スカートの男たち:ある地方都市の社会実験(TS小説の表紙画像)

スカートの男たち
ある地方都市の社会実験

【内容紹介】男性がスカートをはいて働くことになるTS小説。ある地方都市の市役所で男子職員のスカート着用を推進するプロジェクトが開始する。主人公は東京の会社を辞めてUターンし市役所に臨時職員として就職するが、そのプロジェクトの担当者に指名される。日本のどこかの地方都市で明日起きてもおかしくないリアルな物語。

まえがき

 職場で冷房の温度設定について男女の意見が分かれたことはありませんか? 
 色々な要因があると思いますが、最も基本的な原因の一つはスカートにあります。下半身からの放熱が容易なスカートなら同じ温度でも涼しく感じるのです。
 職場での男性のスカート着用を推進すれば冷房費が節約できるだけでなく、男女の区別の象徴であるスカートの壁を崩すことにより、服装を含め多くの制約に縛られている男性を解放し、ひいては女性の地位向上につながるのではないかという着想を得た敏腕女性市長が「スカート男子計画」という社会実験に着手します。
 当初は数名の市役所職員が不本意ながら協力させられてスタートしたスカート男子計画でしたが、その地方都市全体を巻き込んで展開することになるのでした。

第一章 精一杯の仕返し

 夏木立の日陰を縫って歩く通勤路。朝なのにもう太陽は高く、頬を刺す日差しの熱さをハンカチで覆いたくなる。
 先月末まで住んでいた東京より百数十メートル標高が高い分気温は約一度低い計算だが、それだけ空気が澄んでいて太陽に近い。東京だと心までぐったりさせる炎暑だが、この町だと木陰で足を止めて汗を拭いてから再び歩き出せばいい。
 地元の大学を出て、初めての一人暮らしに心が勇んだ東京での会社勤めだったが僕にとっては余りにも苦痛だらけだった。東京が悪いのではない。同期の仲間の多くが東京の会社に就職して都会での仕事に燃えている。僕は単に不運だったのだ。就職した会社の社風や配属された職場の上司たちの性格などが、たまたま僕とは合わなかっただけなのだろう。
 それにしても配属とは無慈悲なものだ。会社の人事部が僕を別の部署に配属していれば、僕は今日も元気に会社に通っていたことだろう。たまたま配属された営業課の課長が精神論を振りかざす脂汗にまみれた中年男性で、僕の指導員として指名された二十代後半の先輩が脳の髄まで体育会系の変人だったことが僕の不運だった。
 入社してまず目をつけられたのが里田蒼葉という名前だった。課長の第一声の「アオバって女の名前だろう」という口調が非難めいていた。責められるべきことではないのだが、
「あおば、とひらがなで書くのは女性が殆どですが、蒼葉は男女ほぼ同数だと思います」
と反論したところ、
「どう書いてもアオバはアオバで女の名前だ」
と頭ごなしに断言され、他の男子社員は苗字で呼ぶのに僕だけは「アオバ」と名前で呼ばれるようになった。
 髪型にも文句をつけられた。僕は長髪ではなく、いわゆるクラウド・マッシュで、流行りのふんわりとしたミディアムの髪型だ。
「お客様を不愉快にさせる髪型をなんとかしろ」
と課長が言い、
「お前、何のために会社に来てるんだ、仕事をするためじゃないのか?」
と指導員が嫌味を言った。
「女になりたいのならニューハーフのヘルスにでも就職しなおせ」
とまで言われた。
 彼らにとっては「耳にかかるか、かからないか、どちらになさいますか?」という理容師の質問自体が無意味で、男子たるもの髪を刈り上げるのが当然だった。
 後で思えば偏見に満ちた指導を甘受し迎合するという選択肢もあった。女性に多い名前であることをハンディと認識するなら、角刈りにでもして、課長と指導員にお世辞の一言でも言えば住みよい世界になっていたかもしれない。でも、僕は蒼葉という自分の名前が大好きで、髪型も大切にしていた。わざわざ彼らに刃向ったわけではないのだが、髪型を変えるつもりは全くないし、他の課の僕と似た髪型の社員は何も言われていないということは、彼らの主張が個人的な嗜好によるものではないかと、丁寧な言葉で返事した。
 その結果、課長と指導員は僕を、何もできないのに自己主張が強く反抗的で女性的な新入社員と決めつけた。彼らは執拗で何かにつけては僕に対して無慈悲で失礼な発言を繰り返した。
 六月中旬の平日の夕方、課の飲み会の席で僕は運悪く課長と指導員の向かいの席に座ることになり、酔った二人から暴言を繰り返された。課長から、
「アオバ、お前は総合職として入社したが、事務職に変更するよう人事部にかけあっているところだ。明日からはスカートをはいてこい」
と言われたので、
「そういうことでしたら明朝人事部に行って、課長から今言われたことについてお断りしてきます」
と答えた。
 すると課長が自分のビールのジョッキをガツンとテーブルに叩き付けて、
「お前、女のくせして上司を脅すのか」
と大声で言った。僕は
「あなたには課長を続ける資格はありません」
と面と向かって声を張り上げた。
 僕の発言を聞いた指導員が立ちあがり、拳骨で僕の顔を殴った。もう一発殴ろうとする指導員を他の課員が抑えた。僕は怒りに震え、スマホから一一〇番通報した。まもなく警官が来たので、殴られた目の下の痣を示し、「今、この男に乱暴されました」と訴えた。
 指導員は僕が一一〇番通報していたことを知らなかったので更に激高し、僕に飛びかかったが、警官に取り押さえられて連行された。
「お前、職場のちょっとしたもめ事を警察沙汰にして、会社に迷惑がかかることが分からないのか」
と課長が僕をどなりつけた。
「暴力は犯罪です。虐めは一線を越えると犯罪ですが証拠がなければ泣き寝入りしかありません。今日の犯罪のお陰で僕はあなたの虐めが一線を越えていたことを立証できます。明日は首を洗って会社に来てください」
 青筋を立てて怒る課長には、僕に殴り掛からないだけの理性があった。座が白けた飲み会は当然お開きになり、課長は後始末のために警察へ、残り全員はそれぞれの自宅へと散っていった。
 翌日、近所の病院で殴られた顔を診察してもらって診断書を取得した。それから警察署に行って被害届を提出した。お昼前に出社すると人事部から何度か電話が入っていた。人事部に行くと個室に通されて人事課長との面談になった。僕は昨夜の出来事の一部始終と入社以来受けて来た理不尽な苛めについて、人事部長宛ての報告書を提出した。口頭では握りつぶされるだろうと予測し、昨夜帰宅してからパソコンに向かったのだった。
「里田君の気持ちは分かるが、警察に通報したのは社会人として行き過ぎじゃないかな。会社が信用を落とすということに思いが至らなかったのかね。これ以上のスタンドプレーは止めて穏便にすませてくれ」
 人事課長に言われて、僕は「この会社は駄目だ」と思った。
 もう昼休みになっていたが、僕は席に戻ってすぐに人事部長宛てのメールを書き、営業部長と社長をCC欄に含めて送信した。
「本日人事課長に手渡した報告書を添付いたします。その際、人事課長より暴力行為を警察に通報したのは社会人として行き過ぎであり会社が信用を落とすことに配慮しなかったと非難を受けました。また暴力行為について穏便にすませるよう要請されました。私は昨日社外で受けた暴行について本日警察署に被害届及び診断書を提出済みであり今後の裁判等については個人として対応する所存ですが、職場でのハラスメントについては社内の問題として人事部にて早急に改善策を講じられるようお願いいたします」
 送信ボタンを押してしばらくすると、部長がそわそわし始めて、僕と視線が合うとすぐに目を逸らして立ちあがり、部屋を出ていった。きっと人事部長に相談に行くのだろうと思った。
 メールや報告書のことを何も知らない課長に午後から金曜日までの休暇申請を出したところ、苦々しい顔で「何日でも何週間でも何ヶ月でも好きなだけ休んでくれ」と言われた。僕はもう会社を辞める決心はついていたが、負け犬のように去ることだけはしないでおこう、と心に誓った。
 会社を出たものの何をするのか、全くあては無かった。アパートに帰ると益々気が滅入るのは目に見えていた。暴力行為やハラスメントについて色々なサイトに書き込むとか、会社をブラック企業として非難する作業に自分がのめり込みそうな気がした。でも、僕はそんなセコイ人間にはなりたくない。既に脳ミソが薄い暴力人間に対しては診断書付きで警察に被害届を出すという形で仕返しを済ませた。社長に写しを入れた報告書によって課長も何らかの報いを受けるだろう。それで十分じゃないか。この会社を選んだのは僕のミスであり、その報いとして退職する、それで一件落着にしよう、と僕は思った。
 無意識のうちに渋谷マークシティのバス乗り場へと向かっていた。静岡の実家に着いたのは夜が更けてからだった。

第二章 市役所の臨時職員

「どうしたの、急に帰って来て。出張なの?」
 実家の玄関で母の驚いた優しい表情を見て僕の顔はくしゃくしゃになった。
「早く上がってお風呂に入りなさい。お父さんは居間でウィスキーを飲んでるわよ」
 風呂を上がり母が用意してくれたパジャマを着て居間に行った。ソファーの横には大学三年になった妹のかえでがパジャマ姿で寝ころんで雑誌を読んでいた。
 母が僕にも水割りを作ってくれていた。気まずくて、それでいて心地良い沈黙の時間があった。
「蒼葉、何か困ったことがあったのね」
 父の代わりに母が言った。僕は入社してから受けた虐めと昨夜の事件について一部始終を話した。
「ああ、良かったわ」
 母が心から安心したように言った。
「何が良いんだよ。僕もう会社には戻れないんだよ」
 戻れないのではなく戻りたくないだけだが、とにかくもう失業してしまったという気持ちだった。
「蒼葉が相手を殴って警察に捕まるとか、会社のお金を使いこむとか、悪事に巻き込まれるとか、蒼葉の様子を見てそんなことを心配したのよ。被害者でよかったわ。ねえ、お父さん」
 母が言うと、父が大きく頷いた。両親の予想外の反応に僕は調子が狂った。
「そもそも蒼葉だなんて女の子と間違う名前をつけるのがいけないんだよ」
 僕は心にもないことを言って口を尖らせた。
「蒼(ソウ)にするか蒼葉にするかお父さんと揉めたあげく、私が大好きだった蒼葉という名前になったのよ」
 母の愛情が心に浸みて、また涙が出そうになった。
「私たち兄妹の蒼葉と楓という名前は友達みんなから素敵な名前だってうらやましがられるわ。たまにお姉ちゃんだと誤解されるけど、私は蒼葉っていう名前はとても格好良いと思ってるわ」
 楓が口を挟んだ。
 家族っていいな、と思った。母に似てスラリと背が高い美人の楓は、僕にとって自慢の妹だ。僕より五センチも背が高い楓は家の廊下ですれ違う時に「壁ドン」をして至近距離から僕を見下ろすという悪趣味を持っている。二歳年下だが僕が中三の時に身長が逆転した頃から対等の関係になった。
「蒼葉はどうしても東京で就職したいのか? 今日聞いたばかりの話だが、市役所で臨時職員を募集しているらしい。地元で働くのも良いかもしれないぞ」
 県庁職員の父が思いがけない情報を持っていた。
「臨時職員ってバイトじゃないの。正規職員に登用される道はあるのかな?」
「臨時職員から正規登用される可能性は無いと思った方がいいだろうな。確かにバイトみたいなものだが、一般のバイトよりは給料も高いし、働きながら勉強して試験を受ける準備をするという手もあるんじゃないか?」
「給料が安くても家から通えばお金はかからないから、それでもいいじゃないの」
 母は臨時職員の話に乗り気だ。
「大学の友達でお姉さんが市役所の臨時職員をしている人がいるけど、メチャメチャ楽な仕事らしいわよ。蒼葉のリハビリのためには丁度良いかも」
と妹が意見を述べて、家族の意見が一致した。
 翌朝、僕は母に連れられて市役所に行き、三階の人事課を訪れた。社会人なのに母親同行というのは恥ずかしいことだが、母の高校の同期生が副市長をしていて、役所の採用にはコネがものを言うらしいと聞いていたので母と一緒に行ったのだ。
 結局、母のコネに出番は無く、僕は七月一日から臨時職員として採用されることになった。「地元っていいなあ」と思った。
 母のショッピングに付き合い、モールのフードコートで共通の好物の富士宮焼きそばを食べて帰宅した。
 僕は週末に東京のアパートに帰り、荷造りをして実家に発送してアパートを解約した。
 退職届を出すために月曜日に出社した。指導員の先輩は会社の処分を待たずに退職届を出したと課の女性が教えてくれた。「課長の交代の辞令も出るとの噂よ」とのことだった。この会社にも自浄作用が働いているようだ。冷静に考えると、僕にとっての癌だった課長と指導員が居なくなれば、この会社で働き続けても良いのだが、ミソをつけた会社に「前歴」を気にしながら居座るよりは、心機一転して地元の臨時職員になるのが人間的にも精神的にも遥かに良い選択肢ではないかと思った。
 予定通り人事部に行って退職届を出した。慰留されることも無く、退職届は事務的に受理された。僕は席に戻って私物をまとめ、三ヶ月勤めた会社から永久に姿を消した。

 七月一日の朝が来て、僕は張り切って家を出た。市役所までは二・八キロメートル、歩いて丁度半時間だ。住宅街を抜けて公園を通り、木立のある一般道を歩く。満員電車で片道一時間もかけて会社に行っていたことがバカバカしく思い出された。満員電車で女性の近くに立つ時には両手で吊革を掴み、万一の痴漢の冤罪から身を守らなければならない東京は、何かが間違っている。
 人事課に出頭し、九時過ぎに担当者が僕を二階の農林振興課に連れて行った。
「臨時職員の里田蒼葉さんです」
「蒼葉さん二十二歳と書いてあったから楽しみにしていたんだが……」
 不満げな課長に僕を引き渡して人事課の担当は部屋から出ていった。
「吉川さん、臨時の里田蒼葉さんだ。面倒見てくれ」
 課長が吉川さんという二十代後半の女性に声をかけ、僕は吉川の所に歩いていき
「里田です。よろしくお願いします」
と頭を下げた。
「ここがあなたの席よ」
と吉川の隣の席を示された。
「僕の仕事は何でしょうか?」
「用事があったら言うわ。とりあえずお茶を出して」
 新人の臨時職員ということで地位が低いことは覚悟していたが、同年代の女性からお茶出しを命じられたことにはショックを感じた。
「どこでお茶を入れれば良いんでしょうか?」
 僕が質問するとうるさそうに
「ついてきなさい」
と言われ、シンクのある部屋に連れて行かれた。
「お茶碗はここよ。どのお茶碗が誰のものかを覚えなさい。来客用はこちらのを使いなさい」
 当然茶碗には名前は書かれておらず、茶碗と名前を結びつけるのは大変な作業だ。
「二十人以上のお茶を出すんでしょうか? それにお茶の濃さってどの程度にすればいいのでしょうか?」
「使えないわねえ。蒼葉というから女性だと思っていたのに、こっちはいい迷惑よ」
 吐き捨てるように言って吉川は席に戻った。
 僕の居た会社でも、お茶出しは事務職社員の仕事だが、来客に限られていて、社員自身が飲むお茶は自分でいれるかコンビニで買ってくることになっていた。役所では今でも所員のお茶出しに人件費を使っているのだろうかと呆れた。税金の無駄遣いだと思った。
 僕は何とか二十数人分のお茶を作り、お盆に乗せて農林水産課の部屋に戻った。一人一人に「すみませんがご自分のお茶碗を選んでいただけますか?」と聞きながら二回に分けてお茶を配り終えた後、A3の紙に農林振興課の座席図を書き、課員の名前と茶碗の特徴を書き込んだ。
 その間、三回「ちょっと臨時の人」と呼ばれて、コピーを頼まれた。十一時半を過ぎた頃、課長から、一階でお弁当を受け取ってくるように言われた。私用ではないか、と思ったが、言われる通に使い走りした。吉川の反対側の隣に座っている三十代の男性からはタバコを買ってくるように言われた。吉川に小声で「私用なのにいいんでしょうか?」と相談したところ、「厳密には駄目だけど臨時は他に仕事はないんだから言われたことをやったら」との答えだった。
 結局、初日の仕事は、午後三時ごろにもう一度お茶出しをしたのと、私用の使い走りが三回、コピーが約十回、他部署への届け物が二回ほどで、最も知的な作業はお茶碗と名前を一致させることだった。
 定刻に席を立ち、まだ一生懸命仕事をしている吉川だけに「失礼します」と言って退出した。
 僕はまだ日差しの強い帰り道を歩きながら、勤めていた会社に退職届を出してしまったことを後悔した。理不尽な上司にこき使われたが、難易度が高いチャレンジングな仕事には充足感と達成感があった。今日の仕事は中卒の新入社員でも向上心のある人なら落胆するほど張り合いの無い仕事だった。僕がお茶くみ、コピーと使い走りだけの職業に就いたことを、辞めた会社の女子社員が知ったらどう思うだろう。
 五時半に帰宅すると、母が夕食の支度をしていた。母が忙しくしている傍らで楓はソファーで雑誌を読んでいた。
「お帰りなさい、どうだった? 楽しかった?」
と母に聞かれて、
「僕、後悔してる。ひどい職場だった」
と答えた。
「どういうことなの?」
 母が料理の手を止めて僕に近寄った。
「何も仕事が無いんだ。今日したことは、お茶出しが二回と、コピーと使い走りだけ。コンビ二に煙草を買いに行かされたんだよ。お茶出しは二十数人分のお茶碗を使って一人一人に出さなきゃならないんだよ。飲み終わった後にお茶碗を回収しなきゃならないし、まだお茶の残っているお茶碗を下げようとしたら『まだ入ってるでしょう』とバカにされたり、そんな苦労をしながら回収したお茶碗を綺麗に洗って乾燥させて、棚に戻すんだよ。それの繰り返し」
 僕は一気に不満をぶちまけた。
「なんだ、そんなことなの。蒼葉、それは私が何十年もしてきたことと同じよ。主婦の仕事ってそんなことの繰り返しなの。蒼葉は新米の主婦になったんだと思って、一生懸命与えられた仕事をしていれば、きっと周りの人から頼りにされるようになるわ。不満を言っちゃ駄目」
 母の言うことにはいつも説得力がある。僕は大げさに不満をぶちまけてしまった自分が恥ずかしかった。
「蒼葉、お茶入れて」
と楓が僕に言ったので、
「バカ、自分で入れろ」
と言い返したら
「主婦としての修業が足りないから市役所で苦労するんじゃない?」
と楓に言われた。楓はそんな言い方で僕を慰めようとしているつもりなのだ。それが楓流のやり方だった。僕は楓にお茶を入れてあげた。
 翌日の勤務は更に労働意欲を失わせるものだった。初日と比べて何が違うかというと、お茶碗と人物の関連を覚えてしまったという点だけだった。その結果、僕のメインの仕事であるお茶出しが知的要求度の低い楽な仕事になり、コピーと使い走りもタマにしか頼まれないので、ほぼ一日中成すことなく座っていた。
「吉川さん、何かお手伝いすることはないですか?」
 僕が何度も質問することにイライラを募らせた吉川は、机の引き出しの中に入れたバッグからファッション雑誌を取り出して「これを読んでいなさい」と言った。
「これ、女性雑誌でしょう。これを読んでどうすればいいんですか?」
 私用で使い走りを言いつけられるのには慣れたが、個人の勝手で雑誌を読まされるのではたまらない。
「うちは農林振興課なのよ。農村に嫁いだ女性のファッションについて雑誌で勉強しなさい。ポイントはコーデだと思うわ。ワンピだと三着買うと三回しか着られないでしょ。でもトップスとスカートを三着ずつ買えば三かける三で九通りのコーデになる。五着ずつなら二十五通りで、一ヶ月近く毎日違う服を人に見せられる。その場合にどのトップスとどのスカートを五着ずつ買えばバラエティが広がるかを考えなさい」
 吉川が業務で指示しているのか、僕から仕事をくれと言われて煩わしいから厄介払いでそんなことを言ったのか半信半疑だったが、上司の命令なら読まざるを得ない。吉川が使う横文字の単語はスカート以外は意味がよくわからないが、とにかく雑誌を読む作業に着手した。コーデがコーディネーション、ワンピがワンピースを指していたことは読み始めるとすぐ判明したが、唯一明確に理解できるスカートという言葉を、実は最も分かっていなかったことに気がついた。スカートの種類にはミニと普通とロングがあり、女子高生の制服はプリーツスカート、OLならタイトスカートというのが、僕のスカートに関する語彙の全てだった。しかし、その雑誌を読んでいると聞いたことの無い単語のオンパレードだった。タックスカート、カットソー、ミモレ、サーキュラー、コクーン、ティアード……。新しい単語が出てくるたびにメモして、インターネットで検索して意味を調べ、レポート形式にまとめた。夢中で作業したが、帰宅時間になってもまだ読み終えていなかったので、吉川に正直に報告したところ「今朝買った雑誌だけど明日まで貸してあげるわ」と言われた。
 帰宅すると妹の楓が通販で届いたばかりの服を試着して母に見せていた。
「お帰り、早いわね」
と母が僕に声をかけた。
「臨時職員はきっちり定刻に帰れるから、毎日五時半丁度に家に帰れるよ」
 僕は自分の部屋で短パンとティーシャツに着替え、台所の冷蔵庫でコップに牛乳を入れてリビングのソファーに座った。楓もキュロットとティーシャツに着替えてリビングに来た。
「楓があんなにフェミニンなコーデをするなんて珍しいね。さっき、ミモレ丈のチュールのスカートをはいた楓を見てドキッとしたよ」
 母と楓が目を丸くして僕を見た。
「どうしたの、蒼葉。女性のファッションに興味を持ち始めたの?」
「今日、暇で暇で、上司の吉川さんに仕事をくださいと何度も頼んだら、雑誌を渡されてコーデを勉強するように指示されたんだ。だからネットで調べてレポートにまとめているところだよ。そうそう、さっきのフレアースカートには、楓が時々着ているあのブラウスとのコーデが良いんじゃないかな」
「どのブラウスのことを言ってるの?」
 一緒に楓の部屋に行って、タンスの中からそのブラウスを探し出して示した。楓は早速そのブラウスと通販で買ったスカートに着替えて台所の母に見せに行った。
「良いわね。ピッタリよ。そのブラウスとの組み合わせは思いつかなかったわ」
と母が感心していた。
「チュールのスカートとブラウスとのコーデって難しいのよ。お陰で日曜日の同窓会に着て行く服が決まった。ありがとう、蒼葉」
と楓に感謝されて、僕も気持ちがよかった。
 翌朝、吉川に雑誌を返す時に、家での出来事について話したところ、
「よかったじゃない。じゃあ明日別の雑誌を持ってきてあげるわ」
と言ってくれた。
 それから翌週金曜日までの約十日間、僕は吉川が毎日のように持ってきてくれるファッション雑誌のバックナンバーを丹念に読み、自分が良いと思うコーデの表を作ってTPOによって選びやすくしてみたり、毎日色々な角度からスカートとトップスの組み合わせについて研究した。臨時職員になったばかりの頃に感じた、知的能力の不要な単純作業だけをさせられることから来る敗北感は嘘のように吹き飛んで、毎日出勤するのが楽しかった。
 金曜日の夕方、人事課に呼ばれた。
「農林振興課は今日で終わりです。月曜日からは何でもやる課に行ってください」
と申し渡された。泣きべそをかいた顔で農林振興課の席に戻り、吉川に
「月曜日から、何でもやる課に行くように言われました」
と報告した時には目頭が熱くなった。
「里田さんが来てくれて助かったわ。何でも一生懸命考えながらすぐにやってくれるし、素直だし、ずっと居て欲しかったのに残念だわ。もし私がキャリアの公務員だったら、お嫁に欲しい人ナンバーワンかな。月曜日からも元気で頑張ってね」
 吉川がそんな目で僕を見ていてくれたとは思っていなかった。涙が溢れ出て止まらなくなった。定刻が来たので泣きじゃくりながら退出した。吉川が農林振興課の受付まで一緒に歩いてきて、肩に両手を置いて「ありがとう」と言ってくれた。

第三章 何でもやる課

 月曜日の朝、気を引き締めて三階の何でもやる課に出頭し、高崎伸江課長に挨拶した。
「今日からお世話になる臨時職員の里田蒼葉です」
「あなたが……。蒼葉だから女性だと思ったのに」
と言う課長の顔に落胆の気配を感じた。
「どうもすみません」
「こちらこそゴメンゴメン。性別で差別はしないから安心して」
 高崎課長は明るい声で言ってから課員全員に声をかけた。
「臨時職員の里田蒼葉さんです。皆さんよろしくね」
「係長の田宮伍助です」
 四十代の温厚で自信のなさそうな雰囲気の男性が自己紹介した。伍助という名前を聞いて、あまりにも風貌に相応しいと感じて吹き出しそうになった。
「水元由紀子です。よろしく」
 三十代後半のいかにも仕事ができそうな女性だった。
「榊原洋子です」
 榊原も三十代と見受けられたが、濃い目の化粧で色っぽい感じの女性だ。
「もう一人、水野優花さんは今週いっぱい休暇中よ。今週は水野さんが居ないから忙しいわよ。あなたを含めて六人の、市役所で一番小さいけど一番重要な課よ。一緒に頑張りましょうね」
という課長の言葉を聞いて、何でもやる課は先週まで居た農林振興課とは体質が全く違うようだと期待が膨らんだ。
「里田さんは水野さんの前の席に座りなさい」
 その席には半分以上入っているティッシュペーパーの箱と女性週刊誌が置いてあった。
「机の上にあるものは先週までその席に居た臨職さんの私物みたいね。しばらくキープしておいて、今週中に取りに来なかったら処分していいわ」
と課長が僕に言った。
 僕はさっそく主業務であるお茶出しをした。茶碗は五つしかないので全員分を一つのお盆で楽々と配れる。茶碗の顔を見て、五人のうちの誰のものかを推測して配った。
「失礼します」
と課長のものと思われる茶碗を課長の机に置くと、
「これが私のだとどうして分かったの?」
と聞かれた。笑顔で
「カンです」
と答えると
「へえ」
と驚いていた。男性の係長の茶碗は一目瞭然で、水元由紀子も簡単に推測できた。榊原洋子と休暇中の水野優花の茶碗は悩んだ挙句、エイヤっと選んだら当たっていた。
「里田さん、凄いわ。カンが良いわね」
と榊原に褒められた。水野の茶碗に入れていたお茶を自分の茶碗に移して飲んだ。
「里田さん、ちょっと来て」
課長に呼ばれた。
「これは先週水野さんが作成した表なんだけど、タイプミスが無いかチェックしてからA4にフィットするようにフォーマッティングできるかな?」
 僕は市役所に来て初めての知的作業を打診されて心が躍った。
「はい、やらせてください」
「じゃあ、できたら一枚プリントして持ってきて頂戴」
 その表はすぐにでも印刷して配布できるほど綺麗に出来ていたが、異なるフォントが同じ場所に使われていたのを見つけて修正し、フォントの大きさや枠の幅を少し変えて見栄えの良いA4サイズのプリントにして課長に提出した。
「よくできてるわ。里田さん、なかなかセンスが良いわね。じゃあ、他の四つの表についても同じ作業をしてくれる? ファイルはこの共通フォルダーに入れたから。そして、それができたら、このワードファイルを表紙にして六枚セットの資料を三十五セット作りたいの。まず一セットだけ作ったら私がチェックするから持ってきてね」
 課長は一連の作業をまとめて僕に託してくれた。それは会社勤めをしていた時の感覚では事務職の定型業務に過ぎないが、先週までの脳ミソ不要な仕事とは天と地ほどの差がある高度な仕事のような気がした。僕は嬉しくてウキウキしながら作業をした。
 課の人たちから時々言われるコピーや使い走りも喜んで対応しつつ、課長から言われた作業はお昼前に完成させて課長に提出した。
 昼食時間になり、他の人たちは各々部屋から出ていった。僕は部屋の隅の大きなテーブルで母が作ってくれた弁当を食べた。間もなく、水元と榊原がコンビニで小さなお弁当を買って戻って来て、同じテーブルで食べ始めたので、僕は席を立って二人のお茶を入れてきた。
「よく気がきくのね。お昼休みまで世話してくれなくてもいいのよ」
 水元がすまなさそうに言った。
「草食系男子もここまで来たかって感じね。里田君なら、いつでもお嫁さんに行けるわよ。それにしてもお弁当の量が多いわね。普通の男性みたい」
 榊原が言った。
「普通の男性ですよ、僕は」
と笑って答えた。
「話は変わりますけど、ここの課長さんって、素敵な方ですね。僕は先週まではお茶出しとコピー取りと使い走りしかさせてもらえなかったのに、今日は色んな事を言いつけてくれて、朝から嬉しくて仕方ないんです」
「課長は人使いが上手いけど、仕事には厳しいのよ。でも部下に厳しい以上に自分に厳しい人だから、私たちも頑張れるわ。市長もうちの課長には一目置いていて、時々相談に来られるのよ」
 お弁当を食べ終わった後もお茶を飲みながら水元と榊原から色々な話を聞くことが出来た。
 この弥生市は現在の人口が五万二千九百人の地方都市だが、十数年来人口の減少が続いている。日本の市の要件は原則として人口五万人以上であり、弥生市はその下限に近い。五年前に初当選し現在二期目の唐沢尚美市長は特に女性の地位向上に関して全国的にも注目されている女性市長であり、唐沢市長になってから弥生市の女性管理職比率が全国の市役所の中で五位以内に入るようになった。弥生市役所には女性が働きやすい環境が整っていて、女性管理職比率が高いことで有名になり、他府県からの見学に来るほどだった。
 何でもやる課は市長の着任後に新設された課で、事実上市長の直轄に近い。高崎伸江課長は、まちづくり課の係長として新しい企画を提案、実行したことが市長の目に留まり、何でもやる課の課長に抜擢されたとの話だった。
 お昼すぎに課長から呼ばれ、赤ペンで七ケ所もの修正が入った原稿を渡され、修正すべき点について説明を受けた。七ケ所のうちの五ケ所は僕の作業の不十分さによるもので、二ケ所は課長が内容自体を変更したものだった。
「すみません、ちゃんとしたものをお出しできなくて」
 僕は悲しい顔で課長に謝った。
「このくらいの修正は当たり前よ。今度は頑張りなさい」
 僕は修正したファイルをもう一度印刷して課長に提出し、最終確認をもらってから三十五部を印刷してセットした。課長は捺印した書類を、各課長に直接配ってくるよう僕に指示した。
「課長さんに直接、ですか?」
「そうよ、何でもやる課の高崎課長から直接届けるように言われた、と言いなさい」
 僕は三階から初めて三十余りの課・室を回り、「何でもやる課の高崎課長のご指示でお届けに上がりました」と言って、怖そうな課長たちに一人一人頭を下げた。彼らの大半は高崎課長の名前を聞いて、その書類が即座に読むべきものと認識したように見えた。「君は新人か?」と聞かれ、「臨時職員の里田と申します」と答えると、「そうか、ご苦労なことだな」と言われたケースが三人あった。
 配り終えて課長に
「課長さんがお留守の場合は、一番上の係長と見られる方に、高崎課長のご指示で直接課長さんに手渡すように言われた、と言ってお願いしてきました」
と報告した。
「ご苦労さま」
としか言われなかったが、その口調には心から良くやった、と言ってくれる感じが籠っていたので、僕は苦労が報われた気がした。
 それから毎日、本来なら休暇中の水野が担当すると思われる様々な仕事を、課長は僕に指示し、僕は力の限りを尽くして対応した。勿論、臨時職員の本来の仕事であるお茶出し、コピー、使い走りも、決して手を抜かずに頑張った。水元、榊原との昼食時にも必ずお茶出しと後片付けを続けたので、僕は二人からの信頼を深めて、何かにつけて頼りにされるようになった。
 何でもやる課で働き始めて二日目に家に帰って新しい職場での仕事のことを母と楓に自慢したところ
「蒼葉、市役所の臨時職員になって本当に良かったわね。周囲に気配りして、人の為に陰で尽くすような仕事ができる男性って滅多にいないのよ。お母さんは嬉しいわ」
と母が誉めてくれた。
「そんな蒼葉を見込んでお願いがあるんだけど、お母さんのために一肌脱いでくれるかな?」
と母が言い出したので、
「勿論、僕に出来ることなら遠慮しないで言って」
と答えた。
「来週から一ヶ月、老人ホームを回るボランティアのお手伝いを頼まれたの。午後に家を出て夕方六時半ごろの帰宅になるから、夕飯を作れないのよ。お掃除や洗濯は午前中に済ませるから、蒼葉、お母さんの代わりに晩御飯を担当してくれない? 市役所からの帰りにスーパーで買い物をして帰れば間に合うと思うわ」
「ちょっと待ってよ。僕、料理なんてしたことないから無理だよ」
「蒼葉なら大丈夫よ。毎晩、翌日の献立と作り方を教えてあげるわ。今から、明日の献立を教えるから、このノートにメモしながら聞いてね」
「来週からじゃないの?」
「明日からはリハーサル。来週には一人で出来るようになってもらわないと」
「楓は手伝わないの?」
 ソファーにごろごろしている楓を睨みつけながら不満を洩らした。
「この仕事、お母さんは蒼葉にまかせたいの。楓は時間も頼りにならないし、学生の間は自由にさせたいのよ。蒼葉は社会人だし、市役所の仕事も定刻に終わるから、家族のための仕事も安心して任せられるわ。お母さんの頼みを聞いてくれる?」
 母にそうまで言われると僕は断れなくなった。僕は母から渡されたノートを開いて、明日の献立の説明を聞いた。
「じゃあ、冷蔵庫の野菜室をチェックして、あと何を買う必要があるかをノートに書き出してみなさい」
 献立から必要な食材の量を計算してから冷蔵庫をチェックしたところ、ニンジン以外は全て新たに買う必要があることが分かり、品目と大体の量を書き出した。
「これではピーマンが足りないでしょう。それにひき肉をこんなに買うと、明後日からも毎日ひき肉料理になっちゃうわよ」
 母は僕のノートを赤ペンで訂正した。
「次はスーパーの広告をチェックしなさい。市役所の帰りに寄ることが出来るスーパーはこの二つよ。ほら、明日はひき肉はこちらのスーパーが安いでしょう。ピーマンはこのクーポンを切って持って行くのよ」
 母がしょっちゅう新聞のチラシを見ていた理由が分かった。
「作り方は明日帰ってから教えるわ。今週いっぱい頑張れば来週からは一人で出来るようになるわよ」
 僕は、とんだ藪蛇になったことを後悔しながら自分の部屋でティーシャツと短パンに着替え、ミルクでも飲もうと手を洗って台所に戻った所、母にエプロンを渡された。
「今日からお料理を教えるから手伝いなさい」
「今日からなの?」
 僕は悲鳴を上げながらエプロンを身に着けて台所に立ち、母に言われるままにジャガイモを剥いたり、料理の手伝いをした。
「テーブルを拭いて、食器を出しなさい」
 テーブルを拭いてから食器棚とテーブルを何度も往復して食卓に食器を並べた。楓がソファーから立ち上がり、目をキラキラさせながら僕に近寄って来た。
「蒼葉のエプロン、花柄のワンピみたいで可愛いわよ」
 わざと背を伸ばして僕を見下ろす視線で楓が言った。
「楓も手伝えよ。女なんだから」
と文句を言ったところ、
「男女は関係ないわよ。私には無理だわ。向いてないもの。そうそう、明日の実習の準備をしなくっちゃ」
と言って自分の部屋に行ってしまった。
 父が帰宅して六時半から夕食が始まった。
「今日から蒼葉が手伝ってくれたのよ。いつもより美味しいかもしれないわ」
と母が言うと、
「蒼葉の愛情の味がするわ」
と楓が適当なことを言い、父は
「それは良いことだ」
と言っていた。
 それまで一度も気づいたことが無かったが、父や楓がお代わり、と言ったり、マヨネーズを欲しがったりすると、母が当たり前のように席を立って父や楓のために動いていた。父はとにかく楓が無意識のうちに母をこき使うことに腹が立ったが、よく考えてみると、僕も今日までずっと楓と同じように母が僕の為に何かをしてくれるのを当然のように思っていたことに気付いた。とても母に申し訳ない気持ちになって、父や楓がお代わりと言うたびに僕が立ちあがって母の代わりをした。すると楓もさすがに反省して、自分のことは自分でするようになった。
 食事の後片付けも、僕はできるだけ母の代わりをしようと動いたところ、普段はソファーでゴロゴロする楓も食器をシンクに運んだり、テーブルを拭いたりして手伝ってくれた。
「蒼葉、今日は母さん本当に嬉しかったわ。ありがとうね」
 片付けが終わってエプロンを脱いでいると、母が傍に来て僕の耳元で囁いた。

 翌日から僕の一日は非常に充実したというか、やたら忙しくなった。朝食の後も食べ散らかしではなく少なくともシンクに食器を運んだし、洗濯物も仕訳して取り入れたり、母がしている家事のことが気になって、何かにつけ手伝うようになった。市役所での一日も充実していたし、帰りにはスーパー二店で買い物をして、夕食を作り、食後には翌日の献立を母から教わって、翌日の買い物の計画を立てた。
 共働きの主婦なら誰でもすることであり、僕の場合は母が同居しているから楽だと思うと、大して負担には感じなかった。後で考えると、母は僕を一日中忙しくさせることによって、前向きな力を早く取り戻させようとしたのではないかと思う。
 週末には以前は興味が無かった母のショッピングに付き合い、元々近かったボクと母との距離が益々縮まった。
 翌週月曜日に出勤すると、水野優花が休暇を終えて席に座っていた。
「先週からこちらでお世話になっている臨時職員の里田蒼葉です。よろしくお願いします」
 僕はお辞儀をして挨拶をした。
「里田蒼葉? あっ、あの里田君かな。小六で同じクラスだった水野優花よ。覚えてない?」
 水野が立ちあがって僕の手を握った。
「ああ、居たよね。水野優花って。あの水野さんか、全然わからなかった、というか、似てない気もするけど」
「里田君は全然変わってないわね。背は私よりずっと高かったし、クラス委員長で、勉強も運動もできたから憧れだったのよ。あまり背は伸びなかったのね」
 水野は高いヒールの靴を履いていて、見上げるほど背が高かったが、靴を脱げば僕と同じくらいの身長ではないかと推測した。
 始業時間になったので僕は早速お茶出しに取り掛かった。小学校の同級生の水野にお茶を出すのに他の人たちと同じように「失礼します」と言うことには抵抗があったが、にっこりと微笑んで「ありがとう」と言われたので救われた感じがした。
 その日、ぼくは何でもやる課に来てから始めて屈辱を味わった。毎日、部屋の大テーブルで実施する業務打ち合わせで、
「里田さんはいいわ、お茶をお願いね」
と課長から言われたのだ。先週は僕も水野の代理の仕事をしていたので毎朝の打ち合わせに出席していたのに、今日からはお茶を出すだけと言われて情けなかった。臨時職員と正規職員は立場が違うということは理屈では分かっていても、身分の差を見せつけられた気がした。
 先週課長から命令されていた類の仕事は一切もらえなくなった。水野の担当案件は水野が自分でこなすからだ。
「何かお手伝いすることはないでしょうか」
と、時々聞いて回るのが僕の日課になった。それでも、させてもらえる仕事はコピー取り、書類のセット、発送や、他部署への使い走りだった。先週喜んで引き受けていた私物の購入の使い走りだったが、同年齢の水野から、ジュースを買いにコンビニに行ってこいと言われた時にはショックだった。僕は男性優位の偏見などは持ち合わせていないと自認していたのだが、同級生だった女性に使い走りを命令されると胸がえぐられるような気持ちになって泣きべそをかいてしまった。
 水野も家から弁当を持参していて、部屋のテーブルでの昼食は水元、榊原と僕に水野が加わって四人になった。僕は水野へのお茶出しや片付けものも、水原・榊原と同様にサービスした。
 水野も僕の態度が気に入ったのか何かと頼りにしてくれるようになった。当初抵抗を感じていた水野からのコピー取りや使い走りの命令も段々気にならなくなり、他の上司と同じように接することができるようになった。
 火曜日の昼食時、四人でワイワイ言いながら、通勤の話になった。僕が片道三十分も歩いて通勤していることを話すと三人とも驚いていた。先週から毎日スーパー二店で買い物をして、重い買い物を両手に持って歩いて帰るというと感嘆の声を上げていた。
「この暑い中を三十分も歩くと汗びっしょりになるんですよ。特にズボンの中がムシムシして凄く熱いんです。朝の通勤路で、女子高生の通学路と対向する区間があるんですけど、女子高生たちは皆涼しい顔をして歩いてるんですよ。それで気づいたんですが、女子高生たちは素足でスカートだから、風が通るんですね。だからお尻や足が冷却されて涼しいんでしょうね。羨ましいと思いました」
「制服のスカートは生地が厚手だから暑苦しいけど、そりゃあズボンよりはマシよね」
と榊原が言い、水元が
「夏はスカートが楽よね。素足で来て、市役所に着いてからストッキングを履くのがコツね」
と相槌を打った。
「里田君もスカートにすればいいのに。里田君なら可愛いし全然不自然じゃないわよ」
と水野が言いだして、
「そうよ、そうよ。里田君もスカート出勤にしなさい」
と水元と榊原も囃し立てた。
 そこに高崎課長が市長と一緒に部屋に入って来た。
「楽しそうなお話しね。里田君にスカートをはかせようというの?」
 高崎課長が話に割って入った。
 市長の存在を気にしながら最年長の水元が緊張して答えた。
「里田君は暑い中を片道三十分も徒歩通勤してビショビショになるらしいんです。通勤路ですれ違う女子高生はスカートに風が通って涼しそうだと言うので、それなら里田君もスカート通勤にしなさいよと話していました」
「それ、面白いわね!」
と市長が食いついた。
「水元さんが入った頃には既に変わっていたかもしれないけれど、昔は夏でも男性はネクタイで出勤していたのよ。クールビズと言いだして、夏のノータイが定着したお陰で、男性にとって夏が耐えやすいものになったわ。うちの主人がしみじみとそう言ってた。昔はお客様と接する際は真夏でも背広・ネクタイじゃないと失礼に当たったけど、今では相手がノータイでも怒る人はいないわ」
「非合理的なルールを打破することによって暮らしやすい世の中になったという好例ですね」
と課長がコメントを挟んだ。
「その通りよ。今思ったんだけど、男性のスカートについてはどうかしら。ごく一部には男性のスカートファッションの報道を見たりするけれど、スカートは男性と女性を区別する境界線と認識されているわ。でも、仮に里田君がスカートで出勤したら、どんな不都合があるかしら? 里田君にとって夏の通勤が涼しくなるのよ」
「他人からオカマだと笑われるし、市役所に着いたら皆からジロジロ見られて、今度来た臨時職員は変態だと言われます」
 僕が明快に答えた。
「要するに、スカートは女性がはくもの、という昔からの常識が障害になるわけよね。それは間違った常識と言えないかしら。男性はスカートをはけないために、服装の自由度が大幅に制限されているとは思わない? 更に突き詰めて考えると、スカートが『男性らしさ』と『女性らしさ』を区別する象徴になっていないかしら? 社会も男性も意識しないうちに男性に『男性らしくする』ことを要求して、それが男性を束縛しているんじゃないかと思うの。その最たるものがスカートよ。『男性らしさ』という概念こそが長年女性差別を作って来た元凶かもしれないわよ。男性にスカートをはくことを許すことによって『男性らしさ』という概念を崩壊させて、男性に人間らしい生活を与え、かつ女性の地位を男性と同等にすると考えられないかな」
 余りにも突飛な市長の話に、暫くの間全員が沈黙した。その沈黙を破ったのは高崎課長だった。
「素晴らしい発想だと思います。女性差別の元凶が、実は男性自身の自由を束縛してきたとすれば、男性にスカートをはかせることで、女性の地位向上と男性の束縛からの解放を同時に実現させることができるわけですね」
 若い四人は呆気にとられて黙っていた。
「高崎さん、このアイデア、当たればデカいわよ。プロジェクトにしてみようよ」
と言い残して市長は立ち去った。


続きを読みたい方はこちらをクリック!