逆転父母:今日から女子中生になりなさい
【内容紹介】夫婦関係が逆転し夫は女装して奥さんになるTS小説。耐震性データ偽造事件の責任を取って辞職した枕崎は、社会的批判や損害賠償が家族に及ぶことを回避するため離婚して全資産を妻に譲渡した。無職・無一文となった枕崎は妻の家に居候する立場になる。その日を境に枕崎と妻のが180度変化する。父と息子ダブルでTSとなる大迫力長編。第一章 耐震性データ改ざん事件
「耐震性データ改ざんか?」
新聞に出た小さな記事に父が勤務する会社の名前が書かれていた。
それは耐震性データの改ざん疑惑という明らかに不名誉な内容の記事だったが、父の会社の社名について父以外から見聞きするのはその時が初めてだった。
「お父さんの会社って全国版の新聞に名前が出るような立派な会社だったんだね」
と母に聞くと、
「その分野では力のある会社らしいわよ」
という答えが返って来たので僕は父を少し見直した。父が帰宅したらどんな会社なのか詳しく話を聞きたいところだが、父は前日からシンガポールに一週間の出張に出かけたばかりだった。
それから二日間、父の会社の耐震性データ改ざんに関する報道は鳴りを潜めていたが、次の日の新聞の第一面の右下に前回より大きな活字で記事が出た。
「耐震性データ改ざん事件は会社ぐるみか?」
その記事を読むと、父の会社では以前から耐震性データの改ざんが行われていたと断定したうえで、改ざんが経営陣の指示によるものかどうかを調査中であると書かれていた。会社側は経営陣の関与は無く現場の暴走によるものであると釈明しているとのことだった。
その記事を読んで、僕たち家族は父の会社が困った事件に巻き込まれたことを認識したが、それが会社経営を左右するほどのインパクトを持つ事件だとは思わなかった。事件によって父の給与やボーナスが下がるのではないかという心配すら頭に浮かばなかった。
しかし、その翌日の報道を見て僕たち家族は仰天した。
「耐震性データ改ざんは現場の暴走、責任者が辞任」
という見出しで、技術部の枕崎部長が責任を認めて辞任したと書かれていた。
「枕崎部長ってお父さんのことだよね。お父さんが悪いことをしたの?」
僕は母に聞いたが、母は何も言わずに首を横に振るだけだった。
その記事から推測すると父は既にシンガポールから帰国しているはずだ。家には帰れずに空港から直接出社してホテルで缶詰めにでもなっているのだろう。父が帰宅したのはその翌々日のことだった。やつれ果てた顔と窪んだ眼が父の苦労を物語っていた。
「お父さん、私たちはお父さんの味方よ」
それが帰宅した父に対する母の第一声だった。
「先にお風呂に入ってくつろいでらっしゃい」
母の優しい言葉に促されて父は風呂に入り、パジャマ姿で食卓についた。
「おビールになさいます?」
母が父のコップにビールを注ぎ、父はそれをひと息に飲み干して、ハァーッと満足の溜息をもらした。
「有希子、ありがとう。今回の事件について説明をさせてくれ。皆も聞いてくれ」
父は僕たちを見回して話し始めた。
「会社で耐震性データの改ざんがあったのは事実だ。当初現場での改ざんが発覚した際にそれを隠蔽して常態化させたのは、俺の前任の部長で、現在の常務だ。俺は昨年末に部長を引き継いで間もなく耐震性データの改ざんが常態化していることを知り、経営陣に訴えたが、問題が大き過ぎるので当面静観するように指示された。今回、内部通報によって問題が表面化したが、俺が部長就任後に耐震性データ改ざんを知った上で承認印を押し続けたのは隠しようのない事実だ。問題を起こした部門の責任者として引責辞任するのがベストだと判断した」
「悪いのは常務なのに、どうしてあなただけが責任を取らなきゃならないの?」
「経営陣が関与したとなると、会社の存続が危うくなる。現場の暴走という形に収めるのが、こういった場合の常道なんだ」
「会社はあなたに対して経済的な補償はしてくれるの?」
「引責辞任する俺に補償をしてくれるわけがないだろう。但し、会社が今回の事件に関連して俺個人に対する損害賠償請求をしないということについては一筆を取ってある。退職金は返上で、俺は今日から完全失業状態だ。この社宅からも出て行かなきゃならないが、子供達の学校の都合もあるということで三月末まで猶予をもらった」
「いずれにしても私はもうこの社宅には居たくないわ。新聞記事が出てからは、ご近所から犯罪者の家族を見るような視線を感じるもの。ここで居ると子供たちも辛い思いをするのが目に見えてる」
「その点については俺も考えた。そこで提案があるんだ。離婚しよう。有希子は旧姓の葉山を名乗り、子供たちも有希子の子供として葉山姓に変更するんだ。その上で千葉か埼玉にでも引っ越せば、お前たちが今回の事件の加害者の家族として辛い目に合うのを避けられる。最近は株主代表訴訟もあるし、被害を受けた会社が加害者側の責任者個人に賠償請求する可能性があるから、責任を家族に及ぼさないためにも離婚するのが得策だ。俺の預貯金は明日全部おろして有希子名義の口座に預けよう。数千万円しかないが、当面の暮らしは何とかなる」
「お父さんは離婚した上に一文無しになるということ?」
僕の姉で高三の彩花が質問した。
「しばらくは再就職も出来ないだろうな。ホームレスになるのは嫌だから、母さんの家に居候させてもらうさ」
母は腕組みをしてじっと考えていた。数分間の沈黙の後、母は大きく頷いて僕たち全員を見回した。
「あなたが部長就任後にずるずると悪事を放置したのは大きな誤りだった。社内の事情、秩序や慣習とかあなたにも言い訳はあったんでしょうけど、もし私ならどんな波風を立てても、例えクビになっても不正を放置したり張本人の常務を庇って引責辞任するようなことは絶対にしない。悪しき男性社会にどっぷり浸かっていたから、あなたは正しい判断ができなかったのよ」
母が父のしたことを真っ向から断罪したことに驚いた。父は唇を震わせながら俯いていた。
「あなたが稚拙な判断によって家族に迷惑をかけたことについて、離婚と預貯金の放棄の形で責任を取るというのは、とても潔い、あなたらしい提案だと思うわ。だから私はあなたの提案を受け入れることにする。預貯金を私の名義にするのは当然よ。あなたのような人にお金を持たせたら、いつまた他人に保証をするとか愚かなことをしでかすかわかったものじゃないから」
「厳しいな、でも有希子の言う通りだ」
「明日、離婚届を出して、預貯金を私の口座に移すのよ。早めに引っ越し先を探して子供たちの転校手続きを取りましょう」
「僕たち、転校しなきゃならないの? 引っ越した後も時々友達に会いに来られるかなあ?」
「苗字を葉山に変えて別人のように暮らすのよ。引っ越し先や新しい苗字は友達に絶対に知られないようにする必要があるわ」
と彩花が母の代わりに解説を加えた。
「ほとぼりが冷めたらお父さんと再婚する形を取るのね?」
僕の妹で中三の彩実が質問した。
「日本の法律では女性は離婚したら半年間は再婚が出来ないのよ。だから一番早いケースで半年後に再婚してお父さんを葉山の戸籍に迎え入れることになるわ」
「じゃあ、お母さんが戸籍筆頭者で世帯主になるのね」
と彩実。
「そうよ。これからは私が一家の主人として働くから、お父さんを含めて私の命令に従ってもらう。今日は、枕崎家として最後の晩餐よ」
母の宣言はテレビドラマのストーリーのように響いた。本当に起きていることのようには思えなかったが、それは確かな現実だった。父はビールを何度もお代わりし、彩花が「お父さん、これまでご苦労さま」と言って肩を揉んだりしてサービスを尽くした。僕と彩花も父を責める気持ちは無く、父に普段以上に優しく接した。
第二章 新しい葉山家
翌日、学校に行くと今までとは全く違う一日が待っていた。親友の駿介が「大変だな」と声を掛けてくれた以外、僕に話しかける同級生は一人もいなかった。今まで話をしたことも無い同級生や、顔もよく覚えていない隣のクラスの男子までが、僕を犯罪者のような目で見て、視線が合うと目を逸らされた。新聞に名前が小さく出ただけなのに、僕が「あの枕崎部長」の息子だということを誰かがわざわざ言い広めたのだろうか。あからさまな虐めは無かったが、このままだと虐めが始まるのは時間の問題だと思った。
家に帰ると運送会社から梱包用の段ボールが沢山届いていた。
「引っ越し先はもう決まったの?」
「まだよ。でも、夏物から片付けを始めなさいとお母さんに言われたわ」
平日の午後四時半なのに父が家にいるのを見て、何となく気まずい思いだった。父も気まずそうにしていた。
「薫、ちょっと来て」
母が父を薫と呼び捨てにするのを聞いて僕は腰を抜かしそうになった。
「お姉ちゃん、今の聞いた?」
僕は小声で彩花に聞いた。
「今朝離婚届を出してきたみたい。お母さんが、夫婦じゃなくなったからお父さんと呼ぶのは止めると言ってたわ。結婚する前は薫、有希子と呼び合ってたんだって」
母に薫と呼ばれて、父は少しバツが悪そうに母の所に歩いて行った。
「何だい、有希子」
母は新聞広告を一枚、父に渡した。
「今私が電話して予約を取っておいたから、ここのエステに行ってきなさい。顔と手と脇のレーザー脱毛のお試し三回が二万円で受けられるキャンペーンをやっているから」
「どうして俺がレーザー脱毛なんて受けなきゃならないんだよ」
「その髭面だとすぐに薫だと分かるからよ。明日、美容院の予約も取っておくわ。会社の人に見られても枕崎部長だと分からないぐらいに変身してもらわなきゃ困るのよ」
「いやだなあ……」
「はい、この二万円を持って、すぐに行きなさい」
「クレジットカードで払うからいいよ」
「ばかねえ、もう薫の銀行口座に現金は無いのよ。それに、薫の名義のクレジットカードは全部キャンセルするんだから。公共料金の引き落とし用の普通預金口座だけを残して銀行や証券の口座は今日明日中に全部解約しておきなさい」
「とほほほ」
父はガックリと肩を落として脱毛エステに行った。
父が帰宅したのは夕飯が終わりかけた時で、僕たちがお茶を飲み始めた時だった。うちの食卓は長方形で、一家の主人である父が奥にデンと座り、左右に子供たちと母が座っていた。しかし今日は母が奥の席に座った。
父は当惑した様子で末席に座った。
「薫の分は食卓に置いてあるから適当に食べなさい」
母はそう言ってから、父の顔を見て笑い出した。
「何よ、その顔。薫の顔って脱毛すると感じが全然違うわね」
父は赤面した顔で恥ずかしそうに俯いた。父は百六十三センチしかないが、男性的な濃い顔立ちをしていて小柄で細身ながら威厳のある風貌だった。毎朝剃っても、まるで髭を生やしているかのように見えるほど髭が濃かった。頬から顎に斜めに走る青く濃い髭の形は落武者を連想させた。
脱毛クリニックから帰宅した父の顔は原形をとどめないほどに変貌していた。僕はそれまで父が彫りの深い男性的な顔をしていると思いこんでいたが、父の顔の陰影は濃い髭に起因するものであり、実は女性的な卵顔の骨格だったことに初めて気づいた。僕は母に似て体毛が薄く女性的な卵型の小顔であり、身長と体型だけが父に似ていると言われてきたが、僕の遺伝子は実は体毛以外は大部分が父から受け継いだものではないのだろうかとその時初めて思った。
「眉だけが太くて、少年漫画のキャラクターみたいね。後で眉の形を整えてあげるわ」
と母が言うと、姉の彩花が自分がやると言いだした。
「眉は私が得意よ。流行の形に仕上げさせて」
「いいわ、じゃあ彩花がやって」
と母が許可を出した。
「じゃあ薫、食べ終わって食器を片付けたら彩花に眉を整えてもらいなさい」
と母が言って席を立った。
「俺がひとりで食器を洗うのか?」
父が不満そうに周囲を見回した。
「ここは私の家よ。薫は居候だから言われた通りにしなさい」
そう父に言ってから僕たちを見回して付け加えた。
「あんたたちの仕事は勉強よ。家事は手伝わずに自分の部屋に行きなさい」
「今までも食器を台所に持って行くぐらいは手伝ってたよ」
と僕が言うと、
「そうね。葵は男子だから食器を台所に運ぶ手伝いをしなさい」
と母が答えた。
何故男子だから父の家事を手伝うという理屈になるのかは理解できなかったが、父が気の毒だったので僕は母に言われた通りに食器を台所に運び、一人で夕食を食べていた父にお茶を入れた。
「ありがとう、葵。お前は心の優しい子だ」
父がご飯を食べながらしんみりとした口調で僕に言った。
「脱毛ってどんな風に抜くの?」
どうすればこれほど劇的に髭が薄くなるのか、とても興味があった。
「まずカミソリで髭を剃ってツルツルにするんだ。次にレーザー光をパルス状に照射して髭の皮膚の中に残った部分と毛根を焼き切る。このぐらいの大きさの照射ヘッドに開けられたスリットから一定間隔でバシッ、バシッとレーザー光が出るんだが、照射ヘッドは冷却ヘッドを兼ねていて潤滑ジェルが塗られている。脱毛した皮膚を冷却することによって火傷を防ぐんだよ」
「焼き切るということは痛いの?」
「バシッ、バシッとレーザー光が照射される度に、ビンタで殴られるぐらいの痛みがあるよ。俺も泣きそうだった、アハハハ」
「一度レーザー照射すると、二度と毛が生えなくなるの?」
「毛周期は八十日と言われていて毛を焼き切っても再び生えてくるんだが、毛根が完全に死ぬと再生しない。レーザーは黒い毛に吸収されるわけだから、今日の時点で休止期だった毛根からは毛が生えてくる。だから何度もレーザー照射を繰り返さないと、毛は薄くなってもまた生えてくるんだ。髭剃りが不要になるほど完全に脱毛するには半年から一年もかかるそうだ」
「女の人の肌みたいになるってこと? でもお父さんは男だから、そこまで完璧に脱毛する必要はないよね」
「そうだな、だがどこまで脱毛するかは母さん次第だな。俺は言われた通りにするしかないから」
「それにしても、いきなり食事の座席まで変えるなんて、お母さんも横暴だよね」
「仕方ないさ。俺が悪いんだから。それに、俺が今まで横暴にしてた通りに母さんが俺を扱ってるわけだから文句は言えないさ」
「お父さん、くじけないで頑張ってね。僕、お父さんの味方だから」
父はうっすらと目に涙をためて優しい笑顔を返してくれた。食べ終えた父の食器を台所に運ぼうとすると、
「葵、もういいよ。そこまで手伝わせたら、俺、母さんに叱られるから」
と言われた。
僕は勉強部屋に行って宿題をした。予習と復習をしようと数学の教科書を開けたが、今日学校で経験した疎外感が蘇って、勉強をする気にはなれなかった。数学は二ヶ月ほど前によく理解できないことがあったが、それが尾を引いてその後教わった事が全部あやふやだった。最近の月例テストでは数学は殆どあてずっぽうの答えしか書けなかった。まだ返してもらっていないが、散々な結果になるのは確実だった。
しばらくして隣の部屋から彩実の奇声が聞こえて来た。
「キャーッ、可愛い!」
この社宅は父母の寝室以外には子供部屋が二室しかなく、一室は姉と妹の共有で、一室を僕が使っている。先ほど母から言われた通り、食器を洗い終えた父が姉の部屋に行って眉を整えてもらったのだろう。
「完成よ、ママに見てもらおうよ」
姉の彩花の声がして、父が居間に行く気配があった。僕も見に行こうと部屋を出た。
「ぎゃははは。可愛すぎるわ。彩花、やりすぎじゃない」
母が父の顔を見て手を叩いて喜んでいた。
「そんなことないわ。今、こんな眉が女子大生やOLの間で流行してるんだって。お父さんの場合は地毛がものすごく広範囲に生えていたから、描き足さなくても、抜くだけで完成したのよ。すごい量の眉だったわ」
父は鏡を見て、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「女みたいじゃないか。俺、こんな顔で人前に出られないよ」
「これでいいのよ。人が見て枕崎薫だと分からないように変装するのが目的なんだから。それにしても薫の顔って女顔だったのね」
「変装が目的だったら、お化粧させようよ。この顔だったら絶対に女の人に見えるわよ。お父さんは離婚して家を出ていって、代わりに親戚のおばさんが住むようになったことにすればいいじゃないの」
彩花が父の気持ちを全く考えずに酷いことを言うのを聞いて腹が立った。
「いくらなんでも、いきなりお化粧は可愛そうでしょう。でも、お父さんは離婚して家から出て行ったというのは名案ね。皆もこれからお父さんと呼ぶのは禁止よ。薫と呼びなさい」
「いいわね。でも薫は私たちをどう呼ぶのよ」
母は結婚前から父を薫と呼んでいたのだからそれで良いが、姉が呼び捨てにするのは不自然だと思った。
「彩花さん、葵さん、彩実さんで良いわ。でも葉山家の人間じゃない薫が私を有希子さんと呼ぶのは不自然よ。ご主人さまと呼ばせるのも人に聞かれると変だから、葉山さんと呼びなさい」
「薫さんが僕をさん付けで呼ぶのは変だよ。葵と呼び捨てにして欲しい」
「まっ、とりあえずそんな感じでいいんじゃない。さあ、皆、これから色々大変だからお風呂に入って早く寝ましょう。今日からは私が一番風呂よ。薫は最後に入って掃除しなさい」
「とほほほ」
「この程度でとほほじゃないでしょう。明日からは掃除、洗濯は全部薫がやるのよ」
父はガックリと肩を落として一人で寝室に行った。寝室には父が家で仕事をするためのデスクがありパソコンや本が置いてある。そこは父の隠れ家だった。しかし父は一分もしないうちに慌てふためいて居間に戻って来た。
「な、ない。パソコンから俺のアカウントが消えてしまった。本や書類も無くなってる」
「何を言ってるの。ここは私の家よ。パソコンから薫のアカウントは消したし、あの机には私のものしか置いていないわよ。私にとって不要なものは全部捨てたから」
父はその場にへなへなと座り込んだ。
「あんまりだ。ネットやメールはどうすればいいんだ?!」
「薫がネットを検索しても見たくない記事ばかり目に入って気が滅入るだけだし、現時点で薫に届くメールには返信してプラスになるものは無いわ。薫は当分この世から痕跡を消すぐらいで丁度良いのよ。だから当分ネットは禁止。仕事も無いからデスクは不要。これからは台所が薫の部屋よ」
「……」
母の言うことに確かに一理はあるが、父があまりにも気の毒で見ていられなかった。
***
翌朝起きると台所には父が立っていて、母や僕たちの朝食を作っていた。
「薫、コーヒーはまだなの」
「薫、早く低脂肪乳をコップに入れて」
母と彩花が父に横柄な口を聞いている。妹の彩実は僕と同様、父に気を遣って、自分のことは自分でしようとしていた。
夕方学校から帰宅すると、えんじ色のジャージーを着た小柄なショートヘアの女性が母の横に立っていた。
「こんにちわ」
と挨拶をするとその女性は恥ずかしそうに俯いた。
「葵、よく見なさい。これは薫よ」
母に言われてよく見ると父だった。えんじ色のジャージーは以前姉が着ていたものだった。髪がチョコレートブラウンの女性らしいショートヘアになっていた。小柄な女性に見えたのは、百七十三センチある母の横に立っていたからだった。
「今日美容院に連れて行ったのよ。レーザー脱毛と眉カットのお陰もあって別人のようになったわ。今の薫を見て枕崎部長だと思う人は居ないでしょうね。人前で声を出さないことが大事だけど」
「葵、学校はどうだった? 俺の事件で虐められたりしていないか」
と父が僕に聞いて話題を逸らした。
「うん、みんな僕と口をきくのを避けてるみたい。まだ、面と向かって酷いことは言われていないけど、心の中では色々思ってるんだろうな。でも、お父さんが離婚して家から出て行ったと親友の駿介に言ってからは何となく僕に対する皆の反感が薄らいだような気がする」
「そうか。俺の為に申し訳ないな」
父がしんみりと言った。
「薫、折角女性っぽい見かけになったんだから、俺は止めなさい。これからは私と言って、女言葉でしゃべりなさい」
「ま、ま、待ってくれよ。俺じゃなくて私と言うのは了解するけど、女言葉でしゃべるというのは勘弁してくれよ。いくらなんでもあんまりだ」
「お母さん、お願い、お父さんを虐めないで。もう少し優しくしてあげて」
「お父さんじゃなくて薫でしょ。それに私は虐めてるわけじゃないのよ。枕崎薫の痕跡を消すことが薫にとっても私たちにとっても望ましいから、そうなるように指導しているだけよ」
「ごめんなさい。お母さんが虐めてるだなんて言ってしまって。でも、女言葉でしゃべらせるのは可愛そうだから許してあげて。お願い」
「葵がそこまで言うなら今日のところは女言葉は取り下げるわ。そのかわり丁寧な言葉でしゃべるのよ。私には必ず敬語で話しなさい。もし一度でも男っぽい言葉でしゃべるのを聞いたら、その時点で女言葉にさせるから、それでいいわね」
「はい、葉山さん、ありがとうございます。葵、私のことを助けてくれて本当にありがとう」
「薫、なにをぐずぐずしてるの。まだアイロンがけが残ってるわよ」
母は僕が父の味方をすると苛立った口調になるようだ。
「はい、葉山さん」
と父が言って、居間の隅でアイロンがけをし始めた。
僕は何となく父のそばに居てあげたかったので、学校のカバンを居間に持ってきてソファーに座って宿題をした。数学の宿題は演習問題が一つだけだった。先生から、教科書に出ているのと同じパターンの基本的な問題なので目を閉じていても解けるようにしてきなさいと言われていた。教科書の同じパターンと思われる問題とその解法を何度も読んだが、なぜそうなるのか意味が分からなかった。もう諦めようかなと考え始めた時、横に母が立って僕を見ているのに気づいた。
「葵、ここからここまでが分からないんじゃないの?」
母は教科書の中の二、三行を指で示した。
「そうなんだよ、どうして分かったの?」
「高校になって成績が急低下する子によくあるパターンだからよ。この部分が分からないということは、その前に習ったことが理解できていないからなのよ」
母は教科書を数ページ戻って、ある公式を指で示した。
「そうなんだ。そこがチンプンカンプンだったんだ」
「じゃあ、多分その前のここも分かってなかったんじゃない?」
一つ前のページの赤線で囲まれた部分を指さした。
「お母さん凄い! 僕がどこが分からないかを魔法のように言い当てるなんて」
「葵、初めに分からなくて困った時に、どうして相談してくれなかったの? 四月に高校の数学が始まってすぐに習った公式を理解できてないから、その後が全部あやふやになったのよ。私が四月に遡って教えてあげなきゃならないわ」
「お母さんが数学が得意だなんて知らなかったもの。お父さんはずっと忙しくて勉強を教えてもらえる雰囲気じゃなかったから」
「薫に聞いても無駄よ。薫は理科系は全くだめだったから。葵は頭が薫に似てしまったのね、可哀そうに」
「お母さん、薫さんのことを勉強が出来ない人みたいに言うなんて酷いよ」
「葵、酷くないんだよ。葉山さんが仰る通りなんだ。私は国語と英語の二科目だけで受けられる三流の私立大学の経済学部に入ったんだ。葉山さんはろくに勉強もせずに難関大学に余裕で受かった秀才だから、葵は勉強に関する質問があればお母さんに聞かなきゃだめだよ」
「お母さんがどこの大学を出てるか教えてくれたことはないけど、難関大学なの?」
「葉山さんは福岡の医大を卒業なさったんだよ。その医大は今は私立大学の扱いになってるけど、国策で設立された医大で、葉山さんが通っていらっしゃった時代は学費は全額免除だった。葉山さんはお医者さんとして生きて行くことも出来たのに、私と結婚する時に専業主婦として子育てに重点を置いた人生を歩む決意をなさったんだよ。私はそれに甘えて来ただけなんだ」
「薫、そんな卑屈な言い方はしないで。私は好きなことをさせてもらったんだから、薫には感謝してる。これからは産業医として自立した半生を送ることになるけれど、それもある意味で薫が辞職したお陰だもの、うふふ。これからは私が主人として薫を養ってあげる」
僕は頭がくらくらし始めた。耐震性データ改ざん事件を理由に母が父に取って代わり、今まで父が威張っていたのを根に持っていた母が逆に父を虐めているのだろうと推測していたのに、父と母の会話にそんな雰囲気は全く感じられなかった。元々母の方が頭脳的に遥かに優秀なのに、子育て中心の人生を選び、父が稼いで母が従うという「夫婦ごっこ」をしていたというのだろうか? 自分より遥かに優秀で、医者の資格を持っていて、身長が十センチも高い、普通に考えると手の届かない女性を妻として従わせてきたというのだから、男としての父の実力は尊敬に値する。
「本来は私が葉山さんに命令されて当然なのに、二十年近くも逆の人生を歩んできたんですものね」
父はまるで中学生の女子が初恋の先生を見上げるような視線を母に向けた。
「やっとこれから本来の関係が始まるのよ。なんだかこそばゆい気がするわ。でも薫、あなたは本当に何もできないんだから、これから私の言う通りに一生懸命に努力しなさいね。わかってるでしょうけど、私の命令に従わない場合は家から追い出されてホームレスになると覚悟するのよ。さあ、次は夕食の支度。ゴボウの剥き方を教えるからエプロンをして台所に来て」
「はい、葉山さん」
父はエプロンをして嬉しそうに母の後を追った。
僕は父が不幸ではないと分かってほっとしたものの、母が父に対して全く容赦する姿勢が無く、まるで絶対的な主人であるかのように振舞っていることに疑問を感じた。父と母しか知らない特別な理由があるのだろうか。
母は台所で父に料理の仕方を教えて色々指図をした後、僕の所に来て数学を教えてくれた。教科書の一ページ目から、僕が分からないところを丁寧に教えてくれて、夕食の時間になると僕は夏休み前までに習ったのに理解できていなかった点が、すっかり分かるようになった。
「明日、続きを教えてあげるわ。きっと明後日には授業に追いつけるようになるわよ」
「お母さん、本当にありがとう。お母さんがこんなに賢い人で、僕はラッキーだった」
「ごめんね、ラッキーとは言えないわ。葵の頭が彩花や彩実のように私と似ていたら、こんな簡単なことは数分で理解できたのにね。でも葵はお父さんから良いところを沢山受け継いでいるわ。可愛い顔で、素直で優しくて、食べてしまいたいくらいよ。彩花や彩実とは違った幸せな人生を送れるようにしてあげるからね」
母は僕の肩に手を回して優しい声で言った。僕は姉妹と比べて頭脳レベルが格段に劣ると決めつけられたような気がして傷ついたが、母が僕を愛してくれていることが感じられたので幸せな気持になった。
夕食の後、母に並んで居間のソファーに座りテレビを見ていると、彩実が中学の制服のスカートを持って母に相談に来た。
「ねえお母さん、私のスカートを見て。皺がひどいでしょう。テカテカが益々ひどくなるのは嫌だからアイロンもかけたくないし、新しいのを買ってくれない?」
「もう少しで卒業なんだから今更新しいスカートを買うのは惜しいわよ。毎晩布団の下に敷いて寝なさい」
「受験勉強で忙しいのにそんな面倒くさいことをしてられないわよ」
「それもそうだけど……。薫、ちょっと来なさい」
一人台所で立っていた父が母に呼ばれて来た。
「彩実のスカートの皺を伸ばすために、薫の布団の下に敷いて寝てあげなさい。これから彩実は学校から帰ってきたらスカートを薫に渡しなさい。薫は毎朝彩実が起きる前にスカートを部屋に届けるのよ」
「薫さんに毎日敷いて寝てもらうなんて申し訳ないわ。それに、毎朝大人の男性がスカートを届けに部屋に入ってくるなんて嫌よ」
彩実は話の成り行きに当惑しているようだった。
「彩実が制服を大切にしないからそんなことになるんじゃないか」
僕は彩実のお陰で父がまたそんなことを言いつけられたことに心を痛めていたので、彩実を非難した。
「なによ、スカートをはいたことがないくせに。制服のスカートは扱いが面倒なのよ」
「そりゃあ男だからスカートのことはよく分からないけど。薫さんだって同じだよ。彩実が自分で敷いて寝ろよ」
「私は葵と違って勉強で忙しいのよ。薫さんにさせたくないんだったら、どうせ暇なんだから葵が私のスカートを敷いて寝てよ。葵なら毎朝スカートを届けに私の部屋に来てもどうってことないし」
「ばーか」
と僕は一笑に付した。
「彩実のアイデアも一考に値するわね。じゃあ葵、今日からあなたが彩実のスカートを布団の下に敷いて寝なさい。スカートについて学ぶためには良い機会だわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕、彩実のでかいスカートなんて触りたくもないよ」
母は僕の抗議を無視して彩実のスカートを持って立ち上がった。
「葵、来なさい。スカートを布団の下に敷いて寝るやり方を教えるから」
母は嫌がる僕を連れて僕の部屋に行った。ベッドの上の敷き布団をめくり上げて、スカートをベッドの上に丁寧に置き、プリーツが正しく折れていて皺になっていないことを確かめながら敷き布団を上に乗せた。
「やり方、分かったわね。じゃあ自分でやってみなさい」
母は折角きれいに敷いたスカートを取り出して僕に持たせた。僕は小さい時から姉妹のスカートを身近に見ながら育ってきたが、こんな風に手に持つのは初めてだった。スカートがこれほど重いとは知らなかった。ズボンよりもずっと広い面積の布で出来ているから当然のことなのだろうが、その重みが僕をドキドキさせた。
「うふふ、彩実のスカートは葵には長すぎるわね。ロングスカートになっちゃうわ」
母はスカートを僕の手から取り上げて、僕の腰に当てた。
「折れば葵でもはけるかな。ちょっとはいてみる?」
母が意地悪そうに僕に聞いて、僕は耳まで真っ赤になった。僕は母からスカートを取り返し、ベッドの布団を半分上げて、教わった通りにプリーツが折られていることをチェックしながら布団を上に乗せた。
「上手ね。彩実も葵みたいに家庭的だったらいいんだけど、期待できそうにないわ。じゃあ葵、毎朝起きたらすぐにスカートを彩実に届けるのよ」
その夜、敷き布団を介して僕の身体がスカートに接していると思うと、身体が熱くなって寝付けなかった。僕は普段妹の彩実の裸を見ても何とも思わないし、彩実も気にしないのに、何故彩実のスカートを敷いていることで自分が興奮するのか、自分自身理解できなかった。結局僕は久々にオナニーをしてやっと眠ることが出来た。
第三章 新天地
一家の大黒柱となった母はパートタイムの仕事を開始した。パートタイムと言っても一般の主婦のようにスーパーマーケットにレジを打ちに行ったり食品工場に作業をしに行くわけではない。
医師を対象としたウェブサイトに登録すると、自分が働きたい日に臨時勤務の医師を募集している病院や医院が表示される。その中から仕事の内容と報酬が自分の希望に合うものを選んで申し込むようになっている。長年医療から遠ざかっている母は、定期健康診断、コンタクトレンズの処方が専門の眼科、ショッピングセンターにある内科クリニックなど、母にとって難易度の低い仕事を選んでいるようだった。
一日八時間のバイトに出ると八万円から十万円の収入になり、毎週二回ほどバイトに出れば父が会社からもらっていた月給を上回るので、僕たちが路頭に迷うことはないとのことだった。父が毎日身を粉にして稼ぐよりも、母が少しバイトに出る方が金額が上だと知って僕は驚いた。
「世の中は公平じゃないのよ。彩花と彩実は頭脳を活かして私のように自立すればいい。葵は苦労しないように、私が生き方を見つけてあげる」
というのが最近の母の口癖だ。僕は母に猫可愛がりされることに小さい頃から慣れていた。彩花や彩実は母が僕を特別扱いすることに嫉妬する様子は無く、母と一緒になって僕をペット扱いして楽しんでいるようだった。百七十センチ以上ある三人の女性に取り囲まれると僕は何も言い返せなかった。
僕たちにとっては母が働きに出始めたという意識はあまりなかった。母はバイトのある日でも朝僕たちが学校に行くのと相前後して家を出て、遅くとも午後六時半までには帰宅するので、僕たちと接する時間は従来通りだった。以前は母は家にいても一日中何か家事をしていて一緒にゆっくり座って話をする機会は少なかったが、今は父母の寝室にあるデスクで仕事をする以外は居間のソファーで座っていることが多く、僕はいつでも母の傍に行って話をしたり甘えることができた。父は起きている間は必ず家事をしていて、しょっちゅう母に指図をされたり、叱られたりしている。経験が浅いので家事の手際が悪いため、母なら一時間で出来ることを父は二時間かかると母がこぼしていた。
従来父は殆ど家には居なかったし、休日に居ても話しかけづらい感じだったので、話す時間が少ないと言う点では今も同じだ。以前と違って父は威張った感じは無く、むしろ家族の中で一番低い立場を甘受しているように見えた。僕は、父が母からひどく叱られたりした後に、元気づけようと思って台所に行き、食事の用意や洗い物をしている父に友達のように話しかけた。そんな時に父から昔話やホンネが聞けることが嬉しかった。結局、父が辞職したお陰で、家族の間であちこちに親密な関係が新たに芽生えて、家族の絆が従来より太くなったように思えた。
母は卒業した医大の人脈や、バイトによって得たコネクションを活用して、安定的に収入の得られる仕事を模索していた。その結果、幕張新都心に拠点を置く企業に産業医の需要が大きいことが判明し、大手IT企業の契約産業医になった。毎月第一月曜日・火曜日と第三月曜日・火曜日の合計四日間、九時から五時まで勤務するだけで月給四十四万円が得られるとのことで、夕ご飯の時に母がその話をすると、父は目を丸くして母を尊敬の眼差しで見つめた。
「首都圏で色々探してみたけど幕張新都心が意外な穴場みたいなのよ。定期的に勤務するのはその会社だけにして、後は契約ベースで数社の産業医をすれば裕福な生活が送れるわ。あの地域には彩実に勧められる難関私立高校もあるし、都心への交通の便も良いから彩花が家から大学に通える。東京と比べて土地が安いから一戸建てを買って住めるわね」
「私、あの高校は結構好きだよ。偏差値は高いけど、私なら受験すれば必ず受かるわ」
彩実が自信たっぷりな口調で幕張に住むことに賛成した。
「私もどうしても東大の理三に行きたいという訳じゃないわ。理三は私の成績だと受かる確率が八十%しかないのよ。幕張に住むんだったら千葉大の医学部が通学に便利ね。千葉大医学部なら遊んでいても受かるわ」
僕の通っている高校だと国立大学の医学部に受かるのは五年に一人程度だ。もし僕が千葉大医学部に受かったら学校の門に銅像が建つかもしれない。
「彩花、最後まで気を抜いちゃ駄目よ。試験が終わるまで真面目に受験勉強なさい」
「はあい。ところで葵はどうするの? 幕張近辺の高校に転校することになるわけでしょう。葵が入れるような高校があるかなあ」
「今、探している所よ。医大の同期生で幕張にある学校法人の理事長の娘がいるから、彼女に相談してみようと思うの。でも、葵は無理をしてレベルの高い高校に入る必要はないわ」
「葵は楽でいいよね」
と彩実が妹のくせにバカにしたように僕に言った。
「彩実、葵は誰にも負けないほどの美しさと優しい心を持ってるのよ。葵が彩花や彩実に劣っていると思ったら大間違いよ」
「お母さん、ありがとう。でも、僕くやしい。もっと賢い頭に産んで欲しかった」
母は僕の手を優しく握った。
「もし葵が転校できる高校が見つからなかったら、高校には行かずに家事手伝いをしていてもいいのよ。葵は私のそばに置いていつまでも守ってあげるから」
「ちょ、ちょっと待って、お母さん。転校できずに家事手伝いと言うことは、中卒で我慢しろということなの? 嫌だよそんなの。お母さんに続いて彩花姉ちゃんも彩実もお医者さんになるだろうし、薫さんだってちゃんと大学を出てるのに、家族の中で僕だけが中卒だなんて恥ずかしい」
「葵には学歴なんてどうでもいいのよ。こんなに綺麗で可愛いんだから」
「お母さんお願い、高校だけは出させて。頑張ったら大学にも入れると思うから」
「必死で勉強して三流大学に入っても、社会に出たら薫みたいに苦労するだけよ。葵をあんな目には合わせたくないわ」
「一生お母さんのそばで家事手伝いだなんて嫌だよ。僕だって人並みに結婚したいから」
「一生私のそばで居ろとは言っていないわよ。結婚相手は、葵を大事にしてくれる立派な女性をお母さんが見つけてあげる」
「いくらお母さんに言われてもそれだけは譲れない。もし高校に行かせてくれないんだったら、僕は家出するから」
「分かったわよ。葵の転校を受け入れてくれる高校を探してあげるわ」
「お母さん、ありがとう」
「良かったわね、葵。正直言って葵みたいな人生にも魅力を感じる。ただ、相手次第だし、受け身だから当たり外れが大きいけど。まあ、彩実と私はこんな身体と顔じゃあ、葵的な人生は送りたくても無理か! アハハハ」
と彩花が言った。
「お姉ちゃん、私まで一緒にしないでよね」
彩実が口を尖らせた。彩実は自分の方が彩花より美人だと思っているが、僕から見ると、まだ中三なのに家族で一番背が高くて肩幅の広い彩実よりは、母似でモデル体型の彩花の方が男性受けするのではないかと思う。
我が家の女性達が自信に満ちた発言をしている横で、父は優しい笑顔を浮かべて黙って話を聞いていたが、僕の肩に手を置いて耳元で
「私の頭脳が葵に遺伝して本当に申し訳ない」
と囁いた。
一月になって彩実は母が勧めた幕張の難関私立高校を受験し、当然のように合格した。合格発表の結果にも特に嬉しそうな顔を見せなかったが、夕食に父が真っ先に彩実のお茶碗を取ってお赤飯を入れた時に、ぽっと頬を赤らめて「ありがとう」と言ったのが印象的だった。
彩実の合格発表の日から、僕は彩実のスカートを布団に敷いて寝る役目から解放された。母が彩実に自分でやるように言いつけたのだ。しかし彩実は
「そんな面倒なことをするぐらいなら皺のあるスカートで学校に行く方がマシだわ」
と言って、翌週になると彩実のスカートは誰の目から見ても皺だらけでくたびれた感じになった。僕は見るに見かねて彩実のスカートを布団の下に敷いて寝る役割を買って出た。
彩花の大学入試でやきもきして緊張していたのは父と僕だけで、母や彩実も、そして彩花本人も普段通りに過ごしていた。彩花は毎週見ていたテレビドラマを入試の直前でも決して見逃さなかった。僕は月例テストの前夜に、全く問題が解けずに白紙回答を出す夢を見た。テストがある度に神経がすり減る。余裕と胆力のある彩花や彩実が羨ましかったが、とどのつまり彩花と彩実の余裕は勉強の内容が完全に理解できていることから来ているので、僕には一生届かないことなのだ。
***
彩花の合格発表があってまもなく、僕たち一家は幕張の住宅地にある一戸建ての中古住宅に引っ越した。僕の高校の三学期の終業式まではまだ数日残っていたが、わざわざ一時間余りもかけて元の高校に数日間通うのはやめにした。まだ転校先の高校は決まっていなかったが、僕は同級生に挨拶もせずに引っ越した。
引っ越しの日、僕たちが幕張の家に到着したのは夕方だった。荷物の片付けに取りかかる前に、母は、父を台所の横の二畳の作業部屋に連れて行った。
「薫がリビングで洗濯物を畳んだりアイロンするのは目障りだから、この作業部屋を使いなさい。私は新しいパソコンを買うから今使っているノートパソコンは要らなくなる。あの隅の棚にノートパソコンを置いて使っていいわよ。この作業部屋は、まあ、薫の部屋みたいなものね。勿論、家事が全部終わってから使うのよ」
僕はたまたまそこに居合わせたが、父は目に涙を一杯浮かべて母に抱きつき「ありがとうございます」と泣きじゃくっていた。夫婦逆転後、父の居場所は台所しかなかったし、インターネットで何か調べたくてもパソコンに触ることも許されなかったので、父は自分の部屋と呼べる空間を与えられたことが余程嬉しかったのだろうと思った。
幕張の家の二階には洋室が四つあり、彩花、僕、彩実の部屋と、客間になった。一階の八畳の部屋が母と父の寝室で、その続きの六畳の間が母の書斎だ。
各々自分の部屋に自分の荷物が入った段ボール箱を運んで片付け始めたが、父は自分の服を入れた段ボール箱が見つからずに右往左往していた。僕も服の入った段ボール箱が見つからず、他の人の荷物に紛れ込んでいないかと家の中を探していた。母が父の様子を見て言った。
「薫の衣類の段ボール箱はもう無いわよ」
「私の衣類の箱が無いって、どうしてですか」
「これからは産業医の契約先からの連絡も入るから、私のことは葉山さんじゃなくて、先生と呼びなさい。いいわね、薫」
「はい、先生。でも私の衣類は……」
「薫の衣類は全部捨てたわ。だって、背広なんかを着る機会はもう無いじゃないの。明日から薫が着る服は私が毎日渡すから、それを着るのよ。薫が今着ているジャージーも捨てるから、洗濯しなくてもいいわよ」
「は、はい。でも、明日の朝着るものはどこに……」
「明日渡すと言ったでしょう。文句ある?」
「いいえ、先生、とんでもございません。失礼いたしました」
翌朝起きて朝食を食べにキッチンに行って、僕は腰を抜かしそうになった。父が花柄のワンピースを着て母にコーヒーを出していたからだ。
「薫さん、その服、どうしたの?」
僕の質問に父は俯いて黙っているだけだった。
「今日からこの人は薫じゃなくて薫子になったのよ。葉山家に無関係な男性が出入りするのは世間体が悪いし、枕崎薫との関係を疑われるのは嫌でしょう。住み込みの女中ということにするのが一番自然だから、薫子は毎日お化粧をしてスカートで生活させることにしたのよ。レーザー脱毛に何度も行かせたお陰で、化粧乗りもばっちりよ」
「薫子さん、本当にそれでいいの?」
「私は先生の仰る通りにするしかありませんから……」
丁度その時、彩花と彩実が一階に降りてきて、父の姿を見て僕と同じように呆気にとられていた。
「この家に大人の男性が出入りするのは変だから、転居を契機に住み込みのお手伝いの薫子ということにしたの。人に聞かれたらそう口裏を合わせるのよ、いいわね」
「そりゃあ、薫子がそれでも良いなら、私たちは異論は無いけど。ねえ、彩実」
と彩花が言うと彩実が頷いた。
「普通の男性なら脱毛しただけでは女性として通らないわよね。薫子さんは顔立ちがとても綺麗だから、スカートをはけば女性として全く不自然さがないのね」
彩実は父を元気づけようとして精一杯のお世辞を言ったつもりのようだった。
「本当ね、お母さんよりずっと女らしいもの」
彩花は、そう言った後で母が不機嫌そうな顔をしたのを見て「しまった」という表情をしていた。その場をごまかそうとして彩花は僕の方を向いて言った。
「四十代の薫子がこんなに女らしいということは、薫子のDNAを受け継いだ葵は、ヒゲも生えていないし肌も真っ白だから、更に女らしいと言うことよね。ねえママ、葵が転校する高校が見つからないんだったら、女子高にでも入れたらいいんじゃない?」
「もう、彩花姉ちゃんったら、どさくさ紛れに変なことを言わないでよ」
僕は彩花に抗議した。
母はいつも僕の味方をしてくれるので女子高云々について彩花を窘める発言を期待したが、母は「そうね」と言った後、真剣な顔をして僕に言った。
「転校先の件だけど、色々当たった結果三十分で通学できる範囲には葵が転校出来る高校がないと分かったのよ。もう少し成績が良ければ何とかなるんだけど……。でも、よく考えてごらん。毎日片道三十分以上かけて高校に通うなんてバカバカしいわよ。葵は明日から薫子の手伝いをして、家で過ごせばいいわ。私が毎日教育してあげるから」
「お母さん、約束が違うよ。高校だけは出してくれると言ったじゃないか」
「そのつもりだったけど、行ける高校が近くにないんだから仕方ないでしょう」
「嫌、絶対にイヤだ。高校に行かせてくれないのなら、僕本当に家出するからね!」
僕は朝食も食べずに階段を駆け上がって自分の部屋に入り、バタンとドアを閉めた。
僕は母を嫌いになりそうだった。今回の転校の話が出るまで、母はどんな場合でも僕の味方をしてくれた。姉妹の前で僕を平気でえこひいきして可愛がってくれて、彩花や彩実もそれは仕方ないと認識しているほどだった。母はどうして僕が転校することに気乗りがしないのだろうか? 彩花と彩実は学校でも特別扱いされるほどの秀才で母親としては鼻が高いのに、成績が中くらいで課目によっては落第レベルすれすれの僕の親であることを恥だと思っているのだろうか? それとも単に僕のことがたまらないほど好きで、自分のそばに置いて身の回りの世話をさせたいのだろうか……。
もうひとつの可能性としては、辞職事件をきっかけに始まった母の父に対する加虐的な性向が僕に対して向けられ始めたのかもしれない。母は父から全ての財産と権限を取り上げ、母が主人である葉山家に母のお慈悲で父を居候させる形にした。レーザー脱毛に通わせ、薫と呼び捨てにして、自分を先生と呼ばせ、今日からは女装させ、お化粧までさせて、薫子にしてしまった。ほんの数か月前まで一家の主人だった父が、今日からは住み込みの女中なのだ。父をそれ以上貶める余地が無くなった結果、次のターゲットとして僕を選んだのかもしれない。
いや、そんなはずはない。母は僕のことが大好きなのだ。僕を虐めて楽しむだなんて、そんなことは考えられない。僕は、つまらない推測をせず、ちゃんと母と向き合って、なぜ母が僕を家事手伝いにしたいと思っているのか、理由を聞いてみようと決意した。僕としても転校させてくれなければ家出すると大見えを切ってしまった以上、日本男児なのだからいつまでもイジイジとしているわけにはいけない。
そうだ。対抗策も考えておこう。もしどうしても母が僕を学校に行かせてくれないなら、福島のお祖母ちゃんに助けを求めよう。お祖母ちゃんの子供になって福島の高校に行くのだ。無理やり中卒で我慢させられるぐらいなら、この家を出る方がましだ。
そんなことを考えていると頭の中がカーッと熱くなって、闘争心で胸が高鳴ってきた。しかし、今僕が階下に行って母に向き合っても、強い言葉で言いくるめられそうな気がした。そのうち母も心配して部屋に来るだろうから、その時にこちらから強く主張するのが得策だ。
母が来るのを待っていたが、その気配は無かった。そのうちにグーッとお腹がすいてきたが時計を見ると正午になっていた。「ご飯ですよ」という父の声が聞こえ、彩花と彩実が階段を下りて行く音が聞こえた。しばらくして彩実が階段を上がって来て僕の部屋のドアを開いた。
「葵、聞こえなかったの、ご飯よ。薫子さんが美味しい冷やしそうめんを作ってくれたのよ。一分以内に下りて来なかったら、彩花姉ちゃんと私が葵の分を食べちゃうからね」
僕は「いらないよ」とだけ答えた。彩実は階段を下りて行った。
「葵はお腹すいてないから、彩花姉ちゃんと私に食べて欲しいんだって」
とわざと大声で言うのが聞こえた。
お腹の虫がグーッ、グーッと大きく何度も鳴いた。僕は身体の力が抜けてベッドに仰向けになった。戦意を喪失し、うっすらと涙が滲み出る目を閉じた。
トントン、とドアをノックする音が聞こえた。「葵、入るわよ」という声がして母が部屋に入って来た。時計を見ると午後二時を指していた。
「寝てたのね。身体は大丈夫?」
母の優しい言葉を聞いて、自然に胸が熱くなった。
「葵の転校先を何とかしようとして朝から電話をかけまくっていたのよ。やっと引き受けてくれるところが見つかったわ。ほら、以前言っていたでしょう、私の医大の同期で学校法人の理事長の娘が居るって。彼女に相談したら理事長をしているお母さんに掛け合ってくれて、本当はもう枠が無かったんだけど、特別にやりくりをして何とか葵を受け入れてくれることになったの。今電話があって、今日の午後四時に理事長室で面接してくれるんだって。さあ、顔を洗って髪をきれいに梳きなさい。服は今着ているえんじ色のジャージーのままでいいから」
「お母さん、ありがとう。僕、お母さんが僕のことを虐めているのかと疑って……ごめんなさい。大好きだよ、お母さん!」
僕は泣きながら母に抱き付いた。母は僕を強く抱き返して、髪を撫でてくれた。
「幕張逍遥って聞いたことがあるでしょう? 中高一貫の名門よ。彩実が行く高校のすぐ近くにあって、徒歩で通学できるわ。無理をして引き受けてくれたから色々な制約や条件が付くのは避けられなかった。葵の思い通りにはしてあげられないけど、それでもいいわね?」
「はい、お母さん。僕、どんな条件でも絶対に文句を言ったりしません。約束するよ」
「良かった。もし葵が文句を言ったり、失礼な態度を取ったら、同期の友人に対する私の顔は丸つぶれだし、理事長は地域で影響力のある方だから、私の産業医の仕事にもマイナスになるのよ。今日は何を言われても笑顔でハイと答えてね。それだけは頼むわよ」
「僕、必ずそうする、約束するよ。お母さんの仕事のマイナスになるぐらいなら死んだ方がマシだから」
「良い子ね。大好きよ。そうそう、葵、お腹がすいてるでしょう。葵の冷やしそうめんはラップして冷蔵庫に置いといたわよ」
母はいつも僕のことを一番に考えてくれているのだと実感した。僕は階段を二段飛ばしで下りて台所に走って行った。
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