春日温泉の湯守:性転の秘湯(TS小説の表紙画像)

春日温泉の湯守:性転の秘湯

【内容紹介】秘湯に浸かって性別が変わるTS小説。長野県佐久市のとある温泉には美肌と若返りの効果があると言われているが、さらにその奥にある動物しか知らない秘湯に入ると、どんな老人も20歳の若者に変身する。但し若返りには副作用がある。性別が変わるのだ。予想もできないフィナーレに期待。

英語版:A Slippery Slope in a Hotspring
著者:Yulia Yu. Sakurazawa
日本語版著者:桜沢ゆう

序章

 晴れた天空から星が降る夜、傷ついた牡鹿が人里に迷い込み、湯気の立つ一画を見つけた。晩夏の高地の夜は肌寒い。鹿は湯気の立つ方へと魅せられたように重い足を進めた。生垣の割れ目をやっとの思いで跳び越えると、岩場に足を滑らせて池に落ちてしまった。暖かかった。それは岩に囲まれた浅い湯だまりで底は平らで滑らかだった。鹿は体験したことのない暖かな安堵に身を委ねて目を閉じた。

 北八ヶ岳から蓼科山の自然の中で雄々しく生きてきたが、牡鹿は自分の人生が残りわずかになったことを自覚していた。角はかつての輝きを失い、皮は化石のように固くなってしまった。跳躍しても前脚が次の岩に届かず不格好に転ぶ自分が惨めに感じられて、つい嘆息してしまう。早朝に人間の仕掛けた罠に右脚を挟まれ、何とか逃れることが出来たものの、その傷が牡鹿の体力をじわじわと奪った。鹿曲川の沢沿いに下って人里に来てしまい、尾根へと迂回しようと徘徊するうちに春日温泉の一角に迷い込んだのだった。

 朝霧の白い影と小鳥のさえずりに目を覚ました牡鹿は、温泉の心地良さにもうしばらく浸っていたいと思った。その時、岩風呂に接する建物の扉が開いて若く美しい青年が出てきた。青年は露天風呂に浸かる鹿を見た。鹿と視線が合って、青年の顔に微笑が浮かんだ。鹿は跳び起きて露天風呂の奥の木立の中に消えて行った。

 青年は湯守だった。露天風呂の排水口を開き、風呂を綺麗に清掃した。鹿の居た辺りには特に念入りにタワシをかけてからホースで何度も放水し、源泉からの配管の蛇口をひねって露天風呂に湯を満たした。

 露天風呂から木立へと逃げた鹿は身体の異変に気づいた。傷が殆ど癒えて足取りが軽い。化石のように固かった皮膚が昔の潤いをいくらか取り戻したように感じられる。木立を分け入ると、灌木の茂みの中に先ほどの温泉と似た臭いが漂う場所があった。茂みに潜ると、立ってやっと通れる高さの洞窟の狭い入り口があった。身体を滑り込ませて進むと、岩と木々に周囲を囲まれた美しい泉に辿り着いた。

 それは天然の岩風呂で、鳥たちに加えて猿、イノシシ、リス、野兎などの先客がいた。眠っているかのように静かで、お互いの存在を全く気にしていない。牡鹿は身体に残る露天風呂の暖かい余韻に背中を押されるように岩風呂の湯の中に身体を委ねた。牡鹿は長い安堵の吐息を洩らして目を閉じた。

 はっと気がつくと太陽は頭上を西方に過ぎていた。湯の中で半日も休んでいたのだ。鹿は照れ臭さに微笑んで立ち上がり、岩へと跳び上がった。身体が軽い。右脚の傷は跡形もなく消えて、全身を包む皮が明るく潤っている。鹿は岩の縁に立ち、水面に映る自分の姿を見て目を疑った。

 映っているのは若い女鹿だった。頭を左右に振るとその女鹿の頭も左右に揺れた。頭から角の重みが消えている。

 遠い彼方から群れの牡鹿の声が耳に届いた。その声には自分に発情を促す不思議な響きと魅力が含まれている。鹿は乳房に体験したことの無いハリを感じながら洞窟をすり抜け、尾根へと駆け上がって行った。

第一章 新しい湯守

 東京は今日も唸りを上げていた。

 電車や地下鉄は秒単位の精度で通勤客を運び、首都高の自動車は国会の牛歩戦術の議員を模して進む。仕事を終えたサラリーマンやOLはそんな東京から今日も涼しい顔で家路についていた。

 私にとって今日は特別な日だった。六十回目の誕生日で三十八年間の会社勤めの最後の日、私は普段通り八時に出社して昨夕退社後に入電したメールに返事し、出勤してくる部下の一人一人の目を見て「おはよう」と声をかけた。既に後任の部長への引継ぎは完璧に済ませていたが、夕方まで席に座って社内外からのどんな質問にも答えられるよう待機していた。五時からごく簡単に社内を回って退職の挨拶をした。五時半に部内の全員が見守る中、部長席の女性に花束を渡され、大勢に見送られてエレベーターに乗った。

 誰が見ても定年退職者の最終勤務日に見える花束を持った六十歳の男が満員電車に乗るのはいかにも気恥ずかしかった。だが私は花束が折れたり乱れたりしないように頭の上にかざし、一時間後には花束を持って自宅の玄関にたどり着いた。

 長年の習慣で玄関のチャイムのボタンを押したが、ポケットから鍵を取り出してドアを開け、靴をそろえてスリッパを履いた。ダイニングテーブルに花束を置いてからリビングルームのソファーに腰を下ろし、目を閉じて大きく吐息した。

 美津子はもういない。分かってはいるのだが、エプロン姿の美津子が台所から現れて「あなた、三十八年間ごくろうさまでした」と声をかけてくれるのを、あと十秒でも待っていたかった。待つのを諦めた私の目に熱い涙が溢れて頬を伝う。鼻腔が鼻水でぐしゅぐしゅと言う。「美津子……」声に出さずに呼びかけると、こらえていた嗚咽が私を襲った。六十男がこんな感傷に浸るのは滑稽かもしれない。「今日だけだ」と自分を許す。

 私は三十八年前に某有名大学の工学部を卒業して大手電機メーカーに就職し、十三年前に自ら提唱して設立した新事業会社に出向して上場まで漕ぎつけた。退職時の肩書は国際営業部長だ。通常は退職の何ヶ月か前に後任の部長に引き継いで「元部長」として退職の日を迎えるものだが、私の場合は特別な貢献に配慮してくれて、後任部長の正式発令日は退職日となった。

 三日前に部下たちが開いてくれた部の退職記念パーティには、社長も駆けつけてくれた。社長は私の入社以来の先輩だが、私の長年の貢献を称えるスピーチをしてくれた。私は心の中で「美津子、君のお陰だよ」と呟いた。

 美津子は三年前に癌で死んだ。入社五年目に結婚して、三十年間夫婦として苦楽を共にした同志だった。入社三年目から何人かと見合したが結婚に踏み切ろうと思える女性には出会わず、十人目に見合いしたのが四歳年下の美津子だった。美津子は音大を卒業した直後で、初めての見合いの相手が私だった。均整の取れた美しい肢体と、自信と恥じらいが同居する可愛い笑顔の美津子を見て、この人だと思った。美津子も私を気に入って、数ヶ月付き合った後に結婚を決めた。

 私は特に内向的でもなく、身長は百七十七センチで顔にも自信があったので女性に不自由していた訳ではない。それまで女性と付き合う気持ちになれなかったのは、柴崎奈緖美のせいだった。奈緖美は大学の同級生で四年間付き合った女性だ。肌理の細かい真っ白な肌とクッキリとした二重瞼の切れ長の目が私を魅了した。形の良いしっかりとしたCカップの乳房が誇らし気に突き出た百六十三センチの均整の取れた健康的な身体は私の理想に近いものだった。お互いに卒業したら結婚するのが当然と思っていた。それが私の一方的な思い込みだとが分かったのは卒業の直前だった。奈緖美は私に何の予告もなく見合いをして社会人の男性と婚約したのだった。それ以来、奈緖美との交流は完全に途絶えている。

 見合いで美津子にひと目惚れしたのは、美津子の肢体が奈緖美に酷似していたのが主な理由だった。身長や体格は寸分違わないコピーと言って良いほどで、丁度肩まである真っ直ぐな髪の美津子の後姿は、奈緖美と見分けがつかないほどだった。

 顔は似ておらず、美津子は全く別のタイプの美人だった。奔放で、時に自分勝手で、刺すような力のある視線で私を翻弄し続けた奈緖美と違って、美津子は常に私の味方だった。会社で煩わしいことや困難なことがあると帰宅してつい顔に出てしまう私にそれとなく助け舟を出して緊張をほぐしてくれた。美津子は私が何を考えているのか、何を望んでいるのかということを、まるで超能力を持っているかのように察知した。人間と人間が共鳴することがあるとすれば、美津子と私はまさにその典型と言えるだろう。同時に、美津子は主婦として私が健康な身体を保てるように毎日美味しいものを適量食べさせてくれた。私の身体が年齢より若いのは美津子のお陰だ。

 私は寝室に歩いて行って鏡に映った自分の姿を観察した。真っ直ぐな背筋は私を実際の身長よりも高く見せている。一年前に通信販売で買って使い始めた米国製のミノキシジル五の育毛剤のお陰で、薄くなりかけていた髪は四十代のコシと密度を取り戻している。比較的彫りが深いが濃すぎもしない顔は年齢の結果としての甘い優しさが出てきて、若い頃よりもモテるようになったと自負している。

「あなた、私に気兼ねしなくてもいいのよ」
 美津子が鏡の中の私に囁く。

「もう三年間も喪に服して、今日も私を思い出して泣いてくれたわ。もう十分よ。あなたを解放してあげる」

「何のことを言ってるんだ、美津子?」
 私はとぼけて答える。

「部長席のきれいな女性は二十五歳だったかしら。結構本気であなたに惚れてたんじゃないの?」

「知らないよ、私を虐めないでくれ」

「別にあの子を口説きなさいと言ってるわけじゃないのよ。あなたは女性から見て今でもとても魅力的だから、好きな子ができたら声をかけて良いと言ってるの」

「美津子を裏切るようなことはしたくないよ」

「裏切りじゃないわ。だって私はいつまでもあなたの心の中に居るのよ。それに、私は嫉妬とは無縁な世界に来てしまったの。あなたはもう自由なのよ」

「還暦を迎えた私の身体は昔とは違う。身体を動かすのは面倒だし、疲れることはしたくない」

「じゃあ、何日か温泉にでも行って若返って来たらどう? 時間はたっぷりあるんだから」

「急に温泉に行けと言われても……。一体どこの温泉に行けばいいんだろう」

「佐久の春日温泉はどうかな? 私は同期の女子会の旅行で二度行ったけれど、とてもいい温泉だったわ。春日温泉の効能は美肌効果・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・切り傷・擦り傷・火傷 ストレス解消・関節の強ばり・打ち身・ねんざ・慢性消化器病・痔・冷え性・病後回復・健康増進」

「おいおい、まるで万病の薬の宣伝だな」

「実は一番の効能は美肌なの。私の場合は劇的な効果が出て、見るからに肌理が細かくなったわ。赤ちゃん肌というか、プルンプルンになったのよ」

「美津子がいつまでも美しいのには、そんな秘密があったのか!」

 

 翌朝、愛車のホンダ・フリード・スパイクに衣類とパソコンを積み、予約したホテルの電話番号をカーナビに入力して出発した。長野の山奥の高地にある秘境と思っていたが、春日温泉は意外に近く、佐久インターから半時間ほどで到着した。家を出てから丁度三時間だった。

「こんなに近いのなら、気に入ったら毎月来よう。そうすれば若者のような肌になるかな」

 私は心の中にいる美津子に冗談を言うかのようにひとりごとを呟いてから車を降りた。

 ホテルというよりは気軽に来られる温泉ロッジのような雰囲気のフロントでチェックインを済ませて部屋に歩いて行った。それは適度の広さのシンプルな和室で奥の窓からは露天風呂を遮る木立とそれに連なる豊かな自然が鹿曲川かくまがわ沿いに続いているのが一望できる。八月の終わりの東京はまだ暑かったが、ここの空気は全く違う。蓼科たてしな山麓の標高九百メートルの高地は別世界だ。

 建物のすぐ近くに露天風呂らしい場所があるのは分かるが、窓から岩風呂自体は見えない。男風呂と女風呂は造りが少し異なっていて毎日交互に使っているらしい。今日女風呂になっている岩風呂に、明日は自分が入れるのだと思うと年甲斐もなく浮き浮きした気持ちになる。

 まだ日は高いが早速ひと風呂浴びることにした。短パンにTシャツ姿で運転してきた私はそのままの格好でタオルを片手にエレベーターに乗り、脱衣場で裸になって大浴場に足を踏み入れた。

 久しぶりの温泉だった。清潔好きだった美津子の影響下に三十年間置かれていた私は、まずシャンプーをして、タオルにボディーソープをたっぷりつけて身体の隅々まで洗った。絞ったタオルで髪の水分を取り、タオルをもう一度洗ってから八つに畳んで頭の上に乗せる。

 少なくとも十人は入れそうな浴槽が二つあって、そのうちの一つに入った。源泉かけ流しの内風呂には七十代の老人が目を閉じて座っていて、少し離れた場所で三人の若者のグループが穏やかに談笑していた。

 大浴場を自分一人で占有できれば最高なのだろうが、リラックスしている人たちを見ているのも悪くはない。会社の張り詰めた雰囲気とは趣が全く異なる。もっとも、私がその張り詰めた雰囲気を作ろうとして努力してきたわけだが……。

 その時、私の頭の中にある邪悪な妄想が浮かんだ。
「もし一、二時間ほど透明人間になって女風呂に行けたら楽しいだろうな」

 私の人間性が誤解されないよう付記しておくが、見えない手で乳房を触ろうとか、股間を至近距離から覗きこもうとか、ひいては透明なレイピストとして性交を試みようとか、そういう意図は全く無い。穏やかな笑顔と、優しい高音域の声で交わされる屈託のない会話、そして女性にしか出せないオーラの傍に身を置けたらどんなに良いだろう。そうだ、私は美津子がそばに居るような環境を切望していたのだ。

 内風呂の奥に露天風呂への出口のドアがあった。私はこの温泉のウェブサイトで露天風呂の写真を見て、何かとてつもなく素晴らしいものが存在するような予感がしていた。露天風呂は真っ暗になってから行こうと決めて、風呂から上がった。

 温泉での湯上りといえばビールだ。私は部屋には帰らずにレストランに立ち寄ることにした。

 窓際の席に座ると、ウェイターが来たので中ジョッキを注文した。

「生ビールの中でございますね」

 背の高い美しい若者が穏やかな声で復唱した。それは、チェックインするときにロビーで見かけた若者で、涼やかな作務衣姿だった。「熊谷昭夫」と書かれた名札が作務衣のポケットの上に付いていた。

「すみません、レストランの担当の人間が急用で、今、ピンチヒッターをしています」

 若者は風のように去り、すぐにジョッキをもって風のように戻ってきた。

「あっという間だね。君はアルバイトですか?」

「いえ、私は風呂場の担当です。この温泉の湯守なんです」

「ほう。というと、男風呂も女風呂も一人で管理しているのですか?」

「残念ながら女風呂には女性の湯守がおりまして、私は男風呂だけを管理しています。管理といっても毎日掃除をしたり備品をチェックするだけですが」

 爽やかな笑顔でそう言うと
「失礼します」
と立ち去った。

 最近の若者は自己主張が強すぎるか、自分を見せないか、あるいは全くの「普通人」であるか、何れかに属しているというのが会社で私が抱いていた印象だった。この熊谷昭夫という若者は、さり気なく涼やかで、それでいて暖かい自分を持っていることが感じられた。とても魅力的な若者だと思った。

 ビールを飲みながら、若者の動きを目で追った。老人にも親切で、騒がしい少年連れの客に対してはそれとなく注意を促す口調に嫌味や押しつけがましさが無く、フロア全体が彼のお陰で快適な雰囲気を保っている。見栄えの良い立派な体格の若者だが、いわゆる男臭さが出ず、女性のように柔らかな物腰が感じられた。

 女性客は冗長だったり不必要な言葉をかけて彼に自分への興味を惹こうとするが若者は自分に興味を持つ女性の受け流し方を知っていて不自然なく捌いている。

「熊谷昭夫君を我社にスカウトすればきっとひとかどのビジネスマンになるだろうな」

 そう思った後、まだサラリーマンの気持ちが抜けない自分に苦笑した。

 夕食の前に腹を膨らませないよう、ビールは中ジョッキ一杯で止めて部屋に帰った。家から持ってきた日経新聞をバッグから取り出して読み始める。中国の株式市場の異変が世界の金融市場に齎しつつある深刻なボラティリティと、オリンピックのロゴに関するスキャンダルに関する記事を丁寧に読んだ。次に、憲法改定を経ずに重要問題を小手先で強行突破した現政権に関する論評を読んで、今後の選挙で現政権が地滑り的大敗北を喫する可能性の高さと、それが招く日本経済の低迷が心配になった。

「いけない、いけない。もう私は経済人ではなく、年金生活者なんだ。日本経済の低迷について自分の事のように思い悩むのはもう辞めよう」

 私は再び苦笑した。こんな苦笑を繰り返しながら、サラリーマンという「人格」が私の中から徐々に消えていくのだろう。

 夕食を予約した時間になって、私はレストランに下りて行った。鯉の洗いが売り物の和食のコースだった。熊谷昭夫は私の顔を覚えていて絶妙のタイミングで席に近づいた。辛口の冷酒を注文しようと思ってメニューを見ていたところ、若者は「特にご指定の銘柄が無い場合は、単に冷酒と注文されるのがお得ですよ。今、鯉の洗いにピタリの地酒を使っていますから」とさり気ない笑顔で教えてくれた。

 彼の言った通りその冷酒は鯉の洗いを引き立たせ、若者の持つ独特の雰囲気に似た酔い心地を与えてくれた。心から満足の得られる夕食だった。

 夕食後はラウンジのテレビでプロ野球を見た。子供のころには周囲の友人と同じように巨人ファンだった。ここ数年は野球放送を見ることは殆ど無かったが、他の宿泊客と一緒にテレビ画面を見ていることが心地よかった。

 野球放送が終わって部屋に戻り、浴衣に着替え首にタオルを巻いて午後十時に部屋を出て大浴場に行った。今日二度目のシャンプーを使い、リンスを髪に付けてから備え付けの茶葉入りのボディーソープで耳たぶの後ろの窪みから足の指の間まで丹念に洗った。何度もシャワーをして、かつての美津子にも負けないほど女性のように清潔な身体で立ち上がった。大浴場の浴槽の横を通り、露天風呂への出口のドアを開けると高原の冷風に迎えられた。

 敷石の冷感を足で楽しみながら滑らないように注意して歩を進めた。内風呂の窓から漏れる光を受けて灰色に輝く岩が微かに湯気の立つ水面を囲んでいた。湯面に映る岩とその背後の樹木を見て「ああ、露天風呂に来たんだ」と心が躍った。それは長辺が四、五メートルほどの楕円形の岩風呂で、六本の質実な木柱で支えられた六角形の屋根に覆われていた。他に客は誰もいない。転ばないように注意しながら右足を湯の中に踏み入れる。人肌より少し温かなしっとりとしたお湯だった。もたれ易そうな岩を選んで、股間にあてていたタオルを岩の上に置いて首まで浸かった。内風呂よりはぬるめで体温より少し高い湯温だ。長風呂にはこのぐらいが丁度良い。

 両手を身体に這わせると、お湯のヌメリが実感できる。美肌に良いのはメタシリケイトという鉱物成分が豊富に含まれているからだと春日温泉のウェブサイトで読んだが、このヌメリはその鉱物成分によるものなのだろう。私は手でお湯を顔にかけて頬と額に押し当て、眉間から鼻筋に指を走らせた。化粧水のような潤いが肌を包む。

「ここで何泊かすれば肌が驚くほど若返るだろうな」

 また美津子の顔が頭に浮かぶ。

 露天風呂から見る内風呂の佇まいには落ち着きがあってそこに至る敷石や周囲の樹木と調和がとれている。岩風呂の奥は鹿曲川沿いに蓼科山系へと続く林だ。その木立の天辺が月明かりに照らされて輝いている。月光はホテルの建物の側から射していて岩風呂は建物の陰の中にある。見上げると六角屋根と木立の間の真っ黒な天空に数多くの星が見える。月光や内風呂から漏れる光に負けないほどの星の輝きだった。

 女風呂の方向にある竹垣は静かだった。鹿曲川の水音に消されるのか、女性の声は聞こえてこない。美津子が竹垣の向こうで露天風呂の中に座っているような錯覚に襲われた。

「あなた、一人なの?」

 若い頃二人で温泉に行って夜遅く露天風呂に入った時に竹垣の向こうから美津子に声をかけられたことを思い出す。

「今、先客が出て行って一人になったところだよ」
と竹垣越しに答え、どうでもよい会話をして混浴温泉に入っている気持ちになったものだ……。

 美津子が死んで三年も経ったのにまだこんなに感傷に浸るのは子供がいないからかもしれない。同窓会に行くと必ず誰かが子供のことを語り始め、何人もが話に加わって子供の話題に流れるが、私は会話に入れない。もし子供を作っていれば二十代から三十代前半になっていて孫もいるかもしれない。人並みに子供を作りたかったが美津子も私も子供ができないことをそう深刻には考えなかった。それは美津子の性格による部分が大きく、そして私たち二人の愛情が深かったからだろう。まだ女々しく美津子の事ばかり考えるのは、そのツケが来たと言えなくもない。

 それ以上に女性がすぐ傍にいる雰囲気がなつかしい。昼間に内風呂に入った時に透明人間になって女風呂に入った自分を夢想したのも、そんな憧れのせいだった。

 その時、「女になってみたい」という気持ちが心に浮かんだ。自分自身が女になれば、女性の傍にいたいという願望が常に満たされる。正気でそんなことを思ったのは生まれて初めてだった。しかし自分は大きすぎる。百七十七センチの身体に巨乳を付けて股間の割れ目を手で覆う自分を想像して苦笑した。髪を伸ばしてお化粧をしたら、どんな化け物になるだろう……。

「失礼します」

 私の夢想は若い男性の声に打ち破られた。それはあの湯守の若者だった。

「どうぞどうぞ。ええと、熊谷昭夫さんでしたね」
 彼の作務衣のバッジに書かれていた名前を思い出した。

「一般の従業員は従業員用の風呂に入るんですが、ここでは湯守は夜十一時以降に入浴して風呂の状況を確かめることになっています。露天風呂を閉鎖するのは深夜の十二時から明け方の五時までだけですので」

 昭夫は申し訳なさそうな口調で言った。

「言い訳なんて不要ですよ。君のような感じの良い若者と一緒に入るのは大歓迎だ。レストランの仕事での行き届いた気配りを見て、うちの会社にスカウトしたいと思ったぐらいだから」

「恐縮です。会社のお偉いさんなのですね」

「役付きじゃない部長に過ぎないよ。といってもそれは昨日までのことだけど。昨日が六十歳の誕生日で、昨日定年退職したばかりだ。今日からはいわゆる年金生活者だよ」

「じゃあこれからは毎日好きなことをして暮らせますね。レストランではお一人でしたけど、奥様は連れて来られなかったんですか」

「三年前に癌で亡くした」

「すみません、そんな質問をしてしまって」

「いやいや。誰かに打ち明けると気持ちがすっきりするよ。カタルシスというか……。子供もできなかったので心の中の家内の他には話しかける人もいないんだ」

「愛してらっしゃったんですね」

「今でも愛している。私には過ぎた最高の女だった。といっても燃えるような愛というのではなく、三十年以上一緒に生きた仲間というか、いわゆる自分の片割れのようなものかな。居なくなってしまったことが今でも信じられないよ」

「素晴らしいご結婚をされたのですね」

「君はまだ結婚していないよね。恋人はいるの?」

 若い湯守は寂しげな笑顔を見せて首を横に振った。

「これほどの男前なら若い女が放っておくはずがないだろう」

「私は三百六十五日、男風呂の湯守をしていますから、出会うのは男性ばかりです。ホテルの女性従業員は年上の既婚者が殆どで、近い年齢の女性は二、三人しかいません。それに男も女も外見は恋愛とはそんなに深い関連は無いと思います」

「若い男性には珍しいな。君の年齢なら美しい女性を見るとリビドーが湧き上がるのが普通だと思うけど」

「私の場合は性欲が弱いので、むしろ目と目が合った時にお互いから湧き上がる胸騒ぎのようなものが重要だと思っています」

「そうなんだ。男性には珍しい意見だね。こんなことを聞くのは失礼とは思うけれど、女性経験は何人ぐらい?」

「いえ、童貞じゃないですよ」
と湯守は照れくさそうに苦笑した。
「でも女性経験は一人だけです。ホテルの女性従業員と関係を持ちました。性的快感は実感できましたが、何回か会っているうちに、これは本当の愛ではないと気づきました。単なる肉体的な快感であって、魂と魂がお互いを必要とし合っているのではないことが明らかでした。関係を持ったことを後悔しました」

「そんなに真面目に考えなくても良いんじゃないかな。君ほどの男前なら出会いは幾らでもあるから、いずれコレだという女性が現れることは保証するよ。君が人生の伴侶に出会うのは単に時間の問題だよ」

 彼のような若者が、まるで中学生の文学少年のような素朴な恋愛観を持っていることに驚いた。中性的と言ってよいかもしれない。

「私は精神的な部分も重要だが、肉体が愛情の重要な部分を占めていると思う。誤解しないでくれ。私はセックスは強い方じゃないし、肉体的な快楽を追い求めたいと四六時中望んでいるタイプじゃないよ。私が重要だと思うのは、美しさだ。必ずしも典型的な美人なら良いということではない。私が女性に憧れるのは女性としての美しさを求めているからだ。丁度君が露天風呂に入って来る前に、そんな女性だけの美しさについて考えていたところだった」

 勿論、女性になりたいという妄想のことは口に出さなかった。

「今おっしゃった美しさとは、肉体の美しさ、魂の美しさ、心の美しさの三つのうちで肉体の美しさの事ですか?」

「三つ全部かな」

「でも、肉体の美しさなんて極言すれば皮膚の上の外観じゃないですか」

「そうじゃないんだな。君は若くて美しいからそういう風に思えるんだろう。年をとると肉体的な美しさがどれほど重要なのかが分かるよ」

 湯守が私を悪戯っぽい表情で見て新たな質問をした。

「お客さん、もし春日温泉に若返りの秘湯があって、そこに入れば二十歳の身体が手に入るとしたら、試してみたいですか?」

「勿論だとも。全財産と引き換えにしても良い」

 このナイーブな男性にしては面白いことを言い出したものだと思った。

「元には戻れなくなるんですよ。いぶし銀のような男っぽい大人の魅力を失うのは惜しいと思いませんか?」

「全然。若くて美しい方がずっと良いよ」

「じゃあ、秘湯にお連れしましょう」

 湯守が立ち上がり、岩風呂の奥の木立の方へと一歩踏み出した。私も湯守の後に続いた。裸で木立に入ると虫に刺されるだろうと気が進まなかったが、湯守が平気で入っていくのだから大丈夫だろうと心を決めた。冒険の世界に飛び込む少年のように心が弾んだ。

 二十代の青年に遅れないように木立の中を進むのは容易ではなかった。しかし、私の身体は二時間ほど前に露天風呂に来た時とは比較にならないほど軽く感じられた。あの風呂には明らかに若返りの効果がある……。

 強い月光を背にしているので木立の中でも困らない。木立のすぐ向こうは鹿曲川だ。川に突き当たる手前を左に曲がり、ブナの林の中を軽く登ると灌木が壁のように立ちはだかった。その左の細い道を抜けてしばらく進むと竹林に差し掛かり、その傍の灌木の茂みから湯気が漏れているのが見えた。

「ここが入り口です」

 湯守が灌木をかき分けると洞窟の入り口があった。洞窟を抜けると、ぱっと広い空間が開けた。

 この世のものとは思えない光景だった。一方を高い岩の壁に、それ以外の周囲を密に茂った高い木々に囲まれたその一角は大きな天然の岩風呂になっていた。北側半分は月光を浴びて明るく輝いていて、猿と鹿が温泉に浸かっている。洞窟に近い側にはイノシシとリスが浸かっていて、湯だまりには鳥が数羽湯あみをしていた。動物たちは眠っているかのように静かでお互いの存在を気に留めていない。

「さあ、お入りください」

 動物たちの前に裸体を晒すのは怖くもあったし、動物たちが静かに休んでいる聖域に足を踏み入れるのには躊躇いもあった。

「大丈夫ですよ、さあ」

「君も入らないのか」

「私はこれ以上若くなったら困りますからね」

 私は恐る恐る秘湯に右足を踏み入れた。何とも言えない暖かさが胸まで上がってくるのを感じた。左足も踏み入れてしゃがんだ。腰を下ろすと丁度首までの深さだった。熱すぎずぬるすぎず快適な温度だ。顔を天に向けて大きく吐息した。木々と岩に囲まれた丸い天空は大小無数の星がひしめき合っている。母親の胎内のような湯の中に身を任せているとうとうととして、ほどなく眠りに落ちてしまった。

 

 木々の間から漏れる柔らかな朝の陽ざしに目が覚めた。昨夜の動物たちの大半は秘湯から去り、リスと野兎が残っているだけだった。清々しい高原の朝の空気が秘湯を覆っている。背筋を伸ばすとお湯の上に出た肩にひんやりとした風を感じる。

 私は自分の肩の微かな異変に気付いた。肩が軽いのだ。ハリの無い肩が不思議なほど軽く柔らかく感じられた。視線を落とすと、いつもの自分の肩よりずっと白くて脆弱に見える。この秘湯の特別な雰囲気による錯覚だろうか。右手を挙げて左肩を触ってみようとして驚いた。右の上腕部の内側が何か柔らかいものにぶつかり、同時に右胸に経験したことのない圧迫感を感じたのだ。

「ひえっ!」

 私はそれを見下ろして仰天した。そこに見たものは、お湯の中に漂う二つのフワフワとした真っ白な塊だった。それは乳房だった。両手でその二つの塊を掴んで認識を新たにした。私の胸には女性のような乳房が生えていた。乳房を掴んだ手も、細くしなやかで、そして伸びやかだった。これは女性の手だ。
「もしかしたら……」
 股間に伸ばした右手が突起した棒に触れることはなく、その代わり柔らかな花弁とその間のスリットに遭遇した。湯面を鏡にして自分の顔を見ようと俯くと、髪の毛が顔の両横からバサッと垂れた。波立つ水面でよくは見えないが、映っているのが男性でないことは確かだった。立ち上がると私の身体は頭からつま先まで紛れもなく女性になっていた。しわもシミもないふわふわした皮膚に包まれた若い女性の肉体だった。


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