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白無垢の息子

原作:THE PORCELAIN SON

A Novel of Obsession and Erasure

by Yulia Yu. Sakurazawa

第一章:破綻

僕の名前は深澤樹。東京にあるマンモス大学の二年生だ。最近の僕は自分が断崖の縁に立たされているような感覚を拭えずにいた。

大学二年になり一年生の頃と何が変わったかと問われても返答に窮する。十九歳の誕生日を迎えたところで昨日までの自分と何かが劇的に変わるわけではない。それは大人の階段を上るというよりは子供時代がゆっくりと風化していく過程に似ている。だがキャンパスの空気は確実に変質していた。三年生たちは急に就職活動という名の強迫観念に駆られ、落ち着きなく視線を彷徨わせている。大学生活の前半が終わったばかりだというのに社会という巨大な歯車は早くも僕らをその隙間に組み込もうと手ぐすねを引いているのだ。超一流大学の学生ではない僕にとって就活とは好機ではなく脅威でしかない。僕は若さ特有の無関心を装い自分を守ろうとしたが不安は伝染病のように忍び寄ってきた。

そんな焦燥と唐突な郷愁に背中を押されるようにして僕は五月の連休を故郷の秋田で過ごすことにした。高校時代の友人に会いたいとか母のコロッケが食べたいとか理由はいくらでもつけられたが、結局のところ僕は未来から逃げ出したかったのだと思う。

四月二十八日の夜、新宿バスタから深夜の高速バスに乗り込んだ。アイマスクで都会のネオンを遮断しエンジンの振動に身を委ねる。どこでも眠れる特技はこの時ばかりは防衛本能のように思えた。横手で一度だけ目を覚ましたとき窓外の闇はどこまでも深く絶望的に見えた。次に目覚めたときバスは終点の秋田駅東口に滑り込んでいた。

実家までは徒歩二十分ほどだ。太平川にかかる橋を渡り一つ森公園の方へ歩く。四月には街を淡い色で欺いていた桜もとうに散り、葉を落とした枝が灰色の空に骨のように突き刺さっている。東京とは違う冷たく湿った土と川の匂いを含んだ空気が肺を満たす。それは歓迎というよりは冷ややかな平手打ちのようだった。

実家のシルエットが見えたとき胸の奥で何かがきしんだ。父は「深澤モック有限会社」という名の町工場を営んでいる。工場の隣にある質素な木造二階建てが僕の実家だ。近づくにつれ工場の静けさが異様に感じられた。普段なら朝から機械の駆動音が響いているはずなのに今日の工場は死んだように沈黙している。

玄関の鍵は開いていた。「ただいま」と努めて明るい声を出しながら家に上がる。

居間では父と母がまるで合図を待つ役者のように座っていた。卓袱台の前で身じろぎもせず漂うのは出がらしの茶と声に出せない不安の匂いだけだ。母が顔を上げたがその笑顔は脆く崩れそうで、父は今まで見たこともない神経質な仕草で腕時計を確認していた。

「遅かったな樹」

父の声からはいつもの張りや響きが消え、紙が擦れるような乾いた音がした。午前九時を過ぎたところだ。

「バスは時間通りに着いたよ」

靴を脱ぐ僕に父は間髪入れず言った。

「今日の夕方は空いているな? 津保物産の社長宅での食事に招かれている。お前も一緒に来てくれ」

僕は鞄を肩にかけたまま立ち尽くした。あまりに唐突で理不尽な要求だ。津保物産といえば単なる企業ではない。この地方においては絶対的な帝国であり経済そのものだ。父のような末端の下請け業者が気安く出入りできる場所ではない。

「どうして僕が行くのさ。仕事の話だろう? 僕は文学部の学生だぞ。金型の話なんて分からないよ」

母は唐突に立ち上がり台所へ向かうと乱暴な手つきで野菜を切り始めた。父は新聞を畳んだがその指先は微かに震えていた。彼はすがるような目で僕を見た。

「頼むから協力してくれ。津保物産の社長が直々に樹を連れてくるようにとおっしゃったんだ。滅多にない名誉なことだし津保家と知り合いになれば樹の将来の就職にも有利になるはずだ」

「将来の就職」という言葉が僕の神経を逆撫でした。父は僕の不安のスイッチを的確に押してきたのだ。津保一族とのコネクションがあれば東京での過酷な就職戦線も単なる形式的な儀式に変わるかもしれない。それは金のチケットだ。

「父さんの仕事の役に立つのなら……もちろん行くよ」

津保という名前に記憶があった。高校時代サッカー部のエースストライカーだった津保健太郎先輩だ。当時から彼は神話的な存在だった。長身で裕福で破壊的なまでに美しく、僕ら凡人とは違う次元に生きていた。僕はただの補欠の一年生でベンチの外から彼を見上げていただけだ。名門K大学に進んだ彼と今回の招待は無関係だとは思ったが、奇妙な偶然が頭を離れなかった。

「風呂に入って一番いい服を着て準備するんだ」

父は僕と目を合わせずに言った。

「ただの夕食だろう? 手持ちの服で十分だよ」

「新しいシャツとネクタイを用意しておいたから」

台所から母の張り詰めた声が飛んできた。「ベッドの上に置いてあるわ」

二階にある僕の部屋へ上がった。ベッドの上には糊の効いた白いシャツとシルクのネクタイ、そしてクリーニングされたばかりの黒いスーツが置かれていた。それは贈り物というよりは制服のようだった。服を見つめるうちに秋田の寒気とは無関係の悪寒が背筋を走った。両親はこの夕食を単なる付き合いではなく極めて重要な任務として扱っている。

僕は服を脱ぎ鏡の前に立った。痩せっぽちで労働者の筋肉はなく、父の無骨さよりも母の柔和な顔立ちを受け継いだ自分。無防備で頼りない姿。風呂に入り東京の垢を落としながら、僕は自分が何か得体の知れないものの生贄として磨き上げられているような錯覚を拭えずにいた。

午後四時。母の運転する軽自動車で家を出た。父は助手席で顎を食いしばり前を見据えている。僕は後部座席で新しいシャツの硬い襟に首を絞められるような息苦しさを感じていた。

やがて到着したのはレンガと鉄で築かれた要塞のような邸宅だった。高い塀の向こうには広大な庭園が広がり、日本の地方都市には不釣り合いな洋館が威圧的にそびえ立っている。それは美しいが拒絶的な、世界を隔絶するために設計された城のようだった。

車を降りる際、父が僕の膝を掴んだ。その手は冷たく湿っていた。

「樹。礼儀正しく振る舞うんだ。とにかく……相手の話を聞くんだぞ」

父から発散される絶望的な気配に戸惑いながら僕は頷いた。僕ら二人の小男は安物のスーツに身を包み王の城へと歩みを進めた。

重厚な扉が開くと出迎えたのは使用人ではなく津保社長その人だった。初老だが力強く、記憶の中の先輩によく似た巨躯の持ち主だ。彼は目の奥までは届かない豪快な笑い声を響かせ僕らを招き入れた。

案内されたダイニングルームは晩餐会場としても通用する広さだった。天井からはクリスタルのシャンデリアが下がり、窓辺には息を呑むほど優雅な女性が立っていた。社長夫人の津保薫子だ。金で時間を止めたかのような恐ろしいほどの美貌の持ち主だった。

彼女は僕を見るなり頭の先から爪先までをレーザーのような視線でスキャンした。それは歓迎ではなく品定めだった。

「樹さん」

ベルベットのような声で彼女は言った。

「私を覚えているかしら?」

僕は気圧されて瞬きした。

「……申し訳ありません奥様。記憶が……」

「正直ね」彼女は微笑み一歩近づいた。「そういうところが好きよ。私ははっきりと覚えているわ。健太郎の試合の応援に行ったとき、ユニフォームを着て誰よりも大きな声で応援していたあなたの姿を。とても……輝いていたわ」

「一年生でしたのでベンチにも入れなかったんです」

彼女の奇妙な賛辞を処理しきれないまま部屋の奥の扉が開いた。

現れた青年はポロシャツにスラックスというカジュアルな装いだったが、まるで王族のような気品をまとっていた。父よりも背が高く、大理石から彫り出されたような端正な顔立ち。津保健太郎だ。

「おお、深澤」

記憶よりも低く響く滑らかな声だった。「久しぶりだな」

「津保先輩。名前を覚えていてくださって光栄です」

「もちろん覚えているさ」

彼は僕に歩み寄り、個人的な領域に踏み込むギリギリの距離で立ち止まった。僕を見下ろす威圧感。

「もし忘れていたとしても父から今日の主賓が誰かは聞かされていただろうけれど」と、彼は笑いながらテーブルを示した。「さあ座ってくれ」

僕は彼の正面に座らされた。音もなく現れたメイドが大人たちにワインを、僕には濃い葡萄ジュースを注いだ。重厚なクリスタルグラスが冷たく掌に食い込む。

「新たな出会いに」

津保社長がグラスを掲げた。「そして両家の融合に」

両家の融合?

僕はグラスを唇の高さで止めた。父を見るとテーブルクロスを凝視したまま僕と視線を合わせようとしない。銀食器が陶磁器に触れる微かな音だけが支配する完全な静寂。料理は雑誌でしか見たことのないような洗練された品々だったが僕には灰の味しかしなかった。

僕は気づき始めていた。自分は客ではない。商品なのだと。そして商談はすでに始まっているのだと。

第二章:黄金の檻

津保邸のダイニングルームは人間を萎縮させるように設計されていた。高い天井と黒光りする巨大な家具。テーブルという広大な地理を隔てて僕は健太郎と対峙していた。

食事は威圧の儀式のように進んだ。発音もできないフランス料理が次々と運ばれてくる。母が同席していないことは意図的な外科手術による切除のように感じられた。ここにいるのは男たちと、この領域の女王である薫子だけだ。

社長と父は業界の話をしていた。サプライチェーン、原材料費、世界経済の潮流。驚いたことに普段は単純な冗談しか言わない父が必死の形相でその会話についていっている。空調が効いているはずなのに父の額には汗が滲んでいた。彼は命がけでこの場に臨んでいるのだ。

テーブルの向こうで薫子は食事に手を付けず僕を観察していた。僕がフォークを動かすたび彼女の視線がその軌跡を追う。口元を拭えば仮説を検証したかのように微かに微笑む。その隣で健太郎は完璧なマナーの彫像と化し、外科医のような正確さで肉を切り分け時折礼儀正しく頷くだけだった。

「樹さんは十九歳よね?」

沈黙を破った薫子の声がナイフとフォークの触れ合う音を切り裂いた。

「はい。来年の三月で二十歳になります」

「なら葡萄ジュースで我慢してね。すぐにもっと良いヴィンテージの味を覚えることになるでしょうけれど」

美しすぎてスプーンを入れるのをためらうような洋梨のデザートが終わると、社長がナプキンで口元を押さえ大仰に立ち上がった。

「さて薫子、深澤さん、我々はリビングに行ってコーヒーでも飲もうか。若い二人を水入らずにしてあげようじゃないか」

若い二人?

父は操り人形のように椅子から飛び上がった。僕を見ようともせず社長に一礼し逃げるように扉へと急ぐ。重い両開きの扉が閉まり部屋は密閉された。残されたのは重圧と沈黙だけだ。

健太郎が椅子の背にもたれかかると礼儀正しい息子の仮面が剥がれ落ち、より鋭く冷徹な本性が露わになった。彼はワイングラスを手に取り真紅の液体を揺らした。

「やっと観客がいなくなったな。積もる話ができる」

「積もる話があるなんて思いませんでした」

僕は努めて軽い口調で言った。「高校時代、僕はその他大勢の一人でしたから。先輩に存在が知られていただけでも驚きです」

「自分を卑下するな深澤」

健太郎は言った。「知っていたさ。一年の時に入部してきたお前を見ていた。フィールドからも見ていたし、お前が東京に行ってからはSNSもチェックしていた。すべての投稿、すべての写真を」

背筋に冷たいものが走った。「それはまた……熱心ですね」

「必要だったんだ」

彼は訂正した。「いいか深澤。お前はこれが父の仕事のための食事会だと思ってここに来ただろう。だが違う。取引されているのはお前自身だ」

僕は乾いた笑い声を漏らした。「話が見えません」

「父は古い人間だが実利主義者だ」

健太郎はグラスのステムを指で弄びながら説明した。「同性婚の合法化は後継者問題に新たな選択肢をもたらした。俺は女に全く興味がない。今までもこれからもだ。だが津保の家系には安定が必要だ。事故で亡くなった姉には双子の娘がいる。両親はその親権を争っている最中だ。計画はシンプルだ。俺が結婚して姪たちを養子にする。これで二世代先まで家系は安泰になる」

彼は結婚や子供のことをまるで子会社の買収のように語った。

「複雑な法的戦略ですね、先輩」

僕は椅子を引き立ち上がる準備をした。「でも僕には関係のない話です。僕は文学部の学生で将来はサラリーマンになる。それに僕は……ゲイじゃない」

健太郎は目を細めた。「確信があるのか? それとも単なる初期設定のまま生きているだけか?」

「確信があります」

僕は嘘をついた。あるいは嘘ではなかったかもしれない。確信を持てるほどゲイについて考えたことなどなかったからだ。

「どうでもいいことだ」

健太郎は手振りで僕のアイデンティティを一蹴した。「これは見合いだ。俺がお前を選んだ。かつてスタンドにいた美少年を覚えていた母も承認した。お前の父の協力を必要としている父も許可を出した」

「正気ですか」

僕の声が上ずった。「企業の戦略に合わせて結婚相手を決められるなんて僕には無縁の世界です。僕は三日後には東京に帰ります。僕には僕の生活があるんです」

「苦労の多い生活だな」

健太郎は滑らかに切り返した。「凡庸な生活だ。だがあるいはこれを選ぶこともできる」

彼は部屋全体、金箔の天井、壁の向こうの見えざる帝国を示した。「即席の愛なんて求めていない。俺が求めているのは合併だ。お前は俺の理想のタイプだ。ずっとそうだった。お前は従順で美しく、俺が必要とするある種の……柔らかさを持っている」

「柔らかさ?」

「気を悪くするな。褒め言葉だ」

彼は立ち上がりテーブルを回って僕の背後に立った。僕は椅子に凍り付いたまま動けない。彼は耳元に息がかかるほどの距離で囁いた。「ショックを受けるのも無理はない。今すぐ答えろとは言わない。だが理解しておけ。父はタダでは動かない。今夜の食事も、お前の父の工場への発注も……すべては不確定変数だ」

僕が言い返す前に扉が開いた。大人たちが戻ってきたのだ。大きく乾いた笑い声と共に魔法は解けたが、檻の格子は可視化されたままだった。

***

帰りの車内は窒息しそうだった。父はハンドルを白くなるほど強く握りしめ、ヘッドライトが切り裂く漆黒の田園風景を睨みつけていた。

「見合いだって言われたよ」と僕は沈黙を破った。「お父さんは知っていたんだろう? 何も言わずに僕を連れて行って売ったのか!」

「結婚だとは知らなかったんだ」

父の声は震えていた。「ただ……紹介か何かだと。贔屓ひいきにしてもらえるとしか。だがリビングルームで社長から切り出された。息子が樹を気に入っていると。それが条件だと」

「何の条件?」

「うちの会社が生き残るための条件だ!」

父はハンドルを叩いた。車体が大きく揺れる。「工場は死に体だ。去年導入した大型3Dプリンターにすべてを賭けた。だが注文は来なかった。運転資金はあと三ヶ月分しかない。不渡りを出せば倒産だ。家も失う。何もかも終わりだ」

僕は父を見つめた。その言葉の恐ろしさが染み込んでくる。頑固な職人だった父が中身をくり抜かれた抜け殻のように見えた。

「津保物産はこの県で唯一我々を救えるだけの規模を持っている」

ダッシュボードの灯りに照らされた父の頬を涙が伝っていた。「今夜、社長が発注書をくれた。一年、いや二年はこの先食いつなげるだけの量だ。だがそれを渡されたのは、お前のことを尋ねられた後だった」

「つまり僕が断れば……」

「発注は取り消される」

父は平坦な声で言った。「五月の末には倉庫で首を吊って保険金で債権者に詫びるしかないかもしれない」

「父さん!」

「大げさな話じゃない。それが現実なんだ。死にたくない。母さんを路頭に迷わせたくない」

父は車を路肩に寄せた。砂利がタイヤの下で砕ける音がした。父はシートベルトを外して、健太郎よりも恐ろしいことをした。

父は僕に深々と頭を下げたのだ。ハンドルに額を押し付けて咽び泣いた。

「頼む。情けない親父で申し訳ない。お前に頼む権利なんてない。だが頼む。時間を稼いでくれ。明日結婚しろとは言わない。ただ……断らないでくれ。会ってくれ。機嫌をとってくれ。俺が他の取引先を見つけるまで繋ぎ止めてくれ」

父の震える肩を見た。車内に充満する恥辱の匂いにむせ返りそうだった。家で待つ母は夫が自殺を考えていることなど知る由もないだろう。

僕は悟った。僕の自由には値札がついていて、それはすでに支払われてしまったのだと。

「分かったよ」

自分の声が遠くから聞こえた。「先輩と会うよ」

父は顔を上げた。鼻水と涙で汚れた顔。「ありがとう樹。ありがとう」

僕は窓の外の秋田の闇を見つめた。その闇のどこかで、レンガの要塞の中で健太郎が待っている。ゲームが始まる前から勝敗が決まっていることを彼は知っているのだ。

「明日、カラオケに行きたいそうだ」と僕は静かに言った。「デートだと言われた」

「行ってくれ」

父は顔を拭った。「何でも歌ってやってくれ」

僕は目を閉じた。僕は歌いに行くのではない。一生をかけた演技のオーディションを受けに行くのだ。失敗の代償は死だ。


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