サリーを着た王様
ある男の転落と再生の物語
英語版:The King in a Saree
A Novel of Ruin and Reinvention
by Yulia Yu. Sakurazawa
第一章 全ては覚書から始まった
私の名前はリシャブ・ティワリ。インドのハイテク産業の中心地として有名なバンガロールの実業家だ。事件が起きたとき、私は二十九歳でサンライズ・テキスタイルズ社のCEOを務めていた。といっても亡き父の会社を引き継いだものであり、ビジネスマンとしての私の実力を反映しているとは言えない。しかし私は長期的なビジョンとビジネスを成功に導く能力を持っていた。
少なくとも自分ではそう信じていた。
全てのトラブルはギリシャ神話の酒の神、バッカスの名において始まった。何年か前にロンドンに出張した際、有名なレッドライオンというパブでスコッチをほんの一、二杯飲んだのがきっかけで蒸留酒にはまってしまい、帰国後も友人とパブに通うようになった。酒の強い友人がそろっており、ウィスキーを二本空けても平然としているほどの猛者ぞろいだったが、幸か不幸か私は一、二杯でハイな気分になる体質だった。そんな遺伝子構造はコスト・パフォーマンスの観点では歓迎すべきかもしれないが、度を過ごして記憶が飛んだことも何度かあり、家族からは自重するよう言われていた。
私の家はマルワリ(マルワール地方の商人のコミュニティ)に属する伝統的なビジネスマンの家系であり、当然厳格なベジタリアンだった。基本的にベジタリアンはアルコールを口にしないので、祖母も母も姉妹も一滴もお酒を飲んだことがない。職業上外国人との接触の機会がある父は、外ではビールを飲むこともあったが家の中では禁酒を貫いていた。
インドのベジタリアンにとって禁酒とは飲みたいのを我慢することではない。
「お酒の助けなど借りなくても、瞑想することによって幸福な気持ちになれる」
というのが父の口癖だった。
父は私がアルコール依存ぎみなのを心配して時折小言を言ったが、私はそのたびに
「お酒が私の仕事の生産性に影響を与えることは一切ない」
と屁理屈を返すことにしていた。事実、父は私の仕事っぷりに満足していたので、父の存命中に酒癖についてそれ以上厳しく責められたことは無かった。
母は、私が外でお酒を飲むのは結婚していないからだと考え、顔を見るたびに
「早く結婚しなさい」
と言うようになった。
「とんでもない、まだ二十四歳なのに!」
と抗議すると、父が
「私は二十一歳で結婚した。マルワリは早婚が普通だと分かっているだろう」
と言って、本格的に私の縁談の為の活動を始めた。
父が探してきたのは同じコミュニティーに属する企業経営者のお嬢さんで、プレルナという名前の色白でスリムな長身の女性だった。プレルナは卒業したばかりで、まるで咲いたばかりのバラの花のようにみずみずしい美女だった。先月、五回目の結婚記念日を迎えたがまだ子供は居ない。それは二人の相性が悪かったからではない。私とプレルナは相性が良すぎるのか、毎晩情熱的に愛し合い、いつも手をつないでいないと居られなかった。友人たちは五年前から私たちのハネムーンが続いていると言って羨ましがった。
結婚して間もない頃、日本の繊維会社から出張で来たバイヤーを自宅に招いた時に、
「こんな美しい女性をどうやって見つけたのですか?」
と聞かれた。
私は父がどこからどうやってプレルナを探してきたのかを自慢した。
「インドではまだ見合い結婚が行われているのですか?!」
と驚いていた。
外国の人はインドのカースト制度についての理解度が低いので説明が困難なのだが、当時の私がマルワリのコミュニティーの中で自分にとってベストの女性と偶然出会えるはずがなく、父が経済力、コネクション、社会的地位、ネットワーク、等々の力でプレルナという女性を特定し、実際に父と姉がプレルナを見に行って、容姿、聡明さ、性格の良さを確認したうえで私の妻としていわばスカウトしてくれたわけだ。
「どうして同じカーストでなければならないのですか?」
と聞かれた。
「カーストが違えば食べ物も調理法も毎日の習慣も全部違うのだから当然です」
と答えたが、十分には理解されなかったようだ。
私が最近特に興味を抱いていたのはセクシュアリティの問題だった。欧米でセクシュアリティと言えばLGBTQなど性の多様性のことを思い浮かべるが、インドでは何世紀も前から「性」が重要な問題として認識されている。インドには男性でもなく女性でもない、もう一つの性がある。第三の性、ヒジュラだ。ヒジュラは女性のようにサリーとブラウスを着てチョリ(ペチコート)をはいて生活しており、化粧もしている。欧米や日本などのトランスジェンダー女性と違って、外観的に本物の女性に見える人はごく稀であり、ひと目見てヒジュラだと分かる場合が殆どだ。但し、全部が全部そうではなく、中にはミス・トランスジェンダー・コンテストで優勝するほどの美人も居る。
ヒジュラは現世を捨ててバフチャラ・マータという女神に帰依することによって聖なる能力を獲得すると言われている。その能力をちらつかせてお布施をもらったり、結婚式などの祝い事に呼ばれたりして暮らしているが、多くのヒジュラは売春によって辛うじて生計を立てている。
ヒジュラはムガール帝国の時代には中国の宦官ほどではないが特別な存在として扱われていたそうだ。その後、大英帝国の影響下で下品かつ有害なものとして排撃されたが、現在でもインド全体で数百万人のヒジュラが居ると言われている。ヒジュラはカーストのひとつ(それも不可触民よりも地位の低い階層)として扱われることもあるが、カーストとの決定的な違いは、ヒジュラは元々生物学的な男性かインターセックスなので出産能力が無く、何世紀も血縁とは無関係に続いているという点だ。つまり、毎年あらゆるカーストの何十万人ものインド人が「ヒジュラになりたい」と志願して、生まれ持ったカーストを捨てるか、自分の希望によらない理由でヒジュラになっているわけだ。
ヒジュラは貧困のために売春に追いやられ、しかも売春で得た収入の大半をグル(個々のヒジュラが所属する親ヒジュラ)にピンハネされると言われており、どう考えても魅力的な職業ではない。それなのにどうして毎年大勢の人たちがヒジュラになるのか、非常に不思議だった。
ヒジュラはニルヴァンと呼ばれる去勢の儀式によってバフチャラ・マータ(女神)への真の帰依者としての証を獲得する。本来のニルヴァンとは女神の代理人の資格を持つヒジュラであるダイマ(産婆)の手によって麻酔・止血・縫合なしで男性器を一気に切除する転生の儀式なのだが、近年は病院で外科手術によって去勢するケースが一般化しており、更に去勢だけでなく女性器を形成する性転換手術が行われる場合も増えているとのことだ。
「ヒジュラになる」ということは「女になる」のとは宗教的にも社会的にも思想的にも全く異なるのだが、ヒジュラとトランスジェンダー女性が混同されて、ニルヴァンと性転換手術の境界線が薄れるという現象が起きつつある。
私はヒジュラ・コミュニティーについて多くの書籍や記事を読んで考察を重ねた。最近ではトランスジェンダーの福祉に取り組むNGOが主催するセミナーにゲストスピーカーとして招かれることもあり、いっぱしの専門家のつもりになっていた。
***
四月の新年度に入り、従業員に対する社長スピーチを無難に終えて、ほっとした気分の夜、私と親友のスニル・ジェインはムディット・ボーラの誘いでパブに集合した。
スニル・ジェインは小学校以来の友人で、サンライズ・テキスタイルの副社長だった私の叔父が引退した時に、新副社長として登用した。仕事では私の右腕、プライベートでは対等な友人であり、私にとって家族と同じぐらい大切な存在だ。
ムディット・ボーラはボーラ・アンド・サンズという小さな織物会社の社長だが、昨年父親が逝去して後を継いだばかりで、私と似たような立場だ。私とスニルより二歳年下だが、理屈っぽくて生意気な感じなので、私はボーラのことがあまり好きではなかった。実はボーラを好きになれない理由がもう一つあった。私の妻のプレルナが学生時代にボーラと付き合っていたという情報を得たことについて妻には知らないふりをしており、親友のスニル・ジェインにも内緒にしていたが、心の中にボーラへの対抗心が根付いていたのだ。
私がプレルナとの関係を知っていることをボーラは多分気付いておらず、だからこそ新参者の社長として私とのコネクションを持ちたがっているのだと思っていた。
その夜の話題は社会問題が中心だったが、途中からインドにおけるヒジュラの現状に関する話題で盛り上がった。
ヒジュラ問題の権威を自負している私は、
「男も女もヒジュラも同じ人間であり、差別すべきではない」
と力説した。
「ヒジュラにとっての最大の問題は雇用機会が与えられないということだ。能力的には何ら劣ることはなく、企業や地方政府などに雇用されたら、他の人に勝るとも劣らない能力を発揮できるはずだ。雇用機会が与えられないから物乞や売春に頼らざるを得ないというのが現状だ」
ヒジュラの話題が始まる前に私はウィスキーのダブルを四杯も飲んでおり、普段心掛けている上限量を越えていたので、雄弁になっていた。
「ティワリさん、まさか本気で雇用機会だけの問題だと思っているわけじゃないでしょうね? 物事の捉え方があまりにも一面的だと言わざるを得ませんよ」
何を思ったのか、ボーラが侮辱するような口調で私を挑発した。
私は怒りを抑えようと努力しながら、
「もっと具体的な反論をしてくれないか」
と冷ややかに言った。
「現実の世界が経済理論だけで動くと思っているとしたらそれは大間違いです。経済学者ならとにかく、企業経営者がそんな単純な理屈をかざして大丈夫ですか? 地域、国家、国民の成功というものは、様々な要因による複合的な結果としてもたらされるものです。経済的要因はその一つですが文化的、社会的な要因を軽視するのは間違っています」
歳下の新参者から説教口調で言われて頭に血が上った。
――またこの男が似非人権活動家的なことを言っている。自分の会社を自分のモットーで経営するのは勝手だが、一体何様のつもりだ!
私は心の中で毒づいたが、勿論口には出さなかった。この種の議論をする際に怒りの感情を表に出したら、その時点で負けになる。
「あんたが何を主張していたいのか、さっぱり分からないんだが」
と私は作り笑いをして白い歯を見せながら言った。
「ティワリさん、私の言うことが分からないんですか? ヒジュラであるという社会的・文化的な烙印が、彼らの破滅を招いているんです。雇用機会を与えても問題は全く解決しません。ヒジュラというシステム全体を刷新して根本的な意識改革をしない限り何も変わらない。これは彼ら自身の意識の問題なんですよ」
元々私は自分の理論に反対する人を苦手にしていた。私は自己主張が強い支配的なタイプの人間であり、異論や反論を吹っ掛けられると、怒りに燃えやすいタイプだった。既に私の頭脳はバッカスの支配下に入ってしまっており、怒りに任せて大ぶろしきを広げてしまった。
「私の考えは全く違う。仮に、私自身がヒジュラだったとしても、今と同様にサンライズ・テキスタイルをCEOとして会社をちゃんと切り盛りして従業員からの尊敬と顧客からの忠誠心を維持する自信がある」
「あきれて物も言えません。もしティワリさんがヒジュラになったら、賃上げしても従業員はどんどん辞めるし、値下げしてもお客さんは離れていくに決まってるじゃないですか。サンライズ・テキスタイルはあっという間に倒産して、亡くなったお父上もさぞ悲しむことでしょう。子供じみたことを言わないでください」
「なんだと、けんかを売る気か?」
私は思わずその場に立ち上がって怒鳴った。私はアルコールのせいで明らかに好戦的になっていた。自分の声が怒りで震えていたのを、おぼろげながら記憶している。
「落ち着いてくれ、リシャブ」
スニル・ジェインが私をなだめた。
普段の私ならジェインの言葉には謙虚に耳を傾けるところだが、バッカスの支配下にあった私は聞く耳を持たなかった。
「おせっかいだな、ほっといてくれ!」
と私は彼を乱暴に突き放した。
「なんという傲慢さですか?! 立派な会社のCEOが単純な意見の違いにも対処できないというのは大問題ですね」
と、ボーラが私をさらに挑発した。
リーダーの傲慢さが組織をダメにする一番の原因だというのは私の持論であり、ボーラも出席していた青年経営者の会合でも何度か力説したことがある。逆に私自身が傲慢だと言われたことで私は逆上した。
「この私を私を侮辱するとは大した度胸だな。よし、挑戦を受けて立とうじゃないか。私はヒジュラになったとしてもサンライズ・テキスタイルのCEOとして会社を成長させ続けられる自信がある。その証明として『ヒジュラCEO宣言』をして、明日から一年間ヒジュラの服装で、ヒジュラのように振舞いながら会社を切り盛りしてみせようじゃないか。もし一年後にサンライズ・テキスタイルが増益を達成すれば、キミの会社であるボーラ&サンズを私が無償で譲り受ける。もし――あり得ないことだが――私が負けたらサンライズ・テキスタイルはキミのものだ。この賭けに乗る勇気があるか?!」
「その賭け、受けて立ちましょう。酒の席での失言では済みませんよ。それでもいいんですね?」
「当然だ。お互いに言い訳ができないように契約書として残そうじゃないか。スニル、ペンを貸してくれ」
「気でも狂ったのか! この男はリシャブを陥れようとしているんだ。今日は契約書の原案を作るだけにしておいて、明日の朝、素面になってからサインしろ」
とスニルが私に言った。
「怖気づいたんですね? やっぱりティワリさんは腰抜けの傲慢社長だったわけですか、アハハハ」
ボーラから重ねて見下されて怒り心頭に発した。
「お前の方こそ、勇気があるなら今すぐ契約書にサインしろ」
「頼む、リシャブ、思い直してくれ」
スニルに懇願されて決意が揺らぎかけたが、私にはボーラの嘲笑を受け流すだけの寛容さが無かった。結局、私はスニルの上司であり、彼は私の指示に従わなければならなかった。
ボーラが、まるで魔法使いのように手際よく、どこからともなく一枚の紙を出して私の前に差し出した。私は先ほど口走った通りの内容を走り書きした。
ボーラは満足そうに頷いて、その用紙の上部に活字体の大文字で「覚書」と記し、下部に日付を書いてサインした。
「ティワリさんが日付と署名を書き込めば正式の覚書になります。もし酔っ払ったせいで失言をしたと反省するのなら、この場に跪いて私の足にキスをして許しを乞えばいい。そうすれば勘弁してあげてもいいですよ」
「お前の方こそ、足にキスをして許しを乞ったらどうだ?!」
「アハハハ、よく見てから言ってください。私は既にサイン済みです」
私は即刻サインして日付を記入した。
「コピーしてくるから待っていて下さい」
とボーラが言って、署名済みの覚書を持って出て行ったが、すぐに戻ってきた。
ボーラはコピーにもう一度サインをして私に手渡し、私はそれを四つに折りたたんでポケットに入れた。
私は大きなことを成し遂げたような気分で家に帰った。妻のプレルナがいつもに増して美しく見えて、強く抱きしめて愛撫した。彼女は桃とミルクと蜂蜜の香りがした。
「お酒臭いわ! 早くシャワーを浴びてきて」
と彼女は笑いながら私を手で押しのけた。
「はいはい、奥様。お望み通り」
と言ってシャワールームに行った。
シャワーを浴び終えて、ガウンを羽織り、いい気持ちでリビングルームに行くと、妻が鬼のような形相で立っていた。
「何よ、これ!」
妻が手に持っていたのはボーラとの覚書のコピーだった。ポケットに入れたままにせずに書斎に持って行けばよかった……。
妻は覚書を読んだらしく、パニック状態だった。
「気でも狂ったの?! 明日から一年間ヒジュラの恰好で仕事をするなんて! サリーを着てお化粧をして会社に行ったら世間から何を言われるか分かっているの? 賭けに負けたらお父さんから引き継いだ会社を取られるだなんて! それもよりによってあの人に……!」
妻の最後の一言が私の心にグサッと突き刺さった。妻が怒るのも無理はない。確かに相手が悪かった。
妻が大学時代にボーラと付き合っていたことは妻への思いやりとして知らないフリをしていた。結局プレルナはあの理屈っぽい男に嫌気がさして、サンライズテキスタイルの自由奔放な跡取り息子の私を選んだのだろうと私は思っていた。
ボーラと妻がどこまでの付き合いだったかは知らないし知りたくもない。私たちのコミュニティーでは新妻が処女であるのは当然であり、結婚式の夜も彼女は男性経験のない若い花嫁を完璧に演じていた。
今、彼女がパニックに陥っているのは、ボーラが元カノを取られたことを根に持っており、私に仕返しをしようとしてこんな覚書を結んだのではないかと疑っているからではないだろうか。
「ボーラとかいう人にすぐに電話して、契約を取り消してもらって!」
プレルナの愛らしい顔が、これほどまでに険しくなったのは初めてだった。
「どうして? 僕には百パーセント自信があるんだけど」
「リシャブ、お願いだから!」
妻に真顔で迫られると勝てなかった。
「分かったよ、電話するから機嫌を直して」
私はそう言って、ボーラの番号に電話をかけた。ボーラが電話に出るのを待ちながら、惚れた弱みとはいえ、尻に敷かれるようになってしまったなと思った。
「これはこれは、ミスター・ティワリ! どうかなさいましたか?」
ボーラの慇懃無礼な言葉に改めて腹が立った。
「いやあ、さきほどは飲み過ぎて色々失礼なことを言ってしまったような気がして、ひとことお詫びしなきゃと思って……。それで、あの覚書のことなんだけど、まあ酔いに任せた冗談というか……。破棄してもらってもいいかな?」
「アハハハ、なんとまあ、契約締結日のうちにギブアップですか! 分かりました。じゃあ、契約に従って明日にでもサンライズテキスタイルの譲渡手続きを開始しましょう」
「意地悪なことを言わないでくれよ。まさかあんな覚書を本気にしてるわけじゃないよね?」
「日付と署名がしっかりと記されており法的に有効な契約書です。今後の手続きに関しては明日弁護士と打合せする予定です。ティワリさんはまだ酔っぱらっているようですが、明日の朝、素面で読み直して、契約通り確実に履行した方がいいんじゃないですか? ミスター・ティワリ――いや、ミスターと呼ぶのはこれが最後になりそうですね。明日からはミス、ミセス……いや、ミズ・ティワリと呼ばなきゃ、アハハハハハ」
ボーラは高笑いしながら電話を切った。
――まずいことになった。ボーラは本気で私に覚書を履行させるつもりだ。
「リシャブ、契約書は破棄してもらえるの?」
と妻が心配そうに聞いた。
「あのくそったれ、冗談のわからないやつだ!」
妻を振り切ってベッドに潜り込んだ。アルコールの残った私の頭は混乱を極めていた。悪夢を見ている気持で眠りに落ちた。
***
翌朝目が覚めると二日酔いで頭がガンガンしていたが、昨夜起きた事を思い出した。
限度を超えて飲み過ぎてしまったことを後悔した。先週LGBTの人権に関するスピーチを頼まれてヒジュラについて多くの資料を読んだことが結果的に災いした。私は一般人と比べるとヒジュラに対する偏見は少ないと自負しているが、特にヒジュラを擁護しているわけではない。昨夜は酒に酔って気が大きくなり、自分が優秀な経営者だという高揚感が高まった挙句『例えヒジュラになっても経営能力はいささかも損なわれない』などとうそぶいてしまった。ヒジュラの恰好で一年間生活するという発想が自分の頭脳のどこから出て来たのか、今でも理解できない。
妻はまだ起きていなかった。台所で濃いコーヒーを淹れて居間に持っていった。ソファーに腰を下ろし、深呼吸してから改めて覚書に目を通した。
酔いを感じさせないしっかりとした筆記体で以下の通り綴られていた。
覚書
二〇一六年三月三十一日、サンライズ・テキスタイル株式会社のオーナー兼CEOリシャブ・クリシャンラル・ティワリ(以下甲と言う)とボーラ・アンド・サンズの代表取締役であるムディット・マクハンラル・ボーラ(以下乙と言う)は以下の通り合意した。
甲は、本日より一日二十四時間、三百六十五日間、あたかもヒジュラであるかのように生活し、ヒジュラにふさわしい服装、言動を続け、今年度の税引き前利益が前年度の税引き前利益を上回ることを約束する。
第一項が達成できなかった場合、甲はサンライズ・テキスタイル株式会社の全持ち株を乙に一ルピーで譲渡しなければならない。甲が男装、男性のような言動、その他ヒジュラに相応しくない行動をした場合、その時点をもって第一項が達成できなかったものとみなされる。
第一項が達成できなかった場合、甲はニルヴァンその他必要な処置を直ちに実施し、残りの一生をヒジュラとして暮らすものとする。
第一項が達成された場合、乙はボーラ・アンド・サンズの全持ち株を甲に一ルピーで譲渡しなければならない。
甲 リシャブ・クリシャンラル・ティワリ
乙 ムディット・マクハンラル・ボーラ
私は商工会議所に届け出済みの署名をして、改めて日付を正確に付記している。弁護士と相談するまでもなく、これは法的に有効な契約書として議論の余地が無い。裁判に持ち込めば確実に負けるだろう。
私は自らを窮地に追いやってしまった……。
寝室に行って妻を揺り起こした。
「プレルナ、ごめん、酔っぱらってとんでもないドジを踏んでしまったみたいだ」
と私はできるかぎり冗談っぽく言った。
「覚書を読み直したんだけど、法的に拘束力のある契約書になっていた。一年間ヒジュラとして生活しなければ会社をボーラに取られるという取り決めになっている」
「昨日の夜ボーラさんに契約を解除してくれと電話した時には何と言われたの?」
「にべもなく断られた。譲渡手続きについて今日弁護士と相談すると言っていた。あいつは僕の酔いに任せた放言を利用して僕を陥れるために覚書をでっち上げたんだ。あいつの誘いに乗ってしまった僕がバカだった」
「お詫びの品を持ってボーラさんの家に行って、もう一度契約破棄をお願いしてみましょう。私もついて行ってあげるから」
「既に契約は始まっているから、そんなことをしたら飛んで火にいる夏の虫になる。プレルナ、カーテンを閉めてくれ。あいつの事だからカメラマンを雇ってこの家の中の写真を撮ろうとするに違いない。僕がこの恰好で窓の近くに行くのはまずい。女装せずに人前に出て写真を撮られたら、ボーラが高値で買い取るだろう。万一そうなったら即刻会社を譲渡させられてしまう」
「もう、リシャブったら、何てことをしてくれたのよ!」
妻はレースのナイトガウンの裾を翻して走り回り、全てのカーテンを引いた。
結婚して以来最も暗い雰囲気で朝食を食べた。
プレルナが大きなため息をついて言った。
「この食卓で男性のあなたと向き合うのはこれが最後なのね」
「変なことを言わないでくれ。女装をしていても僕は男だよ。それに一年間だけの辛抱だ」
「私と同じ服を着てお化粧をしているあなたと一年間も夫婦で居られるかどうか自信がないわ」
「僕はキミを心から愛している。男でも女でも第三の性でも、性別とは関係が無いほど深く愛しているんだ。頼むからキミも僕の中身を見てくれ!」
「今となっては仕方が無いから私も努力するけど……。でも、私、キモイのは苦手なのよね。ちゃんと身ぎれいにして清潔感のあるヒジュラになって」
「僕も最善は尽くしたいんだけど、女装経験は皆無だからプレルナだけが頼りだ」
「分かったわ。私があなたを清潔感のある女にしてあげる」
妻に言われた通りに服を脱いでパンツ一丁になった。妻がクローゼットから持ってきたのは明るい辛子色のサルワール・カミーズだった。
サルワール・カミーズとは薄手のパジャマのようなズボンの上に長めのチュニックを着て、ドゥパッタと呼ばれるショールを組み合わせる衣裳だ。母の世代までのヒンドゥー教徒の女性は結婚するまではサルワール・カミーズを着るが結婚後は必ずサリーを着ていた。昨今はプレルナのような良家の奥さまでもサルワール・カミーズを常用する人が多い。
私はプレルナがその辛子色のサルワール・カミーズを着ている姿を何度か見たことがあった。チュニックというよりはミモレ丈で左右にスリットの入ったワンピースだ。
「私が持っているサルワール・カミーズの中では一番大き目で伸縮性があるものを選んだつもりだけど、破らないように注意してね」
鼓動が高まるのを妻に気付かれないようにしながら、そのデリケートなワンピースを頭から被った。しかし、伸縮性があると言っても妻と私の体格の差は歴然としており、無理に袖を通そうとしたところ、ベリッと音がした。
「ショック……破けちゃったじゃないの!」
妻に引っ張ってもらってやっと脱ぐことができたが、妻のお気に入りのサルワール・カミーズは二度と着られそうにないほど破れてしまった。
「あなたにはXXXLサイズのサルワール・カミーズじゃないと着られそうにないわね」
とプレルナがため息をついた。
私の身長は百七十三センチであり、インド人男性の平均身長より八センチ高い。妻は百七十センチのモデル体型で身長は私と三センチしか違わないが、妻の上半身の骨格がどれほど繊細かが証明される結果となった
「キミのワンピースを着るのは無理みたいだから、サリーを貸してくれない?」
「えーっ! 普段着用のサリーなんて持っていないわ。私が持っているのはシルクの高級なサリーだけよ。あなたが着たら傷んでしまう」
「貸してくれないとサンライズ・テキスタイルをボーラに取られてしまうよ! 新しいのを買ってあげるから、頼むよ」
プレルナの心の迷いが見て取れた。結局プレルナは自分が振った元カレに夫の会社を取られるよりもサリーを夫に貸し与える方が賢明だと判断した。
「じゃあ、ゴールデンの刺繍入りの赤いサリーを貸してあげるけど、汚さないように細心の注意を払ってね」
妻がクローゼットにサリーを取りに行く間、私は胸をときめかせながら待った。あのサリーを着ていた妻はとてもセクシーで可愛かった。あれを私が着るのか!
妻は数分後に戻ってきた。
「まずこのレクラ・チョリを着て。私のチョリはあなたには小さすぎるからママのを持ってきた」
ママとは巨大な象のような体型をした妻の母親のことだが、あの母親からどうやって妖精のような美女が産まれたのか、私にとって永遠の謎だった。なお、チョリとはサリーの下に着る丈の短いブラウスで、そのレクラ・チョリはブラジャーのカップが内包された伸縮性のTシャツのようなものだった。
私はチョリに容易に袖を通すことができたが、おへその数センチ上まで露出するほどの長さしかなかった。
「こんなに短いと、おへそと、胸毛の一部が見えてしまうよ」
「チョリとはそんなものよ。サリーを上手に使っておへそを隠すのよ。後で教えてあげる。それより、胸がブカブカだからなんとかしなきゃ」
プレルナはテニスボールを二個持ってきて胸のカップの中に突っ込んだ。
「勘弁してくれよ。胸の小さいヒジュラも居るじゃないか」
「うーん……テニスボールでは小さすぎるわね」
プレルナがキッチンに行って巨大なオレンジを二つ持って戻ってきた。
「イヤだよ!」
私の抗議は却下された。そのオレンジはチョリのカップの中にピタリと収まった。
「オレンジなら保温性もあるし、少し固いかもしれないけどクッション性があるから本物のお乳みたいに見えるわ」
ペチコートはサイズを調節可能なので簡単に着用できた。問題はサリーだった。腰を一周しても一メートルに満たないのに、六~七メートルもの長さの布をどうやって身につければいいのだろうか? 子供の時には母がサリーを巻くのを毎日のように見ていたし、今でもプレルナがサリーを身に着ける様子を見るのは好きだが、いざ自分が巻くとなって途方に暮れた。
「一周巻いてから上端をペチコートにはさみこむのよ」
口で言われても頭がこんがらがるだけだ。
「しょうがないわね。私が着せてあげる。あーぁ、自分の夫のサリーの着付けを手伝うことになるなんて、夢にも思わなかったわ」
「まあ、人生には時々予測できないことが起きるものさ」
と私は肩をすくめた。
しかし、私にサリーを巻き付けるのはプレルナが思っていたほど簡単ではなかった。そもそもサリーというものは、砂時計のような形の体に巻き付けるようにできている。すなわち、上端をウェストに食い込ませ、腰からお尻の広がっている部分で支えるからこそ六メートル以上もの長い布を保持できるわけだ。
腰に一周させてから体の前で十二、三センチ幅のプリーツを七、八個作り、上端をペチコートに挟み込んでピンで固定する。そのまま一周させてから左肩へと引っ張り上げて自然に垂らすと、一応着付けが完成した。
戸惑ったのは自然に垂らした「パル―」と呼ばれる長い布の部分の扱いだった。サリー全体の長さが六~八メートルで、そのうち二メートル弱の部分をパルーとして残すように、スカート部分に四~六メートルを使うことになる。プレルナによると私の身長に合うパルーの長さは二メートル弱だが、パルーが肩から外れると二メートルもの長い布を地面に引きずることになってしまう。パルーを頭にかけてショールとして使う方法とか、目的に合った使い方をプレルナが教えてくれたが、これから毎日こんな長い布を身に着けて生活しなければならないのかと思うと憂鬱だった。
「次はお化粧ね」
「えーっ、化粧しなきゃダメかな?」
「その顔でサリーを着て歩いていたらキモイわ。気味悪がられるのを少しでも減らすにはお化粧で顔を隠すしかないのよ!」
プレルナの言うことにも一理ある。私は電気カミソリで髭を剃り、プレルナがファンデーションを顔から首にかけて塗り付けた。
「私の十日分を塗りたくってもまだ足りないわ。こうなると分かっていたら安物の化粧品を買っておくんだった」
プレルナはぶつぶつ言いながら私の眉毛を毛抜きとハサミで形を整え、丹念にアイメイクを施した。
自分の顔が刻々と変化するのを見るのはとても変な気分だった。妻の手によって私の顔は一歩一歩女に近づいて行く。骨格が違うので本物の女性には見えないが、誰が見ても昨日の私と同一人物とは気づかないだろうと思った。
妻は私の耳ににクリップオン・タイプの大きなイヤリングをつけ、両手首には派手な腕輪を二つずつはめさせた。
「こんなのを着けてたら仕事にならないよ」
「ヒジュラのくせに何言ってるのよ?」
と妻が見下したように言ったのでドキリとした。
妻は私の表情を見て反省したのか、
「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
と慌てて言い訳した。
「ヒジュラは一般の女性よりたくさんのジュエリーを身に着けるのが普通だから、あなたもヒジュラとして暮らすと約束したのなら、最低限イヤリングと腕輪は身に着けるべきだと思う。足輪もつけた方がいいかもしれないけど……」
「アンクレットなんてとんでもない。バイクに乗るのにアンクレットを着けていたら危ないじゃないか」
「バイクで会社に行くつもり? サルワール・カミーズならバイクの運転もできるけど、サリーを着てバイクに乗るのは危険よ。今日はBMWに乗って行きなさい」
「自動車だと下手をすると会社まで一時間以上かかることがある。化粧に手間取って時間を食ってしまったから、とにかく今日はバイクで行くよ」
「せっかく苦労して着付けをしたのにバイクに跨ったらプリーツが崩れるわ」
妻の制止を無視して私はハーレー・ダビッドソンに跨った。
「パルーが足元に垂れてバイクに巻き込まれないように注意してね」
妻の背後からの呼びかけに左手を上げて反応した。
パルーを鯉のぼりのようにはためかせて走り出したが、一分もしないうちに、バイクではなくBMWで来るべきだったと後悔した。サリーというものは腰から足の先までをすっぽりと覆うものだと思っていたが、足を大きく広げると毛むくじゃらの太ももがむき出しになってしまう。おまけに、私のハーレーにはサリー・ガードが付いていないので、サリーの裾が巻き込まれそうになった。ブレーキを踏んで危うく事故を免れたが、サリーの裾が車輪に絡んでバイクから落下し地面を引きずられている自分の姿を想像してぞっとした。
サリーをミニスカートのようにたくし上げ、風圧が来ないようにバイクの速度を落として走った。周囲の車やバイクの運転手や同乗者の視線が私に注がれるのを痛いほど感じる。悪口を浴びせかけられはしなかったが、あっけに取られていることが彼らの視線から読み取れた。そりゃそうだろう。私もサリーを着たヒジュラがバイクの後部座席で運転手にしがみついている姿は何度か見たことがあるが、サリーをたくし上げて毛むくじゃらの太ももをむき出しにしてバイクを運転しているヒジュラは見たことがない。その上、バイクはハーレー・ダビッドソンだ。ハーレーを買えるほど金持ちのヒジュラには滅多にお目にかかれるものではない。
何とか会社の門にたどり着き、門番がゲートを開けるのを待った。しかし、門番のバハドゥールはいつものような機敏な動きを見せず、ぽかんと口を開けて立っていた。
「おい、バハドゥール、口を開けて立っていたらハエが入るぞ」
と私は彼をからかった。
「自分の会社のCEOが到着したらさっと門を開くのが門番の基本動作だろう?」
それを聞いてバハドゥールが笑い出した。
「ヒジュラのくせに何を言ってるんだ? 早く失せろ!」
彼はバカ笑いしながら、手でハエを追い払うかのような仕草をした。
「今日は出社が遅くなったからお前と遊んでいる暇はないんだ。すぐにゲートを開け!」
と私は厳しい表情で命令した。
「あっちに行け、チャッカ!」
とバハドゥールが真剣に怒り出した。人をヒジュラと呼ぶのはそれだけで侮辱する言葉になるが、チャッカとはヒジュラを更に軽蔑した差別用語だ。
「門の前でヒジュラがうろついている所にティワリ社長が現れたら、わしはこっぴどく叱られる」
「まだ分からないのか? 私がそのティワリ社長だ。ちょっと事情があって女装をしているだけだ」
そう言ってもバハドゥールは全く信じようとしなかった。私はますます腹が立ったが、妻の化粧がそれほど上手だったのが最大の原因かもしれないと思い、改めて妻のテクニックに感心した。
「シッ、シッ、チャッカ! 早くあっちに行け。動かないなら警察を呼ぶぞ!」
バハドゥールは攻撃的になって、私に大声で悪態をついた。
騒ぎに気付いたスニル・ジェインが役員室の窓から顔を出し、しばらくすると門まで走ってきた。スニルは賭けのことを知っているので、ハーレーに乗っているヒジュラを見て私だと気づいたのだ。
「バハドゥール、この人はティワリ社長だ。門を開けて差し上げろ。聞くに堪えないような罵声が役員室まで聞こえたが、ティワリ社長にひとことお詫びを言っておいた方がいいぞ」
バハドゥールは納得できかねるという表情で私をジロジロ見ながら、
「すぁーせん」
と低い声で言った。事情を知らない人にはそれが「すみません」の意味だとは分からなかっただろう。
バハドゥールは私が社長になる前から門番をしており、毎朝私の姿が遠くから目に入った時点で走り出てきて門を開けてくれる、元気で愛想の良い人間だ。今日のバハドゥールは最初から不機嫌で別人のようだった。何か家庭に問題でも起きたのだろうか。しばらくバハドゥールの動向に気配りするよう、総務部長に頼んでおこうと思った。
私は社長室に駆け込んでサリーを何とか元の状態に近くなるように整えてから社内電話でスニルを呼んだ。
「スニル、私の事情について幹部に説明をしておく必要があると思うから、午後二時に緊急幹部会議を開催したい。招集できるか?」
「十四時に役員会議室で緊急幹部会議ですね。了解です」
スニルは仕事では私を上司として立ててくれる。私がこんな恰好をしていることには全く触れず、彼らしいプロフェッショナルな反応を示してくれたことに感謝した。
午後二時に役員会議室に行くと、既に部長連中が円卓を囲んで座っていた。彼らはギョッとした目で私を見てからお互いに当惑の視線を交わした。本来なら誰かが、仮装パーティーとかコーバガム・フェスティバル(年一回のヒジュラのお祭りで美人コンテストが行われることで有名)にかけた冗談を言うべきシチュエーションだったが、全員が押し黙っており、非常に気まずい雰囲気だった。
私は咳払いをしてから口を開いた。
「えー。今日の私の外観と会議の議題が気になっているのではないかと思います。両者は相反するものではなく、関連するものであります。今や多様性の時代であり、ヒジュラを含む全ての人間のアイデンティティが尊重されるべきであると私は確信しております」
ここまで言っても幹部の連中の表情は困惑したままで、話を続けづらい雰囲気になってしまった。スニルが席を立ち私の所に来て耳元でささやいた。
「屁理屈をこねるのはやめて要点を単純明解に話した方がいいですよ」
スニルの言う通りだった。時間を無駄にすることはできない。私は覚悟を決めてボーラとの賭けについて経緯を説明した。
「その覚書を見せてもらえますか」
と取締役法務部長から言われてコピーを手渡した。
彼は覚書を一言一句読み上げた。
「法律的にちゃんとした契約書であり、法的拘束力があります。ティワリ社長がご自分で起草されたとおっしゃいましたね?」
「そうです。契約書の作成について勉強を重ねましたが、結果的にそれが仇になってしまいました。契約を見直したいと先方に申し入れたのですが、はっきりと断られました。もし私が女装せずに出勤したら直ちに契約不履行となって会社を譲渡する義務が生じるので、やむなくこんな姿で出て来ざるをえなかったわけです」
「今日だけでなく明日以降も毎日『ヒジュラのCEO』として出社されるおつもりですか?」
「一年間の辛抱です。契約不履行を避けるため、皆さんどうか協力してください」
と私は全員を見回したが、誰も頷かず、私と視線を合わせようともしなかった。
あちこちからため息が聞こえて、一人、また一人と部屋から出て行った。私はとんでもない覚書を締結してしまったようだ。覆水盆に返らずとはまさにこんな状況の事を言うのだなと肩を落とした。
第二章 転落
社長室に戻って崩れ落ちるように椅子に腰かけた。どっと疲れが出てきて、仕事をする気になれなかった。
昼休みになって、役員食堂に行った。いつものテーブルに腰かけてターリー(数種類のカレーの小皿が金属製の大皿に乗せて提供される基本料理)を食べた。普段私のテーブルには二、三人の役員が座りに来て会話が弾むのだが、今日は彼らは別のテーブルに座った。誰も私に話しかけないし、目を合わせようともしない。
私がミスを犯したことを彼らが非難したい気持ちは分かるが、不適切な覚書にサインしたことを最も恥じて反省しているのは私自身だ。私はミスをした社員には注意をするが、叱った後はむしろ勇気づけるように心がけている。それに、あの覚書は会社ではなく私個人の契約書であり、不履行の場合には私個人の持株がボーラの手に渡るだけであり、会社の社長が変わっても会社自体に不利益はないはずだ。そう思うと役員たちの態度に腹が立った。
スニル・ジェインが来れば必ず私のテーブルに座るはずだが、今日は食堂に現れなかった。私は普段の半分も食べずに席を立った。
昼食後のルーティンとしてトイレに立ち寄った。役員トイレには立って用を足すストールが二基並んでおり、私は奥のストールに向かって立ったが、サリーとペチコートをめくり上げようと四苦八苦していると、パルーが便器の中に垂れて汚れてしまった。
――まずい。プレルナに叱られるぞ!
汚れたパルーを肩にかけてから何とか用を足そうとしたが、サリーとペチコートにまで尿が跳ねてしまった。私はサリーを着て立小便をすることの難しさを思い知った。
まだ出し終わらないうちに誰かがトイレに入って来る気配がした。ドアの方を見ると古参の役員のソマニがギョッとした表情で立っていた。
「いやはや、女性が立小便をしない理由が分かりましたよ、アハハハ」
とっさに、くだらない冗談を言ってみたが、ソマニは押し黙ったままだった。
私がペチコートをおろしてサリーを整え、手を洗っている間もソマニはトイレの入り口の前に立ったまま、まるで不浄なものを見るかのような目つきで私をにらんでいた。
サリー姿で立小便をした私も悪かったのだが、それにしても会社のCEOに対する態度としては失礼すぎると思った。
***
社長室に戻ったが、仕事をする気になれなかった。決裁が必要な書類にだけ目を通し、サインをした後、早々に会社を出て家路についた。
帰宅した私を、プレルナはいつも通りの笑顔では迎えてくれなかった。まだ怒っているようだ。
「いやぁ、今日は酷い目に遭ったよ。やっぱりサリーでバイクに乗るのは無理だから明日からは早めに車で行くことにする。幹部会議で覚書のことを発表したら露骨にイヤな顔をされて、根に持ったのか役員食堂は葬式みたいだった。トイレで立小便しているのを見られて冗談を言ったら再びシカトされた。仕事をする気になれないから早退したんだ。あっ、悪いけどサリーをトイレで汚しちゃったからクリーニングに出しておいてくれない?」
私はできる限り快活に面白おかしく話したつもりだったが、プレルナはニコリともしなかった。
「普段着用にあなたの体に合うサルワール・カミーズと下着を買ってきて、寝室に置いといた。毎日家に帰ったら着替えなさい」
「さすがプレルナ、気が利くね! 今度デパートに行ったらお互いの服を選びっこしようよ。これから一年間は一緒に婦人服売り場に行けるから便利だね、アハハハ」
「ヒジュラと一緒に買い物に行くなんて、あり得ないわ」
氷のような声でそう言われて私はショックを受けた。
「冷たいことを言わないでくれ。これまでも困ったことが起きたらいつも夫婦で助け合ってきたじゃないか」
「今朝あなたが会社に行った後でママに電話で相談したら、実家に帰るように言われた。この件が片付くまではあなたと一緒にいてはいけないって」
「この件が片付くまでって……一年間も離れて暮らせと言われたのか?!」
「完全にヒジュラの気配を洗い流すことができたとママが認める日が来れば良いんだけど……」
――まるで離婚も辞さないというような言い方だ……。
「僕はヒジュラの恰好をしているだけであってヒジュラになったわけじゃないぞ!」
「世間はそうは見てくれないわ。私も、私の実家も、ヒジュラの身内として扱われるなんて、絶対にあり得ない!」
「僕はプレルナをこんなに愛しているのに……」
妻を抱きしめようと近寄ると、サッと体をかわされた。
「触らないで」
後ずさりながら、昼間に役員トイレでソマニから投げかけられたのと同じ不浄なものを見るような視線を、プレルナが私に向けた。
「僕よりもお母さんが大切なのか? 帰りたければ勝手に帰れ!」
プレルナに大声でそう言い放って寝室に行き、サリーを脱いで下着姿でシャワー・ルームに行った。
妻から裏切られて腸が煮えくり返る思いだったが、ショックの方が大きかった。今朝家を出るときまで、プレルナは私がしでかしたことに腹は立てていたが、私のことを気持ち悪がってはいなかった。それなのに母親と電話をしただけで私に体を触れられることさえ嫌がるようになった。義母がヒジュラを忌み嫌っているということは分かったが、プレルナの気持ちがそれほど簡単に変化したことが信じられなかった。
幸い、プレルナは母親の命令に従わないことを決意したようだった。私への愛が彼女にそうさせたのか、単なる後ろめたさのせいなのかは分からないが、とにかく一緒に居てくれることに私は感謝した。しかし、その日からプレルナはまともに言葉を交わしてくれなくなった。食事も別で、手拭きなどそれまで共用していたものを、別々にされた。
役員食堂でシカトされたり、トイレでソマニからあんな視線を投げかけられたのも、彼らがプレルナの母親と同じようにヒジュラを忌み嫌っているからなのだろうか……。プレルナでさえ私をバイキンのように扱う。昨日までディープキスし合っていた人間と同じハンドタオルを使わないなどとは非論理的だ。プレルナは言葉を交わすだけで穢れがうつると本気で考えているのだろうか?
それにしてもプレルナとこんな状態が一年間も続くのは辛すぎる。自分がしでかしたことの重大さを思い知ったが、今となってはどうしようもない。明日からは一人でサリーを着て、化粧をして会社に行かなければならない。家事は奉公人がやってくれるので不自由はしないが、プレルナと家内別居状態になって、私はちゃんとやっていけるだろうか……。
そうだ、ムダ毛を剃らなければ。私はカミソリを使って体中をツルツルにした。自分の手足がまるで女性のようにすべすべになっていくことに後ろめたさの混じった快感を覚えた。脇の下を剃り終えた時、自分が本当にヒジュラになってしまったかのような気がした。
***
翌朝は午前六時に起きてサリーの着付けと化粧をした。化粧をするのがこれほど難しいとは知らなかった。女性は誰でも、何年も何十年もかけてテクニックを身に着けているのだ。私が一人で自然な化粧ができるようになるのはいつになるだろうか……。一時間かけて出来上がった私の顔は、どう見ても男性にも女性にも見えなかった。けばけばしい厚化粧をしたヒジュラの顔そのものだった。
プレルナに見送られることなく、BMWに乗って家を出た。外から顔が見分けられないように窓を閉めてエアコンをつけて運転した。スモークガラスだから、一目では女装をした男性が運転しているとは分からないはずだ。おへそのあたりの露出している部分に冷気が当たること以外には特に不便を感じず、外からジロジロ覗き込まれることもなかった。昨日もBMWで来れば良かった……。
門番のバハドゥールは私のBMWのナンバーを覚えているので躊躇うことなくゲートを開けてくれた。しかしバハドゥール本来の素朴な笑顔は無く、胡散臭そうな目で私を見ただけだった。バハドゥールが門で私に敬礼しなかったのは昨日に続いて二度目だった。やはり彼も私がヒジュラになったと本気で受け止めているのかもしれない。
私の軽率な行動が、従業員の会社に対するロイヤルティーを低下させるとは痛恨の極みだった。
しかし、こんなことで会社全体の雰囲気を沈滞させてはならない。会社の先行きについて希望を感じさせる施策を早期に実行に移す必要を痛感した。
――よし、今こそ新プロジェクトを実行に移そう!
私は早速社内電話でスニル・ジェインに主力銀行の支店長とのアポを取るように指示した。
数分後にスニルが社長室に現れた。
「午後二時にCIC銀行の融資担当マネージャーが来社することになりました」
「支店長とアポを取ってくれと頼んだだろう! 重要な案件はトップが直接面談して一気に進めるというのが私の主義だ。もう一度電話して、今日の午後に私が支店長を訪問したいと言っていると伝えてくれ」
スニルは悲しい表情になって私に友達モードで言った。
「リシャブ、気持ちは分かるが、自分が置かれている状況を理解してくれ。CIC銀行は保守的な社風で知られている。彼らがヒジュ……、サリーを着た男性を支店長室に通すとは思えない。もし通してもらえたとしても、その姿を見せたら逆効果だ」
「ヒジュ」で言葉を止めたが、親友のスニルの目にさえ私がヒジュラと映っているのだろうか……。
「分かった。十四時に来訪だな。融資申込書類を用意しておいてくれ」
「アイ・アイ・サー!」
とスニルが私に敬礼した。こんな恰好をしていても男性として敬意を示してくれる親友に感謝した。
従来サンライズ・テキスタイルは機械織りの織物だけを扱ってきたが、私は手織りと陶芸の分野に手を広げようと考えていた。近隣の村をすべて回って伝統的な織物職人や陶芸家と面談し、サンライズ・テキスタイルとの提携について提案した。手織り職人や陶芸家は商業資本によって製品を買いたたかれ、安い工賃でロバのように働いているのが現状だった。私たちの提案は、年間契約ベースで原材料を提供し、彼らが作る製品に相応しい工賃を上乗せして買取保証をするという内容だった。すなわち、彼らは原料購入資金を用意する必要が無く、足元を見て買いたたかれることもなくなるので安定した収益が保証される。彼らは私たちの提案を歓迎してくれた。
当社としては新たな工場を建設せずに事業が拡大できるし、当社の品質保証部が近代的な手法を駆使し、元々熟練工が揃っている地域の中小工場や家内工業を支援指導することによって品質の高い製品を安定的に確保できる。サンライズ・テキスタイルとしてブランディングすることで付加価値を加え、世界市場に打って出ることも可能だと考えていた。
そのような発想は賢い人なら誰でもできると思うが、実行に移すには会社の規模と資金力が必要だ。原材料を買い付けてから製品を販売して代金を回収するまでには六~十二ヶ月かかるので、その間の運転資金が必要になる。主力銀行にはこのプロジェクトについて早い段階から根回しをしており、正式にタームローンの申し込みをすれば融資が実行される手はずになっていた。
その日の昼食はターリーとチャイを社長室に届けさせて一人で食べた。その方が時間を効率的に使えるし、役員食堂で昨日のような疎外感を味わうのが怖かったからだ。
昼食を終えると、サリーを整え、化粧を指で直して銀行のマネージャーの来訪を待った。約束の午後二時の五分前にスニルが社長室に現れた。
「CIC銀行のアナンド氏が応接室で待っています。アナンド氏は最近ニューデリーから赴任したばかりのマネージャーですが支店長に次ぐ重要人物なので相手に不足はないと思います」
「さすがスニルだ。ありがとう」
スニルと私は背筋を伸ばして応接室へと向かった。普段ならスニルが私のためにドアを開いて私が先に入るのだが、今日は二人とも何となくぎこちなく、スニルが先に応接室に入った。
三十代のガッシリとした体格をした長身の客人がソファーから立ち上がってスニルに右手を差し出した。
「アナンドさん、わざわざお越しいただいて恐縮です。当社のCEOをご紹介します」
と握手をしながらスニルが私を紹介した。
同時に私が右手を差し出したが、アナンド氏は呆気にとられたような表情になってから、二秒後に笑い出した。
「アハハハ、悪ふざけとまでは言いませんが、この種のお戯れはちょっと……」
「いえ、決して冗談などでは……」
とスニルが口ごもった。
「アナンドさん、私がサンライズ・テキスタイルのCEOのリシャブ・ティワリです。よろしくお見知りおきのほどをお願いします」
アナンド氏は私を無視して不愉快そうな表情でスニルに言った。
「私も忙しいので、こんな茶番に付き合っている暇はありません」
「違うんです。本当にこれがうちのCEOなんです」
とスニルが申し訳なさそうに言った。アナンド氏は改めて私を怪訝そうな目で観察した。
私が差し出した名刺をアナンド氏は不浄なものを受け取るかのように指先でつまみ、私の名前と肩書を確認してからソファーに腰を下ろした。私は社会人になってからこれまで、自分の名刺を渡して相手から名刺を差し出されなかったのは初めてだった。
――何と言う侮辱的な態度だ!
腸が煮えくり返ったが、銀行マンを相手に事を荒立てるのは控えた。
「これが署名済みの融資申込書です。事業計画書と最新の財務諸表を含め、電子メールでお送りしたものと同じ内容ですが、お目通しいただいたでしょうか?」
とスニルが書類の入ったクリア・フォルダーをアナンド氏に手渡した。
アナンド氏は融資申込書をぺらぺらとめくり、十秒ほどでフォルダーに戻した。
「事業計画自体の内容はともかく、残念ながら融資には応じられません」
とアナンド氏は私を無視してスニルに言った。
「そんなバカな! 何が問題なんですか?!」
と私が声を張り上げた。
「ミセス・ティワリ……いや、ミスター……マダム……お察しください……」
「CIC銀行にはサンライズ・テキスタイルの創業時からお世話になってきたと先代からも聞いています。何故融資に応じられないのか、ちゃんと説明してください」
「では申し上げましょう。当行には厳しい融資基準が存在します。当然、事業計画を審査したうえで融資するわけですが、同様に重要なのは経営者の『人物』です。オーナー社長の健全性が疑われる会社への融資はお断りすることになっています」
「友達との賭けに負けて女装をしているだけなんです。その程度のことを真剣に受け止めないでくださいよ」
「当行は特定のカーストやセクトを排斥はしませんし、ヒジュ……人間の多様性を尊重しております。しかし、オーナー社長がヒジュ……正常性を疑わざるを得ない姿でビジネスの場に現れる会社への新規融資は致しかねます」
「分かりました。ひとまず融資申し込みはサスペンドさせてください」
とスニルが私の意向を確認せずにアナンド氏に言った。
「既存の融資枠は継続していただけますね?」
「ええ、ジェインさん。勿論、即時撤回などという措置を取るつもりはありません」
「ありがとうございます」
アナンド氏が立ち上がり、スニルがアナンド氏と一緒に部屋から出て行った。その間、アナンド氏は私に一言の挨拶もせず、視線さえ合わせようとしなかった。
ほどなくスニルが応接室に戻った。
「何と失礼な奴だ! あんな銀行を主力銀行にしたのが間違いだった。他の銀行に乗り換えよう」
「本来、銀行とはどこでも保守的なものです。既存の融資枠を撤回されなかっただけよかったじゃないですか」
「あいつ、二度も『ヒジュラ』と言いかけた。銀行が差別をしはじめたらお終いだ」
「ヒジュラの会社に喜んで融資をする銀行はありませんよ。あるとしても、地方政府とか支援団体からの圧力でやむを得ず取引をしているというのが実態じゃないですか?」
「クソっ、こんなことならもっと早く融資申し込みをしておくのだった……。スニル、書類はそろっているのだから、他の銀行にあたってくれ。そうだ。ナヘンドラ・バンクが勢いのある金融機関として最近話題になっている。ナヘンドラ・バンクにコンタクトしてくれ。私はいつでも訪問できるから」
「いや、私が財部部長を連れて行ってきます。社長は出張中だということにする方が無難でしょう……」
認めたくは無いが、スニルの言う通りだ。私は彼に善処を託した。
三十分ほどするとスニルが社長室に来て、
「ナヘンドラ・バンクにアポを申し入れておきましたが、先方からの返事待ちです。少し手間取るかもしれません」
と報告があった。
「スニルに任せるよ」
と力なく答えた。
先頭に立つのが私のスタイルだったのに、私が前面に出ることを部下が嫌がる状況になってしまった。今まで経験が無いことだけに、どうしたらよいか分からなかった。
その日も仕事をする気力がなくなり、午後四時ごろに会社を出て帰宅した。
***
それからは朝の出社は遅くなり、夕方は早く帰宅するようになった。会社に行くのが楽しくなくなった。門番のバハドゥールは私を見るとゲートは開けるが笑顔も挨拶も無く、視線も合わせない。
廊下ですれ違う従業員は私から目を逸らせて、私からできる限り間隔を開けて足早に通り過ぎる。以前なら「グッドモーニング、サー」とか「ハワユー・サー」とか笑顔で言われていたのに、何も言わないか、言ってもこちらが聞き取れないほどの小声で挨拶――もしかしたら呪いの言葉かもしれない――をつぶやくだけだった。
私は基本的に現場主義なので各部署のオフィスや生産現場に予告もなく訪れて従業員に声をかけるのが日課だったが、サリーを着るようになってからは従業員から避けられていると感じられたので、社長室に閉じこもりがちになった。
必要があれば電話でマネージャークラスの社員を社長室に呼びつけて事情を聞いたり指示を出すのだが、彼らが私を「サー」とか「ミスター・ティワリ」と呼ばなくなったことも気にかかっていた。サリーを着ている私を相手に「サー」とは言いにくいだろうし「ミセス」とか「ミズ」とか「マダム」と言うのも私に対して失礼だと思って呼ばないようにしているのだろうと最初は思っていた。しかし、彼らの表情を観察していると、以前は感じられた敬意が失われ、私が少し厳しいことを言うと、まるで辱めを受けたかのような敵意が感じられるようになった気がした。
私はマネージャークラスの従業員と直接顔を合わせるのが怖くなり、つい役員フロアにいる人間としか話をしなくなった。しかし、幹部と話をしていると私があんな覚書を結んだのを根に持っていることがヒシヒシと感じられるので、何でもスニルを通じてコミュニケーションを取るようになった。
役員食堂にはずっと行っておらず、役員トイレに行く以外は社長室に閉じこもる毎日が続いた。役員トイレは使う人が限られているので他の人とは滅多に顔を合わせなくてすむ。私は人の気配がないのを確かめて小走りで役員トイレに行き個室に駆け込むようにしていたが、たまにトイレで他の役員と鉢合わせると、彼らが露骨に不快な表情を示すので、トイレに行くのも怖くなった。
私はほぼ二時間おきにマサーラ・チャイを飲むのが癖になっている。ミランというネパール人の少年をピヨン(オフィス・ボーイ)として雇っており、ミランが頃合いを見計らってマサーラ・チャイを持ってきてくれるのだが、私がサリー姿で出社するようになってからは、ミランはベルを鳴らして呼ばない限り自分からは部屋に入って来なくなった。
その日はベルを鳴らしても反応が無かったので「ミラン」と大きな声をかけると彼が入ってきた。
「チャイ!」
とだけ言うと、彼はうんともすんとも言わずに出て行き、しばらくしてマサーラ・チャイを持って来た。
ミランは私の顔を見ずに、私のデスクの端っこの方にチャイのポットとカップを置いて逃げるように出て行った。
インドの会社では上下関係がはっきりしており、十代前半にしかならないネパール人のピヨンはうちの会社で一番低い立場に置かれていると言える。CEOでありながら、ピヨンからさえ見下される存在になってしまったとは皮肉だ。あまりにバカバカしすぎて笑いたくなってしまう。
***
サリーを着て出社するようになってから約一ヶ月が過ぎた。
ある日の朝、スニルがナビーンを連れて社長室に来た。ナビーンは二十代後半の大卒の技術者だが幹部候補の優秀な社員で、重要な工程の現場長だ。唯一の欠点は表情が暗いことであり、私は会うたびに「もっと元気そうな顔をしろ」と声をかけていた。今の自分がそんなことを人に言えるような表情をしていないことは十分自覚していたので、普段より優しい声をかけた。
「どうした、ナビーン。元気にやっているか?」
「元気なわけがありません。人事部に退職届を出しに行ったら、ミスター・ジェインが来て、ここに引っ張ってこられたんです」
「キミが辞めたら、誰が現場監督や作業員を束ねるんだ?!」
「現場監督はみんな辞めました。作業員もどんどん減っていくし、今残っている作業員も殆どが辞めたいと言っています」
私は鉄槌で頭を打たれたようなショックを覚えた。
「ウソだろう、何故なんだ?! そんな大事なことをどうして誰も知らせてくれなかったんだ!」
スニルは悲しそうに首を横に振った。
「なぜ辞めるんだ? 給料に不満があるのか? いや、うちの給与レベルは業界水準より高いはずだ。ということは労働条件に何か不備があるんだろうか? ナビーン、教えてくれ」
「彼らに直接聞いてみてはどうですか? 手が空いている作業員を呼んできましょう」
と言ってナビーンが出て行った。しばらくして彼は十人ほどの男女を連れて社長室に来た。年配の作業員が大半で、私が覚えている顔も多かった。
――彼らも私を嫌がっている……。
作業員たちの冷ややかな視線が私を臆病にした。私は勇気を振り絞ってできるだけ対等な口調で質問した。
「皆さん、不満があれば私に教えてください。給与レベルが低いと思うのなら、どの程度の賃上げが必要なのか、率直な意見を聞かせてもらえないでしょうか?」
居心地の悪い沈黙の後、年配の男性作業員が口を開いた。
「例え給料が倍になっても、この会社では働けません」
「あなたは父の代から長年働いてくれている人ですね。どうしてうちの会社で働けないのですか?」
「もう、まっぴらだ!」
と彼が吐き捨てるように言った。
「お願いです。理由を教えてください」
「理由が分からないというのか?!」
「私がサリーを着て会社に来るようになったからですか?」
「当たり前だ」
「私も好きでこんな恰好をしているわけではありませんが、誰にでも表現の自由があるし、人それぞれの多様性を認め合うべき時代になってきています」
「あんた、やっぱり何もわかっていないんだな。サンライズ・テキスタイルの社長が突然ヒジュラになったということはローカルニュースで流れているから誰でも知っている。あんたのお陰で親戚も、友達も訪ねて来なくなった。近所の人にもバカにされるし、女房までもがワシから目を逸らすようになって、子供を連れて実家に帰ると言い出した。あんたたちのような『洗練された』階級とは違って、ワシら庶民のコミュニティーは寛容度が低いんだ。これ以上ヒジュラの会社で働いていたら家庭が崩壊する。亡くなったお父さんには申し訳ないが、今日限りで辞めさせてもらう」
「ワシも前社長には恩があるが家族の方が大事だ」
「私も」
「ワシも」
全員が口々に辞職を告げて出て行った。
ショックで言葉も出なかった。
「従業員が減っていることに気づいてなかったんですか?」
とスニルが非難口調で言った。
「人事部長からひとことの報告も無かったんだ」
「CEOが従業員が減ることに全く気付かないとは……」
「このままでは会社が立ち行かない。マネージャー・レベル以上の幹部全員を招集して緊急会議を開いてくれないか?」
「分かりました。今日の午後二時に会議室で開催ということで会議招集通知を出しておきます」
***
午後二時になり、会議室に幹部社員たちが続々と入ってきた。全員が生気の無い顔をしていて、白けた雰囲気が漂っていた。
私はムードを変えるべく努めて快活に冗談っぽく呼びかけた。
「皆さん、元気がないですね。昨夜は寝不足だったんですか?!」
私の試みは失敗に終わった。
「本題に入ってもらえませんか」
と中央に立っていた若いマネージャーが苛立たしそうに言った。社内の会議で部下からこれほど無礼な言い方をされたのは初めてだった。
「分かりました。前置きはさておいて、ざっくばらんに言いましょう。今日の会議の議題は、どうすれば当社の従業員とお客様を幸せにできるかということです」
と私は話し始めた。
「まず、社員の幸せのため、一律二十パーセントの賃上げを実施したいと思います。福利厚生を充実させて、会社にジムを設置し、金曜日の昼食を無料にします。また子供のいる女性従業員のために託児所を設けたいと思います。他に希望があればアイデアを募りますが、どうですか?」
これほどの大盤振る舞いをすれば、例え狂喜しなくても笑顔になるはずだが、期待していた歓声は上がらず、誰もが仏頂面のままだった。
「いきなり言われてもすぐにはアイデアを思いつかないでしょうね。後で案が浮かんだらいつでも社長室のドアをノックしてください。では次に顧客満足度をどうやって維持するかについて考えましょう。危急存亡の今、顧客をがっちりとつなぎとめるために販売価格の値下げを実施べきだと考えます。勿論、野放図に値下げするのではなく、例えば商品ごとに一定量を買ってくれたら景品を出すなどの手法を織り交ぜるのが賢明です。懸案の新規プロジェクトである手織り・陶芸事業の計画はナヘンドラ・バンクからの融資が実行され次第スタートするので、手織り・陶芸製品を景品として提供することにすれば一石二鳥だと考えています」
賃上げの話には無反応だったが、新規事業の話をすると、幹部社員のかなりの部分からポジティブな手ごたえが感じられた。
「本当にナヘンドラ・バンクから融資が下りるんでしょうね?」
と先ほどのマネージャーが不信感を隠そうとせずに質問した。
「非常にしっかりした事業計画なので、融資はまず間違いなく実行されると確信しています。そして、手織り・陶芸事業が始まったら、お客様からの注文を二十四時間受け付けられるようにカスタマーサービス部門の増員を予定しています」
「あのう……」
女性マネージャーであるニータが手を挙げた。
「増員できればいいのですが、悪いうわさが流れているせいで会社のイメージが非常に悪くなっています。募集をかけても応募する人がいるかどうか……」
「新規事業で会社に勢いが付けば、噂なんて吹っ飛ばせます。みんなで力を合わせて頑張ろうではありませんか!」
半信半疑の表情だったが、開始時よりもはるかにいい雰囲気で緊急会議を終えることができた。
会議を終えて社長室に戻る時、スニルが一緒について来た。スニルは緊急会議での私の対応を褒めてくれるだろうと思っていた。
「どうだった? かなりうまく話せたと思うけれど」
と私はドヤ顔でスニルに聞いた。
「あの場では言い出せなかったんですが……」
スニルは非常に言いにくそうだった。
「実は、今朝ナヘンドラ・バンクから正式に返事があって、融資を断られました」
「なんてこった……!」
もし融資が得られなければ先ほどの私の話は完全に絵に描いた餅になる。
「ナヘンドラ・バンクに決め打ちしたのが間違いだった。どこでもいいから事業計画を色んな金融機関に手当たり次第出しまくって、何とか融資を確保してくれ。多少融資条件が悪くなっても仕方ないだろう」
「既に準備に取り掛かっています」
「スニルだけが頼りだ。よろしく頼む」
***
それから数日後、スニルがノックもせずに社長室に入ってきた。
「リシャブ、話がある。バッドニュースだ」
仕事の話なのにスニルは友達モードで言った。
「バッドニュースには慣れている。話してくれ」
「ボーラにやられた。ボーラ・アンド・サンズが当社に対するカウンター・プロパガンダ(逆宣伝)を世界中にばらまいているようだ。最近退職した従業員から当社の海外の取引先のリストがボーラに流れたのかもしれない。ボーラはうちの会社のイメージダウンになるストーリーをでっちあげて、うちの全取引先にメールで送ったようだ。イギリスの取引先がボーラのメールを転送してくれたんだが、新聞記事のリンクや最近のリシャブの写真まで入っていて、非常に説得力のあるストーリーになっていた」
「くそっ、汚い手を使うやつだ……」
しかし、インドにはその程度の汚い手を使う会社はいくらでもある。スキを見せた私の責任だ……。
「言われっぱなしにしたら負けだ。本来まだ発表すべきタイミングではないが、新規事業計画を含むバラ色の将来像を匂わせたニュースレターを作成して全世界にばらまこう。そうだ、それしかない」
「リシャブ、言いにくいんだけど……もうひとつバッドニュースがあるんだ」
「どんどん言ってくれ。バッドニュースなんてへっちゃらさ」
「ナヘンドラ・バンクに代る融資先の件だが、ダメだった。考えられる全ての金融機関に相談したが、全て断られた」
体中の力が抜けてしまった。
「今の所はそれがバッドニュースの全てだけど、また新しいバッドニュースが出てきたら遠慮なく報告に来るよ」
と、彼らしくないブラックジョークを言ってスニルは出て行った。
***
わずか数ヶ月の間に、一社を残して大口の顧客を全て失った。その最後の一社から品質クレームが入った時、私は破局がすぐそこまで迫っているという現実を改めて認識せざるを得なかった。その顧客によると今年に入って当社の製品の品質が不安定になったとのことだった。
「絹製品のモム・カウント(糸密度)が表記よりも低くなっていて、今回クレームがあったロットではスレッド・カウントが二百五十しか無かったとのことです。これだとブロケード(装飾性の高いシャトル織りの生地)が規格外になってしまう」
「まさか! 信じられない。チェックしてみよう」
私はスニルと一緒に最近製造されたロットを検査した。その結果、ほぼすべてのロットが規格外だった。
「気を悪くせずに聞いて欲しい。原料サプライヤーから足元を見られているんだ。ヒジュラの会社に、まともな品質の原料は要らないだろうと……」
と、スニルは少し申し訳なさそうに言った。
私はボーラの挑発に乗って賭けをしたことを心から後悔した。
第三章 転落に次ぐ転落
そんなとき、障害のある子どもたちの福祉に取り組んでいるNGOである「アシャレカ」から連絡があり、真っ暗だった展望に希望の光が見えた気がした。亡くなった父が長年アシャレカに寄付を続けており、そのお陰で私は毎年この時期に開催されるイベントにVIPゲストとして招待されていた。今年は私に関する悪いうわさが届いているはずなので招待されないだろうと予想していたが、アシャレカからVIPゲストとしての招待状が届き、私は彼らの寛容さに感謝した。しかし、考えてみれば障害のある子どもたちの福祉に取り組む人たちが、同じように苦境に直面している性的マイノリティーを差別しないのは理屈に合っている。
招待状は私たち夫婦に対するものだったので、私は勇気を出してプレルナに、アシャレカのイベントに同行してくれるよう頼んだ。
「サリーを着ているあなたと一緒に人前に出るのは絶対にイヤだわ」
とにべもなく断られたが、それでも私は食い下がった。
「彼らは障害のある子どもたちと性的マイノリティーへの差別を同列の問題と考えているんだ。その証拠として、僕たちをVIPゲストとして招待した。僕は賭けをしているだけであって実際には性的マイノリティーではないが、多様性の障害となる差別をなくすための運動への貢献を求められた以上、彼らの要請に応える社会的責任があると思う。だからプレルナ、お願いだ。会場に着いたら、僕のそばに居なくてもいいから、とにかく一緒に来てくれ。VIPゲストなんだから丁重な扱いを受けることは僕が保証する」
結局、彼女は重い腰を上げてくれることになった。私が賭けをするまではサンライズ・テキスタイルのCEOの妻として晴れやかな席にしょっちゅう同行していたので、久々にそんな気分を味わいたいと思ったのかもしれない。
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