女性上位の広告代理店
【内容紹介】男性サラリーマンが一般職OLとして仕事をさせられるTS小説。主人公の男性は入社するまでそれが女性が主流の会社とは知らなかった。同じ部門に同期の総合職女性2名と一緒に配属されたが、同じ総合職なのに主人公だけは特別扱いで、同期社員にコピーやお茶出し、使い走りを指示される毎日が始まった。他部門に配属された同期の男性は主人公と同様に補助的な仕事しか与えらえない人もいれば、女性と並んで総合職らしい仕事をしている人もいることが分かってきた。第一章 新入社員
今日は僕の運命が決まる日だ。
そう言うのは大げさすぎるだろうか。今日は入社研修の二日目。午後から人事部長の総括の後で新入社員の配属部署が発表になる。華やかでクリエイティブな仕事がしたいからこの会社に入社したのに万一経理部にでも配属されたりしたら予定が狂ってしまう。
僕が入社したのはプロモクリエイトという準大手の広告代理店だ。新感覚の企画を次々に提案して急成長している会社だった。今年の新卒採用は六十人で大手に引けを取らない人数だ。六十人の内訳は総合職三十六人と一般職二十四人。総合職のうち男子は十二人、女子は二十四人で、一般職は全員が女性だから、新入社員の中で男子は五人に一人という、男子にとっては超売り手市場だ。
広告代理店の中でプロモクリエイトを選んだのは、女性比率が高く、男子社員はモテモテでハーレム状態を楽しめそうだからではない。正直なところ、十数社の広告代理店に応募して僕に内定を出してくれた企業がプロモクリエイトだけだったからだ。トップの電通、博報堂は僕なんか全くお呼びで無いという雰囲気だったが、中位以下からも結構冷たくあしらわれた。
一流とは呼べない私立大学の経済学部を卒業予定だった僕は、まともに対応してくれる段階まで進むのが一苦労で、人事担当者との個別面接の段階でアウトになった。正式には後日お祈りメールで断りが届くのだが、僕の場合は面接の際にもらうコメントやアドバイスを聞いて不採用と分かることが多かった。
「覇気がない」
「根性が見えない」
「ライバルを蹴落としてでも前進する気迫が感じられない」
「体育会系でない」
「アピールできる活動歴がない」
「男性らしい力強さが感じられない」
最も失礼だと感じたのはマスコミ系の中堅の広告代理店だった。女性の人事担当者が出てきて開口一番「君、身長と体重は?」と聞かれた。「百六十三センチ四十八キロです」と答えたところ、「ふーっ」とため息をついて、「OLなら理想的な数値だけど」と言われ、後はまともに質問もしてもらえなかった。身長・体重で選考するならエントリーシートに記入欄を作るべきだ。そうすれば、こんな不愉快な面接のためにわざわざ来る必要も無かったのにと思った。
その点、プロモクリエイトの場合は採用ウェブサイトでエントリーシートにあらゆる情報をインプットするようになっており、極めて合理的だった。身長、体重の他に男女とも肩幅、胸囲(バスト、アンダーバスト)、ウェスト、股下、足、頭囲、首回りまで記入欄があるのには驚いた。写真は前、左斜め前、左横、右斜め前、右横、それに全身像は三つの角度と、合計八枚の画像をアップロードするようになっていた。好きな本、雑誌を十冊ずつ。好きな男優・女優を十名ずつ、最近見た映画を十本、過去数年に気に入ったテレビドラマを十本、等々、応募者のプロフィールが露わになるほどの圧倒的多数の項目に記入するようになっていた。
質問項目が多すぎて面倒なので応募は後回しにしていたが、ほぼ全社からお祈りメールが届いた時点で記入して送信しておいたところ、三日後に面接のための訪問要請メールが届いた。人事担当者との十分ほどの懇談の後で人事部長との数分間の面接があり、次に社長を含む役員面接があってその場で内定をもらった。社長を含め面接相手は全員が女性だった。
東大や京大の学生が特別扱いされて初回の企業訪問時に役員面接まで進むことがあるという羨ましい話をネットで読んだことがあったが、僕のような大学の学生にとっては信じられないほどのトントン拍子だった。
学生を問い詰めたり試したりする口調は全く無く、穏やかで暖かい雰囲気の面接だった。こんなに楽に内定をもらって大丈夫なのだろうかと心配になったほどだ。
入社前研修の休み時間に、隣り合わせた二、三人の女性にその話をしたところ、
「私の面接は厳しい質問を次から次へと浴びせかけられて冷や汗をかいたわ」
とか
「この会社の面接は今でも夢に見るほど厳しかった」
と言っていたので、人によって事情が異なることが分かった。
そんな経緯もあって、僕は入社初日からプロモクリエイトへの愛社精神に溢れていた。入社研修では、広告代理店とは何をするところかという話から始まって、さまざまなケーススタディーやグループディスカッションを実施したが、ディスカッションには複数のユニット長が加わっていた。
プロモクリエイトは分野・テーマによって数名から数十名のビジネスユニットがあり、各ユニットの「ユニット長」が役員会の直下に位置する。事実上ユニット長は社長の直接の指令の下で即断即決することができ、自分のユニットの従業員に対して絶大な人事権限を持っているのだそうだ。ユニット長は一般的な尺度だと部長と課長の中間というところだが、権限や機能からすると、社長直結の分社長といえる。
後で分かったことだが、社内研修はスカウト会議を兼ねており、ユニット長がディスカッションなどを通じて自分のユニットにとって役立ちそうな新入社員を選ぶ場として重要な位置を占めているとのことだった。
人事部長からの総括の後で、予定表には書かれていなかった社長のスピーチがあった。社長を直に見るのは採用面接以来だった。
「私は大企業でOLをして結婚退職し出産した後、二人の子供を育てながら広告代理店を立ち上げました。女性が女性らしさを生かしながら女性のライフスタイルの中で自己表現できる会社がプロモクリエイトです」
僕たち男子社員が男性を軽視するスピーチだと感じてお互いに顔を見合わせたことに気づいたらしく、社長がひとこと付け加えた。
「勿論、男性にも不利はありません。常識や既成概念にとらわれず、男性でもやる気があれば女性のように個性を生かすチャンスが与えられる会社、それがプロモクリエイトです」
それでもまだ女性が主役のようにも聞こえたが、この程度なら許容範囲ということにしよう。
「今年は実験的に各ユニットに過剰採用を促しました。例えば二名増員したいユニットは三名採用するわけです。但し、それは試験採用であり、三ヶ月後の六月末に三名のうち二名だけが正式採用されます。なでしこジャパンでも同じですが、競争により組織の緊張感と向上が得られます。正式採用されなかった一名は二軍落ちということになるでしょう」
新入社員全員はお互いに顔を見合わせて震えあがった。総合職三十六名のうち生き残れるのは二十四名ということになる。他社の入社面接で「ライバルを蹴落としてでも」と言われたのを思い出した。プロモクリエイトの採用面接は僕にとって蜂蜜のように甘い面接だったが、結局僕は他社以上に厳しい非情な会社に入ってしまったのだった。
社長のスピーチの後、一人一人の名前が呼ばれて辞令を手渡された。
僕は「有村玲菜」と社長に呼ばれて「はい」と答えて辞令を受け取りに行った。周囲からクスクスと笑い声がした。レナと聞いて女性を想像したのに男性だったので笑っているのだ。僕は子供の時から名前を呼ばれる際に笑われることには慣れていた。
「私の姪にはレオという男性的な名前の子がいるわ。有村さんはレナという名前に負けない美しい男性だから恥ずかしがることは無いわよ」
社長がニコニコしながら僕に辞令を渡した。
辞令には「フィーメイル・プロダクツ・ユニット総合職(試験採用)」と記されていた。
辞令の配布後、ユニットごとに集合した。FPUと表示された場所には「ユニット長 坂口七恵」という名札を付けたアラフォーの長身の女性が立っていた。ディスカッションで一度同席した女性だったが、物静かで優しい中に「デキル」というオーラを漂わせた人物だ。坂口の周囲に、私服の女子二名、一般職の制服の二名と僕の合計五人が集合した。
「FPUユニット長の坂口です。FPUは当社の中でも三年連続で売り上げ成長率トップスリーに入っている元気なユニットです。フィーメイル・プロダクツ・ユニット、すなわち女性向け商品のアドバタイジング企画を提供する部門だけど、女性向けといってもランジェリーとか生理用ナプキンなどの女性専用分野じゃなくて、例えば女性を主なターゲットにしたお菓子とか、女子会に向いたレストランとか、男性も対象となる幅広い商品が対象です。そういう意味で女性だけの感覚で物事を捉えることによる弊害を防ごうと考えて、初めて男性を試験採用しました。有村玲菜さん、三十人中で白一点だけど気遅れせずに頑張ってね」
「はい、頑張ります。よろしくお願いします」
とお辞儀したが、僕以外の全員が女性と聞いて戸惑った。売り手市場とかハーレムなどと言ってはしゃいでいられる状況ではなさそうだ。しかし、男性が必要だから採用したということは、三ヶ月後に「二軍落ち」してFPUから追い出される可能性が皆無に近いと言ってよい。ある意味で朗報だった。
坂口ユニット長は説明を続けた。
「FPUには六つのチームがあります。
- ヘルス・アンド・ビューティ・ケア
- ウェッディング・アンド・スペシャル・オケイジョンズ
- フード
- ファッション
- リビング
- ワーキング・ライフ
一応、対象商品によってチームの名前を決めていますが、厳密な分類ではありません。例えば化粧品とサプリメントとランジェリーを販売する顧客の場合、ヘルス、フード、ファッションの三つのチームに案件を手掛ける権利があります。つまりチーム同士もライバル関係です。チーム間の交通整理は私が行います。
総合職の松岡亜希子さん、芹沢由紀奈さん、有村玲菜さんは三名ともヘルス・アンド・ビューティ・ケア・チーム、略称ヘルス・チームの所属となります。三木リーダーの下でお互いに切磋琢磨してください。一般職の吉岡亜也さんはファッション・チーム、水原沙希さんはフード・チームの配属です」
総合職は三人ともヘルス・チームの所属と聞いて三人はライバル同士の露骨な視線を交わした。社長が言っていたように三人のうち一人は六月末で篩い落とされる。僕は落とすわけにはいかないだろうから、松岡亜紀子と芦沢由紀奈にとってまさに真剣勝負だ。
「この緊張感、いいわね! プロモクリエイトの女性はこうやって競争の中で強くなっていくのよ」
女性だけしか眼中にないような言葉を聞いて不満の視線で坂口ユニット長を見上げたところ「あ、男性もね」と付け足しのように言われた。ユニットの従業員三十人のうち二十九人が女性だから、女性向けの発言になりがちなのは仕方ないが、今後しょっちゅうこんな思いをすることになりそうだ。
その時、人事部の担当者からアナウンスがあった。
「各ユニットは適宜ダイニング・フロアに移動してください」
ダイニング・フロアとは最上階にある交流スペースで昼食時は社内食堂、夜間は居酒屋的に使用されており、パーティなどにも活用されているそうだ。
「軽く飲みながら自己紹介でもしましょう」
坂口ユニット長についてエレベーターで最上階に行った。
「皆、とりあえず生ビールでいい? 亜也ちゃん、沙希ちゃん、生ビールの中を六つと枝豆とナッツを買って来て」
坂口ユニット長は一般職の吉岡亜也にID兼用の社内デビット・カードを渡した。亜也と沙希の二人では持てないだろうと思い、僕も一緒にカウンターに行き、三人で生ビールを両手に持って席に戻った。その後、亜也が枝豆とナッツを取りに行った。
「気が利くのね、玲菜ちゃん。一般職の二人に頼んだのに」
坂口ユニット長が僕を笑顔で見て褒めてくれた。三分の二の生き残り競争に先行したような気がした。
「ご両親がどうして玲菜ちゃんに女の子の名前をつけたのか、経緯は知ってる?」
僕にとってユニット長のこの質問はしょっちゅう聞かれる事なので、無難な答えをいつも準備している。
「父がアメリカ出張の際に、レナード・バースタイン指揮のニューヨークフィルの公演を聞きに行って感動したので、レナードの略でレナという名前にしたそうです」
「お父さまはクラシックがお好きなのね」
亜也が僕に好意的な視線を向けながら言って、沙希も
「いいわね」
と言った。
松岡亜希子が悪戯っぽい表情で口を挟んだ。
「レナードは語源的にはレオナルドだから略すならレオになるわ。レナというのは元々エレナかヘレナの省略形だから百%女性の名前よ。晶子や恵子と同じぐらい女性的な名前だわ」
「それ、本当なの?」
レナード・バーンスタイン説にケチをつけられたのは初めてだった。自分の名前がエレナかヘレナと同じだと言われてショックだった。エレナ、ヘレナが女の名前ということぐらいは僕でも知っている。
「顔やスタイルと似あう名前だからいいじゃないの」
芦沢由紀奈が言って四人がクスッと笑った。僕は芦沢に軽い敵意を感じた。
「玲菜ちゃんの身長と体重はどのくらい?」
坂口ユニット長にストレートに聞かれたので答えざるを得ない。小柄な男性にとって皆の前で身長を言わされるのは最も恥ずかしいことの一つなのに、意外に無神経な人だなだと思った。
「百六十二・七センチ、四十八キロです」
「勝った、私は百六十二・八センチよ」と亜也がガッツポーズをした。
「私は百六十二・三センチ。体重は内緒だけど。私たち三人はわずか五ミリの範囲に収まってるのね」と沙希。
「私は百七十一だけど、松岡さんは私より高いわね。芦沢さんは私と同じぐらいかな」
坂口ユニット長は亜也、沙希と僕をファーストネームでちゃん付けで呼ぶのに、なぜか松岡亜希子と芦沢由紀奈は苗字で呼んだ。
「百七十四です」
松岡がうつむき加減に言った。女性としては身長が高すぎることを恥ずかしいと思っているようだ。
「私は百七十です」
と芦沢が言った。
「対外折衝の多い私たちにとって長身であることは武器になるわ。顧客企業の管理職は男性が多いから、こちらが小柄だとつい甘く見られちゃう」
「じゃあ玲菜ちゃんは大変ですね」
芦沢が薄ら笑いを浮かべながら言って、僕を見下すような表情を向けた。芦沢は三人に一人の誰を集中的に蹴落とすのか、ターゲットを絞ったのだと思った。
「私たちはチームで動くから、人それぞれ個性を生かせばよいのよ。ねえ、玲菜ちゃん」
坂口ユニット長は僕の肩に手を置いてやさしく言った直後に
「オット、いけない。肩を触るのはセクハラになるんだったわ」
と笑った。他の四人の女性も一緒に可笑しそうに笑っていた。
「玲菜ちゃんが加入したから、各チームのリーダーにコンプライアンスの徹底をリマインドしておかなくちゃ。色々大変だわ」
坂口ユニット長に悪意が無いことは分かっているが、そんな発言自体が僕にとってはセクハラと同じぐらい居心地が悪いものだと気付かないのだろうか……。
坂口ユニット長と芦沢のビールのジョッキが空になった。ユニット長は僕にデビット・カードを渡して「ビール二つね」と言った。どうして僕に言うのか不満だったが、僕はカウンターでビールを買ってきて、ユニット長と芦沢の前に置いた。
ユニット長は
「サンキュー!」
と言ってジョッキに口をつけた。
芦沢は、
「ありがとう、怜奈ちゃん」
と、わざわざちゃん付けで言った。お礼を言われた気がしなかった。
それから、松岡から初めて左回りに、ひとりひとりが簡単に自己紹介をした。
「プロモクリエイトを志望した理由も説明してね」
と坂口ユニット長から言われて、松岡は広告代理業の使命と役割という点でプロモクリエイトのコンセプトが自分の考えに最も近かったからだと答えた。しっかりした考えを持っていて立派な発言ができる人物だなと感心した。
芦沢はエラが張っていてお世辞にも女性らしいとは言えない顔だ。坂口ユニット長、松岡、芦沢の長身女性三人の中で身長は一番低いが、骨格が太いので座っていると最も大柄に見える。プロモクリエイトを志望したのは過去三年の成長率が業界トップクラスだからということだった。言葉の端々に攻撃的なガッツが見える重戦車のような人物だ。
亜也と沙希は聡明な女性らしさを備えた美人で、二人と同じ部に配属される僕は相当ついている。どちらにアタックすべきか迷うところだ。
僕は就職活動で他の企業から全部落とされた後、プロモクリエイトの面接で内定をもらった経緯を面白おかしく話した。僕の話を面白そうに聞いていたのはユニット長と亜也、沙希の三人だけで、松岡と芦沢は時々顔をしかめていた。特に芦沢は何度も面談を重ねた結果やっと採用されたようだった。
開始が早かったので懇談会がお開きになったのは午後七時だった。
「よし、カラオケでも行くか」
坂口ユニット長が言いだして、僕たち五人は断るわけにもいかないのでついて行った。松岡と芦沢はユニット長の両側に密着して、広告代理業務について難しいことを話しながら前を歩いている。僕は亜也と沙希と一緒に好きなテレビドラマについて楽しくおしゃべりしながら数メートル後ろをついて行った。カラオケに着くとユニット長は奥の隅に座り、僕は隣に座らされた。ユニット長は先ほど肩を触ってセクハラ注意について発言したばかりなのに、お酒が回っていて、僕の肩に手を回して時々太腿にも手を置きながら、僕の趣味とか家族関係などパーソナルなことを色々聞いてきた。何度もデュエットを一緒にさせられて、僕はまるでユニット長付きのコンパニオンのようだった。
カラオケを出たのは九時半だった。
「玲菜ちゃんは私が送っていくから」
と坂口ユニット長が僕の肩に手を乗せて言った。
「まだ早いですから電車で帰らせてください」
と断ろうとしたがタクシーに押し込まれた。
松岡と芦沢は勿論、亜也と沙希も呆れたような、非難の混じった視線を僕に向けた。僕は電車で帰りたいのに、どうして非難の目を向けられなければならないのか、割り切れない気持ちだった。しかし、坂口ユニット長が僕を特別にひいきしてくれているのは確実であり、六月末の生き残りのためには、男であることをある程度武器にするのも辞さない覚悟が必要かもしれないと思った。
第二章 楽しい勉強
入社研修が終わって勤務初日、僕はフィーメイル・プロダクツ・ユニットに出頭した。黒のリクルートスーツと白いカッター・シャツに赤っぽいネクタイをした僕がFPUのフロアーの真ん中を通る時、部屋中の女性たちから舐め回されるような視線を感じた。
一番奥の窓側中央に座っている坂口ユニット長の所に行って
「昨日はお世話になり、ありがとうございました」
と挨拶をしてから、右奥にあるヘルス・アンド・ビューティ・ケア・チームの一角に行った。
「おはようございます」
リーダー席に座っている小柄な女性の所に行ってお辞儀をした。
「有村玲菜です。よろしくお願いします」
「あなたが玲菜ちゃんね。うわさは聞いているわ。私はヘルス・チームのリーダーの三木美紀よ。陰ではミキミキと抑揚なしで呼ばれてるけど。私の左がサブリーダーの田淵啓子さん、その隣が下村珠洲さん、その奥が都築レナさんよ」
そこまで言って、三木リーダーは都築と僕の名前が同じ音であることに気づいたようだった。
「レナが二人になって紛らわしいわね。レナさんは従来通りレナさん、あなたは玲菜ちゃんと呼ぶことにしましょう。座席は田淵サブリーダーの前に松岡亜希子さん、山村さんの前が芦沢由紀奈さん、レナさんの前が玲菜ちゃんということで。九時十五分からチーム会議が始まるから新入社員も全員出席しなさい」
間もなく三木リーダーの後についてゾロゾロと会議室に入って行った。
「まず、業務の配分だけど、松岡さんは田淵サブリーダー、芦沢さんは山村さんのサブということでお願いします。玲菜ちゃんはレナさんのサブですが、私の指示により田淵グループ、山村グループの仕事もしてもらいます。総合職の人数が倍増して、レナさんグループの仕事が急増することが予想されますので、総合職の皆さんはその点に配慮してください」
僕がレナさんのサブということは一般職の仕事を手伝えということなのだろうか。僕は総合職なのに、三人の中でどうして僕だけがそんな扱いを受けるのだろう。
「三木リーダー、質問があります」
僕が手を挙げると「どうぞ」と指を差された。
「レナさんのどのような業務をお手伝いするか教えていただきたいのですが」
「レナさん、簡単に説明して」
「はい、電話対応、配布物、伝票関係、総合職の指示に基づくコピー、お茶出し等です」
「そういうことよ」
「僕は総合職なのにコピーやお茶出しをさせられるんですか?」
「具体的にどの業務を玲菜ちゃんに配分するかはレナさんの判断に委ねます」
「どうして僕だけが……」
「松岡さんや芦沢さんにお茶を出されるより、玲奈ちゃんが出してくれた方がうれしいからよ」
三木リーダーの言葉に六人がどっと笑った。
「玲菜ちゃんをレナさんのサブにすることは、坂口ユニット長からのご指示によるものです。レナさんの手伝いだけじゃなく、総合職としての教育は私が責任を持って実施します。業務分担の件は以上です」
あれほど僕をえこひいきしていた坂口ユニット長が本当にそんな指示をしたのだろうか……。
「次は田淵サブリーダーと山村さんから、主要プロジェクトの進捗状況を報告してください」
田淵サブリーダーからはBQT社向けのCM企画について報告があった。新発売の十八歳~二十代前半をターゲットにした化粧品ラインに関するCMを企画して売り込んでいる。BQT社では「BBクリームとコンシーラー」に特徴のあるラインを打ち出そうとしており、その年齢層向けの化粧品であえてコンシーラーを強調することの意義について、三木リーダー、田淵サブリーダー、松岡の間で突っ込んだ意見交換がなされ、山村、芦沢からも意見が出た。
「玲菜ちゃん、あなたの意見は?」
三木リーダーに聞かれたが、そもそもBBクリームの意味が分からないので議論が理解できていなかった。苦し紛れに
「BBクリームって、ミツバチと関係があるんですか?」
と質問したところ、全員がドッと大笑いした。
「玲菜ちゃん、ここは冗談を言う場じゃないのよ。ところで、コンシーラーの方は意味が分かってるの?」
僕は正直に
「すみません、存じません」
と答えて俯いた。
「困ったわねえ……」
三木リーダーは戸惑いを隠せなかった。僕は横の席の芦沢の薄ら笑いに気付いて打ちのめされた気持ちになった。
次に山村がマーメイド製菓の若い女性をターゲットにしたチョコレートの新企画について報告した。商品的にはフード・チームの領域だが、マーメイド製菓は医薬品やサプリメントのCMでヘルス・チームが好関係を築いているのでヘルス・チームが担当しているとのことだった。議論の争点はポリフェノールの美容効果を若い女性がどんな角度で捉えているかということで、芦沢は独特の切り口で鋭い発言をしていた。僕はポリフェノールの効果についてはある程度理解しているが、美容との関連という観点での議論になると、聞いていて「ふーん、そうなんだ」という程度の理解しかできず、議論に加わるのは荷が重かった。
「玲菜ちゃんには、少し無理があるみたいね」
三木リーダーに言われて
「はい、申し訳ございません」
と俯いた。
「じゃあ、今後の行動計画と役割分担についての協議に移ります。レナさん、玲菜ちゃん、ご苦労さま」
三木リーダーがご苦労さまと言う意味は、僕に会議室から退出せよということなのだろうか? 僕はどうしたらいいのか判断が付かず、オロオロしていたら、レナから
「玲菜ちゃん、行きましょう」
と促されて、やはりそういう意味だったのだと観念した。
僕は席に戻ると身体中から力が抜けてしまって、泣きたい気持ちになった。業務初日に同期入社の二人の前で無能のレッテルを貼られて、会議室から出されてしまったのだ。もうおしまいだ。男だから松岡と芦沢よりずっと有利だと考えたのは甘かった。三ヶ月を待たずに勝負がついてしまったのも同然だった。
「玲菜ちゃん、気を落とさないで。そりゃあ男の子だから化粧用語とか美肌の議論にはついて来れなくて当然よ。勉強したらすぐに追いつけるわ」
「どんな勉強をしたらいいんでしょうか?」
「私なら女性雑誌やファッション誌を片っ端から読んで、分からないところや興味のある点をネットで調べるわ。でも、仕事中に玲菜ちゃんに雑誌を読ませたら叱られるから、会議が終わったら三木リーダーに相談しましょう。私が一緒に話をしてあげる」
レナのアドバイスを心から有難いと思った。
「鬼の居ない間に、伝票関係の事を教えてあげる。会議が終わると総合職の人たちから色々言いつけられて忙しくなるから」
レナは僕の横に椅子を持ってきて、社内の伝票システムへのログイン方法と、入力方法について教えてくれた。数十ページのマニュアルを僕に渡して
「自分用にコピーを取っておきなさい」
と言われた。コピーを取るにはチームのコードと暗証番号を入力する必要があるとのことで、それも教わった。
チーム会議の会議室から僕あてに電話が入った。それは芦沢からで、お茶を出すように言われた。僕は同期の芦沢にお茶出しを命令されて頭に来た。レナは僕が顔を真っ赤にしている理由をすぐに見抜いた。
「玲菜ちゃん、トイレの神様という歌を知ってる?」
「母の好きな歌で、よく覚えています。『トイレにはそれはそれはキレイな女神様がいるんやで、だから毎日キレイにしたら女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで』ですね」
「心を込めてお茶出しをしたらキレイな女神様みたいにべっぴんさんになれるのよ」
レナの言葉に心を打たれた。
「はい、お茶出しの仕方を教えてください」
僕はレナについて給湯室に行き、お茶を五つ用意した。
「どの順番に出すか、分かってる?」
「はい、三木リーダーから初めて、偉い順番に出すんですね」
「そうよ。会議室に入ったら会釈すること。小声で失礼します、と言って出すこと。邪魔をしないようにそっと出すこと。配り終えたら、小声で失礼いたしました、と言って会釈してから退出すること。失礼しますという声を出すのが不適切と思える雰囲気の場合は、声に出さずに態度で示すこと」
「はい、じゃあ、お茶を出して来ます」
「一人で行けるのね?」
「はい、男ですから」
僕はお盆を持って会議室に行き、ノックをしてから深呼吸をしてドアを開けて、お辞儀をして入室した。課長の後ろに立って小声で失礼しますと言ってそっとお茶を出し、田淵サブリーダー、山村、松岡、芦沢の順でお茶を出した。芦沢に出す時はわざわざ
「失礼いたします」
と言って出した。
昼休みが始まる直前に会議が終わり、総合職全員が席に戻った。
「玲菜ちゃん、今日のお茶は特別に美味しかったわよ」
三木リーダーが皆に聞こえる声で言った。
「いつもレナさんが入れてくれるお茶も勿論美味しいけどね」
と付け足して微笑んだ。
「そのお気持ち、よく分かります」
とレナが答えた。
三木リーダーは坂口ユニット長から誘われて二人で昼食に出かけ、田淵、山村、松岡、芦沢の四人は僕のことなど眼中にない感じで一緒に昼食に出て行った。
「玲菜ちゃん、よかったら一緒に行こうか?」
レナが誘ってくれて、ファッションチームに配属になった同期の亜也とその上司の一般職の由美と一緒に、四人で外に出た。
会社の前の道路にお弁当屋さんの軽トラックが店を開けていて、十人ほどの女性の列が出来ていた。僕たち四人はその後ろに並んだ。自分の番が来て分かったのは、それはダイエットの惣菜が専門の弁当屋さんで、大人用と思えないほど小さなプラスティック・パックにカロリーの少なそうな料理が入っていた。僕は糸こんにゃくをお酢と醤油で和えて炒めたヌードルに、小松菜を添えたヘルシーなお弁当を買った。
僕たち四人はお弁当を持ってFPUのフロアーの小さな会議室に入った。
「お茶を入れて来ますね」
亜也が立ちあがったので僕もついて行って、給湯室で紙コップのお茶を四つ入れて二つずつ持って帰った。
「失礼します」
と言いながらレナにお茶を出すと、
「べっぴんさんになれるわよ」
とレナが微笑んだ。
四人は買ってきた弁当のパックを開いて食べ始めたが、誰もが小学生のような少量の弁当だった。おまけに僕のはコンニャクと小松菜が殆どで、ごく少量のミンチが混じっているだけだった。
「玲菜のは百カロリーぐらいかな?」
亜也が感嘆の声を上げた。
「昨日玲菜の体重を聞いて、負けたと思ったから、今日からダイエットしようと思ったのに、これじゃあ益々差が広がるわ」
「亜也はすっごく細くてスタイル最高だよ。新入社員研修で男子どうしが集まった時に、亜也のことばかり見ていたヤツが居たよ」
「それ誰? 今度その人も含めて合コンしようよ」
「僕も亜也を見て美人だなと思ってたんだよ」
「玲菜が? 嘘でしょう。玲菜に美人だなんて言われると、バカにされた気がして腹が立つわ」
「捻じ曲がってるなあ。僕がせっかく告白しているのに」
「いいわね、新入社員は夢があって」
亜也の上司の由美が溜息まじりに言った。
「入社五年目にもなると、同期の男子でまともなのは全員売り切れてるし、これから何を目指して生きていくのか、分からなくなることがあるわ」
「そうなのよ。同期としてまさにその気持ちを実感しているところよ。今更大学時代のボーイフレンドに声を掛けるのも面倒だし、もういっそのことレズになろうかと思うことがあるわ。うちの会社は特に三十代に優秀で魅力的な独身女性がゴロゴロしてるもの」
「坂口ユニット長はその筆頭ね。背も高いし、きりっとした横顔が素敵」
由美が憧れの溜息をついた。
「坂口ユニット長の場合は強敵が居ますよ。ユニット長は玲菜のことをお気に入りみたいだから」
亜也の発言を聞いて、レナと由美が僕を見てため息をついた。
「こんなピチピチの子と勝負しても勝てるはずがないわ。おまけに玲菜ちゃんは男だから絶対的に有利だし」
レナは僕の頭を叩く仕草をして、由美と亜也が真似をした。
「十五歳も上の人と結婚したら、あちらが主人で、僕が奥さんみたいになっちゃうじゃないですか」
僕が言うと
「あたりまえじゃない、玲菜が主人になるわけがないでしょ」
と三人が口を合わせた。
「玲菜も大変よね。松岡さんや芦沢さんみたいな優秀な人たちと同列に勝負しなきゃならないんでしょう。私だったら初めから逃げ出しちゃう」
僕は今朝の惨めな会議を思い出して、目に涙が浮かんできた。
「どうしたの? 私、玲菜を傷つけるようなことを言っちゃったかしら?」
亜也は僕の涙を見て慌てていた。
「実はこんなことがあったのよ」
レナが今日の出来事を細かく説明し、僕は思い出して、涙が溢れて来た。
「もう負けちゃったよ。僕、六月末で首になるのは間違いない」
泣きじゃくりながら言うと、レナが頭を撫でてくれたので、ますます悲しくなった。
「玲菜なら例え首になっても引っ張りだこよ。六月一杯はFPUに居られるんだから、それまで一緒に楽しく過ごしましょう」
亜也にそう言われると気持ちが楽になり、涙も収まった。
昼休みが終わり、僕はレナに言われてトイレで顔を洗ってから席に戻った。
総務部から
「ヘルス・チームの新入社員の名刺が出来たので取りに来てください」
と電話があった。
僕は初めて名刺を持てる喜びでウキウキしながら総務部に言ったところ、渡されたのは松岡と芦沢の名刺を二箱ずつだけだった。
「有村玲菜の分はありませんか?」
と聞いたら総務部の担当の人がモニター画面でチェックして、
「FPUからの依頼は二名だけです」
と言われた。
暗澹たる気分でFPUに戻り、松岡と芦沢に名刺を渡した。二人ともニコニコしながら
「いい気分ね」
とか
「名刺入れを買わなくっちゃ」
などと言い合っていた。
「松岡さんと芦沢さんの分しか依頼が出てないと言われました」
泣きそうな顔でレナに言うと
「玲菜ちゃんは当面は社内の仕事だけだから名刺は発注しないようにと上から言われたのよ」
とのことだった。僕は松岡と芦沢が羨ましくて仕方なかった。
一時十五分ごろ三木リーダーが坂口ユニット長と一緒に昼食から帰って来た。僕はレナと一緒に三木リーダーの所に行き、レナから僕の教育計画についての相談を切り出した。
「玲菜ちゃんの場合、女性の生活や行動に関する基礎知識が殆ど無いから、雑誌を読ませるのが手っ取り早いと思うんです。各年代層ごとの女性誌を隅から隅まで読ませてはいかがでしょうか」
「それはグッドアイデアね。じゃあ玲菜ちゃん、一日一冊、女性誌を隅から隅まで読んで、要点を書き出しなさい。スキンケア、メイク、トップス、スカート、下着、靴、バッグ、時計とアクセサリー、料理、外食、ダイエット、その他、ヨガとかウェッディングとか、主要なキーワードに注目して、日本の女性たちが現在何を欲しがっているのかという観点で書き出すのよ」
「玲菜ちゃんに合う雑誌から始めるのが良いわ。ViViあたりでどうかな?」
「ViViがピタリだと思います」
とレナが答えたが、横から芦沢が
「何も知らない子だからニコラかセブンティーンあたりから始めた方がいいんじゃないですか、精神年齢的にも」
と口を挟んだ。
「自分がOLになったつもりで、明日は何を着ようかなと考えながらViViを読むのが一番身につくと思うわ。じゃあ、一階のコンビニでViViを買って来て取り掛かりなさい。レシートを失くさないでね。今日は読むだけでいい。明日の夕方レポートを提出する事、いいわね。それからレポートは清書しなくてもいいから手書きで提出しなさい」
僕はコンビニの雑誌売り場でViViを手に取ってレジに持って行った。大学生のバイトと思われる女子店員が僕の頭の先から胸まで視線を走らせて無表情でレジを打っていた。
さあ、読むぞ。意気込んでページをめくった。モデル兼バラエティー女優のロングインタビュー記事から始まって、幅広くて面白い記事が満載だった。僕はエンターテインメント関係は詳しい方だ。モデル系女優が普段どんな服を着て何を考えているのかが身近に書かれていて、テレビを見るよりも興味深かった。女子会に関する記事、彼氏を作るためのアドバイスなど、同期の女子がどんなことを考え、何に興味を持っているのかが理解できた。
ファッション誌だから服に関する記事が最も豊富だが、単に洋服をカタログ的に載せてあるのではなく、組み合わせたり、着まわしたり、毎日苦労して明日はどんなにきれいになろうかと考えることを楽しむ気持ちがとても新鮮に感じられた。
夕方までに一通り読んだが、夢中になっていたのでメモを取るのを忘れていた。明日もう一度読むときにはしっかりメモを取ってレポートにする必要がある。
五時半になりレナが退社した。松岡と芦沢は必死の形相で仕事をしていたが、僕はViViを読む以外にすることがないので、三木リーダーのところに行って「お先に失礼してよろしいでしょうか」と聞いてみた。
「勿論よ。定時が来たら上司から残業命令が出ない限り、いちいち断らずに帰っていいのよ」
と三木リーダーが答えた。
「ViViを持って帰って家で読んでもよろしいでしょうか」
「どうぞ、勉強熱心ね」
「いえ、面白いから夢中になってるんです」
その時、田淵サブリーダーからうるさそうな視線を感じたので、僕は
「失礼します」
と言って退社した。
***
翌日は一日中ViViを読んで、要点を書き出しながら、三木リーダーから言われた、現在女性が欲しがっているものは何かという観点で、ああでもない、こうでもない、と一生懸命考えた。
昼過ぎに先輩社員たちが席を外して、たまたま芦沢と僕だけになった時、芦沢に耳元で言われた。
「仕事している横で嬉しそうにファッション雑誌なんか読まれたらイライラするわ」
「三木リーダーに言われた通りレポートを書いてるんだよ。芦沢さんだって、山村さんに教わって勉強してるんだろう?」
僕は腹が立って、厳しい口調で言い返したが、芦沢は僕の言葉を無視して書類を僕に渡した。
「これ、コピーを一部取ってから、原本を人事部に提出してきて」
「これは個人の提出書類じゃないか」
「山村さんから、一般職でもできることは自分ではするなと言われているの。私の依頼は受けられないというの?」
「僕は一般職じゃないよ」
と答えると
「レナさんのサブじゃなかったっけ?」
と言われた。もし断るとレナに迷惑をかけるかもしれないと不安になったので、芦沢から渡された書類をコピーして、原本を人事部に届けた。
席に戻ると、芦沢から
「今、人事から電話があって、記入漏れがあるから訂正してほしいんだって。すぐに人事に行って書類を取り戻してきて」
僕はむかっ腹が立ったが、やはりレナに迷惑をかけたくないので黙って人事に行こうとした。
「玲菜、返事は? 命令を受けたら返事しなさい」
と芦沢に言われ、唇を震わせながら
「はい、わかりました」
と答えた。
人事部にもう一度行って書類を受け取り、FPUに戻ると、田淵サブリーダーと松岡が席に戻っていた。僕はわざと彼らにも聞こえる声で、
「芦沢さん、ご命令通り人事部から書類を受け取ってきました」
と言って書類を渡した。
芦沢はバツが悪そうな表情で僕から書類を受け取った。その後、僕に人事に持って行けとは言わず、しばらくして席を外した。きっと自分で持って行ったのだろうと思った。
***
「さっきの芦沢さんとのいざこざ、見てたわよ」
しばらくしてお茶出しを言われて給湯室に行ったとき、亜也に言われた。
「ひどいんだよ、あいつ。個人的な書類を人事部に届けるために、僕を二回も使い走りさせたんだよ。田淵さんたちが席に戻らなかったら三回目も行かされる所だった」
「総合職から指示を受けたら従うのがあたりまえよ。同期だからって対抗意識を持って腹を立てる玲菜の方が悪いわ。そんなことをしていたら、わがままな子と思われるだけよ」
「僕の方は対抗意識なんて持っていないのに。まあ、腹を立てたのは大人げなかったかな。だけど芦沢さんと僕は同期の総合職だし、芦沢さんは僕の上司じゃないよ」
「玲菜はレナさんのサブだから今も給湯室に来てるんじゃないの? ということは由美さんのアシスタントの私と全く同じ立場よ。先輩でも同期でも総合職の人から指示を受けたら素直に従わなきゃだめよ」
亜也が僕を一般職と同列と考えていることを知って驚いた。
「玲菜にはガス抜きが必要ね。私、今日はふさがってるけど、明日の夕方はどう? 沙希も誘ってみるわ」
僕は心の中でガッツポーズをした。亜也の方から誘ってくれるとは超ラッキーだ。
「いいね、じゃあ明日デートね。約束だよ」
と僕が言うと、亜也は
「ぷっ、デートだなんて」
とつぶやいた後
「場所は私に任せて、じゃあ明日ね」
と言って給湯室から出て行った。
ViViのレポートは「夏のファッションはコーデがポイント!」という題名にして、簡単なイラストを含めて三ページにまとめた。実は「コーデ」という用語はViViを読むまで聞いたことがなかった。単に服の組み合わせということではなく、例えばスカートとブラウスとカーディガンを組み合わせる際に、自分の身体や顔の特徴を活かして美しく見せるために新しいものを創造する、ということが「コーデ」なのだ。僕たち男性にとっての服選びよりも遥かに奥が深く自由で千変万化な世界だと思った。僕はViViを読んだおかげで自分の世界が広がったと感じたので、そんな機会を与えてくれたことへの感謝も書き記しておいた。
レポートは三時ごろに書き上げた。まずレナに見てもらった。
「ViViを読んでべっぴんさんになったわね。提出してきなさい」
レナに優しい笑顔で褒められて嬉しかった。
僕は三木リーダーの席に行って
「ViViのレポートです」
と提出すると
「レナさんには見せたの?」
と聞かれたので
「はい、今見ていただきました」
と答えた。
しばらくして三木リーダーから
「レナさん、玲菜ちゃん、ちょっと来て」
と声がかかった。
「レポートを読んだわ。内容的には未熟だけど、女性の世界を学ぼうとする姿勢は評価できる。結構いい感性も認められた。教育効果としてよかったから、しばらく続けてみたいと思う。レナさん、それでいいかな?」
「はい、私も同感です」
とレナが答えた。もう少し褒めてくれると期待していたが、一応不合格ではないという感じの言い回しだったので、社会人は甘くないのだと実感した。
「次は年齢を落としてセブンティーンでも読ませるのがいいかな? それとも逆にアップしてVERYあたりでどうかしら」
「玲菜ちゃん自身が持っている教養や感性をベースにして、もし自分が今OLだったらどんな服を着てどんなお化粧をするかという気持ちで、自己形成させる方が、聞きかじりの知識を詰め込むよりも効果的だと思います。ViViのバックナンバーを読ませてもいいのですが、玲菜ちゃんをViViガールにしてしまうといけないので、とりあえずノンノを読ませましょう。そのレポートを見て次の教材を選べばよいと思います」
「さすがレナさん。ご意見の通りだと思うわ。じゃあノンノにしましょう。期限は明日で良いかな?」
「いいえ、丸一週間与えてください。気を散らせるより、じっくりと何度も読ませて浸ってもらうことで、深い理解と共感を得ることが期待できます。表面的な知識を与えても役に立ちませんから」
「分かった。じゃあ、毎週木曜日にレポート提出ということにしましょう。玲菜ちゃん、何か言っておきたいことはある?」
「あのう、雑誌は自分のお金で買っていいでしょうか。ViViは自分のものとしてずっと家に置いて好きなときに読み返したいですし、自分の本なら通勤中も読めます」
「新入社員の給料では大変じゃないの?」
「これまではビッグコミックとか少年ジャンプなどの漫画雑誌を毎日のように買って電車の中で読んでいましたけど、ViViなら一週間は持ちます。ですから却って節約になると思います」
「じゃあそうしなさい。ただ、その場合は次にノンノを読むことは命令じゃなくてアドバイスということになるわね」
「はい、三木リーダーとレナさんに毎週アドバイスしていただけると、とても助かります」
暖かい気持ちで席に戻った。三木リーダーがレナを高く評価し、信頼して僕の指導を任せている気持ちがひしひしと伝わって来た。それは、松岡を田淵サブリーダーに、芦沢を山村に委ねるのと同列であり、僕はレナの部下になって幸運だったと思った。今後は芦沢から何を言われても、レナのためだと思って何でも笑顔で実行しようと決意した。
第三章 喜び組
翌日の金曜日、田淵グループに急な仕事が入り、レナは三木リーダーから、特別に田淵グループのアシストをするようにという指示を受けた。
僕は松岡がCM企画の資料を作成する手伝いをするようにとレナに言われて、松岡の雑用を手伝った。
「玲菜ちゃん、これコピーを十部お願い」
松岡に言われて
「はい、十部ですね、わかりました」
と笑顔で答え、コピーをして手渡すと、松岡は僕の目を見て
「ありがとう。悪いわね、同期なのにコピーなんか頼んで」
と言った。同じ同期でも芦沢とは大違いだ。
松岡は僕にコピーや届け物を何度か依頼した後、
「これ、パワーポイントで作った配布資料だけど、レイアウトを直して見映えを良くしたいんだ。玲菜ちゃん、できるかな?」
と言った。単純作業ではなく、松岡自身の作業を僕に分担させてくれるのだ。僕は松岡の心配りがありがたくて、その場で松岡に抱きつきたい気がした。
「はい、松岡さん。是非僕にやらせてください」
僕は画像関係の処理には自信があった。その資料を見ると、女子高生の写真のスカートが前方になびいているせいで、写真の配置に無理が生じ、それがレイアウト全体のバランスを損ねていると感じた。僕はパワーポイントファイルから女子高生の画像を抜き出し、フォトショップでスカート部分を切り出して左右を反転させ、スカートが後ろになびく画像にした。微妙なタッチアップを加えて、パワーポイントに戻した。後は文字の位置を少し直すだけで、非常にバランスの良い資料が出来上がった。そのファイルを共有フォルダーに戻してから、松岡に見せるために一部プリントした。コピーのコストを節約するために白黒で印刷した。
「松岡さん、出来ました」
と言ってその紙を渡した。
「素晴らしい! 玲菜ちゃんてセンスあるのね。本当に助かったわ」
松岡はそう言って自分の作業に戻り、一時間ほどして資料を完成させた。
「玲菜ちゃん、このファイルネームで共有フォルダーに入れたから、カラーで三十部プリントしてセットしてくれる? 大変だけど、やってもらってもいいかな?」
「はい、松岡さん、三十部ですね」
僕は十二ページの配布資料を三十部カラー印刷して、ホッチキスでセットした。
「ごくろうさま。午前中に完成して助かった。玲菜ちゃんのお陰よ」
心からお礼を言われたと感じられる口調だった。
昼休みに前にトイレに行った帰りに亜也とすれ違った時、
「沙希も来るって。五時半すぐに出るわよ」
と言われた。丁度芦沢が通りかかり、バカにしたような視線を向けられた。
「芦沢さんなんか誰も誘わないよ」
と心の中で悪態をついた。
昼休みが終わり、夕方のデートのことを楽しみにしながらノンノを読んでいると、田淵サブリーダーが突然大声で叫んだ。
「ナニ、コレ!」
田淵サブリーダーは僕がセットした資料を手に持っていたが、松岡の机の上にそれを叩きつけた。松岡はそのページを見て真っ青になった。
「玲菜ちゃん、ちょっと来て」
低くて怖い声だった。
「スカートの部分だけが左右反転してるわ。どうしてこんなことをしたの?」
「スカートが前になびいているためにレイアウトに無理があったので、スカートだけを取り出して反転させました」
「今すぐ元の画像に差し替えて、そのページを三十部カラーでプリントしなさい。五分以内に」
松岡に叱りつけるような口調で命令され、僕は急いで作業に取り掛かった。その間に、松岡は真っ赤な顔をして、僕がセットした三十部のホッチキスを外す作業をしていた。
「間に合うかな?」
田淵サブリーダーが心配そうに時計を見ていた。
「タクシーで行けば間に合うと思います」
僕は出来上がったものを一部プリントして松岡に持って行き、松岡はそれを田淵サブリーダーに見せて「これでいいわ」と承諾を得た。僕は三十部カラーコピーして、松岡がそのページを差し替えるのを手伝った。
「何がいけなかったんでしょうか?」
「女子高生をターゲットにした広告にスカートのプリーツが右回りになった画像を使っていいと思ってるの? 知らなかったじゃすまされないわよ。本当に、使えないわね」
セットし直した資料をカバンに入れて、田淵と松岡は飛び出して行った。
僕は松岡に「使えない」と言われて頭をハンマーで殴られた気がした。席に戻ると目に涙が滲んだ。レナは僕の様子に気づき、
「玲菜ちゃん、ちょっと来て」
と給湯室に連れて行かれた。
「プリーツスカートは左送りと言って、プリーツの方向が反時計回りになっているのよ。稀には時計回りのプリーツもあるけど、あの資料に時計回りのプリーツの画像を使うことは考えられないわ。松岡さんが頭に来るのは当然よ。身内に足を引っ張られた気持ちになったんでしょうね。でも、田淵サブリーダーが気づいたから助かった。玲菜ちゃんはラッキーだったのよ。とにかくこれから勉強を重ねて、ミスをしないようにするしかないわ」
「はい、一生懸命勉強します。でも、松岡さんから、使えないと言われてしまいました。僕はもう、大事なことは手伝わせてもらえなくなるんでしょうか……」
「そんなことないわよ。松岡さんの機嫌はすぐに直るわ」
僕は涙目にティシューを押し当ててから席に戻った。
田淵サブリーダーと松岡は五時過ぎに客先から戻った。三木リーダーが「どうだった」と声を掛け、田淵サブリーダーが「上々です」と答えた。松岡も笑顔だった。
僕は松岡の横に行って深く頭を下げた。
「今日は大変なミスをして足を引っ張ってしまって申し訳ございませんでした。これからはもっと勉強をして二度とあんなミスはしないようにしますからお許しください」
「気にしないで。丸投げした私も悪かったのよ。ただ、今後は黙って勝手に変えたりせずに、変更内容は事前に了承を取るか、少なくとも何を変えたかを報告するのよ」
「気にしないで」と言われても、松岡にまだ怒りが残っていることは明白だった。
「本当にすみませんでした」
僕はもう一度頭を下げた。
「松岡、芦沢、それに玲菜ちゃん。今晩、空いてる? たまには一緒に飲もうか」
田淵サブリーダーが飲みに誘ってくれている。亜也と沙希との先約がなければ飛びつきたい誘いだった。
松岡と芦沢が「よろしくおねがいします」と即座に返事した後、僕は小声で断るしか無かった。
「すみません、僕、先約があって……」
「玲菜ちゃんは五時半丁度に出なきゃならないんだよね。一般職どうしでケーキを食べに行くんだっけ?」
と芦沢が意地悪な口ぶりで言った。
「そう、残念ね。じゃあ玲菜ちゃんはまた今度ね」
僕はむしゃくしゃした気持ちで五時三十分丁度に「失礼します」と言って退出したが、会社の玄関を出た時には元気を取り戻していた。同期入社の女子で美人ランキングの上位に入る亜也、沙希と、一対二でのデートだからだ。
数分して亜也と沙希が出てきた。
「お待たせ! 玲菜が五時半になった瞬間に席を立つのが見えたから急いで出てきたのよ。制服を着替える分、遅くなったけど。玲菜は一般職の仕事をしていても男の子だから制服を着なくていいから便利ね」
亜也は僕が一般職と言われると怒ることを知っていて、意地悪な冗談で僕を困らせようとする。
「僕は総合職なんだって言ってるだろう」
「六月末まではね、うふふ。七月から一般職にされて、私たちと同じ制服を着ることになるという噂よ」
「だ、誰がそんなことを言っていたの?」
「教えてあげない」
「たのむ、お願いだから教えて」
「じゃあ教えてあげる。その噂をしていたのは私と沙希よ」
「なぁんだ」
亜也が僕を連れて行ったのは会社から徒歩五分ほどの所にある創作料理の居酒屋だった。
「吉岡です。六時から三名の予約ですが、早めに来ちゃいました」
イケメンのウェイターに通されたのはフロアーの隅の仕切られた一角で、個室ではないが周囲の席からは見えない、居心地の良さそうな四人席だった。
僕たちは赤のハウスワインのピッチャーとおつまみを注文した。
「会社の近くだけど、この席なら安心して噂話ができるわね」
沙希も僕と同じ印象を持ったようだ。
「でしょう。この席からは店の中が見えるのに、周りの席からこの席は見えない、最高の場所でしょう。予約の時にリクエストしておいたのよ」
と亜也が自慢した。
「今日は私と沙希から、玲菜に折り入って頼みがあるんだ」
「何だよ、改まって」
「同期の男子社員の集まりがあるという噂を聞いたけど、玲菜も行くの?」
「ああ、来週の火曜日に集まれというメールが届いていたな」
「吉澤和樹さんと、古舘慎吾さんって知ってる?」
「うん、知ってるよ。吉澤君とは同じ大学だよ。古舘君は新入社員研修で話しただけだけど」
「実は、吉澤さんと古舘さんと私たちとの合コンをセットして欲しいの」
「どうしてあの二人なの? 吉澤君は僕と同じぐらいの身長しかなくて体重は倍近いんだよ。古舘君はブスッとしていて愛想が悪いしガマガエルみたいな顔だ」
「とにかく、私は吉澤さんと、沙希は古舘さんにアプローチしたいの。協力してよ」
僕は一対二のデートのつもりで来たのに、他の男性との取り持ちを頼まれるとは最悪だ。
「吉澤君の身長でも良いんだったら、僕じゃダメかな? 僕、新入社員研修で始めて見た時から、亜也と沙希には憧れていたんだよ」
「私もひと目見て玲菜とお友達になりたいと思ったわ。玲菜はお友達として大好きだけど、婚活という意味では吉澤さんに早めにアピールしたいの」
「沙希は? 古舘君は百七十センチあるけど、話していて僕の方が楽しいと思うよ。僕の身長では無理かな?」
「玲菜は同期入社で一番可愛いし、私も玲菜とは親友になれると思ってる。でも旦那にするタイプじゃないの。ごめんなさい」
勇気を出して二人に告白したのにあっさりと断られてしまい、僕は落ち込んだ。
「ねえ、親友のよしみで合コンだけセットして、お願い」
亜也に食い下がられては、何もしないわけにはいかない。
「じゃあ、セットするから、僕の相手になりそうな女性を連れて来てよね。僕を入れて男子は三名だから、女子も三名じゃないと合コンにならないだろう」
「玲菜の相手は簡単に見つからないわ……」
そんなことを言われるとは予想していなかった。
「僕ってそんなに嫌われてるの?」
「嫌われてなんかないわよ。好かれ過ぎてるというか……」
「そうだ、君原凛さんはどうかしら」
と沙希が両手を叩いた。
「君原さんとは小学校が一緒だったの。小学校の時には私より小柄で、勉強も私の方が上だったのよ。新入社員の名簿の君原凛という名前をみてアレッと思ったけど、東大卒と書いてあったから別人と思っていたの。でも新入社員研修で君原さんから呼びかけられて驚いたわ。見上げるほどの長身で、宝塚の男役みたいな格好いい人になってた。百七十五センチと言ってたわ。君原さんは玲菜ちゃんのことをチラチラ見ていて、名前をチェックしていたから、合コンに呼べばきっと来るわよ」
「ああ、あの人なら私もタイプだわ。玲菜ちゃんにはピタリね」
「百七十五センチの美人がタイプの亜也ちゃんが、どうして吉澤君を指名するのさ? わけわかんないよ」
「結婚と恋愛は別なのよ」
「百七十五センチというと松岡さんより大きいんだろう。僕といると男女が逆みたいじゃないか。恥ずかしくてデートも出来ないよ」
「そうそう、松岡さんも玲菜ちゃんの婚活相手としては最右翼よ。玲菜ちゃん、今日、松岡さんに叱られて泣いていたでしょう」
「僕が酷いミスをして松岡さんの足を引っ張っちゃったんだ。でも泣いてなんかいないよ」
「嘘言っても知ってるわよ、給湯室に泣きに行ったってことは。それはそれとして、松岡さんって女子美術大卒だけど、すごく頭が良さそうな感じがしなかった?」
「そう、すっごく賢い人だよ。学歴と賢さとは話が別だからさ」
「そうでもないのよ。松岡さんは京都大学の文学部を首席で卒業したけど、美術に興味を持って女子美に学士入学したんだって。身長も百七十四センチだし、君原凛さんに負けないわ。松岡さんは時々玲菜ちゃんをチラチラ見てるわよ。玲菜ちゃんも松岡さんが好きなんでしょう?」
「今日、嫌われちゃったよ。でも、変なこと言わないでくれよ。僕は亜也ちゃんや沙希ちゃんみたいな綺麗で可愛い女性をお嫁さんにするつもりなんだから」
「せっかく可愛く生まれたんだから、自分を高く売る方が賢明だと思うけど」
沙希はそう言った後、右手の人差し指を唇の前に立てて「しーっ」と言った。
「今、この衝立の向こうの席に、松岡さんたちが座ったわ。玲菜ちゃんの後ろ側よ。聞こえるから、ひそひそ声でしか話しちゃダメ!」
沙希は首をすくめて囁いた。
田淵サブリーダーが松岡と芦沢を誘ってここに来たのだろう。
「松岡さんと、上司の田淵さん、それに玲菜ちゃんと相性抜群の芦沢さんの三人よ」
「つまらない冗談を言うなよ。芦沢という名前を聞くだけでもムカつくんだから」
***
衝立の向こう側の三人は僕たちに聞こえているとは夢にも思わずにビールを注文して、大きな声でしゃべり始めた。田淵サブリーダーのおごりだろうから、きっとお説教が中心の話になるのだろう。
「松岡と芦沢に一つだけ注意しておきたいことがあったから誘ったのよ」
田淵がしゃべり始めたが、やはりお説教のための飲み会なのだ。刑事ドラマのように女性上司が女性の部下を苗字で呼び捨てにするところがカッコいいと思った。
「君たちの玲菜に対する発言や扱いには配慮が欠けてる。二人とも玲菜に対して厳しすぎるわ。今日、松岡が玲菜に『使えない』と言うのが聞こえたわよ。あれを言っちゃあお終いよ。夕方の叱り方としてはあの程度で良いけど、玲菜みたいな子を厳しく叱る時には別室に連れて行くとかの配慮が必要よ」
僕を玲菜と呼び捨てにして、無能な部下の扱い方を教えるような話を聞いてカチンと来た。
「確かに仰る通りです。今日は忙しい時にあんなことをされて、ついかっとなってしまいました」
「それ以上に芦沢の玲菜に対する露骨な虐めは目に余るわ。自分より弱いものに対する配慮が足りない。一般職の仕事を命じる時に玲菜を見下す態度があからさまに出ている。あんな態度では芦沢自身が評判を落とすよ」
「こっちが必死の思いで仕事をしている時に横でチャラチャラとファッション誌を読んだり、三木リーダーと話す時に子猫みたいな声で取り入ろうとするのを聞くと、頭に血が上るんです」
「ミキミキはユニット長を意識して玲菜の扱いに配慮をしているのよ。玲菜は上司に取り入ることにおいては天然の素質があるわね。玲菜はミキミキに対しても、レナさんに対しても、ずばっと懐に飛び込んでドキッとするような発言が出来る子だわ」
「田淵さん、分かってくださいよ。私たち三人はライバルなんですよ。六月末には三人のうち一人が篩い落とされるんです。だから私だって必死なんです」
「分かってないわね。FPUの場合、新入社員三人が競い合って二人が残ることにはなっているけど、それはあくまで建前よ。出来レースであることはミエミエじゃない」
「出来レースって、どういう意味ですか?」
「今年採用した男子十二名のうち業務能力や才能で選んだのは三人だけで、残り九人は喜び組よ。その三人が誰かは写真を見れば一目瞭然でしょう。喜び組九人のうち六人は脳みそ空っぽの長身のイケメンで、三人は一般職の制服を着せればお化粧なしで女で通るような可愛い子ちゃん。玲菜はどう見ても後者の代表よ。役員面接の部屋に入って来た瞬間に社長がガッツポーズをしたらしいわ。入社研修の時の選考会議で奪い合いになったのを、うちのユニット長が勝ち取ったそうよ」
「喜び組については噂を聞いたことがありますが、何を目的としてそんな男性を雇うんですか?」
と松岡が質問した。
「社員のやる気を出させるためよ。きれいな男の子が笑顔を見せてくれたら、何となく嬉しいでしょう。女性だけだと刺々しくなる職場に、イケメンや可愛い系の男の子が居ると雰囲気が良くなるからよ。男性に何を求めるかは人それぞれだけど、キャリア志向の社員が自分の命令に従うきれいな男の子を奥さんにしようと思ったら手近に喜び組が居ると便利じゃない」
「実際にそんなカップルが成立しているんですか?」
「可愛い系は毎年二~三人採用してるけど、そのうち一~二名は入社二年以内に売れてるわね。四十代の社員がペットにする場合が多いみたい。イケメン系は入社後三年ほど職場の花にして、その後は関連会社にポイになる場合が多いわ」
「そうですか、玲菜はペットになる運命なんですか。本人はそんなことは知らずに可愛い顔をして私たちと競争してるつもりになってるんですね」
芦沢の言葉には僕を見下して、まるで「いい気味だ」と言うトーンが感じられた。
「そんなことに気づかない脳ミソの子だから採用されたんでしょ。よかったら君たちがペットにしてもいいのよ。家事をまかせて仕事に集中できるし、家にあんな可愛い子がいたら楽しいわよ。但し、玲菜の場合はユニット長のお気に入りだからくれぐれも慎重に。まあ、冗談はとにかく、玲菜をライバルとして蹴落とす必要は全くないということよ。むしろ自分より明らかに劣る玲菜を助けてやる度量を示す方が君たちの評価が上がる」
「六月末に私たち二人が正式採用になると、玲菜はクビになるんですか?」
松岡が心配げに聞いた。
「まさか。ユニット長の権限は絶大なのよ。お気に入りの可愛い子をクビにするはずがないでしょう。特別枠で追加採用してユニット長専属のアシスタントにするとか、いくらでも方法はあるわ」
三人はかなり速いペースで生ビールを何度か注文し、酔いが回ったことが聞いていて分かるようになった。そのうちに下ネタも混じるようになり、僕の身体の見えない部分に関する冗談を言い始めたので僕は怒鳴り込みたい気持ちになった。
***
松岡たちが早々と店を出た時、僕たち三人は大きなため息をついた。
「気を落としちゃだめよ」
それまでは亜也と沙希が僕に向かい合って座っていたが、俯いて泣いている僕の横に亜也が来て肩を抱いてくれた。
「喜び組だなんて、ひどい……。そんな扱いを受けることが分かっていたら、こんな会社には来なかったのに」
「やっぱり、知らなかったのね」
「亜也や沙希は知っていたの?」
「新入社員研修が終わった後で噂を聞いて知ったわ。もし知っていたら、新入社員研修の時にマジ組の男子社員三人にアプローチをかけたんだけど」
亜也と沙希は二人とも同じことを気にかけているようだった。
「総合職の人たちからペット候補と見られてるなんて、僕、死にたい」
「バカなことを言っちゃダメ。玲菜は一応総合職の資格なんだから、仕事で頑張って見返せばいいのよ。喜び組でも中にはマジ組に負けない男子も居るんだって証明しなさい。玲菜の場合はルックスを武器として上司に取り入ることができるし」
沙希の言うことには道理が通っていた。
「理屈ではそうかもしれないけど、松岡さんと僕が争って勝てると本気で思ってるの? 芦沢さんだって、実力がどれほどだかは分からないけど、あんなネチネチとしたド根性剥きだしのデカイやつと戦って、僕が勝てるはずがないだろう」
「ああそう、その通りよ。誰がどう見ても玲菜が負けるわよ。そんな気持ちだったら早めにユニット長に相談して一般職に転換してもらったら? せっかく私たちが応援してあげようと思ってたのに」
亜也の厳しい非難を聞いて、僕は自暴自棄な発言をしてしまったことを後悔した。
「ごめんなさい。僕、負けることは分かっているけど、最後までギブアップせずに頑張る」
そうは言ってはみたものの、実際にどうすればいいのか具体的なアイデアは無かった。
「田淵さんたちの話が聞こえて、自分の立ち位置が分かってよかったと思えばいいのよ。だから元気を出して、君原凛さんと会ってみなさい。君原さんと松岡さんに奪い合いさせて勝った人に身を捧げるなんてロマンチックじゃない。とにかく合コンのセッティング、頼りにしてるわよ」
「なあんだ、結局それが言いたかったのか……」
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