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沈黙のセイレーン

偽りの人魚と硝子の屋敷

原作:The Siren's Silence

The Fake Mermaid and the Glass Mansion

by Yulia Yu. Sakurazawa

第一章 不均衡なストローク

かつて水は私の第二の皮膚だった。そこは世界の喧騒が鈍くリズミカルな羽音へと変わり、重力が支配を緩め、私がただ推進力と呼吸だけの存在でいられる唯一の場所だった。だが水は正直な裁判官であり、近頃の判決は私に不利なものばかりだ。

イーストロンドン・アクアティックセンターの壁を蹴り、十年かけて完成させたシザースキックで身体をひねる。八歳の頃から私は刃物のように塩素と静寂を切り裂いてきた。しかし今日の刃は鈍い。

息継ぎのために水面へ顔を出すと抵抗は否定しようもなかった。かつてピストンのように肩を駆動していた男性的な筋肉は削げ落ち、女性的な三角筋のなだらかな傾斜へと溶け込んでいる。細く流線型だった腰は丸みを帯び、水を切り裂くのではなく受け止めてしまっていた。

私は二十歳。ホルモン補充療法を始めて二年になる。ようやく本来の自分になりつつあるのと引き換えに、唯一のキャリアを破壊しつつあった。

仰向けになり肺を焦がすような息を吐く。きつい競泳水着の下で小ぶりだが確かな存在感を持つ胸が激しく上下した。腰はくびれ重心は変化している。私はもうスピードのために作られた機械ではない。柔らかな曲線と重たい秘密でできた女なのだ。

「タイム」

プールサイドから冷たく短い声がタイルに反響した。

結果を知るのにストップウォッチを見る必要はない。肺の焼けるような痛みがすべてを物語っていた。震える指で排水溝を掴み見上げる。

スポンサー企業「インペタス」の広報マネージャーであるマシュー・ストーン氏がスタート台の上にそびえ立っていた。祖母の年金よりも高いであろう特注のスーツに身を包み、花崗岩から切り出されたような男だ。濡れた粘板岩のような色の瞳が失望と生理的な嫌悪をない交ぜにして私を射抜く。

「自己ベストから三秒落ちだぞ、オースティン」

彼はその名を凶器のように使った。私の頭の中や祖母の台所ではエヴァとして生きていることを知りながら、インペタスにとっての私は依然としてイーストロンドンの神童オースティン・フィッシャーであり投資対象でしかなかった。

私はプールから上がり肩にタオルをかけ、変化した体型を隠すように背を丸めた。

「ただ疲れているだけです、ストーンさん。トレーニングのスケジュールが……」

「問題はトレーニングではない」

ストーン氏は声を危険なほど低め私のパーソナルスペースに踏み込んだ。高価なコロンとオゾンの匂いがする。

「医療報告書は手元にある。女性ホルモンのことは把握済みだ」

屋内プールの空気が急に薄くなった気がした。タオルを握る手に力が入る。

「それは……個人的な医療上の決断です」

「契約違反だ」

ストーン氏は言い捨てた。

「インペタスが支援するのは男性アスリートだ。チャンピオンのスポンサーなのであって、筋肉量と有酸素能力を急速に失いつつある科学実験のスポンサーではない」

彼はジャケットのポケットから折り畳まれた手紙を取り出し差し出した。濡れた手がそれを受け取り紙を湿らせる。

「選択肢は二つだフィッシャー。女になるかスイマーになるか。両立はさせない。我々の金ではな」

「祖母はこのスポンサー料を頼りにしています」

私は絞り出すように言った。

「これがないと生活保護だけでは暮らしていけません。もし打ち切られたら……」

「ならば薬をやめることだ」

ストーン氏は踵を返した。肩越しに振り返り濡れて震える私の体を値踏みするように見下ろす。

「身体を元に戻せ。地方大会まで一ヶ月だ。標準記録を切れなければ契約は無効とする。路頭に迷うことになるぞ」

彼は去っていった。カツカツという足音がタイルに響き、湿った反響音の中に私一人を残して。

***

公営団地へ戻るバスの窓は灰色の雨とネオンの滲みで汚れていた。冷たいガラスに額を押し当てエンジンの振動を歯に感じる。

身体を元に戻せ。

皮肉な話だ。生まれて初めて私は自分自身を「治そう」としているのに。長年私は自分のものとは思えない硬く直線的な牢獄のような身体で生きてきた。ホルモン剤はその鍵だった。一錠飲むごとの小さな救済が本来あるべき自分への一歩だったのだ。だが世界は人魚のエヴァなど望んでいない。機械仕掛けのオースティンを求めている。

バスを降りて湿った煉瓦と炒めた玉ねぎの匂いがする道を歩き団地へ向かった。希望と祖母の頑固さだけで建っているような小さな二階建ての住居だ。

「ナナ(おばあちゃん)?」

コートを脱ぎながら声をかける。

「台所だよ」

聞き慣れた温かくかすれた声がした。私が知る唯一の真実の安らぎだ。

ナナは小さな電気ヒーターのそばに座り関節炎で節くれだった指で編み棒と格闘していた。顔を上げると私と同じ青い瞳が笑って皺くちゃになる。彼女には私が見えている。本当の私が。顔つきの変化も顎のラインの和らぎも彼女にとっては契約違反ではなくただの「私」だった。

「顔色が悪いね」

彼女は毛糸を脇に置いた。

「プールできつかったのかい?」

「ちょっと集中しすぎて」

私は嘘をついて微笑んだ。涙を見られないよう背を向けやかんに火をかける。

「コーチが地方大会に向けて私を追い込んでるから」

「お前ならやれるさ」

彼女は力強く言った。

「フィッシャー家は決して諦めない。屋敷や銀のスプーンは失っても根性だけはなくしちゃいないよ」

シャツの下にあるダイヤモンドのペンダントに触れる。原石をいぶし銀の台座にセットした無骨なペンダントは、顔も覚えていない母から受け継がれたフィッシャー家の財産の残滓ざんさいだ。ナナはこれを私の羅針盤だと言う。これを持っている限り道を見失うことはないと。

今夜そのダイヤモンドはまるで溺れる女の首に巻き付けられた石のように重く感じられた。

「早めに休むね、ナナ。筋肉が悲鳴を上げてる」

祖母の薄い頬にキスをする。

「おやすみ、私の人魚」

***

眠りは安らぎをもたらさず、「彼」を連れてきた。

夢はいつも同じだ。通常の夢のような曖昧さはなく、まだ経験していない記憶のような鋭い鮮明さを持っていた。

私は水中にいる。プールの殺菌された青ではなく濁った生きた闇の中だ。心臓が止まりそうなほど冷たい水。頭上遥か彼方で水面が月光を受けて揺らめいている。

そして少年がいた。

彼は沈んでいく。白いシャツと暗い色のズボンが煙のようにまとわりついていた。もがいてはおらず生と死の狭間の恐ろしい瞬間にただ漂っている。彼の顔が痛いほど鮮明に見えた。気品ある高い額、水流に漂う厚い茶色の髪、そして深い森の苔のような色をした瞳。

彼が私を見た。水面ではなく私を。その目は無言の嘆願と物理的な衝撃を感じるほどの深い悲しみを湛えていた。

――救ってくれ。さもなくば共に来てくれ。

私は手を伸ばし彼の手首を掴もうとしたが水がシロップのように重くまとわりつく。足は水を蹴り腕は水を掻くが動けない。身体の左右非対称性が私を裏切る。私は半分人間で半分怪物、そして全くの無力だった。

最後の息が彼の唇から漏れるのを私は金縛りのまま見つめていた。たった一つの銀色の泡が月に向かって昇っていく。

息を呑んで目覚め、狭いベッドで上半身を起こす。冷や汗で肌が濡れていた。手は無意識に喉元のダイヤモンドを握りしめ、心臓が捕らえられた鳥のように肋骨を叩いている。

ロンドンの夜のどこかでサイレンが鳴り響く以外、部屋は静まり返っていた。私は闇を見つめ溺れる少年の残像を網膜に焼き付けたまま動けなかった。

彼は実在するように感じられた。神よ、彼はプールよりも、ストーン氏の脅迫よりも、私が必死に守ろうとしているこの身体よりもリアルだった。

再び横になり掛け布団を顎まで引き上げる。だがもう眠れないことはわかっていた。水が私を呼んでいる。そして初めて私はその呼び声に応えることを恐れていた。

第二章 フィッシャー家の没落

雨の匂いと焦げたトーストの香りで目が覚めた。

数秒間じっとして悪夢の水圧が肺を押し潰すのを待ったが、胸にあるのは重たい掛け布団だけだった。溺れる少年の夢は引いていき、代わりに第二の皮膚のような憂鬱ゆううつが張り付いている。

ベッドから足を下ろす。公営団地の床板が私の重みで軋んだ。生まれてからずっと聞いてきた音だ。貧困の音、イーストエンドの泥の中に沈み込み自らを支えるのに疲れた建物の音。

鏡を見ないようゆっくりと着替える。ストーン氏が消し去りたがっている顔を見る準備はできていなかった。ナナが編んだ肩まで隠れる厚手のウールセーターを着て階下へ降りた。

ナナは暖炉のそばに座っていたが、火の気はなく電気ヒーターの一本の棒だけが怒ったようなオレンジ色に光っている。七十歳になる彼女を見ることは未来の自分の歪んだ鏡像を見るようだった。透き通るほど白いケルト人の肌、高い頬骨、そしてあまりに多くの水を湛えたような青い瞳。

だが今の私の身体が変化する化学反応の戦場であるのに対し、彼女の身体は時間と関節炎によって荒廃した風景だった。かつて複雑なレースを編んだ手は今や枯れ葉のように膝の上で丸まっている。

「起きたかい、私の人魚」

彼女の声は乾いた衣擦れのようだった。テーブルの皿を示す。

「卵はどうにか焼けたけどトーストは……トースターが今日はへそを曲げちまってね」

「完璧だよナナ」

席に着き焦げたパンの端をかじる。灰の味がしたが笑顔で飲み込んだ。彼女が用意してくれたものなら石だって食べる。

部屋を見渡す。狭く雑然とした空間には逼迫した二人の生活の残骸が散らばっていた。剥がれかけた花柄の壁紙、花瓶の後ろに隠された未払いの請求書の束、鼻の欠けた羊飼いの磁器人形。夢で訪れた世界とはかけ離れ、ナナが記憶している世界とはさらに遠い場所だ。

「話して」

私はトーストを置いて静かに言った。

「あの家の話をして」

灰色の空が重苦しい日に行う私たちの儀式だった。細部も悲劇もすべて暗記しているが聞く必要があった。私たちがこの湿っぽいコンクリートの箱以外の場所から来たのだと確認するために。

ナナの視線が私を通り越し、過去への窓であるかのように壁のシミに焦点を合わせる。

「私たちは、そう、フィッシャー家だった」

彼女は語り始めた。声に驚くほどの力が宿る。

「私たちは海岸そのものだった。ただ海のそばに住んでいたんじゃない、景色を所有していたんだ。陽光を吸い込む白い石造りの屋敷。使わない部屋がいくつもあったんだよ、エヴァ。埃が光の中で踊る舞踏室、風呂桶ほどもある銅鍋が並ぶ厨房」

使用人たち、馬たち、八つのコース料理が出る晩餐。ナナが語る生活は時代劇の熱に浮かされた夢のようだった。

「それから?」

この部分は恐ろしかったが、先を促した。

「没落が始まった。お前の祖父さんは……太陽は自分の背中を温めるためだけに昇ると思っていた人だった。運命が潮のようなものだと理解していなかったんだ。潮は引くものだということを」

ギャンブル、酒、女。屋敷の煉瓦を一つずつ剥ぎ取っていった不浄の三位一体。使用人は解雇され土地は売られ、白い石の屋敷は星の数ほどの借金を返すために競売にかけられた。

「あの人は酒と同じくらい恥辱で死んだようなものさ」

ナナの表情が硬くなる。

「そして私のトーマス……お前の父親は優しい心と空っぽのポケット以外、何も相続しなかった」

彼女は鋭い視線を私に向けた。

「二人とも若くして逝ってしまった。あの火事がこの家族から最後の希望を奪ったんだ。お前だけを残して」

罪悪感が胸をねじり上げる。私は希望だった。神童だった。イーストエンドから泳ぎ出し私たちを陽光の下へ連れ戻すはずの存在だった。なのに私は失敗しようとしている。

「お前に渡したいものがある」

ナナが不意にガウンのポケットから小さなベルベットの袋を取り出した。

「ナナ、もう持ってるよ……」

「いいや、見なさい」

袋を開けると中には研磨布が入っていた。彼女は私の首元を指差す。

「貸しておくれ」

手を伸ばしてペンダントを外す。肌から離れた瞬間、部屋の軸が傾いたような奇妙なめまいを感じた。彼女に手渡す。

それは原石だった。凍った海の泡のように白濁し、洗練された宝石というよりは荒々しい塊。嵐雲のように暗いいぶし銀の台座に嵌め込まれている。現代的な宝飾品の美しさはないが、古代的で野蛮で魅惑的だった。

ナナはゆっくりとそれを磨いた。曲がった指が崇拝するような慎重さで動く。

「これだけが債権者の手から逃れたんだ。家具を運び出しに来た日、お母さんがコートの裾に隠したのさ。これはただの石じゃないよエヴァ。羅針盤コンパスだ」

「羅針盤?」

「貴族になる前、フィッシャー家は船乗りだった。この石は海の底、一番深い海溝から引き上げられたと言い伝えられている。水がどこで深くなるか、どこに危険があるかを知っているんだ。これを身につけている限り、お前は決して真北を見失わない」

彼女はペンダントを返した。銀は冷たかったがダイヤモンド自体が熱を持っているようだった。首にかけると、めまいは消え、どっしりとした安定感が戻ってきた。

「約束しておくれ」

ナナが身を乗り出し、突然の激しさで私の目を見据えた。

「決してこれを手放さないと。金のためにも、愛のためにも。私たちがこの公営団地以上の存在だったことを証明する唯一のものなんだ」

「約束するよナナ」

私は石を握りしめて囁いた。

「絶対に外さない」

嘘は喉の奥で苦い味がした。ネックレスを手放すことなど考えていなかったが、彼女の頭上の屋根を失おうとしていることは事実だった。

インペタス。契約。ストーン氏の最後通牒。

地方大会の標準記録を切れなければスポンサー料が止まる。アパートを失い路頭に迷う。ナナの弱々しい手、セーターを着込んでも震えている姿を見る。ホームレス収容所では冬を越せないだろう。

どうにかしなければならない。女性としての柔らかい身体を維持しながら、請求書を払えるだけのスピードを取り戻す方法を見つけなければ。

「クリニックに行かなきゃ」

私は唐突に立ち上がった。

「検診があるんだ」

「大丈夫なのかい?」

ナナの目に不安がよぎる。

「平気だよ」

私は嘘をついた。

「ただの定期検診。ホルモン値のチェック」

完全な嘘ではなかった。医者には会いに行く。だが検診のためではない。

昨日、ストーン氏がプールサイドに私を残して去った後、私は電話をかけた。ロッカールームで囁かれていた噂――サットンに奇跡を起こす外科医がいるという噂だ。金額さえ合えば保険や倫理についてうるさいことを言わない女医の話を。

「行ってらっしゃい」

ナナはまた編み物を手に取った。

「それと、エヴァ?」

「何?」

「世界にお前を壊させちゃいけないよ。お前はダイヤモンドなんだ。忘れないでおくれ。砕けはしない。切り裂くんだ」

私は弱々しく微笑んでコートを掴んだ。吹きすさぶ風の中へ踏み出し髪が顔にかかるのを感じながら、喉元のペンダントに触れる。

私はダイヤモンド。硬く、壊れない。

だがすべてを変える診察に向かって地下鉄の駅へ歩きながら、私はダイヤモンドのようには感じられなかった。ガラスのようだった。そして今にも砕け散りそうな恐怖に震えていた。

第三章 ファウストの取引

「サリュブリアス・クリニック」という名は看板倒れだった。板張りされた新聞販売店と古い油の匂いがするケバブ屋の間に押し込められ、曇りガラスと磨きが必要な真鍮のプレートで辛うじてまともな場所に見せかけている。今日のサットンは灰色で、空は鍋の蓋のように低く垂れ込め、私の胃の中で渦巻く不安と呼応していた。

ドアの前で躊躇し取っ手に手をかけたまま止まる。「世界にお前を壊させちゃいけない」とナナは言った。だが絶望は重たいハンマーであり、鼓動のたびに亀裂が広がっていくのを感じた。

ドアを押す。静かな待合室に明るく場違いなベルの音が響いた。内部の空気は消毒液の鋭い漂白臭と松の香りで満たされていたが、その下には何か澱んだ匂いが隠されていた。

「オースティン・フィッシャーさん?」

受付の女性は雑誌から顔も上げずに尋ねた。若く退屈そうで、攻撃的なリズムでガムを噛んでいる。

「エヴァです」

反射的に訂正してから身を縮める。法的な名前はまだオースティンだ。私の医療記録は流動的な領土の混沌とした地図のようだった。

「ああ、エヴァね」

彼女はガムの泡を弾けさせながら気だるげに言った。

「サンダース先生がお待ちです」

シンシア・サンダース医師の診察室は狭い待合室に比べて広大で、奇妙なほど殺風景だった。壁は白く机はガラス製で、唯一の装飾は筋肉と神経を露わにした人体解剖図だけだ。

サンダース自身は鋭角で構成された習作のようだった。四十代半ばの長身で痩せこけた体躯、鷲鼻、骨の上に皮膚を無理やり引き伸ばしたような顔。その瞳は暗く落ち着きがなく、瓶の中に閉じ込められた昆虫のように部屋中を飛び回っている。

「座って」

彼女は細く甲高い声で黒い椅子を指し示した。

膝の上でハンドバッグを握りしめて座る。

「急な予約にもかかわらずお会いいただきありがとうございます、先生」

「インペタスのハント氏から電話があったわ」

彼女はファイルを手に取り言った。視線が私の胸、そして肩へと走り、患者としてではなく標本として評価しているのがわかった。

「窮地に立たされているそうね。性別適合手術を完了させたいが競技能力も維持しなければならない。そしてお金がない」

「スポンサー契約がかかっているんです」

私はしどろもどろになった。

「ホルモン剤をやめれば『HE』に戻ってしまう。そんなことはできません、死んだ方がましです。でも十分な速さで泳げなければ全てを失います」

サンダースは指を組み合わせて背もたれに寄りかかった。爪は鋭く赤く尖っている。

「性別適合手術は侵襲性が高いわ。回復は過酷よ。でもひとたび発生源からのテストステロンがなくなれば、より精密にホルモン摂取量を調整できる。自分の生物学的機能と戦う必要がなくなるの。トレーニング方法を変えれば、新しい重心に合わせて無駄のない筋肉を作れるわ」

はかなく必死な希望が胸に灯る。

「じゃあ、キャリアを救えるんですか?」

「可能よ」

彼女は言った。

「芸術家が執刀すればね。そして私は芸術家なの、エヴァ」

「でも費用が……」

私は囁いた。

「調べました。数千ポンドもかかる。そんなお金はありません」

サンダースは微笑んだ。温かみのある表情ではなく、ただ歯を剥き出しにしただけだ。

「ハント氏は、あなたが現物での支払いに応じるかもしれないと言っていたわ」

私は身を硬くした。

「私は……違法なことはしません。性的サービスとか、そういうのは」

サンダースは乾いた音を立てて笑った。

「ああ、可愛い子ね。違うわよ。あなたの肉体には興味がないの、作り変えること以外はね」

彼女は立ち上がり机を回り込んだ。その動きは肉食動物プレディターのように滑らかだ。私の椅子の横で止まる。花の香りだがどこか腐臭を帯びた、水に長く浸けすぎた百合のような香水が鼻をついた。

「私は収集家コレクターなのよ、エヴァ」

彼女は静かに言った。

「希少なものを愛でる。歴史のあるもの。魂の宿ったものを」

彼女の手が伸びてきた。私は身をすくめたが、彼女は肌には触れなかった。冷たく長い指が鎖骨のすぐ上で止まり、銀のチェーンをなぞる。

「それ」

彼女は囁いた。

「それが欲しい」

とっさにペンダントをつかむ。

「私のネックレスを?」

「原石のダイヤモンド。いぶし銀。十九世紀後半のものね、間違いないわ。没落する前の相当な資産家が作らせたものでしょう」

彼女の目は飢え、恐ろしいほどの執着で石を見つめていた。

「ユニークだわ。古い社交界の新聞で写真を見たことがある。『フィッシャーの星』ね」

「無理です……そんな」

血の気が引いていくのを感じながら息を呑む。

「母の形見なんです。これしか残っていないんです。祖母はこれを羅針盤だと言いました」

「羅針盤は北を指すものよ」

サンダースの声が囁き声に落ちた。

「でもあなたは溺れているのよ、エヴァ。海の底にいて羅針盤が何の役に立つというの?」

彼女は顔を寄せ、冷たい息が耳にかかった。

「考えてごらんなさい。ここから出て行けば石は守れる。でも来週にはインペタスに見捨てられる。アパートを失い、お祖母様は公営の収容所で凍えることになる。そしてあなた……あなたはホルモン剤をやめるのよ。身体が再び硬くなるのを見る。体毛が戻り、顎が角張り、柔らかさが消えていく。あなたは永遠にオースティンのまま」

熱く刺すような涙が目に浮かんだ。その残酷さは正確で外科的だった。彼女はどこを切れば一番痛いかを知っている。

「あるいは」

彼女は続けた。

「その石を私に渡す。ただの炭素の塊よ、エヴァ。そうでしょう? その代わりに私はあなたに『あなた』を与える。あなたが夢見てきた身体を与える。キャリアを救い、お祖母様の家を守ってあげる」

手の中の粗削りなダイヤモンドを見下ろす。温かく、微かで一定のリズムで脈打っているように感じられた。「約束しておくれ」とナナは言った……。

だがナナは老いている。寒さに震えている。首元の迷信よりも屋根を必要としている。

夢の中の溺れる少年が脳裏をよぎった――無言の懇願、彼を飲み込む水。誰も助けに来ない闇の中で漂う彼と自分が重なる。自分で自分を救わなければならない。

「本当に……それで釣り合うんですか?」

声が震えた。

「ネックレス一つで手術を?」

「価値観は主観的なものよ」

サンダースは一歩下がり、掌を上に向けて差し出した。

「私にとってその石はプライスレス。あなたにとっては女性になることがプライスレス。完璧な交換だと思わない?」

チェーンの留め具を外す。指の感覚がなく不器用になっていた。ロックが外れる音が静かな部屋に銃声のように響いた。

最後の一秒だけそれを握りしめる。許してナナ。許して母さん。

私はサンダースの掌にペンダントを落とした。

肌から離れた瞬間、部屋が傾いた気がした。窓は閉め切られているのに冷たい風が吹き抜けた。身体は軽くなったが恐ろしくバランスが悪く、重力の法則が突然変わってしまったかのようだった。

サンダースの指が罠のようにダイヤモンドを閉じ込める。その目が勝利に輝き、私の胃をねじ切れさせた。

「素晴らしいわ」

彼女は喉を鳴らし、机に戻ってネックレスを引き出しに放り込み、鋭い音を立てて鍵をかけた。

「金曜日に手術しましょう」

彼女はクリップボードを私の方へ押しやった。

「ここにサインして。同意書よ」

ペンを取る。手が激しく震え文字がまともに書けない。私はただ手術に同意しているのではない。歴史を売り渡しているのだ。読み方もわからない地図を買うために羅針盤を売ったのだ。

「新しい人生へようこそ、エヴァ」

血が出るほど鋭い笑みでサンダースは言った。

灰色の午後の中へクリニックを出ると、首元にチェーンの幻影を感じた。風が露わになった無防備な喉を打つ。私は女になる。人魚になる。

だが駅へ向かって歩きながら、頭の中の静寂は耳をつんざくようだった。未来は救った。だが魂を売り渡してしまったという沈むような感覚が消えることはなかった。

第四章 虚ろな抜け殻

痛みは生き物のように脈打っていた。

切り傷や打撲のような鋭く局所的な痛みではない。骨の髄から発せられるような深く全身的な疼きだ。私はサリュブリアス・クリニックの無機質な白い天井を見つめ、意識が崩壊しないよう吸音タイルの小さな穴を数えていた。

一、二、三……。

私は変わった。それを感じることができた――あるいは、以前そこにあったものの不在を感じることができた。股間の重みは消え、包帯と腫れの鈍い拍動に変わっている。再構築。再調整。

術後三日目、サンダース医師が食事を終えたハゲタカのような顔で病室に入ってきた。首にはシルクのスカーフを高くきつく巻いていたが、布の下で銀色がきらめくのが見えた。

「順調ね」

彼女は私を見もせずにカルテを確認して言った。

「明日ドレーン(尿カテーテル)を抜くわ。その直後から膣拡張ダイレーションを開始する」

「あそこの……」

私は唾を飲み込んだ。喉は紙やすりのように乾いていた。

「見た目は……まともですか?」

サンダースはようやく私を見て、暗い目を輝かせた。

「傑作よ、エヴァ。言ったでしょう、私は芸術家だって」

彼女は手を伸ばし私の手を軽く叩いた。その接触は氷のように冷たかった。

「あなたにとって高い代償だったんだから。それに見合う価値は保証するわ」

***

回復期は苦痛と陶酔が入り混じった曖昧な時間だった。ナナは頼りになった。どうやって費用を捻出したかは聞かず――インペタスが医療上の必要性としてカバーしてくれたと嘘をついた――ペンダントが突然消えたことについても問いたださなかった。露わになった私の首に気づいていても沈黙を守った。答えが重すぎる問いがあることを理解しているのかもしれなかった。

彼女は狭いアパートのベッドサイドに座り、冷たいタオルで私の額を拭き、トイレに行くのを手伝い、幻肢痛が襲う時には手を握ってくれた。

「お前は勇敢だよ」

夜中に私が痛みに叫ぶと彼女は囁いた。

「石の屋敷に住んでいた昔のフィッシャー家の誰よりも勇敢だ」

六週間後、私は寝室の姿見の前に立った。

映っているのは紛れもない女性だった。テストステロンとの戦争を終えたエストロゲンが、私の顔立ちをさらに和らげていた。肌は輝き、腰は広がり、顎のラインは繊細だ。下腹部の傷跡は薄い線へと消えつつある。望んでいたすべてがそこにあった。私は美しかった。

それと同時に、私は空っぽだった。

喉元に手をやる。肌は滑らかで傷一つない。だがダイヤモンドの重みを、気管を圧迫する幻の感覚をまだ感じることができた。それがないと係留されていない船のような気分になる。急に振り向くと部屋の景色が遅れてついてくるような、内なるジャイロスコープが壊れたような感覚に襲われた。

「商品のテストをする時間だわ」

と、私は鏡の中の自分に向かってささやいた。

***

プールへの復帰は勝利に満ちたものになるはずだった。

アクアティックセンターのスタート台に立つと、塩素の匂いが「お帰り」と抱擁してくるようだった。インペタスが以前のコーチの後任として雇った厳格な女性、ハリソンコーチがストップウォッチを持って懐疑的な顔で立っている。ストーン氏もいた。鬼瓦ガーゴイルのように観覧席から見下ろしている。

「何ができるか見せてもらおうか、エヴァ」

ハリソンが吠えた。

「五十メートル自由形。ゴー」

飛び込む。

水が押し寄せてくる。一瞬、かつての魔法を感じた。軽くなり、流体力学的にも優れている。蹴る。ロケットのように進むはずだった。

だが何も起きなかった。

いや、進んではいる。泳いでいる。フォームは完璧だ――キャッチ、プル、ローテーション、教科書通りに欠点はない。だが力が消えていた。失った筋肉量のせいだけではない。何かが欠落していた。

一掻きごとに糖蜜の中を泳いでいるように感じる。この美しく、高価で、苦労して手に入れた身体が、私の意志から切り離されている。二十六秒で壁にタッチするつもりで手を伸ばした。

タッチしたのは三十二秒だった。

水面に顔を出しゴーグルをむしり取りながら息を切らす。ハリソンは首を横に振っていた。上のギャラリーでストーン氏が無言で背を向け立ち去るのが見えた。

「ブランクのせいです」

私は喘ぎながらハリソンを見上げた。

「スタミナを戻せば……」

「スタミナじゃないわ、エヴァ」

ハリソンの声は意外なほど優しかった。

「あなたは水と戦っていない。ただ浮いているだけ。闘争心を失っている」

プールから這い上がる。彼女の言う通りだった。受動的で、漂っているだけ。ペンダントという羅針盤を失い、方角がわからなくなっていた。私は人魚だ。だが人魚は海に属し流れに身を任せるものだ。レースには勝てない。

***

その夜、ナナが紅茶を入れる間、私は台所に座っていた。アパートの静寂が重い。一時間前にインペタスからの手紙が届いた。支給額は半減。執行猶予付きだ。地方大会がラストチャンス、それがダメなら終わりだ。

「石のせいだよ」

私は口走った。

ナナがコンロからゆっくりと振り返る。やかんが低く鳴っていた。

「何だって?」

「あげちゃったんだ」

私は告白した。恥辱が言葉と一緒に溢れ出した。

「医者に。手術代のために。羅針盤を売ったんだよナナ。だから私は迷子なんだ」

ナナはコンロを止めた。沈黙が痛いほど長く続く。怒られるのを、失望されるのを待った。約束させたのだから。

代わりに彼女は歩み寄り、私の頭を腹部に引き寄せ濡れた髪を撫でた。

「ああ、エヴァ」

彼女は溜息をついた。

「魔法があの石にあったとでも思っているのかい?」

「あれは私たちの幸運だった」

私は彼女のエプロンに顔を埋めて泣いた。

「私たちを支えていた唯一のものだったのに」

「運なんて愚か者の頼るものさ」

彼女はきっぱりと言った。

「それにあの石は……多くの悲しみを背負っていた。お前が思っている以上にお前を重くしていたのかもしれない」

彼女は身体を離し、私の顎を持ち上げて無理やり目を合わせた。その青い瞳は猛々しかった。

「お前こそがダイヤモンドなんだ。忘れたのかい? 圧力の中で鍛えられたのはお前だ。ネックレスじゃない。空っぽに感じるのは歴史の一部を手放したからだろうさ。だがその空いた場所は新しいもので埋めればいい。お前自身の人生でね」

「もう速く泳げない」

私は囁いた。

「偽物になった気分だ」

「ならオースティンのように泳ごうとするのはやめなさい」

彼女は言った。

「オースティンは水と戦っていた。自分の身体から逃げ出そうとしていたからね。お前は? お前は水と和解しなきゃいけない。水に運んでもらうんだよ」

彼女は私の額にキスをした。

「さあ、お茶をお飲み。地方大会は三週間後だ。フィッシャー家は戦わずして倒れたりしないよ」

紅茶を飲んだ。温かく甘かった。だがその後ベッドに横になっても虚ろな感覚は戻ってきた。

目を閉じて溺れる少年の夢を呼び起こそうとした。彼に会いたかった。私と同じくらい迷子になっている誰かがいることを知りたかった。

だが夢は来なかった。心の中の水は黒く空っぽだった。幽霊たちでさえ私を見捨ててしまったようだった。

喉に触れる。肌は冷たい。

私はダイヤモンド。心の中で繰り返す。私はダイヤモンド。

だが心の奥底では真実を知っていた。台座のないダイヤモンドはただの裸石ルースであり、容易に紛失し、容易に流されてしまうのだと。そして水流は日ごとに強くなっていた。

第五章 嵐の夜

ロンドンの空は、まるで殴られたばかりの痣のような色をしていた――紫と黒、そして端々には怒ったような黄色が滲んでいる。気圧が急激に下がったせいで、トレーニングセンターから歩いて帰る道すがら耳がツンとした。風は飢えた獣のように私のコートを引き裂こうとしていた。

手術から八ヶ月が経っていた。ようやくしっくりくる身体で目覚めるようになって八ヶ月、そしてプールでその身体を機能させられずに八ヶ月。タイムは伸び悩んでいた。ハリソンコーチは苛立ち、ストーン氏からの電話は完全に途絶えた。地方大会は処刑日のように迫っており、私はポケットに鉛の重りを詰めて絞首台へと歩いている気分だった。

最初の雨粒が落ちてくると同時に団地にたどり着いた。冷たく太った雫が舗装路を叩く。街灯が明滅して消え、通り過ぎる車のヘッドライトだけが闇を切り裂く陰鬱な空間へと団地は沈んだ。

「ナナ?」

風に抗って玄関ドアを押し開けながら呼んだ。廊下は暗い。

「ここだよ」

居間から声がした。細く、張り詰めた声だった。

急いで中に入る。ナナは安楽椅子に座り毛布を三枚も被っていたが、激しく震えていた。電気ヒーターは消えている。

「停電だよ」

彼女は歯をガチガチと言わせた。

「十分前に一帯が真っ暗になっちまった」

蝋燭ろうそくを持ってくる」

声にパニックが滲まないよう努めた。部屋は凍えるほど寒い。嵐の湿った冷気が一枚ガラスの窓から染み込み、家の骨組みまで冷やしていた。

台所の引き出しを探り、非常用の蝋燭とライターを見つける。火をつけると小さな灯りが剥がれかけた壁紙に長く踊る影を落とした。それを居間に運びマントルピースの上に置く。

「ほら」

ソファから予備の羽毛布団を掴み彼女の足元に巻き付ける。

「これでどう?」

ナナは答えなかった。胸を押さえ、指関節が白くなるほどウールを握りしめている。蝋燭の光の中で顔色は灰色に見え、寒さにもかかわらず額には脂汗が滲んでいた。

「ナナ?」

彼女のそばに跪き手を握る。氷のように冷たい。

「ナナ、どうしたの?」

「胸が……」

彼女は喘いだ。

「まるで……象が……乗っかってるみたいだ」

心臓が止まるかと思った。

「救急車を呼ぶ」

携帯電話を掴む。圏外だ。嵐で近くの基地局がやられたのか、それとも団地の分厚いコンクリート壁のせいか。窓辺に走り電話を掲げる。だめだ。

「固定電話」

呟いて廊下へ走る。受話器を取る。完全な無音。嵐は電話線も奪っていた。

「エヴァ……」

ナナが喘いだ。恐ろしく湿った音だった。

彼女の元へ駆け戻る。身体が片側に崩れ落ち、目の焦点が合っていない。

「助けを呼んでくる」

胆汁のようにパニックが喉元までせり上がってくる。

「チョードリ先生のところへ行く。二つ向こうの通りだ。走れば五分で戻れる」

「行かないで……」

彼女が囁いた。その手は驚くほどの力で私の手首を掴んでいた。

「私を……暗闇に置いていかないでおくれ」

「行かなきゃいけないんだよ、ナナ! 心臓発作なんだ!」

涙が溢れ出ていた。

「助けなきゃいけないんだ」

「羅針盤……」

彼女は呟き、虚ろな目を私の何もない首に向けた。

「どこだい……お前の羅針盤は?」

「ここにいるよ、ナナ。私はここにいる」

「迷子だ……」

彼女は溜息をついた。握力が緩む。手が私の手首から滑り落ち毛布の上に落ちた。

「だめ。だめだよ、だめだ」

優しく彼女を揺する。

「しっかりして。ねえ、しっかりして!」

立ち上がりコートをつかむ。

「すぐに戻るから。待ってて、ナナ。お願いだから待ってて!」

玄関ドアを開け放ち、嵐の渦中へと飛び出した。

風が物理的な打撃のように襲いかかり、もう少しで吹き飛ばされるところだった。雨は今や豪雨となり、世界を灰色と黒の縞模様へと変える水のカーテンとなっていた。舗装路を全力疾走する。スニーカーが濡れたコンクリートで滑る。

2ブロック。たった2ブロックだ。

角を曲がり損ねてスリップし、煉瓦塀で手を擦りむいたが痛みはほとんど感じなかった。風の轟音に負けないよう叫びながらチョードリ医師のドアを叩く。

「先生! お願いです! 助けて!」

何時間にも感じられたが、ポーチの電気がつき――運のいいことに彼は発電機を持っていた――ドアが開くまで数秒しかかからなかった。チョードリ医師はガウン姿で立ち、驚いた顔をしていた。

「エヴァ? 一体どうしたんだ」

「ナナが!」

私は叫んだ。

「心臓発作なんです! 電話が繋がらないんです! お願い!」

彼は何も聞かなかった。玄関のテーブルから鞄を掴み、奥さんに何か叫ぶと私と一緒に雨の中へ走り出した。

急速に川になりつつある水たまりを跳ね飛ばしながら二人で走った。肺が焼け、足が回るが、遅く感じた。あまりにも遅すぎる。

アパートに飛び込む。蝋燭は燃え尽きかけ、不規則に明滅する影を落としていた。

「ナナ!」

椅子へと駆け寄る。

彼女は私が残していった時のままだった。だが静寂は絶対的だった。震えは止まっている。頭はクッションにもたれ、口が少し開いていた。

チョードリ医師が私を押し退けた。彼女の手首に指を当て、胸に耳を寄せる。鞄から聴診器を取り出し、迅速かつ抑制された動作で診察する。

私は窓辺に立ち尽くし、ずぶ濡れで激しく震えていた。ガラスを叩く雨音が耳をつんざくようだ。お願い。お願い。お願いだから。

チョードリ医師はゆっくりと背を伸ばした。聴診器を耳から外し、私の方を向く。その表情は重く、一目でそれとわかる職業的な悲しみを湛えていた。

「残念だ、エヴァ」

彼は静かに言った。

「亡くなっている」

世界は爆音と共には終わらなかった。蝋燭が燃え尽きる音と共に終わった。

私は膝から崩れ落ちた。冷たい床が肌に食い込む。椅子まで這っていき、まだ彼女の温もりが残る毛布に顔を埋めた。

「約束したじゃない」

ウールに向かって囁く。

「私たちはダイヤモンドだって言ったじゃない。壊れないって言ったじゃない」

だが彼女は壊れた。疲れて酷使された心臓がついに動かなくなったのだ。そして私は一人になった。

***

その後の数日間は、事務手続きと悲しみのかすみの中だった。チョードリ医師が死亡診断書を書き、葬儀は私と医師、そして悪天候の中参列してくれた数人の隣人だけで執り行われた。ずっと雨が降っていた。

空っぽのアパートに戻る。静寂が反響し、以前より広く感じられた。至る所に記憶があった――テーブルの上の編み棒、シンクのそばのマグカップ、浴室に残るラベンダー石鹸の香り。

片付けなければならなかった。役所はすぐにアパートの明け渡しを求めてくるだろう。ナナの年金がなくなり、スポンサー料も減額された今、家賃を払い続けることはできない。ホームレスになるのだ。

彼女の寝室から始めた。防虫剤と杉の匂いがする古い洋服ダンスを開ける。コートやドレスを取り出し、寄付用の黒い袋に詰めていく。

洋服ダンスの底、リネンの束の下に古い靴箱が隠されていた。

ベッドに座り箱を開ける。中には書類がいっぱいだった――出生証明書、両親が眠る墓地の権利書、そして古い新聞の切り抜き。

二十年前の『サリー・アドバタイザー』紙の黄ばんだ切れ端を手に取る。見出しにはこうあった。

『マレー・マンションの悲劇:メディア王の妻、プール事故で溺死』

眉をひそめる。なぜナナはこんなものを持っていたのだろう?

記事に添えられた粒子の粗い写真をよく見る。プールの端に立ち、幼児を腕に抱いて悲嘆に暮れる男。黒髪で強い眼差しのハンサムな男だ。

切り抜きを裏返す。裏にはナナの震える文字で一行だけ書かれていた。

『水の呪い――私たちと同じ』

再び写真を見る。男はメディア王、ジェローム・マレー。そして幼児は……。

息が止まった。その幼児は高い額と、大きく見開かれた目をしていた。

手が震える中、必死に携帯電話を探す。「ジェローム・マレー 息子」と打ち込む。

検索結果が表示される。一人の若い男の画像が画面を埋め尽くした。リアム・マレー。マレー・メディア帝国の後継者。二十一歳。

携帯電話をベッドに落とす。

彼だった。

私の夢に出てくる少年――溺れる少年、森のような緑の瞳を持つ少年。

再び切り抜きを手に取る。ナナはマレー家のことを知っていた。これを保管していた。イーストエンドの、没落したフィッシャー家と、サリー州の億万長者一族の間にどんな繋がりがあるというのだろうか?

『水の呪い』

その時、隙間風とは無関係な悪寒が背筋に走った。確たる理由もないのに、私は確信した。夢はただの夢ではなく、警告だったのだ。あるいは召喚状か。

切り抜きを握りしめて立ち上がる。アパートの空気が息苦しい。静寂が私に向かって叫んでいる。

ペンダントはない。ナナもいない。キャリアもない。私をこの生に繋ぎ止めるものはもう何もない。

だが名前があった。リアム・マレー。

そして私は骨の髄で確信していた。彼に危険が迫っていることを。水が彼の母を待っていたように、私を待っていたように、彼を待っているのだ。

切り抜きをポケットに押し込む。コートを掴む。

サリーへ行く。溺れる少年を見つけに行く。もしかしたら、彼を救うことだけが自分自身を救う唯一の方法なのかもしれないと思った。

第六章 夢遊病者

切符を買った記憶はない。

ロンドンから南へ向かう旅は夢遊病者の行進だった。列車に揺られ、都会のすすけた景色が郊外の手入れされた緑へと変わっていくのを眺めていた。窓に映る自分の顔はガラスに取り憑いた亡霊のようだ。化粧っ気のない青白い顔、肩に力なく垂れ下がるブロンドの髪。ナナが何年も前に編んでくれたターコイズ色のセーターと、とうに全盛期を過ぎたスエードのスカート。救世主というよりは生霊いきりょうに見えた。

サリーは別世界だった。ここの空気はディーゼルと湿ったコンクリートの匂いがしない。金の匂いがした――刈り込まれた芝生、高級なガソリン、そして静寂の匂いだ。駅を降りて歩き始めた。首から失われたダイヤモンドの代わりに、内なる羅針盤に導かれるように。

三月十三日。その日付が低周波の信号のように頭の中で唸っていた。なぜこの日付を知っているのだろう? 切り抜きには書いていなかった。カレンダーにもない。だが錬鉄製の門や剃刀のように鋭く刈り込まれた生垣を通り過ぎるたび、「13-03」という数字が脳内で脈打った。

何マイルも歩いた。安物の合皮のブーツがかかとに靴擦れを作ったが私は止まらなかった。止まれなかった。解離状態は完全で、私は自分の身体という乗り物の乗客になり、足が交互に前に出るのをただ眺めていた。

彼らの声が聞こえたのは、夕闇が夜へと滲み始める頃だった。

笑い声。イーストエンドのパブで聞くような荒々しく騒々しいものではなく、もっと軽やかで透明な、シャンパンの泡が弾けるような音。

立ち止まる。高い石壁に縁取られた田舎道に私はいた。道の先にある通用門から若者たちの集団が溢れ出し、黄金色の祝祭の雲のように移動している。

大きなかしの木の陰に身を隠す。心臓が肋骨を狂ったようなリズムで叩いていた。

彼らは美しかった。少女たちは残光を受けて輝くシルクやシフォンをまとい、少年たちは私の生涯年収よりも高いブレザーとローファーを身につけている。重力を気にしたことなどない人特有の、無造作な優雅さで動いていた。

そしてその中心を、ゆったりとした歩調で歩く「彼」がいた。

肺から空気が一気に抜けた。

リアム・マレー。

夢の中と全く同じ姿が、鮮烈で痛々しいほどに生きていた。想像よりも背が高く、ネイビーのジャケットの下の肩幅は広い。髪は太く茶色で、あの気高い額にかかっている。だが何より目だった――この距離からでも、友人の冗談に笑いかけて振り返る彼の瞳が、森の緑に閃くのが見えた。

「誕生日おめでとう、リアム!」

ピクシーカットの少女が甲高い声を上げ、彼に腕を絡ませた。

「今日で二十一歳だな、相棒! 王国の鍵を手に入れたわけだ!」

少年が彼の背中を叩いて叫ぶ。

三月十三日。彼の誕生日。やはりそうか。

凍りついたまま集団が通り過ぎるのを見ていた。安っぽい服を着て陰に潜む少女など彼らの目には入らない。彼らにとって私は背景の一部、煉瓦塀と同じくらい透明な存在だった。

彼らは広大な敷地の入り口を示す巨大な鉄の門へと向かった。門柱には『Murray Manorマレー・メイナー(マレー家の荘園)』とある。

門の向こうの屋敷は赤煉瓦とゴシック・リバイバル建築の怪物だった。塔と出窓が温かい黄色の光を放っている。ナナの話に出てくるような場所――あり得ないほどの富と、隠された腐敗の場所。

後をつけるべきではない。引き返して駅へ戻り、空っぽのアパートへ帰る最終列車に乗るべきだ。ここは私の世界ではない。侵入者であり、変質者であり、死んだ祖母と売られた魂を持つ落ちこぼれの元水泳選手なのだから。

だが門をくぐる時、リアムが立ち止まった。彼は肩越しに振り返り、私が立っている闇を真っ直ぐに見つめた。一瞬、大気の乱れを感じ取ったかのように眉をひそめる。そして向き直り、敷地の中へと消えていった。

引力は抗い難かった。潮を月へと引き寄せる力と同じものだ。

集団の最後尾が長い私道を上りきるまで待った。守衛所の警備員は気を取られていて、ポータブルテレビのサッカー中継を見ている。門がゆっくりと閉まり始めていた。

ロックがかかる直前、隙間をすり抜けた。

古びたモミやビャクシンの影を縫うように並木道を進む。敷地は広大で、完璧に手入れされていた。ジャスミンと夜咲きのストックの香りがする。

芝生の端にたどり着いた。屋敷が頭上にそびえ、窓々が輝いている。中でカーテン越しに影が踊るのが見えた。音楽が聞こえる――ジャズの生演奏、滑らかで洗練された音色。

屋敷の側面を回り裏手へ向かう。ここではパーティーの騒音が少し遠のいた。

そして、そこにあった。

プール。

エッジレス・プールになっており、その端は庭園の暗い地平線へと消えていた。水中照明が水を輝くターコイズ色の厚板に変えている。美しく、そして死の気配がした。

リアムがいた。

パーティーから離れ、グラスを片手に水際に立って暗い庭を見つめている。孤独に見えた。富と友人に囲まれ人生の節目を祝われているのに、ひどく孤独に見えた。

私は柳の垂れ下がる枝の後ろに隠れ、浅い呼吸を繰り返した。彼のもとへ行けと心がささやく。警告しろと。

何を警告する? 会ったこともない女があなたの死を夢に見ていると? 二十年前に母親がここで溺れたと? 警察を呼ばれて逮捕されるだけだ。

不意に、プールの反対側で何かが動いたのが目に入った。

プールハウスの影から人影が現れた。招待客ではない。暗い色の服を着て、忍び足で目的を持って動いている。

リアムは気づいていない。水面に映る月を見つめている。

人影が近づく。手が伸びるのが見えた。

足を滑らせたのではない。事故ではない。

手はリアムの背中を強く押した。

リアムの腕が泳いだ。グラスが手から離れパティオで砕け散る。彼は前のめりに倒れ、静寂を打ち砕く無秩序な水音と共に水面を叩いた。

人影は一秒だけそれを見届け、影の中に溶け込むように消え去った。現れた時と同じ速さで。

リアムは浮いてこない。

水飛沫が波紋へと落ち着く。水中照明が泡の雲を照らし出し、その中心で黒い影が底へと沈んでいく。

夢だ。

金縛りにあったように動けない。悪夢の中に引き戻された。彼が死ぬのを見ている。

だめだ。

これは夢ではない。ブーツの下の濡れた草の感触。塩素と恐怖の匂い。これは現実だ。

バッグを落とす。ブーツを蹴り脱ぐ。

隠れ場所から飛び出し芝生を全力疾走する。冷たい夜気が肌を打ち、重たいセーターを脱ぎ捨てて薄いTシャツとスカートだけになる。

プールサイドで止まらずに、空中に身を躍らせた。

水が氷の壁のように私を打つ。

潜る。塩素の痛みにあらがって目を見開く。照明が水中では目がくらむほど明るい。

彼が見えた。

青い光の中に漂い、腕は泳ぎ、シャツが煙のように揺らめいている。もがいていない。夢の中と同じように安らかに見える。目は開いており虚空を見つめている。

私の足が水を強く蹴る。戦い抜いて手に入れ、そして私を裏切ったこの身体が目覚める。水が私を受け入れる。私は人魚。私は魚雷。

彼に追いつく。シャツの胸元を掴む。重い。死の重みだ。

彼の胸に腕を回し水面へ向かって水を蹴る。肺が焼け、空気を求めて悲鳴を上げるが無視する。蹴って、蹴って、蹴り上げる。

喉が裂けるような喘ぎと共に水面を割った。

「捕まえた」

彼には聞こえないだろうが絞り出した。

「捕まえたよ」

浅瀬まで引きずっていき、ぐったりした体を石の縁に引き上げる。這い上がり彼の横に倒れ込む。

息をしていない。

「だめ、だめ、だめ」

頭を後ろに傾け鼻をつまむ。自分の口で彼の口を塞ぐ。唇は冷たかった。

彼の中に息を吹き込む。胸が膨らむのを見る。離れる。待つ。

反応がない。

「頼むよ、リアム!」

胸骨に手を当て強く押す。一、二、三、四、五。

再び息を吹き込む。私の空気を。私の生命力を彼に与える。

突然、彼の体が痙攣けいれんした。横向きになり石の上に水を吐き出す。咳き込む。その荒くむせ返る音は、これまで聞いたどんな音楽よりも美しかった。

彼はぐったりと仰向けになり、目から水を瞬き出した。見上げる。

彼の視線が私を見つけた。

一瞬、世界が止まった。パーティーも屋敷も闇の中の暗殺者もない。ただ彼の緑の瞳が私の青い瞳を捉えているだけ。

彼に見えている。本当に私が見えている。認識の閃き――深く、根源的で、恐ろしいほどの。

「きみは……」

彼は震える手を私の顔へ伸ばし、掠れた声で言った。

ザッ。

砂利を踏む足音。近づく声。

「リアム? どこに行ったんだ?」

冷たく鋭いパニックが血管を駆け巡る。マレー家の跡取り息子の上に跨り、ずぶ濡れで半裸に近い不法侵入者が見つかれば……。

ここにはいられない。説明できない。

私は後ずさり、立ち上がる。

「待って……」

リアムが起き上がろうとして囁いた。

「行かないで……」

私は背を向けて走った。ブーツとセーターを草の上からひったくり、着る間も惜しんで走った。最初の懐中電灯の光がプールサイドをぐのと同時に柳の木陰へ飛び込む。

闇にうずくまり激しく震えながら様子を窺った。

プールハウス近くの影から若い女性が出てきた――暗殺者ではなく別の人だ。黒髪でフリルのついたドレスを着ている。地面に横たわるリアムを見つけた。

彼女は助けを呼ばなかった。彼に歩み寄り、跪いて肩に手を置く。

「リアム?」

甘い声を出した。

リアムは混乱し朦朧もうろうとした様子で見上げる。彼女の向こう、私が隠れている木々の方を見るが、もう私を見ることはできない。

「きみが助けてくれたのか」

彼が彼女に囁くのが聞こえた。

少女は躊躇とまどった。そして微笑んだ。ゆっくりとした、肉食動物プレディターの笑みだった。

「ええ」

彼女は言った。

「私よ」

私は悲鳴を押し殺すために口を手で覆った。

溺れる少年は生きた。だがサメたちはすでに旋回を始めていた。

第七章 命の息吹

プールの照明が不気味なアクアマリンの光を投げかけ、リアムの肌の水滴をダイヤモンドに変えていた。柳の後ろから見つめる私の胸は激しく上下し、髪から滴る水が腕に抱えたセーターの襟に染み込んでいく。骨まで届く冷えが始まり歯が鳴りそうになるのを唇を噛んで堪えた。

動けなかった。プールサイドで演じられる光景に釘付けになっていた。

リアムは上体を起こし最後の水を咳き出している。激しく震え、白いシャツが肌に張り付き無防備に見えた。黒髪の女性――後にロビンという名だと知ることになる――が彼のそばにひざまずいている。濡れていない。フリルのドレスには水滴一つついていない。目がある者なら誰にでもわかることだ。

だがリアムは見ていなかった。ショック状態にあり、溺死と呼吸の狭間を埋めようと脳が誤作動を起こしているのだろう。

「もう……だめかと思った」

リアムは目を拭いながら掠れた声で言った。胃がねじれるような崇拝の眼差しでロビンを見ている。

「誰かが……引き上げてくれるのを感じた。誰かが息を吹き込んでくれた」

ロビンは手を伸ばし、濡れた髪を一房彼の額から払った。親密で所有欲に満ちた仕草だった。

「あなたがプールに落ちるのが見えたの」

彼女は滑らかに嘘をついた。その声はメロディアスで、今の瞬間のギザギザした恐怖とは対照的だった。

「溺れさせるわけにはいかなかった」

でも彼女は濡れていない。私の理性が叫ぶ。彼女の服を見て、リアム! 髪を見て!

だが彼は見なかった。彼女の手を命綱のように掴む。

「ありがとう」

彼は囁いた。

「命の恩人だ」

「誰だってそうするわ」

ロビンは慎ましやかに視線を落として呟いた。

その時、話し声が大きくなった。パーティーの残りの面々が彼らを見つけたのだ。

「リアム! そこにいたのか!」

タキシードを着てシャンパングラスを持った少年たちがパティオに溢れ出てきた。彼らの笑い声はリアムの姿を見て即座に消えた。

「おい! どうしたんだ? プールに落ちたのか?」

「滑ったんだ」

リアムは少し力を取り戻した声で言った。ふらつきながら立ち上がり、ロビンに重く寄りかかる。

「水の中に沈んでしまった。もし彼女がいなかったら……」

彼はロビンを示した。少年たちは目を丸くして彼女を見る。

「今日のヒーローだ! 彼にタオルを! レディに飲み物を!」

彼らは二人に群がり、心配と称賛の巣を作った。ロビンはその中心で輝き、私に向けられるべき称賛を受け入れていた。

屋敷の方へ歩き去る彼らを見送る。リアムの腕がロビンの肩に回されている。一度だけ彼が立ち止まり、暗い庭の方を振り返った。見えない糸に引かれているかのように眉をひそめる。だがロビンが耳元で何かを囁くと彼は背を向けた。

私は闇の中に一人残された。

制御不能な震えの中、湿ったセーターを頭から被る。濡れたウールと絶望の匂いがした。ブーツに足を突っ込むと靴擦れが酷く痛んだ。

――ここから出なければ。

影のように木々の間を戻る。屋敷からの音楽は大きくなり、頭の中の静寂と不快な対比をなしていた。

正門に着く。警備員はまだテレビを見ていた。入った時と同じように夜に紛れて滑り出る。

放心状態で駅まで歩いた。アドレナリンが引いていき、圧倒的な疲労感が押し寄せてくる。

王子を救った。

だが王女が手柄を盗んだ。

そして暗殺者――彼を押した人物――は依然として名も顔もなく闇の中にいる。

***

ロンドンへ戻る列車の中の記憶は曖昧だ。車両の隅に座り床に水を滴らせ、数少ない深夜の乗客から嫌悪の眼差しを向けられたがどうでもよかった。中身をくり抜かれたような気分だった。

夜明けが空を打撲のような紫色に染める頃、イーストエンドのアパートに戻った。空っぽの家の静寂が私を迎える。

濡れた服を脱ぎ一時間シャワーを浴びた。塩素の感触と嘘を肌から洗い流そうとした。だがロビンの計算高い鋭い笑みは消えなかった。

その後の数週間、私は解離状態で存在していた。泳がず、職も探さず、ほとんど食べなかった。日々壁を見つめ、プールでの瞬間を何度も再生していた。

彼には見えていた。

あの一秒間のつながり。私の目を捉えた緑の瞳。彼は知っている。意識の奥底で、彼を助けたのがロビンではないとわかっているはずだ。

だが何ができる? 私は何者でもない。証拠もない。億万長者の敷地に不法侵入した公営団地のトランスジェンダーの女に過ぎない。名乗り出ればストーカーか不法侵入で逮捕されるだろう。「英雄」ロビンと私のどちらを信じるかなど明白だ。

ある晩テレビをつけ、あてもなくチャンネルを変えていた。

ニュースレポートが目に入った。

『……マレー・メディア帝国の後継者、リアム・マレー氏が、海運王チャールズ・ウィルキンソン氏の令嬢ロビン・ウィルキンソンさんとの婚約を発表……』

二人の写真が画面に映し出された。スーツ姿のリアムはハンサムだが、その笑みは目まで届いていない。隣に立つロビンは彼の腕にしがみつき、巨大なダイヤモンドの指輪を光らせている。

テロップにはこうあった。『救出劇から生まれたロマンス:マレー荘園の奇跡』

私はリモコンをテレビに投げつけた。画面にひびが入り、ロビンの顔に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

叫んだ。純粋なフラストレーションから出た、生の、喉の奥からの音だった。

彼らは結婚する。彼は嘘つきと結婚するのだ。殺人未遂犯をかばっているかもしれない女と。

ロビンがただ偶然彼を見つけたわけではないと、私は確信していた。彼女はあまりにも早くかけつけた。あまりにも落ち着いていた。

彼女は彼を押した人物と共犯なのか? それとも富を確保する好機と見ただけなのか?

どちらにせよリアムは危険だ。一度殺そうとした人間は止まらないだろう。そして今、彼は敵を自分のベッドに招き入れようとしている。

狭い居間を歩き回る。ここにはいられない。アパートが息苦しい。この街が息苦しい。

水がきれいな場所へ行きたい。考えをまとめられる場所へ。

バッグを詰める。必需品だけ。台所の缶からナナの最後のお金を取り出す。

北へ行く。湖水地方へ。

また泳ぐ必要がある。プールでも競技でもなく、野生の中で。誰かを救おうとする前に、自分が誰だったかを思い出すために。

***

コニストン・ウォーターは広大で、陰鬱な空を映して粘板岩のような灰色をしていた。山々が鋸の歯のように周囲にそびえている。美しく、荒涼としていた。

ハイカー向けのホステルの狭い部屋を借りた。松と、湿ったブーツの匂いがした。

何日もただ歩いた。荒野を登り、筋肉が焼けるまで身体を追い込み、不安を体内から追い出そうとした。

だが静寂は大きくなるばかりだった。

プールの夜以来、私は誰とも話していなかった。一言も。買い物は頷きとジェスチャーで済ませ、ホステルのチェックインも筆談で行った。

声が閉じ込められている気がした。開けるのが怖いドアの向こうに。話そうとするたびにロビンの顔が浮かぶ。肺に水が満ちる感覚が蘇る。

ある午後、「Old Man of Coniston(美しい高地「コニストンの老人」)」の山頂を目指して登っていた。空気は薄く澄んでいる。風が髪を顔に打ち付ける。

尾根にたどり着き息を整えるために立ち止まった。眼下に湖が銀のリボンのように伸びている。

不意に、静寂を破る音がした。

低く、喉を鳴らすような唸り声。

凍りついた。

ゆっくりと首を回す。

二十フィート離れた岩棚の上に、ピューマが立っていた。

巨大で、黄褐色の毛皮の下で筋肉が波打っている。尻尾がピクリと動く。黄色い目が私に固定されていた。

見つめたまま脳が理解を拒否する。イングランドにピューマなどいない。あり得ない。

だが唸り声はあまりにリアルだった。

それは身を低くし、飛びかかる態勢に入った。

冷たく絶対的な恐怖が全身を駆け巡る。

悲鳴を上げるために口を開けた。叫ばなければ。少し下の道で見かけたハイカーたちに警告しなければ。獣を威嚇しなければ。

息を吸い込む。横隔膜から押し出す。

だが音が出ない。

喉が収縮した。数週間の沈黙とプールのトラウマで緊張していた声帯が硬直したのだ。パニックになりながらさらに強く押す。

叫べ! 叫ぶんだ!

小さく絞り出すような音が唇から漏れた。

そして、痛み。喉の奥で何かが裂けるような鋭い感覚。何かがプツリと切れた気がした。

銅の味がした。血だ。

喉を押さえて喘ぐ。

ピューマが跳んだ。

目をきつく閉じ、きばを待って身をすくめる。

パスッ。

鞭がしなるような音。そして重い着地音。

目を開ける。

数フィート先にピューマが倒れていた。麻酔弾がわき腹に刺さっている。荒く呼吸し白目を剥いている。

「落ち着け、大丈夫だ」

声。聞き覚えのある声。

見上げる。

麻酔銃を持ったパークレンジャーが道を下ってくる。だがその後ろから、完全な恐怖の表情で私の方へ駆け寄ってくる登山装備の男がいた。

それはリアムだった。

違って見えた。無精髭を生やしニット帽を目深に被り、少し荒んでいる。だがその目は間違いようがなかった。

膝から力が抜けた私を彼が支えた。

「捕まえた」

地面に倒れる前に彼が言った。

目眩がするような既視感。腕は温かい。松と汗の匂いがする。

「大丈夫か?」

彼は切迫した様子で私の顔を覗き込んだ。

「怪我はないか?」

私は彼を見つめたまま、魚のように口を開閉させた。彼の名前を言いたい。『私よ。あなたを助けたのは私よ』と言いたい。

だが喉が焼けるように痛い。話そうとしたが、湿ったゴボゴボという音しか出なかった。

咳き込むと、二人の間の岩に赤い飛沫が散った。

血。

リアムの目がパニックで見開かれた。

「怪我をしてる! レンジャー! 出血してる!」

彼は青ざめた顔で私に戻った。

「話そうとしなくていい。ただ息をして。僕がついてる」

世界が回り始めた。灰色の空、黄褐色の猫、リアムの緑の瞳――すべてが渦の中に溶けていく。

彼の胸に崩れ落ちる。闇に飲まれる直前、苦く皮肉な事実に気づいた。

ようやく声を見つけたと思った瞬間に完全に失ってしまったのだ。そして今、愛する少年が私を抱いているのに、彼の命を救うためのたった一つの真実を伝えることができない。


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