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メデューサ・プロトコール

孤島の被検者

第一章 悪夢の始まり

 穏やかな日曜日の朝、まだ夢から醒めやらないルイス・デイヴィーズはベッドに仰向けに寝たまま背伸びをした。

 見るからにハンサムで若さがほとばしる二十五歳のルイスの身長は百七十二センチ、一流のバドミントン選手に相応しい筋肉質な肢体だ。平らな腹筋、引き締まった健康的な脚と、バックハンドから強烈なスマッシュを打ち出せる頑丈な腕を持っている。

 ルイスの脚は世の中の女性が羨むほど美しい形をしている。男性のアスリートとしてはとてもデリケートな脚に見える。しかし、何と言っても最大の特徴は首から上で、男性には珍しいほど美しい顔だ。

 無邪気な明るい青色の瞳、気品のある真っすぐな鼻、ふっくらとしたピンク色の唇は見る人をうっとりさせる。角度によって唇の上部に微かに見える無精ひげは、豊かなブロンドの髪と同じ輝きを放っている。

 ルイスはまだ眠いまま爪先を動かし、自分の左側に横たわっているはずの身体に触ろうとしたが、そこに妻の身体はなかった。

「変だな」
とルイスは呟いた。

「ローレンは日曜日の朝は八時まで寝るはずなのに……」
 きっと気になる仕事があるから会社に行ったのだろう。ローレンはラットとかモルモットとかを使って動物実験をするために研究所に行ったに違いない。

 ローレンは……ドクター・ローレン・ウッドは二年前にルイスと結婚した研究者だ。ルイスより年上で三十代前半だが謎めいた感じがする美しい女性だ。

 彼女は内向的で強さと知性を持っており、オープンで人当たりの良いルイスとは正反対だった。ルイスは何事にもシンプルでいつも機嫌が良く、知的な難しい事には興味が無い。だからこそ自分とは正反対のローレンに魅力を感じたのだった。

 その時、赤ん坊の泣き声がルイスを現実に引き戻した。

 生後六か月の愛娘のAJ、アメリア・ジェーンが泣いている。ルイスは起きてすぐにAJの様子を見に行かなかったことを反省した。これでは父親の責任を果たしたとは言えない。

 ルイスは隣の部屋のベビーベッドに行って可愛い女の赤ちゃんを抱き上げた。彼女はピンク色をしていて父親と生き写しの顔をしている。

「どしたんでちゅか?」
とルイスはAJが理解できるはずの言葉で問いかけた。

「どうしていたずらっ子ちゃんは泣いてるんでちゅか?」
 その質問に対する答えとしてAJは泣き続けた。

 お腹が空いているから泣いているのだろうと判断し、ルイスはAJを抱き上げて左右に揺すりながら冷蔵庫まで歩いて行った。AJをあやしながら哺乳瓶を見つけてベビーミルクの袋を開封した。

 その時突然、三人の男が家に乱入した。

 黒いジーンズにティーシャツを着てフード付きのパーカーで頭を覆い、黒いマスクをした男たちだった。そのうちの一人はスミス・ウェッソンの三十二口径のリボルバーを構え、一人は右手にブッチャーズ・ナイフを、左手にはフィールドホッケーの棒を持ち、残りの一人はフィールドホッケーの棒だけを持っていた。三人とも軽く百八十センチ以上の長身で、ルイスとは比較にならないほどがっしりとした身体つきだった。

「赤ん坊を下ろせ」
と一人の男が低い唸り声で命令した。

 ルイスは信じられないという様子で立ちすくんだが、まず頭に浮かんだのは「これはジョークの一種に違いない」という考えだった。友達の誰かが自分をひっかけるためにドッキリを仕組んだのだ。それにしても三人で押しかけるとは若干やり過ぎだ。

「ロビー! キミだね、分かってるんだから」
とルイスはブッチャーズナイフを持っている男に笑いながら言った。

「顔を隠しても、丸わかりだよ」

「お前はアホか?! 俺はロビーなんかじゃない」
と男が言ってブッチャーズナイフをルイスの首に押し当てた。
「死にたいのか?」

 刃渡り二十センチのナイフが窓からの日差しを受けてキラリと輝き、ルイスは彼らが本物の強盗だと悟った。

 男のうちの一人がホッケーの棒を床に置き、ルイスの腕からAJを乱暴に取り上げた。その男がAJをソファーに投げ捨てるように置いたので、AJは可愛い小さな顔を真っ赤にして大声で泣き始めた。ルイスはショックで凍り付いた。

「言う通りにしないと赤ん坊が死ぬぞ」
と拳銃を持った男がルイスを脅した。
「そいつの頭を床に叩きつけてグシャグシャにしてやろうか」

 その男の言葉を聞いて頭に浮かんだ光景だけでルイスは失神しそうだった。

 自分がしっかりしなければAJを守れない……。ルイスは深呼吸をして気持ちを立て直した。

「言う通りにしますから、子供には手を出さないでください」

 男はルイスに近づいてルイスの腕をねじあげ、両手を後ろに回させてずっしりと重い手錠をかけた。

 男は熊のような手でルイスの左肩を掴み、ルイスを玄関から乱暴に引っ張り出して前庭に出た。AJは大声で泣き続けており、泣き声が玄関にまで響いていたが、玄関のドアが閉まると聞こえなくなった。

 ブッチャーズナイフを持っていた男がジーンズのポケットに手を突っ込んで鍵を取り出し、玄関ドアをロックした。その鍵をポケットに戻そうとしていた時、鍵にLWと刻印されているのがルイスの目に入った。LWとはローレン・ウッドのイニシャルだ。

「ちょっと待て!」
とルイスは危険を顧みずに叫んだ。
「それは僕の妻の鍵じゃないか! 妻に何をしたんだ?! 妻はどこなんだ?」

 大変なことになった。やつらはルイスに手錠をかけ、お腹をすかせた赤ん坊を部屋に放置したままルイスを拉致しただけでなく、妻のローレンにまで手を掛けた可能性がある。妻はもう生きていないかもしれない……。

「答えろ! ローレンにいったい何をしたんだ? この、くそ野郎どもめ!」

 悪党たちの答えはシンプルだった。

「うるさいガキだな、近所迷惑だから静かにしていろ」
と言って、ルイスのピンク色の唇の上に男の一人がガムテープを貼りつけた。

「これで声は出せないだろう」

 ルイスは黙ったまま悶々とするしかなかった。地獄のような時間だった。

 抵抗するルイスは男たちの頑強な腕によって前庭の芝生の横の道を引きずられた。

 ルイスの豪邸の鋼鉄製の門をブッチャーズナイフの男が押し開けると、門の前にはハイソなメイフェア地区に相応しくないポンコツの牛乳配達車が停まっていた。男が青灰色のヴァンのハッチバックを開けてルイスを押しこんだ。ルイスがむき出しの床に倒れるとドアがバタンと閉まった。

 フィールドホッケーの棒を持っていた男が助手席に座り、ブッチャーズナイフの男は後部座席に座った。拳銃の男は荷室に転がっているルイスの横に来て、銃口を首の付け根に押し当てた。

 ルイスは首が冷や汗でじっとりと濡れるのを感じた。

 運転席の男がイグニッションキーを回した。古いエンジンがブルンブルンと振動し、ポンコツのヴァンは賑やかな音を立てて動き始めた。牛乳配達車はロンドンの街路を進み、拳銃の男は銃口をますます強くルイスの首根っこに押し当てた。

 ブッチャーズナイフの男が手を伸ばしてナイフの先でルイスの背筋を撫でた。ルイスは抵抗を試みるのは得策でないと思い知った。

 牛乳配達車は信号で何度も停まりながらロンドンの市街を走る。男たちの会話を聞いていると、彼らの言葉が普通のイギリス英語ではないことが分かってきた。先ほど彼らが家に乱入した時も、言葉遣いや発音が変なことには気づいていたが、彼らはOLDを「オウルド」と発音せずに「アールド」と「オールド」の中間のように発音するし、DIRTYの代わりに「クラッティー」、STUPIDと言うべきところを「グリーキット」と言う。そんな言葉を使うのはスコットランド人だ。

 スコットランドの凶悪犯が一体何をしに来たのか想像もつかなかった。しかし、どこの出身であろうと誘拐する目的といえば限られている。

 ルイスはニ十歳の時に全英選手権で優勝したバドミントンの選手だ。その前にコモンウェルスゲームズの未成年の部でも金メダルを獲得していた。ルイスはスマッシュ速度で時速百六十六マイルの記録を持っており、世界ランキング上位の選手だ。

 控えめに言っても、いわゆるセレブに属することは否定できない。自分の力で名声と富を勝ち取った人間として、ルイスの写真は全国にばら撒かれている。だから自分を拉致したのがスコットランド人でも何の不思議も無いのだ。

 犯罪の目的は当然お金だ。自分のような男が身代金以外の目的で拉致されるはずがない。

 きっと犯人グループからローレンに身代金を要求する電話がかかるはずだ。しかし、もしローレンが殺されていたら犯人に身代金を振り込む人が居なくなる。ルイスの父親は二年前に亡くなり、その一年後に母親も他界した。親類と呼べる人は七、八人居るが殆ど付き合いはない。

 車が高速道路に乗ったことがルイスにも分かった。大きなエンジン音を響かせながら牛乳配達車は走り続ける。絶望的な気持ちになって床に転がっているルイスは目を閉じた。車がどこに向かっているにせよ、早く着いて、この状況を早く終わらせて欲しい……。

 

 長い時間が過ぎた。朝起きたのは午前八時前だったが、既に昼になっているかもしれない。

「まだ先は長いから、そいつを座らせろ」
とブッチャーズナイフの男が言った。彼が三人のボス格のようだ。

「生かしたまま連れて来いと言われているから、気を付けて扱え」
 拳銃の男がルイスの肩を荒々しく掴んで後部座席の一つに座らせた。

 そのお陰でルイスは窓外の景色が見えるようになった。

 日が高くなっていた。息を吸い込むと潮の香りがした。

「海の近くを走っているんだ」
とルイスは推測した。窓外の景色は見慣れたイングランドとは何かが違う。美しい田園風景ではなく寒々とした荒れ地が広がっていて、険しい山の向こうには別の山が重なって見えている。どこだかは分からないが海岸線が鳥瞰できた。多くの入り江、湾や半島が入り組む海岸線で、幾つもの川が湾に流れ込んでいる。

 車が公衆トイレの前に停車したのでルイスはほっとした。逃亡のチャンスだと思ってほっとしたのではなく、それ以上我慢できなくなっていたからだった。崖の上の見晴らしポイントにあるトイレだったが全く人気ひとけは無かった。犯人の一人がジャンパーのポケットの中の拳銃をルイスの腰に押し付けているので、仮に誰かが来たにしてもルイスは逃げようとはしなかったはずだ。

 しばらく走っていると、窓外の景色は更に寒々とした感じになってきた。雲間からの光はすっかり消えて不気味な黒い雲が下りて来た。

「雨が降りそうだ」
 ルイスがそう思ってから一分もしないうちに台風のような風が吹き始め、低く垂れこめた雲を視界から一掃した。降雨の可能性は限りなく低くなった。その後に残ったのは陰気で薄暗い静けさだった。空の色は、まるで夜になったかのような灰色に変わっていたが、まだそんな時刻ではないはずだ。

 狭い橋を越えて牛乳配達車が停車したのは、どこかの島か半島の先端部分のような場所で、巨大な岩が並んでいた。入り口のフェンスには「高圧電流注意」と掲げられている。フェンスの向こう側の岩は火成岩だ。その中に身をくねらせた毒蛇の鎌首のような形をした岩がルイスの視線を捉えた。見たことが無い形の岩だった。

「降りろ」
とブッチャーズナイフの男が言って、ルイスは牛乳配達車から降ろされた。

 ブッチャーズナイフの男が岩陰で何やら機械を操作するとカチャリと音がした。フェンスの出入り口の鋼鉄製のドアが解錠されたようだ。

 口をガムテープで塞がれたままのルイスは男たちに囲まれてフェンスの内側に入り、暗くて恐ろしい夢を見ている気持ちで岩場を歩いた。

 巨大な岩の陰を歩いている時にブッチャーズナイフの男がルイスに命令した。

「そこの岩の上にうつ伏せになれ」

 ルイスの心臓は恐怖で爆発しそうだった。運転手がスコッチウィスキーの瓶を手に提げているのにルイスは気づいた。

 四人の男たちがルイスを取り囲んだ。ルイスは岩に手と膝をついたまま、そびえたつ巨人のような彼らを見上げた。それまでの人生で、自分がこれほど弱々しい存在だと感じたことは無かった。犯人たちと会話が出来れば彼らの意図が分かるだろうし、身代金のやりとりに関する交渉も可能かもしれないが、テープで口をふさがれているのでウーウーとしか言えなかった。

 四人の男たちはしばらくルイスを見下ろしながら煙草をくゆらせていたが、
「そろそろ連れて行くか」
と一人が言うと、
「いいけど、ちょっと惜しいな」
ともう一人が言い出した。

「何が惜しいんだ?」

「こいつ、上玉じょうだまだからさ……」

「はあ? どういう意味だ? はっきり言えよ」

「連れて行く前に俺たちがろうぜ。男には見えないほどすべすべしているし、そこら辺の女よりもイケてると思わないか?」

「そう言われると俺も勃って来たぜ」

 ルイスは男たちが何をしようとしているかを悟って真っ青になった。

「よし、順番を決めるぞ」

 四人はルイスを取り囲んだままじゃんけんをした。ルイスは泣きたい気持ちで男たちを見上げて、ウーウーと懇願の声を上げた。

「勝ったぞ!」
と言い出しっぺの男が手を高く上げて、ルイスのズボンを脱がせパンツを引き下ろした。

 ルイスは恥ずかしさで真っ赤になった。

 ルイスは岩に両手をついたまま必死で情けを懇願したが、ウーウーという声はルイスの意図と正反対の影響を男たちの股間に及ぼした。

 男たちの足元から這って逃げようとしたが無駄だった。二人の男に足首を掴まれて下半身を持ち上げられ、ルイスは両手を岩について身体を支えた。言い出しっぺの男が唾を付けた中指を挿入すると、男たちは卑猥な笑い声で囃し立てた。中指が出入りするのに呼応するようなルイスの呻き声は波の音に空しくかき消された。指が二本に増え、三本になると、足首を握っていた男たちは手を離したが、ルイスには抵抗する力は残っていなかった。

「早くれよ!」

「こいつ、入れて欲しいと言っているぜ」

 ついに男の物が挿し入れられた時、ルイスはウーッと長い叫びの呻きを洩らした。

「こいつ、感じてるぞ」

「俺も早く入れたい!」

 最初の男が腰を前後させている間、他の三人の男はスコッチを回し飲みしながら卑猥な冗談を言って囃し立てた。

 ルイスにとってそれ以上の屈辱は考えられなかった。尻を引き裂かれるような痛みと未曽有の屈辱は、やがて絶望に代わった。

「この苦しみはもうすぐ終わる……あと三人で終わる。僕を生かしたまま連れて行くのが彼らの役目だから。でも、今起きていることは誰にも知られたくない。僕のファンにも、友達にも、ローレンにも、AJにも。特にAJにはどんなことがあっても隠しておきたい!」

 世界中の子供にとって親は保護者であり養育者だ。もしAJが「私の強いパパが女のように強姦された」と知ったら、彼女は心に大きな傷を負った少女になるだろう。今起きていることは秘密として墓場まで持って行こうとルイスは誓った。

 ルイスの腰の括れに爪を立てながら、男が大きな声を上げた。お腹の奥深くが大量の熱いもので満たされる感覚がルイスの自尊心を粉々に打ち砕いた。

「次は俺の番だ」
と言ったのは運転手だった。

 周囲から口笛で囃されてピストン運動が始まった。

「あと三人だけだ。もう少しで終わる」
と自分に言い聞かせるが、一人目だけで身体も心もボロボロであり、これが三倍も続いたら自分は生きていられないかもしれないと思った。

 ルイスは心を空っぽにして耐えた。犯人が欲しいのは身代金であり命ではない。身代金と引き換えにローレンとAJの元に帰れるはずだ。その後、何も起きなかったかのようにローレンとAJの祝福を受けながら暮らせばいいのだ……。

 二人目の粘液がお腹の中に注ぎこまれ、三人目の物に貫かれると、今にも下痢をしそうだという感覚に襲われた。抜かれた時にお漏らしをしたかのように太股が濡れた感じがあり、出し入れする度にグチュグチュという恥ずかしい音が響いて、男たちが大声で囃し立てる。涙を流し、首を左右に振りながらウーウーと泣きわめくルイスの姿が男たちをますます活気づけた。

 三人目がルイスの中で破裂し、四人目が永遠に終わりそうにないほど長い時間をかけてルイスの身体を蝕んだ。最後の粘液のほとばしりを身体の奥の壁に感じた時、ルイスは不覚にも達成感で満たされた。

「やっと終わった……」

 自分が男ではなくなったような気がした。でも、拷問は終わった。

 その時、

「もう一回やりてぇー」
と拳銃の男が言い出し、
「二ラウンド目の順番を決めようぜ」
と言ってじゃんけんを始めた。

 それまでずっと耐えて来たルイスの緊張の糸が切れて、ルイスはウーウーと大声を上げながら泣いた。

「タイムアップだ。出発するぞ」
とブッチャーズナイフの男が宣言した時、ルイスは神さまに感謝した。

 ルイスは泣きながら自分でパンツとズボンを履いた。男たちは黒い布でルイスに目隠しをした。

「立て、行くぞ」
 ルイスは何とか立ち上がったが、歩く力は残っていなかった。男の一人がルイスを軽々と抱き上げて右肩に乗せた。ルイスは心臓を撃ち抜かれた小鹿のようにぐったりとしていた。

 

 目隠しが取り除かれると、ルイスはむき出しの床の上に仰向けになっていた。口を覆っていたガムテープはいつの間にか剥がされていた。天井と壁は真っ白で、床のタイルは寒々とした青だった。消毒剤の臭いが立ち込める、湿気の強い空間だった。寒くはないのに背筋が凍えた。病院のような……研究所のような場所だ。

 ルイスはすぐ傍にローレンが立っているのに気付いて驚いた。

「ローレン……よかった、無事だったんだね」

 ローレンはルイスの目をまっすぐに見下ろして言った。
「生命科学のまばゆい檜舞台に到達するには、暗く恐ろしい所を通り抜ける必要があるのよ」

 彼女の声には何かに憑りつかれたような響きがあって、普段の声とは違っていた。自分の妻から意味の分からないことを言われてルイスは当惑した。

「ルイスはまだ研究室に来たことが無かったわね。案内してあげるわ」
とローレンが普段の声で言った。

「えっ、ここはローレンの職場なの? よく出張に行くスコットランドの研究所? でもあの悪いやつらはどうして僕をローレンの研究所に連れて来たんだろう……」

 ルイスは床に手をついて身体を起こし、その場に立ち上がった。

「研究所を見せたいのならどうして最初からそう言って一緒に来なかったの? 僕はひどい目に遭ったんだよ……言葉には言い表せないほど大変な目に……。それよりも、AJのことが心配だから僕はすぐに家に帰りたい」

 その発言を無視してローレンはルイスの右手首を掴んだ。
「黙って言う通りにしなさい。ベビーシッターを呼んであるからAJのことは心配ないわ」

 ルイスはまだふらふらしていたが、ローレンに手を引かれてついて行った。

第二章 モルモット

 ローレンが立ち止まったのは巨大な金属製の直方体の前だった。それは直径二センチほどの棒鋼が約五センチ間隔で並んだ、動物の檻を想起させる構造物だった。

 中は薄暗かったが、何頭もの大型動物が収容されているようだった。

「怖がる必要は無いわよ。噛まないから」
とローレンはルイスの肩を押して檻の前に立たせた。両手で檻を掴んで中を覗いたルイスは、中に居るのが動物ではなく人間だと知って衝撃を覚えた。中には男性が数人居た。大半が外国人で人種も年齢もまちまちのようだ。

 一番近くに寂しげに座っているのは三十そこそこのインドかスリランカ方面の男性で、その隣は三十代の東アジア人のようだ。その向こうに這いつくばってこちらを見ている五十代の大柄な男性はルイスと同じ白人で、国籍を言い当てるのは難しいが恐らくイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ出身か、或いはアメリカ人だろう。その隣には二十代の黒人が居る。他に二人の男性が居るが顔が隠れてよく見えない。

 ルイスはバドミントンのスター選手として顔が売れているので普段街を歩いているとよく声を掛けられるのだが、檻の中の人達はルイスが誰だか気付いていないようだ。

 檻の一番奥の隅の若い男がルイスの方に顔を向けた。十代後半の東欧人で、ブルガリア人かハンガリー人のように見えた。もう一人は十五歳そこそこのスペイン系と思しき少年だった。

 彼らは外観上は多種多様であり、共通点は六人とも男性ということと、囚われの身ということだった。

 ルイスは振り返ってローレンに聞いた。
「ここは刑務所じゃないよね?」

「この男たちが悪人に見える?」
とローレンは皮肉な笑みを浮かべてルイスに問い返した。

「ここは研究所よ。そしてこのケージで男たちを飼っているのよ。ルイスもここで飼うことにしたの」

「えっ、どうして僕が……」

 ローレンが目で合図をすると、手下の大男が檻のドアを開けてルイスを中に押し込み、再び施錠した。

「待ってよ、ローレン、早く家に帰らなきゃAJが……」

 ルイスは檻の内側にしがみついて叫んだが、ローレンと手下たちは何も言わずに立ち去った。

 

 白人の大柄な男性がルイスに空虚で血の気の無い顔を向けて言った。

「メドゥーサの髪束へようこそ」

「メドゥーサの髪束? それがこの研究所の名前なんですか?」

「そのとおーり」
と男は不自然に言葉を引き延ばして答えた。

「と言っても私たちがそう呼んでいるだけであって正式の名前は知らないが……。この島の入り口で蛇の形をした岩を見なかったかい?」

 その蛇岩はルイスが受けた一生忘れない暴行の無言の証人だ……。

「蛇の岩は見ましたけど、メドゥーサの髪束という変な名前と関係があるんですか?」

「メドゥーサとは何かを知らないのか?」
と黒人の男性がバカにしたように言った。

「メドゥーサとはギリシャ神話に出て来る怪物で、見たものを石に変える能力を持っている。元は美しい髪の美少女だったんだが、女神アテナの怒りに触れて、髪の毛の束が毒蛇になって醜い怪物の姿に変えられた」

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「へぇー、そう言われてみれば、蛇がブレイズ・ヘアのように頭から生えている女性の絵を見たことがあります。ということは、あの蛇のような岩が生えているこの島はメドゥーサの頭にあたるんですね」

 ルイスの問いかけには誰も反応しなかった。乾いた籾殻のような、血と肉と意思と活力を奪われた人形のような人たちだ。

「でも、皆さんはここで何をしているんですか? さっき、飼っているとか言っていましたけど……。どうして僕はこんなところに押し込められたんでしょうか? 身代金目的かと思ったんですが、そうでもなさそうだし……」

「彼女が我々をここに連れて来たのは別の目的だよ」
とスリランカ人が遠くを見るような目をして言った。

「そう、僕は別の目的でフィリピンから連れてこられた」
と東アジア人が言った。

「各々違う方法で騙されてここに連れてこられたが、その目的は同じだよ」
とスペイン人の少年が話に加わった。

「我々を使って人体実験をするためだ」
と白人が言った。言葉からアメリカ人だと分かった。

「人体実験?! それは何の実験ですか?」

「さあね」
と黒人が肩をすくめた。
「彼女は我々を何日も眠らないようにしてから、何か分からない変な味の錠剤を飲ませる。一番イヤなのは注射だ。訳の分からない静脈注射なんだが、静脈を浮き上がらせようとして腕をパンパン叩くし、腕に適当な静脈が見つからないと、首でもどこでも辺り構わず注射針を刺す。もう刺す場所が無くなっているんだけど、彼女にとっては注射さえできれば我々の事なんかどうでもいいんだ」

 若いスペイン人は足と首の痛々しい注射痕をルイスに見せた。

 ルイスは注射は大嫌いだったので、ぞっとした。

「何の注射ですか?」
 質問というよりは、恐怖の叫びだった。

「その女性は、何が目的で違法な人体実験をするんですか?」

「百パーセントの確信は無いんだけど、ある種の合成ホルモンの注射だと思う」

とフィリピン人が答えた。

「他の飲み薬と組み合わせて使うことで画期的な効果が得られる新薬を開発しようとしているんじゃないかな」
とスリランカ人が補足した。

「ユーゾンと私は医薬メーカーのMRだからその程度の推測はつくんだが、具体的な詳しいことは分からない。彼女のやり方は非常に巧妙だから」
 ユーゾンとはフィリピン人の名前だと分かった。

「皆さんはいつごろから檻に入れられているんですか?」
とルイスが質問した。人によって一年前から三ヶ月前に連れてこられたとの答えが返って来た。

「ということは、一番短い人でも三ヶ月以上もの間、その合成ホルモンとやらを注射されたわけですよね? 普通の健康状態のように見えますけど、何か体調の変化を感じました?」

「私は元々毛深い方で、胸や手足はもじゃもじゃの毛でおおわれていたんだけど、彼女に注射されるようになってから毛が薄くなって、今はほとんど毛が無くなった。髪の毛は薄くなっていないから、まあいいんだけど……」
とアメリカ人が言った。

「私は若い時からエルヴィスプレスリーのようなバリトンの魅力がウリだったんですが、最近カレン・カーペンターと声が似ていると言われてショックを受けました。声が徐々に変化しても自分ではよく分からないんですけど……」
と十代後半のブルガリア人が言った。

「最近喉仏が小さくなったんだけど、気のせいかな……」
と黒人が言った。ルイスの目には喉仏が全くない、女性のようにほっそりとした首に見えた。

「僕は顔の輪郭が少し変わって顎が小さくなった気がする」
とフィリピン人が考えた末にポツリと言った。

「以前はザラザラしていた頬がすべすべした感じになったかな……」
とスリランカ人。

 若いスペイン人だけはルイスの質問に答えず、一人ですすり泣き始めた。近くの人が肩を手でポンポンと叩いて慰める仕草をしたが、他の男たちは「またか」という表情だった。絶望的な状況とは言え、男が周囲を気にせず泣き出すというのは女々しくて異様な感じだ。しかし、彼らは多かれ少なかれ精神的に壊れているのかもしれない。

 人体実験による身体の変化に関する彼らの発言には何か投げやりな感じが混じっていて、ルイスは居心地の悪さを感じた。まだ話してくれていないことがあるのではないだろうか……。

「皆さん、それで全部なんですか? 何か隠していません?」

 ルイスは聞くべきではないことを質問したようだった。スペイン人のように泣きじゃくりはしなかったが、全員が首をうなだれて目に涙を浮かべているように見えた。

「まさか泣いてるんじゃないですよね? 一体どうしたんですか?!」

「放っといてくれ、何でもないよ」
とアメリカ人が言ったが、何でもないはずは無かった。

「教えてください! 僕にも関係することなんですから」

 アメリカ人は苦悩の表情を浮かべて自分の下腹部を指さした。

「ここを取られたんだ……」

「取られた? 盲腸を切り取られたという意味ですか……盲腸はもうちょっと上でしたっけ……」

「玉を抜かれたんだ。しかも、あの女は麻酔なしでメスを入れた……」

「玉って……まさか、あのタマですか?! 二つとも?」

「その通りだ」

「冗談でしょう!」
 ルイスはそう叫んだが、冗談でないことは分かっていた。彼ら全員が去勢手術を受けさせられたのか……。

「あの女は悪魔だ。本物の悪魔だ!」
とスペイン人の少年が叫んだ。

「皆さんがさっきから『彼女』とか『あの女』と呼んでいるのは、誰の事ですか? まさか、さっき僕を連れて来た女医さんのことじゃないですよね?」

 ルイスにはその女医が自分の妻であると告白するだけの勇気が無かった。この壮大な悪事を取り仕切る女ボスは別に居て、ローレンは単なる善意の研究者だと思いたかった……いや、善意の研究者なら自分をこの檻に閉じ込めるはずがない……。

 驚いたことに彼らはルイスの質問に答えることができずにブルブルと震えていた。彼らは極度の恐怖とストレスの支配下にある。「彼女」の手で麻酔なしに男の証拠を切り取られ、まるで怯えたハムスターのように檻の中で縮こまり、次の実験を待っている。男たち……もう胸を張って男とは言えなくなった彼らにとって、その女性はメドゥーサと同じ絶対的な恐怖の根源なのだ。

 彼らの気持ちはルイスにも理解できた。あの岩の上で四人に輪姦されながら、もう少しで苦痛は終わると自分に言い聞かせて耐えたが、彼らは既に何ヶ月もの間、あの時のルイスと同じような状況に置かれているのだ。

 六人ともルイスの質問には直接返事をしなかったが、そのうちに身の上を話し始めた。

 スリランカ人とフィリピン人はともにウォーカー製薬の現地法人でMRとして働いており、各国のMRが集まる会議のためにロンドン本社に来ていた。その際にウォーカー製薬のCEOであるエリス・ウォーカー氏と個別面談する機会が与えられ、夢のような気分で社長室に行ったところ、その場に居た女性から契約書のような紙を差し出された。

「契約書のようなお堅い文章で細々と書かれていますが、単なるアンケートですから、気軽に扱ってください。従業員の満足度調査が大半で、イエス・ノーいずれかに丸を付ける形式の質問票です。私ならせっかくのCEOとの面談の機会を最大限にするために、ささっと丸をつけるんですが」

 そう言われて、彼らは中身を読まずに、全部の質問の「イエス」に丸を付け、サインをして彼女に書類を手渡したとのことだった。

 ブルガリア人の若者の話にも似通った点が含まれていた。
「彼女にソフィアのカフェで会ったのは去年の今頃でした。彼女の方から近づいて来て『環境保護の活動をしています』と言って自己紹介されました。何でも世界中の植物を守るために出来るだけ多くの人の賛同を集めたいので、ブルガリアの美しいバラを守るためには僕の署名が必要だと言われました。ブルガリアのバラは僕にとっても誇りだし、彼女の微笑がすごく魅力的だったので中身を読まずにサインしました」

 十五歳のスペイン人の話にも書類に署名させられたことが含まれていた。
「学校が終わって校門を出た時に彼女が僕の所に走ってきて、書類とペンを突き付けられました。『北海のアザラシを救うためにサインをお願いします』と言われて、僕は動物好きなので迷わずサインをしました」

「彼女には半年前にパリで会いました。エイズの犠牲者を支援するための資金集めで署名運動をしていると言われました。お金は出さなくても、署名するだけでいいと言われて、その場でサインをしました」
と黒い肌のナイジェリア人が言った。

「他の皆は騙されてサインをしたようだが、私の場合はそんな単純なものではなかった。私は彼女と深い関係にあった人間として、皆さんに対して責任を感じています」
とアメリカ人が言った。

「深い関係……ですか?」
 ルイスは内心ほっとした。このアメリカ人と深い関係にあった女性ということなら、ローレンではない可能性が大きい。

「ロンドンのサウスバンクにあるロンドン・アイを知っていますか? 一台あたりの収容人数が二十五人の大観覧車です。三ヶ月前に彼女とロンドン・アイの同じカプセルに乗り合わせました。当初は天気とかロンドン観光の見どころとか、どうでもいい話題だったんですが、意気投合してロンドン・アイからホテルへと直行しました。後から考えると彼女を見てあそこがギンギンになった結果、性的興奮の源泉となる器官を彼女に切り取られたのですから皮肉なものです。ベッドの上で結婚の約束をして、翌日彼女が領事館に行って書類を貰って来てくれました。『イギリス人が外国人と結婚するには面倒な書類が必要だから』とのことだったので、私は内容を読まずにサインしました。美しいフィアンセに言われたとはいえ、私は無防備過ぎました」

「あなたが責任を感じる必要は無いですよ。彼女の方ではあなたをフィアンセとは思っていなかったのでしょうから」
とナイジェリア人が彼を慰めた。

「中身を読まずにサインした結果がこれだ。ここに居る人間は全員が同じ穴のむじなだ」
と吐き捨てるようにアメリカ人が言った。

「サインした書類に、具体的にどんな条項が書いてあったのか今でもご存じないんですか?」

「この檻に入れられてからコピーを渡されたので知っていますよ。もっともそのコピーは後で取り上げられましたが。『添付計画書を熟読し理解した上で自分の意志で臨床試験に参加し、彼女の指示に従い、治験の結果についていかなるクレームも申し立てない』という主旨の契約書です」

「先ほどから話に出て来ていた『彼女』と同一人物なんでしょうか?」

 六人とも何も言わずに首を縦に振った。ルイスは既に『彼女』が誰かについて百パーセントの確信を持っていた。自分の妻の過去一年間の出張先はほぼ把握しており、彼らの話と符合していたからだ。

「サインした相手の人物名前を教えてください」

 六人とも大きく息を吸って、すーっと吐いた。そうすることで過呼吸を抑えようとしているかのようだった。

「ドクター・ローレン・ウッド・デイヴィーズ」
と六人が口を合わせて言った。

第三章 ローレン

 ローレン・ウッド……ローレン・ウッド・デイヴィーズ博士。間違いなくルイスの妻の名前だった。男たちからの情報はジグソーパズルのように完璧にフィットしており疑いの余地は無い。しかし、ルイスが命を投げ出しても惜しくないAJを産んでくれた女性が、自分の知らないところで六人もの男性に耐えがたい拷問を与えていたとはにわかに信じられなかった。AJの父親であるルイスを七匹目のモルモットにするつもりだとは信じたくない。ルイスは無意識のうちに両掌で股間を保護しようとしていた。

 彼がローレンと出会ったのは今から三年半前で、コモンウェルスゲームズで二度目の金メダルを獲得したばかりの頃だった。

 スポーツ協会はルイスの栄誉を称えるために大祝賀会を開催した。ルイスは自分の力でそんな高みに到達したと言ってもいい。ロンドンの最貧困地区として知られたハックニーに生まれたが真っ直ぐに育ってバドミントンの選手になり、世界ランキング三位にまで上り詰めた。イースト・ロンドンの少年がウェスト・ロンドンの紳士録に載るだけでもすごいことだ。メディアはルイスに寄ってたかって熱狂的な報道が続いた。大衆の興味を集めるには夢のある話が一番だからだ。

 しかし、ルイスは注目されるほど息が詰まる思いがした。心の中では近所の子供たちどうしでバドミントンをしていた頃と同じ素朴な少年であり、トッププレイヤーとして神格化され崇められる状況には慣れることができなかった。

 祝賀会の日、ルイスは自分を取り巻く崇拝者たちから逃れてテラスに身を隠した。その時にテラスに居た女性がローレンだった。彼女は実用的なツイードのスカートを履き、フォレスト・グリーンのカーディガンを着て一人で立っていた。靴はシンプルな薄底のパンプスだった。テラスの入り口でルイスはすまなさそうに言った。
「お邪魔じゃないでしょうか……」

 そう言われてローレンはルイスに目を向けた。彼女は背が高く、痩せていて、いわゆるふくよかさを感じさせない身体つきだった。彼女の胸には殆ど膨らみが無く、腰にも丸みが無いことにルイスは気付いた。ルイスは本来女らしい身体つきの女性が好きだったが、何故か彼女に魅かれた。彼女の黒い瞳と微笑みが印象的で、黒い巻き毛の髪が後光のように輝いて見えた。これほど魅力的な女性に出会ったことは無いと思った。

 今から思えば、その時のローレンの髪の巻き毛は、さきほど男たちから聞いたばかりのメドゥーサの髪束の蛇と酷似していた。

「ちっとも邪魔じゃないですよ」
と彼女は答えて、ルイスの心がとろけるような微笑を返した。

「今日のパーティーのスターとご一緒できて幸せです」
と彼女は慎ましく言った。

 初対面だったが二人は親し気に会話をした。

「私はローレン・ウッドと申します。ロンドンのインペリアル・アイビー病院で婦人科医兼産科医として働いています。医者ですが、研究者としての活動に力を入れており、時間の半分以上を研究室で過ごしています。特に前臨床段階の研究に注力しています」

「へぇーっ、カッコいいですね! 前臨床段階の研究とはどんなことをするんですか?」

「医薬品の開発に関係した研究ですけど……」
 彼女はその話題には入って行きたくなさそうだった。

 ルイスは、彼女が自分のことについて自慢げに話すのが好きではないタイプの控えめな人なのだろうと思った。とても好ましく感じられた。

「僕は運動能力には自信がありますが、難しい事を言われてもよく分からないので、子供と話しているつもりで教えてください。どんな薬を開発しているんですか?」

 ローレンは数秒間の沈黙の後で答えた。
「そのぅ……予防薬です。月経困難症と月経前症候群の……。あ、ごめんなさいね、男性に月経の話なんかして……」

「全然大丈夫ですよ。僕はもう思春期を過ぎていますから」
とルイスは悪戯っぽく笑った。

「医薬品の研究には莫大なお金がかかると聞いたことがありますが、スポンサーが居るんですか?」

「いい質問ですね。民間の製薬会社から資金提供を受けています。秘密保持契約があるのでメーカー名は言えませんが……」

「世界中の女性のQOHに寄与する新薬なら製薬会社じゃなくてNIHRに持って行くという選択肢もあったんじゃないでしょうか?」

「多分、私の研究はNIHRが取り上げてくれるほどのものではないと思います。国にとっては女性の月経より優先すべき課題が沢山あります」
とローレンは自虐的に答えた。

「お節介な事を言ってすみませんでした。でも、月経の症状を改善する医薬品は国家の生産性という観点で重要だと思います。人口の半分が関係しているんですから」

 今思い出すと、ローレンの態度には不自然なことが多かった。自分の研究に関する話題をはぐらかし、ルイスの質問を適当にあしらおうとした。すでにあの時点でローレンは悪事の計画を立てており、素人であるルイスの素朴な質問は邪魔だと感じたのだろう。

 ローレンは紛れもなくルイスの若さと美しさに魅かれていたが、自分の計画の実行とは別問題だった。ローレンがプロジェクトをNIHRに持っていけなかったのは、GCPすなわちGood Clinical Practiceが障害になるからだ。ローレンは自分の合成ホルモン新薬は通常の医薬開発のようにフェーズⅠ、Ⅱ、Ⅲと手順を踏めば百年かかっても完成しないと確信している。トキシコロジー(毒性)は既にクリアーしており、直接人体実験に進むしかないと考えたのだ。NIHRにそんな話をすれば狂人扱いされて警察に通報されるのがオチであり、提携する相手としてはローレンと同じぐらい狂った頭脳を持つ民間医薬メーカーしかなかった。普通なら起きえない狂気のマッチングが成立したことが六人の男たちとルイスの不幸に災いをもたらす結果につながった。

 テラスで出会ってから何週間も経たないうちにドクター・ローレン・ウッドはルイス・デイヴィーズと結婚した。ルイスに会うまでローレンにとって新薬のプロジェクトを進めることだけが人生の目的だったが、それを忘れるほど没頭できるものが目の前に現れた。それほどルイスは美しかった。

 茶色のスーツでパーティーに臨んでいたルイスの姿は神々しかった。ローレンが特に魅かれたのはブロンドの髪の輝きだった。その輝きが彼女の人生を長きにわたって照らしてくれるかどうかは分からないが、少なくともしばらくの間は、一緒に過ごす夜をやさしく照らしてくれるだろうとローレンは思った。

 二人の結婚はメディアで大きく取り上げられた。どの記事も見出しの基調は「国民の心を奪ったスターが一般女性と結婚」というもので、美しきバドミントンのスーパースターが、病院勤務の何でもない年上の女医と結婚したことを意外なハプニングとして報道していた。中にはローレンに焦点を当てて「女医が国民のアイドルをゲットした方法」と題する記事もあった。

 ローレンはルイスとの結婚が派手に報道されることに戸惑い、苛立ちを感じた。しかし、ローレンにとって幸いだったことに、メディアはローレンを「インペリアル・アイビー病院の女医で、地味な一般人」として扱い、研究者としての側面に注目した雑誌やニュース番組は皆無だった。

 しかし、パリへの新婚旅行から戻ったローレンは別な問題に直面することになる。

 エジンバラにあるウォーカー製薬の本社ビルではCEOのエリス・ウォーカーがローレンを待っていた。

 ローレンにとってエリス・ウォーカーは特別な人だった。かと言って、若い美しさのピークにあるルイスと比較の対象にはならない。五十二歳のエリスは禿げ頭で汗っかきであり、どうひいき目に見ても美しさとは無縁だった。勿論ルイスと比較して上回る点は多々ある。イギリス人としても長身で、包容力と支配力のある声、そして何よりもローレンに対する無条件の献身。ローレンが十八歳の医学生の頃からエリスは恋人、メンター、哲学者、そして人生のガイドだった。三十歳になった今もその点は何ら変わっていない。

 一方、エリスが寛容に構えていないのは明らかだった。眉を厳しくひそめ唇を固く結んで、腕を組んでローレンを見下ろしている。許せないという気持ちがひしひしと感じられる。ローレンは自分が結婚することとパリに新婚旅行に行くことについてエリスに事前に報告していたつもりだったが、エリスは不機嫌さを隠そうとはしていなかった。

「今までと同じよ、ダーリン。私はまだあなたを愛してる」
とローレンは先手を打って言った。

「私を愛している一方で別の男と結婚しただと? 理屈が合わない話だな!」
 嘲る口調でエリスがローレンを責めた。

「その通りよ、あなた。でも私が愛しているのはルイスの身体だけ。彼の身体には……あの美しさを目の前にすると欲望を抑えきれなかったの。ひと晩で手放すのが惜しかった……ルイス・デイヴィーズの身体を自分だけのものにしたかったのよ」

「要するに、デイヴィーズは君の『お飾り』に過ぎないと言いたいのか?」
 エリスの口調はかなり穏やかになっていた。

「その通りよ。彼はただのお飾り……見栄えのいいアクセサリーよ。私が本当に愛しているのはあなただけ」

「証明してくれ」

 聳え立つエリスに近寄り、ローレンは爪先立ってキスをした。ローレンの唇は顎から喉に、そしてネクタイに沿ってエリスの胸を下り、ズボンの中の柔らかな膨らみに到達した。彼女はエリスの足元に跪き、厚い生地の上から何度もその膨らみにキスをしてから、エリスのベルトのバックルに手を掛け、ズボンをゆっくりと引き下ろした。

 ローレンの口の中で彼の男の象徴が大きくなる。彼女は先端をちょっと舐めてじらしては、長くて執拗に吸い尽くす。どうすればエリスが喜ぶのかを熟知している。

 ウーッという低い呻きがエリスの喉の奥深くから絞り出される。ローレンに見せまいと努力していた本心がエリスの表情に浮かんだ。

「くそっ、ローレン! 君は男の夢に現れて精液を吸い尽くす悪魔だ! そう分かっていても私は君を愛さずにはいられない……」

「頼りにしてるわ。今まで通りフェムワンの研究費は出してくれるのね?」
とローレンは上目遣いに見ながら言った。

「勿論だよ。ウォーカー製薬にとってエスプロジェスはブロックバスターだから、併用によって売り上げを拡大できる新薬の研究開発に金をつぎ込むのは当然だ。だから君のアイデア通りに、霊長類を使ったアフリカでの実験の費用を出したんだ。しかしくれぐれも慎重にやってくれ。大型類人猿を使った研究はEUでは禁止されているし、米国でもチンパンジーが絶滅危惧種に分類されてから大型類人猿を事実上使えなくなった」

「分かっているわ。ウォーカー製薬の名前は絶対に出ないように細心の注意を払っているし、フェムワンとは無関係な実験ということになっているから心配しないで」

「それで、大型類人猿を使っただけの甲斐はあったのか?」

「残念ながら期待には程遠かったわ。フェムワンは人間にしか存在しない表面抗原をターゲットにした薬だから、大型類人猿では代替できないということを確認するだけの結果になってしまった」

「やはりそうだったか……大型類人猿を使っても証明できないとなると難儀だな……」

「大型類人猿を使った試験でも女性化の効果は出たのよ。でもそれはエストロゲンを投与した場合の女性化と同様で、乳房が膨らみ、皮膚の厚みが減って水分量が増え、脂肪分布が変化して体形が女性化することが確認できたということよ。でも、フェムワンが目指す女性外性器の形成や骨格の女性化は有意な変化と言えるほどにはならなかった」

「エスプロジェスによる相乗効果はあったのか?」

「エスプロジェスを同時投与しなかった動物群では乳房の成長は五十パーセントしか進まず、外性器の形成については初期の兆しすら観察できなかった。相乗効果があることには間違いが無いわ」

「それはグッドニュースだ」

「フェムワンを完成させるにはヒトを使った実験を一日も早く実施するしかないと思うの」

「いくらなんでもそれは無茶だ! この段階で人体実験を実施して万一露見すればウォーカー製薬が潰れる!」

「絶対に露見しないとすれば?」

「アフリカの施設で実施するのか?」

「いえ、メドゥーサの研究所を改築するのが安全だと思うの」

「国内でやるのか……まあ、メドゥーサなら百パーセント私のコントロールが効くから却って安全かもしれないな。しかし、守秘には万全を尽くして、万一露見した場合に備えて二重三重の備えが必要だ。最も重要なことは、被検者が自らの意志でフェムワンとエスプロジェスの投与を希望したことが明らかになるように書面上万全を期することだ」

「じゃあ、やらせてくれるのね?」

「いや、ちょっと待て。いくらローレンの頼みでも、聞けることと聞けないことがある。しばらく考えさせてくれ」

「決して後悔はさせないわ」

「アーメン」
とエリスは神に祈る仕草をしてからローレンの身体を抱き寄せた。


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