私はクローン(TS小説の表紙画像)

私はクローン
目覚めると女になっていた

【内容紹介】分子生物学的手法によるTSF小説。主人公の向坂は32歳のIT会社社長。末期癌で余命3ヶ月を宣告され、SNSや公式HPで公開して癌克服の方策を公募する。その結果2つの新規技術が浮上する。一方は強力な新薬候補物質で、他方は向坂の細胞からクローン人間を作り脳の情報を転写するというSF的な方法だった。新薬候補物質でアナフィラキシーショックを起こし向坂は意識を失う。冷たいベッドの上で目を覚ますと、何となく身体に違和感を感じたが、クローンの実験が成功したことを悟った。

序章

 私は生きている。私はこの身体でここに存在し、この脳で思考している。私のクローンが誕生した場合、そのクローンは自分を「私」として、私と同じ身体で、私と同じように思考するだろう。もし私がそのクローンを前にした場合、どのように呼びかけ、対話したらよいのだろうか。そして、そのクローンは私を見て自分自身と認識するのだろうか……

第1章 人生最大の危機

 9月30日(水)

 精神的な強さが自慢だった。

 どんな逆境でも平然として立ち向かうことが出来ると自認してきた。受験に失敗して一流半の私立大学に進学したがクヨクヨせずに大学生活を楽しんだ。就職した一部上場企業が倒産した時も、その後友人と設立した会社が行き詰まった時も、気力を失わずに前進した。

 自分は運の強い人間だと信じ、何があっても頑張った。その結果として今の自分がある。背水の陣で開始した音楽検索サービス「トゥルヴェ」が成功し、株式会社トゥルヴェのJASDAQ上場を果たした32歳のIT会社社長である向坂大悟、それが私だ。

「苦境を与えてくれた神様に感謝しよう。逆境に出会ったら嬉々として前を向こう。苦境こそが私たちの資産だ」という社是を掲げて社員を鼓舞してきた。

 それが何というざまだ。今の私には前進するどころか、立ち上がる気力もない。数分前に医者からCT検査の画像を見せられ末期癌の宣告を受けた私はその場では平然を装ったが、診察室を出た瞬間に鼓動が異様に高まり脳の血管が今にも破裂しそうになった。しばらくすると全身から血の気が引いて膝が諤々と震えた。かろうじて近くの長椅子に辿り着き、腰を下ろして頭を抱え込んだ。

 長椅子での茫然自失の状態がどれほどの間続いたのかは覚えていない。思考は完全に停止していたが、それでも私の脳の中には結論が醸成されていた。

「この逆境を乗り越えなければならない」

 余命3ヶ月と言われたが、定期検診の腹部エコーの結果の再診で癌が確認されたという経緯であり、これといった症状の自覚はない。病状を知らされて敏感になった私に、これから雪崩のように苦痛が襲いかかるのかもしれないが、まだ戦うための体力と時間は残っている。

 以前、星陵高校が石川県大会決勝で8対ゼロでリードされて迎えた9回裏、彼らは諦めることなく戦い続けて逆転し2年連続の甲子園出場を決めた。私は今、10対ゼロでリードされた9回裏2アウトのバッターボックスに立っているのかもしれないが、戦い続けてこそ勝利の可能性が出てくるのだ。

 だからといって戦いの具体策があるわけではない。

 こんな場合は人に聞くに限る。まず、私は6万人のフォロワーがいるTwitterで病状について詳細に公表するとともに、この苦境を必ず乗り越えるという決意を表明した。次に1200名の厳選した友達がいるFacebook、及び公式ウェブサイトで更に詳細な病状を記し、私が苦境を乗り越えるための協力を依頼した。続いてGoogle AdsenseとFacebook広告を活用し、医学、医薬、分子生物学、免疫学、癌研究、等々のキーワードによってターゲットを絞った広告を掲載して公式ウェブサイトへのクリックを誘導した。

 これらの記事には「予算:50億円」と明記した。上場を経て私の持株の時価は約70億円に達している。病状を公開すれば株価が下落する可能性が高いが、それでも50億円程度の価値は残るだろう。全財産を使っても生き残ればまたゼロからスタートすればよい。

 午前零時になった。私は人生最大の危機に遭遇したが、今日のうちにできる事は全て実施したという達成感を枕に眠りについた。

第2章 2本の命綱

 10月2日(金)

 発表後2日間の間に、Twitter、Facebook、公式ウェブサイトから誘導された提案フォームには56件の書き込みがあった。そのうち約30件は激励の言葉でしかなく、残り26件のうち12件は、「貴方の代わりに他の窮地にある人を救うことにより貴方自身が救済される」という寄付の依頼だった。要するにお前は死ぬのだから不要になる金をよこせという火事場泥棒である。提案と言える内容のものは14件で、その殆どは、サイエンスを装った詐欺に近い提案や、医学や分子生物学の専門でない私が見ても到底私の余命の期間中には実現不可能な内容の提案だった。私が魅力と希望を感じた提案は2つだった。

 ひとつは、アヤワスカ抽出物誘導体(Ayahuasca Extract Derivative、略称AED)という物質の治験に関する提案だった。南米のペルーとボリビアの国境の高山地帯にある湖、チチカカ湖に浮かぶアマンタニ島という小島だけに産するアヤワスカという植物の変種の抽出物に強力な覚醒作用があることについては多くの研究成果が報告されているが、本提案者は、その抽出物に化学変性を加えた物質に強力な免疫賦活作用があることを発見し、マウスでの実験を経て、肝臓癌及び肺癌のモルモット各10例の実験で各々2例が死亡したが、残りの8例では癌が完全に消失したとのことだった。しかし、有効物質の特定は作業途上であり、今後有効物質を特定した上でメカニズムを解明し、慢性毒性試験、変異原性試験などを実施した上で医薬としての治験に入るには、例え全てが順調に進んでも3年はかかるだろう。本提案者としては違法な治験に荷担することはできないが、製造済みの物質約2グラムを提供する用意があり、その場合は原料の調達及び製造にかかった経費として2千万円を負担して欲しい、との提案内容だった。

 もうひとつは、ジェニュイン・クローン (Genuine Clone、略称GC)というサイエンス・フィクションのような技術で、生体の細胞からクローン技術により、生き写しの人体を作り、しかも脳内の情報を全てクローンの脳内に複製する技術に関する提案だった。クローン技術により哺乳類を作成することが技術的に可能であることは知っているが、年齢20歳のクローンを作るには20年を要する。私としては例えば12歳の身体でも構わないが、それでも12年かかってしまう。本提案の第一のポイントは約1か月でほぼ望み通りの年齢のクローンを作成できるということと、第2のポイントはそのフレッシュな脳にサロゲーター(すなわち私)の脳内情報を完全に移植できる、ということだった。必要な金額は2億円と書かれていた。

 AED(アヤワスカ抽出物誘導体)は強力な免疫賦活力のある新薬の話であり、信用できるかどうかは別にして、科学的にはありそうな話と思われる。一方GC(ジェニュイン・クローン)は1か月で成熟した哺乳類のクローニングが完成するという常識的にはあり得ない話であり、脳内情報の移植も現代の技術では可能とは思えず、理論的には耳を傾けるに値しない提案だった。

 私がAEDとGCの両方の提案に応じることにしたのは、自分の身体のクローンを作ってその中に移り住むという壮大な夢に得体の知れない魅力を感じたからだ。私の作戦としては、本命としてAEDに賭け、確率がたとえ0.1%でもGCを夢として確保しようと考えた。私はメールで面談を希望する旨を両社に知らせた。

 主治医の山形にAEDとGCをやってみることにしたしたことをメールで知らせておいた。後で「お勧めできる内容ではありませんが幸運をお祈りします」という山形としては精いっぱいと思われる社交辞令の返信が届いていた。


 10月5日(月)午前9時 アマンタニ研究所(相模原)

 まず、AEDの提案者であるアマンタニ研究所を訪問した。それは相模原市の郊外にある小さな研究施設で、無人の受付に設置された受話器で来訪を告げると、2分ほどして白衣を着た40歳前後の女性が現れた。

「向坂さんですね、お待ちしていました。私は所長の橘です」
 橘所長が私を案内したのは小さな会議室で、奥の壁面に50インチのモニターが設置されていた。

 ほどなく会議室に入って来たのは、私と同年代と思われる長身の美女で、コーヒーを3つ手に持ち、白衣の右わきに分厚いフォルダーを挟んでいた。

 コーヒーを配ってから彼女は自己紹介した。
「研究員の渡辺です」

 渡された名刺を見ると、橘は薬学博士、渡辺は医学博士と書いてあった。
「ほう、お医者さんですか」

「いえ、私は橘所長と同じ薬科大ですが、医学部の研究室で博士号を取ったので医学博士になっているだけです」

 まず、橘所長がアヤワスカ抽出物誘導体の開発経緯について、パワーポイントを使って詳細なプレゼンテーションをしてくれた。チチカカ湖に浮かぶアマンタニ島の写真がモニターに映し出された。

「これは私がEOS Kissで撮影した写真です」
 橘が語り始めた。

「アマンタニ島は数百年前にタイムスリップしたような不思議な所です。チチカカ湖は標高3,812メートルの高地にありますから、アマンタニ島は富士山よりも高いところにあるのです。島は自動車を含む一切の機械類が禁止されていて、ホテルもありません。私たちは島の住民の家に泊まりました」

「私たち、ということは、グループツアーか何かですか?」
 私が口を挟むと渡辺彩花が答えた。

「橘所長と私の2人での旅行です。私たちは大学の女子登山部の先輩と後輩で、私が登山部員として毎週のように北アルプスの山歩きをしていたころ、橘所長に登山部OBとしてご指導頂いて、それ以来のお付き合いなんです」

「アマンタニ島には2つの山がありますが、その山に自生するアヤワスカの変異種に特別に強い覚醒作用があることはアメリカの大学の研究グループが報告しています。私たちがアマンタニ島で原住民から聞きこんだ情報によると、ある特別な処理をした抽出液には覚醒作用が無く、それを飲むと末期癌の患者が完治したとのことでした」

「そのアヤワスカというのはいわゆる脱法ドラッグのようなハーブなのですか?」

「本来、アヤワスカはアマゾン流域に産生する蔓科植物で、ジメチルトリプタミンという麻薬成分を含有するので厳しく取り締まられています。時間をかけて煮出した抽出物をシャーマンが儀式に使用して幻覚を誘導するのに使うと言われていますが、今回ご提案するAEDに覚せい作用はありませんし、煮沸する際に別の化学物質を加えることでジメチルトリプタミンは別の化合物に変化しており、麻薬及び向精神薬取締法、覚せい剤取締法には該当しないと考えられます。それを濃縮乾燥したものを約5グラム持ち帰り、精製して3.5グラムの乾燥物を取得しました」

「2グラムとお聞きしましたが」

「3.5グラムのうち0.5グラムをマウスとモルモットの実験に使用しました。1グラムは私たちの将来の研究用で、残り2グラムを提供可能です」

「マウスとモルモットで効果があったとのお話でしたね」

「癌を誘導したマウスではほぼ全数で癌が完全に消失しました。マウスの実験で効いてもモルモットでは殆ど効果が見られないことも間々あります。肝臓癌のモルモット10例と肺癌のモルモット10例での実験結果をお見せしましょう」

 橘所長がパワーポイントで実験結果を詳しく説明してくれたが、確かにメールで読んだとおり、各々2例が死亡し、残り8例は完全治癒している。これは驚くべき結果だ。

「2例の死亡についてはどのようにお考えですか?」

 これは私にとって気がかりなポイントだった。癌は完全消失したが身体も死んでしまった、というのでは笑えない。

「癌が消失するということは癌細胞に対する毒性が強いということを意味します。死亡した2例については、投与量が大きすぎて正常細胞に対する毒性が出過ぎてしまったと考えています」

「モルモットごとに投与量を変えたのですか?」

「いいえ、全てのモルモットについて投与量は同じです。感受性と申しますか、同じ投与量でも毒性や効き目の発現には個体差があるのです。つまり、最適投与量を見つけることが重要なわけです。向坂さんへの投与量の目処としては体重あたりの投与量がモルモットと同程度になると予想されるわけですが、当初は1~2桁低い量を投与して、徐々に増やすのが安全です」

「死ぬ一歩手前の投与量にすれば良いわけですね?」

「いいえ、死なないレベルでも不測の副作用が出る可能性がありますから、もっと安全な投与量にします。こちらの実験結果をご覧ください」

 それはマウスへの体重辺りの投与量を数段階に変化させて、各々の投与量での効果をグラフにしたものだった。

「同時にK大学の研究施設の支援を得て、マウスの血液中のさまざまな微量タンパクの量をトレースしたところ、このタンパクの量が急増したところで、抗癌効果が劇的に現れていることが分かります」

 橘所長はモニターに映し出された蛋白質の立体構造図を指差した。

「そこで、私たちはこのタンパクに対する抗体価を測定する簡易キットを作成しました。向坂さんへの適用においても、モルモットでの実験から予想される最適投与量の100分の1で投与を開始し、10の3乗根程度ずつ増量し、抗体価が急騰したところよりやや高い投与量で治療を行うのがよいと考えています」

「分かりました。そのやり方でお願いします」

「ちょっとお待ちください。メールに書いた通り、私たちにできることは、この物質とデータを提供することだけです。人体に投与して実験することは違法です。あくまで向坂さんがご自分で実施されるということになります。私たちは、毎日、向坂さんから採取された血液サンプルの抗体価を測定してデータをお知らせします」

「投与方法は注射ですか、それとも経口投与ですか?」

「皮下注射です。ご自分でできるよう、お教えします」

「測定用の血液はどうやって採取するのですか?」

「少量でOKですから、その採取方法もお教えします」

「分かりました。では、代金の2千万円を送金するための口座番号をお教えください」

 渡辺彩花から提示された口座番号宛に、その場でスマートフォンで送金手続きをした。

「今、処理しましたから、もうその口座に入金していると思います」

「それでは試薬の譲渡に関する覚書を作成して参りますので、署名捺印をお願いします。今ご説明したとおり当研究所は向坂様に試薬を提供するだけであり、その後向坂様がどんな使い方をされようとも一切責任は負いません。この点、くれぐれも誤解の無いようにお願いします」

「分かっています」

 渡辺彩花は生理食塩水を入れたシリンジ(注射器)を作成し、皮下注射の方法を教えてくれた。やってみたところ、チクッと痛いが簡単だった。

「これから毎日、新しいシリンジをお渡しして、その際に血液サンプルを頂きます。抗体価が急騰するまで、毎日少しずつ濃度を上げたシリンジをお渡しすることになります。抗体価が上がったら、前回より少しだけ濃度を上げたシリンジを10日おきに注射するだけです。そのたびに癌の検査を受けて効果を確認する必要がありますが、それはどこかの病院でご自分で手配なさってください」

「明日、1回目の注射をするのですね」

「いえ、1回目は今ここで実施します。1時間後に血液を採取して、お帰り頂いて結構です。明日からは私が毎日お届けします。シリンジを作って参りますのでしばらくお待ちください」
と渡辺彩花が言って、橘所長と渡辺は会議室から退出し、私は一人残された。

 これは、相当に確度の高い話だ、と私は思った。モルモットの実験結果を見ると、アヤワスカ抽出物誘導体に抗癌効果があることはほぼ確実だ。問題は、ヒトでも効果があるかどうかという点と、安全性試験が実施されてないということだが、抗体価という指標を見ながら徐々に投与量を上げるという方法は現実的で、説得力が感じられた。医者から匙を投げられた末期癌患者の私にとって、十分現実的なリスク・テイキングである。

 約30分後、橘所長が作成した覚書に署名捺印し、渡辺彩花が作成したシリンジを受け取って左上腕部に自分で皮下注射をした。採血キットを使って、サンプルを渡辺彩花に渡した。

「明日は何時頃にお伺いするのがよろしいですか?」
 渡辺彩花が私に聞いた。

「オフィスに早朝に来て頂ければ助かります」
と言って私は持っていたタクシーチケットを1冊渡辺彩花に渡した。

「ここから東京までタクシーですか? そんな贅沢をさせていただくなんて気が引けます」
 渡辺彩花は目を丸くしてタクシーチケットを受け取った。

「気になさらないでください。私が相模原に来る代わりに東京までお越しいただくんですから。それに早朝に済ませれば、私としては丸一日を有効に使えます」

「恐縮です。午前7時にタクシーで家を出れば遅くとも午前8時には到着出来ると思います」

「それでお願いします。私は午前7時30分には出社していますので」

 私は2人に礼を言って相模原市郊外の研究所を出た。


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