一般職にされた男
【内容紹介】男性サラリーマンが一般職OLとして仕事をさせられるTS小説。浜口直樹は大学の同級生の玲子と結婚を約束し、同じ会社に就職した。直樹は総合職、玲子は結婚後は家事と子育てを優先するため一般職として入社する。しかし玲子は社内試験でトップの成績を取りTOEICは870点、一方の直樹は600点に満たず、開発課では女性の新課長の下で残業続きだった。会社が外資に買収されてアメリカ人女性の新社長が新人事政策を打ち出す。ある日、玲子が総合職に転換され開発課に異動になる。そこまでは良かったのだが、その次に掲示された異動辞令によって直樹と玲子の関係が根本的に変化する。開発課で寿退職する女性の後任として、直樹を一般職に転換するという辞令だったのだ。第一章 婚約解消
台風の余波で雨の日が続く八月末のある日、婚約者の杉村玲子から夕食の誘いがあった。新宿にあるレストランに七時に来てほしいとのことだった。それは高層ビルの最上階にある展望レストランで、僕たち二人にとって特別な場所だった。
僕はこの三月の卒業式の夜、まさにそのレストランで婚約指輪を玲子の前に差し出してプロポーズしたのだ。僕たちはお互いに結婚するのが当然と思って付き合っていたので、プロポーズは儀式以上のものではなかった。でも、「僕のお嫁さんになってください」と指輪を差し出し、テーブルに額が付くほどに頭を下げた後、頭を上げた時に見えた玲子の微笑と「はい、よろしくお願いします」という恥じらいに満ちた言葉の響きを、僕は一生忘れない。
僕と玲子は大学に入学したばかりの頃にクラスの飲み会で親しくなり、四年間付き合った仲だ。お互いに相手のことは何でも知っていると自負しているし、気持ちの動きだって分かる。いつも一緒にいることが心地よかった。就職活動も相談しながら会社を選び、結局同じ会社に就職したのは出来すぎと言われても仕方ない。
僕は総合職、玲子は一般職として採用された。リーダーシップがあって成績もトップクラスの玲子が一般職に応募したことに大学の友人たちは驚いたが、玲子にとっては僕と十分相談して納得した上での決断だった。僕たちは十分な時間をかけて子供に愛情を注ぐことが重要であり、夫婦の一方が会社の仕事に、もう一方が家庭の仕事に重点を置くのが良いという意見を持っていた。玲子は「どちらが家庭の仕事をするか、じゃんけんで決めようよ」と言って僕がたじろぐのを見て楽しんだ後で「会社の方を直樹に選ばせてあげる」と言った。そして玲子は一般職採用窓口に書類を出したのだった。
玲子は経理部に、僕は国際事業部の開発課に配属された。国際事業部は僕の希望通りの部署だったが、仕事が非常に厳しい部署で毎晩残業続きだった。七月の人事で開発課の課長が交代してから残業は減ったが、仕事の厳しさは倍加した。新課長の黒沢亜希は三十八歳の女性でニューヨークの現地法人で営業実績を上げたエリートだ。着任早々に辣腕を発揮し始め、芝本課長代理が子会社に出向させられるとの噂が流れた。芝本は四十二歳の男性で年下の女性上司に対してふてくされた態度だったので飛ばされても仕方ないと思った。開発課には他に入社五年目の総合職の水川杏奈と、入社二年目の一般職の江川美智子がいて、僕を含めると五人の所帯だ。
僕が国際事業部を希望したのは何となく外国に行ってみたいという程度の理由だったが英語は得意ではない。入社後に受けさせられたTOEICの結果が折悪く新課長の着任直後に届いたのだが六百点にも届かない点数だった。新課長は「ふうっ」と溜息をついて僕の顔を見ただけで何も言わなかった。黒沢課長になってから開発課の業務内容が一挙に国際化した。単に海外案件が増えたというのではなかった。黒沢課長のスタイルとして、開発とは単なる新規顧客へのコンタクトや製品の紹介ではなく、技術や製品に関する詳細な基礎調査から開始するのが常だった。英語の特許の全文を読んだり、技術資料を隅から隅まで読むという作業が加わって、僕は遅くまで英語と格闘する毎日が続いていた。
入社後もう一つの変化は、会社が外資のファンドに買収されたということだった。外資から派遣された巨大なゴリラのような女性が八月の始めから社長室に座っていて、今の社長は九月に降格して顧問になるそうだ。新入社員の僕には直接の影響があるとは思えないが、中堅以上の社員は人事制度が大幅に変更になるらしいと噂し合って恐怖に怯えている。
玲子は僕より一足先にレストランに到着してビールを飲んでいた。窓に沿った席で都心側の夜景が壮観だ。
「火曜日の夕方なのに、急に呼び出してゴメンね、直樹」
「ホント、大変だったんだよ。新しい英語の資料を今日中に読む必要があったけど、課長には父が出張で東京に出てくるとウソをついて出てきたんだから」
「本当にゴメン」
「ごめん、ごめんって玲子らしくないな。週末まで待てないほど大事な話があるのなら仕方ないけど」
「大切なことが明日発表されることになったから、今日中に直樹に話をつけておきたかったの」
「何が発表されるの? 僕に話をつけておくだなんて、何だか怖いな」
「ゴメン、本当にゴメン」
玲子はバッグから小箱を取り出して僕の目の前に差し出し、テーブルに頭がつくほど深くお辞儀した。それは三月に僕が玲子に渡した婚約指輪だった。
「えっ!」
口を半開きにしたまま、身体が凍り付いた。これは別れ話のようだ……。
目の前が真っ暗になり、気づかないうちに頬を伝わった涙がポタポタとテーブルクロスを濡らし始めた。
「ど、どうして?」
泣き声と同時に、叱られた子供のような高い声が僕の口から出てきた。
「嫌だ、そんなの嫌。玲子と別れるなんて想像もできない」
玲子が顔を上げて、僕にハンカチを差し出した。
「ごめんね、突然」
「お願い、考え直して。何でもするから、別れるなんて言わないで」
泣きじゃくりながら玲子に訴えた。
「私の話を聞いて。ちゃんと説明するから」
玲子の話を聞こうと目を上げたが、涙が止まらなかった。
「三月に直樹からお嫁さんになってくれと言われて、はいと答えたわ。私は一般職になって家庭を優先する約束だった。でも、事情が変わったの。先週の終りに部長から呼ばれて、異動の内示が出たのよ。総合職に転換して事業部門に移るという内容よ。七月に若手全員が受けさせられた貿易実務試験と常識試験で私がトップだったらしいの。それにTOEICが九百点以上ということで白羽の矢が立ったんですって。部長は私を社長の部屋に連れて行って、異動先の課の上司も交えて英語で面談したのよ。私は家庭を優先するために一般職に応募したことを説明してお断りしようとしたけど、二人がかりで説得されちゃった。必ず女性が働きやすい職場に変えることを約束する、と社長が私の手を握ったから、分かりましたと返事してしまったの」
「すごいじゃないか。社長と英語で議論したなんて、僕には想像もつかないよ。でも、それがどうして別れ話につながるんだよ。総合職になるのなら、家庭の仕事を二人で分担すればいいじゃないか。僕もできるだけ協力して家事も分担するから。別れるなんて言わないでよ」
「話はそれだけじゃないの」
「まさか、それは男に関する話じゃないだろうね?」
僕は最悪の言葉を予想した。
「確かに、一人の男性に関する話ね」
一旦止まっていた涙がワッと湧き出て来た。
「直樹という名前の男性よ」
「えっ、僕のこと? お願いだからじらさないで」
「実は移動先の上司というのは国際事業部の課長、そう、直樹の上司の黒沢亜希さんのことよ。開発課の総合職の新入社員の英語力と基礎知識レベルが低すぎて仕事にならないということで即戦力になりそうな人材を探していたらしいの。要するに直樹の代わりとして私が開発課に行くことになったのよ」
「やっぱり、そうじゃないかとは思っていたんだけど、課長は僕を低く評価していたんだね。ということは僕は他所の課に異動させられるのか……。それでいいよ。今の仕事は確かに僕には向いていないから」
「そういうことじゃなくて、課長としては直樹を開発課から外に出すつもりはないんだって」
「なあんだ。じゃあ、玲子と同じ課で仕事できるんだね」
「そうよ。私と同じ課で働けるのよ。江川美智子という人が九月一杯で退職することになったから、直樹をその人の後任にする予定なんだって」
「美智子さんが退職するとは知らなかったな。でも、彼女は一般職だよ。総合職の僕が彼女の後任になれるはずがないと思うけど」
「わかりやすいようにストレートに説明するわね。実は、直樹は一般職に落とされることが決まったのよ」
「そ、そんなのアリかよ」
「新社長が進める新人事制度では能力に劣る総合職は一般職に転換させることになっているんだって。あ、ゴメン。直樹のことを能力に劣るだなんて言って。総合職に要求される能力プロファイルに合わない人材を、適材適所の観点で一般職に転換するという意味よ」
「ひどいよ。僕は新人事制度での一般職降格の第一号に選ばれたわけなの?」
「残念ながらそういうことね。気の毒だけれど、それが現実なの。私も直樹の一般職転換の話を聞いた時には冷徹過ぎると思った。でも、よくよく考えてみると、社長や開発課長の仰ることには一理あると思ったわ。直樹に今の仕事は難易度的に無理があるし、他の部署に移ったところで総合職の仕事には向いてないような気がするの。社長の話を聞いていて、これからのうちの会社は、私のような頭脳と英語力とリーダーシップを持つタイプの人間が能力を発揮しやすい場所になると確信したの。直樹のタイプは一般職の方がより適しているし、幸せになれると思うわ。
「男なのに一般職だなんて……、僕はもう生きていけないよ。玲子に捨てられて、しかも一般職に降格させられるなんて。どちらか一方でも耐えられないほどの悲劇が同時に起きるとは、神様はむごい!」
「ちょっと待って。話はまだ終わっていないわ」
「聞きたくないよ。悲劇の第三弾が出たら、僕はこの場で自殺するかもしれない」
「悪い話じゃないから、最後まで聞いて、お願い」
「玲子にお願いと言われたら仕方ない。聞くよ」
玲子はバッグからピンクの包装紙に赤いリボンの小箱を取り出した。
「これを直樹に受け取って欲しいの」
「お別れのプレゼントなんて欲しくないよ。見る度に悲しくなるから」
「いいから、とにかく開けてみて」
リボンを解いて包装紙を開くと、ビロードの赤い小箱だった。ふたを開けると、小さなダイヤのちりばめられた指輪が出てきた。
「えっ、これ何? 僕が玲子にプロポーズした時の指輪を突き返されたばかりなのに、紛らわしいよね」
「これは私から直樹への指輪よ」
「いわゆる倍返しってこと? 要らないよ。見るたびに辛くなるじゃないか……」
「直樹、私と結婚して。必ず直樹を幸せにするから、私についてきて欲しいの。私は総合職として頑張って、直樹は一般職として働きながら家庭を守って欲しい。今度の辞令で直樹と私の立場が入れ替わるから、結婚といっても、全く意味が変わってしまうでしょう。だから一旦婚約を解消した上で、改めて私からプロポーズすることにしたの。お願い、結婚してください」
僕の目から今までよりもさらに大粒の涙がポタポタと落ちた。今度は喜びの涙だった。
「どうしてまとめて話してくれなかったんだよ。一旦地獄の底に突き落として、絶望させた後で天国に引き上げるなんて……」
歓喜のあまり泣きじゃくりながら言った。
「じゃあ、受けてくれるのね」
「はい、よろしくお願いします」
返事をするのに緊張している自分に気づいた。三月に僕がプロポーズした時に玲子はどんな気持でこの言葉を口に出したのだろうか。
「指輪を嵌めてみて。左手の薬指よ」
その指輪は僕の左手の薬指に完璧にフィットした。
「でも、女の子の指輪みたい。会社では外していい?」
「絶対に外しちゃダメ。直樹が売約済みだということを第三者に分からせるためだから」
玲子は話を続けた。
「誤解があるといけないから確認しておくけど、会社での婚約の発表のタイミングは私が決めるから、まだ誰にも言っちゃダメよ。上司達が私の総合職としての異動や育成計画を考える際に結婚予定があるということがマイナスになる場合があるから、発表のタイミングは慎重に選びたいの」
「わかった。玲子がいいと言うまでは誰にもしゃべらない」
「もうひとつ、直樹の会社での行状はいずれ私の評価につながってくるんだから、一般職になっても今まで以上に誠実に仕事をすること。ふてくされたり、いい加減な仕事をしちゃだめ。私を含めて職場の上司に気に入られるようにしなさい。困ったことがあったら必ず私に相談して、私の指示に従うこと」
「そうか、玲子は僕の上司になっちゃうのか……。わかった。一般職に落とされても真面目に仕事するよ」
「最後に私生活の話よ。私が主人、直樹が言わば私の妻になるということの意味を理解しているでしょうね。二人にとっての重要な事項は十分議論した上で私が判断する。例え直樹にとって不本意な結論になっても私の最終判断に従うこと。いいわね」
「離婚という以外の判断なら従っても良いけど……」
「今私が言ったことを直樹が守る限り、私が直樹を捨てることは無いわ。約束する」
「それなら了解。玲子の言うとおりにするよ」
僕の幸福感は頂点に達した。一旦全てを失って絶望の淵に立たされたからだろうか。玲子と結婚できるなら、それ以外のことは大した問題ではないという気持だった。
第二章 人事異動
翌朝会社に行ってパソコンを開くと、社長から全社員宛に「新人事制度について」というメールが届いていた。題名は日本語だが中味は英語の長文だった。部の全員が必死でそのメールを読んで
「ほおー」
「マジかよ」
「参ったな」
などと口に出していた。
僕は昨夜玲子から聞いていたので驚かなかったが、新人事制度の下で、基本的能力、実績と業務姿勢によって人材を再評価するので、今後従来の常識は通用せず、不当に高い評価を受けていた人材が降格したり、能力があるのに登用されていなかった人材が一気に引き上げられることがあるということのようだ。特に女性が活躍しやすい職場環境を整備して女性を優先して登用すると繰り返し強調していた。
メールの最後には、新人事制度に基づく人事異動を今日から逐次発表すると書いてあった。
人事異動は人事部のページにある掲示板に掲載されることになっているので、みんな仕事をしながら時々掲示板をクリックしていたが、昼休みのチャイムが鳴るまで人事異動の発表は出ていなかった。
昼食はいつものように隣の課の先輩二人や同期の山本と一緒に社内食堂で食べた。
「営業三課の西松さんが気の毒なほど落ち込んでいたな。課長の後任になるつもりが、今ロンドン支店に駐在している同期の女性に三課の課長の座をさらわれそうだという噂だ」
「同期の女性が突然上司になったら居心地が悪いでしょうね」
と山本が言った。
「同期の女に敬語で話するのもいやだろうな。開発課の人間は女性の上司に慣れてるから問題ないよな」
と隣の課の先輩が僕に言った。
「僕は同期の女性が上司になっても全く気にしませんよ。女性にも優秀な人は沢山いますから」
と、後で玲子と僕の人事が発表になった際の伏線として先手を打つつもりで言っておいた。
昼食を終えて席に戻った。一時を少し過ぎて人事異動が掲示板に出た。本日九月一日付けでの約十名の人事異動の発表だった。
国際事業部関係の人事異動の目玉は、ロンドン支店の湯川晶子が営業三課の課長の後任になるという辞令だった。営業三課の西松課長代理が誰の目にも明らかなほど蒼白になって項垂れていた。ニューヨーク法人の峰岸響子の開発課課長代理の発令と、総務経理部の杉村玲子の総合職転換と開発課への異動も驚きを集めていた。開発課の芝本課長代理には関連会社への出向の辞令が出ていた。
「全て、女性登用の辞令だな」
「今後俺たちはお先真っ暗だ」
男性社員達が口々にしゃべっていたが、営業三課の西松以外はひとまず自分に影響を与えない人事異動発表に胸をなで下ろしていた。
僕の名前がどこにも出ていなかったので「ひょっとして、悲惨すぎるという意見が人事部で盛り上がって、一般職転換の話は消えたんじゃないだろうか」
という楽観的推測が頭に浮かび、僕は内心浮き浮きしていた。
しかし、一時間ほど遅れて一般職の人事異動が人事部の掲示板に出た。他部門の組織変更に伴って約二十名の一般職社員の所属先変更の辞令がずらりと並んでいたので、殆どの人は最後まで読まずに掲示板を閉じてしまったようだ。しかし注意深く読むと、一番最後に開発課の江川美智子の依願退職と、後任としての僕の一般職転換が記されていた。
「おい、これ、お前のことじゃないか? 一般職に落とされるみたいに書いてあるぞ」
隣の課の先輩が気づいて僕に言った。他の人達も改めて一般職の辞令の最後の部分を読んでザワザワし始めた。
丁度その時、杉村玲子が国際事業部の部屋に入って来た。玲子は部長に挨拶をしてから開発課長の横に来て
「今日からお世話になります。よろしくお願いします」
とお辞儀した。グレーのスーツ姿の玲子は颯爽としていて、いつものピンクの制服姿とは見た感じが全く違う。
僕と美智子は課長に声を掛けられて、課長のところに行った。
「浜口君は担当業務を杉村さんに引き継ぐのと並行して、結婚退職する美智子さんから一般職業務の引き継ぎを受けてください。浜口君の席にそのまま杉村さんが座るといいわ。浜口君は美智子さんが退職するまでは美智子さんの横のプリンターの机を使いなさい。昨日まで浜口君が担当していた一般職の勤務管理も杉村さんが引き継いでください。ちなみに、ニューヨークから峰岸響子さんが帰任するのは約一ヶ月後になる見込みです。じゃあ、新しいメンバーで頑張りましょう」
僕は周囲からの哀れみの視線を感じながら、机の引き出しから私物を取り出して美智子の横の席に移り、担当している案件の書類の在処を杉村に教えた。僕は書類の整理は得意で、ファイルは分かりやすく分類してあるので、勘の良い杉村は直ぐに内容を理解したようだった。勤務管理は、各人が自分の出退勤記録をインプットして上司が承認すると人事部にデータが送られる形になっている。僕は一般職の江川美智子の上司の立場で美智子の勤務データの承認をしてきたので、そのやり方を玲子に教えた。
「人の勤務データを承認したことはないから、戸惑っちゃうわね」
と言いながら玲子は承認インプットのやり方を僕から習った。
「浜口君のデータも見えるようになっているわ。人事部で浜口君の一般職への変更手続きが完了したみたいね。あれっ、先週の水曜日以降のデータが未入力になってるわよ。今後は毎日インプットしてね」
「わかったよ。いきなり厳しいんだから」
その時、課長から声が掛かり、僕は課長の所に行った。
「杉村さんは同期かもしれないけど今日から浜口君の上司になったんだから、職場ではちゃんと敬語で対応しなさい。それから、勤務管理の件だけど、一般職が残業する場合は上司の事前承認が必要だから、その点も気をつけてね」
僕は玲子に案件の説明を続けたが、いきなり敬語でしゃべらなければならなくなって、しどろもどろになった。玲子はサディスティックな笑みを浮かべながら
「この部分が良く分からなかったから、もう一度説明しなさい」
とわざと命令口調で僕に言う。僕はその都度「はい」と言って敬語での説明を繰り返さなければならなかった。
「杉村さん、お茶出しの関係のことを浜口君に教えたいのですが、浜口君をお借りしてよろしいですか」
と美智子がバカ丁寧な口調で玲子に聞いた。
「あっ、すみません。つい夢中になっていました。私の方の引き継ぎは今日はここまでにしておきますので、後は美智子さんの方でお願いします。じゃあ浜口君、残りは明日ね」
「行くわよ、浜口君」
美智子は今朝まで僕を「浜口さん」と呼んで敬語で話していたのに、急にため口になったので僕は少し不愉快に思った。
「あいつ、総合職になったらいきなり偉そうにするんだから。あんたも同期なのに腹が立たないの?」
美智子が玲子の悪口を言い始めたので驚いた。
「そうか、今朝までは同じ一般職の後輩だった人が急に上司になったんだ。上下の立場が逆転したのか。僕よりひどい話だよね」
「あんたバカじゃないの。あんたの場合はそれどころじゃなくて総合職と一般職が逆になったのよ。主人と召使いが入れ替わったのと同じよ」
「どっちもどっちだね、アハハハ」
「ちょっとあんた、私より一期下なんだから私に対する言葉にも気をつけてよね。一般職の世界には厳しい掟があるのよ。今朝までは総合職の上司だったけど、今は同じ一般職であんたの方が後輩なんだからそのつもりで接しなさい」
僕は玲子との関係ばかりに気を取られていて、美智子との上下関係が変わったことまで気が回らなかった。よく考えると、一般職社員の大半は僕から見て先輩にあたる。今や、僕がため口を叩いていいのは同期入社の一般職社員だけになってしまった。
美智子はお茶の入れ方とお茶出しのルールを一通り僕に教えた。
「お茶出しは基本的に来客の時だけだけど、社内だけの会議の時にもお茶出しをさせられるから、忙しいときには煩わしいのよね。特に課内会議の時は一般職の私たちだけが席にいて電話も取り次ぐ訳だから、お茶を入れろと言われると隣の課の女性に電話番を頼まなきゃならないわけよ。若い子が相手なら良いけど、お局さんに電話番頼んで露骨に嫌そうな顔をされるのは辛いものよ。総合職の人たちはそんな状況を知らないから気軽に言いつけるけどね。それから、私が退職するまで課内会議のお茶出しは全部浜口君がやりなさい。私は玲子にお茶を出すのだけは絶対に嫌だから」
課内会議の席にいる玲子にお茶を出して、電話番をするために席に戻る自分を想像すると惨めな気持になった。一般職も同じ課の一員なのに……。
「あっ、定刻までに五分しかないわ。席に戻らなくちゃ」
美智子の後を追って開発課に戻った時、終業のメロディーが流れた。玲子達は全く意に介さずに仕事に没頭していた。
「お先に失礼します」
と美智子が席を立った。
「お疲れ様でした」
と玲子は美智子に会釈した。昨日まで目上の存在だった美智子に気を遣っているようだ。
「浜口君も早く帰りなさい」
玲子が僕を明らかに目下扱いするのは、同じ一般職でも年上の美智子には敬意を払っているということを美智子に示すためかもしれないと思った。
「課長からコスト管理については事前に厳しく言われているのよ。部下の人件費をコントロールすることは私の評価にもつながるの」
と玲子が小声で僕に言った。
「お先に失礼します」
と席を立つと、
「お疲れ」
と、上司の口調で言われた。
普段なら
「さあ、今夜もこれから仕事を頑張るぞ」
というべき時間なのに、正々堂々と帰宅できるのが不思議だった。一般職の女子社員たちが更衣室へと歩いていく。僕は一般職の社員に顔を合わせたくなかったので、彼女たちが更衣室から出てくる前に会社を出ようと思ってエレベーターへと急いだ。
エレベーターに乗ると、いち早く着替えを済ませた女子社員の第一波が各階に停止する度に乗り込んできて、一階では満杯になった。
「あら浜口君、今日から私たちと同じ一般職になったのよね。また声を掛けるから、美味しいものでも一緒に食べに行こうね」
僕に声を掛けたのは同期の経営企画部の一般職社員だった。彼女の言葉を聞いて女子社員達の視線が一斉に僕に注がれた。蔑む視線に感じられて俯いた。
地下鉄の電車が混雑しているのには驚いた。女子は別にして、男性の会社員は誰でも七時以降まで残業するか飲みに行くのが当たり前と思っていた。五時台の電車に男性サラリーマンがこんなに大勢乗っているとは思っていなかった。明るいうちに帰宅できれば生活パターンが全く違ってくるだろう。僕は一般職になって得をしたような気分がした。
翌朝、僕はいつもの通り始業時間より一時間あまり前に会社の近くのコーヒーショップに到着した。ラッシュアワーのピークより早い電車に乗れば窓際に立って新聞を読めるし、コーヒーショップで三十分ほど新聞の続きを読み、世界の最新情報を頭にたたきこんだ上で始業三十分前に出社するのが入社以来の習慣だった。今日は始業三十分前に出社して何をすればいいのだろう、という単純な疑問が頭に浮かんだ。総合職なら昨夜欧米から届いたメールを読んで対応したり、案件の下調べをしたり、早く出勤すれば仕事はいくらでもある。でも、一般職になった僕は始業三十分前に出勤しても机の上の拭き掃除をするとか、昨夕退社した後で総合職の人たちが共有テーブルスペースを汚したり缶コーヒーを飲み残したりしたのを片付ける程度しか思いつかない。美智子も毎朝始業メロディーが流れるのと相前後して席に走り込むが、総合職だった僕が不便を感じたことは一度もなかった。それに、女子社員の場合は更衣室で制服に着替える時間が必要だが、僕の場合は席に直行するのだから、始業時間の五分前にコーヒーショップを出れば大丈夫だろう。早く行っても男性の先輩や友人から「お前、一般職にされて気の毒だな」などと慰めの言葉を掛けられるだけで、どう返事してよいのか想像もつかない。もし同期の友人から話しかけられたら、一般職になってしまった僕は敬語で返事しなければならないのだろうか。考えるだけでも憂鬱だった。
僕が開発課の席に着いたのは、始業のメロディーが鳴り終わった数秒後だった。
「浜口君、今何時なの?」
「すみません、九時十六分です」
「始業は九時十五分よ。一般職は遅刻しても許されるとでも思ってるの?」
玲子から厳しい言葉をぶつけられて、涙目になってしまった。玲子は僕の涙に気づいたのか、それ以上は叱らなかった。
「明日から気をつけなさい」
「はい、申し訳ございませんでした」
今日は早めに出社していた美智子は、それみたことかといった表情で僕を見た。
「いきなり遅刻だなんて、一般職全体が軽く見られるじゃない。何をしてたの」
「いつもの通り新聞を読んでたんです。何となく会社に来づらくて、つい遅くなってしまいました。すみませんでした」
「新聞って、その日経新聞のこと?」
「ええ、勿論日経ですよ。電子版に変えるかどうか迷っているんですけど」
「一般職が日経を読んで何の役に立つのよ。バッカじゃない?」
美智子からバカじゃないかと言われて腹が立ったが、よく考えてみると、一般職になってしまった僕が世界経済の最新情報を仕入れても意味がないような気もした。
玲子への引き継ぎの続きを始めた。昨日のうちに約半分の案件の説明を終えていた。残りの案件の説明を開始したところ、
「ああ、そこは分かってるから次を説明して」
と何度も玲子に言われ、一時間ほどで全部の案件の説明が終わった。
「昨日の夜ファイルを読んで大体のことは頭に入ったわ。今後は分からないことがあったら質問する」
と玲子が言った。
「他にも、課長に先週言われて、少し手を付けただけの資料があるので、説明させてください」
と恐る恐る言った。
「カナダの案件の技術資料の事ね。共有フォルダーに入っていたから、昨日浜口君が帰った後で読んだわ。その件はもう昨夜課長と相談してメールで対応済みだから、浜口君はもう忘れて良いわよ。ごくろうさま」
僕が一週間かけても出来そうにないことを玲子は着任初日に何の苦もなく片付けたようだった。僕が読んでいる途中だった他の三つの案件の印刷物も机の上から消えていたので心配になり、一応尋ねてみた。
「全部読んでから相手先に返事して印刷物は捨てたわ。電子ファイルが残っている場合は紙のファイルを残さない主義だから」
と玲子がさらりと答えた。
同じ人間でも能力にこれほどの差があるのだと驚いた。例え僕が三人いても玲子一人に太刀打ちできそうにない。課長が僕を一般職にしようと決断したのは正解だったと思った。
「課長、浜口君からの引き継ぎを完了しました」
「ごくろうさま。じゃあ浜口君、今後は一般職の仕事に専念して、早く美智子さんから仕事を教わりなさい」
僕が開発課の業務の内容に少しでも関与したのはその日の玲子との会話が最後で、それ以降、僕は課長や上司たちが仕事をしやすいように何かにつけて気を回したり、コピーや発送などの作業を言われた通りにしたり、お茶を出したり片付けをするという、補助的な仕事しかさせてもらえなかった。今、芝本課長代理がインドネシアの案件で色々なトラブルに直面しているということは一般職の僕たちにも分かっていて、芝本が仕事を進めやすいように特に芝本の番号にかかってきた電話は早めに取るとか、芝本の雑用を優先して先にやるなどの形でサポートしているが、インドネシアの案件がどんな案件かとか、どんなトラブルに遭遇しているかという具体的な詳細は僕たちには分からない。でも一般職も課の一員であり開発課のために頑張っているという意識は常に持っていて、芝本が喜んでいると僕も一緒に笑顔になった。
課内会議に参加させてもらえないのは残念というよりも、悔しかった。玲子に引き継いで以降は具体的案件に接することがないので、ビジネスの感覚が薄れ、難易度の高い話を聞いてもついていけなくなったのは事実だが、課長から玲子までの上司達全員が真剣に協議する会議にお茶を出しに行った時に「浜口君はお茶を出したら席に帰りなさい」と言われると、一人だけ除け者にされた気がした。「話を聞いてもキミには理解できないから来なくていいよ」と言われるのと同じだった。
会議室から電話がかかってきて、僕に何かの役割を与えてくれるのかなと思ってドキドキしながら会議室に行くと、
「これ四セットコピーしてきて、ついでにお茶もお願い」
と玲子に言われた時には給湯室で涙が出てきてしまった。
一般職の辞令が出た日から、昼食は従来のメンバーとは一緒に行けなくなった。総合職の男性と一緒にいても、もう二度と共通の話題を持つことは無いだろうと思った。彼らも僕に気兼ねして気楽に話ができなくなるのではないかと思う。しかたなく金魚の糞のように美智子にくっついて行動することが多く、昼食は美智子の同期の一般職と一緒に社内食堂や近所のレストランで食べるのが普通になった。たまに玲子が声を掛けてくれて、開発課の女性総合職と一緒にレストランに行くこともあった。いずれの場合も、一般職の先輩の人たちか、開発課の上司たちとの食事であり、僕は常に敬語を使い、お茶を入れたりと何かに付け気配りした。元々環境適応能力には自信があった僕は新しい立場での動作が自然に身についてきた。
折角五時半に退社できる恵まれた状況になったが、玲子は総合職になってから午後七時までに仕事が終わるのは週に一、二回になった。当日何時に仕事が終わるかが分かっていれば僕も喫茶店とか本屋で時間をつぶして玲子を待つことも厭わないが、七時に終わるか、十一時になるか、或いはたまに課長に誘われて飲みに行くとか、全く予測がつかないので、週末以外のデートは成立しにくかった。一旦帰宅した後で玲子から呼び出され会社の近くに出ていこうとすると、アパートから片道一時間近くかかるので億劫だった。
結局、毎週金曜日に玲子が会社の帰りに僕のアパートに来て、土、日と一緒に過ごした後、月曜日の朝に僕のアパートから一足先に出勤するという習慣が定着した。これだと、毎週丸々三日近く一緒に過ごせるのでお互いに寂しくない。
金曜日に近くのスーパーで食材を買って帰り、料理をして玲子の帰りを待つことが毎週の楽しみになった。早いときには午後八時頃に来ることもあれば、急に飲みに行くことになって深夜になることもあったが、遅くなっても必ず来てくれるのが僕の心の支えだった。僕は玲子が一週間分の疲れから回復できるように、月曜の朝まで一生懸命に玲子に尽くした。
「木曜日にはどうして課長や水川さんが見ている前であんなに厳しく叱ったんですか? あれからトイレで十分ぐらい泣いてたんですよ」
「直樹は同じミスを三回したのよ。誰が考えても気が弛んでいるとしか思えないじゃない。あそこで甘い顔を見せていたら、私の管理能力が疑われるわ」
「それだけじゃないでしょう。あの日杉村さんは朝からイライラしていたみたいでしたよ。イライラを部下にぶつけるなんてひどいですよ」
そんな会話をすることで僕も一週間の鬱憤を晴らすことが出来た。当初、会社のことはプライベートには持ち越さないようにしようねと言ったのは玲子だったのに、僕のアパートに来ても玲子は会社での態度を改めようとしない。ため口を聞くと玲子が不機嫌になるので僕は家でも敬語で話すようになった。玲子は自分のことを杉村さんと呼ばせ、僕を直樹と呼び捨てにした。
手の届く場所にあるボトルからお茶を入れるとか、冷蔵庫からマヨネーズを取るとか、ご飯をおかわりするとか、少し動けば済むことでも玲子は自分ではせずに当然のように僕に命令した。
「課長が課内会議で毎週のように私たちに言うのよ。一般職にさせられることは自分ではするな、総合職は知的でクリエイティブな作業に集中しろって。今週も直樹が席を外しているときに自分でコピーを取ったら、翌日の課内会議で嫌みを言われたわ。浜口君が帰るまでコピーを待つことは出来なかったのかって」
「今マヨネーズを自分で取りに行っても、課長は見ていませんよ」
「癖が抜けないのよ。それに直樹が私のために動いてくれるのを見ると幸せな気分になるから、つい言いつけちゃうの」
そう言われると僕も悪い気はしなかった。
会社では単に上司と部下の関係を装っていたが、ある日美智子から言われた。
「あんた、もしかして玲子のことが好きなの? 時々玲子の方を見てヨダレ流してるみたいだけど。あんな大女のどこがいいの? あんたより十センチは大きいでしょう」
「違いますよ。僕の目の方向にたまたま杉村さんが居ただけです。先週もひどい叱られ方をしたのを見られたでしょう? 鬼上司を好きになるわけが無いじゃないですか」
僕は言下に否定したが美智子は「そうかなあ」と納得していない様子だった。
美智子は僕の左手薬指の指輪にも直ぐに気づいていた。
「それ婚約指輪よね。一般職の辞令が出たころからはめてるみたいだけど、婚約したの? 相手は社内? 社外?」
「指輪のことはまだ誰にも言わないでくださいね。相手の人のことはまだ言えないんです」
「社内ってことはないよね。総合職だった彼氏が一般職に降格したら、社内の女性なら婚約解消したがるでしょうから。社外だとすると一般職になったことを彼女に隠してるんじゃないの? 後でばれたら捨てられるわよ」
「一般職になったことを知った上でプロポーズしてくれましたから大丈夫ですよ」
「もしかして、相手はうちの課長じゃないでしょうね。課長は以前から小柄できれいな男の子が好きだし、時々あんたの後ろ姿をスケベそうな目で追っていることがあるから」
「へんなことを言わないでください。そんなこと絶対に無いですよ。課長に聞こえたら、僕が嫌われるかもしれませんから二度とそんなことは言わないでくださいよね」
「分かったわよ。でも、一般職になってからプロポーズして、女物のリングをもらうというのは、常識では想像がつかないな……、あっ、わかった。相手は男性で、あんたは女役なんでしょう。だからあんたは一般職に降格させられても暢気に構えていられるのね」
「怒りますよ! 僕は完全にノーマルです。女性以外を好きになることは百%あり得ませんから」
「納得できないなあ。相手が誰だか、私だけには教えてよ。教えてくれないんなら指輪のことを言いふらすわよ。一般職になったことを知った上でプロポーズされたってことも」
「脅されても言えません。公表の時期は彼女が決めるということで合意済みですから」
美智子は僕の婚約指輪のことを言いふらしたりはしなかったが、僕がフェミニンな指輪を左手薬指にはめていることには多くの人が気づいていたようで、数人から冷やかされた。後で美智子から聞いたところによると、中年男性との不倫説が最も有力と思われているようだった。
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