戻らない声
英語版:Voice of No Return
by Yulia Yu. Sakurazawa
第一章 春の光の中の「僕」
四月の光というものは、どうしてああも人を甘やかすのだろうと、その年の始業式の日、僕はぼんやり考えていた。
昇降口から廊下へ続く窓には、まだ色の薄い若葉と、少し黄味を帯びた陽射しが映り込んでいる。磨きたての床は、ところどころワックスが光をはね返して、歩いている自分の影までまぶしく見えた。三年生になったばかりの僕は、その廊下をクラス替えの貼り紙へと進みながら、手にした上履きの重さをいつもより少しだけ強く意識していた。
上白石 宙――名簿のどこかに印刷されているはずのその名前は、僕が物心ついたときから、どこか自分のものではないような感触を纏っていた。空の「宙」なんて、大きな名前をつけられてしまったせいかもしれない。運動神経は普通より少しいい程度だし、背は平均より少し低い。にもかかわらず、この名前は、いつもほんのわずかに僕を背伸びさせる。
昇降口の前で足を止めていたのは、貼り紙の前が混雑していたからだけではなかった。二年の終わりごろから、「モテる」という言葉が、妙に僕のまわりで軽々しく使われるようになっていたせいだ。どのクラスに入っても、それは多分、変わらない。そう思うと、春の光の甘さが、少しだけ鬱陶しく感じられた。
「おーい、宙!」
背後から呼びかけられて振り向くと、バスケ部の友達の一人、石田が上履きをぶら下げて小走りで近づいてきた。彼の声は廊下に気持ちよく響いて、周囲の視線が一瞬、こちらへ集まる。その視線が僕の顔に触れる前に、いつもの笑顔を形だけ浮かべるのは、もはや反射だった。
「クラス分け、どうだった?」
「まだ見てないよ。今から」
「じゃ、一緒に行くか。どうせまた同じクラスだろ、イケメン枠としてさ」
軽口のつもりで言われた「イケメン枠」という言葉に、石田自身は何の悪気もない。そうわかっているのに、僕の胸のどこかに、ほんの小さな石が落ちる。
「枠で決められてたら怖いよ」
そう返すと、石田は「ははっ」と笑った。彼の笑い方は、少し喉の奥で止める癖があって、体育館で響くボールの音と一緒に思い出される。そういう具体的な記憶は、僕にとってはたしかに「友達」の証拠なのに、なぜかその外側に、自分が立っているような感覚が消えない。
貼り紙の前は、既に人の壁ができていた。名前を見つけて歓声を上げたり、ため息をついたりする声が入り混じる。そのざわめきの中を、石田と並んで少しずつ前に進む。
僕の視線が、自分の名前を見つけたのは、予想よりも早かった。
三年二組 上白石宙。
「あ、やっぱ二組か。俺もだ」
石田が少し嬉しそうな声を出す。僕は「よかったじゃん」と、こちらもそれらしい声色で応じる。よく考えれば、望みどおりの結果だ。顔なじみの多いクラス、気心の知れた友達。昼休みの会話に、特別な努力はいらないだろう。
それでも、貼り紙に並んだ自分の名前を見下ろしながら、僕はほんの一瞬、その字面に違和感を覚える。インクの黒さと、紙の白さの間で、「上白石宙」という四文字は、まるで誰か別人の役名のように浮かび上がっていた。
教室に入ると、新しい座席表にしたがって、それぞれが落ち着く場所を見つけていく。窓際か廊下側か、前列か後列か、どこに座るかで一年間の景色が決まるというのは、多分、少し大げさだ。でも、窓から入る光の角度や、黒板との距離が、想像以上に日々の気分を左右するのもまた事実だった。
僕の席は、二列目の窓際だった。前の席には、まだ誰も座っていない。窓の外に目をやると、校庭の桜が、花をほとんど落としきって若葉を覗かせている。三年間で見慣れたはずの景色なのに、「最後の一年」という言葉が頭に浮かんだ途端、急に輪郭がはっきりした。
「ねえねえ、宙くん、その席? いいなー、窓際」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子、藤井だった。肩で切りそろえた髪を軽く揺らしながら、僕の机の横に立つ。彼女とは二年のときも同じクラスで、グループワークのたびによく一緒になった。
「そうかな。夏は暑いよ、ここ」
「でも、宙くんって絶対、窓際のイメージだもん。なんか、マンガとかドラマだとさ、こういう席にイケメンが座ってるじゃん?」
藤井のこの種の言い方にも、もちろん悪意はない。彼女にとって「イケメン」という言葉は、多分「話しかけやすい人」くらいの意味なのだろう。それでも、その言葉が僕のほうへ投げられるたびに、胸の奥がほんのわずかにざらつく。
「マンガみたいな高校生活なんて、どこにもないけどね」
そう返すと、藤井は「えー、そうかな」と笑って、自分の席へ戻っていった。その笑い声を聞きながら、僕は心の中で、自分の答えに少しだけ首をかしげる。本当に、マンガみたいな高校生活は、どこにもないのだろうか。少なくとも、「イケメン」と呼ばれる側として過ごす日々は、多くの人が想像するより、ずっと静かで、単調で、そして窮屈だ。
ホームルームが始まり、担任の自己紹介と、これから一年間の予定についての簡単な話が続いた。三年生ということばが、ことあるごとに教師の口から繰り返される。「受験」「進路」「最後の一年」。そのたびに、教室の空気はほんの少しだけ硬くなる。それでも、窓から入る春の光は容赦なく柔らかく、僕らの緊張をやや場違いなものに見せていた。
その日、具体的な進路指導の話はほとんどなく、年中行事のおおまかな日程だけが伝えられた。四月の終わりには遠足、五月には体育祭と、そして「恒例の」五月末の歌唱コンテスト。担任が「今年も、三年生の皆さんにはぜひ盛り上げ役になってほしいと思っています」と言ったとき、教室の後ろのほうから、誰かが小さく「宙、出ろよ」と囁くのが聞こえた。
囁き声は、すぐに別の席へと伝播する。
「そうだよ、宙くん、去年もすごかったし」
「今年は何歌うの? またバラード?」
担任の話が一段落して「何か質問はありますか」と言った瞬間には、もう四方八方からそんな声が飛んできていた。僕は苦笑いを浮かべる以外になく、担任が「はい、静かに」と一度クラスを抑える。けれど彼もまた、「でも、上白石は期待されてるみたいだな」と半ば冗談めかして僕のほうを見た。
声について言えば、僕は昔から少しだけ得をしていたのかもしれない。変声期を過ぎても、声変わりが人より穏やかだったせいか、音域がやたらと広かった。中学の合唱コンクールでは、三年生になってもアルトパートを任され、クラスの女子たちと一緒に歌った。最初はからかわれたが、いつの間にか「上白石の声、ずるいよな」と感心されるように変わっていった。
その「ずるさ」は、高校に入ってからは、カラオケでの盛り上げ役として重宝された。一曲目はアップテンポ、二曲目はバラード、といった具合に、求められるままに歌い分ける。誰かがスマホで動画を撮って、SNSに上げる。スタンプだらけのコメント欄に、「イケボ」とか「うますぎ」などという言葉が並ぶ。それはそれで悪い気分ではなかったが、画面の中、自分の横顔を見つめているとき、どこかでひどく冷めた視線が、自分自身を見下ろしているのを感じることがあった。
昼休みになると、新しいクラスにもかかわらず、僕のまわりの机は自然と島のように固まっていった。男子も女子も、ごく自然な流れで集まってくる。クラス替えの直後に、こういう輪ができるのは珍しいことかもしれない。その中心に僕が座っている、という事実について、周囲は「そういうもの」と受け入れているようだった。
「宙、また歌コン出るんだろ? せっかくだから、今年はなんかインパクトあるやつやりなよ」
そう言ってきたのは、隣の席の山根だった。彼は二年のときも同じクラスで、何かと僕をからかっては、でも節度を越えない程度に引いてくれる、絶妙な距離感を保っている。
「インパクトって?」
「なんかさ、仮装とか。女子の制服とか着たら、絶対ウケるって」
周囲の男子が一斉に「それいい」「見たい見たい」と笑う。女子のほうも、「似合いそう」とか「絶対かわいいよ」などと、容赦のない言葉を口にする。笑い声が教室の一角で膨らんでいき、僕は苦いものを飲み込むような気持ちで、箸を握りしめた。
「いや、さすがにそれは……」
曖昧に笑ってそう言うと、「ノリ悪いなあ」と誰かが言う。もちろん、そこに本気で僕を責める意図はない。けれど、「ノリ」という言葉が、何か普遍的な正しさであるかのように振る舞うとき、僕はいつも少しだけ居場所を失くす。
「でもさ、女子の声で歌えるじゃん、宙。うらやましいわ。俺なんか、すぐ声裏返るし」
別の男子が、半ば尊敬するような視線を向けてくる。その視線は、僕の喉元あたりで止まる。まるで、そこに何か特別な装置でも埋め込まれているかのように。
「女子の声ってわけじゃないでしょ。ただ高いだけで」
そう言いながら、自分の声を頭の中で反芻する。録音された自分の歌声を、イヤホン越しに聞いたときの、あの奇妙な違和感――「これは本当に僕なのか?」と、一瞬本気で思ってしまう感覚。普段、誰かと話すときに使っている声と、マイクの前で歌うときの声は、たしかに別のものだった。
「まあいいじゃん。今年も優勝しろよ、な、宙」
山根が、軽く僕の背中を叩く。「期待してるから」と言うその言葉は、励ましであり、同時にひそやかな圧力でもある。期待されることは、嫌いではない。少なくとも、何も期待されないよりはましだと思ってきた。けれど、その期待が「いつもの上白石宙らしさ」を求めるものであればあるほど、僕の中のどこか別の部分が、ひっそりと押し潰されていく。
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。窓ガラスに映る自分の横顔は、教科書を開いているときも、先生の話を聞いているときも、一定の穏やかさを保っている。前髪の長さ、頬のライン、鼻筋の影。女子たちが「美少年みたい」と評するその顔を、僕自身は、たまに知らない俳優の写真でも見ているような気分で眺めることがあった。
視線を落とすと、机の上に広げた教科書の余白に、自分の名前が印刷されている。出席番号の欄に手書きで記入された数字の上に、「上白石宙」という文字が静かに乗っている。三年間で何度も目にしてきたはずのそれが、その日の午後、なぜか妙に鮮やかに目に映った。
この名前で呼ばれ、この顔で見られ、この声で期待されること。それらのすべてをまとめて「上白石宙」という役柄だと考えれば、僕の高校生活は、とてもわかりやすく整理できる。朝起きて制服に袖を通し、靴紐を結び、鏡の前で髪を整えるとき、僕はその役に入る。誰かに話しかけられれば、求められた台詞を、それらしい調子で返す。
そうやって日々を過ごしてきて、特に大きな不満はなかった。多少の窮屈さはあっても、それはどの役にもつきものの衣装のようなものだと、自分に言い聞かせることができた。
ただ、この春の光の下で、三年生として教室に座っていると、「最後の一年くらい、自分の意志で何かを選んでもいいのではないか」という考えが、ふと頭をよぎる。歌唱コンテストに出るかどうかも、その一つだ。出るのが当然と考えているまわりの空気に逆らってまで、「出ない」と選ぶ勇気が、自分にあるのかどうか。
放課後、ホームルームが終わったあと、担任が「歌唱コンテストのエントリーシートは職員室前に置いてあります」と案内した。教室のあちこちから、「出る?」「どうする?」といった声が聞こえる。窓の外の光は、さっきより少し角度を変えて、教室の床に長い影を落としていた。
僕は席を立つことなく、その光と影の境目をぼんやりと眺めていた。誰かが僕の名前を書き込むのを待つのか、自分で取りに行くのか、それとも今回は静かに見送るのか。その三つの選択肢が、教室の空気とは別の場所で、ひっそりと僕の前に並んでいる気がした。
窓の向こうで、春の空はあくまでのどかだった。そこに広がる薄い青さを見上げながら、僕はまだ、自分がこの一年でどこへ向かうのかを、はっきりと思い描くことができずにいた。
第二章 喉の奥の知らない誰か
歌唱コンテストのエントリー用紙を、結局その日のうちに取りに行ったのが、僕自身にとっては少し意外だった。
放課後、教室のざわめきが引いていき、椅子を引く音がまばらになった頃、職員室前の廊下には、まだ数人の生徒が立ち止まっていた。コピー用紙を重ねたエントリー用紙の束が、掲示板の下の机に無造作に置かれている。それを横目に見ながら通り過ぎることもできたはずなのに、僕の足は自然とそこで止まった。
近くにいた一年生らしい男子が、友達とふざけ合いながら用紙を何枚も抜き取っている。誰かの名前を勝手に書いて出すつもりなのだろう。そういう悪ふざけは毎年のようにある。担任が「イタズラでの提出は禁止します」とホームルームで釘を刺すのも、ひとつの恒例行事になっていた。
彼らの笑い声が廊下の端に遠ざかるのを待って、僕は机の前に立った。一枚だけ、上からそっと抜き取る。紙は午後の湿気を吸って、指先に少しだけ重くまとわりついた。
名前とクラス、曲名、アーティスト名を書く欄がある。そこにボールペンの先を置いて、「上白石宙」とまず記す。今度は、不思議なほど抵抗がなかった。三年二組という文字を続けて書き、曲名の欄で手が止まる。
どうせなら、去年と違うことをしたい。二年のときは、無難なJ-POPのバラードを選んだ。キーを高めに設定し、サビの高音で観客の「おお」という反応を狙う。そういう計算は嫌いではないし、実際、うまくいった。一位ではなかったが、十分に盛り上がったと言っていい。
だが、今年は最後の年だ。どうせなら、「上白石宙」という名前と切り離しても記憶に残る何かをやってみたい。その考えが頭のどこかに確かにあった。
ふと、あるアーティストの名前が浮かぶ。宇多田ヒカル。中学の頃、母が車の中でよく流していた。彼女のアルバムが一枚、家のリビングにいまだに置かれている。あれを繰り返し聴いていた時期があった。英語混じりの歌詞をまともに理解できていたわけではないのに、その声の柔らかさと硬さの混じり合い方が、妙に耳に残っていた。
宇多田ヒカルの名を、僕は曲名の欄に書き込み、続けて具体的なタイトルを思い出そうとした。あの、サビで一気に世界が開けるような曲。母がハンドルを握りながら、一緒に口ずさんでいたフレーズが、霞んだ記憶の中から浮かび上がる。タイトルを思い出すには、少し時間がかかったが、どうにか紙の上を埋め、それを見つめた瞬間、ようやく自分が何を選んだのかを、本当の意味で理解した。
宇多田ヒカルを歌う。しかも、高校三年の男子が。
別に珍しいことではない、と頭のどこかは冷静に告げる。これまでのコンテストでも、女子が男性ボーカルの曲を歌ったり、その逆もいくつもあった。だけど、僕の選択は、単に曲の問題ではない気がしていた。宇多田ヒカルという声を、自分の身体に通すこと自体が、一つの賭けのように思えた。
エントリー用紙を指定の箱に投函し、職員室の前を離れる。階段を降りる途中、吹き抜けから見える夕方の空は、まだ冬の名残のような冷たい青さを残していた。そこでふと、あの歌声を、自分の喉でどう再現するのかという問題が、現実的な重さを持って僕の前に立ちふさがる。
家に帰ると、真っ先にリビングのCDラックを探った。母が並べている古いアルバムの列の中から、記憶にあるジャケットを探り当てる。ケースは少し黄ばんでいて、角の部分には細かな傷が入っていた。何度も出し入れされた跡だ。
「懐かしいもの持ってきたわね」
キッチンから夕食の支度をしている母が声をかけてきた。
「ちょっと、聴きたくなって」
「やっぱりいいわよね、その人。お母さんもまた聴こうかな」
CDプレーヤーにディスクを入れると、しばらくの静寂の後、イントロが流れ始める。スピーカーから出てくる音は、記憶の中のものよりも少しだけ薄く感じた。多分、あの頃と比べて、僕の耳が色々な音を知ってしまったせいだ。それでも、歌い出しの瞬間、部屋の空気がわずかに粘度を増したような感覚があった。
家族と一緒に聴いていたときには気づかなかった細部が、今ははっきりと耳に入ってくる。語尾のかすかな息づかい、音程のほんのわずかな揺れ、英語と日本語のあいだを滑っていくときの舌の運び。そのすべてが、一つの身体の中で統合されている。彼女の歌声は、まるで喉の奥にもう一つ別の空間を持っているみたいだ。
その夜、風呂から上がったあと、僕は自室にこもって、スマホと小さなBluetoothスピーカーを相手に、初めて真面目に宇多田ヒカルの歌を真似てみた。窓はしっかり閉め、机の上には開けっぱなしの教科書やノートが散らばっている。その上に置いたスマホの画面には、歌詞サイトを開いたままのブラウザが光っていた。
流れてくる音に合わせて口を開く。最初は、いつもの自分の歌い方の延長で、音程だけをなぞる。けれど、それではどうしても、あの声には近づかない。彼女の歌い方は、ただ音を正確に拾うだけでは再現できない何かを含んでいる。
何度か繰り返すうちに、僕は自分の喉の内側の形を、意識的に変えてみようと試みた。声を少し後ろに引くように、鼻腔に当てるように、あるいは舌先を少しだけ奥へ引いてみる。声というのは、案外、肉体的な工夫に敏感に応える。わずかな舌の位置や、口蓋の広げ方で、響きは驚くほど変わる。
何テイク目か、ふと自分の声が、今まで聞いたことのない質感を帯びた瞬間があった。録音ボタンを押していたわけではないから、後から確かめることはできない。それでも、その瞬間の感触だけははっきりと覚えている。
喉の奥の、今まで意識したことのない柔らかい部分が、ふいに開いたような感じだった。胸のあたりからまっすぐに上がってきた息が、そこで一度膨らみ、細く絞られて外へ出ていく。その通り道が変わった瞬間、音が変わる。自分の耳でその変化を聞いたとき、少しぞくりとした。
女の人の声、というほど高くはない。けれど、僕がこれまで「自分の地声」と思っていたものとは、明らかに違った。滑らかさと、どこか湿り気のようなものが加わっている。宇多田ヒカルの声には程遠いが、その方向へ、ほんの少しだけ身体が傾いたように思えた。
それから数日間、僕の放課後は、ほとんどその練習に費やされた。部活動には入っていなかったから、時間だけはあった。友達に誘われるカラオケも、しばらくは断った。大勢の前で披露する前に、一度、自分自身が納得できるところまでこの声を作り上げたかった。
学校から帰る途中、イヤホンでオリジナルを聴き込み、頭の中で細部を分解する。イントロから一音一音、息の入り方までを追いかける。信号待ちの横断歩道で、口の中だけで小さく発音してみる。そんなふうにして、少しずつ、自分の喉を他人の楽器に近づけていく作業を続けた。
ある日の帰り道、駅のそばのCDショップで、宇多田ヒカルのベストアルバムの試聴コーナーに人だかりができていた。画面には、若い頃の彼女のライブ映像が流れている。プリントTシャツとジーンズ姿で、マイクを握りながら、淡々と歌っている。派手な身振りも、わざとらしい笑顔もない。ただ、そこに立ち、声を出している。それだけで、十分にステージになっていた。
モニターの前には女子高生らしき二人組がいて、「やっぱうまいよね」「この人は別格」といった言葉を交わしていた。その背中越しに、僕は画面の中の彼女の口元をじっと見つめる。母音を発音するときの唇の開き方、子音の瞬間の舌の動き。映像から読み取れる範囲で、できるだけ多くの情報を掬い上げようとする。
そのとき、少し離れたところで、「ねえ、あの人見て」とささやく声がした。反射的に振り向くと、制服姿の女子が二人、僕のほうを見てひそひそ話している。視線が合うと、慌てて目をそらし、笑いをこらえるように肩を寄せ合った。
何か変な格好でもしていただろうか、と自分の姿を確認する。学校の制服のまま、カバンを肩から下げ、イヤホンを片耳にはめたまま立っている。特におかしなところはない。だが、彼女たちの小さな笑いは、「イケメンを見つけた」と友達同士で騒ぐときのそれに似ていた。
そういう視線には慣れている、と自分に言い聞かせながらも、どこか落ち着かない。彼女たちの目には、今、僕がどう映っているのだろう。CDショップで真剣な顔をしてモニターを見つめる三年男子。顔立ちのことを抜きにしても、その姿は、きっとどこか滑稽だったに違いない。
家に帰ると、また自室にこもる。窓の外はすっかり暗くなり、隣家の明かりだけが弱く差し込んでいる。机の上に置いた小さなスタンドライトが、歌詞カードに黄色い円を描く。その中心で、ペンで書き写した歌詞が、紙の上にびっしりと並んでいた。
僕は、歌詞の一行一行の意味を、自分なりに解釈し直していた。どこで息を吸い、どこで言葉を切るか。どういう感情を込めるべきなのか。オリジナルの歌詞カードやネット上の翻訳を参考にしながら、自分にとって納得のいくラインを探っていく。その作業は、単なる音の模倣よりも、ずっと手応えがあった。
声を出すたびに、喉の奥の新しく見つけた空間が、少しずつ柔らかさを増していく感覚があった。最初はぎこちなく、無理に作っているように感じられたその響きが、何日か経つうちに、徐々に「こなれて」くる。筋トレを続けていると、ある日突然、今まで持ち上げられなかった重さが上がるようになるのと似ていた。
ある晩、僕はふと、録音アプリを起動して、ワンコーラスだけ通して歌ってみた。歌い終わったあと、息を整えながら、再生ボタンを押す。スマホから流れてきたのは、たしかに僕の声だった。けれど、それは、少なくとも一年前に文化祭の出し物の練習で録音した自分の声とは、明らかに違っていた。
高いだけではない。音の出だしが柔らかく、語尾にかすかな息が混じる。そのために、全体としての輪郭はむしろ少し曖昧になっているはずなのに、言葉の一つひとつが、前よりもはっきりと耳に届いてくる。自分で言うのも妙だが、「男の子らしい声」という形容からは、はっきりと外れていた。
胸のあたりが、わずかにざわつく。これは、本当に自分が望んでいた方向性なのだろうか。コンテストでウケを狙うという意味では、きっと正解に近い。女子のような声で宇多田ヒカルを歌えば、それだけで話題になるだろう。クラスメイトたちの期待にも応えられるかもしれない。
しかし、その「女子のような声」という言い方が、僕の中の何かをひっかく。そうやって名づけられた瞬間に、この声が、また一つ「役柄」として固定されてしまうような気がした。
録音を止め、しばらく無音の部屋でじっとしていると、外の道路を走る車の音や、隣家のテレビの笑い声が、いつもより遠く聞こえた。自分の身体の内側に、もう一人、自分とは違う誰かが住み始めたような感覚。その誰かは、喉の奥に巣を作り、そこで静かに息を潜めている。
翌朝、登校途中にコンビニの前で立ち止まり、ふと何気なく「あ」と小さく声を出してみた。挨拶の練習のつもりだった。ところが、その一音さえ、昨日までとは微妙に違って聞こえた。歌うときに使っていた新しい響きが、地声のほうにまで浸透してきている。
「おはよう」と母に言ったときも、「行ってきます」と玄関で靴を履きながらつぶやいたときも、耳の奥に微かな違和感が残る。家族は特に何も言わない。父は新聞から顔を上げず、母は洗い物の手を止めない。妹はすでに家を出たあとだった。
学校の昇降口で、いつものように石田に「おはよう」と声をかける。石田は「おう」と返し、特に表情を変えなかった。クラスの女子に「おはよー」と声をかけられ、「おはよう」と応じたときも、誰も何かを指摘したりはしなかった。
ただ、自分の耳だけが、その微妙な違いを聞き逃さなかった。声の高さではなく、響きの質が、少し変わっている。喉の奥の、あの新しい空間は、すでに歌うときだけの特別な場所ではなくなりつつあった。
その日一日、授業中に当てられるたび、僕は自分の声に注意を向けざるをえなかった。国語の教科書を読むときも、英語の単語を復唱するときも、黒板の数式の答えを口にするときも、耳は常に、教室の空気と自分の声との境界を探っていた。
昼休み、山根が「曲、決めた?」と聞いてきた。
「うん、一応」
「なに歌うの?」
「宇多田ヒカル」
「マジで? 絶対ウケるって。女子、騒ぐぞ」
山根の顔がぱっと明るくなる。その明るさは、好意だとわかっている。悪気など微塵もない。それでも、「女子、騒ぐぞ」という言葉の中には、「女子が自分たちとは違う種類の存在を見物する」という含意があるように思えてならない。
「まあ、頑張るよ」
そう答えた自分の声が、ほんの少しだけ喉に引っかかった。言葉の内容と、声の質とのあいだに、わずかなずれが生まれている。それはまだ、他人には聞き取れない種類のものだろう。けれど、そのずれは、これから先、日に日に大きくなっていく予感があった。
下校時、夕暮れのホームで電車を待ちながら、僕は自分の喉元に指先を当ててみた。皮膚の下で、声帯という柔らかい筋肉が、日々形を変えつつあるのだろうか。そう考えると、自分の身体が、自分の意志の届かないところで何かを始めているようで、心細さと同時に、説明のつかない期待のようなものが胸に湧き上がった。
その頃の僕はまだ、声が戻らなくなるなどとは、夢にも思っていなかった。ただ、喉の奥の知らない誰かが、少しずつ目を覚ましつつあるということだけは、確かに感じていた。
第三章 宇多田ヒカルになった日
五月の終わりは、毎年少しだけ季節の歩調が乱れる。
昼間は夏の入口のような熱気が漂い、夕方になるとまだ春の残り香のような冷気が足もとにまとわりつく。その落ち着きのなさが、校内の空気にも移るのかもしれない。中間考査が終わり、体育祭にはまだ間がある。そんな宙ぶらりんの時期に、歌唱コンテストは催される。
体育館に向かう前のホームルームで、担任が簡単な諸注意を述べている間、クラスのあちこちでは既に小声の作戦会議が始まっていた。どのタイミングで歓声を上げるか、誰のときにペンライト代わりのスマホを振るか。そういう些細な相談が、妙に楽しげに交わされている。
「宙、準備できてんの?」
隣の席の山根が、半分あくびを噛み殺しながら僕の肩をつつく。
「一応ね」
「衣装、マジでやるんだろ? 藤井から借りるって言ってたじゃん」
そう言われて、僕は小さく息を吸った。衣装の話が現実味を帯びたのは、一週間ほど前のことだ。
放課後の教室で、曲目がクラス中に知れ渡ったあと、「どうせなら徹底的にやろう」という空気が自然と出来上がった。誰かが「女装しろ」と軽く言い、別の誰かが「絶対似合う」と言い添える。笑い半分のその冗談は、いつのまにか具体的な段取りの話へと変わっていった。
「制服なら貸そうか?」
最初にそう申し出たのは、藤井だった。彼女は僕と同じくらいの身長で、体格もそう大きくは違わない。冗談めかした笑顔の裏に、ほんのわずかな好奇心が覗いていた。
「いや、さすがに……」
その場ではそう濁した。けれど、家に帰る途中、鏡に映った自分の姿を思い浮かべながら、「試してみるくらいなら」と考えてしまった自分がいたのも事実だ。翌日、藤井が紙袋を抱えて現れたとき、僕は既に断るための決定的な言葉を持ち合わせていなかった。
「予備のだから、多少汚してもいいよ。ちゃんと洗って返してくれれば」
そう言って差し出された紙袋は、思ったよりも軽かった。中には、白いブラウスと紺のプリーツスカート、それからリボンタイがきちんと畳まれて入っていた。布の匂いは、洗剤と柔軟剤の、どこにでもある清潔な香りだった。
家に持ち帰り、自室でそっと袋を開けたとき、指先がわずかに震えた。誰かの生活の温度が、そこに折りたたまれているように感じられたからかもしれない。ブラウスを広げ、襟元のタグに縫い付けられた学校名とサイズの表示を見る。紺のスカートは、思っていたよりもしっかりとした生地で、プリーツは一本一本がきちんと折り目を保っていた。
僕はしばらく、それらを机の上に広げたまま、ただ眺めていた。触れることも、身につけることも、決して初めてではない。文化祭の出し物や、ハロウィンの仮装などで女子の制服を借りてふざけたことは、これまでにも何度かあった。そのたびに、「似合いすぎ」とか「本当に女の子みたい」といった言葉を浴び、笑いながら受け流してきた。
けれど今回は、ただの「女装」ではない。宇多田ヒカルの歌声を、自分の身体に通すための衣装だ。その目的の違いが、布一枚の重みを変えていた。
試しに腕を通してみる。ブラウスの袖口が、肘のあたりで少しきつく感じられたが、ボタンはどうにか上まで留まった。首元にリボンを結ぶ。慣れない結び方に手間取り、鏡の前で何度かやり直す。スカートを腰の位置まで引き上げ、ホックを留める。ベルトをしないかわりに、ウエストの一箇所に布の張りつめた感触が生まれる。
鏡に映った自分の姿は、予想していた通りであり、同時にどこか決定的に違っていた。
髪型はいつものまま、前髪を少し整えただけだ。化粧もしていない。にもかかわらず、制服という枠組みが、僕の身体のアウトラインを容赦なく「女子」の側へと引き寄せる。肩の線、腰の位置、スカートの裾から伸びる脚。そのすべてが、鏡の中で、これまでとは異なる配置を与えられていた。
似合っているかどうか、と問われれば、多分「似合っている」のだろう。客観的に見れば、そう評価せざるをえないバランスがそこにはあった。だが、「似合う」という言葉は、このときの僕にとって、必ずしも嬉しいものではなかった。
ただ一つ、予想外だったのは、その格好をしている自分が、思っていたほど不快ではなかったということだ。襟元に当たるブラウスの布の感触や、膝のあたりで揺れるスカートの重さが、少しも異物のように感じられない。むしろ、どこか身体に馴染みすぎているようにさえ思えた。
「これが自分の姿であるはずがない」という抵抗と、「もしかすると、これもまた自分の一つの顔なのではないか」というささやきが、鏡の前で同時に胸の中へ入り込んできた。その二つは互いに打ち消し合うことなく、ただそこに並んでいた。
当日の朝、僕は制服の上にジャージを着込み、紙袋を抱えて登校した。学校に着いてから、保健室前の空き教室を簡易な控え室として使わせてもらえることになっていた。コンテストの運営をしている生徒会の女子が鍵を開けてくれ、その子と一緒に藤井やクラスの女子何人かが入り込んできた。
「やば、ちゃんと着てきてるんだ」
「ここでメイクもしよ。私、ちょっとならできるよ」
誰が言い出したのか、あれよあれよという間に、小さな化粧ポーチがいくつも机の上に並べられた。ファンデーション、アイライン、リップ。僕は椅子に座らされ、「目閉じて」と言われるがまま、成り行きに身を任せる。
頬にスポンジが当たる感触、まぶたの上を滑る細い筆の緊張。それらは、どこか子どもの頃の折り紙遊びに似ていた。もともとそこにあるものの形を、少しだけ変えてみせる作業。紙を折るかわりに、顔の上に影を足したり、光を乗せたりする。
「はい、できた。見てみて」
そう言われて差し出された小さな手鏡の中には、見慣れた輪郭を保ちつつ、わずかに輪郭線を柔らかくされた顔が映っていた。目の際に引かれた細い黒い線が、瞳を少し大きく見せ、唇の色がほんの少しだけ血色を増している。
「女の子みたい」という評価を、自分自身に向けて下すのは、どこか気恥ずかしい。だが、その鏡像は、確かに「男子高校生の仮装」という一言では片づけられない何かを含んでいた。
「やば、本当にかわいい。てか、普通にいそうだよね、こういう子」
藤井の無邪気な感嘆に、他の女子たちも頷く。「宙ちゃんって呼べばいい?」と、誰かが冗談を言い、笑いが起こる。その笑いに混ざりながら、僕は胸の奥に、小さな不安の針が刺さるのを感じていた。
体育館の裏口から舞台袖へ向かうと、既に他の出場者たちが集まっていた。派手な衣装を着たバンド風のグループ、ジャージのまま臨む部活仲間、女装をした男子も数人いる。皆、それぞれのやり方で、自分たちの「出し物」としての姿を仕上げている。
僕を見ると、何人かが口笛を鳴らした。
「うわ、本気じゃん」
「これ、優勝候補きたな」
そんな声を聞き流しながら、僕はマイクスタンドの位置を確認し、足もとのテープ印を目で追った。舞台の上は、リハーサルのときよりも、ずっと狭く感じられた。暗幕の隙間から差し込む光が、ほこりを空中に浮かび上がらせている。
客席側からは、既にざわめきが聞こえていた。椅子を引く音、部活ごとの応援の掛け声、教師の制止の声。体育館特有の反響が、それらを少し濁らせて僕の耳に届ける。そのざわめきの向こうに、自分の順番がゆっくりと近づいてくる気配があった。
司会の生徒が一組一組を紹介し、曲名と名前を読み上げていく。歓声と拍手が、そのたびに波のように起こり、また引いていく。その波を舞台袖で何度もやり過ごすうちに、僕の身体の中の時間感覚は、次第に外界と切り離されていった。
「次は、三年二組、上白石宙くん。曲は――」
自分の名前が呼ばれた瞬間、喉の奥で、あの知らない誰かが目を開ける感覚があった。全身の血の巡りが少しだけ早くなり、指先の皮膚がじんわりと熱を帯びる。
スポットライトは、舞台に出る前から、既にまぶしかった。暗幕の隙間から覗くだけで、光がこちらに向かっているのがわかる。いざ一歩を踏み出すと、その光が一瞬、全身を白く塗りつぶした。
客席は、照明のせいでほとんど見えない。最前列から三列目くらいまでは、ぼんやりと顔の輪郭がわかるが、その後ろは闇だ。闇の中から、無数の視線だけがこちらを捉えている。体育館という空間は、その視線をどこか実体を持ったもののように感じさせる。
マイクスタンドの前に立ち、位置を確かめる。足もとのテープ印に靴の先を合わせる。リハーサルのときと同じ動作なのに、その一つひとつが、何か儀式めいた意味を帯びている。
イントロが流れ始める。スピーカーから出る音は、練習のときに聴き慣れたそれと同じはずなのに、どこか質感が違っていた。体育館の広さが、低音を少し膨らませ、高音を天井へ吸い込んでいく。その中を、これから自分の声が走らなければならない。
最初のフレーズに入る直前、僕は一瞬だけ目を閉じた。喉の奥の空間を、意識の中でそっと撫でる。そこには既に、何度も練習を重ねてきたときに作られた形が出来上がっている。今日だけ、その形に自分を明け渡してみよう。そう決めて、息を吸い込んだ。
声が出た瞬間、時間の感覚がわずかにずれた。
耳に届く自分の声は、確かに僕の身体から出ている。それは疑いようがない。息を吐くたびに、胸と腹の筋肉が連動し、喉の奥で振動が生まれ、口唇を通って空気が震える。その連鎖を、身体の内側からはっきりと感じている。
けれど、その声は、これまで僕が「自分」として聞き慣れてきたそれとは別の場所から響いていた。身体の中心からではなく、少しだけ上方、鎖骨のあたりから天井へ向かって流れ出していくような感覚。自分の輪郭の外側に、もう一枚薄い膜が広がり、そこを通して音が世界へ染み出していく。
観客の反応は、歌っている最中にはほとんど届かなかった。拍手や歓声は、イントロの直後と、サビに入る手前でのわずかなざわめきとしてしか意識に上らない。曲の途中でどこかが盛り上がったとしても、それを拾って応じる余裕はなかった。
ただ、二番のサビの終わりごろ、一瞬だけ、体育館の空気が自分の声と同じ方向へたわむのを感じた。歌詞の一行と、こちらの呼吸と、遠くで誰かが椅子をきしませる音とが、ほんのわずかな時間、同じ波の上に乗ったような感覚。それは錯覚かもしれない。けれど、その錯覚は、僕の内側に静かな確信を残した。
最後のフレーズを歌い終え、余韻をできるだけ長く保とうと息を細く吐ききる。指先にまで小さな痺れが広がり、喉の奥の空間が再びゆっくりと閉じていく。音が止まった瞬間、体育館の中に一拍の沈黙が落ちた。
次の瞬間、拍手が一斉に起こる。歓声が、いくつもの方向から飛んできた。
「やばい」「本物じゃん」「鳥肌立ったんだけど」
そんな言葉が、ところどころから聞こえる。舞台の上では、それらをすべて拾いきることは難しい。ただ、音の密度として、その反応が自分のこれまでのどの出番とも違っていることだけは、はっきりとわかった。
軽く一礼して舞台を降りる。暗幕の陰に身を隠した瞬間、さっきまで照らされていた光の熱が、肌から一気に離れていく。代わりに、首筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
舞台袖で待っていたクラスメイトたちが、一斉に僕に駆け寄ってくる。
「やばい、普通に泣きそうになったんだけど」
「マジで本人かと思った。てか、本人よりうまいとか言ってたやついたし」
「優勝確定だな、これ」
彼らの言葉は、口々に僕の耳へ押し寄せては通り過ぎていく。その一つ一つを受け止める余裕はなかったが、「本人みたい」という評価だけは、妙に鮮明に胸に残った。
本人のように聞こえる声で歌うことを目指してきたのは、確かに自分だ。その意味では、望みどおりの結果だと言える。だが、「本人みたい」と言われたとき、その言葉は、僕の中の「上白石宙」という輪郭を、ほんの少し曖昧にする方向へ働いているように感じられた。
自分は今、誰として舞台に立っていたのだろう。上白石宙としてか、宇多田ヒカルの模倣者としてか、それとも、もう一人の誰かとしてか。その問いは、まだ形をととのえないまま、喉の奥のどこかにひっかかっていた。
コンテストの結果発表は、全員の出番が終わったあと、最後に行われた。司会が順位を読み上げるたびに、歓声とブーイングが交じり合う。三位、二位と順に名前が呼ばれ、残った枠は一つだけになったとき、体育館の空気が少しだけ固まった。
「今年の第一位は――」
間を置いて、マイクを通した声が僕の名前を告げる。体育館の天井が、わずかに震えたように見えた。拍手とどよめきが、波紋のように広がっていく。クラスの連中が総立ちになって騒いでいるのが、暗い客席の中でもわかった。
壇上に呼ばれ、賞状と小さなトロフィーを受け取る。生徒会長が「素晴らしい歌声でした」と形式的な挨拶を述べ、それに対して僕もまた、教科書通りの「ありがとうございます」を返す。そのやり取りは、何度も見てきた光景の一部にすぎない。にもかかわらず、そのときの自分の声が、どこか借り物のように聞こえた。
コンテストが終わり、教室へ戻ると、そこは簡易な祝賀会場になっていた。机が少しずらされ、クラスメイトたちが僕の席のまわりに集まる。誰かがコンビニで買ってきたジュースやお菓子が配られ、「優勝おめでとう」と紙コップが差し出される。
「マジで、今日から宙は女子でいいんじゃない?」
「てか、女子より女子だよね。どうする、これ」
冗談半分の言葉に笑い声が重なる。その笑いは、悪意のないものだとわかっている。彼らは皆、僕を「盛り上げ役」として扱っているだけだ。そこに悪気を読み取るのは、きっと過敏すぎる反応だろう。
それでも、「今日から女子でいい」という言葉を受け取った瞬間、胸のどこかが一瞬だけ冷たくなった。今日のこの姿が、明日へと続いてしまうことを、ほんのわずかでも想像したくなかったからだ。
「あはは、さすがにそれは無理でしょ」
自分の笑い声が、どこか上擦っているのを自覚しながら、そう返す。すると、別の誰かが「でもさ、明日一日だけ、マジでその格好で通学してきてよ」と言い出した。
「えー、それ見たい」「やってやって」と、期待の声が重なる。誰かがスマホを取り出し、「明日、『宙ちゃん登校デー』だって」とふざけてツイートしようとする。
「冗談でしょ」
そう言いながらも、僕の心の中には、既に肯定とも否定ともつかない空白ができていた。今日という日が、単なる一回きりの舞台で終わるのか、それとも、明日へと薄く延長されるのか。その境目に、僕自身が立たされている。
「一日だけでいいからさ。記念に。ほら、三年だし、思い出作り」
山根が、いつもの軽さでそう付け加える。「思い出作り」という言葉は、便利な免罪符だ。多少の無茶も、その名目がつけば許されるように思えてしまう。僕もまた、高校生活の「思い出」というものを、どこかで欲しがっている。
「……一日だけね」
気づけば、そう口にしていた。周囲から一斉に歓声が上がる。「マジで?」「約束したからな」と、勝手に証人役を買って出る者もいる。藤井は「じゃあ、明日も私の制服貸すね」と笑った。
その夜、家に帰ってから、僕は自室で制服をハンガーにかけ、クローゼットの端に掛け直した。本来ならその日限りで袋に戻し、藤井に返すべきものだ。それを、もう一晩だけ自分の部屋に置いておくことに、妙な後ろめたさを覚えながらも、決めてしまった自分がいた。
鏡の前でメイクを落とし、シャワーを浴びて髪を洗いながら、体育館のステージライトの残像が、何度もまぶたの裏に浮かんだ。あの光の中で歌っていたのは、誰だったのだろう。上白石宙なのか、宇多田ヒカルの影法師なのか、それとも、僕の喉の奥に住みついた知らない誰かなのか。
翌朝、再びブラウスの袖に腕を通し、スカートをはいたとき、僕は前日よりも少しだけ、手際よくその衣装を身につけていた。鏡に映った自分の姿は、相変わらず現実感に乏しかったが、違和感そのものは、なぜか薄らいでいるように思えた。
その感覚の変化が、この先の出来事の前触れであることに、そのときの僕はまだ気づいていなかった。ただ一つ、「宇多田ヒカルになった日」が、歌唱コンテストの本番だけで完結するものではなく、すでに翌日へと、そしてさらにその先へと、静かに延び始めているという事実だけが、喉の奥で微かな震えとなって残っていた。
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