魂の終着駅
もし天国が牢獄で、愛する我が子がその鍵だとしたら?
原作:A Glitch in Forever
A Mind-Bending Novel of Love, Grief, and Time Travel
by Yulia Yu. Sakurazawa
第一章 不在のコーラス
じりじりと肌を焼くような熱気の中、蝉たちが命を燃やすように鳴いていた。無数の翅が互いをこすり合わせるその音は、もはやコーラスというよりは、一つの巨大な叫び声となって空気を満たしている。
リンジーは、まるで金床を直接殴りつけられているかのような頭の痛みで目を覚ました。口の中は乾ききった革のようで、胃の底からはゆっくりとした不快な吐き気がせり上がってくる。もう若くはないのに、昨夜は少し飲みすぎた。
彼女の手が、それ自身の記憶を持つ生き物のように、ベッドの上を滑った。隣にあるはずの、馴染んだ夫の身体の重みを求めて。だが、そこにあったのは、ひやりとしたシーツが作る皺の連なりと、彼がいるべき場所にぽっかりと空いた空虚だけだった。
(ロブ?)
瞼をわずかに開くと、ブラインドの隙間から差し込む朝の光が、鋭い凶器のように目を刺した。再び固く閉じる。ああ、本当にうんざりする、この真夏の日々は。ふと、記憶の残滓が脳裏に浮かんですぐに消えた。何年も前、冷たい小さな足が布団の中に潜り込んできて、細い身体がそっと寄り添ってきた感触。息子のハドリアンだ。彼女は深くため息をついた。その音は、部屋の重い沈黙に吸い込まれて消えた。
ベッドの端に身体をずらし、ナイトテーブルの上のミネラルウォーターを探す。指先に触れたのは、つるりとした冷たいガラスの感触。ワインの空き瓶だった。それはぐらりと傾き、ことん、と虚しい音を立てて横倒しになった。昨夜のすべてを物語る音だった。
「ねえ、お水取ってくれる?」
喉にひっかかるような声で言ってみる。
返事はない。ただ、どこまでも続く蝉の甲高いコーラスだけが響いていた。
(あの人は、どこにいるの?)
彼がいつもセットする六時半のけたたましいアラームが鳴った記憶はない。リンジーはのろのろとベッドから身体を引きずり出すと、半ば無意識の習慣で、ナイトテーブルに置いてあった結婚指輪を指にはめた。水分が抜けた指には、少しだけ緩い気がした。時計の針は、ようやく七時を過ぎたところ。彼が仕事に行くには、まだ早すぎる。
胸に生まれた小さな不安の蕾を、無理やり摘み取る。身体の要求の方が切実だった。ハムとトースト、オリーブとトマト。新鮮なオレンジジュース。氷を浮かべたペパーミントティー。そして、この頭の霧を焼き払うための、濃いブラックコーヒー。キッチンへ向かおうとした彼女の目に、廊下のマホガニー材のキャビネットが映った。その扉が、まるで静かなあくびのように、半開きになっていた。
中を覗き込み、息を呑む。
そこは、ロブの聖域だった。彼が唯一誇り、大切にしていたアンティークのコレクションが収められた宝箱。古代ローマのコイン、ジョージ王朝時代のモーニングリング、ヴィクトリア朝の香水の残り香がかすかにする銀のロケット。彼の自慢のコレクション。
それが、すべて消えていた。
「アンティークは……どこ?」
声にならない声が漏れた。
最初に浮かんだのは、シンプルで、ある意味では安心できる単語だった。強盗。
アドレナリンが、冷たく鋭い刃物のように二日酔いの気だるさを切り裂いた。彼女は裸足のまま、冷たい木の床を叩いてハドリアンの部屋へ走った。ドアが少しだけ開いている。押し開けると、氷の拳が心臓を鷲掴みにするような感覚に襲われた。部屋は、時間が止まった博物館のように、何一つ変わっていなかった。カーテンは引かれ、小さなベッドは整えられている。隅にはぬいぐるみたちが積み重ねられ、枕の上には、片方がボタンの目になった使い古しの「おやすみモンキー」が、帰らない少年を待っていた。
息子へのどうしようもない思慕が胸を蹴り上げたが、今はそれを押し殺す。目的があった。本棚の隅に、耳が少し欠けたピンク色の陶器の豚が置いてある。彼らの「もしも」の時のためのお金を貯めておく場所だった。リンジーはそれをひっつかみ、逆さにして振った。何も出てこない。指をスリットに突っ込む。空っぽだ。紙の財産は、きれいに抜き取られていた。豚の描かれた目は、無垢で、感情のない表情で彼女を見つめ返した。
パニックが喉元までせり上がってくる。玄関へ走った。内側からかけられた鍵。ドアロックの周りに傷一つない。夜風を入れるために開けておいた窓も、すべて防犯用の安全バーが閉まっている。
この家は、密閉された容器だ。何者かが侵入した形跡はない。つまり、ここから出て行ったものは、そして出て行った誰かは、鍵を持っていたということになる。
キッチンに引き返し、震える手で機械的にコーヒーの準備を始めた。日常の儀式をこなすことで、どうにか平静を保とうとしていた。濃い液体がポットに落ちていくのを眺める。その豊かな香りは、荒れ狂う胃をなだめるにはあまりに無力だった。
彼は酔っていた。ハドリアンの命日だった。彼は怒っていた。自分に、世界に、そしてきっと、私にも。だから、いちばん価値のあるものをバッグに詰めて、現金を持って、どこかのホテルで頭を冷やしているんだ。そうに違いない。そうでなければならない。口に出さなかっただけで、これは喧嘩なのだ。午後には電話がかかってくるだろう。申し訳なさそうな、恥ずかしそうな声で。そして、彼は帰ってくる。
きっと。
彼女はカウンターに寄りかかり、熱いマグカップを唇に運んだ。数分前に、祈るような気持ちで指にはめた結婚指輪を、そっと回す。静まり返った家の中で、その金の輪は、まるで手錠のように重かった。
外では、蝉たちが、ただひたすらに鳴き叫んでいた。
第二章 公式なルート
太陽が空を登り、じりじりと肌を刺すような朝は、やがて容赦のない午後の熱波へと変わった。家の壁を通して熱が染み込み、部屋の空気は重くよどんでいる。リンジーは何時間も、まるで自分の人生の考古学者になったかのように、必死で几帳面に、手がかりや書き置き、何かしらの理由を探し回った。彼の靴下の引き出し、冬用コートのポケット、地下の作業場のごちゃごちゃした棚。何もない。それはまるで外科手術のように正確で、意図的な不在だった。
午後二時になる頃には、静寂はもはや単なる音の欠如ではなかった。それは部屋に満ちる確かな存在であり、彼女に重くのしかかっていた。「ホテルで頭を冷やしているだけ」という、シンプルで論理的なはずの説明は、彼のヴィドフォンへの応答がないコールが繰り返されるたびに、その端からほつれていった。呼び出し音の先に待っているのは、いつも「おかけになった電話は、現在お使いになれません」という、平坦で、感情のない自動音声だけだった。
遂に、何時間も前にすべきだったことを実行する。彼の職場に電話をかけた。スクリーンが明滅し、いつも陽気な秘書のクロエが、何かを咀嚼している最中の顔で映し出された。見たところ、トリュフチョコレートのようだ。
「んー、リンジー、どうしたの?」クロエの声は蜜のように甘ったるい。
「こんにちは、クロエ。ロブはそこにいる?」リンジー自身の声が、まるで他人のもののように、脆く響いた。
秘書は、上品で、手慣れた仕草で飲み込んだ。「彼、言ってなかった? 昨日、辞めたのよ」
世界が傾いた。キッチンの床が、足元から崩れ落ちていくような感覚。彼女はカウンターの端を掴んで、どうにか身体を支えた。「うそ」その一言は、小さく、命のないものだった。「そんなはず、ない」
「あら。気まずいわね」クロエはもう一つトリュフを口に放り込んだ。「ええ、二時ごろに来て。デスクを片付けて、最後の給料を受け取っていったわ。『もっと大きくて、素晴らしいことを始めるんだ』って。お別れのプレゼントにって、このトリュフをくれたの。『君には何か甘いものが必要だ』ですって」
リンジーの手が震え始めた。その震えは腕を伝って全身に広がる。「もっと大きくて、素晴らしいこと」。その言葉は、平手打ちだった。彼には計画があったのだ。これは酔った勢いの行動じゃない。これは、逃亡だ。
「ありがとう、クロエ」彼女は、喉が締め付けられるのを感じながら、どうにか言葉を絞り出した。クロエが何か同情めいた言葉を口にする前に通話を切る。スクリーンは、もぐもぐと咀嚼を続ける彼女の無表情な顔を最後に、真っ暗になった。
この家は、彼女の家は、突然、事件現場のように感じられた。ロブはただ出て行ったのではない。彼はまるで外科医のように、自分たちの共有された人生から、自分という存在を正確に切り取ってしまったのだ。
次の電話は、スージーにかけた。親友の顔がスクリーンに映る。その表情には、すでに心配の色が浮かんでいた。リンジーは多くを語る必要はなかった。
「昨日の夜から、彼がいないの」
そう言うと、彼女の自制心のダムは決壊した。アンティークが消えたこと、貯金箱が空だったこと、職場への電話のこと。物語が、堰を切ったように溢れ出した。
「ああ、リンジー……」スージーの声は、柔らかい軟膏のようだった。「彼はただ……休みたかっただけじゃない? 命日になると、彼、いつもああなるじゃない」
「でも、仕事を辞めたのよ、スージー。価値のあるものは全部持っていった。これは休暇なんかじゃない。まるで……終わりの合図みたい」
静かで、恐ろしい問いが、二人の間に漂っていた。その問いに声をあたえたのは、スージーの勇気だった。「リンジー……彼が……馬鹿なことをするなんて、考えてないわよね? 昨日の夜の後で……」
断片的な記憶の中の、バルコニーでのロブの姿が脳裏をよぎる。ハドリアンのために泣き叫び、手すりに身を乗り出していた姿。それは鋭く、恐ろしい光景だった。「ないわ」彼女は、あまりに速く言い過ぎた。「彼は自殺なんてしない。彼の信仰が……彼がそれを許さない」。だが、その否定は、自分自身の耳にさえ、虚しく響いた。
午後は、途切れ途切れで、何の役にも立たない電話のやり取りのうちに過ぎていった。ロブの母親にかければ、その疲れきったため息に、リンジーはまるで自分たちの結婚生活の失敗を報告しているような気分になった。ハドリアンの名付け親は、家に来ようかと申し出てくれたが、リンジーにはその申し出を受け入れる気力はなかった。どの会話も同じだった。丁寧な心配の言葉が輪を描くだけで、どこにも行き着かない。誰もが、悲しみの重みに潰されそうな一人の男の姿を見ていた。数日間、ただ姿を消しただけかもしれない男の姿を。
誰も、その行動の裏にある、冷たく計算された本質を理解していなかった。
夕方になり、空が打撲痕のような紫色に染まる頃、リンジーは地元の警察署の椅子に座っていた。古くなったコーヒーと消毒液の匂いがする。傷だらけのプレキシガラスの向こう側にいる警官は退屈そうで、その目は他人の緊急事態を一生分見続けてきたかのように疲れていた。
彼女は、自分の中で渦巻く感情を押し殺し、淡々とした、途切れ途切れの声で事実を伝えた。「夫の、ロバート・ピーターソン。三十五歳です。二十四時間、行方が分かっていません」
警官は二本指でタイピングしながら、視線をスクリーンに固定している。「それで、口論でも?」
「息子の……行方不明になった命日でした」その言葉が、まるで言い訳のように響くのが嫌だった。「彼は、動揺していました。飲み過ぎて」
「それで喧嘩になった、と」警官は、尋ねるのではなく、断定した。
「いいえ。私たちは、悲しんでいました」
彼はため息をついた。うんざりとした忍耐の塊のような息だった。「奥さんね、旦那さんが酒を飲んだ後に行方不明になるケースの九割はね、ホテルで寝てるか、友達の家でバツが悪くて電話できずにいるかなんですよ。彼は大人です。数日間、姿を消したいと思えば、そうする権利がある」
「彼は、私たちの貯金をすべて持っていきました」リンジーの声が上ずる。「大金になるアンティークのコレクションも。十年勤めた職場も辞めています。これは『頭を冷やしている』男の行動ではありません。これは、蒸発です」
警官は、ようやく彼女の方を見た。その視線には、何かがちらついていた。同情、だろうか。彼は彼らの話を知っていた。この町の誰もが知っていた。彼らはニュースになった悲劇の夫婦。アドベンチャーパークで息子を失った、あの二人。
「では、届け出は受理します」彼の口調は、侮辱的になる一歩手前で、わずかに柔らかくなった。「手配書を回して、市内の病院と、遺体安置所も確認します」。彼はその単語を、まるでチェックリストの一項目を読み上げるかのように、何気なく口にした。「でも正直なところ、奥さん、あなたにできる最善のことは、家に帰って待つことですよ。明日には、しょげ返ってドアから入ってくるでしょうから」
リンジーは警察署を出て、湿気を含んだ夜の闇の中へ歩き出した。蝉は鳴き止み、代わりに街の低い唸りが響いている。公式なルート。彼女はルールに従い、然るべき機関へ行き、そして彼らは彼女の頭を撫でて追い返した。彼らは、ヒステリックな妻を見た。彼らは、真実を見ていなかった。
ロブはただ歩き去ったのではない。自殺したのでもない。彼の不在のその正確さは、何かまったく別のことを物語っていた。それは計画だった。彼は逃げたのだ。彼女から、あるいは彼らの家からだけではない。彼自身の全存在から。そして彼はそれをあまりに完璧にやってのけたので、システムそのものが、失われた者を見つけ出すはずの人間たち自身が、すでにあきらめてしまっていた。
彼女は歩道に立ち尽くし、役に立たない行方不明者届のコピーを手に握りしめていた。世界は広大で、無関心に感じられた。もし彼を見つけ出すつもりなら、彼女は全く、恐ろしいほどに、独りだった。
第三章 過去という重さ
ようやく訪れた眠りは、安息の地ではなかった。それは浅く、荒れた水面で、リンジーは次から次へと押し寄せる記憶の海を漂った。心とは、なんと残酷な記録係なのだろう。良いことも悪いことも、最も鮮烈な瞬間だけを絹布に包んで保管し、闇の中でいつでも取り出せるように準備している。
彼女は、もう二年もの間、足を踏み入れていない市立公園にいた。記憶はあまりに鮮明で、もはや物理的な感覚だった。裸足の脚に触れるウールのブランケットの感触、刈られたばかりの草の匂い、首筋に感じる太陽の温かい手。ロブは彼女の膝を枕にして仰向けに寝転び、笑っていた。彼はあの頃、違う男だった。その顔には、悲しみが刻んだ地図のような皺もなく、屈託のない喜びが満ちていた。彼女が最初に彼に惹かれた、あの不思議な緑色の瞳は、気楽で、曇りのない輝きを放っていた。
砂色の髪をした、四歳のエネルギーの塊であるハドリアンは、モンシロチョウを追いかけていた。小さな足が忙しなく動き、その笑い声は、銀色の鈴を鳴らしたように明るく響く。「パパ、捕まえるよ! お空の虫、捕まえる!」
「あの子の頑固なところ、あなたにそっくりね」リンジーは、ロブの髪を指で梳きながら言った。
「でも、心は君に似たんだ」ロブはそう答え、手を伸ばして優しく彼女の顔を包んだ。「あの子の良いところは、全部君から来てる」。彼は彼女を引き寄せ、ゆっくりと甘いキスをした。レモネードと陽光の味がした。その瞬間、彼らの宇宙は完璧で、満ち足りていた。ウールのブランケットの上に存在する、愛という名の、侵されることのない小さな三位一体。この先にある未来は、ただこの午後の続きであるはずだった。この一瞬の完璧さ以上に大切な過去など、どこにもなかった。
その記憶は水に溶ける砂糖のように消え、夢は移り変わった。色彩はにじみ、見慣れた打撲痕のような夕闇の色に染まっていく。
去年のことだ。最初の一周忌。二人はキッチンにいた。部屋は、いつの間にか三人目の同居人となった沈黙で満たされていた。リンジーは努力した。彼の好物であるラザニアを作った。ニンニクとオレガノの豊かな香りは、日常を取り戻そうとする必死の試みだった。ロブはそれに手をつけなかった。ただテーブルに座り、壁を見つめ、ワイングラスを何度も何度も手の中で回していた。
「今日、金物屋に行ったんだ」彼の声は平坦だった。「息子連れの男がいてね。男の子は五歳くらいだったかな。赤いバケツが欲しいって、そればっかり言ってたんだ。『赤いのがいい、パパ。赤いやつが欲しい』って」
リンジーは動けなくなった。カウンターに置いた手が凍りつく。この話がどこへ向かうのか、彼女には分かっていた。
「父親は、青いのを渡そうとしてた」ロブは、千マイル先の何かを見つめながら続けた。「『青い方がいいぞ、こっちの方が丈夫だからな』って。すると子供は、小さな顔をくしゃくしゃにして、父親を見上げて言ったんだ。『でも、ぼくは赤がいい』って」。ロブの手が、ワイングラスを握りしめ、指の関節が白くなる。「その時、僕が何を思ったか分かるかい、リンジー? 僕なら、店中のバケツを全部買ってやっただろうなって。あの店ごと買ってやっただろう。世界中を、赤く染めてやっただろうなって」
その時、彼は彼女の方を向いた。その瞳の中の、剥き出しになった苦悶は、物理的な力を持っていた。「僕は、あの子を裏切ったんだ」彼は囁いた。「僕のたった一つの仕事。僕の唯一の仕事は、あの子を安全に守ることだった。僕は父親だったんだ。なのに、僕は失敗した」
「ロブ、違うわ」彼女は、一年間使い続けてすり減った、自動的な言葉を口にし始めた。「あなたのせいじゃない。人混みだったし、ほんの一瞬のことで……」
「やめろ」その言葉は鋭く、ガラスの破片のようだった。「僕のせいじゃないなんて言うな。じゃあ、誰のせいなんだ? 神か? 宇宙か? 違う。あの子は僕の肩に乗っていた。あの子が最後に握っていたのは、僕の手だったんだ。これは僕の失敗だ。僕は毎日、その中で生きていかなければならない。朝、目を覚ませば、僕は息子を失った男だ。道を歩けば、息子を失った男だ。鏡を覗き込めば、僕たちの息子を失った男の顔が見える」
彼は椅子が床に擦れる、叫び声のような音を立てて、突然立ち上がった。シンクへ歩いていくと、彼女に背を向けたまま、その肩が震えているのが分かった。「もう、この人間でいるのは無理なんだ、リンジー」彼の声は途切れ途切れだった。「僕は、彼でいたくない。自分のこの両手を見て、憎悪を感じるんだ」
リンジーは息を呑んで目を覚ました。心臓が、肋骨にぶつかって狂ったようなリズムを刻んでいる。寝室は暗く、蝉の声も今は聞こえない。夢は夢ではなかった。それは完璧で、痛みを伴う記憶だった。彼女は今、恐ろしく、そして解放されるような明瞭さで、理解した。
彼は、彼女から逃げたのではない。究極的には、自分の悲しみから逃げたのでもなかった。彼は、自分自身から逃げたのだ。「息子を失った男」という自分から。彼は自分にとっての異邦人となり、もはや住むことのできない、空っぽの抜け殻になってしまったのだ。これは単なる逃避行ではない。これは、彼がもう耐えられなくなった人生を脱ぎ捨てるという、一種の自殺だったのだ。
過去という重さが、美しいものも、呪われたものも、闇の中で彼女にのしかかってきた。彼女が追っているのは、もはや悲しむ夫ではない。自分は怪物だと信じ込み、この世にいる資格がないと考えて、自らを世界から引き剥がした男を追っているのだ。そして、そんな男が行く先は、ただのホテルのはずがない。そんな男は、誰にも、決して見つけられない場所へ行くはずだ。地図の外側の、どこかへ。
第四章 パンくず
三日目の夜が、灰色で、無関心な顔をして明けた。警察からの電話はない。リンジーのヴィドフォンは沈黙したままで、ただの滑らかな黒い塊と化していた。希望とは、彼女が今まさに学んでいることだが、安定して燃え続ける炎などではないらしい。それは気まぐれに揺らめき、時間とともに弱々しくなり、冷たく、油っぽい煙の軌跡を残して消えていくものだった。
家は、霊廟になっていた。そこにあるすべての物が、まるで他人のものだったかのような人生の遺物に見える。ロブが毎朝使っていた、縁の欠けたマグカップ。彼のお気に入りの椅子の肘掛けに、伏せられたままの本。その一つ一つが、小さく、鋭い痛みの棘となって突き刺さる。ここにいてはいけない。息ができない。
行動だけが、唯一の麻酔だった。彼女は、どこか無機質で、機械的な決意を胸に、現実的な問題へと意識を向けた。生き残るための、醜く、避けられない計算だ。ここ数ヶ月、二人で食事を共にすることのなかったダイニングテーブルに座り、タブレットで銀行口座の情報を引き出す。
画面に表示された数字は、無慈悲なほどに無機質で、暴力的だった。
二人の共同貯蓄口座:残高17ドル34セント。
彼の個人口座:解約済み。
彼は、すべてを引き出していた。陶器の豚に入っていた緊急用の資金だけではない。何もかもだ。何年もの間、慎重に貯めてきたお金。旅行や贅沢なディナーを諦め、今となっては残酷な冗談にしか聞こえない未来のために、少しずつ貯めてきたお金。そのすべてが、消えていた。
裏切りは、物理的な感覚だった。冷たい波が全身を洗い、息ができなくなる。これは、悲しみに暮れた男の行動ではない。これは、計画的な犯行だ。これは、焦土作戦だ。彼はただ去ったのではない。彼女が追えないように、万全を期していったのだ。
熱く、猛烈なエネルギーが彼女の身体を駆け巡った。それは、ここ二日間の虚しい痛みよりは、ずっとましだった。怒りは、燃料になる。
「あの野郎……」彼女は、誰もいない部屋に向かって囁いた。「全部燃やし尽くして、ただ歩き去れるとでも思ってるわけ?」
彼女はリビングの隣にある、小さな書斎の彼のデスクへと向かった。そこは彼の空間だった。彼の落ち着きのない心を証明するかのように、本の山、完成することのない発明品のスケッチ、古い歴史雑誌の束が雑然と置かれている。もし彼に計画があり、その意図を示すパンくずが落ちているとしたら、それはここに違いない。
最初の衝動は、すべてを床に払い落とし、この部屋から彼の存在を浄化したい、というものだった。だが、もっと深く、冷たい決意が彼女を支配する。彼を消し去るのではない。彼を、解剖するのだ。理解するのだ。
彼女は書類から手始めに、請求書や古い手紙を、まるで臨床医のような冷静さでふるいにかけた。何もない。本棚から本を引き抜き、領収書やメモが落ちてこないかと、一冊ずつ振ってみる。『中世攻城兵器の歴史』。『ローマ帝国の興亡』。彼のお馴染みの偏愛が並んでいるだけだ。その時、彼女の手がある一冊の上で止まった。色褪せた金のタイトルが刻まれた、重い革装丁の本。『時間と量子もつれの性質について』。それは彼のお気に入りの一冊で、彼女がいつも「難しすぎる」とからかっていた、理論物理学の専門書だった。
彼女はそれを棚から引き抜いた。あるべき重さよりも、ずしりと重い気がした。本を開くと、表紙の裏に、光沢のある三つ折りのパンフレットが、きれいに挟まっていた。紙は厚手で高価なもので、その色彩は鮮やかだった。
一番上に、流線型で未来的なレタリングで、二つの単語が記されている。
タイム・ツアーズ
その下には、二つの太陽が輝く空の下、完璧に波のないビーチの写真が載っていた。キャッチコピーはこうだ。
今の人生に、うんざりしていませんか? 周りの世界に、退屈していませんか? さあ、ジャンプを。
リンジーは、喉の奥で息が詰まるのを感じた。彼女は夫のデスクチェアに崩れ落ちた。足の力が、突然抜けてしまったのだ。タイム・ツアーズのことは、もちろん知っていた。誰もが知っていた。それは超富裕層のための究極の贅沢であり、SFの世界を高級な観光産業に変えた、幻想的な事業だ。彼女はいつも、馬鹿げた道楽だと切り捨てていたが、ロブは……ロブは、いつも魅了されていた。彼は何時間も、パラドックスについて、可能性について、そして存在という直線的な檻から抜け出すという概念について語っていた。
彼女の目は、パンフレットの上を滑った。そこには、カリブ海のクルーズ旅行のように、行き先がリストアップされていた。『ジャイアントポリスのネオンの光!』『パンゲア大陸のジャングルに佇むエコビレッジ!』『西暦2850年、静かなる浮遊都市!』
そして、彼女はそれを見つけた。最後のページ。「オーダーメイドの旅&永久移住」と題されたセクションの下に、ある一つのパッケージが、細い黒のマーカーで丸く囲まれていた。その筆跡はロブのものだった。彼女は、その正確で、建築的な傾斜を、自分自身の名前と同じくらいよく知っていた。
魂の谷。西暦3080年。
その説明は、簡潔で、詩的ですらあった。
新しい世界ではなく、古い世界の終わりを求める旅人のために。存在の最終終着駅で、真の孤独を体験してください。完璧で、静かな平穏への、一方通行の旅。料金は、お問い合わせください。
料金。彼は仕事を辞め、最後の給料を現金化した。彼は私たちの貯蓄を持っていった。彼は、彼のコレクションを、彼の唯一の本当の資産を、何万、いや何十万ドルにもなるものを、持っていった。彼は、私たちがこれまでに所有したすべての一銭に至るまで、かき集めたのだ。
パズルのピースは、ただはまったのではない。それは爆発のような力で激突し、その衝撃波が、彼女の肺から空気を奪った。
彼はホテルに逃げたのではない。橋から身を投げたのでもなかった。彼は、もっとずっと絶対的なことをしたのだ。彼は、時間そのものから飛び出したのだ。彼は、消されるために、文字通り世界の終わり、「完璧で、静かな平穏」の地へ送られるために、大金を支払ったのだ。
彼女は、パンフレットを、丸で囲まれた言葉を、見つめた。『魂の谷』。それは、休暇というよりは、墓場の婉曲表現のように聞こえた。
彼は、彼女を置いていったのだ。他の女のためでもなく、国の反対側での新しい人生のためでもなく、千年先の未来のために。その、息をのむほどの傲慢さ。その、残酷さ。彼は、二人の人生を終わらせただけではない。彼は、自分自身を、考えうる限り最も最終的な方法で、彼女の手の届かない場所へと置いてしまったのだ。
数分前に感じた怒りは冷え、ダイヤモンドのように硬く、鋭いものへと変わった。決して壊れることのない、決意へと。
「思い通りにはさせない」彼女の声は、低く、危険な響きを帯びていた。「千年先なら、私から逃げられるとでも思ってるの? 私たちの人生の請求書を私に押し付けて、自分だけチェックアウトできるとでも?」
彼女は立ち上がった。パンフレットを、その手に握りしめて。それはもはや、ただの紙切れではなかった。それは、地図だった。それは、パンくずだった。
そして彼女は、それを追うだろう。ウサギの穴の、その一番底まで。
第五章 ガラスの球体
タイム・ツアーズの建物は、もはや建物というよりは、一つの意思表明だった。鋼鉄とスモークガラスが組み合わさった、高さ二十五メートルの球体。それは、まるで巨人のゲーム盤からこぼれ落ちたビー玉のように、メインスクエアの中央に鎮座していた。趣のある石畳、絡み合う運河、歴史的なファサードといった周囲の古い街並みを、静かで、揺るぎない現代性をもって支配していた。それは、過去の心臓部に植え付けられた、未来への記念碑だった。
リンジーは、二十分かかる道のりを十分で歩いた。新しく見出した目的が、彼女の背中を押すモーターになっていた。物乞いをする鳩、観光客が残していく溶けかけたアイスクリームの地雷原といった、街の中心部のいつもの障害物を、彼女はただ一つの焦点をもって通り過ぎていく。それらすべては、背景のノイズに過ぎなかった。
球体の自動ドアにたどり着いたとき、汚れて骨ばった手が伸びてきて、彼女の腕を掴んだ。その握力は、針金の束のように、驚くほど強かった。振り返ると、背中の曲がった老人がいた。ぼさぼさの灰色の髭が、もつれたマットのように胸まで垂れている。
「そこへ入るな」彼は、石が擦れ合うようなしゃがれた声で言った。「あれは、昨日を喰らう機械だ。神の意志に反する」
リンジーは腕を引き抜こうとした。「もし神の意志に反するなら、ここにはないはずよ」
老人は身を乗り出し、リンジーは洗いざらしでない服と狂気の酸っぱい匂いに襲われた。彼の目は曇った空の色で、白内障が瞳を覆っていたが、それでも彼女のすべてを見透かしているかのようだった。首からは段ボールの札がぶら下がっており、震えるようなカリグラフィーで文字が書かれていた。『予言――一ドル』。
「あの場所に未来はない」彼は、握る力を強めながら、シューッと息を吐くように言った。「あるのは、磨き上げられた嘘と、揮発性の夢だけだ。奴らは扉を見せるだろうが、その向こうの部屋は、いつだって空っぽだ。結局は、システムのバグがすべてを喰らう」
システムのバグ。その言葉に、背筋がぞくりとした。狂人の戯言だと切り捨てた、あの男が使ったのと同じ言葉だ。今、再びそれを聞いて、それはもはや妄想ではなく、警告のように響いた。彼女がまだ理解できない言語の、一片のように。
彼女は、彼の鉤爪のような指を、一本ずつ、腕から引き剥がした。「それでも、試してみるわ」そう言って、彼女は静かに開くドアを通り抜け、獣の腹の中へと足を踏み入れた。
内部の空気は、ひやりとして無機質で、オゾンと金の匂いがかすかにした。そこは、球体の頂点まで吹き抜ける広大な白いアトリウムだった。何十ものホログラフィック・スクリーンが、穏やかなクラゲのように宙に浮かび、異世界のジャングルや、ネオンに濡れた巨大都市、そしてありえないほど静かな海岸線のきらめく光景を映し出している。そこは、逃避という名の神に捧げられた、大聖堂だった。
そのすべての中心に、現代的な棺ほどの大きさと形をしたデスクの後ろに、その神殿の女司祭は座っていた。
彼女は、どこか異星人のような姿をしていた。背が高く、不自然なほど青白い。その顔立ちはあまりに完璧で、非現実的ですらあった。彼女の髪は、リンジーが見たこともないスタイルの、驚くべき工芸品だった。「パール・フリゼール」というのだろうか、何百もの小さな真珠がプラチナブロンドの髪に編み込まれ、滝のような彫刻的な効果を生み出している。彼女は、彼女専用の司令室である、小さなスクリーンの星座に囲まれており、その間を優雅で、そしてどこか落ち着かないほど無駄のない動きで操作していた。
リンジーが近づくと、女は顔を上げた。その微笑みは、青白い顔に引かれた、完璧で、白い一閃だった。彼女が動くたび、髪の真珠が、こつん、と微かな音を立てた。
「タイム・ツアーズへようこそ」彼女の声は、川の石のように滑らかで、磨き上げられていた。「どのようなご用件でしょうか?」
「素敵な髪ね」リンジーは、本当に言いたい言葉を組み立てるまでの時間を稼ぐために、そう言った。
女の顔に、純粋な喜びの表情がちらついた。「ありがとうございます。つい先ほど、西暦2145年におりまして。パールウィッグが大流行しているんです。さて、どの時代にご興味がおありですか?」
「夫が選んだのと同じ時代を」リンジーは、平坦な声で言った。
オフィサーの、玉虫色の青に整えられた眉が、わずかに寄せられた。「もう少し、詳しくお伺いできますか?」
「いいえ。彼がどこへ行ったのか、あなたが教えてくれると思っていたわ」
微笑みが引き締まり、仮面となった。「申し訳ございませんが、クライアントの情報を第三者と共有することは認められておりません。行き先は、厳重な機密事項となっております」。その言葉は、感情の痕跡が一切ない、録音済みのメッセージのようだった。
「それは分かってるわ」リンジーは身を乗り出し、冷たく黒いデスクの表面に両手を置いた。「でも、これは生死に関わる問題なの。夫は……私たちは最近息子を亡くして、彼の精神状態は良くない。危険な状態なの」
「お悔やみ申し上げます」オフィサーはそう言ったが、その目は一瞬、天井の監視カメラの点滅する赤い光へと向けられた。
「彼は死んだんじゃない、ただ……いなくなったの」リンジーの声がほつれる。「でも、夫は私に残されたすべてなの。あなたも分かってくれるはず……」
名札にただ『マーブル』と記されたオフィサーは、スタイラスペンをいじり始めた。そのプロフェッショナルな平静さは、まるで要塞のようだった。「奥様、あなた様の困難な状況は、重々承知しております。しかし、どうか私の立場もご理解ください。顧客情報の開示は、規則上、決してできません。プライバシーポリシーに違反すれば、私は即刻解雇されることになります」
リンジーは、マーブルの無表情な顔と、点滅するカメラの赤い目とを交互に見た。スパイを見張るスパイ。彼女は機械の歯車であり、その機械にはルールがあった。リンジーは戦術を変えた。
「タバコは吸う?」
マーブルの表情は変わらない。「個人的な情報をお話しすることは認められておりません」
「ペットは? 猫とか、犬とか」
「個人的な情報をお話しすることは認められておりません」
「まるでアンドロイドね」リンジーは、苛立ちと畏怖が入り混じった声で、息を吐いた。この女は、本当に人間なのだろうか?
マーブルの微笑みが、脆くなった。「奥様、ご質問は弊社のサービスに関するものに限定していただけますよう、お願い申し上げます。さもなければ、ご退室いただくことになります」
リンジーは、熱く、どうしようもない怒りの波を感じた。ガラスの壁を叩いているようだった。「分かったわ」彼女の声は、抑圧された怒りで張り詰めていた。「夫の目的地を突き止めるには、どうすればいいの?」
マーブルの微笑みが戻ってきた。明るく、そして空虚だった。「それは、ご主人様にお尋ねになるしかありません」
自動ドアが、静かな音を立ててリンジーの後ろで閉まり、彼女を広場の湿った空気の中へと吐き出した。彼女は怒りで震えていた。球体の冷たいガラスに寄りかかり、目を閉じて、ハンドバッグの中の最後のタバコを探る。火をつける手は、震えていた。最初の一服は、肩に食い込んだ緊張の結び目を少しもほぐさなかった。二服目も、こめかみの狂ったような脈拍に何の効果もなかった。三服目を吸い、もう叫び出してしまおうかと思ったその時、不意に、肩を控えめに叩かれた。
振り返る。マーブルだった。リンジーより頭一つ分背が高く、今は顔の半分を隠す巨大なサングラスをかけている。自然光の下では、彼女の肌は、生涯を室内で過ごした生き物のように、死んだような青白さだった。
「ライター、お持ちですか?」マーブルは、会社のニスが剥がれた、より柔らかな声で尋ねた。
リンジーはライターを差し出す。マーブルは炎にかがみ込み、彼女の細いピンク色のタバコの先端が燃え上がった。彼女が吸い込むと、煙はキャラメルのような、甘く人工的な香りがした。彼女は、完璧な灰色の煙の輪を吐き出した。
「あなたのこと、知っています」マーブルは、彼女の方を見ずに言った。「ニュースに出ていましたね。アドベンチャーパークで、ご主人様がお子さんを……。ハドリアン。とてもユニークなお名前ですね」
その言葉は、みぞおちへの一撃だった。あの日の恐怖が――必死の捜索、警察署、そしてゆっくりと訪れた絶望の認識が――彼女を飲み込もうとする。彼女はそれに抗い、どうにか平静を保ち、その瞬間に立ち向かった。
「もし、私からのアドバイスが欲しいなら」マーブルは、もう一服しながら言った。「彼を追うのはおやめなさい。彼は、去る決意が非常に固かった。見つけられたいとは、思っていませんでしたよ」
「彼のジャンプを手配したの?」
「ええ、私が」彼女はそう認めた。「信じてください。彼が行った場所へは、行きたくはないはずです」
「お願いだから、教えて! そこがどこなのか!」リンジーは懇願した。
その時、マーブルは彼女の方を向いた。その顔は、黒いレンズの向こうで、何を考えているのか全く読めなかった。「そのような情報は」彼女は静かに言った。「とても、とても高くつきますよ」
第六章 魂の値段
二人の間の空気は、取引という声にならない言葉で、ぱちぱちと火花を散らしていた。おしゃべりな観光客も、喉を鳴らす鳩も、賑やかな広場のすべてが、音を消した背景へと色褪せていく。そこにいるのは、リンジーと、キャラメルの香りのする煙に巻かれたこの青白い捕食者の女だけだった。
「値段を言って」リンジーの声は、低く、安定した響きを持っていた。「それがいくらでも、構わない」
マーブルは、まるで人間の魂の市場価値を吟味するかのように、タバコを長く、思慮深く吸い込んだ。「そんなに簡単な話ではないのです」彼女は言った。「公式には、彼の行き先を教えることはできません。それはデータ漏洩になります。追跡可能です。私は、職以上のものを失うことになるでしょう」。彼女は一瞬言葉を切り、声にならない脅威の重みを漂わせた。「ですが……彼の『座標』なら、お渡しできます。数字の羅列です。私たちのシステム以外には、何の意味も持たない。あなたがその数字を私のもとへ持ち帰り、暗唱すれば、私はあなたのための旅券を予約できる。もっともらしい否認、というわけです」
希望の光が、鋭く、そして危険な刃のように、リンジーの絶望を貫いた。「分かったわ。その座標。いくらかかるの?」
「まず最初に」マーブルの声は、すっかりビジネスのそれに戻っていた。「帰りのチケット代はお持ちですか? それが最低ラインです。それがなければ、この話は始まりません」
「分からない」リンジーは、灰のような味のする真実を認めた。「夫が全部持っていったの。アンティークも、貯金も。私にあるのは……この家だけ」
マーブルの、グロスで艶やかに塗られた心ない赤い唇が、小さく、計算高い笑みを描いた。「それなら、私の手数料は賄えるかもしれませんね」
リンジーは、愕然として彼女を見つめた。「ただの数字に?」
「私は、個人的にも、職業的にも、重大なリスクを負うのです」マーブルは滑らかに言った。「それに、あなたはまだジャンプそのものの代金を支払う必要があります。片道切符の値段は、天文学的ですよ。あなたのお金では、到底及びもつきません」
その強欲さはあまりに剥き出しで、絶対的で、ほとんど感心するほどだった。この女はただの門番ではない。他人の悲劇の縁に止まり、その骨をきれいに啄むのを待っている、ハゲタカだ。だが、リンジーはもはや道徳的な憤りを感じる地点を通り過ぎていた。彼女は自由落下の中にいて、マーブルは、たとえそれがどれほど腐っていても、唯一パラシュートを差し出している存在だった。
他に何がある? 売れるものは、他に何が残っている? その問いは、彼女の中の空洞で木霊した。彼女は薄給の歴史教師だ。裕福な親戚も、隠し資産もない。彼女の純資産は、チョークの粉と記憶の寄せ集めだった。彼女は自分自身の身体を見下ろした。これまで当たり前のものとして受け入れてきた、肉と骨の器。
「私の名前はリンジー」彼女は顔を上げ、マーブルのサングラスの黒い鏡を見つめた。「あなたは?」
「マーブルとお呼びください」
「そうでしょうね」リンジーは、ユーモアのかけらもない笑い声を漏らした。「聞いて、マーブル。私には秘密の信託財産なんてない。ローンが残ってる家と、クローゼットいっぱいの服だけ。私にあるのは、これよ」。彼女は、漠然と自分自身を指した。「私の身体。臓器売買でもしない限り、市場価値はないと思うけど」
マーブルの顔に、純粋な興味の光がちらついた。彼女はゆっくりと頷いた。「話が早くて助かります」彼女は言った。「新しい試みなのです。資産譲渡条項、とでも言いましょうか。もしあなたが片道切符を購入されるなら、あなたの生物学的な身体は、もう必要なくなりますよね? タイム・ツアーズ社に、その権利を譲渡することができるのです。私たちは、それを短期ジャンパーのためのホスト体として使用します。長期的な統合のリスクなしに、ジャンプのスリルを味わいたい裕福なクライアントです。彼らは数日、あるいは一週間、身体をレンタルする。それは……非常に、儲かるビジネスなのです」
リンジーは吐き気を覚えた。彼らは、彼女の身体を、宇宙の暴走族のためのレンタカーにしようとしている。見知らぬ誰かの心を彼女の中に入れ、彼女の肌で歩き回らせ、彼女の手を使い、彼女の目から世界を眺めさせる。その間、彼女は……どこに? 時の果てで、亡霊を追いかけているというのに。
「本気で言ってるの?」彼女は囁いた。
マーブルは、滑らかな銀のバンドの腕時計を見た。「オフィスは三十分後に閉まります」彼女の声は、再び冷たくなっていた。「少し散歩でもして、自己探求をなさることをお勧めしますわ。ご主人様が、あなたにとって一体どれほどの価値があるのか、決断なさってください」。彼女はタバコを石畳に落とし、そのピンク色のフィルターを、赤いプラットフォームシューズの尖ったつま先で地面に押し付けた。一言も言わずに、彼女は踵を返し、ガラスの球体の中へと戻っていった。
リンジーは、近くの噴水の縁に腰を下ろさなければならなかった。石の冷たさが、震える脚に伝わる。世界が揺らいだ。彼らは私の身体を、ただの容れ物のように使おうとしている。 ハイヒールを履いたあのフラミンゴは、私の家にずかずかと入り込み、私たちのバスタブに彼女の拒食症の尻を浸し、そしてきっと、ハドリアンの部屋を未来的なヨガスタジオにでも変えるだろう。その侵害行為はあまりに甚大で、ほとんど抽象的ですらあった。彼女は地面に唾を吐いた。無意味で、苦い仕草だった。
だが、他にどんな選択肢がある? 空っぽの家。空っぽの人生。千年先にいる男を待ちながら、ドアを見つめて過ごす未来。彼女が、猛烈で、愚かで、すべてを消費するほどの情熱で愛した男。彼女に説明をする義務のある男。彼女に別れを告げる義務のある男。彼女に、彼自身を返す義務のある男。
五分後、彼女は再びクライアント用の椅子に座っていた。オフィスの冷たい空気が、腕に鳥肌を立たせる。彼女の顔は、穏やかな決意の仮面を被っていた。まるで麻酔薬を打たれたかのようだった。痛みはまだそこにある。深部で脈打つ圧迫感として。だがそれは遠く、まるで他人の身に起こっていることのようだった。
「片道切っぷを、即時ジャンプで購入したいのですが」彼女の声は、明瞭で、均一だった。
マーブルのプロフェッショナルな微笑みが、再び所定の位置に戻った。「まあ、なんと勇敢な探検家でしょう! 本日は、どちらへご旅行ですか?」
リンジーは、小さく折りたたんだ紙をデスクの向こうへ滑らせた。それは、彼女のノートから破り取ったページだった。そこにはこう書かれていた。『ロバート・ピーターソン、ジャンプ日:八月十四日の座標を要求』。
マーブルはそれを拾い上げた。手入れの行き届いた爪が、白い紙の上で深紅の閃光を放つ。彼女はそれを広げ、微笑んだ。「ええ、そうですね。お戻りになると思っておりましたわ」。彼女はコンソールにいくつかのコマンドを打ち込み、そして新しい紙に九桁の数字を書いて、リンジーの方へ押しやった。「友人が、ある場所を勧めてくれたの」リンジーは、その紙を拾い上げ、まるで暗い呪文を唱えるかのように、ゆっくりと、慎重に、数字を読み上げた。「935.95.45.11」
「ふむ、見てみましょう」マーブルは、喉を鳴らすような声で言い、その指がキーボードの上で踊った。「ああ、素晴らしい選択です! 魂の谷、西暦3080年。……何かを見つめ直したいと願う方々に、非常に人気の目的地です。それで、片道でしたわね?」
リンジーは頷いた。
マーブルの顔が、獲物を前にした捕食者の喜びに輝いた。「それでは、完全資産譲渡、ということになりますね。契約書を作成します」
彼女はスクリーンに向かい、素早くタイピングした。プリンターが唸り声を上げ、びっしりと法的なテキストが書かれた数ページを吐き出した。マーブルはそれらをきれいに整え、ペンと共にデスクの向こうへ滑らせた。
「こちらが、契約書です」彼女の声は、穏やかで、企業的な満足感に満ちていた。「これにより、お客様は指定された目的地への片道・返金不可の旅を注文し、お客様の生物学的な身体、以下『資産』と称しますが、その完全かつ取消不能な権利をタイム・ツアーズLLCに譲渡するものとします。私の仲介手数料、及び、セント・ランドー通り21番地にあるお客様の不動産の譲渡に伴うすべての関連管理費用をカバーする条項を、こちらで追加しておきました。ご住所は、お間違いございませんか?」
「まるで私の心を読んだかのようね」リンジーの声は、マーブルには全く通じない、酸っぱい皮肉に満ちていた。
彼女はペンを取った。プラスチックは、肌にひやりと滑らかだった。彼女は署名欄を見下ろした。このたった一つの行為が、一つの魂の値段だった。彼女の魂の。彼女はロブの緑色の瞳を、ハドリアンの笑い声を、そしてベッドの空いた片側を思った。選択肢はなかった。初めから、選択肢など一つもなかったのだ。
彼女はペンの先端を紙の上に置き、自分の名前を書いた。おそらく、人生で最後になるであろう、自分の名前を。
マーブルは契約書を拾い上げ、まるで中世の契約を封印するかのように、インクにそっと、不必要な息を吹きかけた。「素晴らしいですわ」彼女は宣言した。「では、廊下の突き当たりにある準備室へお進みください。衣服を脱ぎ、弊社のジャンプ技術者が、向こう側へとご案内します。どうぞ、ご滞在をお楽しみください。そして、タイム・ツアーズをご利用いただき、誠にありがとうございます」
まるで、私に選択肢があったかのように、リンジーは思った。同時に、深い安堵の波が彼女を洗った。少なくとも、あの偽りの、捕食者のような微笑みを、もう二度と見ることはないのだから。
続きを読みたい方はこちらをクリック!
