれたのは間違いだったとしか言いようがない」

もし東京でその写真を見せられていたら「とても男だったとは思えないほど美人だ」と思ってそのようにコメントしていただろう。でも、自分自身がネパール女性の服を着せられてこんな写真を見せられるのでは状況が違う。それは露骨なハラスメントだった。

「私をどうするつもりなんですか?」

「お前、エストロジェンという言葉を聞いたことがあるか?」
とティカは嫌らしい笑みを浮かべて聞いた。

「知っています。女性ホルモンのことですね」

「男に飲ませても効くんだぞ」

「今は私の仕事と返済計画の話をしてるんですよ。関係のない話はやめてください!」

「関係が大ありなんだよ。お前には返済が完了するまでエストロジェンを飲んでもらう」

「バカなことを言わないでください。そんなことをしても返済の役には立ちません!」

「契約書にサインしたんだから私の命令に背くことはできないぞ。見ろ、ここにちゃんと書いてある。返済手段や仕事については私に一任し、全ての指示に従うと。その次の条文では、もしお前が違反した場合、私は本契約を第三者に譲渡できると規定している。『第三者』が誰を意味するかはお前にも想像がつくだろう」

「ま、まさか、人身売買業者……」

「私の命令に全面的に従うか、それとも売り飛ばされてコルカタのソナガチか、インドのどこかの私娼窟でエイズで死ぬまで男に抱かれるか」

「そんなことが書かれていただなんて……。電話を貸してください。親に頼んで五万ドルを送金してもらいますから」

「もう遅いよ。この条文を見ろ。私の指示に従って働くことを唯一の返済方法と規定した条文だ。今更五万ドルを差し出しても返済したことにはならない。五十万ドル払うというなら考えてやってもいいが」

「酷い! ネパール語で好き勝手を書いてサインさせたんですね。そんな契約は無効です」

「今度からは中身を読んでから契約書にサインするんだな。言っておくが契約書は百パーセント有効だ。もしお前が空港や大使館や警察に逃げ込んだら法的手続きによって連れ戻せる。ちなみに契約書はネパール語ではなくヒンディーで書かれている。契約を譲渡する場合の相手の『第三者』の公用語はヒンディーだからな」

頭の中が真っ白になった。

「まあそう気を落とすな。自分がどうすればいいのか、部屋に帰って考えろ。決心がついたらこの部屋に来い。私が第三者に声をかける前に戻って来るのが身のためだぞ、アハハハ」

僕は肩を落として部屋に戻り、ベッドに寝転がって考えた。出口は全てティカによって塞がれてしまった。思えば僕がカトマンズに着いた時点で予兆はあった。タクシーの運転手もホテルに居た従業員や客も、虫唾が走るような気持ちの悪い目で僕を見ていた。運が悪いことに、日本人の血が入ったフランス系で華奢な造りの僕が、たまたま彼らの「ツボ」に入ってしまい、この外人を女装させたらどうなるかと思わせたのだ。悪人の支配人が、飛んで火にいる夏の虫とばかりディーパックを使ってあの店で酩酊させ、借金を抱えさせる状況を作り出して、今日契約書にサインさせて僕を自分の所有物として法的に確保した。きっとそれが真相なのだ。

冷静に考えると、このホテルで数年間働くことによって返済を完了することが契約書の主旨であり、僕にとって最も安全でまともなことだ。僕がティカの命令通りに働く意思がないと判断されて契約が第三者に譲渡されたら大変なことになる。それだけは何としてでも阻止しなければならない。ティカの機嫌を損ねないことが自分の身を守るために最も重要なことだ。

グズグズしている余裕はない。とにかくティカに恭順の意を示してホテルでの仕事を開始して次の一歩を考えよう。女性ホルモンを飲んでも急に身体が女らしくなるはずはない。これは時間との戦いだ。

僕は意を決して起き上がり、部屋を出て支配人室に行った。

「支配人、仰る通りにいたします。私をこのホテルで働かせてください」


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