パットの変身:大切な家族を守るために
【内容紹介】19歳のパットは、亡き姉の子供たちを育てるため、店長の提案で女性の姿に変身。パットはパトリシアと名乗り、華麗な女性店員として店を盛り立てる。彼の体は次第に女性化し、地元の美人コンテストへの参加を果たす。彼は人々から愛され、成功を収める一方で、真実を隠し続ける矛盾した心情と向き合う。愛と変身の物語が、パットと彼の愛する人々をどう変えるのか。それは奇跡なのか、魔法なのか。本書は英語の小説 "A Slippery Slope in a Mall" の日本語版。
Chapter One
私のヒーロー
目覚まし時計が鳴って、眠りの世界から引きずり出された。ああ、もう朝の5時か! ついさっき目を閉じたばかりのように感じるのに、もう起きる時間になってしまった。
歯を磨き、急いでシャワーを浴びた。質素な浴室のタイルの白さが目障りだ。しかし、社宅に住んでいる以上、文句を言う権利はない。貧しさを呪いながら、グレーのズボンと黒いブッシュシャツの制服を着た。寒い朝だったので、フード付きのウィンドブレーカーを羽織った。
子供部屋に行って姪っ子たちを起こす。黒い瞳で、えくぼが可愛い6歳のモリーはすぐに目を覚ました。濃い茶色の髪を撫でながら、モリーがどれほど母親――私の亡くなった姉セシリア――に似ているかを改めて実感する。間もなく、モリ―の妹のアメリアが目を覚ました。彼女は不機嫌そうにふてくされていて、とても可愛らしかった! 金髪で青い目のアメリアは3歳だが亡くなった父親によく似ている。私はモリ―と手をつなぎ、アメリアを片手に抱いて洗面所に連れて行った。
私は小さい頃に両親を亡くし、11歳年上の姉セシリアに育てられた。私が7歳の時に姉が建設作業員のイヴァンと結婚し、まるで二人の子供のように育てられた。モリ―とアメリアにとって私は叔父だが、二人は私を「おにいちゃん」と呼んでいる。
3年前にイヴァンがひき逃げ事故で亡くなり、残された4人の生計をセシリアが支えた。昨年私が高校を卒業し、マディソン・モールにあるファッション・ストアに就職して、暮らし向きが楽になったのも束の間、セシリアが事故で29歳の短い人生を閉じた。嘆き悲しむ暇もなく、私はモリ―、アメリアとの生活を軌道に乗せなければならなかった。入社2年目の店員としてのささやかな給与で家族3人が食べていくのは大変だが、幸い勤務先の社宅に入居することができた。
しかし、イヴァンの兄アランが亡き弟の娘たちを引き取ろうとして弁護士を雇ったことで3人のささやかな生活に暗雲が立ち込めた。イヴァンはいい人だったが、アランはいかがわしい商売をしている得体のしれない人物で、セシリアと私にとって好ましくない人物だった。長年生計を共にしてきた私の方がアランより法律的に立場が強いが、収入が少ない点が弱みだ。アランにモリ―とアメリアに手を出させないためには、一生懸命働いて経済基盤をより強固なものにする必要があった。
二人が顔を洗うのを手伝い、おそろいのグレーのワンピースを着せて、無地の白い靴下とバックルのついた小さな靴を履かせた。社宅のドアに鍵をかけ、10年落ちの中古車に子供たちを乗せた。二人を保育園に送り届けてから勤務先のエレガンスというファッション・ストアへと向かった。エレガンスはオールド・トラッフォードにあるマディソン・モールの4階にある。途中でサッカー場の横を通り過ぎたときには懐かしい気がした。私はダムサイド地区のジュニア・リーグで6年間プレーしてから大人のサンデー・リーグのチームに入ったが、セシリアが亡くなってからサッカーどころではなくなり、練習にも顔を出していなかった。
マディソン・モールに着いて、エレベーターで4階に向かう。エレガンスに入ると、中年で禿げたオーナーのローワン・ワーグナーが私に不機嫌そうな顔を向けて時計を指さした。壁にかかった時計を見ると、わずか5分間遅刻しただけだった。ワーグナーの大きなお腹が上下するのを見ながら、年をとってもこんな人にはなりたくないと思ったが、私はさも反省しているかのような表情をつくろった。もしエレガンスを首になったら、社宅から追い出されてモリ―とアメリアをアランに取られることになるだろう。ワーグナーは私にとって「必要悪」と言える。
棚に向かって服をたたみ始めると、先輩社員のエスメ・メイヤーの甘い声が聞こえてきた。エスメは若い女性客に夏物のドレスを勧めている途中だった。彼女は背が高くて魅力的な赤毛の美女で、物腰にも非常に説得力がある。エスメの豊満な容姿は男性客を引きつけ、甘い声と洗練された接客テクニックで――私から見ると作り物の声と気取った物腰だが――女性客もガッチリとつかむことができる。昨年度は店員の売上ランキングのトップを独走し、最優秀販売員賞を受賞した。しかし、エスメは見掛け倒しで中身のない女性であり、尊敬する気にはなれない。
私のような男性はファッションストアの販売員としては非常に不利だ。男性客は美しい女性販売員を好み、女性客も実際に婦人服を着たことのない男性店員の話には真剣に耳を貸さない。もし私が女性店員ならエスメなどには負けないはずだが、世の中は上手く行かないものだ。
エスメのことなど考えるのをやめて仕事に集中しようとしたが、コートをハンガーにかけていると変な匂いがした。……煙だ。どうしたのだろう?! 商品に火がついたのではないかと売り場をチェックしたが、エレガンスの売り場には何の問題も見つからなかった。焦げた煙の匂いがだんだん強くなった。ワーグナー、エスメとその取り巻きの客たちも煙の匂いを感じているようだった。
やがて煙がエレガンスに流れ込んできた。
「3階のフードコートから来ているようだ」
とワーグナーが言った。
「パット、一緒に来てくれ。何が起きたのか確認しに行こう」
火災の際にはエレベーターの使用が禁止されているので、太ったワーグナーと私は階段を使った。私はすばしっこく駆け下り、ワーグナーは彼独自のペースで下りた。階段のドアを開けて、3階の廊下に飛び出すと、大勢の人々が集まっていた。フードコートで働いている友人のベンを見つけて、彼のところに行った。
「火は消し止めたんだけど……」
とベンが重々しい口調で言った。
「料理人のエディが怪我をした」
「それは大変だ!」
と私はつぶやき、ベンと私は群衆を押し分けてエディに近づいた。
エディは最悪の状態だった。手足に傷を負って床に仰向けに倒れていた。
「キッチンのカーテンが燃え始めて、エディのエプロンに炎が移った。彼は動揺して叫びながら飛び出してきた。誰かが毛布をエディに投げて、床に転がるように言ったんだ」
と近くにいたエディの同僚が説明してくれた。
「周囲の人は見ているだけじゃなくて、もっと何かできなかったんだろうか?」
と私はベンに小声で言った。
「確かにそうだけど、実際に火事になると誰も体が動かなかった……」
その時、背の高い女性が群衆を押し分けて進んできた。彼女は35歳くらいで、赤いAラインのスカートにアンクル丈のブーツを履いて、体にフィットしたフェイク・レザーのジャケットを着こなしていた。濃い茶色の髪はスタイリッシュなボブになっている。その女性がマディソン・ジレットであることはすぐに分かった。彼女はマディソン・モールのオーナーであるヒューゴ・ジレットの妻だ。
他の人たちはまだ右往左往していたが、マディソンはモールのマネージャーを呼んで、すぐに救急車を呼ぶようにと指示した。そしてマディソンはエディのそばにひざまずき、彼の手足を優しく撫でて意識を呼び戻そうとした。しかしエディは身動きしなかった。マディソンはエディの胸に耳を当て――明らかに空気の出入りの音を聞こうとしている――、続いて手首を触って脈を確認した。
「脈はしっかりしているわ」
と彼女が集まった人たちに言った。
「命の心配はないみたい」
マディソンがそう言ったとたん、エディの目が開いた。自分のエプロンが燃えていたことを思い出したのか、彼の表情に恐怖が蘇った。
「大丈夫よ」
とマディソンはエディに安心感のある口調で言った。
「火傷は大したことは無いから」
マディソンは他の料理人に清潔な湿った布を持ってこさせ、エディの火傷にかぶせた。次に、マネージャーに救急箱を持ってくるよう指示し、エディの指とつま先を乾燥した無菌の包帯で分けて癒着しないようにした。さらに、マディソンは素早く的確な動きでエディの足を持ち上げて自分のひざの上に乗せた。彼女は群衆を見回して私に目を止めた。
「こっちに来て」
と彼女は私に呼びかけた。
「この人の腕を自分のひざの上に乗せておいて」
私は床にひざまずいて、マディソンの指示通りにした。
「高さを上げることで、火傷した皮膚の圧力を下げられるし、不用意な摩擦を防げるから」
とマディソンが私に説明した。彼女の目は澄んだ灰色で、鼻はしっかりとした形をしており、誠実そうな表情だった。
「こんな顔の人は、どんな状況でも信頼できる」
と私は心の中で言った。
マディソンは救急車が到着するまでエディの脈と呼吸のモニターを継続し、時折り前向きで安心感のある口調でエディに話しかけた。エディが救急車のストレッチャーに乗せられて病院へと向かうと、私たちは仕事に戻った。その日はいつも通りに過ぎたが、私の中で何かが変わった。私は親切で有能なマディソンに対して、英雄崇拝のような感情を抱くようになった。
Chapter Two
甘い夢
翌日から、私は容姿にもっと気を使うようになった。顔を丁寧に洗い、巻き毛をきちんと整えた。スリムな体をさらに引き締めようと、早起きして近所をジョッギングした。誰のために、何のために身だしなみを整えるのかは意識していなかったが、私はとにかくやる気になっていた。
ある晴れた木曜日、姪っ子たちを連れてチードルにある保育園に向かった。外壁が明るい青と黄に塗られた建物が見えてきた。園内に入るとブランコ、滑り台、シーソーなどの遊具がある。ところが、玄関に鍵がかかっていたので驚いた。建物の中を窓から覗くと緑の小さな黒板やカラフルな机と椅子、さまざまなおもちゃが見えたが、教室には誰もいなかった。
私は困惑した。
「今日は休みのようだね。昨日僕に言うのを忘れたの?」
と私はモリーに聞いた。
「いいえ、パットおにいちゃん。フィッツジェラルド先生は休みだなんて言ってなかったよ」
とモリーが答えた。
その時、年老いた用務員のジョンが現れた。
「今日は臨時休園になりました。フィッツジェラルド先生は体の具合が悪いようです」
と彼が教えてくれた。
「それで? 代わりの先生はいないんですか?」
と私はイライラして尋ねた。保育園には補助金が出ているはずなのに、料金が高すぎると常々思っていたのでムカムカと腹が立った。
「さあ、知りませんね。わしの仕事ではないから」
とジョンが言って立ち去った。
私は姪っ子たちを連れて車に戻った。さあ、困った。どうしよう……。 子供たちを家に置いて仕事に行くわけにはいかない。私の友人たちもみんな働いており、モリーとアメリアを預かってもらえるような人は居ない。
ほかに選択肢がないので、私は二人を連れて出勤することにした。子供を連れてきたことにワーグナーが文句を言わないようにと願うだけだった。
しかし、期待は外れた。
「おい、俺の店を何だと思ってるんだ?」
と顔を真っ赤にして怒るワーグナーを見て、私は困惑した。
「すみません。今日だけ、姪っ子たちを一緒に居させてください。保育園が臨時休園になってしまって、他に行くところがないんです」
「それはお前個人の問題だろう!」
とワーグナーが大声で言った。
「家族の問題を俺の店に持ち込むな!」
「『問題』になるような子供たちではありません。とてもいい子です」
と私は少し腹を立てていた。
「子供というものはうるさいものだ」
とワーグナーが吐き捨てるように言った。
「モリーとアメリアには静かにさせます。お約束します」
と私は保証した。
「ワーグナーさん、約束します」
とモリーがワーグナーを見上げて言った。アメリアは親指をしゃぶりながらワーグナーをにらんでいた。
モリーの何かがワーグナーを動かしたようだった。
「分かった。静かにしているなら、問題ない。カウンターの横に椅子を置いてやれ」
と彼が渋々言った。
「ありがとうございます、ワーグナーさん」
と感謝して彼の太った手を握った。
「心から感謝します!」
「まあ、仕方ないだろう」
と言いながらワーグナーは私の手を振り払った。
午後1時30分になってようやく昼休みになった。木曜日は店からフィッシュ・アンド・チップスが支給される。私は自分の分を姪っ子たちと分けて食べ、後でフードコートに行ってサンドイッチを買うつもりだった。
アメリアは自分で食べることができるが、私に食べさせてもらいたがった。ハンカチでアメリアの鼻水を拭きながら、小さな口に魚を運んでいる時、私の背後に誰かがいる気配を感じた。振り向くと、マディソンが立っていた。スキニー・ジーンズ、ベージュのスエードのジャケットにブーツ姿のマディソンはとても格好良かった。彼女の真摯な顔が優しい笑顔に変わった。彼女は3歳のアメリアを指差して尋ねた。
「あなたの娘さん?」
「いえ、マダム」
と私は赤面して言った。
「私は結婚もしていませんし、彼女もいません」
と言いながら、さらに顔が赤くなった。
「この二人は私の姉の娘です。去年姉が亡くなって、私が面倒を見ています」
「そうだったの……それはとても悲しいことね」
とマディソンが本当に心配そうな表情を見せた。
「お子さんたちのお父さんは?」
「姉よりも前に亡くなりました」
と私は暗い表情で答えた。
「本当にお気の毒だわ」
とマディソンが真剣な面持ちで言った。
「でも、子供たちはあなたのような愛情深いおじさんを持って幸運ね」
マディソンのグレーの瞳で優しく見つめられると、不思議な感覚に襲われた。全身に暖かい光が降り注ぐかのように感じた。
「マダム、それは少し違います。天使のような姪っ子たちを持って幸運なのは私の方です」
「確かに、可愛らしいお嬢さんたちだわ」
マディソンは、姪っ子たちの頭を撫でながら名前を尋ねた。モリーはすぐに答えたが、アメリアはいつものようにじっと見つめているだけだった。私はアメリアの代わりに答えて、マディソンに謝った。
「彼女はあまり話さないんです。でも、気になさらないでください、マダム」
「もちろん気になんてしていないわ。子供は誰でも気分屋だから」
とマディソンが気さくに答えた。
「ところで、マダムと言うのはやめて。お友達どうしなんだから。気兼ねなくマディソンと呼んで」
――マディソンが私を友達だと言ってくれた!
嬉しさに膝が震えた。
「もちろんです、マダム……いえ、マディソン」
と私は頬を赤くしながら言い直した。
マディソンは私のぎこちなさを見て微笑んだ。
「あなたのお名前は?」
「パットと申します。パット・オブライエンです」
「パット・オブライエン」
とマディソンは歯切れのよい発音で言った。
「素敵な名前の素敵な青年ね」
***
森を駆け抜ける私の胸は、激しく鼓動している。私の身体を「いつもとは違った感覚」が襲い、軽さと局所的な重さが交互にやってくる。黒い馬に乗った狩人が私を追いかけている。彼は乗馬ズボン、厚手のオーバーコート、ひざ丈の乗馬ブーツを身に着けている。私は走りながら振り返る。黒い布のマスクで顔が隠れていて彼の顔は見えない。狩人の力強い肩には、大きな弓がかかっており、背中には矢筒が軽く突き出している。狩人が馬に拍車をかけ、追跡が勢いを増す。私は逃れようと必死に走りながら、狩人が何を求めているのかと考える。もし私の命が目当てなら、彼は既に弓矢で私の命を奪っているはずだ。
狩人は私を追い続ける。そして、とうとう道が行き止まりになる。目の前には高くて巨大な岩が立ちはだかっている。私は登ろうとするが、急な斜面を登るのは困難だと悟る。逃げるのを諦めて、勇敢に狩人に立ち向かう。彼は馬を急停止させる。マスクで顔が隠れているので顔は見えない。
その時、自分の身体を見下ろして、自分が裸だったことに愕然とする。それ以上に驚いたのは、胸に乳房があり、優美にくびれたウエストと女性器があることだった! 私は女性の身体に閉じ込められている……。
狩人は馬から降り、自信に満ちた足取りで私に近づく。裸で寒さに震える私。狩人がマスクを取り外す。その狩人が他ならぬマディソン・ジレットだと気づいて私はうろたえる。
マディソンが私の前に立ち、灰色の瞳で私の魂の奥底を覗き込む。彼女の筋肉質の腕が私のウエストに回って私は震える。マディソンは私の裸の体を引き寄せる。彼女の体の温もりが乗馬ズボンや厚手のコート越しに感じられる。そしてゆっくりと、刺激的に、マディソンの豊かな唇が私の柔らかい唇に触れる。私の足の間で何かがひくつく……。
その時、私は硬いベッドで目を覚ました。汗びっしょりになっているのに気づいて下を見ると、パジャマが精液で濡れていた。不思議な夢だった……! 恥ずかしさと興奮を同時に感じたが、恥ずかしさの方が勝っていた。浴室に行ってパジャマを脱ぎ、濡れた部分を手洗いし、シャワーを浴びて、朝の準備を開始した。
保育園に子供たちを送ってから仕事に向かった。禿げて太ったワーグナーが机に座っていた。私が入ってくるのを見ても彼は眉をひそめなかった。なんとか遅刻せずに済んだことに改めてほっとした。
私は同僚二人に挨拶をしてから仕事に取りかかった。一人はジェーン・コリンズ、背が高く痩せたそばかす顔の女性だ。もう一人はハイディ・クレイグ、物静かな雰囲気の小柄な女性だ。赤毛のエスメ・マイヤーはまだ来ていなかった。
仕事に取りかかったところで、ワーグナーの電話が大きな音で鳴った。私とジェーンとハイディはビクリとした。ワーグナーの顔が真っ赤になり、次に青白くなって、再び真っ赤になるのが見えた。
「いや、だめだ!」
とワーグナーが焦った声で叫んだ。
「エスメ、冗談はやめてくれ」
電話の向こうの声に耳を傾けてからワーグナーが言った。
「16週間は長すぎる。エスメなしでやっていくのは無理だよ!」
電話の向こうでエスメが長々と話し続け、ワーグナーは渋々「うん」とか「そうだね」と相槌を打っていた。電話を切ると、ワーグナーは落胆した顔を私に向けた。彼の豚のような目は当初はぼんやりとしていたが、次第にピントが合ってきた。
ワーグナーが席を立って、私の所に来た。
「オブライエン、君と話さなくちゃいけないことがあるんだが、今いいか?」
と、緊急を要するような声で彼が囁いた。ワーグナーが私と話すのに私の都合を聞くこと自体が異常だった。
「もちろんです、ワーグナーさん」
と私は即座に応じた。
「何でしょうか?」
「ここでは言いにくいな……」
とワーグナーが秘密めいた口調で言った。
「試着室で話そう」
熊のようなワーグナーが私を試着エリアへ連れて行く時、ハイディとジェーンが意味ありげな視線を私たちに向けて、くすくすと笑っているのが見えた。彼女たちがワーグナーと私の関係について卑猥な冗談を言っていることは知っている。ときどきハイディとジェーンが本当に不愉快だと思うことがある。
試着室に入ると、ワーグナーは憂慮そうな表情で私に言った。
「エスメが事故に遭って、右足を骨折したんだ。16週間もの間、安静にするようにと医者から言われたらしい」
「そんなに長く!」
と私は叫んだ。
「それは大変ですね。気の毒なエスメ……!」
特にエスメを好きなわけではないが、とにかく彼女の不幸に同情した。
「エスメが気の毒かどうかは問題ではない」
とワーグナーは冷酷に一蹴した。
「エスメの不在が売り上げに及ぼす影響が問題なんだ。目の保養になる女性店員が居なくなったら男性客の足が遠のく。君も一応男性なんだから、わかるよね?」
「エスメが居なくなっても、ハイディとジェーンがいるじゃないですか。二人とも十分に美しい女性ですから男性客の来店が減ったりはしないでしょう」
と私は言葉を選びながらコメントした。
「はっ、美しいだと? いい加減なことを言うな!」
とワーグナーがぶっきらぼうに言った。
「性犯罪者でさえ、あの二人を抱きたいとは思わないよ」
エスメ目当てに来る男性客がハイディとジェーンを見てどう思うか? 正直なところ私も楽観はしていないが、ワーグナーが女性販売員を美醜でこき下ろすことに不快感を覚えた。
「お客様に商品を買っていただけるよう、私も最善を尽くします」
とだけ私は言った。
「ありがとう。まさにその点を確認したかったから君を呼んだんだよ、パット」
とワーグナーが明るい声で言い放った。
「君に制服を着せれば、ハイディやジェーンとは比較にならないほど美人になるだろう。君ならエスメの穴を埋められる」
ワーグナーの言葉を聞いて、頭がおかしくなったのだと思った。認知症になったのだろうか? 私は心の中でワーグナーを老人のカテゴリーに入れてきたが、実際には55歳くらいかもしれない。最近は若年性の認知症もあると聞いている。いや、ワーグナーの事だから、私にブラックジョークを言うことによってストレスを解消しようとしている可能性が高い。
「あははは、ワーグナーさんは、ユーモアのセンスが並外れていますね」
と私は笑った。
「特にブラックジョーズがお得意ですよね」
「パット」
とワーグナーは私をじっと見つめて言った。
「今のは冗談ではない」
彼の目を見て、本気で言ったのだと確信した。私の胃がゆっくりと締め付けられた。
「冗談でないとすれば、どういうことでしょうか……よくわからないんですけど……」
と私は足をもじもじさせた。
「パット、個人的に君のことを特別好きだというわけではないが、客観的に見て美しいと常々思っていた」
とワーグナーが率直に言った。
「正直なところ、そうでなければ君のように線の細い男性を採用しなかったかもしれないし、遅刻常習に目をつぶりはしないところだ。わしは寝る前にいつもセクシーな女性――エスメとか――を空想するんだが、君が女性販売員の制服を着ている姿が頭に浮かぶことがある」
「やめてください、ワーグナーさん!」
と私は身震いしながら叫んだ。
「この会話がどこに向かっているのか分かりませんが、そんな話は聞きたくもありません!」
「よく聞け、パット」
とワーグナーが強い調子で私に言った。
「二人の姪御さんを経済的に支援したいんだろう?」
「はい、そうです」
と私は真摯に答えた。
「亡くなった義兄にアルコール依存症のお兄さんが居て、姪たちの親権を私から奪おうと狙っているんです」
「実際にその男に親権を取られる可能性があるのか?」
とワーグナーが尋ねた。
「そうなんです。ろくでもない人物ですが、お金を持っています。私はここの給料と社宅だけが頼りなんですが、マンチェスターは物価が高い街ですから……」
「よし、じゃあ20%昇給してあげよう。そうすれば姪たちの面倒をもっとよく見られるだろう」
ワーグナーの突然の申し出に小躍りした。
「えっ、本当ですか! 心から感謝します。何とお礼を言えばいいのか、言葉が見つかりません」
「お礼の言葉なんて要らない。明日から女性販売員の制服で売り場に立ってくれるだけでいいんだ」
と、まばたきもせずにワーグナーが言った。
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